2014年12月2日火曜日

吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』

はじめて間近で見た外国人の記憶がない。
小学校にも中学校にも外国人はいなかった。高校生になって毎日のように都心に出るようになると(学校はほぼ東京の中央に位置していた)町や電車の中で見かけることも多くなったがその頃は外国人を見かけることに新鮮な感覚を持てなくなっていた。
うっすらではあるが、幼少の頃、うちに外国人の子どもが遊びに来たという記憶がある。母が結婚する前に銀座のデパートに勤めていて、その同僚がアメリカ人と結婚して子どもを連れて遊びに来た、たぶんそんなことではなかったか。うっすら記憶しているというのはこの話を後日聞いたことで憶えているのか、自分自身の記憶として憶えているのか定かではないということだ。そんな気もするし、そうでない気もする。
その後アメリカに旅立つ叔父を見送りに羽田空港に行ったとき大柄な赤い顔をした外国人を見かけたり、はじめて観に行ったプロ野球の試合で外野手が黒人だったとかその手の記憶はあるが、それもさほど印象強く残っていない。
鎖国政策をとっていた江戸時代に二世(この言葉もずいぶん古めかしいが、当時は「あいのこ」と呼ばれていたに違いない)がいたとしたら、それは相当のインパクトがあったのではないか。それも東洋人ではなく西洋人とのあいだに生まれたハーフである。
吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読む。
当時の長崎ではシーボルトの娘いねだけでなく、多くの混血児が生まれていたようである。残念ながらそのほとんどが早逝したり、子孫を残すようなこともなかったそうだが、いねは娘を産んだ。いねは明治半ばに亡くなるが、靖国神社を見下ろしている大村益次郎にオランダ語を学んだり、福沢諭吉の口添えで宮内庁御用掛になるなど思っているほど遠い昔の人とも思えない。その娘ただは昭和13年まで生きたという。
多くの日本人にとっての「はじめて間近に見た外国人」とはシーボルトの娘なのではないだろうか。

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