先月、フリーランス新法(特定受託事業者に係る取引の適正化等に関する法律案)が成立した。コロナ禍で菅義偉前首相がエンタメ業界はフリーターが多く関与していて、その処遇を改善したいと語っていたことを思い出す。もちろんこれはフリーランスの言い間違いだろう。
今いる会社はテレビCMをはじめとした映像を制作している。ここのところ訳あって、その歴史を調べている。過去を振りかえるといろんな業種で賞を受賞している。CMの世界にはすぐれたCMを評価するコンクールが昔からあったのだ。
入賞作品を見てみると、食品、電機や精密機械のメーカー、男性用かつら、保険・銀行など金融関係、エステティックサロンなど幅広い。小さい会社ながら、かつては自動車でも入賞作品がある。
賞とはあまり縁がないが、ここ20数年でゲームの仕事が増えている。ゲーム好きのプロデューサーがいるせいもあるだろう(どの制作会社にもいるのだろうが)。僕自身はゲームとは無縁の生活を送っているので仕事にかかわることはほとんどない。近年の制作台帳を見てみるとドラゴンクエスト、バイオハザード、モンスターハンターなどゲームのことをまったく知らない僕でも聞いたことのあるタイトルが並ぶ。
少しはエンタメビジネスを知ろうとこの本を手にとってみた。ここで対象となるエンタメは「興行」「映画」「音楽」「出版」「マンガ」「テレビ」「アニメ」「ゲーム」「スポーツ」の9つの分野。大別するとコンテンツ市場、スポーツ市場、ライブ市場に分けられる。とりわけ興味を持って読んだのは「ゲーム」であるが、一時衰退したと思われる「音楽」「映画」「テレビ」などが思いのほか健闘している、成長している。
エンタメ世界はこれからの日本を支えていく産業になるのだろうか。ちなみに世界のゲーム市場は2025年に30兆円規模になると予想されているそうである。ゲームを知らない僕にはまったく想像しがたい。
2023年5月9日火曜日
2022年12月19日月曜日
スージー鈴木『桑田佳祐論』
サザンオールスターズのファンであるが、熱狂的ってほどでもない。そもそもが熱狂的に応援するアーティストはいないが、ほとんどの曲を聴いているとか、忘れた頃にふと聴きたくなるアーティストなら何人か(何組か)いる。サザンもそのひと組かもしれない。
楽曲を聴くときには詞を重視する。重聴とでもいったらいいのか。好きな作詞家は北山修であったり、中島みゆきであったり、小椋佳、松本隆、阿久悠、なかにし礼であったり…。作詞を専門とする人もいれば、作詞作曲をひとりでこなして、完結させる人もいる。音楽のことはまったくわからないのでどうしても詞を味わう聴き方をしてしまうのである。
サザンがデビューしたのは1978年。僕がめでたく大学に進むことができた年だ。はじめての大学祭、所属したサークルの模擬店で朝方まで酒を飲んで何度も歌ったのが「勝手にシンドバッド」だった。不思議な歌だった。どう考えても前年にヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を合成したようなタイトルだったからだ。
サザンオールスターズの楽曲のほとんどを(KUWATA BANDも含めて)桑田佳祐が作詞作曲を担当している。キャッチーな歌詞、心に沁みるフレーズ、意味不明のことば、こうした要素から歌詞は成り立っている。心に沁みるフレーズは桑田でなくても書くことができる。ずっと気になっていたのはキャッチーで意味不明なことばである。ギターで自作の曲を弾きながら、心に浮かんだことばを「風まかせ」に羅列しているようにも思える。
もしかすると桑田はボーカルを楽器の1パートと考えているんじゃないか。歌声はキーボードやパーカッションのようにバンド編成のひとつ。だから楽曲に与することばを声で構成する。そうすることでボーカルは音楽の一部となって、全体としての楽曲に貢献する。けっして邪魔しない。主張もしない。
それって素晴らしいことだ。
