2022年12月30日金曜日

宮台真司『日本の難点』

先のサッカーワールドカップカタール大会で日本はベスト16。そのなかで最高の評価を受けた日本は出場32カ国中9位になった。決勝トーナメント初戦で敗退した8チームにランク付けを行うことにあまり意味はないだろうが、国際サッカー連盟(FIFA)が決めたのなら、ああそうですかと受け止めるだけである。サッカーの順位なんて試合の勝ち負けで決めるべきであって、それ以外の評価で決めたランキングってなんなんだろう。
決勝トーナメントを観ていて、準々決勝に残ったチームはそれ以外のチームとは格段と力の差があるように感じた。日本代表がめざしていた「景色」の前には大きな壁が立ちはだかっている。それはともかくとして日本サッカー協会は森保一監督の続投を決めたという。あらかじめ設定されていた目標があって、それに到達できなかった場合、たとえば民間企業なら更迭だろう。結果を残せなかったのだから当然だと思う。ドイツとスペインに勝利してベスト16に進出するというが目標だったのなら納得できる。次はその上をめざしてくださいという気にもなる。
次期監督の選定にどんな議論があったかわからないが、代表監督としてW杯に至るまでの好成績(勝率は7割に近い)、本大会の決勝トーナメントに至るまでの善戦で4年後を託したのであれば少し甘い気がする。ベスト8に行けなかったことを重く受け止めた上で、なぜ次を森保に託すのか、きちんと説明している報道もほぼないようだ。多少の失敗は仕方ないとして、よくやったから次回もがんばれよみたいな和やかさがこの国のいちばん危ういところじゃないかとも思う。ベスト8に名を連ねるような国のサポーターたちはもっと自国のサッカーに厳しい視線を送っているのではないか。
今年三冊目の宮台真司。あいかわらず難解である。少しでもわかるところを読んで納得し、難しいところはそのうちわかるだろうというお気楽なスタンスで読み終えた。

2022年12月20日火曜日

夏目漱石『彼岸過迄』

ワールドカップカタール大会。
3位決定戦と決勝をテレビ観戦する。サッカーについてはくわしく知らないが、さすがに世界の頂点に近づけば近づくほど、技術面のみならず、メンタルやフィジカルの強さが際立って見える。これが日本代表が見たかった「景色」なのかと思う。もちろんくわしいことは知らない。にわかファンのつぶやきである。
とりわけ決勝戦のアルゼンチン対フランス。さらにあと30分延長しても勝敗はつかなかったのではないかと思えるような試合だった。ワールドカップの決勝戦なのだから歴史に遺る好ゲームであるのは当たり前なのかもしれないが、1秒たりとも目の離せない120分だった。結果的にはPK戦となって、運を味方につけたアルゼンチンが勝利した。こうした素晴らしい歴史を人々の心に刻むためにワールドカップという大会は存在しているのだと思った。
最近少しずつ読むようにしている夏目漱石。主人公が歩く町を思い浮かべながら読む。
漱石って東京の人なんだなと思う。『三四郎』の谷中、『それから』の代助が住む神楽坂、『門』の宗助が住む崖下の家はおそらくは雑司ヶ谷だ。
この『彼岸過迄』にもさまざまな地名が登場する。敬太郎の下宿する本郷、須永が住む小川町。田口は内幸町、松本は矢来町に住んでいる。それぞれが車(人力車)、電車(路面電車)で往き来する。もちろん歩いても移動できる距離である。東京は狭かったんだと思う。その昔、東京市は15区からなっていた。その後市域が拡大され、東京35区が誕生する。今の23区と原形になる。
冒頭から登場する敬太郎が主人公かと思いきや、実際は田口市蔵だったりする。どっちが主人公かと思わせるところは漱石がしばしば使う手である。
神田小川町から矢来町へは、靖国通りを歩いて飯田橋に出て、神楽坂を上るんだろうなと想像しながら、神楽坂から榎木町方面に歩いて漱石山房に立ち寄るのもわるくないと思った。

2022年12月19日月曜日

スージー鈴木『桑田佳祐論』

サザンオールスターズのファンであるが、熱狂的ってほどでもない。そもそもが熱狂的に応援するアーティストはいないが、ほとんどの曲を聴いているとか、忘れた頃にふと聴きたくなるアーティストなら何人か(何組か)いる。サザンもそのひと組かもしれない。
楽曲を聴くときには詞を重視する。重聴とでもいったらいいのか。好きな作詞家は北山修であったり、中島みゆきであったり、小椋佳、松本隆、阿久悠、なかにし礼であったり…。作詞を専門とする人もいれば、作詞作曲をひとりでこなして、完結させる人もいる。音楽のことはまったくわからないのでどうしても詞を味わう聴き方をしてしまうのである。
サザンがデビューしたのは1978年。僕がめでたく大学に進むことができた年だ。はじめての大学祭、所属したサークルの模擬店で朝方まで酒を飲んで何度も歌ったのが「勝手にシンドバッド」だった。不思議な歌だった。どう考えても前年にヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を合成したようなタイトルだったからだ。
サザンオールスターズの楽曲のほとんどを(KUWATA BANDも含めて)桑田佳祐が作詞作曲を担当している。キャッチーな歌詞、心に沁みるフレーズ、意味不明のことば、こうした要素から歌詞は成り立っている。心に沁みるフレーズは桑田でなくても書くことができる。ずっと気になっていたのはキャッチーで意味不明なことばである。ギターで自作の曲を弾きながら、心に浮かんだことばを「風まかせ」に羅列しているようにも思える。
もしかすると桑田はボーカルを楽器の1パートと考えているんじゃないか。歌声はキーボードやパーカッションのようにバンド編成のひとつ。だから楽曲に与することばを声で構成する。そうすることでボーカルは音楽の一部となって、全体としての楽曲に貢献する。けっして邪魔しない。主張もしない。
それって素晴らしいことだ。

2022年12月11日日曜日

宮台真司『社会という荒野を生きる』

在宅勤務をはじめて1年半ほど経た昨年の10月くらいから運動不足が気になりだした。下手をするとひと月に2~30キロメートルくらしか歩いていないときもあった。スポーツウェアのアンダーアーマーが提供するスマホアプリを導入して、意識的に歩くようにした。目標は低めで月20キロ。その後25~35キロくらい歩くようになった。かれこれ1年以続いている。大学で体育を専攻した高校の先輩が1キロ10分台で歩くのがいいという。なかなか難しい。
11月29日も16時過ぎから歩きに出る。すでに日没は16時半頃。1時間ほど歩いて(だいたい6キロくらい)、帰る時分にはもう真っ暗である。歩き終わってテレビをつける。
16時15分頃、八王子市東京都立大学南大沢キャンパスで男性が刃物のようなもので首、背中、腕などを切りつけられ、重傷を負った。犯人は逃走。その後被害者男性は、同大教授で社会学者の宮台真司だとわかった。授業を終え、キャンパス内の駐車場に向かう途中だったという。
ちょうどこの本を読みはじめたところだったのでびっくりした。その後のニュースで12月7日に退院。防犯カメラに犯人らしき人物が映し出されているようだが、まだ逮捕には至っていない。日没前、あたりはかなり暗くなっていたのではないかと思う。
10月に立憲民主党福山哲郎との対談をまとめた『民主主義が一度もなかった国・日本』を読んで、もう少し宮台真司を読んでみたいと思った。わかりやすそうでいてわかりにくい。ラジオやネットで見聞きする著者の印象にくらべて難解な著作が多いと思う。自身に堆積された深い知識から構築される論理を理解するのがひと苦労であるし、独特の表現、言い回しがあって、慣れないとわかりづらい。もちろん学者であるから語り口は客観的であり、ひとつひとつの術語にも適切な定義が施されている。
今は宮台真司の鋭い舌鋒が復活するのを待つばかりである。

2022年12月4日日曜日

夏目漱石『文鳥・夢十夜』

その日はいつものように12時半過ぎに布団に入った。少しだけ読みかけの本に目を通したが集中できなかったのでイヤホンを耳にさしてラジオをつけた。ラジオ深夜便が世界の天気を伝えている。もう1時なのだ。
目が覚める。外はまだ暗い。ラジオから音はしない。いつも2時間で電源が切れるように設定してある。時計を見る前にラジオをつける。君が代が流れている。続いてスペイン国歌。まもなくカタールワールドカップ一次リーグE組の最終カードがはじまる。起きてテレビ観戦するのもありかなと思いつつ、そのままラジオで聴く。
スペインが先制する。ラジオで聴いている限り、さほど興奮することもない。静かに試合の流れを追う。ハーフタイムを迎える。トイレに行って口をすすいで、布団にもぐり込む。後半がはじまった途端に同点。ここでテレビ視聴に切り替える。テレビをオンにする前にラジオでは逆転ゴールを伝えていた。
夏目漱石晩年の中短編を集めた新潮文庫を読む。胃を患った漱石が痛々しい「思い出す事など」や「文鳥」「永日小品」など歳を重ねたせいか、身体が弱ってきたせいか、心やさしいおだやかな漱石がいる。
日本対スペイン。後半早々逆転に成功したものの、残り時間はまだ40分近くある。負けているときの45分はあっという間だが、リードしていると長い。ボールを支配するのは圧倒的にスペイン。日本が守りに入ったわけではなく、スペインの方が個人技や組織プレーでは格上なのだ。逆転後、はらはらするために起きてテレビの前に座ったみたいだ。アディショナルタイム7分を含めた逆転劇後のゲームを固唾を飲んで見守った。危ない場面もあったが、なんとかリードのまま試合終了。無敵艦隊スペインにワールドカップで勝利するなんて、日露戦争以来の快挙ではないかと思う。
時刻はもうすぐ午前6時になろうとしていた。ここで目が覚めて「夢だったのかと」とならなくてよかった。

2022年11月28日月曜日

池田清彦『SDGsの大嘘』

11月も終わろうとしている。
明治神宮野球大会もいつしか終わっている。大学の部は明治が優勝。高校の部は大阪桐蔭。昨年続く連覇である(高校の部では初)。昨年は秋春を連覇し、夏に三冠をめざしたが、準々決勝で下関国際に敗れた。公式戦で負けたのは昨春の近畿大会決勝智辯和歌山以来だった。今年も大阪府予選、近畿大会を勝ち上がり、明治神宮大会で優勝。松坂大輔の横浜以来の秋春夏制覇をめざすスタートラインに今年も立つことができた。
野球が終わったと思ったらサッカーがはじまった。2022年のワールドカップはカタール開催。いつものように6月開催にすると猛暑であるために11月開催なのだという。それでも連日30℃を超えている。スタジアムは冷房設備があるらしく、報道陣は寒いくらいに空調が効いているという。
一次リーグ初戦のドイツ戦。ヨーロッパの強豪チームにおそらくはコテンパンにやられてしまうのだろうと昔ながらの俄かサッカーファンは思っていた。後半に入って、攻撃的な布陣をしいて、ドイツ守備陣のリズムを狂わせたことが同点、逆転ゴールを生んだという報道である。ドイツは自滅したのである。
二戦目のコスタリカ戦。積極的に攻める日本であったがなかなか得点に結びつかない。サッカーという競技は基本はしっかり守る、ディフェンス主体であるべきで、チャンスに恵まれたら一気に攻める。コスタリカはヨーロッパ伝統のサッカースタイルを貫くチームだった。点の取れない日本はディフェンスで致命的なミスを犯す。ドイツ同様、日本も自滅した。
池田清彦の本を以前一冊読んだ。ラジオ番組で紹介されていた著書だった。
この本もおもしろい。いま誰もが注目しているSDGsに盾を突く。利権が見えかくれしているとか、科学的知見に乏しいとか。さもありなんと思う。
ちなみにこの本はあまりマスコミで取り上げられない。SDGsに対する同調圧力のなかでは致し方ないことなのだろう。

2022年11月17日木曜日

日野行介『原発再稼働 葬られた過酷事故の教訓』

「デジタル化」「がん治療」「原発」の3つに共通していることは、はじめたらずっと続けていかなければならない、終わりがないということだ。
コンピュータ。CPUが速くなる。メモリもそれにともなって容量が必要になる。ハードウェアの高速化はソフトウェアの可能性を高めていく。ほんの短いスパンでこうした進化が続く。性能がよくなっても価格はすぐに落ち着いて安価になる。10年前のPCならば何とか使えるかもしれないが、20年前のものだともう使い物にならないだろう。がん治療も同様に次から次へと新しい治療法が生み出される。放射線治療だとか抗がん剤であるとか、くわしいことはわからないが、治療の選択肢は増え、高度化しているようである。
原子力発電に関しては、現時点での知見ではどうにもならない。燃料廃棄物の処理でさえままならない。頭のいい人たちが考えついた未来のエネルギーだったのかもしれないが、プラスチック同様、その先どうする?という視点が圧倒的に欠けていた。もちろんこの先、世の中というか科学技術がどれほど進歩するかわからない。環境にやさしいプラスチックもできるかもしれない。パッパッとふりかけるだけで放射能の放出をなくしてしまう物質がつくられるかもしれない。放射能に汚染された水を海水でうすめて、海に放出するなんて子どもじみた発想もなくなるかもしれない。でももうはじめてしまった。
これら、終わりなき旅の根本にあるのは経済をまわさなければいけない、成長させなければいけないという考え方だ。地方の鉄道は100円稼ぐのに何万円もかかるから、廃止しようなどと議論されている。インフラってその地域に住む人たちの利便性をはかることが主眼じゃないのか。そこから利益を生み出そうという発想が健全な感じがしない。経済をまわさなければ人々に利便性や快適な生活を与えられないのだろうか。
何か間違っているような気がしてならない。

