1988年12月にそれまでいた制作会社を辞し、翌月から広告会社に移ることになっていた。ところが11月の給料日に来月から出社しなくていいと社長に言われ、その足で旅行代理店に行って、札幌行きの寝台特急券を購入した。
11月30日。最後の仕事を終え、そのまま上野駅へ。寝台列車のなかでその年の師走を迎えた。
北海道といっても特段行きたい土地はなかったが、高校の後輩が釧路の放送局にいたので訪ねてみるのもいいかと札幌から釧路行きの特急に乗り換えた。
何日か市内を散策したり、湿原に行ったりして過ごし、後輩と酒を飲んだりした。聞いてみると高校の先輩がアナウンサーとして勤務しているという。それで先輩後輩と3人で飲むことになった。
先輩によるとタンチョウヅルを目の前で見ることができる場所があるという。放送局勤務だからそういった撮影スポットをいくつも持っていたのだろう。翌朝、さっそく先輩のクルマで湿原に向かう。滞在中雪はほとんど降らなかったから、この本に出てくる鶴居村の風景には出会えなかった。それでも枯野に舞うタンチョウを見て、北海道にいるんだなと実感できた。
タンチョウヅルにはさほど関心はなかったが、それ以上に興味がないのがオートバイだ。ハーレーダビッドソンだろうが、ドゥカティだろうが、まったく関心がない。僕のような無関心な人間も多いぶん、熱烈な愛情を持つ人間も多いらしい。ハーレーフリークが大勢集まるふたつの短編の中心にいるのがナギという名の女性ライダーである。ナギはハーレーのカスタムビルダーで要はオーダーメードのハーレーを組み立てる職人のようだ。先に書いたように僕はハーレーダビッドソンに興味もなければ知識もない。それでもナギが颯爽と跨り、エンジンをかけて北海道の大地を走る風景は読んでいてくっきりとイメージできる。道がどこまでも続いていくようにそのイメージはどこまでも果てしなくカッコいいと思えるのだ。
2026年5月29日金曜日
2026年5月23日土曜日
朝井リョウ『星やどりの声』
昭和ひと桁世代の父と母はともにきょうだいが7人いた。きょうだいが大勢いたのは当時の地方では当たり前だったのかもしれない。父方のいとこは11人、母方のいとこは17人いた。母方のいとこが多いのは地元に嫁いだ伯母が3人いたせいだと思っている。17人のうち11人は南房総で生まれ育っている。
都内で小学生時代を過ごした。ひとりっ子もいたし、ふたりきょうだいの子、3人きょうだいの子もいたが、仲がよかったもっちゃんは兄ふたり、姉ふたりの5人きょうだい。いちばんきょうだいが多かった。まだまだ少子化なんてことが取り沙汰される前の時代だ。大学時代にも4人きょうだいの友人がいたが、きょうだいはたいてい3人以内だった。長女が幼稚園に通っていた30年前には3人きょうだいは珍しかった。
長女琴美、長男光彦、次女小春と三女るり(このふたりは双子)、次男凌馬、三男真歩。きょうだいが6人いるってどんな感じなんだろう。僕がこのきょうだいの一員だとしたら、何番目なんだろう。この本を読みながらずっとそんなことを考えていた。6人きょうだいに対して実感は湧かないけれど一人ひとりの個性やつながりに関しては大いに共感できる。そういった意味ではリアルな家族だ。
父親が若くして亡くなり、生活も楽ではない。それでも不幸を感じさせないのはこの家族の団結力のせいだろう。とてもすがすがしいひと夏の物語だった。もし映像化されるとしたら、主役は長女役だろう。物語ではきょうだいそれぞれにスポットを当てているが、扇の要に位置しているのは亡き父と深く交流のあった長女琴美だと思うから。きょうだい以外にもいい脇役が必要だ。琴美の夫孝史、ブラウンおじさん、光彦の教え子あおい、るりの同級生ユリカ、短い期間だったが真歩の同級生だったハヤシなど。
朝井リョウの本は2冊目。まだ読んでいない話題作も多い。これから一つひとつ読んでいくのが楽しみになった。
都内で小学生時代を過ごした。ひとりっ子もいたし、ふたりきょうだいの子、3人きょうだいの子もいたが、仲がよかったもっちゃんは兄ふたり、姉ふたりの5人きょうだい。いちばんきょうだいが多かった。まだまだ少子化なんてことが取り沙汰される前の時代だ。大学時代にも4人きょうだいの友人がいたが、きょうだいはたいてい3人以内だった。長女が幼稚園に通っていた30年前には3人きょうだいは珍しかった。
