2025年7月30日水曜日

半藤一利『ノモンハンの夏』

中学の時、社会科にSというお爺さんみたいな先生がいた。社会の先生はふたりいて僕のクラスはOという女性が担当していた。S先生の授業は受けていない。あるとき、同級の誰かがSって、ノモンハン事件の現場にいたらしいぜと言う。長年教師をしていたからそんな述懐もあるだろう。でも僕はそのときはじめてノモンハン事件という言葉を知った。
いくらお爺さんみたいな先生でも当時はおそらく55歳で定年だ。仮にこの話を聞いたのが1970年半ばだとしてノモンハン事件は1939年。およそ35年前。S先生が50代半ばだとすると20歳前後で参戦したことになる。思いのほかノモンハン事件は近くにあった。その頃少し調べてモンゴルと満州の国境での小競り合いという知識を得た。
それから高校にすすみ、少しは日本史を勉強したけれどノモンハンに接したのは村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』である。登場人物のひとり間宮中尉が偵察のためハルハ河を渡る。そして恐ろしいシーンが展開する。僕にとってのノモンハンはこの小説のなかの世界であった。
『ねじまき鳥』を最近再読したこともあり、ノモンハン事件をちゃんと学ぼう気になった。こういう時に頼れる昭和史の先生は半藤一利だ。日露戦争の勝利を客観的に分析できず、皇国不敗という考えに染まった陸軍は理論なき暴走に突き進む。日米開戦前、大日本帝国にとっての急務は工業力の充実であるはずだった。ソ連軍の圧倒的な火力に対して如何に立ち向かうかという反省も必要だった。ところが帝国陸軍が力を注いだのは非近代的な精神力の強化だった。
本書では三つの舞台が用意されている。三宅坂上参謀本部、新京から戦場であるノモンハンにかけて、そして第二次世界大戦前夜のヨーロッパ。一歩間違えば日本とソ連の大戦争になっていた。だとしたら…。関東軍の作戦参謀たちによって日本は間違いなく滅んでいただろう。そう考えると背筋が凍る一冊である。

2025年7月20日日曜日

古谷経衡『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』

母が亡くなった。90年の生涯だった。
6年前脳疾患で倒れ、後遺症で不自由な身になったが、それでもがんばって生きてくれた。僕は小さい頃、泣き虫で意気地なしだった。外に遊びに行くと十中八九、泣いて帰ってきた。私が死んだらこの子が泣くだろうと思って母はがんばって生きてくれたのかもしれない。
施設からかなり衰弱してきたと連絡があり、会いに行った。俺は大丈夫だよ、おふくろが死んでももう泣かないよ、もう泣き虫じゃないよと最後に伝えた。2日後、息を引きとった。
出棺のとき、母と父の出会いのことを挨拶がわりに披露した。母に伝えたとおり泣くことはなかった。葬儀を終え、ようやく落ち着いた。保険証を区役所に返却し、後は年金の手続きが残っている。
古谷経衡という作家はラジオで知った。ラジオ番組のコラムで聴く限りユニークな視点を持っているという印象である(その後風貌もユニークであると知る)。
先の戦争では軍部の強引かつ無計画な作戦によって多くの将兵が無駄死にしたと思っている。工業力という点で圧倒的に不利な日本軍は斬り込みという無思慮で原始的な作戦を繰り返す。特攻という非人道的な手段を選ぶ。無意味な精神論、非合理的な作戦、物資の不足。よく5年も戦い続けられたと思う。
そんななか、上官の命に抗って撤退したり、持久戦に持ち込んで消耗を避けたり、特攻を拒んで独自に戦術を編み出した指揮官がいる。インパール作戦における佐藤幸徳、宮崎繁三郎、沖縄戦における八原博通、日本海軍芙蓉部隊の美濃部正である。軍部の空気に抵抗した彼らに着目した作者の視点に敬服する。とりわけ、沖縄の持久戦が限界があるとはいえ、続行されていたらと被害者はもっと少なくなったのではないかとも思える(もちろんその持久戦も陸軍の面子で潰されるのだが)。戦時中の日本軍部にも救われる一面があったこと。それだけでも読んでよかったと思う。
母は終戦の年、小学5年生だった。

