暑い10月だった。
それももう終わろうとする頃になって、ようやく気温が下がってきた。それでも南の海上では台風が発生し、少しずつ日本列島に向かっている。
先日総選挙が行われた。大方の予想通り、与党の大敗。過半数を割った。裏金問題を収支報告書不記載問題と言い換えたりしてるんだから勝てるはずもない。自民党ではペナルティとして非公認や比例代表との重複を認めないなどしていた。裏金をつくった議員が多く落選していた。非公認ながら当選した人もいる。どうなんだろう。起訴されなかったとはいえ、政治生命は終わっているはず。おそらく今後政治家を続けたとしても大きな汚点を残した議員たちは要職には付けないだろう。大方の民意が拒否したのに当選させた地元っていうのもなんだか恥ずかしい気がする。
家永三郎の名は高校生のときから知っていた。当時教科書裁判所という訴訟が争われていたからだ。しかも氏は高校の大先輩にあたる人でだった。
教科書裁判について詳しいことは知らないが、1962年の教科書検定で家永らが執筆した日本史の教科書が不合格となったことが発端であるらしい。たしか戦争の記述に関することだったと聞いたことがある。
大学2年の夏休みだったか、書店でこの本を見つけた。日本史は好きな科目ではあったが、近現代史は不勉強なこともあり、手に取ってみたのである。へえ、そういうことだったのかとただただ感心しながら読んだ記憶がある。この本が上梓されたのは1968年。戦争が終わって23年後にはこのような考察がなされていたのである。その後史料も増え、より精度の高い著作も生まれたかもしれないが、僕にはじゅうぶん過ぎる内容だった。
大学生になって少しは専門的な本を読むようになった。おそらくこの本が最初だったと思う。読み終わったとき、俺は家永三郎の『太平洋戦争』を読んだぞ、という自信が沸いたことを今でもしっかり憶えている。本の中身はさておいて。
2024年10月30日水曜日
2024年9月20日金曜日
クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』
9月も半ばを過ぎたというのに猛暑が続いている。さすがに朝晩は凌ぎやすくなったというものの湿度は高く、涼しさも生温い。暑さ寒さも彼岸までと昔の人は言ったものだが、もう少し夏が続きそうである。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。
2022年2月4日金曜日
木下浩一『テレビから学んだ時代』
テレビはあまり視ないけれど、NHKやNHKBSで報道番組や映画、音楽などを視る。民間放送の番組ではテレビ朝日を視ることが比較的多い。路線バスで都内近郊をめぐる番組や刑事もののドラマ。以前必ず視ていた日曜日午後のクイズ番組がなくなってしまった。残念である。
テレビ朝日はその昔、NETと呼ばれていた。正式には日本教育テレビ。アナログの時代は10チャンネルだった。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
テレビがはじまったばかりの頃、テレビ局には一般局と商業教育局というふたつの免許が交付された(準教育局という区分もあったという)。教育局は放映する番組のうち、教育番組、教養番組を一定割合以上流さなければならなかったらしい。「教育」53%以上、「教養」30%以上といった具合に。教育に関しては必ずしも当初のねらいのように学校教育を主にする必要はなく、そもそも学習指導要領に準拠した教育番組が高い視聴率をとって、営業的に成果を上げられるか疑問視されていたこともあり、徐々に社会教育に立ち位置を変えていく。生徒児童ではなく、大人一般を対象にしたのだ。そうした流れのなかで、朝昼夜のワイドショーが生まれ、クイズ番組が量産された。
著者は朝日放送でテレビ番組制作にたずさわった後、メディア史、歴史社会学、ジャーナリズム論を専攻する大学講師である。ベースになっているのは京都大学大学院時代の博士論文というから、本格的な論考といえる。なつかしさだけではない、時代を見つめる視線を感じた。
2019年3月26日火曜日
ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』
ずっと常識だと思っていたことがいつの間かそうでなくなっている。
高校生の頃、もう40年以上前のことだが、部活動の練習中に水を飲むとバテやすくなるだとかそんな理由で水分補給ができなかった(戦争中の考え方の名残りという考えもあるらしい)。今、運動時水分補給法みたいな法律が施行されたら当時の指導者たちはこぞって有罪判決を受けることだろう。
歯磨きの仕方だってそうだ。これは50年以上前。歯ブラシを上下に動かして磨くように教わった。それも保健の先生が朝礼台の上で両手じゃなきゃ持てないような巨大な歯ブラシを使い、音楽に合わせてパフォーマンスしていた。もっと昔だと蒸気機関車が走ると畑の作物が育たなくなるなど、こんなことを挙げていたらきりがない。
