2025年9月30日火曜日

獅子文六『但馬太郎治伝』

久しぶりに獅子文六を読む。
この本を読むまで知らなかったが、かつた近江出身の薩摩治郎兵衛という商人がいた。治郎兵衛は盆暮れの休みは読み書きの稽古に励み、給金もほとんど主人に預け、とにもかくにも仕事ひと筋。幕末に日本橋に薩摩屋を興す。一代で巨万の富を得た治郎兵衛の孫が薩摩治郎八。オックスフォード大学に学び、パリに移住する。ヨーロッパの社交界での華麗で豪快な振舞いから「バロン薩摩」と呼ばれるようになる。
獅子文六が書いたこの小説はバロン薩摩伝である。戦後焼け出され、出版社の伝手で借りた駿河台の家がかつての富豪の屋敷であり、その後転居した大磯の家がその別荘っだったりしたことで主人公は但馬太郎治=バロン薩摩に少なからぬ縁を感じる。実際に文六が暮らした駿河台と大磯の家がかつて薩摩家の所有であったわけではないらしい。
しばらく太郎治は忘れらていたが、新しい小説のネタさがしに主人公は旅に出る。吉野で桜を見ようという試みは時期尚早、急遽徳島に渡る。そこでついに太郎治と邂逅を果たす。
それにしても大富豪という人種は日々どんな思いで生きているのか。その巨万の富というのは自ら汗を流したわけでもなく、祖父と父から引き継いだものである。MLBで2年連続50本塁打を放ったことによって得たものでもない。どちらかといえば父親の政治資金みたいなものだ。ただただ思いつくがままに費消していったのだろう。使っても使っても使い切れない額のお金を手にしたことのないわれわれには想像のおよばない世界である。
先日、母が口座を持っていた信用金庫に行って相続の手続きをした。大した額ではない。元気な頃は元気な頃でささやかな年金からささやかな貯金をしていた。病に倒れ、施設で暮らすようになってから年金は施設の利用料に消えた。母の遺した預金の額が10桁くらい多かったとしたら、それは僕のこれからの人生にどのような影響を与えるだろうか。

2025年9月25日木曜日

半藤一利『幕末史』

昭和100年ということで今年は昭和に関する本を多く読んだ。そろそろ飽きてきたので少し時代を遡ろうと思う。というわけで幕末史。
学生時代からきちんと日本史を学んだ覚えがない。歴史の本を読むこともあまりなかった。とりわけ幕末から明治維新にかけてはランダムに並べられた事件を順番通りに並べ替えることができない。そもそも幕末とは何なのか。朧気ながらペリー来航から士族の反乱が平定される西南戦争までかと思っていたが、半藤先生も同様にお考えのようである(ほっとした)。要するに黒船による武士たちの動揺にはじまり、維新を経て武士が全滅するまでが幕末ということか。
多くの人は幕末を歴史書からではなく、小説から学んでいると思う(映画やテレビドラマからという人もいるだろう)。長州なら『世に棲む日日』、竜馬なら『竜馬がゆく』、新選組なら『燃えよ剣』など司馬遼太郎の作品を通じて幕末を身近に感じた人も(僕も含めて)多いだろう。吉村昭なら『桜田門外ノ変』、『生麦事件』、『天狗争乱』、『落日の宴』、『彰義隊』などから幕末を学べる。
幕末は佐幕派と討幕派の対立がベースにある。佐幕派が主役の物語では討幕派が敵役となり、討幕派が主役ならその逆になる。薩摩長州土佐を中心とする西軍(官軍ではなく)が東征し、佐幕諸藩を平らげることで権力を掌握したというのが一般的な幕末史の解釈である。半藤先生はこれを薩長史観として批判し、江戸東京を中心とした歴史認識を示す。幕府側にも慶喜、勝海舟らは日本のビジョンを持っていた。江戸市内で戦場が上野だけに止まったのは彼らの尽力による。にもかかわらず西軍は武力にこだわり、この国を新たに侵略していったのである。
それにしても半藤先生がカレンダーをめくるように一つひとつの事件を解説し、つなげてくれたおかげでようやく幕末史を一望することができた。維新と昭和の終戦を重ね合わせる見方もおもしろかった。

