2005年3月6日日曜日

江國香織『東京タワー』

伯父が赤坂丹後町という町に住んでいた。赤坂見附から一ツ木商店街を通り、さらに山脇学園の脇の道を歩いていく途中で東京タワーを見た。東京タワーに関していえばそれがぼくにとっての原初的体験だ。赤坂の空は今よりももっと広く、銀座線は今よりももっと黄色く、丸の内線は今よりももっと赤かった。後に町田に移転した日大三高がひっそりとたたずんでいた時代だ。
江國香織の描く男子はいい。『流しのしたの骨』の律や『ホリーガーデン』の中野、『きらきらひかる』の睦月と紺。さらさらしてて好感が持てる。
この本にふたりの男子が登場したとき、これは果歩と静枝が男になったのかと思った。主人公がふたりという設定は江國香織ならではである。
たいてい江國香織の読み物は世の中のうっすらとグラデーションになった濃い部分が描かれているのだが、この本も年上の既婚女性と男子大学生の関係、うすっぺらなことばでいうと不倫ということなのだが、を骨組みにして展開している。逆のパターンはあった。『ホリーガーデン』の静枝、そして果歩も。
正直いって、『東京タワー』はどんよりとして鬱陶しかった。重苦しくて、汗ばんだストーリーだと思う。『ホリーガーデン』にはそんな印象をもたなかった。なぜだ。それは主人公が女友だちではなく、かつてぼくも経験したところの男子大学生だからだろうか。読み手として当然、主人公にある種の感情移入はするはずだが、やはり女性に対する感情移入は、客観的なものなのかもしれない。それに比べ、透と耕二に対しては感情移入ののめりこみ方が違うのだろうか。『ホリーガーデン』も芹沢や津久井が主人公だったらやはり同じような重さや苦さを感じたのだろうか。
(2001.12.25)

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