廃線と聞いて、そこはかとないイメージを浮かべる人とそうでない人がいる。夏と聞いて胸ときめかす人とそうでない人がいるように。
正直に言うと僕はそこはかとないイメージを浮かべてしまう。さらに廃線にそそられる人のなかでいてもたってもいられない人もいればそれほどでもない人がいる。前者の代表的存在は宮脇俊三だろう。僕はなくなった鉄路を見い出しに旅に出ようとまでは思わない。
高校生の頃、学校の最寄り駅である今のJR飯田橋駅に隣接するような形で飯田町という貨物駅があった。ずいぶん前に貨物駅はなくなり、再開発されて、ショッピングモールになっている。その飯田橋アイガーデンテラスに向かう途中に貨物駅時代の線路が遺されている。
その昔、武蔵野グリーンパーク球場というスタジアムがあった。かつて中島飛行機の工場の引き込み線を利用して三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶ中央線の支線が開通した。野球場はあまり利用されないまま取り壊され、中央線の支線は廃線になった。
JR三鷹駅の北口を出て、太宰治でお馴染みの架線橋の辺りから弧を描きながら北に向かう遊歩道がある。武蔵野競技場戦の廃線跡である。この先で線路は玉川上水を渡るが、その橋にレールが埋め込まれている。かろうじて廃線の痕跡であることがうかがえる。
この本にも取り上げられているが、軽井沢から草津に向かう鉄道があった。JR軽井沢駅の駅前に当時の車両が遺されている。日本初のカラー映画木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」では高峰秀子がこの草軽電気鉄道に乗って故郷の北軽井沢駅に帰るシーンが映し出される。線路跡は山の中に隠されてしまったが、北軽井沢駅だけは遺されている。
以上が僕の廃線紀行である。
川本三郎や関川夏央の著書で文人が愛した鉄道旅が紹介されている。編集者として多くの作家と接点があったでろう嵐山光三郎も鉄道旅好きな文人だった。
それにしても廃線めぐりは過酷極まりない旅である。
2025年4月29日火曜日
2025年4月20日日曜日
ロバート・ホワイティング『メジャーリーグとても信じられない話』
先月、とある方の出版記念トークショーがあり、動画とか写真の撮影を頼まれた。前半はディナーで後半がトークショー。はやめに食事を済ませ、カメラのセッティングをしていた。何人かスピーチしていた。アメリカ人がマイクの前で何か喋っていた。あまりよく聞いてはいなかったが、その人の名がロバート・ホワイティングというのだけが気になっていた。どこかで聞いたか見たかした名前だなと。1時間半ほど写真を撮り、トークショーも終わりかけていた頃になってようやく思い出した。野球の本を多く書いてる人だと。
ロバート・ホワイティングの名前を知ったのは少し複雑である。
僕の実家の目の前に大きな家具店があり、勉学優秀な長男がいた。大学卒業後Bという出版社で活躍する。家具点を継いだのは次男だった。その長男の話をCという出版社に勤務する友人川口洋次郎に話したところ(同じ業界だからもちろん知っていた)「その人の連れ合いは翻訳家で俺が担当していた」という。その名は松井みどり。
みどりさんは「川口さん、横浜までわざわざ原稿を取りに来なくても書き終えたら夫に渡しますから、Bで受け取ってください」と言ったという。それから川口は原稿ができると電話をもらって、麹町のBに取りに行ったという。そんなこんなで僕は松井みどりという翻訳家を知り、どんな訳書があるのだろうと調べて、ロバート・ホワイティングにたどり着いたのである。
それからしばらく、ロバート・ホワイティングは僕のなかでほったらかしにされていた。それが先月のとある出版記念パーティーでふと思い出されたのである。
野茂英雄以降、多くの日本人プロ野球選手が海を渡った。普通の野球ファンとしてテレビ中継はよく見ているが、MLBの歴史は深い。下手をすればアメリカ合衆国より歴史と伝統がある。もっとはやく読んでおけばよかった。
この本は翻訳者の夫、家具店の長男にすすめられて書いたということらしい。
ロバート・ホワイティングの名前を知ったのは少し複雑である。
僕の実家の目の前に大きな家具店があり、勉学優秀な長男がいた。大学卒業後Bという出版社で活躍する。家具点を継いだのは次男だった。その長男の話をCという出版社に勤務する友人川口洋次郎に話したところ(同じ業界だからもちろん知っていた)「その人の連れ合いは翻訳家で俺が担当していた」という。その名は松井みどり。
みどりさんは「川口さん、横浜までわざわざ原稿を取りに来なくても書き終えたら夫に渡しますから、Bで受け取ってください」と言ったという。それから川口は原稿ができると電話をもらって、麹町のBに取りに行ったという。そんなこんなで僕は松井みどりという翻訳家を知り、どんな訳書があるのだろうと調べて、ロバート・ホワイティングにたどり着いたのである。
それからしばらく、ロバート・ホワイティングは僕のなかでほったらかしにされていた。それが先月のとある出版記念パーティーでふと思い出されたのである。
野茂英雄以降、多くの日本人プロ野球選手が海を渡った。普通の野球ファンとしてテレビ中継はよく見ているが、MLBの歴史は深い。下手をすればアメリカ合衆国より歴史と伝統がある。もっとはやく読んでおけばよかった。
この本は翻訳者の夫、家具店の長男にすすめられて書いたということらしい。
2025年4月17日木曜日
嵐山光三郎『爺の流儀』