2022年11月11日金曜日

高野光平『発掘! 歴史に埋もれたテレビCM 見たことのない昭和30年代』

一般財団法人ACCが日本広告主協会、日本民間放送連盟、日本広告業協会によって組織されたのが1960年。テレビコマーシャルのすぐれた作品を表彰するACC賞(ACC CMフェスティバル)はその翌61年からはじまった。それまでアニメーションによるCMが多数を占めるなか、実写 CMが増えてきたのが昭和30年代後半である。テレビCMがより身近なものになって、その質が意識されるようになった時代なのかもしれない。
以前、ある広告大手のクリエイティブディレクターが「忘れらてしまうメディアでどう忘れさせないようにするかがCM制作のいちばんのポイント」というようなことを語っていた。印刷媒体の広告と電波媒体のそれの大きな違いはここにある。
著者は茨城大学人文社会学部教授。昭和草創期のテレビコマーシャルに関する著書も多い。昭和30年代のテレビCMはそのほとんどが現存していない。まさに「忘れられて」しまった広告なのである。それでも方々探しまわってアーカイブを見つける。ほとんどが日本最古のCM制作会社といってもいいであろうTCJ(Television Corporation of Japan)に保管されていたというのだ。京都の大学でアニメーションの研究資料として貸与契約を交わしてデジタル化したらしい。
昭和30年代半ばに生まれた僕には本書で紹介されているCMはまったく憶えがない。ただ自分が生まれて物心がつく前、大人たちはこんな暮らしをしていたんだなと思うだけである。
著者は言う。昭和30年代の硬直化した歴史イメージをときほぐし、忘れられた消費生活のプロトタイプ=昭和30年代の多様性とディテールを重視するために歴史に埋もれたテレビCMを掘り起こしているのだと。
誰の記憶にも遺されていないテレビCMたちから時代を読み解くという作業は興味深い反面、途方もない仕事である。テレビCMの考古学といってもいいだろう。

2022年11月6日日曜日

山内マリコ『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』

今年は松任谷由実デビュー50年にあたるという。テレビやラジオに出演する機会も増えている。アーティスト生活50周年を記念するアルバムも発売された。タイトルは「ユーミン万歳!」、CD3枚に51曲が収録されている。デビュー50年という俳優や歌手、タレントはこれまでも多く見てきたけれど、ユーミンよ、おまえもかと思うと少し感慨深い。
7月にラジオでリスナーのリクエストで選ぶユーミンのベスト50という企画がオンエアされた。1位は「守ってあげたい」だった。50年も第一線で活躍しているとファンの年齢層も幅広い。ベストを選ぶというのもなかなかたいへんだ。僕の世代の前後、70年代後半から80年代前半に高校生や大学生だった人たちなら、アルバム「SURF&SNOW」「PEARL PIACE」「VOIGER」「NO SIDE」あたりに収録された楽曲の人気が高いのではないかと思う。僕はどちらかというと荒井由実時代の曲が好きで、「ひこうき雲」~「14番目の月」をよく聴く。
ラジオを聴いていたら、作者である山内マリコが出演している番組があって、この本が上梓されることを知った。
幼少のユーミンが成長して、アルバム「ひこうき雲」を完成させるまでのお話。もちろん小説と銘打っているとおり、フィクションであるだろうけれど、どこまで創作でどこまで事実かわからない。ユーミンは少しずつ大人になっていくなかでその後のヒット曲のヒントになるような出来事や風景に出会う。それはそれでありそうな話であるが、これらは創作のにおいがする。散りばめられたエピソードの数々は丹念に取材をしたのだろう。後々にうまくつながるようになっている。60年代後半の音楽シーンも精細に調べられている。
足の悪い同級生が登場する。シングル曲「ひこうき雲」誕生に関係している。ここがいちばん印象的だった。このエピソードが創作であるとしたら、とてもいい小説だと思う。

2022年10月30日日曜日

宮台真司、福山哲郎『民主主義が一度もなかった国・日本』

このあいだ杉並区内には3つの川が流れていると書いた。その昔はもっと小さな河川がたくさんあった。そのひとつが桃園川。
桃園川は杉並区天沼の弁天池を源流とし、さらに上流の西側から流れる用水などと合流して東進する。もちろん今は暗渠になっている。流れは弁天池から西南に向かい、JR阿佐ヶ谷駅近くで線路を越える。ちょうどそのあたりから桃園川緑道と呼ばれる遊歩道が整備されている。遊歩道はほぼ東進するかたちで高円寺駅前の先で環状七号線を渡り、しばらくすると中野区に入る。中野区内では中野川と呼ばれていたそうだが、暗渠化されたのが昭和40年くらいのことだから、おぼえている人も少ないに違いない。大久保通りと平行して東進を続け、東中野駅南側の末広橋で神田川と合流する。
先日緑道を歩いてみた。東中野駅から、合流地点をめざし、そこから川上へ遡上した。思ったより蛇行が少ない。渋谷川などもそうだが、都会の川はのびのびしている。
ラジオにときどき出演する宮台真司という社会学者がいる。ちょっと強いことばを選んで、鋭い批判や論評をくり広げる。社会学者、東京都立大教授と紹介されていたが、広範かつ深い知識を持ち合わせているようである。社会学の範疇に留まらない幅広いマトリックスを持っている。それでいてわかりやすい。腑に落ちる。著作も多いようである。読んでみることにする。
この本は民主党が政権交代を果たした2009年に上梓された。同党参議院議員福山哲郎との対談形式。宮台真司の主張はきちん理論武装されていて、わかりやすいが、ときどき難しい。くり返し読んでイメージする。ああ、ここのところ今度ラジオでわかりやすく話してください、とお願いしたいところである。まあ読み慣れていないということもあるだろう。これから少しずつ読んでいって、著者の主義主張を学んでいくしかない。
阿佐ヶ谷駅までたどり着き、いつもの蕎麦屋で鴨せいろを食べた。

2022年10月25日火曜日

夏目漱石『坊っちゃん』

高校バレーボール部のOB会が3年ぶりに開催された。コロナの影響で見送られてきたのである。
それまでは母校の体育館を借りて、現役とOB、OGとの親睦試合を昼間に行い、夜は近くのホテル宴会場に移動して立食パーティーだった。今年は着席ビュッフェ形式で、アクリル板のパーテーションが設けられていた。ビールは注ぎ合うのは禁止で大先輩だろうがみな手酌。この3年間で天地がひっくり返ったような変わり様である。
大先輩といえば今回参加された最年長者は御年90歳だった。母校は大正時代に創立した東京市の中学校である。戦後東京都立の中学校になり、学制改革の際、東京都立の高等学校になった。現在は千代田区立の中高一貫校である。
母校の体育館を借りるというのがこれまた高いハードルになっている。例年7月に使わせてもらっていたが、コロナ以降、学校側の了解が得られないでいる。アフターコロナ時代にバレーボールで懇親というのは難しいのかもしれない。まあOB、OGだけ集まるのなら校外施設の体育館(宿泊もできる)もあるのだけれど。
『坊っちゃん』を読んだのは小学生の頃だ。小学生向けのものを読んだのだろう。ちゃんとした『坊っちゃん』を読むのははじめて。大人向けの『坊っちゃん』はそれなりに大人向けになっているというか、大人の事情が垣間見える。そしてちょっとだけ艶っぽくもある。
それにしてもこの一作で小学生にまでその名を知らしめた夏目漱石という小説家は偉大だ。文豪と呼ぶにふさわしい。その後漱石を読んだのは『こころ』である。おそらくは教科書に載っていたのだろう。自らすすんで読んだ夏目漱石は『三四郎』だと思う。漱石に突如興味を抱いたのではなく、鉄道旅の書籍に触発されたと思われる。川本三郎とか、関川夏央とか。
最近は少し大人になったいうか、ものごとをわきまえるようになったというか、漱石の著作を読んでいる。自分で自分をほめてあげたいと思う。

2022年10月23日日曜日

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

杉並区内には3つの川が流れている。
昔はもっとたくさんの中小河川があった。埋め立てられたか暗渠になって、今ではそのほとんどが遊歩道などになっている。3つの川は北から妙正寺川、善福寺川、神田川。いずれもおおざっぱに言えば西から東に流れている。善福寺川は中野富士見町あたりで神田川に合流し、妙正寺川も落合で神田川に文字通り落ち合う。
善福寺川沿いを歩いてみる。大きく蛇行をくり返しているところがこの川の魅力だ。杉並区の中心部に多くの緑地や広場、公園、運動場があるのもこの川が流れているからである。妙正寺川も蛇行しているが、大きく蛇行をはじめるのは中野区に入ってから。
今回歩いたのは環状八号線の南荻窪から善福寺池まで。下流に向かえば、前述のように豊かな緑がひろがるのであるが、その日は上流をめざした。この間、善福寺公園までは緑地や公園などない殺風景な道が続く。小さな蛇行に沿って歩く。川幅がだんだん狭くなっていく。
右岸を歩こうか、左岸を歩こうか、迷いながら行ったり来たりをくり返すうちに善福寺公園にたどり着く。善福寺川は下の池(善福寺池は上と下とふたつの池がある)から小さな滝のような段差を伝って流れていた。
文化放送大竹まことのゴールデンラジオを聴いていたら、この本の著者、ノンフィクション作家石井光太が紹介されていた。センセーショナルなタイトルの本でもあり、ついつい聴きいってしまった。
国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」という4つの力からなる能力と文部科学省では定義づけられているという。著者は、以下のように述べる。「私が思うに国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎ出すのに必要な「心の船」だ。語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる」と。
以前読んだ藤原正彦『祖国とは国語』を思い出した。

2022年10月16日日曜日

牟田都子『文にあたる』

毎日新聞朝刊一面の目立たないところに「毎日ことば」という連載がある。間違いやすい言葉や表記の仕方が複数ある言葉、あるいは本来の意味のとおりに使われていない言葉などを取り上げている。問いを投げかけ、答えは紙面のどこかにといったクイズ形式である。新聞社の校閲部が担当しているのだろうことはすぐにわかる。
校正は主に文字や文章の誤りを正す作業で校閲とは書かれている文章の内容や意味の誤りを正す作業ということらしい。多少の違いはあるもののどちらも原作者の書いた文章を100%の状態で世の中に晒すという点では同じ作業と言えなくもない。出版社などでは校正の担当者が校閲的な作業も受け持つという。この本の著者もそのようである。
広告の仕事を長くしてきた。文字校正(モジコウ)は日常的な作業だった。とはいえ映像媒体の校正と印刷媒体のそれとでは緊張感が全然違う。テレビCMで表示される文字量と新聞広告やカタログなどではくらべものにならない。印刷されて残るものと時間がたてば消えてなくなる(忘れられてしまう)のと違いは大きい(最近はユーチューブなどに長くアップされているCMも多いが)。
表現物の校正くらい消耗するのが広告主に提出する提案書の校正だ。誤字脱字はもちろんのこと、表記にも気を遣う。クライアントのホームページに掲載されている文章を参照する。そこで「子供」と書かれていたら、「子ども」や「こども」にしない。理系の会社のパンフレットなどによくあるのはJIS規格に則った表記である。「デジタル」が「ディジタル」、「ユーザー」が「ユーザ」だったりする。
校正には正解がないとも言われる。それでいて100%を求められる。そして校正紙が世に出ることはない。この本のおもしろさは校正のテクニカルではなく、校正者の毎日が描かれているところだ。
そうか、校正ってTVCMの絵コンテやグラフィックデザインのサムネイルみたいな仕事なんだ。

2022年10月10日月曜日

池田清彦『40歳からは自由に生きる 生物学的に人生を考察する』

井の頭自然文化園で「黒沼真由美展 レースで編む日本のいきもの」が開催されている。こちらで飼育されている日本在来種の動物たちを解剖学的な正確さでレース編みした作品が展示されている。
生物学などとは無縁の人生だったが、生物学者の著書を読んでみる。先月、「大竹まことのゴールデンラジオ」(文化放送)に著者池田清彦が出演していたのをたまたま聴いたのがきっかけである。『40歳からは自由に生きる』とタイトル通りの主張をくりひろげる著者は生物学者。なぜ40歳からかというと最近の研究で人類の自然寿命は38歳くらいなのだそうだ。だから40を過ぎた後の余分な人生は何ものにも縛られることなく、自分で決めた規範に則って生きるべきだと。ただの思いつきであったり、経験談ではない。生物学的な論拠を持っているところがおもしろい。
節制などしてストレスを溜めこむのはよくないだの、がん検診を受けるなだのといったメッセージを発信する。40歳を過ぎると固有名詞が出てこなくなる。このことも記憶のメカニズムに沿って解説してくれる。固有名詞が出てこないのは、さまざまな経験をしてきたことの証であり、経験の量が豊かさを生むとすればその人が豊かな人生を送ってきたがゆえなのである。
人間は前頭連合野の働きで自我が生まれ、未来を見通す能力を持つとしたうえで「昆虫と長年つきあってきた身としては、死の不安や恐怖を覚えることがむしろ幸いに感じられる」とまで言う。「私たちの人生が面白いのは、いつか死ぬことを知っているからであり、(中略)有限の命であればこそ、そして、そのことを知っていて、そのことに恐怖するからこそ、今日楽しくすごしたことが、意義のあるものとなるのだ」と締めくくる。
破天荒な内容にも思われるが、すとんと納得できてしまう不思議な一冊だった。
ひさしぶりに黒沼真由美のレース編みアートを観たあと、吉祥寺駅近くの蕎麦屋で鴨せいろをいただいた。

2022年10月3日月曜日

太宰治『きりぎりす』

軽井沢ではNさんという方が現地の案内をしてくれる。
7月はじめに訪ねたときは浅間山と離山が望める気持ちいい場所というリクエストに対して、見晴台(長野と群馬の県境にある)まで案内してくれた。そしておいしい蕎麦屋に連れて行ってくれた。僕が蕎麦好きであるという情報がどこからかインプットされていたのかもしれない。
7月末に行ったときには横川駅まで連れて行ってもらった。碓氷峠鉄道文化むらでたくさんの鉄道車両にかこまれて楽しいひとときを過ごした。碓井峠のめがね橋も見ることができた。そして信濃追分のおいしい蕎麦屋に案内してくれた。
鉄道車両や鉄道遺産が好きな人だと思ったのだろうか、9月のはじめ、三回目の訪問時には北軽井沢駅に行ってみませんかとNさんから提案される。昔、軽井沢と草津をつなぐ草軽電鉄という路線があった。その駅舎がまだ遺されているという。
木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」を思い出す。日本初の総天然色映画である。
浅間山のふもとで育ち、東京に出てストリッパーになったリリィ・カルメンが帰郷してひと騒動を起こすといった娯楽映画。主演の高峰秀子が草軽電鉄で北軽井沢駅到着する。現存する駅舎には当時のおもかげが残る。Nさんはこんど機会があったら観てみたいと言っていたが、木下恵介監督、高峰秀子主演の映画を観るなら「喜びも悲しみも幾年月」「二十四の瞳」もおすすめだと伝えた。
新幹線のなかで太宰治の短編集を読む。中期の秀作短編集というところか。「姥捨」「畜犬談」「善蔵を思う」「佐渡」などなど。甲府で結婚し、やがて三鷹に落ち着く。この時期の太宰は生涯のなかでも安定した一時期だった思う。
北軽井沢に向かう途中、白糸の滝も見ていきませんかとNさんが言う。いわゆる観光名所には興味がなかったが、案内してもらってよかった。自然は偉大なアーティストだと思った。この日もNさんはおいしい蕎麦屋に案内してくれた。

