2014年7月3日木曜日

松本清張『砂の器』

原作のなかの今西刑事に会ってみたかった。
そもそも映画はあまり観ない方だったが、どちらかといえば原作を読んだあとで映画を観るケースが多かった。野村芳太郎監督「砂の器」に関していえば、映画を何度か観ていたものの、松本清張の原作は読んでいなかった。
原作を知っていると映画を観て、ここはちがうなとか、この登場人物はイメージとちがったななどと気づくのだが、今回はその逆だった。ここは映画とちがうぞなどという読み方をした。
もう少し古い作品、たとえば幸田文の『流れる』『おとうと』、林芙美子の『放浪記』あたりは映画も原作に忠実だ。
「砂の器」では時代背景を変え、構成をシンプルにしている。映画の時代の刑事は移動に新幹線を使う。和賀英良は音楽家だが原作ではエレクトロニクスを駆使する前衛芸術家。映画ではクラシックの天才ピアニストにして作曲家という設定だ。映画では登場人物も絞られている。前衛演劇の仲間も評論家も登場しない。事件も蒲田操車場での殺人事件だけだ。
もちろんここで映画と小説の優劣を競う気持ちはさらさらない。映画は映画ですぐれた脚本が書きあげられているし、小説は小説で重層的かつ複雑に事件解決への迷路をさまよう。今西刑事は錯綜する。しかし舞台が映画であろうと小説であろうと今西に与えられた役割ははっきりしている。今風にいえば「ブレがない」のだ。おそらく映画の脚本担当者もこの一点だけは譲らなかったのではあるまいか。丹波哲郎というキャスティングも絶妙だ。
映画もまだご覧になっていない、小説もまだお読みになっていない、そんな方もあるかと思うのでこれ以上つっこんだことを書いてはいけないと思うのだが、ひとつだけ、映画が小説を凌駕しているシーンがある。脚本スタッフは和賀英良の父、本浦千代吉を生かしておいた。そして今西と千代吉を対面させた。
このエピソードがなければ、僕はそれほどまでに号泣しなかっただろう。

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