2019年11月12日火曜日

結城昌治『志ん生一代』

今は亡き古今亭志ん朝師匠に会ったのは四半世紀以上昔のこと。
1993年11月、高級ふりかけ錦松梅のテレビコマーシャル撮影のときだ。志ん朝師匠が出演するCMは昔からあったのだが、それからずいぶん年月が経ち、師匠も風格が増してきたので新しく撮りなおすことになった。その絵コンテを描いて、クライアントに提案し、一連の手続きの後、調布のスタジオで撮影本番を迎えることになった。
師匠が座敷でくつろいでいると来客がある。「お客さんかい?何?錦松梅?」どうやら贈りものか手土産が錦松梅だったという話。「錦松梅って、あの錦松梅?あったかいご飯に最高の錦松梅?器もいい錦松梅?上がってもらいなさい上がってもらいなさい」とすっかり上機嫌に。ここで突如疑心がわく。「で、本当に錦松梅なんだろうな」ってさげ(たいしたさげではないが)。
当日演出のI田さんと控室で内容の確認を行う。I田さんは大学時代に落語研究会に所属し、中学生の頃から志ん朝師匠の大ファンだという。傍から見ても緊張しているのがわかる。師匠が言う。「ここんとこですがね、あったかいおまんまじゃだめですかね」と。言われてみれば、ごはんじゃちょっと冷めた感じだし、落語っぽくない。クライアントも同意してくれて「あったかいおまんまに最高の錦松梅」となった。
落語好きだった父は、若手でいいのは談志(立川談志)か志ん朝とよく言っていたっけ。父にとって新進気鋭の噺家も僕が出会った頃はもう貫禄十分、脂が乗り切っていた。面と向かって話をするには恐れ多いくらい輝いていた。そのわりに話しぶりはやさしく、人当たりも柔らかかった。
破天荒な人生を歩んだ古今亭志ん生も次男強次(後の志ん朝)が生まれ、志ん生を襲名したあたりから、芸に磨きがかかったように思われる。その後、慰問で満州に渡り、終戦を迎え、食うや食わずで帰国する。
最愛の次男強次が志ん生をがんばらせたのかもしれないなどと思う。

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