2022年9月30日金曜日

近田春夫『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』

作曲家筒美京平が亡くなったのは2020年。
流行歌は人並みに好きで、そのつくり手には興味があった。ただ、僕が考えるつくり手は作詞家であり、作曲家にはさほど関心を持てなかった。
筒美京平の名前は以前から知っていたけれど、強く印象づけられたのは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だろうが、それも作詞家松本隆によるヒット曲というイメージがある。松本隆に関する本は何冊か読んでいたこともある。
筒美の死後、テレビ、ラジオで追悼番組が特集される。そこで彼の遺した楽曲にあらためてふれる。先ほども書いたように僕はあまり作曲家について知識がない。音楽は目に見えないし、僕のような素人には言語化するのが難しい。流行歌の作曲家として名前が浮かぶのは加藤和彦、荒井(松任谷)由実、細野晴臣、大瀧詠一、中島みゆきなどなど。フォーク、ニューミュージック、Jポップ(これらはどこで線引きしていいか今となってはわからない)の人々である。
追悼番組を通じて、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、ジュディ・オング「魅せられて」をはじめとするヒットメーカーだと知る。ああ、この作家の曲づくりってこうだよね、みたいなクセがない。どの曲も誰が書いたかわからないような新鮮さがある。その秘密を解き明かすのが近田春夫である。
近田によれば、筒美京平はクラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど洋楽を読み解くスキルを持っていて、それらをベースに新たなサウンドを構築する能力に長けていたという。歌い手の声に合わせて、時代の変化に即して、人々が求める楽曲をほぼ無尽蔵に生産できたという。
彼の作品に彼らしさがないのは彼のなかに蓄積されたアイデアソースの豊富さゆえなのである。その才能を少年時代から培ってきた筒美京平はやはり稀代の作曲家なのであろう。

2022年9月25日日曜日

壺井栄『二十四の瞳』

妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池を源としている。新宿区の下落合あたりで神田川と合流する。妙正寺池から下流に向かって1キロほどで中野区になる。ほどなく西武新宿線鷺ノ宮駅にたどり着く。ほぼ東北東に向かって流れていた川はこの辺りから南へと大きく流路を変える。さらに2〜300メートルほど川沿いを行くとオリーブ色に塗られた橋が見えてくる。名前もオリーブ橋という。
全長9.7キロのこの川には90くらいの橋が架かっている。たいていは地名に基づく名前が付けられているので、オリーブ橋というのは奇抜な命名だと思っていた。
調べてみるとどうやらこの橋の近くに壺井栄が住んでいたというのである。オリーブ橋は、小豆島出身の壺井にちなんで名付けられたのだ。橋の南側には中野区立若宮小学校があった。今は統合されて同区立美鳩小学校になっている。若宮小学校は壺井の出身校である小豆島町立苗羽(のうま)小学校と姉妹校の提携を結んでいた。この辺り一帯は壺井栄の町なのである。壺井はそれまで世田谷に住んでいた。隣家の住人は林芙美子だったという。鷺宮に転居したのは1942年。
というわけで『二十四の瞳』を読んでみる。子どもの頃読んだ気もするが、読んでいない気もする。いずれにしてもまったく記憶がない。以前観た木下恵介監督の映画の方が記憶に残っている。主演は高峰秀子、大人になった磯吉を田村高廣が演じていた。映画では大石先生と子どもたちとの(卒業後も含めて)ふれあいの物語が色濃く印象的に描かれているが、原作を読んでみると瀬戸内海べりの寒村にも先の戦争が大きな影響を及ぼしていることがわかる。壺井栄が残しておきたかったのは戦時下の、銃後の日本だったのではないかと思う。
妙正寺川の最初の橋は妙正寺公園の入り口にある落合橋である。ひとつずつ橋の数を数えながら、下流に歩いていくとオリーブ橋は24番目にあたる。おそらく偶然だとは思うが。

2022年9月20日火曜日

堀辰雄『風立ちぬ・美しい村』

今年せっかく軽井沢まで出かける機会があったので、軽井沢らしい小説でも読んでみようと思った。とっさに思い浮かぶのはやはり堀辰雄である。厳密にいえば「風立ちぬ」の舞台が軽井沢だと知ったのは宮崎駿監督の映画「風立ちぬ」である。そしてそのアニメーション映画に興味を持ったのは堀辰雄的な興味からではなく、吉村昭の『零式戦闘機』からである。
「風立ちぬ」は苦手な小説である。映画にしろ小説にしろ、不治の病にまとわりつかれたストリーは好きじゃないのである。斎藤武市監督の「愛と死をみつめて」なんて見ちゃいられない。かなしくかなしくて仕方ないのである。
それに比べると「美しい村」はよかった。旧軽井沢の、ちょっとしたガイドブックになる。主人公の「私」はつるや旅館に滞在する。旅館の裏手にかつて水車があったという。そのせいでつるや旅館の裏の道は水車の道と呼ばれている。旧軽井沢銀座通りの北西側とほぼ平行している小径である。「私」はつるや旅館の中庭からこの道に出て、何度となく行き来する。
先日、軽井沢を訪ねたとき、旧軽銀座を歩いた。つるや旅館の前も通った。陽が射していたにもかかわらず雨が降ってきてびっくりした。残念ながらその日は水車の道を歩かず、旧軽銀座から雲場池まで歩き、雲場池から離山まで歩いたのである。離山をめざしたのは近衛文麿の別荘を見たかったから。離山に着いた頃には雨は小止みになっていた。
近衛文麿の旧宅といえば、荻窪にある荻外荘が知られている。善福寺川の河岸段丘の上に建つこの建物は現在復元計画がすすめられていて、2024年には公開される見通しであるという。軽井沢の別荘で見たような調度品が再現されていたらうれしい。
せっかくつるや旅館の前まで行って、その中庭も見ず、水車の道も歩かなかったのは、ひとえに僕がこの本を読んでいなかったからである。教養のない人間は時としてこのような失態を演じるのである。

2022年9月17日土曜日

笹山敬輔『ドリフターズとその時代』

ザ・ドリフターズの番組が待ち遠しかったのは、僕より少し年下の世代かもしれない。
あるいは僕がひねくれた子どもだったのかもしれないが、『8時だョ!全員集合』の放送がはじまったとき小学校の高学年になっていた僕は、ドリフの笑いは子どもじみていたように思えた。
『全員集合』はいちどお休みする。ザ・ドリフターズに代わって、ハナ肇とクレージーキャッツが新番組『8時だョ!出発進行』を担当する。幼少の頃からクレージーの笑いに慣れ親しんできた僕はこの番組に期待した。ドリフよりクレージーの方が子どもから見ても断然大人に見えたのだ。
結果は散々だった。『出発進行』は、安直にクレージーをドリフの代役にしただけでおもしろくとも何ともなかった。舞台上でのドタバタコントはクレージー向きではなかったし、クレージーらしいクールさは感じられなかった。土曜午後8時のテレビからクレージーが姿を消したのは半年後だった。
もちろんこうした舞台裏も本書に記されている。けれども著者がいちばん伝えたかったのは、いかりや長介と志村けんの類似性と差異であると思う。
コントや笑いに関して厳格で自らの姿勢や方法論を貫くという点でいかりやと志村はよく似ている。対立することも少なからずあったはずだ。70年代半ばにドリフに加入した志村は「東村山音頭」でブレークする。以後、ザ・ドリフターズはいかりや長介のドリフと志村けんのドリフが混在することになる。
いかりやと志村の違いはひとつには世代の問題といえる。ふたりの年齢差は20歳近い。音楽の嗜好も異なる。ハワイアン、ジャズ、カントリーウェスタンのいかりやに対し、志村の好みはソウルミュージック。レコード、CDのコレクションは膨大だったという。
笑いの求道者としてのふたりはよく似ていると本書には書かれているが、あるいは付き人時代からいかりやを観察してきた志村がいつしかいかりやと化したのかもしれない。

2022年9月8日木曜日

藤田久美子『松本隆のことばの力』

今年になって何回か軽井沢を訪れている。
それなりに用事があって出かけているのであまり観光はしていない。そもそもが軽井沢は、僕にとって降ってわいたような土地であり、多くの観光地、リゾート地同様これまでまったく無縁の町であった。軽井沢まで出かけて、どこか行きたいところはありますか、見てみたいところはありますかなどと訪ねられても咄嗟に答えが思い浮かばない。これが長崎だったら、グラバー邸ですかね、松山だったら道後温泉ですかねなどと恥ずかしながらわずかな知識を絞り出すことはけっして不可能ではない。これまで軽井沢とあまりに接点のない生活を送ってきたせいか、知識がないどころか興味関心がない。
宿所で地図を見る。今ではタブレット端末やスマートフォンで見ることができる。近くに見どころありそうなものはないか眺めてみる。万平ホテルが目に入る。調べてみると由緒あるリゾートホテルのようである。宿所から徒歩15分。朝の散歩にちょうどいい距離だ。
翌朝、川沿いの道を歩いてみる。矢ヶ崎川という。まわりはほとんど別荘か、ときおり企業の保養施設のような建物が見える。木立のなかをリスが走っている。
万平ホテルが見えてきた。フランスの、ドイツとの国境に近いアルザス地方で見かけるような建物である。もちろんアルザス地方に行ったことはいちどもない。軽井沢の町をクルマで移動しているとこのホテルを模した建築物が多いように思った。ある意味軽井沢を象徴する建物なのだろう。
万平ホテルはジョン・レノンの愛した宿として、また宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」の舞台として知られる創業130年の名門ホテルである。
「風立ちぬ」といえば、松本隆が作詞し、大瀧詠一が作曲した松田聖子のヒット曲があった。そんなことを思い出す。ここで堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出すのが教養ある読書人なのであろうが、そのうちに読んでみたいと思っている。

2022年9月4日日曜日

太宰治『新ハムレット』

カフェ・ギャラリー軽井沢はなれ山クラブで行われている中嶌龍文展を観る。
中嶌龍文という日本画家は知らなかったが、古来日本に伝わる大和絵という技法を用いて創作を続けている。今回の展示作品のほとんどはゴッホ作品の模写である。ゴッホは日本の浮世絵に強い関心をもち、いくつも模写したという。歌川広重の模写2作品と渓斎英泉の作品は現在も残されている。
ゴッホが広重を模写したように、中嶌龍文はゴッホを模写する。日本絵画に影響を受けた巨人の作品を日本絵画としてよみがえらせている。なかなかおもしろい企画だ。自画像はあくまでもゴッホの自画像であり、ひまわりもゴッホのひまわりなのだけれど、そのなかに中嶌龍文の味わいや筆づかいを感じることができる。作家の意志が感じられる。単なる写しではなく、模写という手法による創作なのだ。
小説の世界でも自身のオリジナルではない原作を模写する手法がある。模写というとただ書き写すだけみたいに思われるが、実際は新たな資料や着想を得て、書きなおしたものと解釈していい。
大作でいえば、吉川英治の『新・平家物語』がそうだろう。円地文子の『源氏物語』も現代語訳ではあるけれど、そこに書き手の読み方や解釈が生きている。幕末から明治維新にかけての歴史も多くの作家によって再構築が繰りかえされている。歴史というオリジナルがおもしろければおもしろいほど解釈は多様になって、新たなドラマが再生産される。
原作を読みなおして、新しい作品にしていくのは太宰治の得意とするところだ。『お伽草子』「右大臣実朝」「走れメロス」、いずれも太宰の作品として楽しめた。「新ハムレット」は(当然のことながら)シェイクスピアの名作戯曲の太宰版。随所に太宰らしさがいきている、などと思うほど僕は太宰治の読者ではないけれど、この作品は彼が監督をしたらきっとこんな映画になるのだろうと思わせてくれるものであった。

2022年8月26日金曜日

太宰治『グッド・バイ』

先月軽井沢を訪れたとき、横川駅まで行ってみた。
碓井峠越えで知られた横川も今は分断された信越本線の終着駅である。信越本線は他にも篠ノ井駅から長野駅、直江津駅から新潟駅の3つパートにわかれている。
横川駅前には碓井峠鉄道文化むらがある。もともとあった横川機関区(後に横川運転区)の敷地に機関車や電車など多くの車両が遺されている。横川で思い出されるのはアプト式。くわしい説明は避けるが歯車を力を借りて急勾配を登るシステムである。専用の電気機関車がつくられた。ED42という形式で施設内の車庫に保存されている。きちんとメンテナンスされているようでいざとなったら動かせるものと思われる。もうひとつ碓井峠の名物機関車といえばEF63。横川駅に到着した電車特急は2台のEF63に牽引されて峠を越えたのである。この機関車も動かせる状態で保存されている。事前に講習を受ければ、運転することもできるという。
そのほか、屋外には日本全国で活躍した機関車をはじめとした車両が展示されている。雨ざらしになって塗装が剥げかかっている。少しかなしい気持ちになる。とはいうもののこれだけの機関車が並んでいると鉄道の旅が今より時間がかかり、不便だったにもかかわらず、よろこびやかなしみやあらゆるものを乗せて運んでいた時代を思い出させる。僕が眺めているのは鉄道車両ではなく、過ぎ去っていった鉄道の黄金時代ではないかとさえ思えてくる。
太宰治を読みなおす旅を続けている。
太宰の作品はほとんど戦中に書かれている。新潮文庫の『グッド・バイ』には表題の遺作のほか、戦後に書かれたすぐれた短編が収められている。いよいよこれから太宰治の戦後がはじまるという期待感をもたせる作品集であるが、まるで平和な日本を生きるのが照れくさかったかのようにこのあと命を絶つ。
生きていたら「グッド・バイ」以上の作品が書けたかもしれない。書けなかったもかもしれない。

