今月、定年退職を迎えた。退職に伴う諸々の手続きを済ませ、会社に残してきた荷物を整理した。映像制作を生業としてきた関係でキャビネットのなかは絵コンテなど紙資料とビデオテープがほとんどである。かつてフィルムの時代もあった。作品集と称する十六ミリのリールも持っていた時代もある。どの制作会社にも映写機があった。
映像制作の現場にPCが導入され、普及していったのは1980年代の終わり頃だったと思う。15秒の映像をデータにして電話回線で送るなんて(理論的には可能だったろうが)現実的ではなかった。それだけの容量を格納できる記憶媒体もしかり。
今、プレビューのためのメディアはビデオテープではなくなった。ハードディスクなどの記憶媒体が使われる。データはネットワークで流通する。紙資料にしても同様。デジタルの時代、すべてはデータ化され、カタチもなければ重さもない。
会社に置いてあったテープ類、紙類は処分してもらうことにした。テープの中身はすべてではないが、以前データ化してもらっている。紙資料もあらかたPDF化している。持ち帰るものは何もない。もちろん持ち帰ったところで再生する術もない(そしてもう一度見でみようとはおそらく思うまい)。
ふりかえって見ると僕は人生の大半をカタチも重さも手ざわりも、当然のことながらにおいもないものをつくるために費やされてきたのだ、結果的に。そう思うと少し寂しい。
スティーブン・キングをよく読んだ時期があった。『スタンド・バイ・ミー』『キャリー』『シャイニング』『クリスティーン』など。1990年代半ばくらいだったろうか。そのなかでもお気に入りがこの本だった。
リアルな世界とダークな世界を行き来しながら旅をする少年の物語である。この本はピーター・ストラウブとの共著(マッキントッシュのデータをやりとりしていたと聞いている)であるが、キングの作品をもう一度読むなら断然この作品だ。
2024年11月26日火曜日
2024年9月1日日曜日
ジャン=ジャック・ルソー『新エロイーズ』
8月はあっという間に過ぎ去っていった(今年の8月に限ったことではないけれど)。
別段、何かしていたわけでもない。この暑さのなか迂闊に外出はしないよう気をつけていた。母が入院していた病院に支払いに行った。南房総に墓参りに行った。図書館まで予約した本を借りに行き、返却に行った。母が退院するので手続きに行った。郵便局と銀行を何度か往復した。少し仕事もした。それくらい。後はオリンピックを見て、高校野球を見て、MLBを見て、じっとして動かない台風10号を見て、要するにテレビを視ているいるうちに8月が終わってしまったのだ。
それにしても今年の甲子園は接戦が多く、ジャイアントキリングが何試合かあってずいぶん楽しめた。霞ヶ浦、小松大谷、大社が印象に残る。来月以降もとっとと過ぎ去ってはやいとこ甲子園がはじまらないかとさえ思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』を読んだのは大学3年生のときだ。卒業論文はルソーについて書こうと朧気ながら考えていて、すでに何度か読んでいた『エミール』以外の作品を読んでおこうと思ったのかもしれない。
ルソーというと『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』などやや小難しい著作もあるが、『新エロイーズ』は書簡体の恋愛小説である。高貴な女性と貧しい男性との恋はスタンダールの『赤と黒』を思い出させるが、当時の読書記録によるとスタンダールを読んだ直後に『新エロイーズ』を読んでいる。立て続けに読んだので印象がごっちゃになっている。
ルソーの本をもう一度読んでみるならこの本だろうと思う。手もとに岩波文庫が4冊ある。しかしながら頁をめくった途端にその字の小ささに気が遠くなるのである。当時の僕にはこれくらいの大きさの文字が苦も無く読めたのだ。
21歳の8月は今よりもっと時間がゆっくり流れていたに違いない。暇で暇でたいしてすることもなかったという点は今も昔も変わらないとして。
別段、何かしていたわけでもない。この暑さのなか迂闊に外出はしないよう気をつけていた。母が入院していた病院に支払いに行った。南房総に墓参りに行った。図書館まで予約した本を借りに行き、返却に行った。母が退院するので手続きに行った。郵便局と銀行を何度か往復した。少し仕事もした。それくらい。後はオリンピックを見て、高校野球を見て、MLBを見て、じっとして動かない台風10号を見て、要するにテレビを視ているいるうちに8月が終わってしまったのだ。
それにしても今年の甲子園は接戦が多く、ジャイアントキリングが何試合かあってずいぶん楽しめた。霞ヶ浦、小松大谷、大社が印象に残る。来月以降もとっとと過ぎ去ってはやいとこ甲子園がはじまらないかとさえ思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』を読んだのは大学3年生のときだ。卒業論文はルソーについて書こうと朧気ながら考えていて、すでに何度か読んでいた『エミール』以外の作品を読んでおこうと思ったのかもしれない。
ルソーというと『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』などやや小難しい著作もあるが、『新エロイーズ』は書簡体の恋愛小説である。高貴な女性と貧しい男性との恋はスタンダールの『赤と黒』を思い出させるが、当時の読書記録によるとスタンダールを読んだ直後に『新エロイーズ』を読んでいる。立て続けに読んだので印象がごっちゃになっている。
ルソーの本をもう一度読んでみるならこの本だろうと思う。手もとに岩波文庫が4冊ある。しかしながら頁をめくった途端にその字の小ささに気が遠くなるのである。当時の僕にはこれくらいの大きさの文字が苦も無く読めたのだ。
21歳の8月は今よりもっと時間がゆっくり流れていたに違いない。暇で暇でたいしてすることもなかったという点は今も昔も変わらないとして。
2024年7月4日木曜日
J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』
『ライ麦畑でつかまえて』を読む。1964年に刊行されている。僕が読んだのは白水Uブックスという新書サイズの文庫になってからだ。ジョン・アップダイクもカート・ヴォネガットも入口は白水Uブックスだった。
2003年に同じ白水社から村上春樹訳が出る。出版社が同じなのはおそらく契約の関係か。
それまで40年近く、ホールデン・コールフィールドの語りは野崎孝が担当していた。別に吹き替えの声優が代わったわけでもないけれど、僕は新たな気持ちで村上訳を読んだ。野崎訳とくらべてみようなんて気もなかった。村上春樹は小説をはじめ多く読んでいたから、違和感もなく、すんなり受けとめた。ホールデンが新しくなったわけでもなかったし。
村上訳も野崎訳も何度か繰り返し読んでいる。先日、村上訳を読み直して、野崎訳をもう一度読んでみたいと思った。ブルーのカバーはなくなっていたけれど『ライ麦畑』は書棚にあった。両者の訳文をくらべるのはたいして意味はないと思ったが、続けて読んでみるとそれぞれのホールデン像が微妙に異なることに気付く。
作家の兄を持ち、英作文を得意とするホールデンは未成熟な少年でありながら、語彙も豊かで文章も巧みなはずだ。父親は弁護士でアッパーイーストサイドの(高級そうな)アパートメントに住んでいる。どんなに心が破綻していても一定水準以上のインテリジェンスを彼に与えなければならない。村上訳にはそういった意図が感じられる。単なるクレージーボーイの独白に止めたくないという意思が。まるでホールデンの弁護人みたいに。題名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もまんまといえばまんまだが、少し知的な感じがする。
野崎ホールデンと村上ホールデン。僕たちの世代でいえば、前者が圧倒的な多数派であるに違いない。将来はどうだろうか。この先新たな翻訳は生まれないだろう。そのうち村上訳がスタンダードになるかもしれない。
それはそれでいい。
2003年に同じ白水社から村上春樹訳が出る。出版社が同じなのはおそらく契約の関係か。
それまで40年近く、ホールデン・コールフィールドの語りは野崎孝が担当していた。別に吹き替えの声優が代わったわけでもないけれど、僕は新たな気持ちで村上訳を読んだ。野崎訳とくらべてみようなんて気もなかった。村上春樹は小説をはじめ多く読んでいたから、違和感もなく、すんなり受けとめた。ホールデンが新しくなったわけでもなかったし。