嵐山光三郎さんと二度お目にかかっている。厳密に言えば、二度本人をお見かけしたということだ。
最初は1985(昭和60)年、信濃町の千日谷会堂で。建築の仕事をしていた伯父が亡くなり、葬儀が行われた。嵐山さんはその会葬者のひとりで、白の着物に白の袴という出で立ちで颯爽と献花し、合掌して去っていった。嵐山さんは伯父の弟(僕の叔父)の元同僚で親友でもあったらしい。それで葬儀に駆けつけてくれたのだろう。
二度目はそれからしばらく経って、銀座で嵐山光三郎・安西水丸二人展があり、僕はたまたまオープニングパーティーの場にいた。どこのギャラリーだったかは憶えていない。嵐山さんは文筆家であったが、原稿用紙に自身の顔を描くなどよくしていた。そんな原稿用紙に描いた絵と安西水丸のイラストレーションが何点かずつ掲示されていた。パーティーはマスコミ関係者をはじめ大勢のお客さんがいた。嵐山さんは毎週日曜日の「笑っていいとも増刊号」というテレビ番組に編集者という立場で出演していた。ちょっとしたタレントだった。
パーティー会場に大きな寿司桶が運ばれる。十か二十か、それよりもっと多かったかもしれない。寿司を運び込んだ出前の人といっしょにやってきたスーツ姿の男に声をかけられた。「おまえ、レイコの息子だろう。俺はおまえのおふくろのいとこなんだ」と。レイコというのは母の名でたしかに銀座や築地、月島で寿司屋をやっているいとこがいると聞いたことがあった。「こんなところで食う出前の寿司なんかうまくない。俺の店に来い」と母のいとこTさんに告げられ、ふたりで銀座の店の入り、カウンターに座った。銀座の寿司屋の暖簾を潜るのははじめてのことだった。
嵐山さんの本は久しぶりである。両親の死を経験し、自らも80歳を超え、死についてきちんと向き合えるようになったのだろう。死は恐怖であるとともに最後の愉しみでもあるという。妙に説得力があった。
2025年4月6日日曜日
吉村昭『長英逃亡』(再読)
吉村昭の小説でもう一度読みたい作品は多い。先日はテレビドラマ「坂の上の雲」が再放送されていたこともあって『海の刺激』を再読した。その後奥田英朗の『オリンピックの身代金』を読み、警察に追われる主人公島崎国男の逃走から小伝馬町の牢を抜け、逃亡を続けた高野長英を思い出す。
日本は治安のいい国であるといわれるが、すでに江戸時代から犯罪人の取締りに関しては一等国だったと言っていい。長英は張り巡らされた捜査の網をかいくぐり、6年にわたり、逃亡生活を送る。
人生には運不運は付きものだが、破獄後の長英の逃亡は幸運に恵まれた。ひとつは門人内田弥太郎の庇護である。常に冷静に逃亡先を考え、長英の妻子を支援する。内田なくして長英の逃亡はなかったろう。入牢中に出会った米吉も長英の逃亡を支えた。米吉は仙台の侠客鈴木忠吉の子分だった。長英は裏社会とのつながりを持つことで直江津から奥州へ送り届けられ、母親と再会する。米沢から江戸へ戻るのも米吉の力なくしては叶えることはできなかった。江戸に戻り、宇和島藩、薩摩藩に接近することができたのも幸運だった。長英は招かれて宇和島に旅立つが、宇和島藩の藩医富沢礼中とともに箱根と今切の関所を越える。逃亡劇の中でももっとも危険な賭けだった。
一方、長英にとって最大の不運は破獄後2カ月で長英に永牢(終身刑)を言い渡した南町奉行鳥居耀蔵が失脚したことだ。結果論ではあるが、破獄など試みず、後少し牢の生活を堪えていればおそらくは釈放されたであろう。何しろ高野長英は日本屈指の蘭学者だったのだから。
直江津や米沢でゆったり過ごすこともできたとはいえ、長英の旅は至って過酷だった。精神的な消耗も激しかったに違いない。それでもかつての門人やその伝手で出会った人びとが身の危険もかえりみずに匿ってくれた。長英が牢を破って逃亡したことで得たものは人の心のあたたかさを知ったことだったのではあるまいか。
日本は治安のいい国であるといわれるが、すでに江戸時代から犯罪人の取締りに関しては一等国だったと言っていい。長英は張り巡らされた捜査の網をかいくぐり、6年にわたり、逃亡生活を送る。
人生には運不運は付きものだが、破獄後の長英の逃亡は幸運に恵まれた。ひとつは門人内田弥太郎の庇護である。常に冷静に逃亡先を考え、長英の妻子を支援する。内田なくして長英の逃亡はなかったろう。入牢中に出会った米吉も長英の逃亡を支えた。米吉は仙台の侠客鈴木忠吉の子分だった。長英は裏社会とのつながりを持つことで直江津から奥州へ送り届けられ、母親と再会する。米沢から江戸へ戻るのも米吉の力なくしては叶えることはできなかった。江戸に戻り、宇和島藩、薩摩藩に接近することができたのも幸運だった。長英は招かれて宇和島に旅立つが、宇和島藩の藩医富沢礼中とともに箱根と今切の関所を越える。逃亡劇の中でももっとも危険な賭けだった。
一方、長英にとって最大の不運は破獄後2カ月で長英に永牢(終身刑)を言い渡した南町奉行鳥居耀蔵が失脚したことだ。結果論ではあるが、破獄など試みず、後少し牢の生活を堪えていればおそらくは釈放されたであろう。何しろ高野長英は日本屈指の蘭学者だったのだから。
直江津や米沢でゆったり過ごすこともできたとはいえ、長英の旅は至って過酷だった。精神的な消耗も激しかったに違いない。それでもかつての門人やその伝手で出会った人びとが身の危険もかえりみずに匿ってくれた。長英が牢を破って逃亡したことで得たものは人の心のあたたかさを知ったことだったのではあるまいか。
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