2022年8月21日日曜日

西武アキラ(絵)こざきゆう(文)矢野貴寿(企画・原案)『いえのなかのぼやき妖怪ずかん』

20年くらい前、外資の保険会社のテレビCMをつくっていた。
いつものCMプランナーが大阪から来たという若いコピーライターを紹介してくれた。彼の書いたナレーション原稿をもとに企画の打合せをし、いつしかその仕事は終わっていた。手頃な保険料、手厚い保障をタレントが一方的に語り、フリーダイヤルの番号に資料請求を促すCMだった。収録の現場で熱心にモニターを見入っていた(聴き入っていた)コピーライター氏を思い出す。
少し後で僕が主にテレビCMを担当していた製薬会社のラジオCM原稿を彼が書いていたことを知る。広告主の言いたいことを20秒にまとめさえすればいい。つくり手にとっておもしろくない仕事だ。若きコピーライター氏も会社員だし、こういう仕事もこなさなければならないのだろうなあと思っているうちに、彼が宣伝会議賞(というコピーライターの登竜門的な賞がある)を獲ったと聞く。やるなあ、と思っていたら、今度はTCC(東京コピーライターズクラブ)新人賞を受賞する。そして大阪へ帰って行った。そのわずかな東京勤務時代に僕はこの本の原案を担当した矢野貴寿と出会ったのである。
その後も僕は矢野貴寿の仕事に注目していた。電通のコピーライターとしては当然なのかもしれないが、とにかく勉強熱心なのである。人一倍努力家である彼の書くコピーはけっして奇抜なものではない。人をよく観察していて、ああこれってあるよねといった身近なシーンを見い出しては静かに語る。すぐれた目と耳を持っていることはそのコピーを見ればわかる。
この絵本もそうだ。妖怪は非科学的存在。見えないものの見える化された存在だ。心のなかで何となくもやもやしていた気持ちをさりげなく顕在化する。これって「気づき」をたいせつにする矢野貴寿のコピーライティングの作法だ。
矢野貴寿のなかには企業の課題を見出し、コミュニケーションをなめらかにする妖怪がきっと、棲んでいる。

2022年8月15日月曜日

太宰治『惜別』

8月もあっという間に半ばに差しかかり、甲子園もいよいよ三回戦。
先日、友人の四日市俊介が早朝の東海道新幹線に乗って観戦に行ったという。3年前、すなわち新型コロナ感染拡大以前にはよく野球の試合を観に行ったが、最近はとんとご無沙汰である。調べてみると最後に観た試合は2019年の明治神宮野球大会。高校の部準決勝、中京大中京対天理である。翌年春の都大会はまだ感染拡大防止のためのルールづくりが決められていなかったので観戦することはできたのだが、私的に都合がつかないまま、緊急事態宣言が発出されたのである。
さて、今夏の甲子園。注目は当然、大阪桐蔭である。昨秋近畿大会(大阪府予選も含めて)優勝、明治神宮大会優勝そして今春の選抜大会も優勝。春季近畿大会は決勝で智辨和歌山に敗れたものの、ここまで公式戦の負けはこれだけ。このまま夏を征すれば、1998年松坂大輔がいた横浜以来の秋春夏連覇となる(ちなみに横浜は春季関東大会も優勝していて、公式戦無敗だった)。
「巨人の星」と「あしたのジョー」は少年時代の愛読漫画だった。原作は梶原一騎、高森朝雄(これは同一人物である)で作画は川崎のぼる、ちばてつやだった。ここのところ暇があると太宰治ばかりを読んでいる。先日『お伽草子』を読みなおしてみて、太宰という小説家はある意味、劇画家ではないかと思った。もちろん自分のオリジナル作品も多く書いているが、原作を与えられて自分なりに解釈を加え、脚色することで俄然おもしろい作品にしてしまうすぐれた能力を持っている。自身の原作だとどうしても身のまわりの日常や思い出にとどまってしまう。それはそれでおもしろいのではあるけれど、原作に対して作画することで彼の語り部としての才能が遺憾なく発揮される。
「右大臣実朝」をはじめて読んだ。なかなかの力作である。やはり劇画家として書いた「走れメロス」が今だに読み継がれているのがわかる気もする。

2022年8月7日日曜日

太宰治『お伽草子』

先月、軽井沢にオープンしたカフェ・ギャラリー軽井沢はなれ山クラブ
第一回の展示を終え、7月24日から第二回ケン・ドーン展が開催されている。ケン・ドーンといえば1989年からマガジンハウスの雑誌「Hanako」の表紙イラストレーション(ロゴデザインも)を10年に渡って描き続けたオーストラリアのアーティストである。当時20~30代だった者たちにはたいへんなつかしい。
初日に軽井沢まで出向いてケン・ドーンのまばゆいばかりのイラストレーションを観た。真夏のシドニー湾に陽光がふりそそいでいる。ちょうどHanako時代の作品であろうか、30年前のにおいがする。軽井沢の小さなギャラリーがこれほどまでにシドニーの夏色に染められているなんて外からは想像もできないだろう。
展示作品はシルクスクリーンで刷られたものでおそらくそう多くは残っていないはずだ。訊いてみると原画も残されているかもわからない。もしかするとケン・ドーン最後の90年代になるのではないだろうか。
ケン・ドーンは1940年生まれ。今年で82歳になる。まだまだ元気で創作活動を続けているという。90年頃、彼はセイコー電子工業(現セイコーインスツル)という日本企業のテレビコマーシャルに出演している(セイコー電子工業はかつて第二精工舎と呼ばれ、亀戸に大きな工場を持っていたと記憶している)。オーストラリアに撮影に行ったスタッフの話を聞いたことがある。もともとケン・ドーンは世界的に著名な広告会社のアートディレクターだったこともあり、制作者の意図やねらいをすぐに理解してくれて、撮影はなごやかな雰囲気に包まれ、いたって順調だったという。
太宰はこの短編集を防空壕のなかで書いたという。すぐれた語り部としての太宰にうってつけの仕事だったに違いない。
ケン・ドーンと太宰治。ほぼ接点はないが、ここまで書いてしまったので、このままアップするとしよう。

2022年8月3日水曜日

延江浩『松本隆 言葉の教室』

まだ学生だった1981年にはディンギーなどという言葉は知らなかった。
大瀧詠一が歌ってヒットした「君は天然色」という楽曲を聴いていると、「渚を滑るディンギーで」という一節が登場する。渚を滑るディンギーとは何ぞやと思ったものである。ほどなくして当時のナンバーワンアイドル歌手である松田聖子が新曲「白いパラソル」で「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」と歌い出した。ディンギーとは何なのか。その頃は特段その意味を知ることが重要とも思えなかったのでほったらかしにしておいた。渚を滑って、風を切るディンギーの何たるかを知らないからと言って大瀧詠一や松田聖子の歌を聴くうえで差し障りはなかったのである。
この2曲。作詞はともに松本隆。
以前『阿久悠と松本隆』という本を読んだ。歌謡曲(流行歌、JPOPなどと呼び方はさまざまであるが)の代表的なつくり手に光を当てながら、ヒット曲の系譜が語られる。時代の渇きを歌にしてきた阿久と時代に寄り添うことのなかった松本隆が対照的に描かれている。
作品のなかでディンギーを軽快に操る松本隆は東京青山生まれ。東京に生まれ育ったものとしては(そうイメージしてしまうのも偏見かもしれないが)、青山生まれで青南小学校から慶應中等部に進んだと聞けば、どんな環境で育ったかたいてい想像がつく。裕福に育ったのだなと思う。裕福なんて言葉を使うと貧乏人のやっかみのように聞こえていやなのだが、松本は物質的に恵まれた生活をしていただけでなく、後に作詞家として大成するだけの素養を少年時代の読書によって育み、バンド活動においても細野晴臣、大瀧詠一ら才能豊かなメンバーと出会うだけのすぐれた資質を育んできたように思える。松本隆のよさのひとつは、何かに没頭できること、没頭できることを見い出す力があったことなのではないか。
あれから何年か経って、ようやくディンギーが小型のヨットと知った。

2022年7月20日水曜日

太宰治『パンドラの匣』

昔お世話になった広告会社のOB夫妻が軽井沢でカフェ・ギャラリーをオープンした。
夫妻とは今でも親交があり、ときどき簡単なデザインやイラストレーションなどを頼まれる。今回のカフェ・ギャラリーに関してもロゴマークのデザインやホームページ、フライヤーの制作を依頼された。オープン記念のパーティーに招待されて、生まれてはじめて軽井沢を訪れた。
もう30年以上前、小諸にあるペットボトルをつくる機械をつくる工場を訪ねたことがある。工場紹介の動画を制作するために打合せに行ったのである。当時は上野駅から信越本線経由金沢行きの特急列車に乗って行ったものだ。横川駅から2台の電気機関車が特急列車を牽引して碓氷峠を越えていた。
工場は当時JRの小諸駅北西側の小高い場所にあった。タクシーで10分ほどの距離である。最初の打合せでは動画制作にいたる背景やどんな動画にしたいか、何を強調してほしいかなど要望を聞いて、工場内をくまなく見学した。二回目の訪問の際にシノプシスをまとめて提案したと記憶している。実際の撮影は制作会社のスタッフにまかせたので僕が工場を訪ねたのは二回である(あやしい記憶ではあるが)。
先日軽井沢のカフェ・ギャラリーを訪れるにあたり、小淵沢から小海線に乗って小諸まで出た。軽井沢行きのしなの鉄道(昔の信越本線)の発車時間まで駅前をふらふら歩いてみる。駅前にあった蕎麦屋をさがしたりなどして。なんとなくではあるが、駅前はこんな感じだったななどと思い出されるのだが、駅前の蕎麦屋のあったあたりはまったく思い出せない。記憶とはいい加減なものである。
40年ぶりに読みかえす太宰治。
ここに収められている二編、「パンドラの匣」「正義の微笑」は太宰が描いた青春小説といわれている。太宰の明るい話、笑える話が好きだ。それにしてもこんな話だったっけと思うくらいまったくおぼえていなかった。
これもまたあやしい記憶である。

2022年7月14日木曜日

安西水丸『たびたびの旅』

ここ何年か7月になると南青山のスペースユイで安西水丸展が開催される。
以前は年末や年始が多かったと記憶している。それに加えて5月には和田誠とのコラボ展が行われていた。7月開催になったのは安西の誕生月だからではないかと思っている。
今年も「SWEETS&FRUITS」と題された恒例行事を見るべく青山まで足を運んだ。もし本人が生きていたら、「スイーツってちょっと恥ずかしいよね」と言いそうなタイトルである。
その日はラグビーの国際試合日本対フランスが国立競技場で組まれていたため、JRの千駄ケ谷駅には赤と白のジャージを着た人たちでごった返していた。その人の波を逃れるように少し遠まわりする。鳩森神社の方から外苑西通りに抜ける。安西がよく通ったカレーの店の近くを通る。青山ベルコモンズもテイジンメンズショップ(その前はVANジャケットだった)もなくなってしまった南青山三丁目の交差点をわたってスペースユイへ。
安西水丸のイラストレーションは多くを見てきたつもりだが、はじめて見る作品も多い。今回もほとんど見たことのないシルクスクリーンばかりだった。
会場に小さな本が積まれていた。本書『たびたびの旅』である。アマゾンでは7月18日リリースとあったが、思いがけず手に入れることができた。もともとこの本は1998年に刊行されている。おそらくは80年代後半から90年代半ばにかけてPR誌やパンフレットなどに掲載された文章だろう。青函連絡船に乗りに行ったり、ふぐを食べに行ったり、北欧の町を訪ねたりしている。安西水丸の、いちばん活動的な時代だったかもしれない。
スペースユイを後にして、叔父の墓参りをする。歩いてもそう遠くない場所にあるのだ。持参した線香を上げて、青山一丁目へ。駅ビルの地下にあるビアレストランでカツカレーを食べた。安西水丸のイラストレーションを見たあとはいつもカレーライスを食べたくなるのである。

2022年7月10日日曜日

太宰治『新樹の言葉』

ときどき列車に乗って旅がしたくなる。日本全国の鉄路をすべて乗ってみたいとか、最長片道切符で北海道から九州を旅してみたいといった大それた望みはない。今まで乗ったことがない路線を始発駅から終着駅まで乗車できればそれでいい。しかも必ずしも秘境でなければいけないということでもない。近場のローカル線でもいい。ずいぶん昔のことになるが、八高線に乗りたくなって八王子駅まで出かけ、高崎までこれといった風光明媚な景色を見ることもなく乗り通した。その後、こんどは烏山線に乗ろう、両毛線もまだ乗ったことがないなどと思いながら、しばらくローカル線の旅もしていない。
軽井沢に出かける用事ができた。
前日に休みを取って、遠まわりしてみることにする。中央本線で小淵沢に出て、小海線で小諸、しなの鉄道で軽井沢というルートである。6時間くらいかかる。新幹線なら1時間ちょっとであるから、これは贅沢な行程といっていい。
13時前に小淵沢到着。立ち食いそばを食べて、13時36分発の小諸行きに乗る。小諸着が15時52分。車窓から外の景色をながめながらの2時間16分。やはり贅沢な旅だ。
小海線は高原列車と呼ばれる。日本でいちばん標高の高いところを走るからだ。なかでも野辺山駅は日本の普通鉄道の駅としてはもっとも高いところにある。高原列車らしい風景が見られるのは清里から野辺山、小海あたりまでか。小淵沢発小諸行きの後半は、学生や佐久平で北陸新幹線に乗り換えるのであろう出張中の会社員などが増えてくる。観光列車から生活路線に変わってくる。
小淵沢までの特急列車のなかで太宰治の短編集を拾い読みする。そういえばこの本は甲府時代の作品が多く収められていたことを思い出す。太宰はやはりすぐれた日本語の語り部である。
定刻通り小諸駅に到着。かつての信越本線、現在のしなの鉄道に乗り換えて軽井沢へ。小諸は何度か訪ねた町であるが、それについてはまた後日。

