2018年8月17日金曜日

山本周五郎『正雪記』

新しきは旧きを駆逐する。
映像の世界ではずいぶん前にフィルム(アナログ)がデジタルの波にのまれた。フィルムで撮影した映像にはそこはかとないニュアンスや味わいがあったけれども、今となってはフィルムを用いなくとも同等かそれ以上の質感を醸し出すことができるようになっている。そうこうするうちにフィルムカメラもフィルムを扱う熟練した技術者も、フィルムそのものも現像所の数も少なくなってしまった。
もっと身近なところでいえば、PCなどのデジタル機器がそうだ。いかにすぐれたスペックを持っていようと、5年前、10年前の機種は時代から取り残される。次から次へと生まれる新しい機能に対応できなくなる。
歴史をさかのぼってみても新たな時代のはじまりとともに、旧体制は不要なものとされ、駆逐されてしまう運命にある。明治維新後の士族が不平を膨らませて爆発した。同じようなことはすでに徳川幕府の初期にあり、新しい体制によって仕事を奪われた武士たちの多くが浪人となって、日本中そこかしこにあぶれてしまった。
この本は職を失った武士たちを救済すべく立ち上がった由比正雪の物語である。
いわゆる慶安の変(由比正雪の乱)は1651年のできごとである。同じ山本周五郎の名作『樅の木は残った』で語られる伊達藩取り潰しが画策される時代にほぼ近い。
江戸時代のはじめはまだまだ緊張感のみなぎる時代だった(たいして日本の歴史を勉強してこなかったけれど山本周五郎が素晴らしい小説にしてくれていてたいへん助かる)。新体制に立ち向かう旧体制という図式は(おそらく)今も変わらないだろうが、たいていの場合、旧い方が分が悪いと思う。アナログ陣営が反乱を起こしたって、どう考えてもデジタルには勝てそうにない。10年前のPCが何百台集まったところで最新スペックのデジタルデバイスの方が圧倒的に便利で駆逐されてしまうだろう。
残念なことではあるけれど、それが現実というものだ。

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