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2025年4月29日火曜日

嵐山光三郎『新廃線紀行』

廃線と聞いて、そこはかとないイメージを浮かべる人とそうでない人がいる。夏と聞いて胸ときめかす人とそうでない人がいるように。
正直に言うと僕はそこはかとないイメージを浮かべてしまう。さらに廃線にそそられる人のなかでいてもたってもいられない人もいればそれほどでもない人がいる。前者の代表的存在は宮脇俊三だろう。僕はなくなった鉄路を見い出しに旅に出ようとまでは思わない。
高校生の頃、学校の最寄り駅である今のJR飯田橋駅に隣接するような形で飯田町という貨物駅があった。ずいぶん前に貨物駅はなくなり、再開発されて、ショッピングモールになっている。その飯田橋アイガーデンテラスに向かう途中に貨物駅時代の線路が遺されている。
その昔、武蔵野グリーンパーク球場というスタジアムがあった。かつて中島飛行機の工場の引き込み線を利用して三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶ中央線の支線が開通した。野球場はあまり利用されないまま取り壊され、中央線の支線は廃線になった。
JR三鷹駅の北口を出て、太宰治でお馴染みの架線橋の辺りから弧を描きながら北に向かう遊歩道がある。武蔵野競技場戦の廃線跡である。この先で線路は玉川上水を渡るが、その橋にレールが埋め込まれている。かろうじて廃線の痕跡であることがうかがえる。
この本にも取り上げられているが、軽井沢から草津に向かう鉄道があった。JR軽井沢駅の駅前に当時の車両が遺されている。日本初のカラー映画木下恵介監督「カルメン故郷に帰る」では高峰秀子がこの草軽電気鉄道に乗って故郷の北軽井沢駅に帰るシーンが映し出される。線路跡は山の中に隠されてしまったが、北軽井沢駅だけは遺されている。
以上が僕の廃線紀行である。
川本三郎や関川夏央の著書で文人が愛した鉄道旅が紹介されている。編集者として多くの作家と接点があったでろう嵐山光三郎も鉄道旅好きな文人だった。
それにしても廃線めぐりは過酷極まりない旅である。

2024年3月23日土曜日

今尾恵介『消えた駅名 駅名改称の裏に隠された謎と秘密』

いちど付けられた駅名がそんなにころころと変えられるなんてこの本を読むまで知らなかった。生まれ育った地域にも消えた駅名があった。東急大井町線の戸越(現下神明)と蛇窪(現戸越公園)である(本書でも取り上げられている)。僕が生まれるずっと前のことだ。
最近の例だと東武スカイツリーライン(旧伊勢崎線)の業平橋だろうか。東京スカイツリー開業とともに「とうきょうスカイツリー」と改称された。古くは同線の玉ノ井が東向島に変わったが、リアルには知らない。地図と歴史を辿っていけば改称された駅はたくさんある。地図と地名の人、今尾恵介だからできた一冊だ。
なぜ駅が改称されたか。市区町村の合併によってとか、付近の施設がなくなった、あるいは新たな施設が生まれたなど理由はさまざまである。観光地やニュータウンの入口として乗客や住民を誘致するための改称もある。同一鉄道会社の路線で同じ駅名は付けられない(A駅からA駅への切符は混乱を来すからだ)。同じ駅名を避けて、武蔵Aとしていた駅がそもそものA駅が改称されたことで武蔵AからAに改称されたという例も多い。
駅は大人の事情によって名前を新しくしていった。その事情が読んでいて楽しい。駅は世につれ、といったところか。
最近は合成駅名とでもいうのか、ふたつの地名を併記する駅が増えている。JR埼京線の浮間舟渡、東京メトロ銀座線の溜池山王、都営地下鉄大江戸線の落合南長崎など。たしかに駅を堺に隣接するふたつの町がある場合、駅名をひとつにするのは今の世の中では難しい。だったら両方を付けてしまおうという考えは大人の事情対応として有効だ。昔は考えられなかった気遣いである。荻窪駅だって今新設されたならば荻窪天沼駅となったに違いない。
僕はこうした合成駅名を民主主義的駅名と呼んでいる。新しい駅名だけを見ると日本の民主主義は進展してきた。本来的な意味でいう民主主義は果たしてどうなんだろう。

