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2025年8月23日土曜日

ゴジキ『データで読む甲子園の怪物たち』

全国高等学校野球選手権(夏の甲子園)は沖縄県代表の沖縄尚学が西東京代表日大三を決勝で破って初優勝した。
ここ何年か猛暑のせいもあり、高校野球は批判の矢面に立たされる。ひとつは炎天下での熱中症の懸念であったり、ひとりの投手が投球数100を超える負荷の大きさだったりする。五回終了時のグラウンド整備の時間を使ってクーリングタイムという休憩が設けられている。準々決勝、準決勝、決勝の間に休養日も設けられている。今年からはすべての試合ではないが、午前と夕方に試合を行う二部制が導入されている。改革が続いている。
甲子園では決着のつかない名勝負が数多くあった。古くは延長戦は決着するまで無制限だったが、1958年から18回までになった(翌日再試合)。2000年の選抜大会から15回までになり、13年には延長13回からタイブレーク制度が導入され、現在では延長10回からとなっている。タイブレークはタイブレークで批判もあるだろうが、アマチュア野球では普通に行われている制度だったのに高野連はずいぶん消極的だったように思える。MLBでも2020年から導入されている。
コールドゲームがないのも甲子園のローカルルールだ。たいていのアマチュア野球で5回10点差、7回7点差で勝敗を決する。もちろん決勝戦では採用されない。高野連としては各都道府県の決勝戦から先の全国大会だから導入しないというのだろうか。都府県大会を勝ち上がった地区大会では導入されているのに。
もうひとつシードがないのも甲子園ルールである。夏はともかく春はほぼ間違いなく選抜される秋の地区大会の優勝10チームはシードにした方がいい。組合せ抽選でいきなり地区大会優勝校同士の対戦がよくある。下手をすれば明治神宮大会の決勝戦の再戦が一回戦で組まれる可能性だってある。
この本の著者のことはよく知らないが、ネット記事を中心に資料を読みこんでいる人だなという印象である。

2025年8月5日火曜日

古谷経衡『激戦地を歩く レイテ、マニラ、インパール 激戦の記憶』

大叔父がフィリピンで戦死している。戸籍には「昭和弍十年六月参十日フィリピンルソン島アリタオ東方十粁ビノンにて戦死」と記されている。ビノンというのはどんな地域なのか、大叔父はどのようにして戦死に至ったのか。
レイテ島の戦いが終わり、連合国軍はルソン島を攻める。レイテ戦に大きな戦力を費やした日本軍はあっという間にマニラ陥落を許す。以後、敗残兵は北へ北へと逃走する。当時の陸軍の用語でいえば転進である。北部のアパリに行けば、台湾からの援軍が期待できるとでも思ったのだろうか。5月末から6月初頭にフィリピン戦の終結が告げられている。その後しばらく抵抗したのかもしれない。小規模の夜襲、突撃はあったはず。米軍から援助を受けたゲリラに襲われたのか、夜襲突撃に駆り出されたのか、餓死したのか、マラリアに侵されたのか。大叔父戦死の真実はわからないままである。
もっとはやくに大叔父の戦死に興味を覚えるべきであった。生前の父から話を聞くことができたはずだ。不勉強であったが、家族のなかで大叔父の戦死を避けているような雰囲気もあったことも事実だ。大叔父は名前で呼ばれず、「兵隊さん」と呼ばれていた。兵隊さんの話をするのはどことなくタブーな雰囲気があったのだ。
古谷経衡をラジオで知ったことは以前書いた。いつも聴いている番組で10分程のコラムを担当している。この本はその番組で紹介されていた。精力的に現場に足を運ぶ。フィリピンにはもう何十回と訪ねている。現地を見ないで何を書けるというのか、というのがモットーである。インパールも訪ねている。共感できるスタンスだ。
先日、大叔父が戦死したルソン島のビノンという町を地図で見つけることができた。グーグルマップで見ると山間ののどかな集落だった。キリスト教国フィリピンらしい教会もあった。一度慰霊に訪ねてみたい気になった。今さら行ってみたところでどうにかなるわけでもないのだが。