楽曲を聴くときには詞を重視する。重聴とでもいったらいいのか。好きな作詞家は北山修であったり、中島みゆきであったり、小椋佳、松本隆、阿久悠、なかにし礼であったり…。作詞を専門とする人もいれば、作詞作曲をひとりでこなして、完結させる人もいる。音楽のことはまったくわからないのでどうしても詞を味わう聴き方をしてしまうのである。
サザンがデビューしたのは1978年。僕がめでたく大学に進むことができた年だ。はじめての大学祭、所属したサークルの模擬店で朝方まで酒を飲んで何度も歌ったのが「勝手にシンドバッド」だった。不思議な歌だった。どう考えても前年にヒットした沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」を合成したようなタイトルだったからだ。
サザンオールスターズの楽曲のほとんどを(KUWATA BANDも含めて)桑田佳祐が作詞作曲を担当している。キャッチーな歌詞、心に沁みるフレーズ、意味不明のことば、こうした要素から歌詞は成り立っている。心に沁みるフレーズは桑田でなくても書くことができる。ずっと気になっていたのはキャッチーで意味不明なことばである。ギターで自作の曲を弾きながら、心に浮かんだことばを「風まかせ」に羅列しているようにも思える。
もしかすると桑田はボーカルを楽器の1パートと考えているんじゃないか。歌声はキーボードやパーカッションのようにバンド編成のひとつ。だから楽曲に与することばを声で構成する。そうすることでボーカルは音楽の一部となって、全体としての楽曲に貢献する。けっして邪魔しない。主張もしない。
それって素晴らしいことだ。
2022年11月6日日曜日
山内マリコ『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』
今年は松任谷由実デビュー50年にあたるという。テレビやラジオに出演する機会も増えている。アーティスト生活50周年を記念するアルバムも発売された。タイトルは「ユーミン万歳!」、CD3枚に51曲が収録されている。デビュー50年という俳優や歌手、タレントはこれまでも多く見てきたけれど、ユーミンよ、おまえもかと思うと少し感慨深い。
7月にラジオでリスナーのリクエストで選ぶユーミンのベスト50という企画がオンエアされた。1位は「守ってあげたい」だった。50年も第一線で活躍しているとファンの年齢層も幅広い。ベストを選ぶというのもなかなかたいへんだ。僕の世代の前後、70年代後半から80年代前半に高校生や大学生だった人たちなら、アルバム「SURF&SNOW」「PEARL PIACE」「VOIGER」「NO SIDE」あたりに収録された楽曲の人気が高いのではないかと思う。僕はどちらかというと荒井由実時代の曲が好きで、「ひこうき雲」~「14番目の月」をよく聴く。
ラジオを聴いていたら、作者である山内マリコが出演している番組があって、この本が上梓されることを知った。
幼少のユーミンが成長して、アルバム「ひこうき雲」を完成させるまでのお話。もちろん小説と銘打っているとおり、フィクションであるだろうけれど、どこまで創作でどこまで事実かわからない。ユーミンは少しずつ大人になっていくなかでその後のヒット曲のヒントになるような出来事や風景に出会う。それはそれでありそうな話であるが、これらは創作のにおいがする。散りばめられたエピソードの数々は丹念に取材をしたのだろう。後々にうまくつながるようになっている。60年代後半の音楽シーンも精細に調べられている。
足の悪い同級生が登場する。シングル曲「ひこうき雲」誕生に関係している。ここがいちばん印象的だった。このエピソードが創作であるとしたら、とてもいい小説だと思う。
7月にラジオでリスナーのリクエストで選ぶユーミンのベスト50という企画がオンエアされた。1位は「守ってあげたい」だった。50年も第一線で活躍しているとファンの年齢層も幅広い。ベストを選ぶというのもなかなかたいへんだ。僕の世代の前後、70年代後半から80年代前半に高校生や大学生だった人たちなら、アルバム「SURF&SNOW」「PEARL PIACE」「VOIGER」「NO SIDE」あたりに収録された楽曲の人気が高いのではないかと思う。僕はどちらかというと荒井由実時代の曲が好きで、「ひこうき雲」~「14番目の月」をよく聴く。