2022年7月4日月曜日

太宰治『走れメロス』

太宰治というと没した場所である三鷹が注目を浴びることが多い。
たしかにJR三鷹駅を降りると記念碑がいくつかあり、太宰治文学サロンなる施設もある。少し歩くが禅林寺には墓もある。町ぐるみで太宰治ゆかりの地を演出している。1964年に創設された太宰治賞もしばらくの中断の後、1978年に筑摩書房と三鷹市の共同主催で復活している。受賞者は毎年、三鷹市にあるゆかりの地を見学すると聞いたことがある。
先日、太宰治が住んでいた荻窪界隈を歩いてみた。よく知られているのが碧雲荘という下宿。遺された記念碑には「富嶽百景」の一文が引用されている。この短編が書かれた時期は昭和14年くらいとされているが、3年前の明け方、下宿の便所の窓から見た富士が忘れらないと記されている。
碧雲荘が取り壊される直前、最後にひと目見ようと荻窪の駅から歩けば10分くらいかかる不便な一角に多くの人が集まった。僕もコンパクトデジタルカメラで写真を撮った。写真を撮ったはいいものの、その写真が行方知れずとなっていた。こういうときの通例としてさがしものは見つからない。どんなカメラで撮ったのか、記憶メディアはコンパクトフラッシュなのかSDカードなのか、まったく記憶がない。わずか6年ほど前のことなのに。
そうだ。たしか2015~16年あたりだ、報道されたのは。
というわけで、散らかりっぱなしの記憶メディアをかき集めて、写真の捜索をはじめる。もちろんこういうときの通例としてさがしものはおいそれとはあらわれない。年代的に該当しそうなフォルダやデータをさがしてみたが見つからない。撮ったつもりになっているのかもしれない。
ふだんあまり使っていないクラウドサービスに昔の写真を保存している。念のためのぞいてみたら、あった。ご丁寧に詳細データまで付いている。カメラはキヤノンのコンパクトデジタル。撮影日は2008年1月22日であった。
人の記憶はあてにならない。

2022年7月1日金曜日

安西水丸『青インクの東京地図』

1942年7月22日生まれの安西水丸は、生きていれば今年で80歳になる。
果たしてどんな80歳になったことだろう。
平凡社を辞めてフリーになった1970~80年代はイラストレーションや漫画、絵本の仕事が大部分を占めていたが、この『青インクの東京地図』を出版して以降、小説やエッセイを書くようになった。雑誌「小説現代」に連載されていたのが1986(昭和61)年。翌年の3月に単行本になっている。執筆のために歩いた東京はまだ昭和だった。JRはまだなく、国電が走っていた。汐留駅もまだあった。
冒頭の深川散歩がいい。冬木町から佐賀町、箱崎、越中島。相生橋を渡って佃を訪ねる。『東京美女散歩』にも登場した安田信三が登場する。安田は水丸の兄の建築設計事務所に出入りする大工と紹介されている。安西少年はいくどとなく安田の家を訪れている。子供いなかった安田夫妻は水丸をかわいがったという。銭湯に行った帰りに西仲商店街で少年雑誌を買ってもらった思い出が語られる。
僕も母の叔父が佃(その後月島に引っ越した)にいて、いっしょに銭湯に行ったり、夕涼みで西仲を歩いて、本を買ってもらったりした。まったく同じ経験をしているのである。
僕はひそかに安田信三は安西の叔父ではないかと思っている。ものごころつく前に父をなくした水丸は安田に父のにおいを感じたのではないだろうか。安田は建築設計を生業とする兄(水丸の亡父)の手助けをしたくて、大工になったのではないだろうか。そして安田も水丸少年に亡き兄のおもかげを感じとったのかもしれない。もちろん憶測の域を出ないが、安西は深川を歩きながら両国駅での兄との思い出にふれている。そのエピソードが安田信三と水丸少年の関係を語らずしてにおわせているような気がするのである。
7月は青山のスペースユイで安西水丸のシルクスクリーンが展示される。すっかり恒例行事になっている。今年も楽しみにしている。

2022年6月26日日曜日

山本有三『波』

6月だというのに突然猛暑がやってきた。
昨日、東京都心で35℃を超え、群馬県伊勢崎市では40℃を超えたという.
気象庁によれば気温が25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日、そして35℃を超えると猛暑日というらしい。ここ何年か、35℃を超える日はあったけれど、6月としてはなかった。観測史上初とのことだ。6月からこんなに暑くなっては7月、8月が思いやられる。そんなことを今から思いやってもどうにもならないのだが。
暑く、日ざしも強いが、いい天気であるし、風もあるので熱中症にならないように注意しながら、JR三鷹駅南口から玉川上水沿いを散歩してみる。雨が多かったせいもあるだろう、草木がこれでもかというくらいに生い茂っている。水面はほとんど見ることができない。
しばらく歩くと三鷹市山本有三記念館がある。昭和の初期に山本有三が住んでいた洋風建築の建物である。『路傍の石』もここで執筆されたという。足もとにある小石をじっと見つめてみたりする。この建物は戦後、進駐軍に接収され、山本はやむなく転居。接収解除後は国立国語研究所三鷹分室として利用されていた。
『路傍の石』を読んだとき、突然の、あっけない幕切れにちょっとした物足りなさを感じて、別の作品を読もうと思った。他に思い浮かぶのは『真実一路』だが、まずは『波』を読んでみる。小学校教諭である主人公は吾一の担任を思わせる。昔の教師は勉強を教える存在以上に子どもやその親だけでなく、地域の悩みに向き合っていたのではないだろうか。今も昔も教師という職業はたいへんだったのだ。
記念館を出て、玉川上水沿いを進む。上水は井の頭公園を横切って、久我山、高井戸方面に向かう。そのまま流れに沿って歩くと長女が通っていた高校の前に出る。が、しかし暑い。進路を左にとり、JR吉祥寺駅をめざす。動物園の前を通り、昼間から営業している焼鳥屋のにおいをかぎながら、猛暑の散歩を終えた。

2022年6月22日水曜日

安西水丸『左上の海』

建築設計の仕事をしていた伯父は1985(昭和60)年に他界している。
歯の治療をしたあと、出血が止まらなくなり、検査したところ急性骨髄性白血病と診断された。半年に満たない闘病であった。祖父も50代半ばで戦後まもなく病死している。父親よりわずかに長生きしたとはいえ、あっけない人生の幕切れであった。
安西水丸はイラストレーションのほかに小説やエッセイなどを遺している。この短編集は嵐山光三郎が編んだものである。生前の安西を支えた主要人物といえば嵐山、村上春樹、和田誠であろう。なかでも嵐山は渡辺昇時代からの盟友である。そもそも嵐山と平凡社で出会わなかったら。安西水丸は生まれ得なかったといっていい。
1980年代の半ばくらいだったか、安西は嵐山と二人展なるものを開いた。ちょっとした異業種のセッションみたいなリラックスした雰囲気だった。会場は銀座。たまたま縁あってオープニングパーティーに出向いた。大きな寿司桶が重ねられていた。寿司屋の店主が会場に来ていた。俺はお前のおふくろさんの従弟だと言われてびっくりした。場所が銀座だったとおぼえているのは、母の従弟の寿司屋が銀座にあったからだ。そのときはじめてである、嵐山光三郎を間近で見たのは。
嵐山がチョイスした短編のいくつかはすでに読んでいたが、氏の姿を思い浮かべながらもう一度読んでみる。「消えた月」に登場する佐竹、「柳がゆれる」の奥津はともに急性白血病と診断される。この二編は1998年に出版された『バードの妹』という短編集に収められている。安西の身近に急性白血病になったモデルとなるような人物がいたのだろうか。少し気になる。
そういえば銀座での二人展以前に僕は嵐山光三郎を見かけたことがある。
伯父の葬儀(お別れの会)が執りおこなれた信濃町の千日谷会堂で、である。目の覚めるような真っ白い羽織袴でさっそうと祭壇の前にあらわれ、献花した姿を思い出す。

2022年6月19日日曜日

太宰治『晩年』

それにしても梅雨時はじめじめして不快だ。湿度がものすごく高くて、いつ雨が降ってもおかしくない天候のこの季節が大好きなんですよ、という人はそう多くないだろう。
6月末の一週間をフランス、コートダジュールで過ごしたことがある。天候が安定し、バカンスシーズンがはじまるこの季節。地中海の海岸沿いの町も空気がからりとして過ごしやすい。冷やしたロゼワインがおいしい。
天国みたいな町から飛行機を乗り継いで、成田に着く。空はどんよりしていて、よく見ないとわからないくらいの細かい雨が降っている。空港を出るともうだめだ。眼鏡が曇る。というより身体全体が曇りはじめる。こんな目に遭うくらいならフランスなんか行かなければよかったとさえ思う。
太宰治はフランス語をまったく知らないまま、東京帝国大学のフランス文学科に進んだ。フランス語をほとんど知らないまま、フランスを旅した僕の境遇に近いものを感じる。
今日は桜桃忌だった。
おそらく三鷹の禅林寺には多くのファンが集まったことだろう。以前も書いたが、僕はさほど太宰のファンではない。人生のある時期、集中的に読んだ経験があるとしても。
文庫本で出ている太宰治の小説は20代の頃、ほとんど読んでいる。読み残した作品もまだあるだろうということで筑摩書房の太宰治全集も持っている。まったくページをめくっていない巻もある(むしろそっちの方が多いか)。今年に入って、ふと読みなおそうと思い立って、『人間失格』『斜陽』『ヴィヨンの妻』を読んだ。多少記憶に残っている小説もあるが、ほとんはじめて読むような感じだった。
『晩年』は太宰の最初の短編集である。以前読んだときはそんなことすら知らなかった。ある程度歳をとって、多少なりとも知識を得て読みかえしてみると、若き太宰の苦悩の日々が思われる。『津軽』を何度目かに読んだとき、続けて「思ひ出」を再読した記憶がある。それだけはおぼえている。

2022年6月14日火曜日

井伏鱒二『太宰治』

JR荻窪駅北口から教会通りという商店街に入る。『荻窪風土記』では弁天通りと呼ばれていた通りである。東京衛生病院に隣接する天沼教会や閉校になった若杉小学校に沿って日大(二高)通りを渡ったあたりに井伏鱒二の家があった。日大通りを井伏鱒二は、大場通りと呼んでいるが、天沼本通り、税務署通りなどとも呼ばれていた。税務署通りと言われていたように通り沿いに税務署があった。今は荻窪駅の南側に移っている。
井伏の家から日大通りを東進し、旧税務署の先を右に曲がったところに古い木造の建物があった。かつて太宰治が暮らしていた碧雲荘である(その後、大分県のゆふいん文学の森に文化交流施設として移築復元された)。太宰は昭和11年11月から翌年の6月までここに住んだ。
旧税務署先の角には20年ほど前までガソリンスタンドがあった。今なら目印となるのはセブンイレブンだろうが、税務署もなくなり(現在はウェルファーム杉並という子育て支援の施設)、碧雲荘もなくなり、太宰の住んだ下宿は記憶の地層のずっと深いところに埋もれてしまっている。船橋時代からパビナール中毒完治後に移り住んだ碧雲荘から井伏の家まで太宰はどんな道順をたどっていったのか気になるところである。
昭和10年代、天沼や清水町がどんな風景だったか。井伏が引っ越してきたのは1927(昭和2)年。このあたりはほぼ田畑だったというが、それから10年、急速に宅地化がすすんだのだろうか。
太宰は東京帝国大学入学後、井伏鱒二に弟子入りする。会ってくれなければ自殺すると書いた手紙は知られるところである。会ったのに自殺したのだから(未遂も含めて)、太宰という男はたいした嘘つきだ。それはともかく、井伏鱒二の太宰を見守る視線はなかなかいい。それほどまでに太宰の才能を確信していたのか(それはありえないことではない)。
太宰の倍以上生きた井伏はやはり貴重な証言者のひとりに違いない。

2022年6月6日月曜日

檀一雄『小説太宰治』

6月19日は桜桃忌。
入水自殺した太宰治の遺体が見つかった日である(太宰の誕生日でもあるらしい)。三鷹の駅からかなり歩く禅林寺に今なお多くのファンが集まるという。
墓参りをするほどのファンではないけれど、太宰を読むのは案外好きで忘れた頃に昔読んだ小説を読みかえしている(なかでも『津軽』はもう何度も読んでいる)。太宰の魅力的な文章についつい引きこまれてしまう。
40年に満たない太宰の人生はエピソードにあふれている。その数々をあるときは編集者が、あるときは作家仲間が、そしてあるときは遺された遺族が語っている。この本は小説家として開花することを夢見ていた仲間であり、太宰の豊かな才能を敬慕していた檀一雄による。もちろん檀ひとりの記憶とわずかな資料に基づくだけだからノンフィクションとはなりえない。タイトルに小説と付されているのは、あらかじめお断りしているということだろう。
太宰治の生涯をくわしく知らない。ましてや檀一雄についてもよく知らない。以前深作欣二監督「火宅の人」を観た以外に接点はなかった。練馬区の石神井公園の近くに住んでいたことは知っている。長男がCMプロデューサーで美食家として知られている。同じ業種だったこともあり、築地界隈で何度か見かけている。長女は女優である。
太宰と檀の間に交流があったことも実は先日読んだ沢木耕太郎『作家との遭遇』ではじめて知る。太宰より20年も無駄に生きているわりには知らなかったことが多い。熱海まで赴いて、消防夫の協力を得て、行方不明になった太宰をさがしたのは檀であった。荻窪に戻って、そのようすを話しているときに鎌倉の山で自死できなかった太宰が帰ってくる。
檀一雄は1937(昭和12)年に召集され、中国に出征している。軍務が解かれても大陸に残り、放浪生活を送る。
檀の記憶が断片的なのは、太宰に太宰の人生があったように檀には檀の人生があったからだ。

2022年5月29日日曜日

沢木耕太郎『作家との遭遇』

これだけはどうしても読んでおきたいと思う本が少なくなってきた。歳をとって欲がなくなってきたせいもある。
もともとこれを読んだらあれを読もうといったプランをつくって読書しているわけではない。基本、行きあたりばったりである。最近では仕事で必要な書物以外はずっと読まないままでいた日本の名作を開いてみたり、昔読んだ小説を読みなおすなどしている。人が一生に読める本は限られている。これまで読んできた本との出会いは偶然の出会いであり、それはそれでよかったのだろう。
誰かが読んでいた本を読んだことも多かった。昔の同僚や先輩にすすめられたり、影響を受けて読んだ本も多い。沢木耕太郎の『深夜特急』もそのひとつ。沢木耕太郎の名前を見ると当時親しく付き合っていたコグレさんを思い出す。今ごろどこで何をしているやら。
この本はノンフィクション作家沢木耕太郎による作家論。
沢木は、資料を丹念に収集し、読み解き、事実を克明に記していく。筋金入りのノンフィクションライターである。本書で取りあげられた作家一人ひとりの作品にすべて目を通したうえでテーマを絞り込んで綴っている。そのせいかフィクションとノンフィクションに関しては厳格な線引きを行っている。吉村昭や瀬戸内寂聴について語るとき、その厳格さは色濃くあらわれる。ノンフィクションを書くという自身の存在理由が明確なぶん、文章は骨太で力強さが感じられる。『深夜特急』以外の作品を知らなかった僕には新鮮な出会いだった。
この作家論は最近文庫化された。単行本にはトルーマン・カポーティやアルベール・カミュについての論考も所収されているという。まだつづきがあると思うと少しうれしい。
この本を読み終えて、檀一雄『小説太宰治』と瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』とその続編である『諧調に偽りあり』を読んでみたくなった。結果的に読みたい本がまた増えてしまった。
無計画な読書は当分続きそうだ。