2025年7月20日日曜日

古谷経衡『敗軍の名将 インパール・沖縄・特攻』

母が亡くなった。90年の生涯だった。
6年前脳疾患で倒れ、後遺症で不自由な身になったが、それでもがんばって生きてくれた。僕は小さい頃、泣き虫で意気地なしだった。外に遊びに行くと十中八九、泣いて帰ってきた。私が死んだらこの子が泣くだろうと思って母はがんばって生きてくれたのかもしれない。
施設からかなり衰弱してきたと連絡があり、会いに行った。俺は大丈夫だよ、おふくろが死んでももう泣かないよ、もう泣き虫じゃないよと最後に伝えた。2日後、息を引きとった。
出棺のとき、母と父の出会いのことを挨拶がわりに披露した。母に伝えたとおり泣くことはなかった。葬儀を終え、ようやく落ち着いた。保険証を区役所に返却し、後は年金の手続きが残っている。
古谷経衡という作家はラジオで知った。ラジオ番組のコラムで聴く限りユニークな視点を持っているという印象である(その後風貌もユニークであると知る)。
先の戦争では軍部の強引かつ無計画な作戦によって多くの将兵が無駄死にしたと思っている。工業力という点で圧倒的に不利な日本軍は斬り込みという無思慮で原始的な作戦を繰り返す。特攻という非人道的な手段を選ぶ。無意味な精神論、非合理的な作戦、物資の不足。よく5年も戦い続けられたと思う。
そんななか、上官の命に抗って撤退したり、持久戦に持ち込んで消耗を避けたり、特攻を拒んで独自に戦術を編み出した指揮官がいる。インパール作戦における佐藤幸徳、宮崎繁三郎、沖縄戦における八原博通、日本海軍芙蓉部隊の美濃部正である。軍部の空気に抵抗した彼らに着目した作者の視点に敬服する。とりわけ、沖縄の持久戦が限界があるとはいえ、続行されていたらと被害者はもっと少なくなったのではないかとも思える(もちろんその持久戦も陸軍の面子で潰されるのだが)。戦時中の日本軍部にも救われる一面があったこと。それだけでも読んでよかったと思う。
母は終戦の年、小学5年生だった。

2025年7月9日水曜日

葛城明彦『不適切な昭和』

今年は昭和100年にあたるということで昭和を振りかえるテレビ番組が多い。なかでも昭和の映像を見て、平成、令和時代の若者たちがどんなリアクションをするかといったバライティは数多く放映されている。大抵の映像は昭和40年代後半から50年以降である。
それというのもテレビの世界ではビデオテープは高価な資材だった。保存されることなく、使いまわされる時代が長かったのである。昔のテレビはほとんどが生放送だった。ニュースはもちろん、歌番組もクイズもドラマでさえ生だったのだ。だから昔の番組はほとんどなくなっている。わずかに流通していた家庭用ビデオデッキで録画した番組が今や貴重な資料になっていたりする。フィルムで撮影されたコンテンツは思いの外多く保存されている。C Mやフィルム制作されたドラマやアニメーションがそうだ。労力が要るアニメは安価なフィルムで完パケなければならなかったのだ。昔のニュースだってテレビ局にはほぼ残されておらず、資料として登場するのは映画館用に制作されたニュースだ。だからどうしても映像で振りかえる昭和は自ずと昭和40年代後半から50年以降という偏りが生じる。ちょうど僕が小学校を卒業し、中学生になる頃のことである。そういった意味ではこの本は僕にとってドンピシャリなのであるが。
昭和はもっと広くて深い。テレビを中心にした風俗を追いかけるだけで「不適切」と言い切るのは容易いことだが、こうした「不適切」を許していた時代、社会についてもう少し立ち止まって考えてみてもいいと思う。「不適切」は排除されてしかるべきものとは思うが、その前にもう一度、再利用できないかと思うのである。
ちくまプリマー新書と中公新書ラクレはわかりやすい問題提起があることで僕は高く評価しているが、この本はちょっと物足りなかった。ああ、そんな時代だったね、懐かしいね、不適切だったねで終わらせてしまうのはちょっと勿体ない。

2025年7月2日水曜日

内館牧子『大相撲の不思議3』

昭和四十七年初場所中日八日目。結びは横綱北の富士と関脇貴ノ花の対戦だった。
立ち合い左四つに組み止めると北の富士は前に出ながら左外がけ。足腰のしぶとい貴ノ花に食い下がられたくない北の富士ははやい決着を望んだのだろう。これを残した貴ノ花に横綱は土俵中央で再度外がけ。今度は右だ。さらに体を預けて貴ノ花をのけぞらせる。勝負あったかと思ったのもつかの間、貴ノ花はのけぞりながら体を入れ替えようと右から投げを打つ。あるいは下手からひねったように見える。北の富士は思わず右手を付いてしまう。貴ノ花の背中はまだ土俵に付いていない。立行司木村庄之助の軍配は西貴ノ花に上がった。
物言いが付いた。蔵前国技館は騒然とした。長い協議だった。ここで議論されたのが「つき手」か「かばい手」かである。押し倒した相手の体が死んでいれば、つまりもう逆転の可能性がない状態であれば優勢な力士の付いた手は「かばい手」となって負けにはならない。相手が死に体でなかったとしたら、それは「つき手」となって負けである。かばい手は勝負が決まった後に相手に怪我をさせないための処置であるとも言える。木村庄之助は北の富士の手を「つき手」と判断したが、審判は「かばい手」であると結論し、行司差し違えで北の富士の勝ちになったのである。
貴ノ花は大鵬引退、玉の海急逝によって寂しくなった土俵を盛り上げた角界のプリンス。大変な人気力士でもちろん僕もファンだった。テレビを見ながら、憶えているのは軍配が貴ノ花に上がって狂喜乱舞したのもつかの間、物言いが付いて行司差し違えで貴ノ花が敗れ、なんだようと不平不満をぶちまけたことだ。今回取り組みを再現するためにユーチューブでこの対戦を見直したが、やはり貴ノ花の体は生きていると思う。
この本の著者内館牧子はこの日この取り組みを見れなかったと書いている。大の相撲通が見損なった一番をライブで見ていたなんて少し鼻が高い。

