文七元結という噺がある。腕のいい左官職人の長兵衛が賭事に身をやつして無一文になってしまう。それでも援助してくれる人がいて再起するための50両を貸してくれる。その帰り途、本所吾妻橋に身を投げようとしている奉公人らしき若者にばったり。何とか踏みとどませる。聞けば集金してきた50両をどこかですられたらしい、ついては死んで主人にお詫びがしたいと。長兵衛の懐には50両。どうしたものかと逡巡したあげく、彼はその若者文七に押し付けるようにしてくれてやる。長兵衛の50両はひとり娘を吉原の遊郭に人質のごとく預けて得た金である。ここで下手なあらすじを記すのは意味がない。実際に噺を聴いていただきたい。できれば立川談志か古今亭志ん朝で。
聴いていて不思議の思うのはそれだけの大事な大金をなぜ偶然ばったり出会った見ず知らずの小僧にくれたやったかである。今の世の中では当然考えられない。むしろ金に困った若者が通りすがりの職人を刺して強奪する方が(哀しいことながら)今風である。江戸の下町は困った人を放ってはおけなかったのだ。ほとんど無意識のうちに(人助けと思う間もなく)人助けをする町だったのだ。
利他という概念は以前読んだ北村匡一の『遊びと利他』という本で知った。利他の反対は利己であるが、主観と客観みたいな単純な対義語ではない。いくら他人に利する利他的行為もそれが意識してなされる場合、ほとんど利己的なものになってしまう。利他的行為とは何かに突き動かされるように湧き起こる。それが利他であるかどうか、その時点ではわからない。偶然に支配されている。
中島岳志はときどきラジオで聴く。政治学者という肩書きで。インドの政治が専門のようだが今では幅広い領域で活躍している。
利他についてはまだまだ理解しきれていない。人間は自分の意思で自らも世界もコントロールしていると勘違いしている。そんなことはないと利他は教えてくれる。