2019年8月20日火曜日

大岡昇平『俘虜記』

南房総にある父の実家に兵士の遺影が飾られている。
軍服を着たその若い男は祖父の弟、父の叔父にあたる人で1945(昭和20)年6月、「ルソン島アリタオ東方10粁ビノンにて戦死」と戸籍には記載されている。僕たちは幼少の頃から彼を「兵隊さん」と呼んでいた。
祖父は9人きょうだい(うち男ふたりは幼い頃亡くなっている)の長男で戦死した大叔父は六男だった。父の叔父叔母たちのなかでいちばん若い1922(大正11)年生まれということもあり、6歳しか違わない大叔父は父にとって兄のような存在だったと聞いたことがあるが、若くして戦場に散った大叔父を知る人もほとんどいなくなった。
中学生くらいのころ、秋葉原で部品を買ってきてはラジオづくりや電子工作に凝っていた。アマチュア無線や海外短波放送を聴いていた。父は大叔父が通信兵だったから、少しは似ているのかも知れないと言ったことがある。「兵隊さん」に関する数少ない証言のひとつである。
太平洋戦争に関してはよく見積もっても教科書以上の知識を持っていない。
1944(昭和19)年にはサイパン、テニアン、グアムそしてレイテが陥落した。主戦場はルソン島に移り、翌3月にはマニラも陥落する。戦史をたどると以後南方で大きな戦いは記載されていない。マニラと小笠原硫黄島占領後の主戦場は沖縄に移り、本土空襲も激しさを増していく。補給を断たれた南方の日本軍は完全に孤立した状況だったに違いない。
大岡昇平は南方で日本軍が玉砕を続ける最中に暗号手としてマニラに赴き、米軍の捕虜となる。捕虜になるまでと捕虜となってからの収容所の生活や心情がこの作品では描かれている。
戦死した大叔父「兵隊さん」は武器も食糧もないジャングルでどんな生活を強いられていたのだろうか。米軍の掃討によってか、島民のゲリラ部隊に襲われたのか、あるいは重度の病に侵されて斃れていったのか。真実は南の島に葬られたままである。

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