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2025年3月17日月曜日

村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』

松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」がリリースされたのが1982年。同梱されている歌詞カードは安西水丸のイラストレーションで飾られていた。当時僕は安西水丸を注視していた。「ガロ」、「ビックリハウス」といった雑誌に四コマ漫画をよく連載していたせいか、この人は漫画家を目指しているのだろうと思っていたがユーミンのアルバムに鮮烈なイラストレーションを描いたことでやはりこの人はイラストレーターなのだ、それもただ者ではないと実感した。
雑誌の表紙を描くことも増えてきて、書店をひと巡りすると安西の
イラストレーションをいくつか見かけるようになっていた。ちょうどそんな頃、文芸コーナーで平積みされていたこの本に出会った。すごいじゃん、安西水丸。村上春樹の本の表紙を描いてるじゃん。といささか興奮気味に購入したのを今でも憶えている。村上最初の短編集である。以後コンビを組んで出版された本は多い。
そんなこんなで村上春樹初の短編集は僕にとっても思い出深い一冊で時折書棚から取り出しては1、2編目を通してみたりする。だいたいは「中国行きのスロウ・ボート」だったり「午後の最後の芝生」だったり。全編通して読むのは大変久しぶりのことである。あまり目を通すことがなかった「カンガルー通信」や「シドニーのグリーン・ストリート」などはすっかり記憶から飛んでいる。まるではじめて読むように読んだ。
「中国行きのスロウ・ボート」はその後、『村上春樹全作品1979~1989』に収められるにあたって大幅に加筆修正されている(はず)。以前、単行本と全作品と二冊並べて開いて比較しながら読んだ記憶がある。もちろん読んだことを憶えているだけでどこがどう加筆修正されたのかなんて全く記憶にない。
それにしてももう3月だ。安西水丸が世を去ってはや11年。生きていれば今年で83歳になる。命日にはカレーライスを食べようと思っている。

2022年3月19日土曜日

勝浦雅彦『つながるための言葉』

3月19日は叔父の命日である。
ちょうどお彼岸の頃でもあり、墓参りをするのを常としている。誰が供えたか、赤いチューリップが花立てに挿してあった。何年か前には黄色いチューリップが供えられていた。赤いチューリップも黄色いチューリップも叔父の仕事に所縁がある。生前をよく知る方が供えて行ってくれたのだろう。
広告の仕事をしているのだから、広告に関する本を最低でも月に一冊は読まなければいけない、30年くらい前に広告会社の大先輩にそう教えられた。最近はとんとご無沙汰である。去年は10冊ほどしか読んでいない。
広告の本といってもマーケティングやメディア、プロモーションなどなど幅が広い。主に読むのはクリエーティブに関するものだ。たいていの場合、著者はヒットCMやビッグキャンペーンを手がけた人で自身の方法論を披露している本が圧倒的に多い。ふむふむなるほどと思うものの、時間の経過とともに記憶は薄らいでいく。あの本はよかったなあと後になって思い出すこともさほどない。
筆者は学生の頃からコピーライターを志望していたという。いくつか広告会社を経験し(最初は営業だった)、現在は電通のコピーライター、クリエーティブディレクターである。若い頃から苦労をされた方なのではないかと思う。たくさんの本を読んでいて、それを血肉としている。少なくとも僕にはそう見える。コピーライターとしての仕事はほとんと知らなかったがTCC(東京コピーライターズクラブ)のサイトで見てみた。じんわりとしたいいコピーが並んでいた。言葉の一つひとつを丁寧に紡ぎ合わせているようだ。
筆者はあるときコピーライターをめざしたかもしれないが、本当に望んでいたのは言葉を通じて素敵な関係を構築することだったのではないか。「他者への敬意と愛情によって、つながる言葉をつくる」というのがこの本の大きなねらいだ。その願いはじゅうぶん叶えられていると思う。