ラジオを聴いていたら、作者である山内マリコが出演している番組があって、この本が上梓されることを知った。
幼少のユーミンが成長して、アルバム「ひこうき雲」を完成させるまでのお話。もちろん小説と銘打っているとおり、フィクションであるだろうけれど、どこまで創作でどこまで事実かわからない。ユーミンは少しずつ大人になっていくなかでその後のヒット曲のヒントになるような出来事や風景に出会う。それはそれでありそうな話であるが、これらは創作のにおいがする。散りばめられたエピソードの数々は丹念に取材をしたのだろう。後々にうまくつながるようになっている。60年代後半の音楽シーンも精細に調べられている。
足の悪い同級生が登場する。シングル曲「ひこうき雲」誕生に関係している。ここがいちばん印象的だった。このエピソードが創作であるとしたら、とてもいい小説だと思う。
2022年9月30日金曜日
近田春夫『筒美京平 大ヒットメーカーの秘密』
作曲家筒美京平が亡くなったのは2020年。
流行歌は人並みに好きで、そのつくり手には興味があった。ただ、僕が考えるつくり手は作詞家であり、作曲家にはさほど関心を持てなかった。
筒美京平の名前は以前から知っていたけれど、強く印象づけられたのは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だろうが、それも作詞家松本隆によるヒット曲というイメージがある。松本隆に関する本は何冊か読んでいたこともある。
筒美の死後、テレビ、ラジオで追悼番組が特集される。そこで彼の遺した楽曲にあらためてふれる。先ほども書いたように僕はあまり作曲家について知識がない。音楽は目に見えないし、僕のような素人には言語化するのが難しい。流行歌の作曲家として名前が浮かぶのは加藤和彦、荒井(松任谷)由実、細野晴臣、大瀧詠一、中島みゆきなどなど。フォーク、ニューミュージック、Jポップ(これらはどこで線引きしていいか今となってはわからない)の人々である。
追悼番組を通じて、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、ジュディ・オング「魅せられて」をはじめとするヒットメーカーだと知る。ああ、この作家の曲づくりってこうだよね、みたいなクセがない。どの曲も誰が書いたかわからないような新鮮さがある。その秘密を解き明かすのが近田春夫である。
流行歌は人並みに好きで、そのつくり手には興味があった。ただ、僕が考えるつくり手は作詞家であり、作曲家にはさほど関心を持てなかった。
筒美京平の名前は以前から知っていたけれど、強く印象づけられたのは太田裕美の「木綿のハンカチーフ」だろうが、それも作詞家松本隆によるヒット曲というイメージがある。松本隆に関する本は何冊か読んでいたこともある。
筒美の死後、テレビ、ラジオで追悼番組が特集される。そこで彼の遺した楽曲にあらためてふれる。先ほども書いたように僕はあまり作曲家について知識がない。音楽は目に見えないし、僕のような素人には言語化するのが難しい。流行歌の作曲家として名前が浮かぶのは加藤和彦、荒井(松任谷)由実、細野晴臣、大瀧詠一、中島みゆきなどなど。フォーク、ニューミュージック、Jポップ(これらはどこで線引きしていいか今となってはわからない)の人々である。
追悼番組を通じて、いしだあゆみ「ブルー・ライト・ヨコハマ」、尾崎紀世彦「また逢う日まで」、郷ひろみ「よろしく哀愁」、ジュディ・オング「魅せられて」をはじめとするヒットメーカーだと知る。ああ、この作家の曲づくりってこうだよね、みたいなクセがない。どの曲も誰が書いたかわからないような新鮮さがある。その秘密を解き明かすのが近田春夫である。
