小さなCM制作会社から小さな広告会社に移籍したときのCDは博報堂から電通に移籍した方で昔話をよくしてくれた。その頃、仕事のほとんどが新聞広告や雑誌広告だったから、文案家と意匠家で原稿をつくっていた。彼らにディレクションし、最終チェックをするのはアートディレクター(AD)の仕事だった。古い広告の本をながめると広告表現をつくるリーダーはADだった。杉浦非水も山名文夫も新井静一郎も向秀男もその肩書はアートディレクターだった(と記憶している)。
ADたちはいちはやく東京アートディレクターズクラブという会を起こす。文案家たちがコピーライターの会をつくったのはそれから数年後である。広告表現のなかでビジュアルに加えてメッセージの重要性が認識されはじめた頃かと思われる。意匠家はグラフィックデザイナーと呼ばれるようになって、ADの仕事を支えた。
おそらくそのような戦後広告の黎明期にクリエイティブディレクターという概念はつくられたに違いない。
CDになるためには、グラフィックデザイナー、コピーライター、CMプランナーという修行的立ち位置で何百案ものラフアイデアを書いて、何百というだめ出しをもらってたどり着く必要があった。今でもそういったキャリアアップの仕方はあるが、企業のコミュニケーション構築における広告クリエイティブの比重が大きくなったのか、広告ビジネスを支えるリーダーがCDとしてまさしくディレクションするケースが増えている。
CDになるためには、グラフィックデザイナー、コピーライター、CMプランナーという修行的立ち位置で何百案ものラフアイデアを書いて、何百というだめ出しをもらってたどり着く必要があった。今でもそういったキャリアアップの仕方はあるが、企業のコミュニケーション構築における広告クリエイティブの比重が大きくなったのか、広告ビジネスを支えるリーダーがCDとしてまさしくディレクションするケースが増えている。
著者の斎藤太郎は電通の営業局出身。(おそらく)コピーやサムネイルを一枚たりとも書いた経験はないだろうが、営業担当として、あるいはメディア担当として広告主と日々対峙してきた経験を持つ。具体的な表現づくりは表現を専門とするCDとともに動く。
広告主と夢を共有し、情熱と強い責任感をもった人ではないかと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