2022年8月26日金曜日

太宰治『グッド・バイ』

先月軽井沢を訪れたとき、横川駅まで行ってみた。
碓井峠越えで知られた横川も今は分断された信越本線の終着駅である。信越本線は他にも篠ノ井駅から長野駅、直江津駅から新潟駅の3つパートにわかれている。
横川駅前には碓井峠鉄道文化むらがある。もともとあった横川機関区(後に横川運転区)の敷地に機関車や電車など多くの車両が遺されている。横川で思い出されるのはアプト式。くわしい説明は避けるが歯車を力を借りて急勾配を登るシステムである。専用の電気機関車がつくられた。ED42という形式で施設内の車庫に保存されている。きちんとメンテナンスされているようでいざとなったら動かせるものと思われる。もうひとつ碓井峠の名物機関車といえばEF63。横川駅に到着した電車特急は2台のEF63に牽引されて峠を越えたのである。この機関車も動かせる状態で保存されている。事前に講習を受ければ、運転することもできるという。
そのほか、屋外には日本全国で活躍した機関車をはじめとした車両が展示されている。雨ざらしになって塗装が剥げかかっている。少しかなしい気持ちになる。とはいうもののこれだけの機関車が並んでいると鉄道の旅が今より時間がかかり、不便だったにもかかわらず、よろこびやかなしみやあらゆるものを乗せて運んでいた時代を思い出させる。僕が眺めているのは鉄道車両ではなく、過ぎ去っていった鉄道の黄金時代ではないかとさえ思えてくる。
太宰治を読みなおす旅を続けている。
太宰の作品はほとんど戦中に書かれている。新潮文庫の『グッド・バイ』には表題の遺作のほか、戦後に書かれたすぐれた短編が収められている。いよいよこれから太宰治の戦後がはじまるという期待感をもたせる作品集であるが、まるで平和な日本を生きるのが照れくさかったかのようにこのあと命を絶つ。
生きていたら「グッド・バイ」以上の作品が書けたかもしれない。書けなかったもかもしれない。

2022年7月20日水曜日

太宰治『パンドラの匣』

昔お世話になった広告会社のOB夫妻が軽井沢でカフェ・ギャラリーをオープンした。
夫妻とは今でも親交があり、ときどき簡単なデザインやイラストレーションなどを頼まれる。今回のカフェ・ギャラリーに関してもロゴマークのデザインやホームページ、フライヤーの制作を依頼された。オープン記念のパーティーに招待されて、生まれてはじめて軽井沢を訪れた。
もう30年以上前、小諸にあるペットボトルをつくる機械をつくる工場を訪ねたことがある。工場紹介の動画を制作するために打合せに行ったのである。当時は上野駅から信越本線経由金沢行きの特急列車に乗って行ったものだ。横川駅から2台の電気機関車が特急列車を牽引して碓氷峠を越えていた。
工場は当時JRの小諸駅北西側の小高い場所にあった。タクシーで10分ほどの距離である。最初の打合せでは動画制作にいたる背景やどんな動画にしたいか、何を強調してほしいかなど要望を聞いて、工場内をくまなく見学した。二回目の訪問の際にシノプシスをまとめて提案したと記憶している。実際の撮影は制作会社のスタッフにまかせたので僕が工場を訪ねたのは二回である(あやしい記憶ではあるが)。
先日軽井沢のカフェ・ギャラリーを訪れるにあたり、小淵沢から小海線に乗って小諸まで出た。軽井沢行きのしなの鉄道(昔の信越本線)の発車時間まで駅前をふらふら歩いてみる。駅前にあった蕎麦屋をさがしたりなどして。なんとなくではあるが、駅前はこんな感じだったななどと思い出されるのだが、駅前の蕎麦屋のあったあたりはまったく思い出せない。記憶とはいい加減なものである。
40年ぶりに読みかえす太宰治。
ここに収められている二編、「パンドラの匣」「正義の微笑」は太宰が描いた青春小説といわれている。太宰の明るい話、笑える話が好きだ。それにしてもこんな話だったっけと思うくらいまったくおぼえていなかった。
これもまたあやしい記憶である。

2022年7月10日日曜日

太宰治『新樹の言葉』

ときどき列車に乗って旅がしたくなる。日本全国の鉄路をすべて乗ってみたいとか、最長片道切符で北海道から九州を旅してみたいといった大それた望みはない。今まで乗ったことがない路線を始発駅から終着駅まで乗車できればそれでいい。しかも必ずしも秘境でなければいけないということでもない。近場のローカル線でもいい。ずいぶん昔のことになるが、八高線に乗りたくなって八王子駅まで出かけ、高崎までこれといった風光明媚な景色を見ることもなく乗り通した。その後、こんどは烏山線に乗ろう、両毛線もまだ乗ったことがないなどと思いながら、しばらくローカル線の旅もしていない。
軽井沢に出かける用事ができた。
前日に休みを取って、遠まわりしてみることにする。中央本線で小淵沢に出て、小海線で小諸、しなの鉄道で軽井沢というルートである。6時間くらいかかる。新幹線なら1時間ちょっとであるから、これは贅沢な行程といっていい。
13時前に小淵沢到着。立ち食いそばを食べて、13時36分発の小諸行きに乗る。小諸着が15時52分。車窓から外の景色をながめながらの2時間16分。やはり贅沢な旅だ。
小海線は高原列車と呼ばれる。日本でいちばん標高の高いところを走るからだ。なかでも野辺山駅は日本の普通鉄道の駅としてはもっとも高いところにある。高原列車らしい風景が見られるのは清里から野辺山、小海あたりまでか。小淵沢発小諸行きの後半は、学生や佐久平で北陸新幹線に乗り換えるのであろう出張中の会社員などが増えてくる。観光列車から生活路線に変わってくる。
小淵沢までの特急列車のなかで太宰治の短編集を拾い読みする。そういえばこの本は甲府時代の作品が多く収められていたことを思い出す。太宰はやはりすぐれた日本語の語り部である。
定刻通り小諸駅に到着。かつての信越本線、現在のしなの鉄道に乗り換えて軽井沢へ。小諸は何度か訪ねた町であるが、それについてはまた後日。