2025年6月27日金曜日

内館牧子『大相撲の不思議2』

大相撲をテレビで見るようになって最初に惹きつけられたのは横綱の土俵入りだ。なにせ、大鵬、北の富士、玉の海と3人も横綱がいたんだから。現役として最晩年を迎えつつあった大鵬はゆっくりと、そしてその取り口のようにしなやかだったし、北の富士はイケメンで体躯もあってスケールの大きい土俵入りを披露していた。僕が好きだったのは玉の海。丁寧で大きな所作。小柄な力士であったが、指先がしっかり伸びている、掌をきちんと返す。風格が感じられた。
最近だと白鵬の土俵入りが気に入らなかった。横綱土俵入りはまず両腕(かいな)を大きく振りかぶって柏手を打つ。さらに両腕を振りかぶって塵手水の所作を行う。白鵬の場合、この一連がこじんまりし過ぎている。余計なパフォーマンス好きの白鵬が小さな不知火型を貫いたのは何かわけでもあったのだろうか。しなくてもいい所作があるのに基本動作はなっていない。
新横綱大の里の土俵入りはいい。大きな身体をさらに大きく見せる豪快さがある。大鵬や貴乃花、稀勢の里ら二所ノ関一門らしい土俵入りだ。強いて言えば柏手を打つ前に左右に広げた両腕は少し曲げてもいいし、少し静止してもいいかなと思っている。今のままでももちろんいい。やがてこれが大の里の土俵入りだと広く認知されるだろうから。
白鵬(元宮城野親方)の退職は残念だが、致し方ないところか。相撲協会が冷遇し過ぎるとの声もあったが、朝青龍にしても白鵬にしても相撲に対する理解に乏しいわけではない(特に白鵬は勉強熱心だった)。人を敬う気持ちと謙虚さに欠けていただけだ。勝ち星を多く重ねることが相撲ではなく、人としての完成度を高めるために不断の努力を積み重ねることが相撲道なのだ。鳴戸親方(隆の里)は稀勢の里を育てた。伊勢ヶ濱親方(旭富士)は照ノ富士を再起させた。大相撲の伝統を後世に伝えていくのに大切なのは人間性であり、優勝回数ではない。
白鵬は大切なものを見誤った。

2025年6月17日火曜日

内館牧子『大相撲の不思議』

子どもの頃から見ていたスポーツは野球と大相撲だ。無人島にひとつだけスポーツを持っていっていいとしたら、このいずれかで相当悩むと思う。
大相撲をテレビで見はじめたのは北の富士と玉乃島が横綱に同時昇進した直後ではないか。大鵬、北の富士、玉乃島改め玉の海、三横綱の時代がはじまったところだ。大関は琴櫻、清國、前乃山、大麒麟、豪華な顔ぶれだ。大鵬が貴ノ花に敗れ、引退を決意し、玉の海が二十七歳で急逝する。それからしばらく北の富士がひとり横綱になった。若手の貴ノ花、大受、学生横綱の輪島らが台頭する。昭和四十六~七年のことだ。
内館牧子は脚本家になる以前、幼少の頃から大相撲を見てきたそうだ。ファンであるのみならず、後に東北大学大学院にすすんで、「土俵という聖域――大相撲における宗教学的考察」という修士論文を書いている。筋金入りの大相撲ファンから相撲研究者にまで登りつめた。
長年大相撲中継を見ていると相撲に関する知識がそれなりに身に付いてくる。歴史や作法とその言われなどなど。それでも土俵はどうつくられるのか、懸賞金とは?屋形とは?などと訊ねられたらきちんと答えられるだろうか。もちろん答えられたところで何かの役に立つということもないのだが。
しばらく野球の本ばかり読んでいた。そのうち大相撲五月場所がはじまり、大の里という新しい横綱が誕生した。いい機会だから相撲の本を読んでみようと思った。
村松友視が著書『私、プロレスの味方です』のなかで「ちゃんと見るものは、ちゃんと闘う者と完全に互角である」と書いている。この本のなかで著者が紹介している。先日読んだお股ニキもそうだが、ひとつの競技をとことん見ることは大切なことだ。野球も大相撲も大好きだったが、今頃になって僕はたいして熱心なファンではなかったことに気付く。別段、スポーツに限る話ではない。何事においてももっと勉強しておけばよかったと思う今日この頃である。