今風のかっこいい経営者や若者に支持されるオピニオンリーダー的な人が常識を覆せなどと言うが、何も無理して覆さなくても時が経てば勝手に覆されていく。もちろん覆された常識がいつまで常識という地位にとどまるのか知れたものじゃない。
とりあえず思い浮かぶ身のまわりのことでさえ変わっていくのだ。地球とか世界とかグローバルな視点で見たら、もっと目を見張る変化があっておかしくない。そんな気づかなさに気づかせてくれる考え方、ものの見方がファクトフルネスという発想である。
東南アジアやアフリカ、南アメリカが発展途上国で場所によっては未開民族が住んでいて、風土に根づいた不治の病が蔓延しているという印象を50年前以上に僕たちは植え付けられた(もちろん正確にそう教わったわけではなく、あくまで印象としてであるが)。事実=ファクト=客観的統計はそうではない。50年の間にかつての途上国は平均的な豊かさを獲得している。よほどの紛争や天変地異がない限り「健康で文化的な最低限度の」生活を送っている。
長年にわたってそんなことに気づきさえしなかったわれわれの方がよほど未開な民族だ。
高校生の頃、もう40年以上前のことだが、部活動の練習中に水を飲むとバテやすくなるだとかそんな理由で水分補給ができなかった(戦争中の考え方の名残りという考えもあるらしい)。今、運動時水分補給法みたいな法律が施行されたら当時の指導者たちはこぞって有罪判決を受けることだろう。
歯磨きの仕方だってそうだ。これは50年以上前。歯ブラシを上下に動かして磨くように教わった。それも保健の先生が朝礼台の上で両手じゃなきゃ持てないような巨大な歯ブラシを使い、音楽に合わせてパフォーマンスしていた。もっと昔だと蒸気機関車が走ると畑の作物が育たなくなるなど、こんなことを挙げていたらきりがない。
今風のかっこいい経営者や若者に支持されるオピニオンリーダー的な人が常識を覆せなどと言うが、何も無理して覆さなくても時が経てば勝手に覆されていく。もちろん覆された常識がいつまで常識という地位にとどまるのか知れたものじゃない。
とりあえず思い浮かぶ身のまわりのことでさえ変わっていくのだ。地球とか世界とかグローバルな視点で見たら、もっと目を見張る変化があっておかしくない。そんな気づかなさに気づかせてくれる考え方、ものの見方がファクトフルネスという発想である。
東南アジアやアフリカ、南アメリカが発展途上国で場所によっては未開民族が住んでいて、風土に根づいた不治の病が蔓延しているという印象を50年前以上に僕たちは植え付けられた(もちろん正確にそう教わったわけではなく、あくまで印象としてであるが)。事実=ファクト=客観的統計はそうではない。50年の間にかつての途上国は平均的な豊かさを獲得している。よほどの紛争や天変地異がない限り「健康で文化的な最低限度の」生活を送っている。
長年にわたってそんなことに気づきさえしなかったわれわれの方がよほど未開な民族だ。
2018年11月4日日曜日
寺本潔/澤達大編著『観光教育への招待』
もう30年近く前、タヒチに行った。
青い海とスコールがあるだけで何もない島で一週間ほど何もしないで過ごした。喉が乾いたのでどこかでビールでも飲もうということになった。妻と並んでカウンターに座ってビールを注文する。“ドゥービエール、シルヴプレ”とかなんとか言ったのだろう。ヒナノビール(タヒチで醸造されているビール)が瓶で2本置かれた。
フランス語は少し齧ったことがあった。少し齧ったところで歯ぐきから血が出たのでやめた。それはともかくカウンターの隣に腰かけているおそらく西洋人であろう男性が背の高いグラスに注がれた生ビールを飲んでいる。常夏の島である。気分としては瓶ビールより生ビールだ。妻も生ビールが飲みたいという。やれやれ、どう言ったらいいのだろうと思った瞬間、ふと記憶が呼びさまされた。
生ビールは“アンプレシオン”だ。男性名詞だ。
そこでこんどは“ドゥープレシオン、シルヴプレ”と言うとカウンターの中の男は(おそらくは“ダコ”とかなんとか言ったのだろう)背の高いグラスにサーバからビールを注ぎはじめた。2杯の生ビールが並べられた。
つくづく記憶というのは不思議なものだ。学生の頃、暇にまかせて聴いていたNHKのラジオ講座で生ビールを注文する場面があった。それを思い出したのである、奇跡的に。
日本は観光立国をめざしている。
どこに行っても訪日外国人であふれている。彼らのなかにも日本語の勉強を齧った者もいるだろう。そして歯ぐきから血が出て挫折した者も。そういう観光客たちにおいしい生ビールを注いであげることこそ観光教育のねらいである。
というのは冗談で、自分たちの暮らす地域にある観光資源の魅力や課題を見出していく、そして観光客の立場に立って、観光マップやポスター、ガイドなどをつくり、発表する実践が観光教育であるという。そう考えると普通の社会科や地理よりもたのしい授業になりそうな気がしてくる。
青い海とスコールがあるだけで何もない島で一週間ほど何もしないで過ごした。喉が乾いたのでどこかでビールでも飲もうということになった。妻と並んでカウンターに座ってビールを注文する。“ドゥービエール、シルヴプレ”とかなんとか言ったのだろう。ヒナノビール(タヒチで醸造されているビール)が瓶で2本置かれた。