2020年2月26日水曜日

松本清張『点と線』

JR大井町駅の南側に通称「開かずの踏切」がある。子どもの頃は近くに鮫洲などという地名もあったから、アカズの踏切というのは固有の名称だと思っていた。都市部を中心にそこらじゅうにあるものだと知ったのはずいぶん大人になってからである。気がついたときには、踏切のすぐ近くに歩道橋ができた(いつごろできたか記憶にないが、本来の機能を発揮しない踏切の代替機能をじゅうぶんに果たしていた)。
小学生の頃、にわかに鉄道ブームが起こった。
友人らと日曜日の朝、写真を撮りに出かける。歩道橋からのアングルはちょっとかっこよかった。それぞれが当時どの家庭にも一台はあった小さなカメラを持って出かけた。オリンパスペンとか、リコーオートハーフ。僕が使っていたのはキヤノンデミというやはりハーフサイズのカメラだった。
何を撮るかといえば、前日の午後九州を発した寝台特急列車である。西鹿児島から、熊本から、長崎、佐世保から夜を徹して走り続けたブルートレインが早朝から東京駅にたどり着く。当時牽引していたのはEF65という電気機関車である。前面にはさくら、みずほ、はやぶさなど列車の愛称を記したヘッドマークプレートを掲げていた。要するに撮りたかったのはそれである。
松本清張に限らず、昭和の小説や映画では夜汽車が数多く走る。ブルートレインと呼ばれた豪華な寝台特急列車だけではない。堅い二等車の座席で目がさめると窓外は一面の雪景色だったりする。
この小説は、鉄道愛好家の間で時刻表に精通した犯人が巧みなアリバイ工作をはかることでもよく知られている。東京駅13番線ホームから15番線に停車中の博多行き特急列車を見渡せる例のシーンである。
定期的に運行される寝台特急も今となってはわずかとなってしまった。夜間長距離を走る列車もあるにはあるが、不定期運行となっている。松本清張で夜汽車の気分を味わうというのはちょっとしたぜいたくである。

2019年1月25日金曜日

カート・ヴォネガット『タイムクエイク』

海の見える駅というサイトがある。
東京近郊では鶴見線の海芝浦駅が海沿いの駅として知られている。京浜工業地帯にプラットホームがぽっかり浮かんでいるような駅である。東京都内にもゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)の青海駅と市場前駅が紹介されている。海というより運河の延長のように見える。少しさびしい。
現時点で紹介されているのは152駅。四方を海に囲まれたこの国でそれしかないのかとも思うがまだまだ発掘途上なのかもしれない。駅のホームからは見えないけれど内房線の館山駅などは駅舎から北条海岸を眺めることができる。夕陽の照りかえしが美しい。
東京駅から東海道本線で1時間半ほど、小田原駅の次の次が根府川駅。この駅は相模湾をのぞむ崖の上に駅舎があり、少し下にプラットホームがある。さらに崖下に国道が走っている。海の見える駅としてはほぼ完璧といえる立地にある。
根府川駅といえば大正12年に列車転落事故があった。関東大震災による土石流が駅舎もホームも機関車も客車も海中に沈めてしまったのである。丹那トンネルの大工事を追った吉村昭の『闇を裂く道』でこの事故を知った。駅舎内や駅を出て北側の県道沿いには慰霊の碑や五輪塔などが建っている。おだやかに見える目の前の海に沈んでいる機関車や客車に思いを馳せる。
カート・ヴォネガットの作品は『ガラパゴスの箱舟』以降の新作は読んでいなかったので、遅ればせながら久々の新作ということになる。
タイムクエイクとは時空連続体に発生した異常で人間も事物も10年前に逆戻りし、人々はもういちど過去をくり返すというもの。そして10年後、突如「自由意思」で行動できるようになる。そのときとてつもない混乱が起きる。
だいたいこんな話なのだが、ぼーっと生きてきた僕のような読者にはカート・ヴォネガットはハードルが高い。そのユーモアに追いついていけないのである。
まだまだ修行が足りないなと思う。