2025年6月2日月曜日

鳥越規央『統計学が見つけた野球の真理 最先端のセイバーメトリクスが明らかにしたもの』

俊足のスイッチヒッター柴田が出塁する。続くはいぶし銀の二番打者土井。巧みに送りバントを決めると王、長嶋へと打順がまわる。期待が高まる。小学生の頃からこんなシーンを何度も見てきた。これが野球の定石だった。
MLBでは二番打者が送りバントをすることは滅多にない。得点期待値というデータがある。特定のアウトカウントと走者の状況でその回にどれだけの得点が見込まれるかを統計的に数値化したものだ。過去のNPBのデータによれば無死一塁と一死二塁では無死一塁の方が得点期待値が大きい。送りバントは有効なプレーではないのである。
かつて二番打者は先頭打者として出塁した走者をスコアリングポジションに送る使命があった。送りバントをしたり、走者の背後にゴロを打って進塁させるのが仕事だった。あらゆる局面で数値化された今の野球で二番打者は走者がいればチャンスを広げ、あるいは得点に結びつけ、走者がいなければ自らが(できれば)長打でチャンスメイクしなければならない。各チームの最強打者を二番に据えるのが今や定石となっている。
打者の評価基準は古くから打率、本塁打数、打点だったが、近年では出塁率+長打率の合計であるOPSが注目されている。出塁率が高いということはアウトにならないということだし、長打率が高いということはチャンスをつくったり、広げることに貢献する。投手も5~6回を100球くらいで投げ切るスタイルに変わってきている。勝利数よりもクォリティスタート(QS)といって、6回を3失点で抑えることが投手の評価基準になっている。
そろそろ高校野球の季節である。犠牲バントをしないチームや複数の投手で継投するチームも以前より増えたものの、負ければ終わりのトーナメント戦で無死一塁を一死二塁にする作戦や頼れるエースに試合を託すスタイルは今もなお甲子園ではよく見かける風景だ。
セイバーメトリクスは高校野球にも浸透していくのだろうか。

2025年5月26日月曜日

北村明広『俺たちの昭和後期』

自分が生きてきた時代に対して不平や不満を持つことはなかったように思う。
都立高校を受験するとき、当時は学校群制度というものがあって、特定の高校を志望するのではなく似たようなレベルの学校が2校~3校ずつグループ分けされていて、そのグループを受験するしくみだった。僕が受けた群には3つの学校があって、そのうちのひとつに割りふられた。自宅からはいちばん遠い学校だったが、取り立てて不服はなかった。
大学受験のときは翌年から共通一次が導入される年だった。浪人すると国公立は一校しか受験できなくなる。できれば浪人はしたくなかったのでどこでもいいから(と言っては失礼だが)合格したかった。ちょっとしたプレッシャーはあったが、どうにかこうにか受かった。
仕事をするようになってバブルになった。深夜、タクシーがつかまらず、やれやれな日々を送った。昭和55(1980)年から平成にかけては思い出しただけでもぞっとするような忙しさだった。
著者は昭和の世代定義を以下のようにしている。昭和19年生まれまでの「戦争体験世代」、20〜27年生まれの「発展請負世代」、28〜34年生まれの「センス確立世代」、それ以降に生まれた昭和後期世代。昭和後期世代が圧倒的に長期に渡っている。著者自身は昭和40年生まれ。
さらに昭和を終戦までの初期、復興がすすんだ昭和30年までの第二期、「もはや戦後ではない」から五輪、万博を開催した昭和45年までの第三期(ここまでが昭和中期)。そして46〜54年、発展と混乱、そして公害の時代である第四期、55〜64年の第五期は技術大国ジャパンとバブルの時代と位置付けられている。
これらの定義が妥当かどうかはわからない。当然偏りがあると思うが、われわれ「センス確立世代」は昭和後期の第四期に中学生〜大学生までを経験し、社会に出てから何年か第五期を生きた。いずれにしても懐かしく愛おしく、恥ずかしい時代である。

