2019年11月2日土曜日

三遊亭圓朝『塩原多助一代記』

母方の祖母は明治に生まれ、昭和59(1984)年に他界している。
母の実家は久五郎という屋号だった。僕たちは久五郎のおばあさんとか白間津のおばあさんと呼んでいた。白間津というのは千葉県七浦村(現南房総市千倉町)の集落で、白浜町と隣接している。
祖母の実家はもともと庄屋だったのだろうか、門構えのある立派な家だった。曾祖父は村長だった。村の小学校の終業式や卒業式には燕尾服を身につけて、来賓席に座っていたと母が言う。
祖母は長女でしっかり者ではたらき者だった。格式のある家で育ったせいもあるだろうが、家というものを重んじ、跡取りの長男をたいせつにしていた。戦後まもなく祖父が若くして亡くなった。そのせいもあるだろう。
夏休みは南房総で過ごし、伯父の息子きょうだいと姉と僕の4人で遊んだ。祖母の家の玄関には雑巾が置いてある。足を拭いて上がれという意味だ。いとこたちはお構いなしに上がる。姉と僕は足を拭く。座敷の畳に付いた足跡を祖母が見つける。怒られるのはいつも僕だった。姉は女の子だし、如才なく立ち回りがうまい。外孫で愚図で要領の悪い僕が恰好の餌食になる。
母が結婚するのに祖母が強く反対したという話を聞いている。祖母の風当たりが強かったのはそんなことも関係しているのかも知れないが、よくわからない。
『塩原多助一代記』は、昭和のはじめまで修身の教科書にあったという。久五郎のおばあさんがきっと好きだった話に違いない。
その後、祖母は東京に連れてこられて伯父の家で暮らしていた。受験が終わり、大学に受かった話をしに行く。おまえのおっかさんは勉強ができたし上の学校に行きたがってたけど、行かせられなかった、なんて話をする。母が高校に行きたかったという話は本人からなんども聞かされている。そして、それでおまえは何になるんだと訊ねられた。その頃は、何になるつもりもなかったのでうやむやな答しかできなかった。
その恥ずかしさだけが記憶に残っている。

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