川本三郎の町歩き本を手本にしてずいぶん東京を歩いた(さらにその師は永井荷風であるが)。その後、暗渠に着目する若き探検家の本を読んだりして、それなりに東京を掘り起こしてきた。
著者のいう通り、かつての大名屋敷が大学になったり、植物園になったりした江戸城(皇居)の北側にくらべて、明治の頃から南西側は練兵場など後に陸軍の施設が増えていく。明治政府は、この方面に脅威を感じたのかもしれない。青山、代々木の練兵場をはじめとして、駒場から駒沢にかけて、国道246号(旧大山街道)に沿って陸軍の施設が集中していた。赤坂、渋谷が歓楽街になったのは主に陸軍の力によると言われている。これらの施設は戦後、占領軍に接収される。赤坂、六本木は進駐軍によってモダンな歓楽街となる。
その後一部を除いて、接収が解除される。いちばん大きなものは代々木一帯、かつてワシントンハイツと呼ばれた広大な米軍住宅だろう。1964年の東京五輪開催にあたって返還され、選手村になった。今は代々木公園やNHK、渋谷公会堂などになっている。ワシントンハイツ時代の代々木は安岡章太郎や山本一力の小説に描かれている。
これらの軍用地を国や民間が引き取ることで街の景色が変わっていく。古くから栄えた日本橋、銀座、浅草に加えて南西側は新たな都心となり、開発に開発を重ねていったのだ。そういった意味からすれば、著者のいうような時間の層が埋もれてしまった一角であることは否めない。それでも歴史を掘り起こす街歩きを標榜する著者にとって手強いながらも魅力的な地域であろう。
前作『東京裏返し 社会学的街歩き』に続いて楽しく読了。実際に歩いた穏田川~渋谷川~古川流域や四谷若葉町~鮫河橋、荒木町~曙橋を経て、余丁町、市ヶ谷監獄のあった辺りを思い出す。余丁町から西向天神まで歩いたことも何度かある。四谷は機会があればまた訪ねてみたい。その谷底には魅力が埋まっている。
2025年3月11日火曜日
2025年2月13日木曜日
吉見俊哉『東京裏返し 社会学的街歩き』
町と街。この使い分けは難しい。以前、よく読んだ川本三郎は町歩きと表記する。街にすることはない。個人的な感覚であるが、町が現代化したものが街ではないかと思っている。懐かしい佇まいを残した店は町中華であり、街中華は似合わない。マンション、戸建ての広告には街が似合う。まあどちらでもいいことなのだが。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
2024年8月11日日曜日
川端康成『親友』
日本人は惜敗を賞賛する。もちろん懸命に闘った敗者を称えることは悪いことではない。ただ手放しで称えることは如何なものか。
オリンピックの卓球。男子シングルス準々決勝では張本智和が中国の樊振東を最後逆転されたものの追い詰めた。女子団体のダブルスもあと一歩のところで逆転された。スポーツ報道は例によって健闘を称える。2月に行われた世界選手権団体では女子は先に王手をかけたが逆転負け。このときも日本と中国は実力が伯仲してきたなどと報道された。
スポーツ競技で本来目指すべきは勝利ではないのか。もちろん大きく見れば人間的に成長させるという視点も大切だろうが、大きな大会にのぞむにあたり、やはり目標が設定される。卓球でいえば、中国を倒して金メダルということになるだろう。それをオリンピックの度に、世界選手権の度に日本は苦杯を舐めてきた。目標が完遂できなかったからには反省があり、勝利するために強化すべきポイントを掲げ、そのために練習方法を改善する必要があるはずだ。当然相手選手の研究も。どこをどう強化すれば中国卓球に勝てるのか。報道が伝えるべきは、今終わった試合の敗者を称えるだけでなく、相手のどこを攻めればよかったのか、なぜそれができなかったのか、できるようになるにはどのような練習が必要なのか、ではないか。
卓球の大きな大会がある度に日本じゅうが盛り上がり、勝ち進むことで期待が高まり、最終決戦を迎える。ここで王者に悉く敗れる。こんなことをいつまで繰り返しているのだろう。
実況中継で解説者が言う。中国選手は中国製の回転のかかりやすいラバーを使っていると。ならば日本選手だって同じラバーを使えばいいじゃないか。大人の都合で日本選手は日本製のラバーを使わなくちゃいけないとするならば、まず正すべきは「大人の都合」だ。