村上訳も野崎訳も何度か繰り返し読んでいる。先日、村上訳を読み直して、野崎訳をもう一度読んでみたいと思った。ブルーのカバーはなくなっていたけれど『ライ麦畑』は書棚にあった。両者の訳文をくらべるのはたいして意味はないと思ったが、続けて読んでみるとそれぞれのホールデン像が微妙に異なることに気付く。
作家の兄を持ち、英作文を得意とするホールデンは未成熟な少年でありながら、語彙も豊かで文章も巧みなはずだ。父親は弁護士でアッパーイーストサイドの(高級そうな)アパートメントに住んでいる。どんなに心が破綻していても一定水準以上のインテリジェンスを彼に与えなければならない。村上訳にはそういった意図が感じられる。単なるクレージーボーイの独白に止めたくないという意思が。まるでホールデンの弁護人みたいに。題名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もまんまといえばまんまだが、少し知的な感じがする。
野崎ホールデンと村上ホールデン。僕たちの世代でいえば、前者が圧倒的な多数派であるに違いない。将来はどうだろうか。この先新たな翻訳は生まれないだろう。そのうち村上訳がスタンダードになるかもしれない。
それはそれでいい。
2024年6月20日木曜日
J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』
「成熟」という言葉を辞書で引いてみると「穀物や果物などが十分熟すること」、「人の心や身体が十分に成長すること」とある。もともとは農作物に対して使われていた言葉がたとえとして人間に使われるようになったのかあるいはその逆なのかはわからないが、はじめに示されるのは「穀物や果物」である。
人は成熟していく。とりわけ大きく成熟を遂げるのは十代や二十代の少年期や青年期だろう。心や身体が十分に成長することによってさまざまな知識や技能を獲得し、経験を積んでいく。ただ六十年以上生きてみるともっと年齢を重ねても成熟することはある。たとえば五十歳を過ぎてから山登りや楽器の演奏をはじめた、なんて人たちだ。はじめのうちは慣れなかったり、身体が思うように動かなくてもある程度反復することでそれまでなかった能力を身に付けることは可能だ。もちろん若い頃にくらべれば時間はかかるだろうけれど。人はたえず未成熟と成熟の間に生きている存在なのかもしれない。
ラスト、フィービーが乗る回転木馬のシーンが好きでこの本をもう何度も読んでいる。
ホールデン・コールフィールドはクリスマス前のとある深夜にかつての英語の先生アントリーニに会いに行く。この教師はホールデンの破綻を熟知している。アントリーニはホールデンに「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」と書いた一枚のメモ書きを渡す。ライ麦畑のキャッチャーになりたいと成熟することを頑なに拒み続けるホールデンにアントリーニ先生は卑しく生きていく術を説いたのだ。
この作品の成功の後、ある事件をきっかけにサリンジャーは隠遁生活を送る。まるで大義のために高貴なる死を求めたかのように。ホールデン・コールフィールドはサリンジャーに乗りうつって、未成熟なまま生き続けたのかもしれない。
人は成熟していく。とりわけ大きく成熟を遂げるのは十代や二十代の少年期や青年期だろう。心や身体が十分に成長することによってさまざまな知識や技能を獲得し、経験を積んでいく。ただ六十年以上生きてみるともっと年齢を重ねても成熟することはある。たとえば五十歳を過ぎてから山登りや楽器の演奏をはじめた、なんて人たちだ。はじめのうちは慣れなかったり、身体が思うように動かなくてもある程度反復することでそれまでなかった能力を身に付けることは可能だ。もちろん若い頃にくらべれば時間はかかるだろうけれど。人はたえず未成熟と成熟の間に生きている存在なのかもしれない。
ラスト、フィービーが乗る回転木馬のシーンが好きでこの本をもう何度も読んでいる。
ホールデン・コールフィールドはクリスマス前のとある深夜にかつての英語の先生アントリーニに会いに行く。この教師はホールデンの破綻を熟知している。アントリーニはホールデンに「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」と書いた一枚のメモ書きを渡す。ライ麦畑のキャッチャーになりたいと成熟することを頑なに拒み続けるホールデンにアントリーニ先生は卑しく生きていく術を説いたのだ。
この作品の成功の後、ある事件をきっかけにサリンジャーは隠遁生活を送る。まるで大義のために高貴なる死を求めたかのように。ホールデン・コールフィールドはサリンジャーに乗りうつって、未成熟なまま生き続けたのかもしれない。
2024年2月13日火曜日
カート・ヴォネガット『ホーカス・ポーカス』
テレビでデイブ・スペクターを視るたびに、なんでこの人は日本の文化や風土、日本人の感情を日本人以上に理解して日本語を話すのだろうと驚愕する。まるで脳内に人工知能を所有しているように思える。それでいてけっして賢ぶらない。面白くとも何ともない駄洒落やギャグを連発する。「笑点」の大喜利レベルである。それだけ見ているとおバカな外国人だが、彼はそれをねらっているのだ。どれくらいの笑いのレベルが平均的な日本人に受けるのかを知っている。そこがすごい。あの風貌で確実に日本人と同化している。
たぶん(そんなことは決してしないだろうが)本気で日本の政治や文化の劣化をぶった切るような論評をするとしたら、相当ハイレベルな発言をするのではないかと思っている。
もはや彼はアメリカ人ではない。藤田嗣治が日本人ではないように。
翻訳されているカート・ヴォネガットの小説はほとんど読んでいる。何年か前に『タイムクエイク』という大作を読んで、『ガラパゴスの箱舟』『青ひげ』『ジェイル・バード』を再読した。これでひと通り読んだなと思っていたところ、もう一冊未読の小説が見つかった。それがこの本。ホーカス・ポーカスとはどういう意味かよくわからないが、魔法使いが魔法をかけるときに唱える呪文のようなことらしい。だから意味がなくていいのだ。ギャツビーの「オールド・スポート」みたいなものだ。
カート・ヴォネガットの比喩は深い。ちょっとやそっとじゃ理解できない。立ち止まってばかりいる読書。それでもキンドルのおかげで、すべてではないけれど、知らない言葉や出来事は検索してくれる。大いに助かる。
原書でヴォネガットを読むという知人がいる。村上春樹も私的読書案内で推している。英語で読むとさらに面白さが見つかるのだろうか。僕は翻訳を読むので手いっぱいなのだが。
ところでカート・ヴォネガットを読むたびにデイブ・スペクターを思い出すのはどうしてなんだろう。
たぶん(そんなことは決してしないだろうが)本気で日本の政治や文化の劣化をぶった切るような論評をするとしたら、相当ハイレベルな発言をするのではないかと思っている。
もはや彼はアメリカ人ではない。藤田嗣治が日本人ではないように。
翻訳されているカート・ヴォネガットの小説はほとんど読んでいる。何年か前に『タイムクエイク』という大作を読んで、『ガラパゴスの箱舟』『青ひげ』『ジェイル・バード』を再読した。これでひと通り読んだなと思っていたところ、もう一冊未読の小説が見つかった。それがこの本。ホーカス・ポーカスとはどういう意味かよくわからないが、魔法使いが魔法をかけるときに唱える呪文のようなことらしい。だから意味がなくていいのだ。ギャツビーの「オールド・スポート」みたいなものだ。
カート・ヴォネガットの比喩は深い。ちょっとやそっとじゃ理解できない。立ち止まってばかりいる読書。それでもキンドルのおかげで、すべてではないけれど、知らない言葉や出来事は検索してくれる。大いに助かる。
原書でヴォネガットを読むという知人がいる。村上春樹も私的読書案内で推している。英語で読むとさらに面白さが見つかるのだろうか。僕は翻訳を読むので手いっぱいなのだが。
ところでカート・ヴォネガットを読むたびにデイブ・スペクターを思い出すのはどうしてなんだろう。
2023年12月21日木曜日
ハーマン・メルヴィル『白鯨』
サマセット・モームは1954年に『世界の十大小説』というエッセイを上梓している。
その内訳は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、レフ・トルストイ『戦争と平和』である。
モームのエッセイは、岩波文庫にあるそうだが、この十大小説のうち僕は半分しか読んでいない。
二十代に読んだのはスタンダールとメルヴィル。後は結構大人になってからだ。『カラマーゾフの兄弟』なんて光文社の古典新訳シリーズで刊行されなければおそらく読む機会はなかっただろう。