2025年9月18日木曜日

島崎藤村『嵐』

従兄がアメリカに住んでいる。もう30年になるだろうか。
母は5人姉妹の四女だった(他に兄と弟がいた)。従兄は長姉の次男にあたる。伯母と母は11歳離れているが、どこがどうというわけではないが雰囲気が似ていた。そういうわけでもないだろうが、従兄はずいぶんと母を慕ってくれた。10年前くらいからだろうか、従兄は暮になるとカードを送ってくれるようになった。「おばさん、元気で長生きしてください」と必ず書き添えて。ご子息が東京の大学に進学した時はわざわざ母を訪ねてくれた。その時撮った写真を母はたいそう気に入っていたようだ。
母が亡くなったことを知らせようと思い、手紙を書いた。南房総に住んでいた従兄とはほぼ面識がなく、歳は3つ違いだが、いっしょに遊んだ記憶もない。夏休みに家を訪ねても野球少年だった従兄は昼間はほとんどいなかった。練習に明け暮れていたのだろう。今、どんな町に住んでいるのかもわからない。アドレスはノースカロライナ州ダーラムとある。地図を見る。大西洋に面した東部の南寄り、北にバージニア州、西にテネシー州、南はサウスカロライナ州、ジョージア州に隣接する。アメリカが独立した時の13州のひとつである。気候も風土もわからず、時候の挨拶に手間取った。
従兄が母に送ってくれた写真のなかに家族そろって撮ったものがあった。息子さんがふたりいて、幼い孫たちも写っている。微笑ましい写真だ。
幼い子ども4人を遺して妻に先立たれた男が主人公の小説。島崎藤村の実生活に近い話なのだろう。子どもたちが少しずつ自立していく。その成長していく姿が微笑ましい。
島崎藤村というと『破戒』とか『夜明け前』といった重い小説ばかり思い浮かべてしまうが、この作品みたいな日常を描いた小説もいい。読んでいて気持ちが穏やかになる。
それにしても紙に字を書く習慣がなくなって久しい。手紙を書くってものすごくエネルギーを要する作業だと改めて思う。

2025年9月9日火曜日

宗像誠也『教育行政学序説』

9月になっても暑さは収まるところを知らない。連日35℃を超える、あるいは迫る毎日である。せめて朝晩だけでも凌ぎやすくなってくれたらいいのにと思うが、夜遅くなっても申し訳程度に気温が下がるだけである。熱帯夜が続いている。
大学に進んで、少しは本でも読まなきゃなと思っていた。主に読みはじめたのは明治図書の教育学関係の翻訳古典。ヘルバルトとかコメニウスとか。正直遠い世界の話でピンと来なかった。古典より先に少し現代の話を知ろうと思い、読みはじめたのが宗像誠也である。長く東京大学教育学部で教育行政学を専攻された。この本が刊行されたのが1954年。増補版が69年に出ている。当時からしても決して新しい本ではなかった。
終戦後まもなく教育改革がなされ、新たな制度が生まれた。その内容も民主国家日本の確立をめざすものであったに違いない。自由と自主を重んじる教育体制のスタートも中華人民共和国の成立や朝鮮戦争の勃発によって雲行きが怪しくなる。マッカーサー解任後、戦後教育改革の再改革の動きが示されてくる。ひとつには教科書の検定制度・国定制度の検討が行われ、教育委員会も全市町村ではなく、人口15万人程度の都市にのみ限定設置をし、教育員は首長が議会の承認を得ての任命制になる。宗像が当時の教育行政への痛烈な批判を繰り返すのにはこうした時代背景があった。教科書検定制度、教育委員会公選制のほか、教員の勤務評定批判や全国学力テスト批判も再三行われている。憲法と教育基本法の理念を大切に、子どもたちを二度と戦場に送り込んではならない、根本的にはそういった主張だったように記憶している。
当時はあまり深く物事を考えなかった。教育行政への批判の背景にあるものなんてほとんど知らなかった。ただただ、これはよくない、理想はこうだ、みたいな主張をするのが心地よかった。もう一度この本を読んでみたら当時とは違った感想を持つかもしれない。