2012年7月4日水曜日

高峰秀子『にんげんのおへそ』


神経質でも几帳面でもない。
たいてい出したものは出しっぱなし。そこらに置いたものが積みかさなって、そのうちさがしものをはじめる。そういう人間であるにもかかわらず、妙に気になることもある。
たとえば文章がそうだ。書類などでいったん「あんしん」と書いたら、最後まで「あんしん」じゃないと安心できない。と、こういうことが気になって仕方ないのだ。ここは「あんしんできない」だろうと思うのである。別に誤字脱字ではない。意味も通じる。たださっき開いてたのに、なんで後になって漢字になっているのか、そこだけ漢字で表記するのは何か深い意味でもあるのだろうか。そんなことを考えてしまうのである。実にくだらない考えである。
それと“「」”や“『』”の使い分けなども悩む。本のタイトルは“『』”を使う。映画や歌の題名、小説でも短編は“「」”を使う。
広告の企画などでは商品名に“[ ] ”を使うこともある。“【】”も表題の内容をあらわすのに使う。たとえば【ねらい】とか【参考資料】のように。“《》”はたまに使うが、“<>”はあまり使わない。ひらがなの“く”とごっちゃになるおそれがあるからだ。と、ここでひらがなは“ひらがな”か“平仮名”かで、ちょっと悩む。
学校にも通うことなく、ひたすら女優として生きてきたために教養面でコンプレックスを持っているという高峰秀子だが、文章の着眼点や率直な語り口など、文筆家としてもすぐれた才能を発揮している。昭和という時代に思いを馳せるとき、彼女の小文はなつかしくて新しかったその時代を巧みに描きだしている。
ここで“巧みに”を漢字にするか、ひらがなにするかまた思い悩むのだが、常日頃そんなことばかり考えているのかいえばそうではなく、たまたま今(実は“今”と“いま”はいつも悩みながら混在させることが多いのだが)、思いついただけでたぶん1時間後くらいには忘れている。神経質でも几帳面でもないのだ。

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