『デイヴィッド・コパフィールド』は二十代の頃、当時絶版になっていた新潮文庫(記憶違いかもしれないが)を仕事場近くの小さな書店で見つけて、買うだけ買っておいたものをずっと後になって読んだ。もっとはやく読めばよかったと思うが、こんな長編を読む暇はなかった。『赤と黒』は二十代の頃、岩波文庫で読み、五十を過ぎて光文社の古典新訳で読み直した。
小説を読むようになったのは大学2年の終わりごろから。大江健三郎を読んで、開高健を読んで、スタインベック、ノーマン・メイラーと海外の小説を読みはじめるようになった。そしてどういう経緯かは忘れたが、『白鯨』にたどり着く。おそらくこの本がアメリカ文学の最高峰であるとかなんとか吹き込まれたのではないかと思う。モビー・ディックに復讐心をたぎらせるエイハブ船長。一頭の鯨をめぐる心理戦。まるでミステリー小説を読んでいるようなハラハラドキドキ感を(それだけを)今でもおぼえている。もう一度読む機会は果たしてあるだろうか。
その内訳は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、レフ・トルストイ『戦争と平和』である。
モームのエッセイは、岩波文庫にあるそうだが、この十大小説のうち僕は半分しか読んでいない。
二十代に読んだのはスタンダールとメルヴィル。後は結構大人になってからだ。『カラマーゾフの兄弟』なんて光文社の古典新訳シリーズで刊行されなければおそらく読む機会はなかっただろう。
『デイヴィッド・コパフィールド』は二十代の頃、当時絶版になっていた新潮文庫(記憶違いかもしれないが)を仕事場近くの小さな書店で見つけて、買うだけ買っておいたものをずっと後になって読んだ。もっとはやく読めばよかったと思うが、こんな長編を読む暇はなかった。『赤と黒』は二十代の頃、岩波文庫で読み、五十を過ぎて光文社の古典新訳で読み直した。
小説を読むようになったのは大学2年の終わりごろから。大江健三郎を読んで、開高健を読んで、スタインベック、ノーマン・メイラーと海外の小説を読みはじめるようになった。そしてどういう経緯かは忘れたが、『白鯨』にたどり着く。おそらくこの本がアメリカ文学の最高峰であるとかなんとか吹き込まれたのではないかと思う。モビー・ディックに復讐心をたぎらせるエイハブ船長。一頭の鯨をめぐる心理戦。まるでミステリー小説を読んでいるようなハラハラドキドキ感を(それだけを)今でもおぼえている。もう一度読む機会は果たしてあるだろうか。
2023年12月4日月曜日
ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』
ものみなことごとくはじまりがあって、終わりがある。終わってしまうのは寂しいし哀しい。いつまでも終わりが遠くにある長編小説を読む楽しみとはいつまでたっても終わりがやってこないことではないだろうか。
ときどき果てしなく長い小説を読みたくなる。
最近では浅田次郎の『蒼穹の昴』シリーズ。これはひとつのタイトルではなく、続編の形で進んでいく壮大なドラマであるが。古くはルソーの『新エロイーズ』、ディケンズの『デイヴィット・コパフィールド』、スタインベックの『エデンの東』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などなど。
1980年11月から12月にかけて、『ジャン・クリストフ』という大河小説をはじめて読んだ。今も岩波文庫にラインナップされているこの名作は、当時8分冊だった。今では4分冊になっている。
まだ若かったのだろう、古くさくて、難解な(といっては名訳を世に遺した豊島与志雄には失礼もはなはだしいが)翻訳をすいすいとではないが、坂道を昇るように読みすすんだ。当時はあまり理解できなくてもずんずん読んでいった。
今回の再読は7月から読みはじめ、5カ月かけてようやく読み終える。
ロマン・ロランはクリストフのモデルはベートーベンではないと明言しているが、僕はいやいやベートーベンでしょうと思って読んでいたように思う。それくらいしか記憶に残っていない。あらためて読んでみると、クリストフの生きた時代背景など気になることが多い。あきらかに18世紀末から19世紀はじめが舞台となっているのだ。そんなことも理解しようともせず、学ぼうともせずに読んでいた自分が恥ずかしい。
1980年にはこのほか、モンテーニュの『エセー』、ルソーの『告白』を読んでいる。それなりに感銘を受けたつもりでいるが、果たしてきちんと理解していたのだろうか。再読してみたいとは思うものの、ちょっと怖い気もする。
ときどき果てしなく長い小説を読みたくなる。
最近では浅田次郎の『蒼穹の昴』シリーズ。これはひとつのタイトルではなく、続編の形で進んでいく壮大なドラマであるが。古くはルソーの『新エロイーズ』、ディケンズの『デイヴィット・コパフィールド』、スタインベックの『エデンの東』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、司馬遼太郎の『坂の上の雲』などなど。
1980年11月から12月にかけて、『ジャン・クリストフ』という大河小説をはじめて読んだ。今も岩波文庫にラインナップされているこの名作は、当時8分冊だった。今では4分冊になっている。
まだ若かったのだろう、古くさくて、難解な(といっては名訳を世に遺した豊島与志雄には失礼もはなはだしいが)翻訳をすいすいとではないが、坂道を昇るように読みすすんだ。当時はあまり理解できなくてもずんずん読んでいった。
今回の再読は7月から読みはじめ、5カ月かけてようやく読み終える。
ロマン・ロランはクリストフのモデルはベートーベンではないと明言しているが、僕はいやいやベートーベンでしょうと思って読んでいたように思う。それくらいしか記憶に残っていない。あらためて読んでみると、クリストフの生きた時代背景など気になることが多い。あきらかに18世紀末から19世紀はじめが舞台となっているのだ。そんなことも理解しようともせず、学ぼうともせずに読んでいた自分が恥ずかしい。
1980年にはこのほか、モンテーニュの『エセー』、ルソーの『告白』を読んでいる。それなりに感銘を受けたつもりでいるが、果たしてきちんと理解していたのだろうか。再読してみたいとは思うものの、ちょっと怖い気もする。
2023年11月19日日曜日
フランツ・カフカ『変身』
大学に入学したのは1978年のことである。
そこは教員養成系の大学だった。特段、教員になりたいという希望はなかった。それどころか、将来自分が何になりたいかということをあまり考えていなかった。とりあえず受かりそうな大学を選んで受験し、結果的に教員養成系の大学に合格したのである。
高校時代の成績不振により、理工系を断念。文系学部に志望を変えたのだが、法律や経済はどことなく近寄りがたく、かといって文学部をめざすほどでもない。文学部に憧れはあったものの、もう少しお手軽な学部はないかと模索していたのである。もちろん教育学部がお手軽とは今でも思っていないが。
近所に東京教育大学を卒業し、出版社に勤務している方がいた。学業優秀でたしか中学から国立に通っていたと聞く。文学部に憧れたのもこの人のせいかもしれない。そんなこんなで教育系の大学を受験したのかもしれない。
入学して一、二年は教育学の概論的な本や当時明治図書から出版されていた世界教育学選集(コメニュウス『大教授学』やコンドルセ『公教育の原理』など)を読んでいた。そのうち大江健三郎を読みはじめ、その後小説が多くなる。海外の小説も読みはじめたが、カフカの『変身』は比較的はやい時期だった。そのすぐ後にカミュの『異邦人』を読んでいる。たぶん実存主義とか不条理文学なるものに多少は関心を抱いた頃なのかもしれない。
それにしてもグレゴール・ザムザの、この物語は冒頭のインパクトが強すぎて、その後どうなったのか、最後はどうなったんだっけといった部分の記憶が飛んでいる。朝起きたら虫になっていたってどういうことなんだ、明日もし俺が朝起きて虫になっていたとしたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと考えているうちに物語は後半を迎える。もういちど読んでみようかと思うけれど、再読したところでやはり冒頭のインパクトによって後半を忘れてしまいそうなのでよしておく。
そこは教員養成系の大学だった。特段、教員になりたいという希望はなかった。それどころか、将来自分が何になりたいかということをあまり考えていなかった。とりあえず受かりそうな大学を選んで受験し、結果的に教員養成系の大学に合格したのである。