フランス語は少し齧ったことがあった。少し齧ったところで歯ぐきから血が出たのでやめた。それはともかくカウンターの隣に腰かけているおそらく西洋人であろう男性が背の高いグラスに注がれた生ビールを飲んでいる。常夏の島である。気分としては瓶ビールより生ビールだ。妻も生ビールが飲みたいという。やれやれ、どう言ったらいいのだろうと思った瞬間、ふと記憶が呼びさまされた。
生ビールは“アンプレシオン”だ。男性名詞だ。
そこでこんどは“ドゥープレシオン、シルヴプレ”と言うとカウンターの中の男は(おそらくは“ダコ”とかなんとか言ったのだろう)背の高いグラスにサーバからビールを注ぎはじめた。2杯の生ビールが並べられた。
つくづく記憶というのは不思議なものだ。学生の頃、暇にまかせて聴いていたNHKのラジオ講座で生ビールを注文する場面があった。それを思い出したのである、奇跡的に。
日本は観光立国をめざしている。
どこに行っても訪日外国人であふれている。彼らのなかにも日本語の勉強を齧った者もいるだろう。そして歯ぐきから血が出て挫折した者も。そういう観光客たちにおいしい生ビールを注いであげることこそ観光教育のねらいである。
というのは冗談で、自分たちの暮らす地域にある観光資源の魅力や課題を見出していく、そして観光客の立場に立って、観光マップやポスター、ガイドなどをつくり、発表する実践が観光教育であるという。そう考えると普通の社会科や地理よりもたのしい授業になりそうな気がしてくる。
2017年7月28日金曜日
根来龍之『プラットフォームの教科書』
道を訊ねられることが少なからずある。
銀座の三原橋の交差点で新橋演舞場はどこですか、みたいに。晴海通りを指差してこの先に万年橋という信号がありますからそこを右に。ルノアールの看板が目印です。少し行くと采女橋という信号があるので直進してください。左手に見えてきますよ、などとおしえる。
不思議なことにほとんどの人は僕の知っている場所を訊いてくる。昔、京都の大丸の前で烏丸駅はどこですかと話しかけられたこともある。
それはいいとして、もしもあるとき見知らぬ人からプラットフォームってどういうものなんですかと訊ねられたら、おそらく答に窮するだろう。しかし人生というものは何が起きるかわからない。その矢先書店で目にとまったのがこの本だった。
読めばわかるけどそれを人に伝えることが難しいことってあるよね。とりわけICT関連で多い。ひととおり読んで、そうかそういうことだったんだと理解したものの(それを理解と呼んでいいなら)、やはり道を訊ねるみたいに訊かれたら答えられるかどうか、自信がない。
休日お昼にラーメンが食べたくなったとする。その際の選択肢としては少し歩いて駅前のラーメン店に行くか、スーパー、コンビニで購入してうちでつくるかが考えられる。これはプラットフォームではない(僕の勝手な解釈だけど)。玉子やほうれん草を茹でたり、ねぎをきざんだり、場合によっては豚肉のかたまりを買ってきてチャーシューからつくることだってある。人によってはメンマだって炒めるにちがいない。もちろんお店で食べるとしてもこうしたプロセスは当然必要だ。
ではプラットフォームとはなにか?
それはカップラーメンではないだろうか。ラーメンを食するという欲求を満たすあらゆる工程がレイヤー化されている。誰もがそこに参加できる。お湯を沸かし、注ぐだけで均質な利便性を得られる。
ちょっと違うかもしれないけど、こんど道で訊ねられたらそう答えるようにしよう。
銀座の三原橋の交差点で新橋演舞場はどこですか、みたいに。晴海通りを指差してこの先に万年橋という信号がありますからそこを右に。ルノアールの看板が目印です。少し行くと采女橋という信号があるので直進してください。左手に見えてきますよ、などとおしえる。
不思議なことにほとんどの人は僕の知っている場所を訊いてくる。昔、京都の大丸の前で烏丸駅はどこですかと話しかけられたこともある。
それはいいとして、もしもあるとき見知らぬ人からプラットフォームってどういうものなんですかと訊ねられたら、おそらく答に窮するだろう。しかし人生というものは何が起きるかわからない。その矢先書店で目にとまったのがこの本だった。
読めばわかるけどそれを人に伝えることが難しいことってあるよね。とりわけICT関連で多い。ひととおり読んで、そうかそういうことだったんだと理解したものの(それを理解と呼んでいいなら)、やはり道を訊ねるみたいに訊かれたら答えられるかどうか、自信がない。
休日お昼にラーメンが食べたくなったとする。その際の選択肢としては少し歩いて駅前のラーメン店に行くか、スーパー、コンビニで購入してうちでつくるかが考えられる。これはプラットフォームではない(僕の勝手な解釈だけど)。玉子やほうれん草を茹でたり、ねぎをきざんだり、場合によっては豚肉のかたまりを買ってきてチャーシューからつくることだってある。人によってはメンマだって炒めるにちがいない。もちろんお店で食べるとしてもこうしたプロセスは当然必要だ。
ではプラットフォームとはなにか?