2022年3月16日水曜日

村山昇『キャリア・ウェルネス』

知人の勤める会社は社員数20数名。いわゆる中小企業である。規模は小さいけれどそのぶん風通しのいい組織だとトップは自負しているそうである。
週にいちど原則全員参加の会議があるという。もちろんこのご時世だからウェブ会議システムを使ったリモート会議であろう。売上の推移であったり、昨今の業界の話題などをトップがしゃべりまくる。これも中小企業にありがちである。
先だって若年世代の離職率が高いという話題になったそうだ。新卒で働きはじめた社員の3割ほどが3年以内に辞めてしまう。どこかの企業がまとめた若手社員がやる気をなくす言葉ランキングなどを紹介しながら、そのトップは話し、入社1〜3年の社員に感想を求めたという。しかも彼らのほとんどが中途採用(第二新卒)だった。すでに離職経験のあるものたちの目の前で話すような内容だったのだろうか。新婚カップルにどういうきっかけがあったら離婚しますかと訊くようなものではないか。
まあ、なんとも風通しのいい会社だ。
この本は仕事を通じて(主に若い世代に)どんなキャリアを積ませるかを説いている。成功がある種義務付けられていた時代があった。そのために能力とものごとや人に対する処し方を身につけていかなければ取り残されてしまう組織があった(今でももちろんあるだろうが)。著者は「成功のキャリア観」と成功を得られなかった人たちが閉じこもる「自己防衛のキャリア観」といった昭和平成の遺物とおさらばして「健やかさのキャリア観」を持つことが健康に働いて生きていくために必要だという。
ふりかえって見ると僕も自分の仕事の意味をずっと見い出せないまま働いてきたような気がする。キャリアをどう積んでいくかなんて考えもしなかった。報酬とちょっとした名声のためだけの仕事。
最近になってようやく少しだけ自分の仕事の意味がわかってきた。ほんの少しだけだけど、人の役に立っているのかなということが。

2022年1月11日火曜日

曽布川拓也、山本直人『数学的に話す技術・書く技術』

数学は苦手じゃなかった。過去形で語られるわけであるから、結果的には苦手科目のひとつになったことは否めない。
中学生から高校の一年生くらいまでは得意科目というほどではないにせよ、試験でそこそこ点数を確保できる科目だった。問題を解く手順を見出し、間違えないように計算すれば答が求められる、こんな単純明快な科目が他にあっただろうか。しかも潔い。0℃、1気圧とする、であるとか摩擦は考えないものとする、といった条件が提示されることがない。論理と数字で答えを出せと言っている。何文字以内で主人公の気持ちを書け、なんてことも言わない。
村上春樹の『1Q84』に登場する川奈天吾は予備校の数学講師である。数学の問題を解くだけの人生。なんともシンプルで羨ましい。
実をいうと中学生くらいのときは建築の仕事に携われたらいいなと思っていた。母方の伯父が建築設計士だった。幼いながらも、高校に行って、大学進学を考えるとき、理系、文系という枠組みがあり、今から50年前くらい、男子は理系に進むものとされていた。高校では数I、数II B、数III(理系志望者のみ)の3教科を履修する。高校2年時にまずは数列で挫折した僕は数II Bを早々とあきらめ、いつしか文系志望者になっていた。数列以降、微分・積分も指数関数も対数関数も三角関数もなしくずし的に身につくことはなかった(数Iだけでも受験できる文系学部も少なからずあったので、数II Bで挫折したことはそれほど堪えなかったけれど)。
この本の筆者はふたり。ひとりは数学で挫折し、もうひとりは数学的思考の重要性を説く専門家である。数列も微積分も確率も数学的に突き詰めれば、ビジネスに役立つ。つまり実用的な学問であることがわかる。それを教科書的なプロセスを経ることで、多くの若者たちが挫折を味わうのだそうだ。今さら数学的思考の重要性がわかったところで手遅れだろうが多くの挫折者に励みになる。