2022年5月25日水曜日

安藤元博『広告ビジネスは、変われるか? テクノロジー・マーケティング・メディアのこれから』

長く広告の仕事に携わってきたが、広告の未来は、などと訊ねられてもおいそれとは答えられない。僕が主として関わってきたのは広告表現の企画立案、所謂クリエイティブであって、実をいうとそれ以外のこと、メディアやマーケティングのことなどはまったくの素人同然である。
ここ10年ほどで広告やマーケティングの世界にもデジタルの波は押し寄せている。費用対効果の高いメディアを瞬時に選択し、効果的な表現をたえず見直し、スパイラルアップさせて、興味関心のある潜在的な顧客に有効な情報をタイミングよく刷り込んでいく、みたいなことが行われるようになってきている。
これまで主にテレビCMの企画を主にしてきた。ざっくり不特定多数に情報を届けるこのメディアはデジタルの真逆にあった。テレビCMが完成し、オンエアされる。クライアントからは話題になっているとか、注文が増えているとか、社内の評判がいいなどと言われる。それでいて半年後には再び複数の広告会社と競合プレゼンテーションの知らせが来る。広告、とりわけテレビCMに対する厳密な効果測定は、少なくとも僕たちの時代には行われ得なかった。よく伝わる表現があったとしても、しかるべき時間帯にある程度の出稿がなければ、それは届かない。大量に出稿される広告であっても、魅力のない表現、あるいは反感を買うような表現ならばマイナスの効果しか残さない。広告が効果的に迎え入れられるためにあらゆる要素を効果的に組み立てなければならないのだ。そうした意味からするとデジタル化された広告ビジネスは昔にくらべ、格段の進歩を遂げるだろう。効果が測られることによって、表現が萎縮しなければいいと思うし、クリエイティブに携わる人たちのモチベーションが下がらなければいいと思っている。
この本では統合マーケティングのプラットフォームが語られている。専門分化と統合という難しい課題に広告ビジネスはさらされている。

2022年5月23日月曜日

指南役『黄金の6年間 1978-1983 素晴らしきエンタメ青春時代』

今年は沖縄返還50年にあたる。NHK朝の連続ドラマも沖縄を舞台にしてはじまった。
先日の新聞に石垣出身の元ボクシング世界チャンピオン具志堅用高のインタビュー記事が載っていた。沖縄が日本に復帰した年、インターハイに出場するため具志堅は本土に渡る。パスポートはもう要らなかった。
その4年後、1976年10月10日。高校の文化祭が終わった夜、僕はひとり飯田橋でラーメンを食べていた。店内のテレビはボクシングの試合を中継していた。テレビから沸き起こる歓声に加えて、店にいた多くの客たちもどよめく。WBA世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高誕生の瞬間だった。
JR飯田橋駅から九段に向かって歩く途中に「ひろかわ」というとんかつ屋があった。後で知ったことだが、石垣島から上京した具志堅はこの店でアルバイトをしていたという(僕も駅前で何度か見かけたことがあった)。その日歓声を上げたラーメン屋のお客さんは地元で働く具志堅をずっと応援していた人たちだったに違いない。
著者の指南役によれば、「黄金の6年間」とは1978年から83年までの6年間をさす。東京が最も面白く、猥雑でエキサイティングだった時代、音楽や映画、小説、テレビ、広告、雑誌などメディアを横断してさまざまな分野のクロスオーバー化が進み、新たな才能が生み出された時代であるという。TBSテレビで「ザ・ベストテン」や「3年B組金八先生」がはじまり、村上春樹が小説を書きはじめた時代だ。
こういった時代区分は恣意的なものが多いと思われるが、事例が多く積み重ねられることによって不思議と説得力が生まれてくる。それと同時にこの6年間の前後の時代にも光が射し込んでくる。とりわけ黄金時代の夜明け前は興味深い。
どういうわけか、この本を読み終えて、具志堅用高の世界王座奪取を思い出した。それから1年と2ヶ月。黄金の6年間がはじまる。そして4月に僕は大学生になった。

2022年5月22日日曜日

夏目漱石『吾輩は猫である』

一般の人はあまり使う機会はないだろうが、和文通話表という一覧が無線局運用規則に定められている。要するに無線電話で確実にことばを伝えるために制定されたものだ。「朝日のあ」「いろはのい」と念を押すことによって間違って伝達しないための手段である。英語にもある(というか英文通話表=フォネティックコードの日本語版が和文通話表と解釈していい)。「A、アルファ」「B、ブラボー」などと言う。
和文通話表は昭和25年に施行された電波法で定められた。通信や電波はそれまでは逓信省、その後電気通信省、郵政省が管轄していたが、「切手のき」「手紙のて」「はがきのは」「無線のむ」「ラジオのら」と通信関係が多い。地名も「上野のう」「大阪のお」「東京のと」などがある。「ろ」は「ローマのろ」である。ロンドンではなくローマなのである。ましてやロシアでもない。「ぬ」は「沼津のぬ」である。「ぬり絵」でも「ぬかみそ」でもよかったかもしれないが、昭和の初期まで交通の要衝だった沼津が採用されている。
なんだかなあと思われるものもいくつかある。「そろばんのそ」「煙草のた」「マッチのま」「三笠のみ」「留守居のる」などは少し時代に取り残されているような気がする。「千鳥のち」も千鳥にピンとこない人が増えてきたと思う。
日本近代文学のはじめの一歩は間違いなく夏目漱石であろう。その漱石の最初の作品が本書である。恥ずかしながら、ついぞ読む機会がないまま、齢を重ねてしまった。突飛なアイデアから生まれたこのデビュー作はなかなか奥行があり、味わい深いものがある。後々の諸作品のためのいいスタートダッシュだったといえよう。
調べてみると和文通話表は古くは大正14年に制定されているようだ。「明石のア」「岩手のイ」「上野のウ」と地名が多く見られる。それに基づくと夏目は「名古屋のナ」「敦賀のツ」「目白のメ」となる。
どうでもいいようなことを書いてしまった。

2022年5月9日月曜日

山本有三『路傍の石』

読みはじめたものの読み終えていない本がたくさんある。
おもしろそうだとか、これは読まねばと志だけ高くページを開いてみたものの、こんなはずじゃなかったと思った書物の数々。人生も読書もこんなはずじゃなかったの連続だ。たとえばマクルーハンの『メディア論』など。
高校1年の夏休み、大岡昇平の『野火』を読んで感想文を書けという宿題があった。30頁ほど読んで読みきることをあきらめた。とりあえず原稿用紙のマスを埋めて、提出した。どんなことを書いたかも、本当に提出したのかさえもおぼえていない。それでも何とはなしに気がかりだったので3年くらい前に読んだ。
山本有三のこの小説は小学生の頃、子ども向けの日本文学全集か何かで読みはじめた。冒頭の焼き芋屋の話がせつなくて読む気をなくした。それ以来、いちどたりとも手にとることはなかった。記憶はみごとに失われていた。kindleで何か面白そうな本はないかと探していたとき、突然『路傍の石』という文字が目に飛びこんできた。小学生時代に読みはじめたもののやめてしまった記憶とともに。まるでマドレーヌを紅茶に浸したみたいに。
焼き芋屋のくだりをクリアして読みすすむ。悪い話ではない。吾一という少年はきっと将来、幸せになるような予感がした。オリバー・ツイストやデイヴィッド・コパフィールドのように。けっしてハンス少年のように挫折して溺死したり、青山半蔵のように学問にのめり込んだ末に廃人となるようなことはなさそうだ。
紆余曲折がありながら、吾一は人生を切り拓いていく。印刷工として真摯に仕事に取り組み、夜学に通い、事務職となり、やがて出版事業を起こす。もちろんとんとん拍子というわけにはいかないが、あきらめない、希望を捨てないところが吾一なのである。そして、さあこれからというときにこの物語は幕を閉じる。突然に。
未完の小説だったことがわかっただけでもこの本を読み終えてよかったと思う。

2022年4月26日火曜日

下坂厚 下坂佳子『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』

厚生労働省の動画に「希望の道」というシリーズがある。認知症の当時者を取材した動画である。
昨年アップロードされた動画で京都在住の下坂厚という人を知った。46歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症と診断されたという。若年性というのは65歳未満で発症した際に用いられる。それにしても46歳というのは若すぎる。動画のなかで新しい仕事を起ち上げたばかりの下坂は目の前が真っ暗になったと診断当時をふりかえっている。
若年性認知症当事者としては仙台の丹野智文が知られている。丹野はさらに若い39歳のときアルツハイマー型認知症と診断された。勤務先の理解や家族の協力、そして本人の明るさと工夫によって認知症当事者であっても自分らしく前を向いている。講演活動などを通じて認知症の理解を訴えている。
下坂も丹野に出会い、認知症とともに生きる社会をつくる方向に自らの気持ちをシフトさせたひとりに違いない。丹野のような社交性や持ち前の明るさを持っているわけではないが、若い頃から好きだった写真撮影を通して、日々の気持ちを記録し、広く伝えている。
そういえば、今年も新たに認知症普及啓発の動画が何本かアップロードされていたが、それらの動画には本人のインタビューに加え、家族や支援者(パートナー)の声も収録されていた。パートナーは主に自治体や社会福祉協議会の担当者であったり、福祉施設のケアマネージャー、雇用主、親友などさまざまである。当事者と日々接している理解者の話には説得力があり、当事者ひとりのインタビューでは見えにくい部分にも光を差し込んでくれる。
この本は当事者下坂厚の声だけでなく、パートナーのまなざしも織りまぜられた構成になっている。下坂がパートナーに支えられる一方で、家庭や職場、そして社会を支えている姿が見てとれる。短い動画やネットの記事だけではわからない下坂厚を浮き彫りにしようという意思と意図が見てとれる。

2022年4月23日土曜日

太宰治『ヴィヨンの妻』

先月、三鷹を訪ねた。
太宰治ゆかりの跨線橋を渡って、国鉄武蔵野競技場線廃線跡を歩いたのである。三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶこの路線は、中島飛行機武蔵工場の引込線を利用して1951年に開業した。電化単線、全長3.2キロ。中央線の支線だった。
その年、武蔵野グリーンパーク野球場が終点武蔵野競技場前駅近くに完成した。当時、首都圏で開催されるプロ野球の試合のほとんどは後楽園球場を利用していた。明治神宮野野球場は進駐軍に接収されていたため、前年から2リーグ制がはじまったにもかかわらず、球場不足は否めなかったのである。そこで建設されたのが武蔵野グリーンパーク野球場だった。グリーンパークという名前はこのあたりを接収していた米軍がそう呼んでいたことによるらしい。
5万人を収容できる本格的な球場だったが、都心から離れていたことや突貫工事のため芝の育成が不十分だったこともあり、砂塵に悩まされるといった問題もあった。そしてその翌年には神宮球場の接収が解除され、都心に近い川崎球場、駒沢球場ができたことで武蔵野グリーンパーク野球場は51年にプロ野球16試合が行われただけで翌年には武蔵野競技場線も休止。野球場は56年に解体され、鉄道路線は59年に廃止された。
太宰の跨線橋を渡って駅の北側に出ると、線路があったと思われる曲線部が公園になっている。さらに進んで玉川上水を越えるぎんなん橋にはレールが埋め込まれている。かつての国鉄飯田町駅があった飯田橋アイガーデンテラスでも見たことがある。失われた鉄路のモニュメントが遺されるのはいいことだ。戦後間もない頃の野球少年の夢を乗せた電車が(あまりにも短い期間ではあったが)通り過ぎていったのだなどと思いながら野球場跡地まで歩いた。
新潮文庫『ヴィヨンの妻』を読む。昔読んだことはすっかり忘れている。太宰の、死と向き合う小説より、生を生きる活力ある小説が好きだ。

2022年4月15日金曜日

斎藤太郎『非クリエイターのためのクリエイティブ課題解決術』

クリエイティブディレクター(CD)という呼び名はいつ頃生まれたのだろう。
小さなCM制作会社から小さな広告会社に移籍したときのCDは博報堂から電通に移籍した方で昔話をよくしてくれた。その頃、仕事のほとんどが新聞広告や雑誌広告だったから、文案家と意匠家で原稿をつくっていた。彼らにディレクションし、最終チェックをするのはアートディレクター(AD)の仕事だった。古い広告の本をながめると広告表現をつくるリーダーはADだった。杉浦非水も山名文夫も新井静一郎も向秀男もその肩書はアートディレクターだった(と記憶している)。
ADたちはいちはやく東京アートディレクターズクラブという会を起こす。文案家たちがコピーライターの会をつくったのはそれから数年後である。広告表現のなかでビジュアルに加えてメッセージの重要性が認識されはじめた頃かと思われる。意匠家はグラフィックデザイナーと呼ばれるようになって、ADの仕事を支えた。
おそらくそのような戦後広告の黎明期にクリエイティブディレクターという概念はつくられたに違いない。
CDになるためには、グラフィックデザイナー、コピーライター、CMプランナーという修行的立ち位置で何百案ものラフアイデアを書いて、何百というだめ出しをもらってたどり着く必要があった。今でもそういったキャリアアップの仕方はあるが、企業のコミュニケーション構築における広告クリエイティブの比重が大きくなったのか、広告ビジネスを支えるリーダーがCDとしてまさしくディレクションするケースが増えている。
著者の斎藤太郎は電通の営業局出身。(おそらく)コピーやサムネイルを一枚たりとも書いた経験はないだろうが、営業担当として、あるいはメディア担当として広告主と日々対峙してきた経験を持つ。具体的な表現づくりは表現を専門とするCDとともに動く。
広告主と夢を共有し、情熱と強い責任感をもった人ではないかと思う。