2018年11月30日金曜日

今尾恵介『日本全国駅名めぐり』

かれこれ20年以上前のこと。
ロケハン(ロケーションハンティング:撮影場所の下見)と称してプロデューサーのH君と盛岡まで東北新幹線に乗った。当時はまだ盛岡から先は開通しておらず、そこは新幹線最果ての駅だった。
新聞でも買いますかと言われたが、売店でJTBの時刻表を一冊買った。盛岡までの500キロ余りの距離と時間を埋めるにはうってつけと思ったからだ。車中はずっとそれをながめて過ごした。かつてたどった道のりを追体験したり、東京駅から日帰りでどこまで行けるか、その際、同じ経路は通らないで、みたいなシミュレーションをしていたら、あっという間に終着駅に着いた。
同行のH君が言う。ずっと時刻表見てましたね、鉄道っておもしろいもんですか、僕には信じられないなあ、と。3時間ずっと『GUN』という鉄砲の雑誌を読んでいたH君に言われる筋合いはない。
山手線の品川駅と田町駅の間に新しい駅ができるという。
果たしてなんという駅名になるか。下馬評では(もちろんこんなものは何のあてにもならないのだが)高輪、泉岳寺、芝浦、新品川などが有力視されているそうだ。いっそ、京浜急行から北品川という駅名を買い取ってはどうかと思う(駅名が売買されるかどうかは別として)。品川駅でさえ港区なのに、さらに品川の領土を拡張することもないと思うが。
先日、田町駅から歩いて新駅のできるあたりを散策した。第一京浜(国道15号線)に沿って山手線は走っている。位置的には都営地下鉄泉岳寺駅に近く、周辺には高輪という地名もある。ところが国道が町を東西に二分している。山手線側と高輪側をむすぶ横断歩道も少ない。もちろん歩道橋や地下通路なども整備されるのだろうが、どうも新駅は山手線の海側、すなわち東側のための駅ではないかという気がする。と考えると「芝浦」がいいんじゃないかと思う。
どうでもいいことかも知れないが、駅名というのはおもしろいものだ。

2018年5月13日日曜日

今尾恵介『路面電車』

大都市から路面電車が姿を消した最大の原因はモータリゼーションの進展にあるといわれている。
路面電車という時代遅れの交通システムが都市部の混雑、渋滞を惹き起こしていたというのだ。当時の日本人の考え方からすれば、経済効率と利便性が最優先。本格的に普及していったクルマは最も愛されるべき乗り物だった。
東京をはじめとする大都市では路面電車はこぞって廃止され、バスに代わり、さらに高速交通網として地下鉄道が建設される。クルマが最優先されたのはそこらで見かける歩道橋を見てもわかる。自動車の走行の邪魔にならないよう歩行者を安全に迂回させるルートだ。日本人は誰もが成長していたから、足の不自由な人や小さな子どもを連れたファミリーやお年寄りのことなど考えることもなかったのだろう。「時代の考え」はそうだった。
明治の頃、さかんに鉄道が敷設されていったが、鉄道が通ると農作物が育たないという「時代の考え」があった。鉄道駅から離れたところに市街地をもつ地方都市にはそんな考えが蔓延していたのではないか。
なんでもかんでも新しくすることが日本的なものの考え方ではある。路面電車は古いから新しくする、地下鉄にする。これは日本という国の伝統的美点なのかもしれないが、そうのうちなんとかなるだろうからつくってしまえという発想は戦費もないのにロシアと戦争をはじめた時代から連綿と続いている。
ヨーロッパを旅すると古い建物を多く見る。石造りであったり、レンガ造りであったりする。古い町の景観と同じように路面電車も大切に有効に乗り継がれている。都心部へのクルマを制限して、郊外電車とつなぐという発想が素晴らしい。穴を掘るでもなく、高架線をつくるわけでもないからたいしてお金もかからない。
夢や未来を語るのは自由だけれど、人々にとって必要な交通手段を人間的な視点からきちんと考えて結果を出している。それがLRTという昔からあって新しい乗り物だと思う。

2018年5月7日月曜日

今尾恵介『地図で読む昭和の日本』

実家に古い地図がある。
古いといっても江戸切絵図とか明治時代の古地図ではない。おそらく昭和50年頃の東京23区の区分地図である。昭和時代の地図も1964年のオリンピック大会以前の地図であれば、町名が昔のままだったり、都電が走っていたり、川が流れていたりして、現在と地図と見比べると一目瞭然のおもしろさがある。1970年以降、都電が廃止され、首都高速など現代のベースができあがってからさほど大きな差は見られなくなった。それでも目を凝らしてみると都内各地で再開発が進み、昔あったものがなくなっている。いや、今なくなってしまったものが地図に残っている。
手はじめに新橋あたりを見てみよう。ゆりかもめはまだ走っていない。汐留貨物駅があり、そこから築地市場へ引き込み線が伸びている。新大橋通りに踏切があったのをおぼえている。貨物駅はこのほか、飯田橋貨物駅や小名木貨物駅、隅田川駅があった。今では隅田川駅が半分だけ遺されている。それぞれオフィスビルや商業施設、高層住宅に姿を変えている。
新宿駅西口には京王プラザホテルを筆頭に高層ビルが建ち並ぼうとしている。品川駅の港南口(東口)は今よりずっと東側にあった。大崎駅の周辺は明電舎や日本精工の工場があった。
昔から変わらない町並みや景観もあるだろうが、40年もあればたいがいの町は変り果てる。歳を重ねるとついこないだのように思えるけれど、客観的に見れば町は変貌を遂げて当然なのかもしれない。
この本は地図という尺度をもとに定点観測した町の変わりようを追いかけている。
今あるものが昔からあったわけではなく、今あるからといって未来永劫あるわけでもない。40年前のジャイアンツファンがタイムスリップして今の世の中にやってきたとしても彼は後楽園スタジアムにたどり着けないのである。
おもしろい本だった。町の風景はまるで人生のように無常だ。
おもしろいと同時に、さびしさもおぼえた。