長女琴美、長男光彦、次女小春と三女るり(このふたりは双子)、次男凌馬、三男真歩。きょうだいが6人いるってどんな感じなんだろう。僕がこのきょうだいの一員だとしたら、何番目なんだろう。この本を読みながらずっとそんなことを考えていた。6人きょうだいに対して実感は湧かないけれど一人ひとりの個性やつながりに関しては大いに共感できる。そういった意味ではリアルな家族だ。
父親が若くして亡くなり、生活も楽ではない。それでも不幸を感じさせないのはこの家族の団結力のせいだろう。とてもすがすがしいひと夏の物語だった。もし映像化されるとしたら、主役は長女役だろう。物語ではきょうだいそれぞれにスポットを当てているが、扇の要に位置しているのは亡き父と深く交流のあった長女琴美だと思うから。きょうだい以外にもいい脇役が必要だ。琴美の夫孝史、ブラウンおじさん、光彦の教え子あおい、るりの同級生ユリカ、短い期間だったが真歩の同級生だったハヤシなど。
朝井リョウの本は2冊目。まだ読んでいない話題作も多い。これから一つひとつ読んでいくのが楽しみになった。
2026年5月18日月曜日
青崎有吾『地雷グリコ』
次女がまだ小さかった頃、住んでいたマンションの階段を使い、グリコで遊んだ。僕はずっとチョキを出し続ける。勝てばチヨコレイトで6段上がる。負けても娘はグリコで3段。そのうちパパはチョキしか出さないと気が付く。グーを出し続け、3段ずつ上っていく。6段差がついたところでパーを出す。パイナツプルで並ぶ。こんな大人げないやり方で子どもたちと遊んできた。考えてみれば、しりとりで語尾を「る」にする「る攻め」も大人げなかった。
この本を知ったのは毎日聴いているラジオ番組で紹介された時だと記憶している。著者本人が出演していたのか、どこかの出版社の編集者が紹介していたのか記憶は定かでない。そのタイトルからいつか読んでみたいなと思っているうちにすっかり忘れてしまっていたが、あるときパソコンの画面に書影があらわれた。それで思い出したように読んでみた。
考えさせられたのはゲームとルールだ。スポーツをはじめてとして、あらゆるゲームにルールがある。ルールには明文化されたルールと暗黙のルールがある。「公序良俗に反する行動言動は慎まなければならない」などというルールが明文化されているスポーツなんておそらくないだろう。
いつの頃からか、コンプライアンスが重視されるようになった。社会が窮屈になり、テレビはおもしろくなくなった。微に入り細に渡って明文化されたルール。暗黙のルールは排除される。保険の定款のようながんじがらめの、隙間のないルール。
地雷グリコにはじまるゲームの数々。はじめのうちは大人しかったが、徐々にエスカレートし、危険になっていく。しまいにはルールに抵触しなければ何をやってもかまわないことになる。ルールで制限されていないことは無制限なのだ。
決められたことだけ守っていれば、後は何をしたって自由だという考え方は今どきの若者たちの特徴なんだろうか。ジェネレーションギャップを大いに感じさせてくれた一冊だった。
この本を知ったのは毎日聴いているラジオ番組で紹介された時だと記憶している。著者本人が出演していたのか、どこかの出版社の編集者が紹介していたのか記憶は定かでない。そのタイトルからいつか読んでみたいなと思っているうちにすっかり忘れてしまっていたが、あるときパソコンの画面に書影があらわれた。それで思い出したように読んでみた。
考えさせられたのはゲームとルールだ。スポーツをはじめてとして、あらゆるゲームにルールがある。ルールには明文化されたルールと暗黙のルールがある。「公序良俗に反する行動言動は慎まなければならない」などというルールが明文化されているスポーツなんておそらくないだろう。
いつの頃からか、コンプライアンスが重視されるようになった。社会が窮屈になり、テレビはおもしろくなくなった。微に入り細に渡って明文化されたルール。暗黙のルールは排除される。保険の定款のようながんじがらめの、隙間のないルール。
地雷グリコにはじまるゲームの数々。はじめのうちは大人しかったが、徐々にエスカレートし、危険になっていく。しまいにはルールに抵触しなければ何をやってもかまわないことになる。ルールで制限されていないことは無制限なのだ。
決められたことだけ守っていれば、後は何をしたって自由だという考え方は今どきの若者たちの特徴なんだろうか。ジェネレーションギャップを大いに感じさせてくれた一冊だった。
2026年5月11日月曜日
向田邦子『眠る盃』