近田によれば、筒美京平はクラシック、ジャズ、ロック、ポップスなど洋楽を読み解くスキルを持っていて、それらをベースに新たなサウンドを構築する能力に長けていたという。歌い手の声に合わせて、時代の変化に即して、人々が求める楽曲をほぼ無尽蔵に生産できたという。
彼の作品に彼らしさがないのは彼のなかに蓄積されたアイデアソースの豊富さゆえなのである。その才能を少年時代から培ってきた筒美京平はやはり稀代の作曲家なのであろう。
彼の作品に彼らしさがないのは彼のなかに蓄積されたアイデアソースの豊富さゆえなのである。その才能を少年時代から培ってきた筒美京平はやはり稀代の作曲家なのであろう。
2022年9月8日木曜日
藤田久美子『松本隆のことばの力』
今年になって何回か軽井沢を訪れている。
それなりに用事があって出かけているのであまり観光はしていない。そもそもが軽井沢は、僕にとって降ってわいたような土地であり、多くの観光地、リゾート地同様これまでまったく無縁の町であった。軽井沢まで出かけて、どこか行きたいところはありますか、見てみたいところはありますかなどと訪ねられても咄嗟に答えが思い浮かばない。これが長崎だったら、グラバー邸ですかね、松山だったら道後温泉ですかねなどと恥ずかしながらわずかな知識を絞り出すことはけっして不可能ではない。これまで軽井沢とあまりに接点のない生活を送ってきたせいか、知識がないどころか興味関心がない。
宿所で地図を見る。今ではタブレット端末やスマートフォンで見ることができる。近くに見どころありそうなものはないか眺めてみる。万平ホテルが目に入る。調べてみると由緒あるリゾートホテルのようである。宿所から徒歩15分。朝の散歩にちょうどいい距離だ。
翌朝、川沿いの道を歩いてみる。矢ヶ崎川という。まわりはほとんど別荘か、ときおり企業の保養施設のような建物が見える。木立のなかをリスが走っている。
万平ホテルが見えてきた。フランスの、ドイツとの国境に近いアルザス地方で見かけるような建物である。もちろんアルザス地方に行ったことはいちどもない。軽井沢の町をクルマで移動しているとこのホテルを模した建築物が多いように思った。ある意味軽井沢を象徴する建物なのだろう。
万平ホテルはジョン・レノンの愛した宿として、また宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」の舞台として知られる創業130年の名門ホテルである。
「風立ちぬ」といえば、松本隆が作詞し、大瀧詠一が作曲した松田聖子のヒット曲があった。そんなことを思い出す。ここで堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出すのが教養ある読書人なのであろうが、そのうちに読んでみたいと思っている。
それなりに用事があって出かけているのであまり観光はしていない。そもそもが軽井沢は、僕にとって降ってわいたような土地であり、多くの観光地、リゾート地同様これまでまったく無縁の町であった。軽井沢まで出かけて、どこか行きたいところはありますか、見てみたいところはありますかなどと訪ねられても咄嗟に答えが思い浮かばない。これが長崎だったら、グラバー邸ですかね、松山だったら道後温泉ですかねなどと恥ずかしながらわずかな知識を絞り出すことはけっして不可能ではない。これまで軽井沢とあまりに接点のない生活を送ってきたせいか、知識がないどころか興味関心がない。
宿所で地図を見る。今ではタブレット端末やスマートフォンで見ることができる。近くに見どころありそうなものはないか眺めてみる。万平ホテルが目に入る。調べてみると由緒あるリゾートホテルのようである。宿所から徒歩15分。朝の散歩にちょうどいい距離だ。
翌朝、川沿いの道を歩いてみる。矢ヶ崎川という。まわりはほとんど別荘か、ときおり企業の保養施設のような建物が見える。木立のなかをリスが走っている。
万平ホテルが見えてきた。フランスの、ドイツとの国境に近いアルザス地方で見かけるような建物である。もちろんアルザス地方に行ったことはいちどもない。軽井沢の町をクルマで移動しているとこのホテルを模した建築物が多いように思った。ある意味軽井沢を象徴する建物なのだろう。