高校時代の成績不振により、理工系を断念。文系学部に志望を変えたのだが、法律や経済はどことなく近寄りがたく、かといって文学部をめざすほどでもない。文学部に憧れはあったものの、もう少しお手軽な学部はないかと模索していたのである。もちろん教育学部がお手軽とは今でも思っていないが。
近所に東京教育大学を卒業し、出版社に勤務している方がいた。学業優秀でたしか中学から国立に通っていたと聞く。文学部に憧れたのもこの人のせいかもしれない。そんなこんなで教育系の大学を受験したのかもしれない。
入学して一、二年は教育学の概論的な本や当時明治図書から出版されていた世界教育学選集(コメニュウス『大教授学』やコンドルセ『公教育の原理』など)を読んでいた。そのうち大江健三郎を読みはじめ、その後小説が多くなる。海外の小説も読みはじめたが、カフカの『変身』は比較的はやい時期だった。そのすぐ後にカミュの『異邦人』を読んでいる。たぶん実存主義とか不条理文学なるものに多少は関心を抱いた頃なのかもしれない。
それにしてもグレゴール・ザムザの、この物語は冒頭のインパクトが強すぎて、その後どうなったのか、最後はどうなったんだっけといった部分の記憶が飛んでいる。朝起きたら虫になっていたってどういうことなんだ、明日もし俺が朝起きて虫になっていたとしたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと考えているうちに物語は後半を迎える。もういちど読んでみようかと思うけれど、再読したところでやはり冒頭のインパクトによって後半を忘れてしまいそうなのでよしておく。
2023年9月30日土曜日
ジョン・スタインベック『二十日鼠と人間』
明石町の聖路加タワー最上階のお店で会社の新入社員歓迎会が行われた。新型コロナ感染拡大以降ほぼ全員の社員が集まる会食ははじめてである。コロナ以降入社して、いちどもこうした経験のないまま辞めていった社員もいる。
聖路加国際病院のことをたいていの人は「せいろか」と呼んでいる。僕もそのひとり。正しくは「せいるか」である。「せいろか」というと正露丸と語源が同じか近いのかとも思ってしまう。正露丸は昭和24年まで征露丸だった。勝鬨橋が近いからそんなふうに思ってしまうのかもしれない。というようなつまらないことを考えながら、明石町から西銀座まで歩いて地下鉄に乗って帰った。
大学に入っても一般教養で英語の授業を受けなければならず、億劫に思っていた。それでも小説や戯曲を読む授業をたまたま選んで、よかったと思うこともあった。テネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』やアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を読む授業もあった。難解だった。
二年生のとき選んだ英語の授業ではスタインベックの「赤い仔馬」を読んだ。ジョディ少年の物語だ。おそらくはスタインベックの自伝的な小説であろう。今でも西部の果てしない農園と牧場が続く景色と赤い仔馬を引く少年の姿が目に浮かぶ。それまで知らなかった作家、スタイベックを俄然好きになってしまった。
それからスタインベックの作品を積極的に読むようになる。最初に読んだのが『真珠』で民話的な物語。次に読んだのがこの『二十日鼠と人間』である。農場で雇用される男たちを見舞う悲劇とでもいおうか。大作『怒りの葡萄』に通じるテーマを感じる。大作といえば『エデンの東』もよかった。
スタインベックを起点として、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーなども読むようになった。大学生の頃、スタインベックに出会わなければ、アメリカ文学の旅に出ることは、おそらくなかったのではないかと思う。
聖路加国際病院のことをたいていの人は「せいろか」と呼んでいる。僕もそのひとり。正しくは「せいるか」である。「せいろか」というと正露丸と語源が同じか近いのかとも思ってしまう。正露丸は昭和24年まで征露丸だった。勝鬨橋が近いからそんなふうに思ってしまうのかもしれない。というようなつまらないことを考えながら、明石町から西銀座まで歩いて地下鉄に乗って帰った。
大学に入っても一般教養で英語の授業を受けなければならず、億劫に思っていた。それでも小説や戯曲を読む授業をたまたま選んで、よかったと思うこともあった。テネシー・ウィリアムスの『ガラスの動物園』やアーサー・ミラーの『セールスマンの死』を読む授業もあった。難解だった。
二年生のとき選んだ英語の授業ではスタインベックの「赤い仔馬」を読んだ。ジョディ少年の物語だ。おそらくはスタインベックの自伝的な小説であろう。今でも西部の果てしない農園と牧場が続く景色と赤い仔馬を引く少年の姿が目に浮かぶ。それまで知らなかった作家、スタイベックを俄然好きになってしまった。
それからスタインベックの作品を積極的に読むようになる。最初に読んだのが『真珠』で民話的な物語。次に読んだのがこの『二十日鼠と人間』である。農場で雇用される男たちを見舞う悲劇とでもいおうか。大作『怒りの葡萄』に通じるテーマを感じる。大作といえば『エデンの東』もよかった。
スタインベックを起点として、ヘミングウェイ、フィッツジェラルド、フォークナーなども読むようになった。大学生の頃、スタインベックに出会わなければ、アメリカ文学の旅に出ることは、おそらくなかったのではないかと思う。
2023年9月26日火曜日
ジャン=ジャック・ルソー『エミール』
以前、通勤していた頃は行き帰りの電車のなかで本を読む習慣があったから、それほど多くはないけれど月に何冊か本を読むことができた。在宅になってからもなるべく本を読む時間を確保しようと思い、午前中であるとか就寝前とか本を読むようにしている。それにしても読書量は減っている。一日仕事に追われて、まったく読めない日だってある(というほど忙しい日はかなり少ないのだが)。歳相応に小さな字が見づらくなってきたせいもある。
今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいる。岩波文庫で4冊あるが、僕が読んだ1980年当時は8冊だった。翻訳も古いうえ、昔読んだことなんてこれっぽちもおぼえていないのでなかなか読みすすめない。
昔読んだ本をもういちど読みなおそうと思うようになってずいぶん経つ。夏目漱石や太宰治を読みかえしたりしてきた。そしてどういうわけか『ジャン・クリストフ』が読みたくなった。
というわけで最近新しい本を読んでいないので、このブログも開店休業状態である。まったく書かないというのもよくないと思い、「昔読んだ本」というラベルをつくって、思い出話を添えてみることにする。
ルソーの『エミール』は大学一年の終わり頃に読んでいる。
その昔、子どもは「小さな大人」だった。子どもは人間の発達過程で「子ども」という段階を経て、成長していく。そうした子ども時代を発見したのがルソーだといわれている。ルソーの少し前にイギリスのジョン・ロックという人も『教育論』を著している。ルソーにも多大な影響を与えた本だと思われるが、微妙に子ども観が異なる。
『エミール』はその後何度か読みなおしている。卒論のテーマにルソーを選んだからである。なぜルソーを選んだかというと、ルソーに関する著書や論文は多く、うまいこと継ぎ接ぎすれば卒論なんて簡単に書けてしまえそうに思えたからだ。
そんな姑息な学生時代を思い出させてくれる一冊である。
今、ロマン・ロランの『ジャン・クリストフ』を読んでいる。岩波文庫で4冊あるが、僕が読んだ1980年当時は8冊だった。翻訳も古いうえ、昔読んだことなんてこれっぽちもおぼえていないのでなかなか読みすすめない。
昔読んだ本をもういちど読みなおそうと思うようになってずいぶん経つ。夏目漱石や太宰治を読みかえしたりしてきた。そしてどういうわけか『ジャン・クリストフ』が読みたくなった。
というわけで最近新しい本を読んでいないので、このブログも開店休業状態である。まったく書かないというのもよくないと思い、「昔読んだ本」というラベルをつくって、思い出話を添えてみることにする。
ルソーの『エミール』は大学一年の終わり頃に読んでいる。
その昔、子どもは「小さな大人」だった。子どもは人間の発達過程で「子ども」という段階を経て、成長していく。そうした子ども時代を発見したのがルソーだといわれている。ルソーの少し前にイギリスのジョン・ロックという人も『教育論』を著している。ルソーにも多大な影響を与えた本だと思われるが、微妙に子ども観が異なる。