2022年4月7日木曜日

太宰治『人間失格』

太宰治を読んでいたのは20歳代だったと思う。消え去った記憶を呼び起こすべく、少しずつ読みなおしている。
JR中央線三鷹駅の西側に朽ちかかった跨線橋がある。朽ち果てているのならともかく、朽ちかかっているというのは見た目にはわかりにくいが、ともかく安全上の観点から補強するか撤去しなければならないらしい。最近はレールの付け替えなどの大工事を深夜に行うこともあれば、土日に列車の運行を止めて作業することもある。鉄道の運行を止めて撤去するとなると大がかりである。どおりで撤去・解体が報道されて以降、具体的な日程は明らかにされていない。
この話がどうして新聞記事になったかというと、この跨線橋が太宰治のお気に入りの場所であったからだ。三鷹市は太宰治とゆかりのある跨線橋を改修して維持できないかと考えていたし、管轄するJR東日本は三鷹市に譲渡するという提案をしていたそうだ。話し合いやさまざまな試算が行われた結果が撤去・解体である。こういった点でも太宰治は面倒くさい人物である。
太宰はこの陸橋のどこが気に入ったのだろう。西側にある電車基地に向かって鉄路が広がっていくその風景を好んだのか、北口側に気に入った小料理屋でも、気前よく金を貸してくれる篤志家でもいたのか(太宰は線路の南側に住んでいたはず)。
先日、せっかくだからこの橋を渡ってみようと思い立ち、三鷹を訪ねた。以前写真で見たよりも所々に補強がなされていて、多少の地震くらいだったびくともしないのでないかと思われるが、古いことは古い。老朽化しているかどうかと訊かれたら僕だってノーと言えない日本人である。
そんなこともあって、『人間失格』を読んでみる。はじめて読んだときとまったく変わることなく、破滅的である。まあ、それはそれでいいのである、今の世の中は。だめなやつはだめなやつの人生があり、破滅的な生き方だってある。たいせつなのは多様性を認め合うことなのだ。

2022年4月3日日曜日

島崎藤村『夜明け前』

わが家の古い戸籍を見る。戸籍が整備されたのは明治のはじめの頃である。戸主は曾祖父で明治10年生まれとなっている。それ以前のものは残されていないが、曾祖父の母親が前戸主(高祖父)の妻として記載されている。生まれは天保5年10月10日とある。高祖母が天保であるとすると高祖父は文政年間あたりの生まれであろうか。まさに青山半蔵と同じ時代を生きたことになる。
今から150年前。旅は歩いて行くものだった。ほんの例外的に駕籠に乗ったり、馬に乗ったりしたものもいたにはいたが、圧倒的多数が徒歩で旅をした。移動速度に制限があるから、街道には宿場町が開け、栄えた。だいたいどこで昼を食べ、どこで泊まるかが計算されていた。のどかな時代といってしまえばそれまでだが、旅に出るというのはそれ相応の覚悟が必要だったのだ。
物語の舞台は中山道馬籠宿。名古屋、岐阜方面から木曽川を北東に遡上すると恵那、中津川を経て馬籠にたどり着く。その先に妻籠があり、さらに進むと関所のあった木曽福島。地名を鉄道路線と結びつけておぼえているせいか、塩尻で南東に方角を変えて東京をめざすといったイメージを持つが、実際の中山道は高崎や熊谷を経て板橋をめざす。いずれにしろ旅人たちは険阻な山道を歩いていった。
これまで読むことのなかったこの本は島崎藤村の代表作である。言ってみれば庶民から見た幕末維新か。木曾谷に設置された固定カメラからめまぐるしく揺れ動く時代をとらえた映像といっていい。黒船の動揺も旅人が日本中に伝えてまわった。勤王攘夷の風は天狗党によって木曽路にもたらされた。慶喜追討の命を受けた東山道軍も通り過ぎていった。街道は人が通りすぎるだけではなく、さまざまな情報の通り道だったことがわかる。
江戸から房州へは船が多く利用されていたという。房州で生まれ育ったわが高祖父も旅をした人であったろうか。江戸の繁華な町を歩いた人であったろうか。

2022年3月29日火曜日

夏目漱石『門』(再読)

気がつくと、大相撲春場所が終わっていて、選抜高校野球が開催されている。
それもそのはず。桜はあっという間に満開になっている。
今年に限ったことでなく、3月はあわただしい季節である。
新宿の落合に大叔父が住んでいた。祖父の弟にあたる。今は父のいとこが住んでいる。その昔書いていたメモによると、30年前の3月29日に訪ねている。産まれて4カ月の長女を連れていったと記されている。大叔父が感慨深そうに80まで生きたのだからもうじゅうぶん生きたと話していたことも。
大叔父は落合に住む前は根津や駒込西片町に住んでいたと聞いている。
はじめて読んだ本だと思っていたら、すでに読んでいたということがたまにある。
夏目漱石の『門』は再読だった。しかも過去にこのブログに書き留めている。10年ちょっと前のことだ。
先日『それから』を読んで、主人公が住む町やその行動範囲を追いかけるといい散歩のコースになるのではないかと思った。牛込神楽坂から富坂上の伝通院あたりである。
さて、この本の主人公宗助はどこに住んでいるのか。山の手の奥であるとか、電車の終点から20分歩くなどとヒントは出ている。そして崖下に住んでいる。崖の上には大家の住まいがある。はじめのうちは根津あたりではないかと思っていたが、想像するに今の豊島区雑司ヶ谷ではないだろうか。雑司ヶ谷といっても鬼子母神の方ではなく、護国寺に近く、文京区の目白台と隣接するあたり。崖下の道は弦巻通りと呼ばれている。かつて川が流れていたのかもしれない。
弦巻通りから北側、つまり崖上をながめると小津安二郎監督「東京暮色」の舞台になった坂道が見える。笠智衆や原節子、有馬稲子が上り下りをくり返していた。ずいぶん以前のこのあたりを散策した記憶がある。都電の鬼子母神前から東京メトロの護国寺駅まで歩いた。その坂道をさがして歩いたのか、歩いていたら偶然見つかったのか。今となってははっきりしない。

2022年3月19日土曜日

勝浦雅彦『つながるための言葉』

3月19日は叔父の命日である。
ちょうどお彼岸の頃でもあり、墓参りをするのを常としている。誰が供えたか、赤いチューリップが花立てに挿してあった。何年か前には黄色いチューリップが供えられていた。赤いチューリップも黄色いチューリップも叔父の仕事に所縁がある。生前をよく知る方が供えて行ってくれたのだろう。
広告の仕事をしているのだから、広告に関する本を最低でも月に一冊は読まなければいけない、30年くらい前に広告会社の大先輩にそう教えられた。最近はとんとご無沙汰である。去年は10冊ほどしか読んでいない。
広告の本といってもマーケティングやメディア、プロモーションなどなど幅が広い。主に読むのはクリエーティブに関するものだ。たいていの場合、著者はヒットCMやビッグキャンペーンを手がけた人で自身の方法論を披露している本が圧倒的に多い。ふむふむなるほどと思うものの、時間の経過とともに記憶は薄らいでいく。あの本はよかったなあと後になって思い出すこともさほどない。
筆者は学生の頃からコピーライターを志望していたという。いくつか広告会社を経験し(最初は営業だった)、現在は電通のコピーライター、クリエーティブディレクターである。若い頃から苦労をされた方なのではないかと思う。たくさんの本を読んでいて、それを血肉としている。少なくとも僕にはそう見える。コピーライターとしての仕事はほとんと知らなかったがTCC(東京コピーライターズクラブ)のサイトで見てみた。じんわりとしたいいコピーが並んでいた。言葉の一つひとつを丁寧に紡ぎ合わせているようだ。
筆者はあるときコピーライターをめざしたかもしれないが、本当に望んでいたのは言葉を通じて素敵な関係を構築することだったのではないか。「他者への敬意と愛情によって、つながる言葉をつくる」というのがこの本の大きなねらいだ。その願いはじゅうぶん叶えられていると思う。

2022年3月16日水曜日

村山昇『キャリア・ウェルネス』

知人の勤める会社は社員数20数名。いわゆる中小企業である。規模は小さいけれどそのぶん風通しのいい組織だとトップは自負しているそうである。
週にいちど原則全員参加の会議があるという。もちろんこのご時世だからウェブ会議システムを使ったリモート会議であろう。売上の推移であったり、昨今の業界の話題などをトップがしゃべりまくる。これも中小企業にありがちである。
先だって若年世代の離職率が高いという話題になったそうだ。新卒で働きはじめた社員の3割ほどが3年以内に辞めてしまう。どこかの企業がまとめた若手社員がやる気をなくす言葉ランキングなどを紹介しながら、そのトップは話し、入社1〜3年の社員に感想を求めたという。しかも彼らのほとんどが中途採用(第二新卒)だった。すでに離職経験のあるものたちの目の前で話すような内容だったのだろうか。新婚カップルにどういうきっかけがあったら離婚しますかと訊くようなものではないか。
まあ、なんとも風通しのいい会社だ。
この本は仕事を通じて(主に若い世代に)どんなキャリアを積ませるかを説いている。成功がある種義務付けられていた時代があった。そのために能力とものごとや人に対する処し方を身につけていかなければ取り残されてしまう組織があった(今でももちろんあるだろうが)。著者は「成功のキャリア観」と成功を得られなかった人たちが閉じこもる「自己防衛のキャリア観」といった昭和平成の遺物とおさらばして「健やかさのキャリア観」を持つことが健康に働いて生きていくために必要だという。
ふりかえって見ると僕も自分の仕事の意味をずっと見い出せないまま働いてきたような気がする。キャリアをどう積んでいくかなんて考えもしなかった。報酬とちょっとした名声のためだけの仕事。
最近になってようやく少しだけ自分の仕事の意味がわかってきた。ほんの少しだけだけど、人の役に立っているのかなということが。

2022年3月6日日曜日

夏目漱石『それから』

以前、早稲田鶴巻町に住んだことがある。近くに夏目坂、漱石公園など漱石ゆかりの地が多くあった。
たいして読んでいなかった夏目漱石を最近読んでいる。早稲田界隈が舞台かというと案外そうでもない。かといって特別な地名が出てくるわけでもない。東京に住んでいる人ならたいてい知っている町でストーリーは進展する。
いい歳をしてこの本をはじめて読む。主人公の代助は牛込(神楽坂)に住んでいる。実家は青山にあり、父と兄夫婦が暮らしている。大阪から戻った友人の平岡夫婦は小石川に住まいを見つける。
実家に行く代助は牛込から電車に乗る。おそらく今の飯田橋駅辺りだろう。平岡の妻、三千代に会うときは江戸川沿い、大曲の辺りから春日の坂道を上っていく。平岡の家は伝通院の近くにある。歩いて行けない距離ではない。もちろん当時のことだから、電車以外にも車という手立てがある。車というのは人力車で、電車というのは路面電車だ。
読みすすむと話はだんだん込み入ってくる。代助と三千代、代助と平岡、そして代助と父。徐々に結末に向かっていくのだけれども、代助の移動ばかりが読んでいて気になって仕方ない。とりわけ牛込から小石川へ、代助はどんな道を歩いていったのか。
四十数年前、九段にある高校に通っていた頃。練習試合で伝通院近くの都立高校まで行くことになった。最寄駅は東京メトロ丸の内線の茗荷谷駅か都営地下鉄三田線(当時は都営6号線と呼ばれていたと思う)の春日駅である。飯田橋から国電で隣駅の水道橋まで出て、都営地下鉄に乗り換えた。春日駅は本郷台地と小石川台地の谷にある。富坂というだらだら長い坂道を歩いてめざしていた高校にたどり着いた。駅からは15分くらいだったと思う。
当時もし漱石のこの作品を読んでいたら、おそらく大曲から安藤坂を上って行ったかもしれない。それはともかくとして漱石の描く東京を散歩してみるのって楽しいかもしれない。

2022年3月1日火曜日

永井荷風『日和下駄』

仕事場がずっと麹町にあった。現在は築地に移転している(どのみち在宅勤務なので仕事場の場所は今となってはどうでもいいことだが)。
麹町の頃は時間があると仕事終わりに番町、四谷、市谷など坂道を上って下りて散策しながら帰ったものだ。今日は市谷を歩こうとか飯田橋まで歩こうだとか、東京の真ん中を起点にするとどこへでも歩いて行けた。今思えばただの徘徊である。
なかでも気に入っていたのは四谷の学習院の裏あたりから、須賀町や若葉町を歩くルートである。鉄砲坂を下り、商店街を少し歩いて戒行寺坂を上る。須賀神社に立ち寄ってからもとの道に戻って(須賀神社から荒木町をめざすこともあった)、闇(くらやみ)坂を下る。坂下には若葉公園という小さな児童公園がある。そしてさきほど通った商店街に戻ってから、赤坂御所の方に向かう。JR中央線のガードと首都高速道路を過ぎると左手に公園がある。みなみもとまち公園という。かつて鮫ヶ橋と呼ばれた一帯である。
四谷にはもうひとつ暗闇坂がある(こちらは暗坂あるいは暗闇坂と表記するようだ)。東京メトロ丸の内線四谷三丁目駅の北側、愛住町から靖国通りに下る石段である。靖国通りをわたると富久町。隣接するのはかつて市谷監獄のあった市谷台町、そして永井荷風が住んでいた余丁町である。夕刻であれば余丁町から西向天神をめざして夕陽を見るのもいい。余丁町の先は昔フジテレビがあった河田町。河田町を越えると若松町、喜久井町でここまで来ると夏目漱石の世界だ。
10年以上前に岩波文庫の『荷風随筆集』を読んだ。それ以来の「日和下駄」である。
荷風が歩いたところはだいたい歩いている。荷風の足跡をたどる試みはいくつも書籍化されていて、たとえば川本三郎であるとか、毎日新聞に連載されていた大竹昭子による『日和下駄とスニーカー』など世の中に物好きは多いとわかる。
『日和下駄』は現代の江戸東京切絵図なのである。