2025年7月14日月曜日

吉村昭『吉村昭自選作品集第1巻 少女架刑・星への旅』

同業で同い歳のTさんが本を送ってくれた。御岳父の遺品であるという。
同業というのはテレビコマーシャルなどの企画や演出をする仕事で広告会社に在籍し企画やプレゼンテーションを主にしていた僕と異なり、Tさんは大学卒業後制作会社に入り、制作進行という現場の仕切りからキャリアをスタートさせた。ややもすれば頭でっかちな僕とくらべ、現場のたたき上げで演出家になったTさんは映像制作に対する覚悟をもっていたように思う。ふたりで(あるいはもっと複数で)アイデアを持ち寄る打合せを何度も経験したが、互いに企画案を褒め合ったものだ。彼は僕にないアイデアを出し、僕は彼にはないアイデアを出した。そんなこんなで気心知れるようになったのだろう。
それでもふたりの間には実際のところ共通点が少ない。僕は音楽はもっぱら聴くばかりだが、彼はフルートやリコーダーなど楽器に親しむし、熱狂的なサッカーファンである(高校時代は強靭なセンターバックであると聞いている)。僕はひたすら野球を見るだけ。町歩きや鉄道が好きな僕に対して、Tさんは持ち前の行動力を活かして炊き出しなどのボランティアにも積極的に参加する。
ひとつだけ共通点があるとすれば、吉村昭だ。僕はすべてではないが多くの吉村作品を読んできた。そのことでTさんとSNS上でやりとりしたことも多い。それで自分が読み終えた初期の短編集を僕に読んでみませんかとすすめてきたのだ。少し前に『長英逃亡』と『海の史劇』を再読した。次に何を読もうかと思っていた矢先だったのでありがたくいただき、一日一遍ずつかみしめるように読んだ。
吉村昭は戦後まもなくまだ若い頃に肋骨を切除する大手術を受けている。この作品集には生と死の間を彷徨っていた初期の短編で構成されている。いずれも力作である。そして死の匂いがどんよりと漂っている。これまで読んだ短編のなかでは『鯨の絵巻』のなかの「光る鱗」に似た肌触りを感じた。

2025年7月9日水曜日

葛城明彦『不適切な昭和』

今年は昭和100年にあたるということで昭和を振りかえるテレビ番組が多い。なかでも昭和の映像を見て、平成、令和時代の若者たちがどんなリアクションをするかといったバライティは数多く放映されている。大抵の映像は昭和40年代後半から50年以降である。
それというのもテレビの世界ではビデオテープは高価な資材だった。保存されることなく、使いまわされる時代が長かったのである。昔のテレビはほとんどが生放送だった。ニュースはもちろん、歌番組もクイズもドラマでさえ生だったのだ。だから昔の番組はほとんどなくなっている。わずかに流通していた家庭用ビデオデッキで録画した番組が今や貴重な資料になっていたりする。フィルムで撮影されたコンテンツは思いの外多く保存されている。C Mやフィルム制作されたドラマやアニメーションがそうだ。労力が要るアニメは安価なフィルムで完パケなければならなかったのだ。昔のニュースだってテレビ局にはほぼ残されておらず、資料として登場するのは映画館用に制作されたニュースだ。だからどうしても映像で振りかえる昭和は自ずと昭和40年代後半から50年以降という偏りが生じる。ちょうど僕が小学校を卒業し、中学生になる頃のことである。そういった意味ではこの本は僕にとってドンピシャリなのであるが。
昭和はもっと広くて深い。テレビを中心にした風俗を追いかけるだけで「不適切」と言い切るのは容易いことだが、こうした「不適切」を許していた時代、社会についてもう少し立ち止まって考えてみてもいいと思う。「不適切」は排除されてしかるべきものとは思うが、その前にもう一度、再利用できないかと思うのである。
ちくまプリマー新書と中公新書ラクレはわかりやすい問題提起があることで僕は高く評価しているが、この本はちょっと物足りなかった。ああ、そんな時代だったね、懐かしいね、不適切だったねで終わらせてしまうのはちょっと勿体ない。

2025年7月2日水曜日

内館牧子『大相撲の不思議3』

昭和四十七年初場所中日八日目。結びは横綱北の富士と関脇貴ノ花の対戦だった。
立ち合い左四つに組み止めると北の富士は前に出ながら左外がけ。足腰のしぶとい貴ノ花に食い下がられたくない北の富士ははやい決着を望んだのだろう。これを残した貴ノ花に横綱は土俵中央で再度外がけ。今度は右だ。さらに体を預けて貴ノ花をのけぞらせる。勝負あったかと思ったのもつかの間、貴ノ花はのけぞりながら体を入れ替えようと右から投げを打つ。あるいは下手からひねったように見える。北の富士は思わず右手を付いてしまう。貴ノ花の背中はまだ土俵に付いていない。立行司木村庄之助の軍配は西貴ノ花に上がった。
物言いが付いた。蔵前国技館は騒然とした。長い協議だった。ここで議論されたのが「つき手」か「かばい手」かである。押し倒した相手の体が死んでいれば、つまりもう逆転の可能性がない状態であれば優勢な力士の付いた手は「かばい手」となって負けにはならない。相手が死に体でなかったとしたら、それは「つき手」となって負けである。かばい手は勝負が決まった後に相手に怪我をさせないための処置であるとも言える。木村庄之助は北の富士の手を「つき手」と判断したが、審判は「かばい手」であると結論し、行司差し違えで北の富士の勝ちになったのである。
貴ノ花は大鵬引退、玉の海急逝によって寂しくなった土俵を盛り上げた角界のプリンス。大変な人気力士でもちろん僕もファンだった。テレビを見ながら、憶えているのは軍配が貴ノ花に上がって狂喜乱舞したのもつかの間、物言いが付いて行司差し違えで貴ノ花が敗れ、なんだようと不平不満をぶちまけたことだ。今回取り組みを再現するためにユーチューブでこの対戦を見直したが、やはり貴ノ花の体は生きていると思う。
この本の著者内館牧子はこの日この取り組みを見れなかったと書いている。大の相撲通が見損なった一番をライブで見ていたなんて少し鼻が高い。