2019年2月1日金曜日

堀江貴文・西野亮廣『バカとつき合うな』

そろそろ眼鏡を新しくしたい。
今使っている眼鏡はかれこれ7~8年になるだろうか、いつ頃からかけているのかさえも記憶にない。眼鏡店に行くと今度は大江健三郎みたいな丸眼鏡にしようといつも思うのだが、セルフレームのまん丸眼鏡は案外高価なのである。それにいつも行くお店ではさほど在庫も多くない。町を歩いていても、大江健三郎みたいな眼鏡をかけている人をほとんど見ない。需要がそんなにあるわけでもないのだろう。
駅ビルに店を持つ大きな眼鏡店で何度かまん丸のフレームを試したことがある。思っているほど似合っていない。結局、お店の人にすすめられるまま、ちょっと今風のフレームに落ち着く。それはそれで無難な選択である。
それでも眼鏡店を訪ねるたびにあれこれ試して悩む。なんという既視感。眼鏡ごときでと言ってはなんだが、デザインだの、似合う似合わないだの、流行っているとかいないとかにかかずらうのも疲れる。できればブルックスブラザースのネイビーブレザーみたいに未来永劫悩み無用のものがあればいい。
そもそもが眼鏡というものは視力の低下にともなって買い替えるものだが、視力に合ったレンズに交換してもらえばいい。クルマが壊れるたびに買い替えていてはたいへんなことになる(そういう人も世の中にはいるんだろうけれど)。古いクルマをきちんと整備して乗り続けている人もいるが、燃費だの安全性能が格段に進歩したせいで買い替えざるを得ない人もいる。昔の眼鏡のフレームだからCO2を多く排出するなんてことはない。いいフレームを長く使うのがいい。合わなくなったらレンズを替えればいい。
『バカとつき合うな』には世にあふれるさまざまなバカが登場する。いいバカもいれば、悪いバカもいる。切れるはさみと切れないはさみがあるのと同じことだ。
そういう観点からすると、この頃の僕はあれこれ理屈をこねまわして高価な眼鏡を購入する言い訳を考えているバカである。

2018年12月13日木曜日

山本高史『伝わるしくみ』

仕事場の後輩I君が絵コンテを描くのにiPadを使っている。
人のことは言えないけれど、I君はさほど絵が上手ではない。でもスタイラスペンでササッと液晶画面をトレースする姿はかっこいい。誤解なきよう申し上げておくが、I君はiPadで絵を描いていなくてもかっこいい。
以前からいいなあとは思っていた。「これ便利ですよ、資料とか写真とか下描きを取り込んで、その上のレイヤーにトレースすればいいんですから。先輩くらい絵が描ける人ならずいぶんはかどりますよ」などと言われるとテクニカルなことはよくわからないが、なんだかリスペクトされてるなあと少しいい気分になる。
たまにはクリエーティブの本でも、と手に取ってみる。これはクリエーティブディレクター、コピーライターとしての著者の知見をフルに発揮したコミュニケーションの本であり広告づくりの指南書ではなかった。「伝えること」の難しさを丁寧に説き明かしている。
コミュニケーションには「送り手」と「受け手」がいる。「送り手」は「受け手」を自分が望む方向に動かすために言葉を発する。ところがその意味を支配するのは「受け手」であり、「受け手がすべてを決め」てしまう。
それがコミュニケーションの難しいところ。
たとえば「お疲れさま。朝までかかったんだってね、大変だったね」という労いの一言も「受け手」によっては「すみませんでした、現場の仕切りがなってなくて…」と叱責と捉えられることある。
「送り手」が「受け手」という存在をよく理解したうえで「受け手」のベネフィットになることを伝えられれば、すなわち共有できれば、「受け手」は同意し、「送り手」の思う方向に動き出す。
かいつまんでいえば簡単なことだが、なかなかうまくいかないもの。そのうまくいかない原因をひとつひとつ取り除いていくための方法論がこの本で語られている。
iPadの件はどうしたかというと、いずれゆっくりお話したいと思っている。

2018年12月11日火曜日

伊藤羊一『1分で話せ』

プレゼンテーションというと映像制作会社の場合、広告会社のクリエイティブが広告主に企画のアイデアを説明して、承認を得る儀式みたいなものと考えられている。
制作会社のスタッフはその資料を夜遅くまでかけてつくる。つくってはチェックを受け、修正し、再度チェック…みたいな作業を何度かくり返す。プレゼンテーションに関与するのはその程度のことで自ら壇上に立って、スティーブ・ジョブスのように発言することなど、まずない。
というわけで映像制作会社(言葉はよくないが、下請け会社)のプレゼンテーションに対する意識は低い。「私らプレゼンできませんから」みたいなことを平気で言う。所詮は他人ごとなのである。プロデューサーと呼ばれるリーダー的立場にあってさえ、である。一概には言えないが、映像制作のスキルや意識が低いところほどその傾向は強い。プレゼンテーションとは誰かがやってくれるもの、そのためにお手伝いするものでしかない。
プレゼンテーションがコミュニケーションの相手(受け手)を自分たちが動かしたい方向に動かすことであるという基本的な考えを持ち合わせていないケースが多い。プレゼンテーションというだけでなにやら儀式的な、形式的なシーンを思い描きがちだが、人生だって仕事だって、あらゆるコミュニケーションがプレゼンテーションだ。
相手は誰かを掌握し、まず結論を述べる。そしてその根拠を示す。さらに具体的に、わかりやすく「たとえば」を提示する。相手を動かすためには相手にとってのメリットを語らなければならない。自分たちの努力を語っても人は動かない。この本にはこうしたことが書かれている。他にもどんな資料が有効か、話し方は、など事細かなアドバイスまで詳述されたプレゼンテーションの指南書となっている。題名の『1分で話せ』もみごとな「超一言」になっている。
この本は売れていると聞く。少しは日本もあんしんだと思う。