2022年2月13日日曜日

松本清張『影の車』

床屋で店主と会話を楽しむ人をよく見かける。自分はそういうタイプではない。全体的に短くとか横も刈り上げてとか伝えたあとはほとんど目を瞑って、ときどき眠ってしまう。今の床屋は2~3年ほど通っているだろうか。おそらく自分より年下の床屋ははじめてだ。それまで通っていた近所の床屋が突然店じまいして路頭に迷っていた。ある週末、今通っている床屋の前を通りかかるとけっこう繁盛しているように見える。試しに入ってみた。以来通うようになった。若い店主夫婦とその母親(たぶん夫の母だ)の3人で切り盛りしていた。
ずいぶん混んでいる日があった。週末はたいてい複数の客が待っていたりする。ようやく番がまわってくる。いつものようにおおまかに曖昧に指示をして、目を瞑っていた。散髪が終わって、シャンプーと髭剃り。これは奥さんか母親が担当する。その間に店主は次の客の散髪にかかる。髭を剃っていたときだろうか、隣の客と店主の会話が聞こえる。どうやら店主の趣味はサーフィンであることがわかる。
「最近はもっぱら千葉ですよ」
「クルマで行くの?混むでしょ」
「土日じゃないからそうでもないですよ」
「やっぱり九十九里とか?」
「千倉です」
そうかこの店主は休日になると南房総の千倉までサーフィンをしに出かけるのか。ちょっと脳に刺激が与えられた。
先日、野村芳太郎監督の「影の車」という古い映画を観ていて、同じような感覚を味わった。主人公の浜島と小磯泰子は都心ベッドタウンの路線バスで再会する。以前ふたりの親交があったのは千葉県の千倉町であるということがそのセリフからわかる。そのときと同じ刺激を床屋で受けた。
松本清張の『影の車』は連作短編集。映画化されたのはそのなかの「潜在光景」と題される第一編である。その光景は映画でいうと千倉町の瀬戸という海岸だ。
こんど床屋に行った折には店主に話しかけてみよう。「千倉のどの辺ですか、よく行かれるのは?」と。

2022年2月9日水曜日

小林多喜二『蟹工船・党生活者』

電子ブックリーダーは長らくソニー製を使っていた。ページ送りのボタンが付いていて、ディスプレイをスワイプしなくてもいいところが気に入ったのである。たとえば防水バッグに入れて風呂で本を読むときに、これなら確実に操作できる(実際にお風呂で読んだのは数えるほどしかかなったが)。暗いところで画面を照らすLEDライトもオプション装備を付けているみたいでよかった。
かれこれ8年くらい使ってきたが、新機種はもう発売されず、だんだんと不便になってきた。ブックリーダーから書籍を購入するサイトにつなげなくなったり、別のデバイスで購入した本をダウンロードできなくなったり。液晶画面にシミのような黒ずみができたり。
というわけでKindleに変えた。ソニーのリーダーには吉村昭や司馬遼太郎、山本周五郎など読み返したい本が多く格納されている。まあ、読みたくなったら電源を入れることにしよう。
Kindleを購入して簡単な設定を終える。以前に購入した書籍があるようで小林多喜二のこの本はすでにライブラリに入っていた。せっかくなので読んでみた。
言論や行動の自由が今よりもっとなかった時代を知らない。本当にそんな時代があったのだろうか、信じられない、というよりイメージできないときもある。今は今で、自由がある。自由ではあるけれども、新しい考え方が次々に生まれてきて、逆に窮屈な時代になってきていると思う昭和平成世代も多くいると思われる。
さてKindleの端末(一世代前の第10世代)とソニーの電子ブックリーダーを比較すると、薄さ軽さでソニー製に分がある。8年使ってきたこともあって、やはり手になじんでいるのだろう。持った感じの厚みや重さ(仕様を見ると10グラムしか違わないのだが)が異なる。オプション的な機能(辞書機能など)にも少し違いがあるが、今のところ不便を感じていない。
まあ、そのうち慣れていくだろうとは思っているが。

2022年2月6日日曜日

島崎藤村『破戒』

新型コロナの新たな変異株であるオミクロン株が猛威をふるっている。
先週東京都では2万人を超える新規感染者を確認する日が複数あった。全国レベルでも過去最多が頻繁に更新されいる。オミクロン株は発症がはやいであるとか比較的軽症で済むなどいろいろ言われている。情報が飛びかってはいるが、本当のところはよくわからない。第5波と呼ばれていた昨年夏から秋にかけてのピークもどうして収束していったのかきちんとした説明を聞いたことがない。
以前にも書いたかもしれない。中学高校時代にほとんと本を読まなかった。今にして思えば、多感なこの時期に(今でも歳なりに多感なつもりではいるけれど)読書体験がなかったことはおそらくその後の人間形成に支障をきたしているのではないかと思うのだが、今のところ自覚症状はない。
島崎藤村がいつの時代の人なのか、作品はどんな傾向なのか。ほぼ知らない。『夜明け前』とを書いたことは知っている。内容は知らない。もう一冊、題名だけ知っている。それが『破戒』だ。著者名と作品名を結びつけて記憶しているだけだ。
士農工商穢多非人という言葉を知ったのは中学か高校の歴史の授業だったと思う。よくわからなかった。具体的にイメージができなかったのである。あるいはそういった可視化されない世界に対して臆病だったのかもしれない。イメージする勇気がなかったのかもしれない。
それにしてもよくできた小説である。
主人公丑松の先輩教師に風間敬之進がいる。士族の出である敬之進は丑松と気心が合う。穢多の丑松、旧士族でありながら没落の道をたどる敬之進。そして旧態依然たる教育界を牛耳る校長、郡視学、町議、そして代議士候補。丑松を敬愛する生徒省吾は敬之進の息子でその姉志保に丑松は心を寄せる。そして親友土屋銀之助。すべてのキャストが機能している素晴らしい作品である。希望の明かりを最後に灯す。
これまで読むことのなかった自分が恥ずかしい。

2022年2月4日金曜日

木下浩一『テレビから学んだ時代』

テレビはあまり視ないけれど、NHKやNHKBSで報道番組や映画、音楽などを視る。民間放送の番組ではテレビ朝日を視ることが比較的多い。路線バスで都内近郊をめぐる番組や刑事もののドラマ。以前必ず視ていた日曜日午後のクイズ番組がなくなってしまった。残念である。
テレビ朝日はその昔、NETと呼ばれていた。正式には日本教育テレビ。アナログの時代は10チャンネルだった。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
テレビがはじまったばかりの頃、テレビ局には一般局と商業教育局というふたつの免許が交付された(準教育局という区分もあったという)。教育局は放映する番組のうち、教育番組、教養番組を一定割合以上流さなければならなかったらしい。「教育」53%以上、「教養」30%以上といった具合に。教育に関しては必ずしも当初のねらいのように学校教育を主にする必要はなく、そもそも学習指導要領に準拠した教育番組が高い視聴率をとって、営業的に成果を上げられるか疑問視されていたこともあり、徐々に社会教育に立ち位置を変えていく。生徒児童ではなく、大人一般を対象にしたのだ。そうした流れのなかで、朝昼夜のワイドショーが生まれ、クイズ番組が量産された。
著者は朝日放送でテレビ番組制作にたずさわった後、メディア史、歴史社会学、ジャーナリズム論を専攻する大学講師である。ベースになっているのは京都大学大学院時代の博士論文というから、本格的な論考といえる。なつかしさだけではない、時代を見つめる視線を感じた。

2022年2月2日水曜日

太宰治『斜陽』

若い頃は寒さなんてへっちゃらだったのに、歳を重ねたせいか、冬の寒さにはめっぽう弱くなった。ましてや今年の冬は寒い。偏西風が西から東に吹いてくれればいいのに今年は蛇行しているので大陸から寒気が日本列島を包みこむように南下してくると気象予報士が解説していた。ただでさえ日々老化(あるいは劣化といっていいかもしれない)しているのに、こう毎日毎日寒くちゃたまったものではない(夏の暑さもだ)。
朝、目がさめる。何時かはその日によって異なる。だいたい6時とか7時とか。目がさめて暗いときもある。時計を見ると5時過ぎだったりする。目がさめて最初に思うのはトイレに行く必要があるかないかである。大丈夫と思えば、二度寝するし、必要ならトイレに行く。トイレに行くにはパジャマのままでは寒いから、ライトダウンを着るなどそれなりの準備が要る。用を済ませたら、洗面所で口をゆすぐ。そして二度寝態勢を整える。すぐに寝入ってしまうこともあるが、たいがいはいちど起きてしまうとなかなか難しい。こういうことが年寄りの特徴なのかもしれない。ラジオを聴いたり、読みかけの本を開いたりもする(厳密にいうと電子ブックリーダーなので電源をオンにする)。それでもなかなか深い眠りは訪れない。たまに10時近くまで寝入ってしまうこともあるが。
角田光代の読書案内的な本を以前読んだ。
角田は『斜陽』を十代の頃読んだそうだが、まったく感情移入できなかった、みたいなことを書いていた。歳を重ねて読みなおしてみてようやく理解できた、みたいなことも書いていた。
40年ぶりに読んでみた。世にいう名作だからといって、誰もが読むべき本なんて、ほんのわずかしかないんじゃないかな。太宰治で読むなら『津軽』と決めている。もう何度も読んで何度も泣いている。歳を重ねて読みなおしてみたい作品もあるだろうが、今の僕は没年の太宰より半世紀近く年上になってしまった。

2022年1月30日日曜日

吉村昭『海馬』

実家の裏手の商店街にお芋屋さんがあった。
幼少の頃だったので記憶はかなり薄れているが、甘味処のような店であったが、高級な店ではなく、庶民的な雰囲気を持っていた。ガラスケースのなかに大学芋があった。店先でさつま芋を蒸していた。夏になると店の奥に重たそうなかき氷機を置き、氷いちごなんぞを供していた。わが家からすぐ目と鼻の先だったこともあり、お芋屋さんのおばさんに声をかけるとうちまで持ってきてくれた。デリバリーなんてことばがまだなかった時代である。
まだ学校に上がる前、同じくらいの歳の子どもたちを引き連れて遊ぶモリくんという少年がいた。3つくらい年長だった。おそらくどこかの公園か何かに連れていってもらったのだろうが、仲間を見失い迷子になってしまったことがある。道もわからず泣きじゃくっていた僕を夕方、帰宅するため路線バスに乗っていたお芋屋さんのおねえさんが見かけた。そんな話が交番に届けられ、僕は無事に保護されたという。
それとはまた別の日にやはり迷子になって、交番のお世話になった(らしい)。そのときは歌の文句じゃないけれど、泣いて泣いてひとり泣いて、泣いて泣き疲れて眠るまで泣いていたという。名前を訊ねられ、自分の名前ではなく当時同居していた叔父の名前をなんどもくりかえしたらしい。電話帳にない叔父の名前をヒントにおまわりさんは「お宅に○○さんという方はいらっしゃいますか」と訊ね、ようやくうちにたどり着いたということだ。
もちろんまったく憶えていない。
この短編集に収められている「闇にひらめく」は今村昌平監督「うなぎ」の原作のひとつである。ひとつであるというのは、『仮釈放』という長編の要素と組み合わさって脚本化されているからである。
どうしてお芋屋さんのことを思い出したのか。なぜ幼少の頃、迷子の常習犯だったのかを思い出したのか。つい1時間ほど前のことなのにすっかり忘れてしまった。

2022年1月26日水曜日

夏目漱石『行人』

阿佐谷にある小さな映画館ラピュタ阿佐ヶ谷では先月まで「のりもの映画祭出発進行!」という特集が組まれていて、瀬川昌治「喜劇急行列車」と熊谷久虎「指導物語」を観た。なんといっても鉄道の旅は心がおどる。
年が明けて、新たな企画がはじまった。「日本推理小説界の巨匠松本清張をみる」という特集である。松本清張といえば鉄道である。「ゼロの焦点」「点と線」「張込み」「砂の器」…。長距離列車のシーンが目に浮かぶ。たまらなく旅をしたくなる。
恥ずかしい話かもしれないが、夏目漱石の作品をほとんど読んでいない。『こころ』『三四郎』…。中学生高校生の時代にほとんど本を読まなかったせいで、本来持つべき日本の青少年としての基礎教養が著しく欠如しているように思う。あの頃、なんとか文庫の百冊のうち、数冊でも読んでいたら、ひとかどの人物になっていただろうと思うことがある(だからいまさらなんなんだ)。
そうえいば『三四郎』は九州から汽車で上京するところから物語がはじまる。関川夏央が『汽車旅放浪記』で取り上げていた。それがきっかけで20年くらい前に読んだ。三四郎に興味があってというより、三四郎が乗っていた長距離列車に惹かれたということだ。寝台列車で九州に行ったことは、残念ながらない。長崎でも佐世保でも西鹿児島でも、いちどブルートレインで旅してみたかった。大人になったら、そのうちできるだろうと思っていたが、そのうちに寝台特急列車がほとんどなくなってしまった。
東京と札幌を寝台列車で往復したことがある。これはこれでよかった。11月の終わりころ。青函トンネルを抜け、はじめて見る北の大地にうっすら雪が積もっていた。
大阪を訪ねた二郎は、遅れてやってきた母と兄一郎夫婦と合流する。しばらく滞在して、和歌山などに出かける。そして帰京する際、大阪から寝台列車に乗る。
その昔、寝台急行「銀河」で大阪に行ったことを思い出した。

2022年1月16日日曜日

カート・ヴォネガット『青ひげ』

昔の読書記録を見ると、カート・ヴォネガット(・ジュニア)を好んで読んでいたのは1987年頃となっている。読書記録といっても、読んだ年月と著者名タイトルを記しただけである。感想などは書いていない。それでも今となってみれば貴重な資料だ。
多少の寄り道はあってにせよ、1985年に大学を出て、テレビCM制作会社でアルバイトをはじめた頃である。それまでは家庭教師や先輩の営むとんかつ店でアルバイトしていた。アルバイトを卒業して、新たなアルバイト生活がはじまったのである(1年後正社員にしてもらったが)。
当時どんな思いで毎日を送っていたのか。その頃読んでいた本を読みなおすと思い出すかもしれないと思い、何年か前から当時読んでいた本を再読している。
邦訳されているカート・ヴォネガットの小説はだいたい読んだつもりでいたところ、『ガラパゴスの箱舟』以降、『タイムクエイク』という新作(といってもずいぶん前に出版されている)があることを知り、さらにはその間にも発表された作品があることを知る。それがこの本『青ひげ』である。
アルメニア人の画家の自伝という体裁になっている。ヴォネガットの小説で自伝的な作品は多い(と思うが、そんな気がするだけかもしれない)。たとえば『母なる夜』は、ハワード・キャンベル・ジュニアの自伝である。たしか『ジェイルバード』もそうだった(ように記憶している)。過去と現在。時間を縦横に飛び交う。ヴォネガットの手にかかる時間の旅は読んでいて心地いい。
読み終わって気付く。もう一冊ある、と。『青ひげ』のあとに『ホーカス・ポーカス』という長編が発表されていた。気が向いたら読んでみよう(ついでにいうと『チャンピオンたちの朝食』もまだ読んでいないみたいだ)。
先の読書記録によるとその当時、筒井康隆もよく読んでいたようである。これはアルバイトをはじめたCM制作会社で知り合ったコグレくんの影響を受けている。