『エミール』はその後何度か読みなおしている。卒論のテーマにルソーを選んだからである。なぜルソーを選んだかというと、ルソーに関する著書や論文は多く、うまいこと継ぎ接ぎすれば卒論なんて簡単に書けてしまえそうに思えたからだ。
そんな姑息な学生時代を思い出させてくれる一冊である。
2022年1月16日日曜日
カート・ヴォネガット『青ひげ』
昔の読書記録を見ると、カート・ヴォネガット(・ジュニア)を好んで読んでいたのは1987年頃となっている。読書記録といっても、読んだ年月と著者名タイトルを記しただけである。感想などは書いていない。それでも今となってみれば貴重な資料だ。
多少の寄り道はあってにせよ、1985年に大学を出て、テレビCM制作会社でアルバイトをはじめた頃である。それまでは家庭教師や先輩の営むとんかつ店でアルバイトしていた。アルバイトを卒業して、新たなアルバイト生活がはじまったのである(1年後正社員にしてもらったが)。
当時どんな思いで毎日を送っていたのか。その頃読んでいた本を読みなおすと思い出すかもしれないと思い、何年か前から当時読んでいた本を再読している。
邦訳されているカート・ヴォネガットの小説はだいたい読んだつもりでいたところ、『ガラパゴスの箱舟』以降、『タイムクエイク』という新作(といってもずいぶん前に出版されている)があることを知り、さらにはその間にも発表された作品があることを知る。それがこの本『青ひげ』である。アルメニア人の画家の自伝という体裁になっている。ヴォネガットの小説で自伝的な作品は多い(と思うが、そんな気がするだけかもしれない)。たとえば『母なる夜』は、ハワード・キャンベル・ジュニアの自伝である。たしか『ジェイルバード』もそうだった(ように記憶している)。過去と現在。時間を縦横に飛び交う。ヴォネガットの手にかかる時間の旅は読んでいて心地いい。
読み終わって気付く。もう一冊ある、と。『青ひげ』のあとに『ホーカス・ポーカス』という長編が発表されていた。気が向いたら読んでみよう(ついでにいうと『チャンピオンたちの朝食』もまだ読んでいないみたいだ)。
先の読書記録によるとその当時、筒井康隆もよく読んでいたようである。これはアルバイトをはじめたCM制作会社で知り合ったコグレくんの影響を受けている。
2021年12月5日日曜日
カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』
先日もヨドバシカメラまで歩いてみた。電車に乗ればふた駅である。これまでも歩いてみよう気はあったが、ルートが複雑そうに思えて歩いたことはなかった。地図アプリで確認すると案外難しそうでない。
幹線道路をしばらく歩く。途中で少し南側の通りを行く。街灯に女子大通りと記載されている。通りの北側に女子大学があった。その先、南へ向かう通りは美大通りと書かれていた。美大はずいぶん昔に郊外(小平)に移ったと思っていたが、まだこの地にも校舎があるらしい。
1980年代、カート・ヴォネガット(ジュニア)の本をよく読んだ。以前の投稿を見ると93年に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を再読している。7年ぶりに読んだと書いてある。「ヴォネガットの作品でとりわけ好きなのは、『ガラパゴスの箱舟』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の2冊」とも記している。
好きな作品のもう一冊を読む、35年ぶりに。
この本はヴォネガットの代表作と言われている。おもしろさもひとしおだ。20代に読んだものを60を過ぎて読み直し、さらにおもしろいと感じたのだから。
僕のなかで80年代のヴォネガットブームはこの本でひとまず落ち着いた。その後読んだのは『タイムクエイク』、2019年まで新作を読むことはなかったのだ。ヴォネガットはこの本を世に出した10年後、2007年に他界している。そんなことすら知らなかった。ベートーベンの第九交響曲は書けなかったけれど、それに勝るとも劣らない作品を書き続けてきた。
『ガラパゴス』から『タイムクエイク』までのおよそ10年間に書かれた彼の作品をこれからゆっくり読みたいと思う。それで言うのだ、長生きはするものだと。
ヨドバシカメラまでは4.34キロ。44分31秒で歩いた。
2020年7月22日水曜日
トルーマン・カポーティ『真夏の航海』
2014年に他界した叔父は、7月生まれで生きていれば今年今月で78歳になる。
先日青山まで出かけたので墓参りをしてきた。叔父と甥の関係ではあるが、どちらかというとたまにバーで顔を合わせたりして(そしておごってもらったりして)ルーズな間柄だったので花を手向けることもなく、線香をあげるのだってごくまれにしかしない。手ぶらで行って、手を合わせて、母は最近こうだとか、自分はこんなことしてるだのと近況報告をして帰ってくる。傍から見ると(傍から見なくても)だめだめな甥っ子といったところだ。
カポーティの小説は何冊か読んでいる。特にイノセントものと呼ばれている(かどうかわからないが)少年時代を描いたものが好きだ。
実をいうとこの本は知らなかった。十代後半に書かれた幻のデビュー作らしい。書かれてすぐに破棄されたのだが、誰かに拾われ、オークションにかけられ、鑑定の末カポーティの作品と判明した。みたいなことがあとがきに記されている。
タイトルからするとさわやかな青春イノセントものという印象を受けるけれど、読んでみるとそうでもない。どことなく暑苦しく、息苦しい。『遠い声遠い部屋』や『冷血』と似たにおいがする。別に鼻をくんくんさせながら読んでいるわけではないが。
翻訳はイラストレーターの安西水丸。1970年前後、ニューヨークに暮らした氏にとってはなつかしい描写にあふれる一冊だったのではないかと想像する。安西水丸といえば、最近昔買った『シネマストリート』という本を読んでいる。キネマ旬報に連載されていた映画日記みたいな画文集である。くだらなくもおもしろい。昔の人はものすごい数の映画を観ていたのだなあと感心する。
ニューヨークといえば、先日ウッディ・アレンの「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」を観た。「おいおい、どんな結末で終わるんだよ、この映画」って感じだった。
映画館を出た後、中村屋でカレーライスが食べたくなった。
2020年4月2日木曜日
J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』
いろんな事情があって、しばらくブログの更新ができなかった。いろんな事情というのは、文字通りいろんな事情なのでこと細かに説明することはできない。
昨年末から年初にかけて、そしてその後もわずかではあるものの本は読んでいた。海外の小説を読むのはひさしぶりのことで、この本は20代の頃いちど読んだ記憶がある。『大工よ屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章』とか『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』あたりを新潮文庫でまとめて読んでいた頃のことだ。当時の翻訳は野崎孝。タイトル(邦題)は『フラニーとゾーイー』だった。宗教じみた小難しい内容だったくらいしか印象に残っていない。
昨年通りすがりに立ち寄った書店の文庫棚を眺めていたら、村上春樹訳があった(それまで村上訳があるとは知らなかった)。昔読んだ印象はほとんど忘れていたので手にとってみた。表紙が気に入った(『さよなら、愛しい人』と同じ装丁家か)。タイトルは『フラニーとズーイ』になっている。憶えていないわけだから、この際ゾーイーでもズーイでもどちらでもかまわない。訳者によってはズーイーだったりもする。『ライ麦畑』も村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。翻訳書のタイトルなんかこの際どうでもいいい。
フラニーはグラース家の7人きょうだいの末娘、ズーイは5歳年上の兄で五男。上から順番に整理すると長男シーモア(拳銃自殺する)、次男バディ(作家、役割としてはサリンジャー)、長女ブーブー、三男四男は双子でウォルト(戦死する)とウェーカー。
僕の父も7人きょうだいだった。三男四女。母のきょうだいも同じく7人で、こちらは二男五女。グラース家とちょうど裏返しの構成だ(どうでもいい話ではあるが)。