それはカップラーメンではないだろうか。ラーメンを食するという欲求を満たすあらゆる工程がレイヤー化されている。誰もがそこに参加できる。お湯を沸かし、注ぐだけで均質な利便性を得られる。
ちょっと違うかもしれないけど、こんど道で訊ねられたらそう答えるようにしよう。
2013年11月16日土曜日
ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』
電子ブックリーダーを買った。
以前はタブレット端末でKindleの無料本を読みあさっていた。ところがタブレット端末ではバッテリの持ちとか、気になるところも多く、またガジェット好きな知人からKindleペーパーホワイトの話を聞かされ(実はこのおススメがいちばん大きかったのだが)、じゃあ一台という気持ちになった。
たまたま三省堂に紙の本(紙の本という言い方もおかしな話だ)を買いに行ったとき、そこに展示されていたLideoという電子ブックリーダーをいじってみて、これでじゅうぶんじゃないかと思ったのである。で、その場で買ってしまったのである。さほど高額な買い物ではない。スペックなどを比較検討したり、口コミを調べたりして深く悩むこともなく即決した(その辺の自分の性格というのがある意味恐ろしくもあるのだが)。
三省堂は高校入学前に教科書を買いに行った本屋である。当時はまだ木造の本屋然としていて神田らしい風情があった。いろいろと思い出も多い。Lideoが三省堂になければおそらく衝動買いをすることもなかっただろう。ブックファーストやジュンク堂だったら買わなかったかも知れない。逆に三省堂にソニーのリーダーが置いてあったらそっちを買っていたかも知れない。
僕は三省堂のファンなのだ。
今、マス広告よりも知人や友人のおススメが効くと言われている。意識的にアンバサダー、つまり推奨者=ファンを見出し、おススメをソーシャルネットワークなどで広めてもらうマーケティング手法が注目されている。この本ではそんなシステムの有効性と活用法が紹介されている。
義理人情浪花節的商売が普通だった日本人の感覚としてはごく当たり前のことである。おススメが効くから、システマティックに商売に取り入れましょうよ、なんて大真面目に書かれてあると笑っちまうのである。
ちなみにこの本は紙の本で読んだ(やっぱり紙の本で読んだという言い方はへんだと思う)。
Lideoを友だちにおススメするかと訊かれたら、それは微妙だ。
2013年10月1日火曜日
クリス・アンダーソン『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』
さて。
前回のつづきを書こうかどうしようかと思っているうちに3ヶ月近くたってしまった。実はこの間いろんなことがあって、あまり本を読むこともなかった。まったく何も読まなかったわけではないんだけど、活字がするすると身体の中に入っていかない。蕎麦がのどにつかえるような、そんな日々が多かった。
週に2冊の本を読んで、週2回ブログに上げることを課題にしていた時期もあった。800字程度を目標に。インプットとアウトプットのバランスをとることは健康的でもあった。
最近はどうかというとあまり過度に自分を律することはしないでし自然の流れにまかせようと思っている。読みたいときに読む、書きたいときに書く。これがいい。
もちろん仕事もこんな感じかというとそうでもなく、頼まれたCMの企画やPR映像の構成などはそれなりにこなしてきたし、かたちになったものもある。やらされればやるのだ。
クリス・アンダーソンのこの本は昨年の秋に読んだ。
アトムの世界の革命をビットが支えていてる。ビットが構築した仮想現実より、アトムがかたちづくる現実世界のほうにものづくりのよろこびはあるというわけだ。レーザーカッター、3Dスキャナ、3Dプリンタなど、道具の進歩とマスカスタマイゼーション化されたモノを所有する満足感がこれからを支える。読んでいてわくわくしてくる。
特にこの3ヶ月読みたい本もなかったので積み上げられていた本の山の中から引き抜いてぱらぱらとページをめくってみた。
以前のように頻繁に更新することもないだろうが、とりあえずこのブログもここからリスタート。これまで読みためてしまった本もあるし、この先細々ながら読んでいく本もあるし。近郊の町を散策するように続けていけたらと思っている。
それにしても今年の夏は暑かった。暑い暑いと言っているうちに秋が来た。この間、南房総に三度行った。お盆と父の納骨と彼岸の墓参り。
海は夏の匂いを残しつつ、ゆるやかに秋に変わっていく。
2012年6月9日土曜日
ピーター・シムズ『小さく賭けろ』
東京六大学野球がまた盛上がりそうだ。
昨年甲子園で優勝した日大三のエース吉永が早稲田、4番の横尾が慶應、そして主将畦上が法政、高山が明治、捕手の鈴木が立教と主力がそろって進学した。いきなり春からレギュラーで活躍するどころの騒ぎではなく、高山があわや首位打者、吉永は最優秀防御率、最多勝でふたりがベストナインに選ばれた。桐蔭出身早稲田の茂木もベストナインとなり、1年生が3人選出されたのは史上初ということだ。畦上はさほど出番にめぐまれなかったが、横尾は中軸をまかされ、打率2割に満たなかったものの早慶戦でホームランを放ち、長打力のあるところを見せつけた。たしかに斎藤佑樹ら世代にも注目選手は多かったが、今年の1年生は史上最強かもしれない。