2018年4月27日金曜日

阿川弘之『お早く御乗車ねがいます』

駅のみどりの窓口以外で紙の時刻表を手に取ることもなくなった。
スマホやタブレット端末ですぐに検索できてしまうから、分厚い時刻表をめくる手間は要らなくなったのだ。東京駅何時何分発名古屋駅何時何分着、乗り換えに何分かかって目的地到着何時何分とあっという間に必要な情報が手に入る。手に入るというか手のひらの上に表示される。もちろんそれで事足りるわけだから何も文句はない。ただ事足りたとしても物足りない。
時刻表を見てみよう。ご丁寧にもどこの駅を通過するかまでちゃんと記されている。隣の駅に行くのでない限り、列車は必ずどこかの駅を経由する。飛行機とは違う。通過する駅があるということは乗車時間中に空間を移動するということで時刻表は列車の移動をちゃんと記している。列車の進行を追いかけていくと、東海道新幹線なら新丹那トンネルを抜けて三島駅を通過したぞ、そろそろ富士山が見えてくるぞと気持ちが高まってくる。スマホの検索結果にはそういったわくわく感がない。これは紙の時刻表の持つ最大の特徴といえる。具体的な車窓の景色が描かれているわけでもないのに列車移動の時空間が記されていることによって移動の醍醐味を味わうことができるのである。
それは東海道新幹線に乗って富士山を見たことがある人の言い分でしょうと言われるかもしれない。はじめて旅する景色だっていい、見たことのない風景でもいい。時刻表には車窓から眺められる移動感が記されていることに変わりはない。
先だって読んだ『鉄道エッセイコレクション』(ちくま文庫)で阿川弘之という作家が鉄道マニアであったことを知る。時代としては昭和30年前後、獅子文六が『七時間半』で描いた電車特急時代の少し前にあたるだろうか。
阿川弘之の作品はまったく読んでいない。『山本五十六』、『米内光政』など戦記物が多いようだ。せっかく鉄道が取り持ってくれたご縁なのでこんど読んでみることにする。

2018年4月26日木曜日

芦原伸編『鉄道エッセイコレクション』

毎年のことだが、四月はいそがしい。
四月だけがいそがしくて後はずっと暇かというとそういうわけでもない。どうして四月がいそがしいのかと冷静に考えてみると、実はさほどいそがしくもないのだなと思うこともある。「しがつ」という音の響きやら、吹きわたる風が寒かったり暑かったりするせいでいそがしく感じられるだけかもしれない。
高校野球で春の都大会がはじまったり(今年はわが母校も予選を突破した)、東京六大学野球や東都大学野球の春季リーグがはじまるせいかもしれない。会社に新入社員が入ってくるように新チームに一年生が加入して戦力が刷新される。そういうことがそわそわ感を助長するのだろう。
春といえば靖国神社で奉納大相撲が開催される。三月場所を休場した白鵬や稀勢の里は出場するのだろうかなどとどうでもいいことを考えてまたそわそわする。
そわそわしたついでにどこか遠くまで出かけてみようかとも思う。電車に乗りたいと思うのもやはりこの季節のなせるわざか。仕事はたまっているが、一日くらいさぼって横浜の先まで京浜急行にゆられてみよう…。そんなろくでもない思いを断ち切るためには心静かに鉄道関連の書籍に目を落とすしかないのである。
先月ちくま文庫から刊行されたこの本はまさにかゆいところに手が届く本である。僕の高校時代の親友が筑摩書房にいるのでここではもちろん「ヨイショ」しながら書いている。
立松和平が、川本三郎が東海道本線や中央本線を各駅停車で旅をする。これ以上贅沢な旅があるだろうか。駅弁の旅もいい。百閒先生の阿呆列車の旅や宮脇俊三の名エッセイは以前読んでいたけれど、見事な再会を果たすことができた。
そして筋金入りの鉄道マニア阿川弘之。この人の作品はあらためてちゃんと読まなければなるまい。次に読むリストに入れておく(『お早く御乗車ねがいます』)。
列車旅はいいなあ。野球も相撲もいいけれど、春はやっぱり小旅行の季節だ。