川端康成の『親友』を読む。少女雑誌に連載されていたという。川端には思いのほかこうした作品が多い。
オリンピックの卓球。男子シングルス準々決勝では張本智和が中国の樊振東を最後逆転されたものの追い詰めた。女子団体のダブルスもあと一歩のところで逆転された。スポーツ報道は例によって健闘を称える。2月に行われた世界選手権団体では女子は先に王手をかけたが逆転負け。このときも日本と中国は実力が伯仲してきたなどと報道された。
スポーツ競技で本来目指すべきは勝利ではないのか。もちろん大きく見れば人間的に成長させるという視点も大切だろうが、大きな大会にのぞむにあたり、やはり目標が設定される。卓球でいえば、中国を倒して金メダルということになるだろう。それをオリンピックの度に、世界選手権の度に日本は苦杯を舐めてきた。目標が完遂できなかったからには反省があり、勝利するために強化すべきポイントを掲げ、そのために練習方法を改善する必要があるはずだ。当然相手選手の研究も。どこをどう強化すれば中国卓球に勝てるのか。報道が伝えるべきは、今終わった試合の敗者を称えるだけでなく、相手のどこを攻めればよかったのか、なぜそれができなかったのか、できるようになるにはどのような練習が必要なのか、ではないか。
卓球の大きな大会がある度に日本じゅうが盛り上がり、勝ち進むことで期待が高まり、最終決戦を迎える。ここで王者に悉く敗れる。こんなことをいつまで繰り返しているのだろう。
実況中継で解説者が言う。中国選手は中国製の回転のかかりやすいラバーを使っていると。ならば日本選手だって同じラバーを使えばいいじゃないか。大人の都合で日本選手は日本製のラバーを使わなくちゃいけないとするならば、まず正すべきは「大人の都合」だ。
川端康成の『親友』を読む。少女雑誌に連載されていたという。川端には思いのほかこうした作品が多い。
2024年6月25日火曜日
講談社校閲部『間違えやすい日本語実例集』
今の東急大井町線と池上線は別々の鉄道会社が経営していて、大井町線には東洗足という駅があり、池上線には旗が岡という駅があった。その後乗り換えできるように統合され、旗の台駅になった。実相寺昭雄『昭和鉄道少年』にそんなことが書いてあった。
旗の台は品川区民にはよく知られた地域である。区内で随一といっていい昭和大学病院が聳え立っているからである。池上線のホームとつながった改札から降りた乗客の多くは中原街道方面に歩く。おそらくは昭和大学病院に向かうのであろう。
旗の台駅から僕の実家までは2キロ弱。大井町線の隣駅荏原町を横に見ながら商店街をすすんでいく。第二京浜国道を渡ってさらに直進する。道は一直線である(三間通りと呼ばれている)。学区域が違うので友人や知人はいないが、昔から身近な地域だった。
広告制作の仕事をしてきてよかったと思うのは、いろんな業種の人たちと話ができたことだ。食品会社の人、製薬会社の人、金融関係の人、石油会社の人や官公庁の人たちなど枚挙にいとまがない。もちろん広告を通じてということだから、広告とあまり関係のない仕事には接することはなかった。たとえば医療関係者や学芸員、図書館司書など。
出版関係には友人が何人かいたが、裏方ともいえる校閲担当の人とは接点はなかった。どんな仕事なのか興味を持ったのは以前に読んだ牟田都子著『文にあたる』を読んだときだ。この本は校正や校閲を担当するものとしての心がまえみたいなことが語られている。今回読んだのは実際の校閲者が具体的にどんな事例に出会い、どう対処してきたかというきわめて実務的な現場のお話である。臨場感がある。
細々とブログを続けてきたが、僕の文章なんて小っ恥ずかしい赤字の宝庫なんだろうな。まったくもって汗をかく一冊だ。
さて、その日は旗の台で用事を済ませた後、実家まで歩いて、父に線香をあげる。父の誕生日も近かったから。
2024年5月7日火曜日
大岡昇平『武蔵野夫人』
大岡昇平『武蔵野夫人』を読む。
舞台は国分寺崖線。昔の多摩川が武蔵野台地を削った崖地である。地元では「はけ」と呼ばれている。小説の冒頭ではけがどうやってつくられたか、どんな特徴を持つ土地かが紹介される。読みすすめるにつれ、行ってみたいと思う。