でも正直言って、表紙のデザインをのぞけば、それくらいしか印象に残ることはなかったけれども、読んでいるうちに思い出してきた。宗教じみた小難しい話だったことを。
昨年末から年初にかけて、そしてその後もわずかではあるものの本は読んでいた。海外の小説を読むのはひさしぶりのことで、この本は20代の頃いちど読んだ記憶がある。『大工よ屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章』とか『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』あたりを新潮文庫でまとめて読んでいた頃のことだ。当時の翻訳は野崎孝。タイトル(邦題)は『フラニーとゾーイー』だった。宗教じみた小難しい内容だったくらいしか印象に残っていない。
昨年通りすがりに立ち寄った書店の文庫棚を眺めていたら、村上春樹訳があった(それまで村上訳があるとは知らなかった)。昔読んだ印象はほとんど忘れていたので手にとってみた。表紙が気に入った(『さよなら、愛しい人』と同じ装丁家か)。タイトルは『フラニーとズーイ』になっている。憶えていないわけだから、この際ゾーイーでもズーイでもどちらでもかまわない。訳者によってはズーイーだったりもする。『ライ麦畑』も村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。翻訳書のタイトルなんかこの際どうでもいいい。
フラニーはグラース家の7人きょうだいの末娘、ズーイは5歳年上の兄で五男。上から順番に整理すると長男シーモア(拳銃自殺する)、次男バディ(作家、役割としてはサリンジャー)、長女ブーブー、三男四男は双子でウォルト(戦死する)とウェーカー。
僕の父も7人きょうだいだった。三男四女。母のきょうだいも同じく7人で、こちらは二男五女。グラース家とちょうど裏返しの構成だ(どうでもいい話ではあるが)。
でも正直言って、表紙のデザインをのぞけば、それくらいしか印象に残ることはなかったけれども、読んでいるうちに思い出してきた。宗教じみた小難しい話だったことを。
2019年3月19日火曜日
チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』
3月はやはりあわただしい。
少し落ち着いたので先週の土日は野球を観に行った。4月からはじまる東京都春季高校野球大会の一次予選である。本大会には112校(全出場校が約270校だからざっくり言って約4割)が出場できる。昨年の秋季大会に出場した48校とこの予選を勝ち抜いた64校である。昔は(昔といってもいつごろからだったか憶えていないが)秋の本大会に進んだチームしか出場できなかったこの大会にいつしか一次予選が設けられ、秋の予選で敗退した学校にも復活のチャンスが与えられた。
高校野球には秋、春、夏と大会があるのだが、この春の大会だけが甲子園に直結しない。関東大会であるとか近畿大会といった地区大会で完結する。ただし都道府県大会で上位に進出したチーム(東京なら16強)には夏の大会でシード権が与えられる。そういった意味ではこの大会は直接甲子園には行けないけれど甲子園にはつながっている大会といえる。
それはともかくとして3月のこの時期はまだまだ寒い。気温が多少高くても2時間近く座って試合を観ていると心底身体が冷えて凍えてくる。ときどき立ち上がって足踏みしたり、首や肩をまわす。
読書に計画性はほぼなく、(仕事で必要でない限り)読みたいと思った本を好き勝手読んでいる。ときどき新聞の書評をながめたり、SNSで話題になっている本も読んでみる。こんなことを言っては失礼かもしれないが、SNSで煽っている本ほど疑わしいものはない。やはり読む本は自分の嗅覚で見つけるべきだと思う。
この本もネットでずいぶん話題になっているようだ。誠に不勉強で申し訳ないのだが、お隣韓国の事情がわからないので特に感想もない。韓国はそういう社会だったのですねと思うしかない。
さて、土日に府中の明大球場で行われた試合。わが母校はなんと連勝。昨年に続いて本大会に進めることになった。勝てば勝ったで寒かったことなど忘れてしまう。
春ってそんなものだ。
少し落ち着いたので先週の土日は野球を観に行った。4月からはじまる東京都春季高校野球大会の一次予選である。本大会には112校(全出場校が約270校だからざっくり言って約4割)が出場できる。昨年の秋季大会に出場した48校とこの予選を勝ち抜いた64校である。昔は(昔といってもいつごろからだったか憶えていないが)秋の本大会に進んだチームしか出場できなかったこの大会にいつしか一次予選が設けられ、秋の予選で敗退した学校にも復活のチャンスが与えられた。
高校野球には秋、春、夏と大会があるのだが、この春の大会だけが甲子園に直結しない。関東大会であるとか近畿大会といった地区大会で完結する。ただし都道府県大会で上位に進出したチーム(東京なら16強)には夏の大会でシード権が与えられる。そういった意味ではこの大会は直接甲子園には行けないけれど甲子園にはつながっている大会といえる。
それはともかくとして3月のこの時期はまだまだ寒い。気温が多少高くても2時間近く座って試合を観ていると心底身体が冷えて凍えてくる。ときどき立ち上がって足踏みしたり、首や肩をまわす。
読書に計画性はほぼなく、(仕事で必要でない限り)読みたいと思った本を好き勝手読んでいる。ときどき新聞の書評をながめたり、SNSで話題になっている本も読んでみる。こんなことを言っては失礼かもしれないが、SNSで煽っている本ほど疑わしいものはない。やはり読む本は自分の嗅覚で見つけるべきだと思う。
この本もネットでずいぶん話題になっているようだ。誠に不勉強で申し訳ないのだが、お隣韓国の事情がわからないので特に感想もない。韓国はそういう社会だったのですねと思うしかない。
さて、土日に府中の明大球場で行われた試合。わが母校はなんと連勝。昨年に続いて本大会に進めることになった。勝てば勝ったで寒かったことなど忘れてしまう。
春ってそんなものだ。
2019年2月14日木曜日
カート・ヴォネガット『ジェイルバード』
昔読んだ本をもういちど読んでみる。
本は同じでも読み手の環境が変わっている。まったく違う印象を得ることもある。それも読書の醍醐味か。
この本は10代のうちに読んでおくべきだ、中学生のうちに読むべきだ、みたいな本がある。少年少女向きであったとしても大人が読んでいけないこともない。むしろ年を取ってから読んだ方が響くことが多いかもしれない。書物は万人に開かれている。
『ジェイルバード』はたしか20代のなかばにいちど読んでいる。四半世紀をとっくに超えての再読になる。
ジェイルバードとは囚人という意味である。ロバート・フェンダーという朝鮮戦争中に反逆罪に問われた終身刑の男が登場する。主人公ではなく、単なる脇役である。支給室(受刑者の私服の受渡しをする部屋)で係員をつとめている。一日中エディット・ピアフのレコードをかけることを許されている。長年聴きつづけたので物悲しい調子のフランス語を流暢にあやつる。
30年前の僕がエディット・ピアフを知っていただろうか。レコードプレイヤーから流れる《ノン、ジュ・ヌ・ルグレット・リアン》を口ずさむことができただろうか。30年前に受け流した一節がぜんぜん違う風景に見えてくる。これを主人公ウォルター・F・スターバックの台詞を借りていえば「長生きは勉強になる」である。
エディット・ピアフを聴くようになったのはいつ頃からだろうか。
2007年にオリヴィエ・ダアン監督「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」を観た。マリオン・コティヤールがエディット・ピアフになりきっていたのが印象に残る。エンディングで流れる曲が《ノン、ジュ・ヌ・ルグレット・リアン》、邦題は「水に流して」である。おそらくこの頃、CDを買って、くり返し聴いていたのだと思う。
この一冊を通じて、僕はエディット・ピアフを知らなかった頃の僕に出会うことができた。これからも似たようなことがあるかもしれない。
しばらく再読はやめられない。
本は同じでも読み手の環境が変わっている。まったく違う印象を得ることもある。それも読書の醍醐味か。
この本は10代のうちに読んでおくべきだ、中学生のうちに読むべきだ、みたいな本がある。少年少女向きであったとしても大人が読んでいけないこともない。むしろ年を取ってから読んだ方が響くことが多いかもしれない。書物は万人に開かれている。
『ジェイルバード』はたしか20代のなかばにいちど読んでいる。四半世紀をとっくに超えての再読になる。