2018年10月30日火曜日

箕輪厚介『死ぬこと以外かすり傷』

野球の季節もそろそろ大詰めである。
高校野球は夏以降始動した新チームによる地区大会がほぼ終わり、来月の明治神宮野球大会を迎える。大学野球は4年生が出場する最終の大会となる。社会人野球日本選手権もまもなくはじまる。
今年はドラフト会議で高校生の有力選手複数に指名が重なった。全体的にレベルの高い世代だったかもしれない。甲子園で春夏連覇した大阪桐蔭からはなんと4人も指名を受けた。昨年の主力の多くが東京六大学など進学する者が多かったことを考えるとやはり今年の方がいい選手がそろっていたのだろう(それでも今年のエース柿木連より昨年の徳山壮磨の方が上だと個人的には思っているが)。
根尾昴と報徳学園の小園海斗は4球団から入札があった。小園と3球団から入札があった藤原恭大は将来的にどんな選手になるかイメージしやすい。たとえば巨人の坂本みたいな遊撃手になるだろとか瞬足強肩強打の外野手になるだろうことは想像できる(実際は厳しいプロの世界だからそう簡単にはいかないだろうが)。わからないのが根尾だ。外野もできる内野もできる投手もできるということではやくも二刀流かなどと騒がれているが、身体能力の高さを活かすのなら遊撃手ではないかと思っている。それも吉田義男や藤田平、石毛宏典のような華麗な守備を見せる巧打者ではなく、高橋慶彦や松井稼頭央のような野性味あふれる選手になりそうな気がしている。それだけ計り知れないものを持っているように思えるのだ。もしかしたら長嶋茂雄をも超えるのではないかなどと大それた期待すら持っている。
箕輪厚介という人物は知らなかったが、ベストセラーを次々に世に出す敏腕編集者だという。編集という仕事に携わっている知人は何人かいるが、その職種がどういうものかもわからない。
こうした武勇伝で若者たちを煽る時代でもないだろうと思うが、逆に考えると語気荒くけしかけなければ世の中におもしろいものが生まれなくなった時代なのかも知れない。

2017年7月26日水曜日

小霜和也『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』

1980年頃、すなわち僕が大学生だった当時、デジタルと名の付くものといえば時計くらいしかなかった。
今ではあらゆるものにデジタルという言葉が付く。カメラはデジタルカメラになった。デジタル家電なる製品も一般的なものとなった。有形物でなくてもデジタルマーケティングなる方法論も生まれた。
デジタルクリエイティブは少し違うような気がしている。それは方法論としてデジタル化された手法を意味するのではなく、デジタル化のすすんだ世の中でどういったコミュニケーションが有効かを模索する考え方なのではないかと思っている。
そもそもクリエイティブという仕事は課題解決のための方法のひとつで視聴覚=感性を刺激する高速で平易なコミュニケーションであり、そのためのアイデアの集積回路みたいなことかなとずっと思っていた。
方法論としてのデジタルクリエイティブの端緒はコンピュータ上であらゆるデザインや動画の加工・編集ができるようになったことではないだろうか。センスのある職人の手からセンスのある人の手にクリエイティブは譲渡された。手仕事のデジタル化だ。写植文字を切り刻んで素敵なボディコピーをレイアウトする仕事がなくなり、フイルムをひとコマずつ切ってつなぐ職人技が意味をなさなくなった。
あくまで方法論の話であるが。
デジタルクリエイティブとはデジタルな環境下でより効果的な広告表現ということか。それは(ある程度まで)計測可能で、PDCAがまわせるシステムであり、まさに「運用する」クリエイティブである。そのためには総合系エージェンシーとデジタル系エージェンシーとの融合が欠かせないという。
もちろん筆者の出自はデジタルでなく、クリエイティブだからクリエイティブ寄りの見解が多い。「デジタル系エージェンシーはこれまでクリエイターを育ててこなかった」と一刀両断されているもともとデジタル系の方はこの本にどういった反応を示すだろうか、興味深い。