万平ホテルはジョン・レノンの愛した宿として、また宮崎駿のアニメーション映画「風立ちぬ」の舞台として知られる創業130年の名門ホテルである。
「風立ちぬ」といえば、松本隆が作詞し、大瀧詠一が作曲した松田聖子のヒット曲があった。そんなことを思い出す。ここで堀辰雄の『風立ちぬ』を思い出すのが教養ある読書人なのであろうが、そのうちに読んでみたいと思っている。
2022年8月3日水曜日
延江浩『松本隆 言葉の教室』
まだ学生だった1981年にはディンギーなどという言葉は知らなかった。
大瀧詠一が歌ってヒットした「君は天然色」という楽曲を聴いていると、「渚を滑るディンギーで」という一節が登場する。渚を滑るディンギーとは何ぞやと思ったものである。ほどなくして当時のナンバーワンアイドル歌手である松田聖子が新曲「白いパラソル」で「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」と歌い出した。ディンギーとは何なのか。その頃は特段その意味を知ることが重要とも思えなかったのでほったらかしにしておいた。渚を滑って、風を切るディンギーの何たるかを知らないからと言って大瀧詠一や松田聖子の歌を聴くうえで差し障りはなかったのである。
この2曲。作詞はともに松本隆。
以前『阿久悠と松本隆』という本を読んだ。歌謡曲(流行歌、JPOPなどと呼び方はさまざまであるが)の代表的なつくり手に光を当てながら、ヒット曲の系譜が語られる。時代の渇きを歌にしてきた阿久と時代に寄り添うことのなかった松本隆が対照的に描かれている。
作品のなかでディンギーを軽快に操る松本隆は東京青山生まれ。東京に生まれ育ったものとしては(そうイメージしてしまうのも偏見かもしれないが)、青山生まれで青南小学校から慶應中等部に進んだと聞けば、どんな環境で育ったかたいてい想像がつく。裕福に育ったのだなと思う。裕福なんて言葉を使うと貧乏人のやっかみのように聞こえていやなのだが、松本は物質的に恵まれた生活をしていただけでなく、後に作詞家として大成するだけの素養を少年時代の読書によって育み、バンド活動においても細野晴臣、大瀧詠一ら才能豊かなメンバーと出会うだけのすぐれた資質を育んできたように思える。松本隆のよさのひとつは、何かに没頭できること、没頭できることを見い出す力があったことなのではないか。
あれから何年か経って、ようやくディンギーが小型のヨットと知った。
2022年5月23日月曜日
指南役『黄金の6年間 1978-1983 素晴らしきエンタメ青春時代』
今年は沖縄返還50年にあたる。NHK朝の連続ドラマも沖縄を舞台にしてはじまった。
先日の新聞に石垣出身の元ボクシング世界チャンピオン具志堅用高のインタビュー記事が載っていた。沖縄が日本に復帰した年、インターハイに出場するため具志堅は本土に渡る。パスポートはもう要らなかった。
その4年後、1976年10月10日。高校の文化祭が終わった夜、僕はひとり飯田橋でラーメンを食べていた。店内のテレビはボクシングの試合を中継していた。テレビから沸き起こる歓声に加えて、店にいた多くの客たちもどよめく。WBA世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高誕生の瞬間だった。
JR飯田橋駅から九段に向かって歩く途中に「ひろかわ」というとんかつ屋があった。後で知ったことだが、石垣島から上京した具志堅はこの店でアルバイトをしていたという(僕も駅前で何度か見かけたことがあった)。その日歓声を上げたラーメン屋のお客さんは地元で働く具志堅をずっと応援していた人たちだったに違いない。
著者の指南役によれば、「黄金の6年間」とは1978年から83年までの6年間をさす。東京が最も面白く、猥雑でエキサイティングだった時代、音楽や映画、小説、テレビ、広告、雑誌などメディアを横断してさまざまな分野のクロスオーバー化が進み、新たな才能が生み出された時代であるという。TBSテレビで「ザ・ベストテン」や「3年B組金八先生」がはじまり、村上春樹が小説を書きはじめた時代だ。
