2019年4月21日日曜日

吉村昭『東京の下町』

日暮里に一由そばという立ち食いそばの店がある。
立ち食いそば店を路麺店などとマニアは呼ぶが、この店はいつ行っても客が数人いて、早朝など出勤前の時間帯から行列ができると聞いている。トッピングは各種天ぷらのほか、コロッケ、山菜、季節によって牡蠣天やホタルイカ天など豊富であるうえに玉ねぎ天、春菊天など‘半分’にも対応、そばも小盛り、大盛りがあって小腹の減った客も気軽に立ち寄ることができる。
立ち食いそばというと最近は生麺を都度茹でして供する店が増えているが、こちらは昔ながらの茹で麺(生麺をあらかじめ茹でてアルファー化したもの)である。時間を短縮し、そのぶんつゆや揚げ物に力を注ごうという考えの店であることがわかる。
日暮里は、吉村昭が生まれた町だ。太平洋戦争開戦後はじめて米軍機が本土を襲ったドーリットル空襲やその後の空襲時に跨線橋を渡って谷中墓地に避難した話などは再三書かれているが、幼少の頃の町や遊びなど当時の日暮里が克明に描かれていて興味をそそる。
昭和2年生まれということはものごころついた少年時代が昭和の初期。川本三郎だったか関川夏央だったか忘れてしまったけれど、戦前の昭和は決して暗い時代ではなく、明治から大正を経てようやく人々の生活習慣や考え方が変わって、今でいう家族というスタイルが確立した時代であるという。そういった点からすると吉村昭の少年時代は、戦後の復興を経て高度経済成長期に差しかかる時代、ようやく本来の昭和を取り戻した30年代に生きた僕たちの少年時代に相通じるものがあるかも知れない。父親の世代といってもいい著者の子ども時代が妙になつかしく思える。
西日暮里駅から地蔵坂を上って諏方神社に向かう。谷中墓地を通って芋坂を下り、跨線橋を越える。善性寺という寺の裏手あたりに吉村昭の生家はあった。
一由そばでげそ天そばを食べながら、様変わりした都会の深層に潜んでいる遠い時代の日暮里に思いを馳せた。

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