2025年5月21日水曜日

ロバート・ホワイティング『なぜ大谷翔平はメジャーを沸かせるのか』

東京六大学野球は春秋のリーグ戦終了後、トーナメントによる新人戦が行われる。
2011年春の新人戦準決勝立教明治戦を神宮球場で観戦していた。2対2で迎えた8回裏、明治は逆転に成功する。なおも満塁でバッターはこの回から救援でマウンドに上がった岡大海。倉敷商のエースとして二度甲子園に出場している。ここは代打だろうと思って見ていたが、そのまま打席に立ち、なんと満塁ホームランを打ってしまったのだ。
岡は2年の秋からリーグ戦で登板するようになった。対慶應二回戦で救援し初勝利を上げている。3年の春には代打で登場し、そのままマウンドに上がったこともあった。四回戦までもつれ込んだ対早稲田戦では四試合に野手で先発し、全試合に救援投手として登板している。打者としては3ランホームランを含む8安打7打点と活躍する(最後は救援で失敗し早稲田に勝ち点を与えてしまうのだが)。
岡が投打で活躍した12年の秋、花巻東の大谷翔平がドラフト会議で日本ハムから一位指名を受ける。栗山英樹に説得され、入団を決意する。この騒ぎの中で「二刀流」という新たな野球用語が定着していく。過去、MLBにもNPBにも投手として打者として活躍した選手はいたが、どちらも主力として持続的にプレーするスタイルはなかったはずだ。
岡は4年生になってからは打者に専念する(一度だけ大差の試合で登板しているが)。日米大学野球にも出場している。13年のドラフト会議で奇しくも日本ハムから三位指名を受ける。二刀流としてではなく、野手として。その後ロッテに移籍し、俊足と勝負強いバッティングは健在だ。
時折ブルペンで投げる大谷を見るとファーストミットをグラブに変えてマウンドに向かう岡を思い出す。
ロバート・ホワイティングが大谷について書いているが、この本は時期尚早な感がある。メジャーで7年を過ごした大谷を彼は今ならどう評価し、どう書くだろうか。新作を楽しみにしている。

2025年5月17日土曜日

ロバート・ホワイティング『野茂英雄ーー日本野球をどう変えたか』

ロバート・ホワイティングの本を読んでいるのには理由があって(以前にも書いたと思うが)、3月に行われたとあるパーティーで本人をお見かけしたのである。氏を知っているわけではなく、その友人である故松井清人氏を知っていた。ご近所さんであった。清人氏とは歳も離れていたのでほぼ面識はないのだが、清人氏の母上とはときどき会話を交わしたし、僕の母とも親しかった。そんなこんなでホワイティング氏に声をかけ、翻訳家の松井みどりさんのご主人の実家の近所に住んでいた者です、などとややこしい挨拶でもしたかったのである。
とはいえ、氏の著作を読んだ記憶がない。この本を以前楽しく読ませていただきました、つきましては...と声をかけるのがいいに決まっている。読んでもいないのにいきなり、翻訳家の方と、これこれこういう繋がりがありまして、ではちょっとかっこ悪い。でもまあ、そのうちまたお目にかかれる機会もあるかもしれない。そのときに著書を何冊か拝読しましたとスムースに挨拶できるように読んでおこうと思ったのだ。
ホワイティング氏はMLBの生き字引みたいな人で一人ひとりのプレーヤーをきちんと見ている。多くの日本人メジャーリーガーに厳しい目を向けながらも、野茂、イチロー、松井秀喜、井口資仁を評価している(もちろん厳しく見るところもある)。とりわけ開拓者である野茂には好意的で同じ考えを持っている僕は大いに共感できるのだ。野茂が日本プロ野球にノーを突きつけ海を渡らなければ、後に続く日本人メジャーリーガーは生まれなかった。著者は野茂の野球殿堂入りの議論さえ掲載している。反論も多いが、これは過度の期待を持たせないためという意図が感じられる。おそらく彼に投票権があれば間違いなくイエスと答えるかのようだ。
さて、読み終わって、いつも通り読書メーターに登録しようとした。そこでようやく気付く。2019年に僕はこの本を読んでいたのである。

