2019年9月9日月曜日

阿川弘之『山本五十六』

いちどだけ長岡を訪ねたことがある。1983年ではなかったか。
大学時代の友人Uさんは新潟県新発田市の出身である。4年生のとき、東京都の教員採用試験に合格し、江戸川の小学校に勤務していた。新潟の採用試験には受からなかったが、いずれは郷里に戻って教鞭をとりたいと言っていた。ところが新卒採用のその年、力試しのつもりで受けた新潟県の採用試験に合格してしまった。その前年不合格になって、新潟大学に3度も落ちているし、よっぽど俺は新潟には縁がない男だと嘆いていたUさんが、である。東京の小学校を1年で辞めて、赴任した新潟の小学校は長岡市にあった。
その年の夏、越後湯沢に用事があったので事前に連絡をとってみた。夏休みだったUさんは買ったばかりのホンダシティで迎えに来てくれた。ドライブがてら、出雲崎から寺泊あたりをまわって、その日はUさんのアパートに泊まった。まるで大学時代のようにだらだらと過ごした僕の、長岡の思い出である。
長岡といえば、幕末の越後にスイスのような永世中立国を築こうとした河合継之助を思い起こす。この地に生まれた山本五十六の父高野貞吉は越後長岡藩士であったという。五十六は後に家名の途絶えていた山本家を相続するが、山本家は長岡藩の上席家老を世襲していた家柄だった。山本五十六は武士の時代を引きずって生きてきたように思われる。
山本五十六が戦争指導者的に見えていたのは実は僕のなかで勝手に膨らませてきたイメージだった。海軍軍人ではあったが軍国主義者ではない。合理的な考え方と世界を見る目を持っていた。戦意高揚、戦線拡大に向かう当時の情勢にあって最後まで冷静な判断力を保持していた人物と言える。下手な言い方かもしれないが、河合継之助のDNAが受け継がれている。
そういえば長岡市内には山本五十六記念館があり、河合継之助記念館もある(しかもものすごく近い)。どうして何にもしないでだらだら過ごしてしまったのだろう。

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