2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2016年12月1日木曜日

梅田悟司『「言葉にできる」は武器になる』

近く、仕事場が移転する。
これまでは永田町、紀尾井町、麹町に囲まれた平河町という小さな町にあった。
小さな町はきらいじゃない。そこにしかない町だからだ。面積は小さくても存在が大きい。隼町という町が隣り合っている。これもまた小さい。
この界隈は昔、麹町区だった。町名としての麹町は半蔵門から四ツ谷駅あたりまで新宿通りをはさむように東西に細長い。北側は番町、さらに市ヶ谷、九段とつながる。
高校が九段にあった。
今でもときどき一番町から靖国神社に出て、飯田橋駅まで歩く。考えごとをするのにちょうどいい距離だ。デスクや打ち合わせで思いつかなかったようなアイデアがポンと思い浮かんだりすることがある。厳密にいえば、思い浮かびそうな気分になる。
さすがにもう高校時代のことは思い出さないが、母校はいつだったか東京都立から千代田区立に変わった。今まで千代田区で仕事をしてきて、賃貸料だのなんとか税だのが後輩たちに役立ってくれているんじゃないかと思うと励みになった。
こんど引っ越すところは中央区築地。昭和30年ごろの地図で見ると目の間が川になっている。というか銀座も築地も川だらけだった。タイムマシンがあればぜひ訪れたい。
築地にも小田原町という小さな町があった。今の築地6、7丁目にあたる。明石町は生き残ったのに小田原町は生き残れなかった。
広告の仕事をしていながら、近ごろ売れているコピーライターやアートディレクターのことを知らない。
この著者も知らなかった。
上智大大学院理工学研究科を終了している。根っからの理系みたいだ。理屈がちゃんとしている。組み立てがしっかりしている。
言葉が武器になるのは「内なる言葉」に耳を傾け、その解像度を高めていく。自分の思いをしっかり持つ。つまり言いたいことを磨き込んでいけば、「人が動く」(人を動かすではない)言葉は生み出される。ご丁寧に「使える型」と称して実践例まで紹介してくれている。
まさに伝わる言葉の生産技術書だ。

2016年11月27日日曜日

松尾卓哉『仕事偏差値を68に上げよう』

ある日曜日に自宅のファクシミリに着信があった。
数案のテレビコマーシャルの企画コンテだった。もう二十年近く昔の話だけど。
送って寄こしたのは松尾卓哉。当時あるかつらメーカーのテレビやラジオのコマーシャルをいっしょに企画していた。休日返上でアイデアをまとめた彼はクリエーティブディレクターのチェックをもらい、さらに僕にリライトをお願いしろとアドバイスを受けた。
それが日曜日のファックス着信である。
もちろんどんな内容のプランだったかははっきり憶えていない。元アイドル歌手が母親役で授業参観に行く。事前に子どもからおしゃれしてきてねとか言われたのかもしれない。そのときの元アイドルが言う。「だいじょうぶ、ママは昔○○(アイドル歌手の名前)だったのよ!」おしゃれなウィッグを着けて教室にあらわれた元アイドルのママが脚光を浴びる。たしかそんな企画案があったように思う。
日曜日に絵を描いて、翌月曜日にスキャンして当時やっと使い方を覚えたばかりのフォトショップで色を着けた。おもしろいアイデアばかりだったけど、残念ながら制作されて放映されるには至らなかった。
ラジオコマーシャルもいっしょにつくった。当時の松尾卓哉のラジオCMはありふれた台詞を(商品名とか商品特徴を連呼するのではなく)とことん繰り返すパターンが多かった。原稿ではちょっと強引かなと思ったけれど、録音してみたらおもしろかった。
その頃の松尾卓哉はまだまだ売り出し中の若手クリエーターだった(カンヌ国際広告祭で入賞し、忍者のコスチュームで表彰式にのぞむ数年前だった)。それでもすでに完成形をしっかりイメージしながら、企画やコピーを考えていたのだろう。
広告制作にたずさわる制作者がクリエーティブの手法やCM制作から学んだことなどを本にすることは少なくない。そのなかでもこの本は平明で誰にでもわかりやすい。松尾卓哉のつくったテレビCMのように。