2025年5月3日土曜日

ロバート・ホワイティング『野球はベースボールを超えたのか』

子どもの頃、プロ野球は巨人を応援していた。いつの頃からかそんなにファンではなくなっていた。FAで移籍して来る大物選手たちに辟易したのかもしれない。
今は特定の球団を応援するというより、かつて注目していた選手を追いかけるといった見方をしている。アマチュア時代に神宮で見た阪神の坂本誠志郎、糸原、大竹耕太郎、熊谷、ロッテの岡大海、中村奨吾、小島、楽天の早川、ソフトバンクの有原、日ハムの郡司、山﨑福也、清宮、広島の森下、ヤクルトの茂木、矢崎などなど。奥川も高校時代神宮で見ている。神宮では見なかったが、保土ヶ谷球場で阪神の森下も見た。これらの選手が出場する試合をテレビ観戦することもある。特定の球団のファンではないから、たまたま中継している試合を見るのである。毎朝新聞をひろげて、気になる選手の成績を見る。昨日の郡司君は2安打かあ、などとにんまりしたりする。要するに今ではその程度のプロ野球ファンなのである。
この本は2006年、今から20年近く前に出版されている。その頃から著者ホワイティングは日本のプロ野球を憂いていたのだなあ。NPBの球団は企業として自立していない。大企業の名をチーム名に付けている。野球をしながら広告もしている。野球のための経営と広告のための経営がごっちゃになっている。このことがMLBでは考えられない日本プロ野球の特徴である。ヤクルトが東京ヤクルト、日本ハムが北海道日本ハムになるなど本拠地を併記したチーム名に変えた球団もあるが、まだまだスポンサー名にしがみついているのが現状だ。マイナーチームも複数持つ球団もあるが、ほとんどがひとつ。
概して言えば、日本のプロ野球は成熟することなく大人になってしまった子どものように思えてならない。
ここ20年でよかったと思うのはエスコンフィールドHOKKAIDOができたことか。クラシックパークもいいけれど、一度ここで観戦したい。

2025年4月17日木曜日

嵐山光三郎『爺の流儀』

 嵐山光三郎さんと二度お目にかかっている。厳密に言えば、二度本人をお見かけしたということだ。

最初は1985(昭和60)年、信濃町の千日谷会堂で。建築の仕事をしていた伯父が亡くなり、葬儀が行われた。嵐山さんはその会葬者のひとりで、白の着物に白の袴という出で立ちで颯爽と献花し、合掌して去っていった。嵐山さんは伯父の弟(僕の叔父)の元同僚で親友でもあったらしい。それで葬儀に駆けつけてくれたのだろう。
二度目はそれからしばらく経って、銀座で嵐山光三郎・安西水丸二人展があり、僕はたまたまオープニングパーティーの場にいた。どこのギャラリーだったかは憶えていない。嵐山さんは文筆家であったが、原稿用紙に自身の顔を描くなどよくしていた。そんな原稿用紙に描いた絵と安西水丸のイラストレーションが何点かずつ掲示されていた。パーティーはマスコミ関係者をはじめ大勢のお客さんがいた。嵐山さんは毎週日曜日の「笑っていいとも増刊号」というテレビ番組に編集者という立場で出演していた。ちょっとしたタレントだった。
パーティー会場に大きな寿司桶が運ばれる。十か二十か、それよりもっと多かったかもしれない。寿司を運び込んだ出前の人といっしょにやってきたスーツ姿の男に声をかけられた。「おまえ、レイコの息子だろう。俺はおまえのおふくろのいとこなんだ」と。レイコというのは母の名でたしかに銀座や築地、月島で寿司屋をやっているいとこがいると聞いたことがあった。「こんなところで食う出前の寿司なんかうまくない。俺の店に来い」と母のいとこTさんに告げられ、ふたりで銀座の店の入り、カウンターに座った。銀座の寿司屋の暖簾を潜るのははじめてのことだった。
嵐山さんの本は久しぶりである。両親の死を経験し、自らも80歳を超え、死についてきちんと向き合えるようになったのだろう。死は恐怖であるとともに最後の愉しみでもあるという。妙に説得力があった。

2025年3月11日火曜日

吉見俊也『東京裏返し 都心・再開発編』

川本三郎の町歩き本を手本にしてずいぶん東京を歩いた(さらにその師は永井荷風であるが)。その後、暗渠に着目する若き探検家の本を読んだりして、それなりに東京を掘り起こしてきた。
著者のいう通り、かつての大名屋敷が大学になったり、植物園になったりした江戸城(皇居)の北側にくらべて、明治の頃から南西側は練兵場など後に陸軍の施設が増えていく。明治政府は、この方面に脅威を感じたのかもしれない。青山、代々木の練兵場をはじめとして、駒場から駒沢にかけて、国道246号(旧大山街道)に沿って陸軍の施設が集中していた。赤坂、渋谷が歓楽街になったのは主に陸軍の力によると言われている。これらの施設は戦後、占領軍に接収される。赤坂、六本木は進駐軍によってモダンな歓楽街となる。
その後一部を除いて、接収が解除される。いちばん大きなものは代々木一帯、かつてワシントンハイツと呼ばれた広大な米軍住宅だろう。1964年の東京五輪開催にあたって返還され、選手村になった。今は代々木公園やNHK、渋谷公会堂などになっている。ワシントンハイツ時代の代々木は安岡章太郎や山本一力の小説に描かれている。
これらの軍用地を国や民間が引き取ることで街の景色が変わっていく。古くから栄えた日本橋、銀座、浅草に加えて南西側は新たな都心となり、開発に開発を重ねていったのだ。そういった意味からすれば、著者のいうような時間の層が埋もれてしまった一角であることは否めない。それでも歴史を掘り起こす街歩きを標榜する著者にとって手強いながらも魅力的な地域であろう。
前作『東京裏返し 社会学的街歩き』に続いて楽しく読了。実際に歩いた穏田川~渋谷川~古川流域や四谷若葉町~鮫河橋、荒木町~曙橋を経て、余丁町、市ヶ谷監獄のあった辺りを思い出す。余丁町から西向天神まで歩いたことも何度かある。四谷は機会があればまた訪ねてみたい。その谷底には魅力が埋まっている。