実家の片付けをしていたところ、大きめの金庫と小ぶりな金庫が戸袋にしまわれてあった。大きい方には父の相続関係や登記関連の書類が入っていた。小さい方は持っただけでじゃらじゃら音がするので小銭だろうと思われた。案の定、その中には100円硬貨がじゃらじゃら入っていた。1964年東京五輪の1000円硬貨も何枚か見つかった。昔のお金は買取店に持って行ってもほぼ額面通りでしか買い取ってくれないと知人に聞いたことがある。まあ、額面通りでもお金には違いないからありがたく受け取ることにした。家を片付けてくれてありがとうの気持ちをこめてくれた両親からのお駄賃だと思って。
後日思い立って、「昭和32年 100円」で検索してみた。そのときは買取価格630円だった。よくよく調べてみると昔の100円は銀だった(たしか60%)ので銀地金としての価値があるということらしい(溶かして形を変えることは日本の法律は禁止しているが)。今の100円硬貨は白銅(銅とニッケルの合金)でできている。金属としての価値はほぼない。
100円銀貨は10年前は150円から200円程度で取引されていたようだが、今では500~800円になっている。何百枚と持っているわけではないが、100円玉1枚が600円だと思うとちょっとうれしい。
「荒城の月」のめぐる盃を眠る盃と聴き違えていた少女の頃の思い出を軸に書かれたエッセー集。聴き違えは誰にもある。幼少期の身近な経験だ。僕も「君が代」のさざれ石の巌となりてはさざれ石の岩音なりてだとずっと思っていた。平和な時代に育ったからいいものをその前の時代だったら非国民と罵られたかもしれない。
今の100円硬貨が流通するようになったのは昭和42年。もう60年近い付き合いであるが、僕らが幼少の頃から親しんだ(そんなに多くお小遣いをもらわなかったが)100円銀貨は当時から500円以上の価値があったように思う。
後日思い立って、「昭和32年 100円」で検索してみた。そのときは買取価格630円だった。よくよく調べてみると昔の100円は銀だった(たしか60%)ので銀地金としての価値があるということらしい(溶かして形を変えることは日本の法律は禁止しているが)。今の100円硬貨は白銅(銅とニッケルの合金)でできている。金属としての価値はほぼない。
100円銀貨は10年前は150円から200円程度で取引されていたようだが、今では500~800円になっている。何百枚と持っているわけではないが、100円玉1枚が600円だと思うとちょっとうれしい。
「荒城の月」のめぐる盃を眠る盃と聴き違えていた少女の頃の思い出を軸に書かれたエッセー集。聴き違えは誰にもある。幼少期の身近な経験だ。僕も「君が代」のさざれ石の巌となりてはさざれ石の岩音なりてだとずっと思っていた。平和な時代に育ったからいいものをその前の時代だったら非国民と罵られたかもしれない。
今の100円硬貨が流通するようになったのは昭和42年。もう60年近い付き合いであるが、僕らが幼少の頃から親しんだ(そんなに多くお小遣いをもらわなかったが)100円銀貨は当時から500円以上の価値があったように思う。
2026年5月6日水曜日
朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』
桃太郎は時代によって、地域によっていろいろなストーリーになっている。手の付けようがない悪童だったため鬼退治に行かせたという話を昔何かで読んだ記憶もある。
僕たちが親しんだ桃太郎は雉、猿、犬を従えて鬼ヶ島に鬼退治に行き、鬼の財宝を持ち帰って幸せに暮らすという勧善懲悪の物語である。正義の味方にしておくことが教育的だった時代だ。今もそうかというとそうじゃないらしい。桃太郎は雉たちにきびだんごを与えることで主従関係を結ぶが、今は猿も犬も自主的に協力者になるようだ。鬼も退治されない。話し合いの末、共存する道を選ぶ。財宝は桃太郎が持ち帰り、持主に返すということになっているそうだ。昔の桃太郎で育った世代には「なんだこれ?」って感じだ。
さるかに合戦も猿は反省し、かにたちの仲間になる。考えが違う人間とはわかり合えないということを子どもたちに刷り込まないよう配慮されている。シンデレラだっていじわるをしてきた継母や姉たちとみんなで幸せに暮らすという。
僕たちの時代から二宮金次郎の銅像はあまり見かけなかったが、まだあった小学校でも撤去が続いているという。本を読みながら、薪を背負って歩くという行為が危険であり、ながらスマホを助長するという声があるという。俄かには信じ難いが、こうした声に配慮して座って読書する二宮金次郎の銅像もある。薪を背負ったまま座っているのと薪をおろしているのと二種類あるという。座って本を読むのに薪を背負い続けるのはちょっと笑える。