2015年2月18日水曜日

苅谷剛彦『知的複眼思考法』

最初の床屋は「富士」だったと思う。
実家から子どもの足でも2~3分の距離だった。もちろん子どもの頃の記憶だからまったく正確ではない。どのくらい子どもだったかというとおそらく母に連れられて、預けられて髪を刈られて、天花粉(ベビーパウダーとかおしゃれな呼び方ではなかったと思う)を塗りたくられて、帰りにお菓子をもらって帰った。そのくらいの子どもの頃だ。小学生の頃まではそこに通っていた。
中学生になって、床屋に行かなくなった。もちろん学校の規則はあったけれど、他の中学のように刈上げなければいけないとか細かいことは言われなかったせいもある。多少長めでも問題はなかった。ちょっと伸びると少しだけ剃刀で削ぐ程度にした。母の知合いで近所に元美容師がいて、母がその人の自宅でカットしてもらうついでに行って、切ってもらった。以後3年間、そういうわけで床屋には行かなかった。
姉の同級生で美容院の娘がいた。いちどその店でカットしてもらった。姉がカットしてもらうとき、やはりついでのように付いて行ったのだと思う。
短絡的な思考をする者がいる。若いものに多い。僕ももう若くはないが、ものの考え方は短絡的だなと思うことがしばしばある。
この本は「複眼的な思考」を促している。ものごとを一面的に見るのではなく、多面的にとらえる。空間的にも時間的にも。おそらく想定している読者は若い世代、とりわけ大学生あたりか。ああ、こうやって問題をとらえなおして、ひとつひとつ丁寧に解明していけばきちんとした意見になるのだなと読んでみてよくわかる。
ただ、自分が学生時代にこんなに懇切丁寧な本を熟読したかどうかはわからない。何を大人が偉そうに、と思ったかもしれない。何かするのに最適なタイミングというのが人生にはある。しかしながら自分自身でそれを見きわめるのは難しい。
そういえば冨士のお兄さんは三原綱木に似ていた。ジャッキー吉川とブルー・コメッツでギターを弾きながら踊っていた三原綱木に。もちろん当時の記憶だからまったくあてにならない。

2013年10月26日土曜日

吉川昌孝『「ものさし」のつくり方』


秋もまた野球のシーズンだ。
夏の選手権大会で3年生は引退し(国体というサービス残業的なイベントはあるにせよ)、2年生中心の新チームが始動する。今年の夏は特に2年生の好投手が多かった印象がある。新チームが楽しみだなと思っていた矢先、甲子園を沸かせたチームが秋季大会で苦戦を強いられ、早々に敗退したところも多い。
甲子園が終わると日本選抜チームが招集され、国際試合を行う。今年は18U世界選手権が台湾で行われた。センバツをめざす秋の大会前にできることなら2年生は選考の対象からはずせばいいのにと思う。済美の安樂、前橋育英の高橋がそれにあたる。いずれも県予選の初戦で敗退している。ただでさえ、甲子園に行った学校は新チーム始動のタイミングが遅れるわけだから、各都道府県の高野連も公平を期するならば代表チームの選考に新チームのメンバーをあてない、などの配慮が必要なのではないか。
先月、都のブロック予選がはじまった。武蔵境の岩倉グランドまで母校の応援に行ってきた。初戦、二回戦を突破し、強豪岩倉とブロック代表決定戦まで駒を進めた。序盤の失点を最小限に抑え、後半やってくるワンチャンスをものにできれば弱小公立校でも強豪私立に勝てる。前半の5失点は痛かったが、唯一のチャンスに得点ができ、敗れたとはいうものの来春につながる戦い方ができたと思う。
博報堂生活総合研究所はなんとなく気づいてはいるけれど明確には規定できない事象をいつも巧みに切り取ってカタチにしてくれる。生活者意識オリエンテッドな集団だ。
今回読んだのは過剰摂取してしまいがちな情報をいかに整理整頓してアイデアに加工していくかという本。もちろんこれを読んだからってそれほどアイデアなんか出てはこない。ただアイデアってのはたしかにこういう手順を踏んで湧き出るものかもしれないなあと妙に納得感がある。思いつきって案外そんなものかもしれない。
しつこいようだが、高校野球の日本代表チームに2年生を選ばないでもらいたい。