実を言うと40数年前にはけの道を歩いたことがある。大学一年のとき。一般教養の地理の授業だった。担当の先生は名前ももう忘れてしまったが、授業中寝ている学生を今おもしろい話をしてるからといってわざわざ起こしに来るような人で、2回目か3回目の講義のときに教室を出て、国分寺崖線を案内してくれた。さして地理だの地形だのに強い関心を持っているとは思えない(僕だけか?)新入学生相手の一般教養の講義でフィールドワークをしちゃうことからして熱心な先生だったんだなと今になって思う。
中央線で国分寺駅。東に向かって歩きはじめる。野川の北側の道に出て、さらに東進。途中に貫井神社がある。湧水が見られる。手を振れはしなかったが、清冽で冷たそうだ。さらに東へ。北に向かえば武蔵小金井の駅に通ずるであろう通りを横切る。間もなくはけの森美術館にたどり着く。その隣の家が『武蔵野夫人』の舞台となった「はけの家」である。
物語の主人公は秋山道子。夫は大学でフランス語を教えている。学徒召集で南方に渡った従弟勉が復員してくる。勉はジャングルを彷徨い、地形に関して少なからず興味をおぼえたようだ。はけの家周辺をよく散策しては強く惹かれる。勉は作者自身を投影させた存在だろうか。大岡も南方(ビルマではなくフィリピンだが)から復員している。また主に渋谷辺りで育った彼にとって、宇田川や渋谷川といった水辺は身近な存在だった。野川流域の河岸段丘に魅力を感じたのはそのせいもあるのではないか。
夏になると戦争の本をよく読む。武蔵小金井駅で帰りの電車を待ちながら、今年は『レイテ戦記』を読んでみようと思った。
舞台は国分寺崖線。昔の多摩川が武蔵野台地を削った崖地である。地元では「はけ」と呼ばれている。小説の冒頭ではけがどうやってつくられたか、どんな特徴を持つ土地かが紹介される。読みすすめるにつれ、行ってみたいと思う。
実を言うと40数年前にはけの道を歩いたことがある。大学一年のとき。一般教養の地理の授業だった。担当の先生は名前ももう忘れてしまったが、授業中寝ている学生を今おもしろい話をしてるからといってわざわざ起こしに来るような人で、2回目か3回目の講義のときに教室を出て、国分寺崖線を案内してくれた。さして地理だの地形だのに強い関心を持っているとは思えない(僕だけか?)新入学生相手の一般教養の講義でフィールドワークをしちゃうことからして熱心な先生だったんだなと今になって思う。
中央線で国分寺駅。東に向かって歩きはじめる。野川の北側の道に出て、さらに東進。途中に貫井神社がある。湧水が見られる。手を振れはしなかったが、清冽で冷たそうだ。さらに東へ。北に向かえば武蔵小金井の駅に通ずるであろう通りを横切る。間もなくはけの森美術館にたどり着く。その隣の家が『武蔵野夫人』の舞台となった「はけの家」である。
物語の主人公は秋山道子。夫は大学でフランス語を教えている。学徒召集で南方に渡った従弟勉が復員してくる。勉はジャングルを彷徨い、地形に関して少なからず興味をおぼえたようだ。はけの家周辺をよく散策しては強く惹かれる。勉は作者自身を投影させた存在だろうか。大岡も南方(ビルマではなくフィリピンだが)から復員している。また主に渋谷辺りで育った彼にとって、宇田川や渋谷川といった水辺は身近な存在だった。野川流域の河岸段丘に魅力を感じたのはそのせいもあるのではないか。
夏になると戦争の本をよく読む。武蔵小金井駅で帰りの電車を待ちながら、今年は『レイテ戦記』を読んでみようと思った。
2024年4月10日水曜日
今尾恵介『地名の楽しみ』
沓掛(くつかけ)という地名がある。街道の、たとえば峠の入り口や暴れ川の近くなど交通の難所に多いという。旅人はそこで草鞋(沓)を新しくし、履きつぶした草鞋を木に掛けて、その先の安全を祈願したというのがその由来である。
ときどき散歩に出かけるのだが、清水という町がある。かつて井伏鱒二が住んでいた。地名の起こりとなった湧き水のある場所に案内板があり、この辺りが以前、豊多摩郡井荻村沓掛と呼ばれていたことが記されている。古い地図で見ると昭和40年くらいまでたしかに沓掛町という町が存在している。昭和7年に東京市に編入されるまで杉並町と井荻町の境界があったあたりである。
今は住宅地になっており、沓掛町と呼ばれるようになった言われはまったくわからない。土地はほぼ平坦である。町の北側に妙正寺川が流れている。今は護岸が整備されているが、最上流の地域でもあり、川幅は狭い。もしかするとかつては暴れ川だったのかもしれない。古くは街道があって、多くの旅人が行き交ったのだろうか。その面影は皆無である。