ジェイルバードとは囚人という意味である。ロバート・フェンダーという朝鮮戦争中に反逆罪に問われた終身刑の男が登場する。主人公ではなく、単なる脇役である。支給室(受刑者の私服の受渡しをする部屋)で係員をつとめている。一日中エディット・ピアフのレコードをかけることを許されている。長年聴きつづけたので物悲しい調子のフランス語を流暢にあやつる。
30年前の僕がエディット・ピアフを知っていただろうか。レコードプレイヤーから流れる《ノン、ジュ・ヌ・ルグレット・リアン》を口ずさむことができただろうか。30年前に受け流した一節がぜんぜん違う風景に見えてくる。これを主人公ウォルター・F・スターバックの台詞を借りていえば「長生きは勉強になる」である。
エディット・ピアフを聴くようになったのはいつ頃からだろうか。
2007年にオリヴィエ・ダアン監督「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」を観た。マリオン・コティヤールがエディット・ピアフになりきっていたのが印象に残る。エンディングで流れる曲が《ノン、ジュ・ヌ・ルグレット・リアン》、邦題は「水に流して」である。おそらくこの頃、CDを買って、くり返し聴いていたのだと思う。
この一冊を通じて、僕はエディット・ピアフを知らなかった頃の僕に出会うことができた。これからも似たようなことがあるかもしれない。
しばらく再読はやめられない。
2019年2月8日金曜日
カート・ヴォネガット『母なる夜』
ここのところ、電子書籍で読むことが多くなった。
もちろん紙でしかない本もあるから、電子版ばかり読んでいるわけではない。しおりを挟んだりする必要がないのはたしかに楽だ。夜、そのまま眠ってしまっても翌朝そのページを憶えていてくれる。ありがたい。
最近、昔読んだ本を再読する機会が増えた。ときどき書棚をのぞいてみる。文庫本はかなり処分したけれど、いずれもういちど読もうと思っていた単行本はそのまま残されている。
白水Uブックスという新書サイズの本がある。今はデザインが変わったけれど、昔はブルーとグレーのツートーンの装幀でよくデザインされていた。
デザインのいい本に弱い。つい手が出てしまう。読んでいるだけなのにちょっとセンスがよくなったような錯覚を与えるのである(それは暗示にかかりやすいという個人的資質にもよるのだろうが)。
さほど多くはないけれど、何冊か読んでいる。ジョン・アップダイク『走れウサギ』、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、ジョン・ファイルズ『コレクター』など。カート・ヴォネガットの『母なる夜』もそのひとつだ。
カート・ヴォネガットというとSF作家という印象が強いけれど、この作品はそうではない(宇宙へ行ったり、時空間を行き来したりしない)。幼少の頃、アメリカからドイツに渡り、売れっ子の劇作家となるハワード・W・キャンベル・ジュニアはナチの広報員となる一方でアメリカのスパイとして活動する。ラジオパーソナリティとして人気を博しながら、本人がそれと把握することなくアメリカ本国へ暗号を送る。もうこれだけで複雑な物語の様相を呈する。
ハワードが実在の人物であったかどうかはわからない。モデルとなる人がいたのではないかと思う。それくらいリアルに構成されている。
本の見返しに「870208」と記されている。32年前の今日、読み終わったということか。
もちろん紙でしかない本もあるから、電子版ばかり読んでいるわけではない。しおりを挟んだりする必要がないのはたしかに楽だ。夜、そのまま眠ってしまっても翌朝そのページを憶えていてくれる。ありがたい。
最近、昔読んだ本を再読する機会が増えた。ときどき書棚をのぞいてみる。文庫本はかなり処分したけれど、いずれもういちど読もうと思っていた単行本はそのまま残されている。
白水Uブックスという新書サイズの本がある。今はデザインが変わったけれど、昔はブルーとグレーのツートーンの装幀でよくデザインされていた。
デザインのいい本に弱い。つい手が出てしまう。読んでいるだけなのにちょっとセンスがよくなったような錯覚を与えるのである(それは暗示にかかりやすいという個人的資質にもよるのだろうが)。
さほど多くはないけれど、何冊か読んでいる。ジョン・アップダイク『走れウサギ』、J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、ジョン・ファイルズ『コレクター』など。カート・ヴォネガットの『母なる夜』もそのひとつだ。
カート・ヴォネガットというとSF作家という印象が強いけれど、この作品はそうではない(宇宙へ行ったり、時空間を行き来したりしない)。幼少の頃、アメリカからドイツに渡り、売れっ子の劇作家となるハワード・W・キャンベル・ジュニアはナチの広報員となる一方でアメリカのスパイとして活動する。ラジオパーソナリティとして人気を博しながら、本人がそれと把握することなくアメリカ本国へ暗号を送る。もうこれだけで複雑な物語の様相を呈する。
ハワードが実在の人物であったかどうかはわからない。モデルとなる人がいたのではないかと思う。それくらいリアルに構成されている。
本の見返しに「870208」と記されている。32年前の今日、読み終わったということか。
残念ながら記憶はほぼ消滅している。
2019年1月30日水曜日
カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』
「あの日にかえりたい」という荒井由実の名曲がある。
「青春の うしろ姿を 人はみな 忘れてしまう あの頃の わたしに戻って あなたに 会いたい」という歌詞をおぼえておられる方も多いことと思う。青春のうしろ姿を忘れてしまうことはない。ただ不正確におぼえているだけだ。人間の記憶力というものはそんなものである。それに人は本当にあの頃に戻りたいと思うのだろうか。仮にこの歌の「わたし」があの日に戻れたとしても、結局泣きながら写真をちぎって、手のひらの上でもういちどつなげてみるだけなのではないか。もういちど同じ目に会うくらいなら、戻れたとしても戻らない方がいい。
とはいうものの長いことブログを続けていると書くこともなくなってくるので、昔話が多くなる。ついついあやふやな記憶をほじくりかえしては適当に再構築する。正確不正確はともかくとして、それはそれで楽しい。ちょっとした時間の旅でもあるのだ。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』は、第二次世界大戦に従軍した検眼医ビリー・ピリグリムの時間旅行を描いた小説。ヴォネガットファンの多くがおすすめする名作のひとつである。1945年のドレスデン、架空の惑星トラルファマドール星、ニューヨーク、ニューシカゴ…。転々と時間を飛びまわる。
1945年2月、連合国軍によって行われたドレスデン無差別爆撃は東京大空襲を上まわる被害をもたらしたというが、戦後しばらくその状況は秘匿されていたという。当時捕虜としてドレスデン爆撃を経験したカート・ヴォネガットは貴重な証言者のひとりである。
この小説は「スティング」や「明日に向かって撃て」でおなじみのジョージ・ロイ・ヒルの手によって映画化もされている。まだ観ていないが、たぶん難解な映画になっているのではいだろうか。タイムスリップものはたいてい難しい。
今年は1980年代後半によく読んだカート・ヴォネガットを再読しようと思っている。
「青春の うしろ姿を 人はみな 忘れてしまう あの頃の わたしに戻って あなたに 会いたい」という歌詞をおぼえておられる方も多いことと思う。青春のうしろ姿を忘れてしまうことはない。ただ不正確におぼえているだけだ。人間の記憶力というものはそんなものである。それに人は本当にあの頃に戻りたいと思うのだろうか。仮にこの歌の「わたし」があの日に戻れたとしても、結局泣きながら写真をちぎって、手のひらの上でもういちどつなげてみるだけなのではないか。もういちど同じ目に会うくらいなら、戻れたとしても戻らない方がいい。
とはいうものの長いことブログを続けていると書くこともなくなってくるので、昔話が多くなる。ついついあやふやな記憶をほじくりかえしては適当に再構築する。正確不正確はともかくとして、それはそれで楽しい。ちょっとした時間の旅でもあるのだ。
カート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』は、第二次世界大戦に従軍した検眼医ビリー・ピリグリムの時間旅行を描いた小説。ヴォネガットファンの多くがおすすめする名作のひとつである。1945年のドレスデン、架空の惑星トラルファマドール星、ニューヨーク、ニューシカゴ…。転々と時間を飛びまわる。