2013年6月16日日曜日

樋口裕一『「教える技術」の鍛え方』


養老乃瀧というと赤べたに筆書きっぽいスミ文字の書体のイメージがあるけれども、最近少ししゃれた書体の店舗も見かける。ちょっと角ばった新藝体に近いフォント。
労働者の居酒屋から若者たちの集まるおしゃれ居酒屋へと脱皮を図っているんだろうか。
クリエーティブの世界では若い力が古いものを次から次へと刷新している。古くさいから新しくしましょう、というエネルギーが今まで見たことのない、あるいはこれまでだったら考えられなかったようなデザインを生み出す。それはそれで素晴らしいことだ。
新しいデザインを見ていつも思うことだが、「新しい」には二種類ある。「古くさい」と対話した「新しい」と一方的に新しくされた「新しい」とが。僕は古くささとしっかりコミュニケーションできた新しさが好きだ。
樋口裕一という著者は小論文指導の世界では有名な方らしい。その著作も数多い。タイトルからの印象は「教える」ことに対する哲学的、理念的な話だった。「鍛え方」という文字面にそういったイメージを抱いた。ところが読んでみると徹底した実践の書だった。教えるものは「なめられ」ちゃいけないとか、ウケる話を用意しておけとか一歩間違えばギャグなんじゃないかと思われる内容がなんとも印象的だ。著者の教える人生の集大成の書といえる一方でとにかくおもしろい。
効果的な雑談を交えろという。《大変な目にあった人の話は誰もが興味を持つ。強盗に出遭ったことがある、死体を発見したことがある、UFOを見たことがある……といった体験談が望ましい》と書かれている。本人は読者を笑わせようとしているのかも知れないが、その一方で大真面目に語っているのかも知れないとも思う。《これならいつでもウケるという得意ネタを作っておくと、教える時に便利だ》と提言する。人に何かを教えることより、ネタづくりの方がよっぽどたいへんだ。
教育学や教育心理学、あるいはコミュニケーション論などの専門的なお話も結構だが、この著書のように実践から学んだ経験をダイレクトに受け止めるということも時には必要だ。教壇に立つものに限らず、人前で何かを伝える機会のある人たちはこの本から大いに学ぶべきだろう。そして大いに笑ってもらいたいものだ。

2013年5月20日月曜日

本田亮『僕が電通を辞める日に絶対伝えたかった79の仕事の話』


吉永小百合を見たことがある。
実物を間近で見たとき、俺はとんでもない仕事に就いてしまったものだと背筋の凍るような緊張感が走った。吉永小百合は輝きを放っていた。これがスターだと思った。
その撮影はC食品というクライアントの年にいちどのお中元のCMで、そのCMプランナーが本田亮だった。おそらくは30代前半からなかばにかけて、本田亮がかっこいいテレビCMを次々と世の中に生み出していたそんな時代だ。制作現場に出てひと月ふた月の下っ端があいさつ以外に本田亮とことばを交わすことなどできるわけがなく、ただただひたすらいつか本田さんみたいなCMをつくりたいという漠とした希望を抱いたことだけを憶えている。
数年後、僕はCM制作会社から広告会社に移籍していた。たまたま住んでいたのが西武新宿線の沿線で、高田馬場乗り換えで東西線、銀座線を乗り継いで銀座に通っていた。本田亮も同じ沿線に住んでいた。何度か電車のなかでノートだか手帳だかにメモをとる彼を見かけた。
ある日、遅めの午前に出社したときのこと。空いている各駅停車西武新宿行きに本田亮が乗っていた。もちろん何かメモをしている。きっとすごいアイデアが次から次へと浮かんでいるに違いない。僕はもうそのメモが見たくて見たくてたまらない。電車が空いているにもかかわらず、僕は本田亮の座っている席の前の吊革までたどり着き、それとなく自然に振る舞って(どっからどう見ても不自然だ)そうっとそのメモを覗き込んでみた。使っているのが2Hのシャープペンシルだったのか、字が薄くてよく見えない。「本田さん、昔はレイアウト用紙にラッションペンで絵コンテ描いてたじゃないですか、最近は2Hのシャープペンですか?」という僕の心の叫びはとうてい届くはずもなく、電車は高田馬場駅のホームにすべり込んでしまったのだった。
あのときのメモ書きはきっとこの本のなかに書かれているに違いない。