2018年4月24日火曜日

佐藤良介『なぜ京急は愛されるのか』

京浜急行の本線は品川を起点として品川区大田区を縦断し、川崎、横浜そして湘南へと続く。
品川駅と都営地下鉄と連絡する泉岳寺駅は港区になるが、東京都民で京浜急行と接点があるのは上記二区だけである。品川区で生まれ育った僕とて実は京浜急行は身近な路線ではなかった。品川区も大田区も東急文化圏と京急文化圏にわけられているからだ。小学校中学校と最寄駅が東急だった関係で遠足などの校外活動はどうしても東急のテリトリーになる。当時海沿いにあった品川火力発電所や鈴ヶ森刑場跡など社会科見学で出向く際は貸切バスだ。電車を乗り継ぐことはない。そういうわけではじめて京急に乗ったのはかなり大きくなってからような気がしているが、はっきりとした記憶はない。
高校の頃、部活で足を捻挫した友人を送って平和島駅で下車した記憶が残っている。彼は本来大森駅を、僕は大井町駅を利用していた。どうして京急だったのか。もしかすると国鉄がずいぶん長いことストライキをしたことがあり、だとすると昭和50年の11月かも知れない(いわゆるスト権スト)。
いくら何でも品川区に住んでいて高校生になるまで京急に乗ったことなかったなんてありえないとも思うのだが、他に思い出せないのだから仕方がない。このときをMy first KQとしておこう(俺って相当オクテだったんだな)。
電車に乗ったり近所を走る貨物列車をながめたりするの好きだったわりには京浜急行の電車のフォルムや赤とクリームの色合いが好きになれなかった。今にして思うと乗る機会に恵まれなかったことによるやっかみなのではないかとも思う。
横浜に行くなら京急だ。東海道でも、東急でもなく、ましてや湘南新宿ラインでもない。北品川駅を過ぎ、高架になるのはちょっとどうなんだと思うけれど、右側に座って海側を見ようか、左側から台地をながめようかわくわくしている自分がいる。
いつの頃からかすっかり京急ファンになっていた。

2018年1月5日金曜日

獅子文六『ちんちん電車』

あけましておめでとうございます。

正月、テレビ番組を視ながらテツandトモは鉄板だと思う。
おもしろくはないが、つまらくもない。場を賑わせてくれるし、お年寄りも子どもも楽しめる。「なんでだろう〜」という歌は耳に馴染み、共感を呼ぶ。小難しい漫才や品のないコントではないストレートな娯楽がある。「笑点」の大喜利と似た温度を感じる。ある種の健全さを感じる。NHK的なお笑いだ。
獅子文六の鉄道ものでは『七時間半』が知られているが、都電をモチーフにしたエッセーもあった。電車そのものというよりはその沿線にまつわる思い出話が主役だ。1966年に出版されている。都電撤去が本格的にはじまったのが1967年。去りゆく都電への愛惜がこめられている。
獅子文六は慶應義塾幼稚舎の時代、横浜に帰省するにあたり、札の辻から品川駅前まで1系統(品川駅前と上野駅前を結ぶ)によく乗っていたという。時代は明治。東京市電になる以前の東京電車鉄道の時代か。
少年期から慣れ親しんだ路線に乗り、高輪、芝、新橋、銀座、日本橋、神田と北上していく。なつかしい店や風景が綴られる。当時随一といっていい盛り場だった浅草の思い出も克明に語られる。『自由学校』執筆の際、東京じゅうを取材してまわったらしいが、このエッセイでは品川〜上野、浅草にフォーカスされている。逆に言えば、ブレがない。
都電が廃止されて40数年(荒川線が現存するが)、都電の思い出を語る人も少なくなってきた。戦争も震災もそうだが、路面電車も語り継がれていかなきゃいけないと思う。
話は戻るけれど、テツandトモは正月番組にはうってつけの存在になっている。
これは傘の上で升や鞠をまわさない海老一染之助染太郎だ。そう思っていたら、最近ではテツ(染太郎役に相当する)がスタンドマイクやらなにやらを顎の上に乗せる。おそるべしテツandトモ。こちらの思いが見透かされてしまったみたいだ。
なんでだろう。

2017年8月20日日曜日

吉村昭『闇を裂く道』

丹那トンネルが開通するまで東海道本線は国府津から箱根の山を迂回して沼津に出ていた。
旧東海道本線は御殿場線という名のローカル線になっている。古い幹線の名残りを見に国府津まで出かけたことがある。もともと東海道本線なだけあって、かつて複線だった跡やトンネルの跡を見ることができた。
富士山を間近で眺めることのできるのどかなローカル線ではあるが、東海道本線時代には輸送量の多さと勾配のきつい難所越えがネックだった。国府津や沼津での機関車交換に時間をとられた。急坂を登りきれずレールの上を車輪が滑るため、機関車前部から砂を巻きながら走ったともいう。
SLの時代でなくなってからも国府津駅にはしばらく機関庫と転車台が遺されていた(ように記憶している)。雄大な富士をバックに蒸気機関車全盛期に思いを馳せる。
丹那トンネルは熱海(来宮)と函南を結ぶ。完成当時清水トンネルに次ぐ日本で二番目に長いトンネルだった。その上は丹那盆地があり、湧き水の豊かな水田地帯だったという。わさびが名産だったというからそれはきれいで豊かな水だっただろう。
吉村昭のトンネル作品には黒部ダム建設用のトンネルを掘るノンフィクション『高熱隧道』がある。火山帯の高熱地下を掘り続ける話だった。こんどのトンネルは水攻めである。トンネル内に流れ出る水は工事を難航させただけではない。丹那盆地の住民の生活をも変えてしまった。出水で枯れたこの地はその後酪農と畑作を主とするようになった。
なにしろ15年もの歳月をかけて開通したトンネルだ。この本だけでは語り尽くせぬ物語があったにちがいない。崩落事故や崩壊事故で多くの犠牲者を出した。崩落事故にまきこまれた17名の作業員が一週間後救出される。闇の中でじっと救助を待つ。読んでいるだけで酸素が薄く感じられてくる。
こんど熱海に行く機会があったら、温泉なんてどうでもいいから、トンネルの入り口を見てみたい。