世の中が変われば、ものの見方も変わる。本来あったものが違う解釈を加えられ、変形していく。本来あったものも変化する社会の中で生きていかなければならないのだ。
朝井リョウをはじめて読む。若くして直木賞を受賞し、先日本屋大賞を受賞した話題の作家だ。
桃太郎など絵本の話はそのなかの短編で読んだ。
たまには新しい本を読まないと世の中の変化に追いつけなくなる。
僕たちが親しんだ桃太郎は雉、猿、犬を従えて鬼ヶ島に鬼退治に行き、鬼の財宝を持ち帰って幸せに暮らすという勧善懲悪の物語である。正義の味方にしておくことが教育的だった時代だ。今もそうかというとそうじゃないらしい。桃太郎は雉たちにきびだんごを与えることで主従関係を結ぶが、今は猿も犬も自主的に協力者になるようだ。鬼も退治されない。話し合いの末、共存する道を選ぶ。財宝は桃太郎が持ち帰り、持主に返すということになっているそうだ。昔の桃太郎で育った世代には「なんだこれ?」って感じだ。
さるかに合戦も猿は反省し、かにたちの仲間になる。考えが違う人間とはわかり合えないということを子どもたちに刷り込まないよう配慮されている。シンデレラだっていじわるをしてきた継母や姉たちとみんなで幸せに暮らすという。
僕たちの時代から二宮金次郎の銅像はあまり見かけなかったが、まだあった小学校でも撤去が続いているという。本を読みながら、薪を背負って歩くという行為が危険であり、ながらスマホを助長するという声があるという。俄かには信じ難いが、こうした声に配慮して座って読書する二宮金次郎の銅像もある。薪を背負ったまま座っているのと薪をおろしているのと二種類あるという。座って本を読むのに薪を背負い続けるのはちょっと笑える。
世の中が変われば、ものの見方も変わる。本来あったものが違う解釈を加えられ、変形していく。本来あったものも変化する社会の中で生きていかなければならないのだ。
朝井リョウをはじめて読む。若くして直木賞を受賞し、先日本屋大賞を受賞した話題の作家だ。
桃太郎など絵本の話はそのなかの短編で読んだ。
たまには新しい本を読まないと世の中の変化に追いつけなくなる。
2026年5月1日金曜日
喜多川泰『手紙屋』
夜の校舎窓ガラス壊してまわったり、盗んだバイクで走り出すことが僕たちの育った時代では当たり前だった(そんなにしょっちゅう起こっていたわけではないが)。体制とか権威とか何かに反抗して生きる時代だった。高度経済成長期で豊かな時代であったにもかかわらず、豊かさに比例するように不平不満も増大していた。
経済が滞り、時代や社会に抗う姿が見られなくなった。こんな世の中とどう協調していくかが若い世代の課題になった。ゆとり世代、ミレニアム世代、Z世代は僕たちのように管理の厳しい教育を受けていない。彼らはなんで窓ガラスを壊してまわらなけりゃならないの、と思うそうだ。
先日ニュースで見たが、近頃の新入社員は管理職になりたいと思わないのだそうだ。責任とプレッシャーを避けたいとか見合った報酬が貰えないとか、そんな理由があるらしい。
喜多川泰の著書を読むのはこれで3冊目。
僕たちの時代ではなく、今の若者たちの立場で読みすすめる。どのようにすれば充実した人生を得ることができるか、そのために何をしなければならないのか。『きみが来た場所』では祖父母が、『運転者』ではタクシーの運転手が主人公を導いてゆく。この本でその役割を担うのは手紙屋である。
読んでいて、思い出したのは吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』だ。そのせいか手紙屋は主人公に近い人ではないかとうすうす推察できた。
手紙が媒介する世界なので広がりに欠け、ややもすると理屈っぽくなりがちだ。『きみが来た場所』では想像力的な空間が主人公に啓志を与え、『運転者』ではダイナミックな空間移動が物語をしっかり支える。まったく同じ主題ではないから比較するのも野暮な話だが、やっぱり手紙のやりとりは地味だなと思う。
それでも手紙屋というユニークな着想を得て、若い人たちの「生きる」を支えていく文章は心地いい。ついつい引き込まれ、読みすすめてしまう10通の素敵な手紙だった。
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