2021年5月31日月曜日

井伏鱒二『荻窪風土記』(再読)

荻窪駅にはじめて来たのは中学3年生のときだった。北口を出ると迷い込んだら二度と戻って来れないような古い市場があった。
3年後、大学に通うようになって浮間清志と知り合う。浮間は荻窪駅にほど近いアパートに住んでいた。学校の帰りに立ち寄り、なんども泊まったりもした。時間はありあまるほどあった。駅前の市場は大きな商業ビルになっていた。
井伏鱒二が「新潮」に「豊多摩郡井荻村」と題する随筆を連載していたのが昭和56(1981)~7(1982)年(この年、『荻窪風土記』というタイトルで単行本として刊行される)。もしかするとどこかで著者とすれ違っていたかもしれない。
井伏は昭和2年に荻窪に引っ越してきた。1993年、95歳で没するまで60年以上にわたって荻窪で生きてきた。昭和のはじめ、見わたす限り田畑や雑木林が広がる武蔵野の地は急激な変貌を遂げることになる。このあたりが農地だったことは地図を見たり、歩いてみたりするとわかる。まっすぐな道が少なく、枝分かれする道が多い。きちんと直角に交わる交差点に行きつくと、これは区画整理されてできた新しい道ではないかと思う。
文学青年窶(やつ)れの仲間らと井伏鱒二は阿佐谷の中華料理店ピノチオに集まったという。「シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭」と記述されている。ピノチオは、阿佐ヶ谷駅北口の中杉通り沿いにあったと思われるが、井伏の住まいから歩くにはいく通りものルートが考えられる。どの道も近道そうでいてそうでなかったりする。おそらくは桃園川沿いを歩いて行ったのではないかと想像するが、実際のところはわからない。
浮間のアパートのすぐ裏手に春木家という蕎麦屋がある。今でもときどき足を運ぶが、蕎麦と同様、中華そばがうまくて人気だ。近所でありあまる時間を過ごしながら、浮間と春木家で食事したことはなかったなと行くたびに思い出す。ありあまる時間ほど、お金は持っていなかったのである。

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