こういった時代区分は恣意的なものが多いと思われるが、事例が多く積み重ねられることによって不思議と説得力が生まれてくる。それと同時にこの6年間の前後の時代にも光が射し込んでくる。とりわけ黄金時代の夜明け前は興味深い。
どういうわけか、この本を読み終えて、具志堅用高の世界王座奪取を思い出した。それから1年と2ヶ月。黄金の6年間がはじまる。そして4月に僕は大学生になった。
2019年6月6日木曜日
村上春樹編訳『セロニアス・モンクのいた風景』
2014年3月半ばの週末。安西水丸の仕事場に一本の電話がかかる。
村上春樹からだった。来週あたり久しぶりに青山でお昼でも食べましょう、食事でもしながら(その年の夏に刊行予定の単行本の)打ち合わせでもしましょう、という内容だった。もちろん本当かどうかはわからない。僕お得意のつくり話である。
その週末、安西水丸は鎌倉のアトリエで帰らぬ人となる。
事務所の女性と家族以外で安西水丸が最後に会話をしたのは村上春樹だったかもしれない。もちろんつくり話だけど。
1990年代の終わりか2000年代がはじまったばかりの頃か、南青山のバーのカウンターで村上春樹を見た。隣でパイプをくゆらせていたのは安西水丸ではなかったか。もしかしたらどこかの編集者だったかもしれない。バーの夜にしては比較的はやい時間に席をたち、その一行は帰って行った。その頃、彼が日本にいたかどうかも定かでない。村上春樹は小柄な中年男で顔が村上春樹でなかったらおそらく誰も気が付かなかったに違いない。店内にはいつものようにジャズのCDがかかっていた。
2016年、東京練馬のちひろ美術館で「村上春樹とイラストレーター」というイベントが開催された。村上春樹が安西水丸に装幀を依頼していた本がこの本だと遅ればせながら知る。その「あとがき」がパネル展示されていた。モンクにハイライトをねだられた安西水丸、その仕事を引き継いでくれた和田誠(ハイライトのパッケージをデザインしたのも和田誠だ)。そんなエピソードが書かれていた。
その週末、安西水丸は鎌倉のアトリエで帰らぬ人となる。
事務所の女性と家族以外で安西水丸が最後に会話をしたのは村上春樹だったかもしれない。もちろんつくり話だけど。
1990年代の終わりか2000年代がはじまったばかりの頃か、南青山のバーのカウンターで村上春樹を見た。隣でパイプをくゆらせていたのは安西水丸ではなかったか。もしかしたらどこかの編集者だったかもしれない。バーの夜にしては比較的はやい時間に席をたち、その一行は帰って行った。その頃、彼が日本にいたかどうかも定かでない。村上春樹は小柄な中年男で顔が村上春樹でなかったらおそらく誰も気が付かなかったに違いない。店内にはいつものようにジャズのCDがかかっていた。
2016年、東京練馬のちひろ美術館で「村上春樹とイラストレーター」というイベントが開催された。村上春樹が安西水丸に装幀を依頼していた本がこの本だと遅ればせながら知る。その「あとがき」がパネル展示されていた。モンクにハイライトをねだられた安西水丸、その仕事を引き継いでくれた和田誠(ハイライトのパッケージをデザインしたのも和田誠だ)。そんなエピソードが書かれていた。
ふだん仕事をしながら音楽を聴くけれど、ジャズは苦手なジャンルだった。ジャズは用語が難しい。それでもいつかこの本をちゃんと読んで「あとがき」にたどり着かなくちゃと思っていた。
セロニアス・モンクのアルバムを聴きながら読み終えた。青山のバーでよく流れていたのはたぶんモンクだったに違いない。カウンターに並んでいた村上春樹と安西水丸が目に浮かぶ。
セロニアス・モンクのアルバムを聴きながら読み終えた。青山のバーでよく流れていたのはたぶんモンクだったに違いない。カウンターに並んでいた村上春樹と安西水丸が目に浮かぶ。
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