2019年1月21日月曜日

三浦しをん『まほろ駅前多田便利軒』

大相撲を熱心に見ていたのは小学校の頃。北の富士と玉乃島が横綱になり(玉乃島は玉の海になった)、大鵬とあわせて横綱が3人になった。
大関は琴櫻、清國、大麒麟、前の山(時代考証はかなりいい加減だが、僕が大相撲ファンになったのはこんな時代だ)。新進気鋭の貴ノ花が大鵬を破り、引退に追いこんだ。今でも玉の海の急死と大鵬の引退は、僕の、私的大相撲史の二大ニュースである。
先にあげた4大関のうち、猛牛と異名をとった琴櫻だけが横綱に昇進した。後に佐渡ヶ嶽親方。秋田県出身の清國は見た目が端正な力士でいちばん贔屓にしていたのだが、優勝は一回。残念ながらその雄姿の記憶はない。前の山は(当時は知らなかったが)けがで泣かされた力士で大関としては短命だった。豪快な突っ張りの印象が残っている。いちばん強いと思っていた大麒麟は、大一番に弱く、結局一度も優勝していない。
横綱稀勢の里の引退はなんとも残念である。
出処進退は自ら決めるというのが第一人者のあるべき姿だが、稀勢の里は、果たしてそうだったか。身を引いたというより、引退を余儀なくされた感が強い。横綱審議委員会の激励勧告、マスコミの論調、日本相撲協会の立場。横綱になるまで15年もかかったのだ。大怪我を克服して復活するには10年かかるだろう。そう思っていた。手術するなり、静養するなり1年でも2年でも休場させてよかったんじゃないか。中途半端な回復具合で中途半端な土俵をつとめることを誰が望んでいたのだろう。稀勢の里だって納得いく形で相撲をとっていたわけではないだろう。
引退会見で「一片の悔いもない」と語ったそうだが、そんなはずはない。けがが治らない状態で相撲をとらされ、横綱としての責任をとらされ、悔いが残らない方がどうかしている。
三浦しをんのこの本をずいぶん前に読んだ。
おもしろかったが、その内容はもう忘れてしまった。というわけで今回は相撲の話にしてみた。

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