2014年6月9日月曜日

宇都宮浄人『 路面電車ルネッサンス』

東京六大学野球リーグには古い記録が残っている。
比較的新しい新記録といえば平成14年に江川卓(法政~巨人)の通算奪三振443を和田毅(早稲田~ソフトバンク、オリオールズ)が476に塗り替えたあたりか。田淵幸一(法政~阪神、西武)の通算本塁打22本を越えた高橋由伸(慶應~巨人)の23本も平成9年だから20世紀の記録になる。
投手の通算最多勝利、山中正竹(法政~住友金属)の48に迫った記録として江川卓の47があるが、おそらくこれは未来永劫更新されることはないだろう。あるとすれば通算安打数の新記録。用具や技術、練習方法などの進歩がもたらすものは野球においては攻撃面だ。
昭和42年に打ちたてられた通算最多安打、高田繁(明治~巨人)の持つ127本。これはいずれ越えられるであろうとずいぶん前から思っていた。
これまで多くの選手が高田越えに挑んできたが、もっとも肉迫したのが堀場秀孝。堀場は長野の丸子実業出身。江川と同期であるが、受験に失敗し、一年浪人した後慶應義塾に入学した。1年春から正捕手としてレギュラー入り、以来安打を重ねること125本。卒業後はプリンスホテルから広島、大洋、巨人と渡り歩いた。
堀場に次ぐのが彼の先輩にあたる松下勝美(慶應~松下電器)の123本。昭和43~46年の記録だから、高田と入れ違いにリーグ戦デビューしてつくられた記録だ。
4人いる120本越えのあとひとりが大引啓次。法政からオリックスにすすんだ平成の安打製造機である。以下、高橋由伸、岡田彰布(早稲田~阪神)、中村豊(明治~日ハム、阪神)、鳥谷敬(早稲田~阪神)。ここまでが115本以上。
路面電車には未来があると思っている。実相寺昭雄監督もそう言っていた。
この本は鉄道趣味的な枠組みを越えて路面電車の未来を語る。夢物語ではない新しい都市交通を描いている。
何を隠そう今ひそかに応援しているのは大学野球と路面電車なのである。

2013年12月25日水曜日

富澤一誠『あの素晴しい曲をもう一度―フォークからJポップまで』


40年以上昔に東北本線の尾久駅で下車したことがある。
上野から東北、上信越方面に向かう列車の操車場がそこにあった。小学校の頃、同級生の高橋くんと写真を撮りに行ったのだ。たしか高橋くんのお父さんが付き添ってくれた。ふたりとももう他界している。
大井町あたりに住んでいて、よく行く親戚も赤坂や月島だったから、京浜東北線の北側は遠い世界だった。尾久という駅の近くに操車場があり、色とりどりの電車や客車が並んでいることを雑誌か何かで知り、行ってみたいと思ったのだろう。尾久駅は「おくえき」と憶えた。
高校生になって行動半径がひろがった。町屋に住む友だちや王子から通う同級生に尾久は「おく」ではなく、「おぐ」であると何度も正された。なぜ駅名だけ「おく」なのか。おそらくは「やまてせん」と「やまのてせん」の関係に近いのではないかと思っている。歴史的に見てもこの界隈は尾久村(おぐむら)と呼ばれていたようだ。
歌謡曲やニューミュージックの歴史を追った書物は多々あるが、やはり教科書的に平たく概観するのは無理がある。そんな気がする。
とりわけ評論家という立ち位置というか書き手の視点からでは難しい。
以前テレビの番組でなかにし礼が「不滅の歌謡曲」と題してその歴史をたどった。作詩家としての視点から歌謡曲を解き明かした。
坂崎幸之助は『坂崎幸之助のJ-POPスクール』でアーティストをめざした少年の視点でフォーク、ニューミュージックの世界を読みなおした。たしかこの本もラジオ番組をまとめたものだったと思う。1アーティストの昔話と言ってしまえばそれまでなのだけれど、むしろその方が味があって、生き生きと感じられる。
というわけで何が言いたいかというと、歌の歴史をまとめるのはたいへんだよなってことである。
「おくえき」を降りるとそこは昭和町(しょうわまち)だった。