先々の話を今からしても仕方がないが、明治の高山は今季20安打だった。このペースならいまだ破られていない先輩高田繁の通算127安打越えも夢ではあるまい。またベストナインの最多選出も高田繁で7回。今季選ばれた1年生3人はこの記録を更新する資格を得たということだ。
つい野球の話が長くなってしまったが、この本は過去の大きな成功体験から得るものよりも小さな失敗からすばやい学習を繰り返すことで導かれた成功をスターバックスやアマゾンなどの豊富な実例で紹介している。企業が陥りがちな硬直化をいかに回避して成長を続けるか、そんな柔らかい視点をくれる本である。
2008年6月28日土曜日
ミシェル・アルベール『資本主義対資本主義』
中学生の頃は建築家になりたいと思っていた。
高校生になって、いくつかの教科でその方面に進学することが甚だ困難であるとわかって、文科系に転進した。勇気ある撤退だ。
そこで考えた。
文科系といっても何学部に行けばいいのか。そもそも工学部建築学科、みたいな具体的過ぎる目標イメージがあった割には、文科系学部に関してはほとんど無知で、いろいろまわりに訊いてみると法学部、経済学部、商学部、文学部などがあるらしい。今も大して進歩していないが、当時、世の中のことって複雑で面倒に思えたので、法律とか経済って難しいのだなと敬遠した。結局小学生の頃、よく先生に作文を褒められていたことを思い出し、文学部をめざすことにした。
そんなこんなでいまだに経済とかビジネスに関する本はほとんど読まない。この『資本主義対資本主義』は、たまたま先日読んだ成毛真の『本は10冊同時に読め!』の中でもっとも感化された本の一冊として紹介されていたので興味をそそられたのだ。
今は市場経済が世界の大きな潮流になっているが、そのきっかけとして著者はレーガン、サッチャー政権の税制改革をとりあげている。とはいえ、ヨーロッパにはヨーロッパの資本主義があり、アメリカを中心としたアングロサクソン型(さらにはネオアメリカ型)経済とヨーロッパを中心としたアルペン型(さらにはライン型)経済とに資本主義を細分化し、冷戦時代には模糊としていた資本主義の系譜を明快にして論をすすめるあたりは面白い。
著者はフランス人だが、大きくドイツ対アメリカという図式を用いながら、フランス資本主義のアイデンティティを問い直すというのが本旨なのだろう。思うに、本書の資本主義のベースにあるのは工業化社会である。工業主体の産業構造のみ着目したならば、日本もドイツも国土や資源の問題を考えると国家的プロジェクトで工業化社会が生後復興の第一義であったろう。フランスをはじめとしたラテンの国々やさらには中南米、アフリカは必ずしも資本主義=工業社会ではない。農業や水産業も含めて資本主義を問い直すとき、さらなる軸が見出せるような気もする。
翻訳はおそらく原文忠実になされているのだろう。機会があれば原書と見比べたいところもあった。翻訳というより同時通訳に近いのでワールドニュースの原稿を淡々と読むような気分で読んだ。
よく翻訳もので気になるのは、縦書きなのに「上に書いたように」とそのまま訳されていたり、原書が執筆された時点が明快でないまま「○○年前」みたいな記述をそのまま訳出していることだ。大学院の授業ならそれでよいだろうが、出版物とするなら配慮が必要だ。
高校生になって、いくつかの教科でその方面に進学することが甚だ困難であるとわかって、文科系に転進した。勇気ある撤退だ。
そこで考えた。
文科系といっても何学部に行けばいいのか。そもそも工学部建築学科、みたいな具体的過ぎる目標イメージがあった割には、文科系学部に関してはほとんど無知で、いろいろまわりに訊いてみると法学部、経済学部、商学部、文学部などがあるらしい。今も大して進歩していないが、当時、世の中のことって複雑で面倒に思えたので、法律とか経済って難しいのだなと敬遠した。結局小学生の頃、よく先生に作文を褒められていたことを思い出し、文学部をめざすことにした。
そんなこんなでいまだに経済とかビジネスに関する本はほとんど読まない。この『資本主義対資本主義』は、たまたま先日読んだ成毛真の『本は10冊同時に読め!』の中でもっとも感化された本の一冊として紹介されていたので興味をそそられたのだ。
今は市場経済が世界の大きな潮流になっているが、そのきっかけとして著者はレーガン、サッチャー政権の税制改革をとりあげている。とはいえ、ヨーロッパにはヨーロッパの資本主義があり、アメリカを中心としたアングロサクソン型(さらにはネオアメリカ型)経済とヨーロッパを中心としたアルペン型(さらにはライン型)経済とに資本主義を細分化し、冷戦時代には模糊としていた資本主義の系譜を明快にして論をすすめるあたりは面白い。