1945年2月、連合国軍によって行われたドレスデン無差別爆撃は東京大空襲を上まわる被害をもたらしたというが、戦後しばらくその状況は秘匿されていたという。当時捕虜としてドレスデン爆撃を経験したカート・ヴォネガットは貴重な証言者のひとりである。
この小説は「スティング」や「明日に向かって撃て」でおなじみのジョージ・ロイ・ヒルの手によって映画化もされている。まだ観ていないが、たぶん難解な映画になっているのではいだろうか。タイムスリップものはたいてい難しい。
今年は1980年代後半によく読んだカート・ヴォネガットを再読しようと思っている。
2019年1月25日金曜日
カート・ヴォネガット『タイムクエイク』
海の見える駅というサイトがある。
東京近郊では鶴見線の海芝浦駅が海沿いの駅として知られている。京浜工業地帯にプラットホームがぽっかり浮かんでいるような駅である。東京都内にもゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)の青海駅と市場前駅が紹介されている。海というより運河の延長のように見える。少しさびしい。
現時点で紹介されているのは152駅。四方を海に囲まれたこの国でそれしかないのかとも思うがまだまだ発掘途上なのかもしれない。駅のホームからは見えないけれど内房線の館山駅などは駅舎から北条海岸を眺めることができる。夕陽の照りかえしが美しい。
東京駅から東海道本線で1時間半ほど、小田原駅の次の次が根府川駅。この駅は相模湾をのぞむ崖の上に駅舎があり、少し下にプラットホームがある。さらに崖下に国道が走っている。海の見える駅としてはほぼ完璧といえる立地にある。
根府川駅といえば大正12年に列車転落事故があった。関東大震災による土石流が駅舎もホームも機関車も客車も海中に沈めてしまったのである。丹那トンネルの大工事を追った吉村昭の『闇を裂く道』でこの事故を知った。駅舎内や駅を出て北側の県道沿いには慰霊の碑や五輪塔などが建っている。おだやかに見える目の前の海に沈んでいる機関車や客車に思いを馳せる。
カート・ヴォネガットの作品は『ガラパゴスの箱舟』以降の新作は読んでいなかったので、遅ればせながら久々の新作ということになる。
タイムクエイクとは時空連続体に発生した異常で人間も事物も10年前に逆戻りし、人々はもういちど過去をくり返すというもの。そして10年後、突如「自由意思」で行動できるようになる。そのときとてつもない混乱が起きる。
だいたいこんな話なのだが、ぼーっと生きてきた僕のような読者にはカート・ヴォネガットはハードルが高い。そのユーモアに追いついていけないのである。
まだまだ修行が足りないなと思う。
東京近郊では鶴見線の海芝浦駅が海沿いの駅として知られている。京浜工業地帯にプラットホームがぽっかり浮かんでいるような駅である。東京都内にもゆりかもめ(東京臨海新交通臨海線)の青海駅と市場前駅が紹介されている。海というより運河の延長のように見える。少しさびしい。
現時点で紹介されているのは152駅。四方を海に囲まれたこの国でそれしかないのかとも思うがまだまだ発掘途上なのかもしれない。駅のホームからは見えないけれど内房線の館山駅などは駅舎から北条海岸を眺めることができる。夕陽の照りかえしが美しい。
東京駅から東海道本線で1時間半ほど、小田原駅の次の次が根府川駅。この駅は相模湾をのぞむ崖の上に駅舎があり、少し下にプラットホームがある。さらに崖下に国道が走っている。海の見える駅としてはほぼ完璧といえる立地にある。
根府川駅といえば大正12年に列車転落事故があった。関東大震災による土石流が駅舎もホームも機関車も客車も海中に沈めてしまったのである。丹那トンネルの大工事を追った吉村昭の『闇を裂く道』でこの事故を知った。駅舎内や駅を出て北側の県道沿いには慰霊の碑や五輪塔などが建っている。おだやかに見える目の前の海に沈んでいる機関車や客車に思いを馳せる。
カート・ヴォネガットの作品は『ガラパゴスの箱舟』以降の新作は読んでいなかったので、遅ればせながら久々の新作ということになる。
タイムクエイクとは時空連続体に発生した異常で人間も事物も10年前に逆戻りし、人々はもういちど過去をくり返すというもの。そして10年後、突如「自由意思」で行動できるようになる。そのときとてつもない混乱が起きる。
だいたいこんな話なのだが、ぼーっと生きてきた僕のような読者にはカート・ヴォネガットはハードルが高い。そのユーモアに追いついていけないのである。
まだまだ修行が足りないなと思う。
2019年1月17日木曜日
カート・ヴォネガット・ジュニア『猫のゆりかご』
今年の正月休みは長かったせいもあり、録りためた映画を観たりしてのんびり過ごした。暮れにiPadを購入して、絵の練習などもずいぶんした。何を言わんとしているかというと本を読まなかった正月の言い訳をしているのである。
昨年の忘年会でヴォネガットファンのUさんに会う。Uさんは原書でSFを読む筋金入りの読書家である。年明けはカート・ヴォネガットを読もうと決めた。
僕が主に早川書房の翻訳ものを読むようになったのは、1980年代のなかばくらい。書店で見かけた和田誠の装丁が気に入って読みはじめた。SF好きでも現代アメリカ文学にこれといって深い興味があるわけでもなかった。和田誠の装丁や表紙のイラストレーションはいつも僕に「この本おもしろいから」と呼びかけていた。
『猫のゆりかご』はおそらく再読になると思う。早川書房から出版されている小説は片っ端から読んでいた。1986年、当時の最新作だった『ガラパゴスの箱舟』の翻訳が出るやいちはやく読み、それを最後にヴォネガットは読んでいない。
と、思ったら1993年10月に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を読んでいる。7年ぶりに読んだと当時のメモが残っている。和田誠の装丁やイラストレーション、レタリングが好きで読むようになったことも記されている。
やれやれ。
猫のゆりかご=CAT'S CRADLEとはあやとりのこと。読んでいるとわかるのだが、和田誠はちゃんと表紙に描いている。著者のセンスが絵になっている。おそるべしである。
日本に原子爆弾が投下された日がこの物語の端緒。はるかかなた、遠くにあるSFの世界ではなく、するっと入りこめる。
1993年の『スラップスティック』以後、著者名であるカート・ヴォネガット・ジュニアの名からジュニアが消える。このことはつい最近ウィキペディアで知った。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
昨年の忘年会でヴォネガットファンのUさんに会う。Uさんは原書でSFを読む筋金入りの読書家である。年明けはカート・ヴォネガットを読もうと決めた。
僕が主に早川書房の翻訳ものを読むようになったのは、1980年代のなかばくらい。書店で見かけた和田誠の装丁が気に入って読みはじめた。SF好きでも現代アメリカ文学にこれといって深い興味があるわけでもなかった。和田誠の装丁や表紙のイラストレーションはいつも僕に「この本おもしろいから」と呼びかけていた。
『猫のゆりかご』はおそらく再読になると思う。早川書房から出版されている小説は片っ端から読んでいた。1986年、当時の最新作だった『ガラパゴスの箱舟』の翻訳が出るやいちはやく読み、それを最後にヴォネガットは読んでいない。
と、思ったら1993年10月に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を読んでいる。7年ぶりに読んだと当時のメモが残っている。和田誠の装丁やイラストレーション、レタリングが好きで読むようになったことも記されている。
やれやれ。
猫のゆりかご=CAT'S CRADLEとはあやとりのこと。読んでいるとわかるのだが、和田誠はちゃんと表紙に描いている。著者のセンスが絵になっている。おそるべしである。
日本に原子爆弾が投下された日がこの物語の端緒。はるかかなた、遠くにあるSFの世界ではなく、するっと入りこめる。
1993年の『スラップスティック』以後、著者名であるカート・ヴォネガット・ジュニアの名からジュニアが消える。このことはつい最近ウィキペディアで知った。
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願い申し上げます。
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