2025年2月13日木曜日

吉見俊哉『東京裏返し 社会学的街歩き』

町と街。この使い分けは難しい。以前、よく読んだ川本三郎は町歩きと表記する。街にすることはない。個人的な感覚であるが、町が現代化したものが街ではないかと思っている。懐かしい佇まいを残した店は町中華であり、街中華は似合わない。マンション、戸建ての広告には街が似合う。まあどちらでもいいことなのだが。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。

2024年12月31日火曜日

北村匡平『遊びと利他』

小学生の頃、螺旋形の滑り台があった。公園の遊具としては大きなものでどこの公園にもあるというわけではなかった。学区域内の公園にはなかったと思う。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。

2024年12月4日水曜日

将基面貴巳『従順さのどこがいけないのか』

荻窪の大田黒公園に紅葉を見に行った。
大田黒公園は音楽評論家大田黒元雄の住まいを整備して公園にしたものだ。近くには角川庭園(角川書店を創立した角川源義の自邸)やまもなく公開される荻外荘(近衛文麿邸)もある。杉並の、ちょっとした文教地区である。とりわけ大田黒公園はこの時期、紅葉をライトアップする。寒くなるなか、来訪者も多い。園内にある池に映る紅葉が素晴らしい。
杉並区今川の観泉寺にも行ってみた。観泉寺は曹洞宗の寺である。区の広報誌に紹介されていたこともあり、訪れている人も少なくない。銀杏の黄色が鮮やかだった。
それでも東京の紅葉は力強さに欠けるように思う。ひ弱な感じがしてならない。そもそも紅葉は12月じゃないだろうし。これも地球温暖化のひとつかもしれない。東京という地理的条件もあるだろう。どうも目に鮮やかな紅葉とは必ずしも言いがたいところがある。贅沢といえば贅沢なのかもしれないが。
将基面貴巳(しょうぎめんたかしと読むらしい)の『従順さのどこがいけないのか』を読む。ちくまプリマー新書には中高生向けに編まれた教養体系という色合いを感じる。とはいえ、若年層向けだからといって軽く見てはいけない。以前読んだ菅野仁著『友だち幻想』などはこの新書のなかでも屈指の名著であると記憶している。本書もそれとに勝るとも劣らない一冊である。
何も考えを持たずに従順であること、服従することに対して著者は警鐘を鳴らす。歴史から、哲学から具体的な引用をする。文学や映画作品もそこに含まれる。読書経験も映画経験も乏しい僕ではあるが、読んだこともない見たこともない事例の数々に興味がそそられる。著者のこだわりなのか、編集者のリードがそうさせるのかはわからないけれど、巧みに青少年を世の中に導いていく。
少子化だとか人口減少が取り沙汰される今の社会であるが、こういった本が上梓されることに少しだけほっとしている。

2024年8月2日金曜日

柳田國男『こども風土記』

子どもの頃、馬乗りという遊びをよくした。主に男の子の遊びで冬場にすることが多かった。
どんな遊びかというと(文章で説明するのは大変難しいのだが)だいたい10人前後がふた組にわかれる。馬側と乗り側である。馬側はまずひとり、壁を背にして立つ。残りは馬になる。先頭の馬は腰を折って、立っている子の股間に頭を突っ込む。馬は足を肩幅くらいにひろげる。二番目の馬はやはり腰を折り曲げて、一番目の馬の股間に頭を入れる。そうやって例えば1チーム5人なら4人の馬が連なる。
乗り手は助走をつけて、跳び箱を飛ぶような感じで馬に飛び乗る。5人が乗ったら先頭の乗り手と壁を背にした子がじゃんけんをし、勝った方が乗り手になる。もちろんじゃんけんで決着するのは順当に5人の乗り手が馬に乗れた場合であって、馬の上でバランスを崩してしまう乗り手もいれば、飛び乗ったとき勢い余って横に落ちてしまう乗り手もいる。これは「オッコチ」と呼ばれ、誰かがオッコチした場合、攻守が入れ替わる。また身体の小さい弱そうな子の上に全員が重なるように乗るなどして馬をつぶしてしまうこともある。これは「オッツブレ」と呼ばれ、乗り手側は次も乗り手として遊びを継続する。
なんでこんなことを思い出したかというと、この本に紹介されている「鹿鹿角何本」という広く伝わった子どもの遊びの延長線上に馬乗りという遊びがあるらしいとわかったからだ(馬乗りは地方によっては胴乗りとも呼ばれていたらしい)。昔は乗り手が馬に乗ると指を何本か馬の背に突き当てて鹿鹿角何本と言ったそうだが、僕は知らない。
馬乗りをしていたのは小学生の頃だ。1960年代の後半から70年代のはじめくらい。その後は小学生ではなくなったので、後輩にあたる小学生たちが馬乗りを連綿と受け継いでいったのかどうかは知らない。
馬乗りはまだ子どもたちの間で行われているのだろうか。馬乗りはどこへ行ってしまったのだろうか。