2012年9月26日水曜日

リンクアップ『今すぐ使えるかんたんmini Dropbox基本&便利技』

新宿駅を出た湘南新宿ラインは山手線と沿うように大崎駅まで行く。大崎を出ると東海道新幹線と横須賀線のガードをくぐって、大きく右手にカーブしていく。それまで並行していた山手線は左に曲がって品川駅をめざす。湘南新宿ラインの左車窓から見えるのがJR東京総合車両センター。かつては国鉄大井工場と呼ばれていた。
しばらくすると湘南新宿ラインは東急大井町線下神明駅付近で先ほどくぐった横須賀線と合流する(ほぼ垂直に交差した線路がすぐ合流することに違和感を感じるのだが)。そこにポイントがあるのだ。住所でいえば品川区西品川一丁目。
今の横須賀線は品鶴線という貨物線だった。文字通り、品川と横浜の鶴見を結んでいた。昼夜を問わずEF15とかEH10など武骨な電気機関車が牽引する貨物列車がガタゴトと走っていたのだ。モータリゼーションの波にのまれ、鉄道貨物が衰退するまでは。
下神明にあるポイントは常磐、千葉方面からやってくる列車と東北、上信越方面からの列車を合流させて関西方面に送り出す役割を果たしてきた。逆向きに考えれば、九州や西日本からやってくる貨物列車を汐留、越中島、亀戸方面と新宿、赤羽方面へと荷分けするポイントでもあったのだ。
昨今クラウドコンピューティングの話題が多い。乗り遅れないよう、いちおう基礎的な知識はインプットしておかなくちゃと思うのでこういう本も読む。横書きの本は読みにくいし、図版の多い本は文章と図を往復するのに疲れる。クラウドの力でもっと簡単に読めないかとも思う。
Dropboxはなかなか使い勝手のいいオンラインストレージで、ドキュメントや写真、資料動画などを保存している。この手の本やネット上の記事を丹念に読んでいる人はもっと便利に使っているにちがいない。まあ、焦らず、使えるところから使っていこう、くらいのゆるい態度で接しているが。
山手線と並行する貨物線は埼京線となり、品鶴線は横須賀線になった。貨物列車は遠い記憶に中で今も走り続けている。


2011年10月6日木曜日

実相寺昭雄『昭和鉄道少年』


クリープを入れないコーヒーなんて。
この名コピーでおなじみのテレビコマーシャルの大半は実相寺昭雄が演出したのではないだろうか。20数年前、アルバイトでもぐり込んだCM制作会社の作品集の、そのほとんどが芦田伸介出演のクリープのCMだった。
CM制作の現場はテレビ番組制作のそれより映画に近い。演出家は監督と呼ばれる。当時の社長はむやみやたらと演出を監督と呼ぶなと言っていた。「監督といえるのは実相寺くらいのもんだ」と豪語していた。
実相寺昭雄の絵コンテを見たことがない。たいていの演出家は自ら構想を描いたプランをカット割りして、絵コンテにする。実相寺監督は原稿用紙に達筆過ぎる文字でその構想を記す。それを読んだカメラマン、ライトマン、美術デザイナーは現場に向けて映像をイメージし、必要な準備をすすめる。手慣れた実相寺組に絵コンテはむしろ要らない。
そうはいっても広告ビジネスの世界では広告主の意向なり、判断を仰がなくてはならない。共通認識のツールとして絵コンテは欠かせない。
あるとき、プロデューサーでもある社長に呼ばれ、“監督”の書いた原稿用紙のコピーを渡された。「お得意さんに事前に見せておかなくちゃならないから、お前、これを絵コンテにしておけ」との指示。畏れ多くも実相寺昭雄直筆の演出メモを絵にするなんて…。原稿を読む前にこれはカメラマンのNさんか美術のIさんに相談して監督のイメージを聞き出すしかないと思った、多忙な監督にお目にかかれる機会など年に何度かしかないし。とてもじゃないが鬼才の描く映像世界など描写できるほどの熟練はなかったのだ(熟練ということでいえばいまでもそうだが)。
ふた晩ほど会社で白紙を置いて悩んだ挙句、社長に「ぼくには描けません」と正直に打ち明けた。「そりゃそうだろうな」のひとことで結局絵コンテは描かずに済んだ。
生前の実相寺昭雄とは直接会話らしい会話をしたことはない。実相寺組のスタッフの方から伝え聞いた話が多い。鉄道に限らず、いまでいう“をたく”だったと聞く。とりわけ地方にロケに行くと必ず郵便局で貯金をする話とか、スタッフにいたずら(子どもじみたいたずらだったと聞く)した話とか。
しかしこの本はおもしろかった。読み終えるのがいやでわざとゆっくり頁をめくりたくなったくらいだ。
単に鉄道好きということだけではない。実相寺昭雄の生活圏が案外身近だったことをいままで知らなかったのだ。王子電車とか、戦後大井出石町から京浜東北線と中央線で飯田橋の学校に通ったとか、九段から靖国通りを下って須田町まで歩いたとか、赤坂のテレビ局に就職したとか。王子も大井町も飯田橋も赤坂も、ぼくにとってはいずれも忘れらない場所なのだ。
自分自身を、永遠の少年である“監督”にオーバーラップさせられたことがうれしくてたまらない。
ところで実相寺昭雄の演出メモを絵コンテにできなかったのは、監督の書いた達筆過ぎる字が解読できなかったせいもある。
豊島、いい文庫をありがとう。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。