2019年3月27日水曜日

三浦しをん『星間商事株式会社社史編纂室』

かれこれ70年近く昔の話。
母は、佃の叔父(僕にとっては大叔父)の家に寄宿して、明石町の洋裁学校に通っていた。そのころ佃大橋はまだ架けられておらず、住吉神社にほど近い渡船場からポンポン蒸気で隅田川を渡っていた時代のことである。
東京に出てきて右も左もわからなかった母であったが、しばらくして声をかけあったり、話をするような友人もできたという。なにぶん80も半ばにさしかかった母の記憶であるからあやふやなところも多いのだが、そのなかに歌舞伎座の裏の肉屋から通ってきている友だちがいたという。どうしてそんなことを憶えていたのだろう。歌舞伎座の裏の精肉店がさほど珍しかった時代でもあるまい。聞けばその友人は、両親が千葉県銚子の出身で(母は南房総の千倉町出身である)、洋裁学校に来るのにコロッケをたくさん持ってきて、おすそ分けしてくれたという。
歌舞伎座の裏、肉屋、銚子、コロッケ。それはもしかしたら(もしかしなくても)チョウシ屋ではあるまいか。コロッケパンでおなじみのチョウシ屋に娘さんがいて、母と同じ明石町の洋裁学校に通っていた。
以前、三浦しをんの辞書を編纂する小説を読んだ。こんどは社史をつくる話だ。人間だろうが会社だろうが、歴史をたどる仕事は楽しそうだ。辞書のときと同様、いろんな意味で濃いキャラクターがそろっている。現実にはこんな会社はないだろうが、ドラマだったらあり得る。そう思うと普通の小説かも知れない。
チョウシ屋のコロッケパン、メンチパンは築地界隈の編集スタジオなどで仕事をしているときにおやつとしてよく食べた。今でも昼どきにお店の前を通りかかるとけっこうな行列ができている。お昼に並んで買って食べるコロッケパンは揚げたてでうまい。
70年前、母はどんな思いでこのコロッケを食べたのだろう。こんどチョウシ屋に行ったら、むかし明石町の洋裁学校に通っていたその人の消息を聞いてみようと思う。

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