2024年3月11日月曜日

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語 ――映画黄金期に現れた伝説的ドラマ』

1953(昭和28)年にテレビ放送がはじまったが、草創期の映像は残されていない。コンテンツのほとんどが生放送だったからだ。録画して保存するなんて誰ひとりとして思いつかなかったのだろう。
CMはフリップを映すだけであり、海外から提供されたドラマや映画も流された。日本最古のテレビコマーシャルは精工舎の時報CMと言われているが、これも諸説あり、現存する最古のCMということらしい。他にも一番最初のCMはこれだという見解もあるようだが、如何せん実物が残っていないのである。
当時、NHKも日本テレビも独自の電波塔を持っていた。開局申請が増え、東京のテレビ局が共同で使える電波塔が企画された。東京タワーだ。主導したのは産経新聞の前田久吉。かくして1958(昭和33)年、東京タワーは完成した。
この本は東京タワー完成時に放映されたドラマにフォーカスしている。現在のTBSが制作した「マンモスタワー」である。近い将来斜陽産業となるであろう映画と今は未知数だがいずれ大きなメディアになるであろうテレビの世界。来たるべき映像産業の対立を描いている。当時、映画の観客動員数はピークを迎えていた。旧態依然とした映画会社の経営者たちはテレビ恐るるに足らずと豪語していた。ひとりの映画製作者が主人公。映画製作はもっと合理的にしなければならないと主張する。その役が誰もが認める映画スター森雅之だ。ちょっと興味を唆られる。
このドラマは完全な生放送ではなく、当時希少だったVTRも駆使されている。風景などは事前に収録されていたらしい。そんなこともあってか実はこのドラマは保存されている。全てではないかもしれないが、今でも横浜関内の放送ライブラリーという施設で視聴可能だ。放送ライブラリーはずいぶん前に訪ね、昔のCMやニュース、ドラマなどを視た記憶がある。
行ってみようかな、横浜まで。帰りに野毛で餃子とサンマーメンを食べたいし。

2023年1月24日火曜日

橋爪 大三郎,大澤 真幸,宮台 真司『おどろきの中国』

浅田次郎の『蒼穹の昴』はたいへんおもしろい小説だった。続編もあるというので楽しみにしている(次に読むのは『珍妃の井戸』だ)。
清朝末期の政変が舞台となっているが、そのあたりの詳しい歴史は知らない。そもそもが中国のことをよく知らない。ただでさえ、清朝末期の歴史は複雑でわかりにくい。列強との小競り合いがあり、内乱があり、新国家建設のための革命が起こる。ウィキペデアで読んだだけではちょっとやそっとじゃ理解できない。どうせなら浅田次郎を読みながら学ぼうと思った。楽しみながら苦手な歴史を学ぶのだ。なかなかいい思いつきではないか。
中国の歴史小説を読んでいくついでに昔読んだこの本をもういちど読み返してみようと書棚をさがしてみた。見つからない。読書メーターによれば2013年3月に読み終えている。
中国という自己中心的な国家が歴史的にどう形づくられ、今に至っているかを識者が解き明かすといった内容だったと思う。この本自体は10年前に上梓されている。今の中国の状況とは多少異なるが、やがて中国が強大な国家として世界に君臨するという想定の上で議論されていたと思う。などと憶えているようなことを書いてはいるが、再読したわけではない。10年前に読んだというあてにもならない記憶を綴っているだけである。なんとも情けない話である。
情けないといえば、年頭、岸田首相が記者会見を行った。賃上げを実現したい。(政府もそのための施策を検討するのだろうが)経済界にも物価上昇率を上回る賃上げの協力をお願いしたいということを語っていた。賃上げを実現するために企業の方々に賃上げをお願いするという無策な会見にびっくりした。経済界が、中小企業も含めてすべての企業が賃上げを実現できるような環境をつくるのが一国の首相の務めなのではないか。経済界にお願いすればほいほいとできてしまうのか、賃上げって。
おどろくべきはお隣の国ではなく、わが国である。