2008年3月13日木曜日

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

はじめてニューヨークに行ったのは1992年の秋。義妹が57丁目あたりに住んでいて、そこを拠点にマンハッタンを歩きまわった。ニューヨークに行ったらぜひとも見てみたかったものがふたつあって、ひとつは1970年ごろ、大手の広告会社を辞めて単身渡米した叔父の住んでいたアパート。もうひとつはホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと行ったセントラルパークの回転木馬だった。
後日、グランドセントラルやストロベリーフィールズを訪れもせず、よくもそんな小さな目的でニューヨークまで行ったものだ人から揶揄されたが、とりわけ回転木馬はひと目見てみたいと思っていたわけだ。本書の中で回転木馬の小屋の中で流れていたのは「煙が目にしみる」だったが、ぼくがその場で聴いたのは「シング」だった。
この本を読むのは3度目で、最初は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、2度目はペーパーバックの“The Catcher In The Rye”、そして今回の村上春樹訳。野崎訳は何度か読みかえしているので、村上訳は新鮮にうつると同時にちょっとした違和感もおぼえた。現代語っぽすぎると感じたのかもしれない。週刊誌に連載されているビートたけしのなんとか放談みたいな。まあ、翻訳の話は大きな問題じゃない。むしろ村上春樹フリークが大勢いる時代に彼がこの名作の新訳を世に送り出したことのほうが重要だ。昨今の新訳ブームの発端となったのではあるまいか。
サリンジャーはこの作品を執筆後、隠遁生活をおくるなど、なかなかの偏屈者だと聞く。偏屈な作家が描いた偏屈な高校生が世界中の青少年のハートをとらえているあたりがなんともおもしろい。きっと時代を超えて、若者の心の中には少なからずホールデンが生きているということなのだろう。



0 件のコメント:

コメントを投稿