著者はフランス人だが、大きくドイツ対アメリカという図式を用いながら、フランス資本主義のアイデンティティを問い直すというのが本旨なのだろう。思うに、本書の資本主義のベースにあるのは工業化社会である。工業主体の産業構造のみ着目したならば、日本もドイツも国土や資源の問題を考えると国家的プロジェクトで工業化社会が生後復興の第一義であったろう。フランスをはじめとしたラテンの国々やさらには中南米、アフリカは必ずしも資本主義=工業社会ではない。農業や水産業も含めて資本主義を問い直すとき、さらなる軸が見出せるような気もする。
翻訳はおそらく原文忠実になされているのだろう。機会があれば原書と見比べたいところもあった。翻訳というより同時通訳に近いのでワールドニュースの原稿を淡々と読むような気分で読んだ。
よく翻訳もので気になるのは、縦書きなのに「上に書いたように」とそのまま訳されていたり、原書が執筆された時点が明快でないまま「○○年前」みたいな記述をそのまま訳出していることだ。大学院の授業ならそれでよいだろうが、出版物とするなら配慮が必要だ。
2008年6月13日金曜日
リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀』
昨日の夜、うちの玄関にヒキガエルがいた。
壁をよじ登ろうとしていた。インターホンでも押そうとしていたのだろうか。
ちょっと声をかけてみたら、どうやらうちの前、バス通りをはさんだ向かいの小学校がこんど統合されるということで解体工事がはじまり、今まで居ついていた敷地内の池に居づらくなったそうだ。それでもってどこかいい棲みかはないか探しているという。うちの玄関でも庭でも居てくれてかまわないが、池があるわけでなし、夏場は玄関のある北側も日が当たるから、どこか近くの神社か公園でも訪ねたらどうかと言ってやった。やれやれまったく住みにくくなったなこの辺りも、とぐじぐじ文句を言いながらヒキガエルは闇のなかに消えていった。
怖がり屋の長女は梨木香歩とか好きで読んでいるわりには、この手の生きものが好きではない。ヒキガエルが玄関にいたと言ったら、明日外に出られない、学校にいけない、と騒いでいた。
ぼくは広告の仕事をしているので「クリエイティブ」とタイトルにある本はつい手にしてしまうのだが、この本は広告コミュニケーションの本ではなく、現代アメリカ社会がかかえるさまざまな問題を指摘し、世界に冠たる超大国アメリカの地位を保持し、さらなる経済発展を遂げるためのヒントを提供するれっきとした学術書だった。クリエイティブとは広い意味で知識労働者ということらしい。
いわゆる9.11のテロ以来、アメリカは経済的発展を促すテクノロジー(技術)、タレント(才能)、トレランス(寛容性)の3つのTのうち、トレランスにおいて他国、他地域と水を開けられつつある。カナダ、オーストラリア、スカンジナビア諸国、インド、中国が世界の才能を集め、あるいは自国の才能を呼び戻しているという。そんなこんなでいずれアメリカは大きなしっぺ返しを食らうのではないかというのが著者の懸念である。
まあ、アメリカは腐ってもアメリカだろうとぼくは思ってるんだけど。っていうかもう腐りすぎてる?
朝、新聞を取りにいくついでに家の周りを丁寧に眺めまわしたが、ヒキガエルは見つからなかった。住まい探しの旅に出たのかもしれない。幸運を祈る。
壁をよじ登ろうとしていた。インターホンでも押そうとしていたのだろうか。
ちょっと声をかけてみたら、どうやらうちの前、バス通りをはさんだ向かいの小学校がこんど統合されるということで解体工事がはじまり、今まで居ついていた敷地内の池に居づらくなったそうだ。それでもってどこかいい棲みかはないか探しているという。うちの玄関でも庭でも居てくれてかまわないが、池があるわけでなし、夏場は玄関のある北側も日が当たるから、どこか近くの神社か公園でも訪ねたらどうかと言ってやった。やれやれまったく住みにくくなったなこの辺りも、とぐじぐじ文句を言いながらヒキガエルは闇のなかに消えていった。
怖がり屋の長女は梨木香歩とか好きで読んでいるわりには、この手の生きものが好きではない。ヒキガエルが玄関にいたと言ったら、明日外に出られない、学校にいけない、と騒いでいた。
ぼくは広告の仕事をしているので「クリエイティブ」とタイトルにある本はつい手にしてしまうのだが、この本は広告コミュニケーションの本ではなく、現代アメリカ社会がかかえるさまざまな問題を指摘し、世界に冠たる超大国アメリカの地位を保持し、さらなる経済発展を遂げるためのヒントを提供するれっきとした学術書だった。クリエイティブとは広い意味で知識労働者ということらしい。
いわゆる9.11のテロ以来、アメリカは経済的発展を促すテクノロジー(技術)、タレント(才能)、トレランス(寛容性)の3つのTのうち、トレランスにおいて他国、他地域と水を開けられつつある。カナダ、オーストラリア、スカンジナビア諸国、インド、中国が世界の才能を集め、あるいは自国の才能を呼び戻しているという。そんなこんなでいずれアメリカは大きなしっぺ返しを食らうのではないかというのが著者の懸念である。
まあ、アメリカは腐ってもアメリカだろうとぼくは思ってるんだけど。っていうかもう腐りすぎてる?
朝、新聞を取りにいくついでに家の周りを丁寧に眺めまわしたが、ヒキガエルは見つからなかった。住まい探しの旅に出たのかもしれない。幸運を祈る。
2006年8月19日土曜日
デイヴィッド・オグリヴィ『ある広告人の告白』
何を思ったか、突然甲子園で高校野球が観たくなった。会社を休んで早朝ののぞみに乗った。かれこれ40年近く野球を観ているが、甲子園は初めてだ。その巨大さ、暑さに圧倒されながら準々決勝の2試合を観た。
興奮覚めやらぬ帰りの車中でデイヴィッド・オグリヴィの『ある広告人の告白』を読んだ。これはもともと1964年に出版され、最近新版が出されたものの翻訳で広告の世界では古典といっていいのかもしれない。
デイヴィッド・オグルヴィはオグルヴィ&メイザーという広告会社を作ったコピーライター。アメリカの広告クリエイティブを支えてきただけあって、もの言いがシャープでストレートだ。もちろん、60年代のアメリカの広告界がどのような状況だったかをぼくは知る由もないが、成長するアメリカ消費社会とその中での生き残りをかけた広告人の強い姿勢を感じる。
広告会社の経営手法、クライアント獲得の秘訣からクライアントと広告会社とのあるべき関係構築にはじまって、成功する広告キャンペーンの作り方、コピー作成法、写真とイラストレーションではどちらが効果的か、さらには視聴者を動かすTVCM、自ら携わったクライアントから学んだ「食品」「観光地」「医薬品」キャンペーンのポイントと現代にも通ずる部分の多い広告クリエイティブの教科書といえる。
実をいうと広告の仕事に携わっているとはいうもの、日頃あまり広告の本は読まない。ましては古典(と決めつけてしまうのは失礼だが)には縁遠い生活をしている。オグルヴィに限らず、ドイル・デーン・バーンバックやレイモンド・ルビカムなど広告人の教養として読んでおかなきゃいけないんだろうなあ、ちゃんと。
興奮覚めやらぬ帰りの車中でデイヴィッド・オグリヴィの『ある広告人の告白』を読んだ。これはもともと1964年に出版され、最近新版が出されたものの翻訳で広告の世界では古典といっていいのかもしれない。
デイヴィッド・オグルヴィはオグルヴィ&メイザーという広告会社を作ったコピーライター。アメリカの広告クリエイティブを支えてきただけあって、もの言いがシャープでストレートだ。もちろん、60年代のアメリカの広告界がどのような状況だったかをぼくは知る由もないが、成長するアメリカ消費社会とその中での生き残りをかけた広告人の強い姿勢を感じる。
広告会社の経営手法、クライアント獲得の秘訣からクライアントと広告会社とのあるべき関係構築にはじまって、成功する広告キャンペーンの作り方、コピー作成法、写真とイラストレーションではどちらが効果的か、さらには視聴者を動かすTVCM、自ら携わったクライアントから学んだ「食品」「観光地」「医薬品」キャンペーンのポイントと現代にも通ずる部分の多い広告クリエイティブの教科書といえる。
実をいうと広告の仕事に携わっているとはいうもの、日頃あまり広告の本は読まない。ましては古典(と決めつけてしまうのは失礼だが)には縁遠い生活をしている。オグルヴィに限らず、ドイル・デーン・バーンバックやレイモンド・ルビカムなど広告人の教養として読んでおかなきゃいけないんだろうなあ、ちゃんと。
2005年3月7日月曜日
天野祐吉『広告論講義』
先日ある大学で講義を受け持った。「広告における絵コンテの役割」という内容のものである。知の大衆化などといわれて久しいが、単なる経験談ではなく、学問としての広告、その制作過程のツールとしての絵コンテという話がしたかったが、やはり終わってみれば、単なる経験談になってしまったと思う。
ぼくたちが実際にコマーシャル制作にたずさわりながら思うことは、テレビコマーシャルは忘れられる広告であるということだ。時間軸をもつ媒体の宿命なのかもしれない。後に戻ってもう一度視ることは原則としてできない。だからこそ忘れらない広告をつくろうと努力する。あるクリエーティブディレクターの言を借りれば「読後感」ということになるだろう。
天野祐吉のいう面白い広告=時代の空気や気分を記録しているジャーナリズム表現とは実に言い得て妙である。そしてすぐれた広告制作者はそんなことをまったく意識することなく表現している。むしろ彼らは今の時代にないもの、そのうちにやってくるかもしれないものを描いているだけなのだ。たぶん。
風俗や流行現象を追いながら時代との整合性を説き明かしていく著書は多い。この本も当然その部類に入ると思う。ただ天野祐吉の著作のすぐれたところは、こうした分析を客観的に語るように見せながら、実は自身の広告論、広告に対する夢や希望を主観的に語っていることではないか。彼のそうした揺るぎないスタンスがあるからこそ、あたかも20世紀の広告にずっと寄り添っていたかのような語り口で語れるのではないかと思う。
天野祐吉は広告評論家であると同時にストーリーテリングに長けた広告観察者であり、なによりも広告の好きな翁なのだというのがこの本から受けたいちばんの印象だ。
(2002.8.7)
ぼくたちが実際にコマーシャル制作にたずさわりながら思うことは、テレビコマーシャルは忘れられる広告であるということだ。時間軸をもつ媒体の宿命なのかもしれない。後に戻ってもう一度視ることは原則としてできない。だからこそ忘れらない広告をつくろうと努力する。あるクリエーティブディレクターの言を借りれば「読後感」ということになるだろう。
天野祐吉のいう面白い広告=時代の空気や気分を記録しているジャーナリズム表現とは実に言い得て妙である。そしてすぐれた広告制作者はそんなことをまったく意識することなく表現している。むしろ彼らは今の時代にないもの、そのうちにやってくるかもしれないものを描いているだけなのだ。たぶん。
風俗や流行現象を追いながら時代との整合性を説き明かしていく著書は多い。この本も当然その部類に入ると思う。ただ天野祐吉の著作のすぐれたところは、こうした分析を客観的に語るように見せながら、実は自身の広告論、広告に対する夢や希望を主観的に語っていることではないか。彼のそうした揺るぎないスタンスがあるからこそ、あたかも20世紀の広告にずっと寄り添っていたかのような語り口で語れるのではないかと思う。
天野祐吉は広告評論家であると同時にストーリーテリングに長けた広告観察者であり、なによりも広告の好きな翁なのだというのがこの本から受けたいちばんの印象だ。
(2002.8.7)
富野由悠季『映像の原則』
この本は氏のアニメーション制作にたずさわってきた30年余の経験から導き出された映像作品制作の原則(もちろんそれ以前からあったものであるが)をテキスト化したもので、特徴的なのは必ずしもアニメーションだけに通じる話ではなく、実写やCGも含めた映像作品全般を対象にしていることだ。
たとえばカットの方向性(上手下手の意味合い)や速度の原則だったり、もちろんイマジナリラインのことも解説されています。シナリオからコンテをつくる上での留意点などためになる話が随所に見られる。
たとえばこんなことを書いている。
>>マンガのように読めてしまうコンテは、作品として完成品に近いのではないかと感じられるのですが、よく考えてみてください。マンガのように読めるコンテは、その段階ですでに読む人の想像力が入り込めるまでのものを描いてしまっているということで、コンテそのものが完成品に近いのです。そのようなものには、映像作品を設計していくプランニング(この場合は、動きを想定した展開ということになります)の要素などはふくんでいませんから、コンテではないのです。マンガのように読めてしまうコンテは、映像作品を設計していく機能はふくまれていないと考えるべきなのです。<<
文章そのものは経験を積んだおやじのがんこ話で、叱責あり、愚痴あり、反省ありではっきりいって読みやすい本ではない。それに誤植も多い。でもそれもまあ、富野由悠季のキャラクターなんだと思えば、映像世界でがんばろうと思っている若者たちへの愛情とも読めるかもしれない。
(2002.8.5)
たとえばカットの方向性(上手下手の意味合い)や速度の原則だったり、もちろんイマジナリラインのことも解説されています。シナリオからコンテをつくる上での留意点などためになる話が随所に見られる。
たとえばこんなことを書いている。
>>マンガのように読めてしまうコンテは、作品として完成品に近いのではないかと感じられるのですが、よく考えてみてください。マンガのように読めるコンテは、その段階ですでに読む人の想像力が入り込めるまでのものを描いてしまっているということで、コンテそのものが完成品に近いのです。そのようなものには、映像作品を設計していくプランニング(この場合は、動きを想定した展開ということになります)の要素などはふくんでいませんから、コンテではないのです。マンガのように読めてしまうコンテは、映像作品を設計していく機能はふくまれていないと考えるべきなのです。<<
文章そのものは経験を積んだおやじのがんこ話で、叱責あり、愚痴あり、反省ありではっきりいって読みやすい本ではない。それに誤植も多い。でもそれもまあ、富野由悠季のキャラクターなんだと思えば、映像世界でがんばろうと思っている若者たちへの愛情とも読めるかもしれない。
(2002.8.5)
2005年2月12日土曜日
荒俣宏『図像学入門』
荒俣さんは、以前講演を聴いたこともあり、本はあまり読んではいないけれども僕が強い関心を寄せる作家のひとりだ。
この『図像学入門』は、昨年の8月に「夜中の学校」というマスコミ文化人志向の若者をねらったミーハー深夜テレビ番組で放映されたものの講義録である。
たぶん荒俣フリークであれば、基礎知識のじゅうぶんなおさらいができるだろうし、荒俣さんのことをあまり知らない人(フクスケも帝都物語も)でもじゅうぶん理解できる内容になっている。
彼の説く図像とは、「美」という偏見に保護されてきた美術・芸術を開放することによって成り立つところのビジュアルを意味している。だからこそ森菓のエンゼルマークやひとつぶ300メートルのグリコマークをも研究の対象となるのだ。
この講義の端的なテーマは、「バカの見方」、「ボケの見方」、「パーの見方」という図像対人間の3つのスタンスである。詳しくは一読されたし。
(1993.1.29)
この『図像学入門』は、昨年の8月に「夜中の学校」というマスコミ文化人志向の若者をねらったミーハー深夜テレビ番組で放映されたものの講義録である。
たぶん荒俣フリークであれば、基礎知識のじゅうぶんなおさらいができるだろうし、荒俣さんのことをあまり知らない人(フクスケも帝都物語も)でもじゅうぶん理解できる内容になっている。
彼の説く図像とは、「美」という偏見に保護されてきた美術・芸術を開放することによって成り立つところのビジュアルを意味している。だからこそ森菓のエンゼルマークやひとつぶ300メートルのグリコマークをも研究の対象となるのだ。
この講義の端的なテーマは、「バカの見方」、「ボケの見方」、「パーの見方」という図像対人間の3つのスタンスである。詳しくは一読されたし。
(1993.1.29)
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