地名は面白い。江東区はかつて深川区と城東区が合併した。下町で水路が多くあるので深川と呼ばれる川があったのだろうと思っていたら、そうではなくその辺りを開拓した深川八郎右衛門にちなむという。城東区には砂町がある。見渡す限りの砂地だったのだろう思っていたが、この地も砂村新左衛門という人が開拓したことで砂村と呼ばれるようになり、その後、大正時代の町制施行で砂町になってしまったというのだ。
今、東京で人気の町、恵比寿も恵比寿ビールの工場があり、出荷を担う駅ができ、その後地名も恵比寿になってしまった。それまであった小さな町の名前は消えてしまった。
地名は先人からのメッセージと言われる。古い地名を訪ねる旅は面白い。沓掛という地名は小学校の名前に遺されている。杉並区立沓掛小学校である。古い地名を辿るのに小学校の名前は貴重だ。
ときどき散歩に出かけるのだが、清水という町がある。かつて井伏鱒二が住んでいた。地名の起こりとなった湧き水のある場所に案内板があり、この辺りが以前、豊多摩郡井荻村沓掛と呼ばれていたことが記されている。古い地図で見ると昭和40年くらいまでたしかに沓掛町という町が存在している。昭和7年に東京市に編入されるまで杉並町と井荻町の境界があったあたりである。
今は住宅地になっており、沓掛町と呼ばれるようになった言われはまったくわからない。土地はほぼ平坦である。町の北側に妙正寺川が流れている。今は護岸が整備されているが、最上流の地域でもあり、川幅は狭い。もしかするとかつては暴れ川だったのかもしれない。古くは街道があって、多くの旅人が行き交ったのだろうか。その面影は皆無である。
地名は面白い。江東区はかつて深川区と城東区が合併した。下町で水路が多くあるので深川と呼ばれる川があったのだろうと思っていたら、そうではなくその辺りを開拓した深川八郎右衛門にちなむという。城東区には砂町がある。見渡す限りの砂地だったのだろう思っていたが、この地も砂村新左衛門という人が開拓したことで砂村と呼ばれるようになり、その後、大正時代の町制施行で砂町になってしまったというのだ。
今、東京で人気の町、恵比寿も恵比寿ビールの工場があり、出荷を担う駅ができ、その後地名も恵比寿になってしまった。それまであった小さな町の名前は消えてしまった。
地名は先人からのメッセージと言われる。古い地名を訪ねる旅は面白い。沓掛という地名は小学校の名前に遺されている。杉並区立沓掛小学校である。古い地名を辿るのに小学校の名前は貴重だ。
2024年3月27日水曜日
島田雅彦『散歩哲学──よく歩き、よく考える』
大相撲春場所は昔から「荒れる春場所」として知られている。古くは若浪が平幕優勝した(古すぎるだろう)。冬から春へ、季節の変わり目でもあるこの場所はコンディションづくりが難しいという。
今場所は横綱照ノ富士が不調、先場所綱取りに失敗した霧島も初日から連敗。4人の大関が揃って勝つ日がなかった。そんななか、新入幕で幕尻の尊富士が11連勝。先場所新入幕で優勝争いに絡んだ大の里と大関琴ノ若、豊昇龍が追う展開。新入幕の力士が優勝したのは1914年に遡るという。
14日目、大関経験者朝乃山戦で尊富士は右足を痛める。花道を車椅子で引きあげ、救急車で病院に運ばれた。思いがけないアクシデント。千秋楽の出場が危ぶまれた。本人も相当悩んだ末に土俵に上がる(この辺りはテレビ解説していた伊勢ヶ濱親方が伝える)。今場所好調の豪ノ山を押し倒して見事初優勝を飾った。
辛口解説でお馴染みの伊勢ヶ濱は大の里が敗れたあと、圧力の強さだけでなく、まわしをしっかり取って、自分の型をつくらないとこれから上位に通用しなくなると苦言を呈していた。僕には尊富士をはじめ、自らの弟子たちに立ちはだかるこの大物に送ったよきアドバイスに思えた。
先週だったか、昼間ラジオを聴いていたら、ゲストが島田雅彦で近著のことを話していた。
島田雅彦は学生時代に小説家としてデビューし、その作品は話題になった。残念ながら読んではいない。その後も芥川賞の候補となるような話題作を世に出したらしいがまったく読むことなく40年以上経つ。というわけで島田雅彦は僕にとってはじめましてであり、たとえば十条の斎藤酒場で偶然隣り合わせて、散歩について哲学的な考察を教えていただいた人というわけだ。
これまで下町を中心に町歩きの本は読んでいたけれど、この本は歩くことそのものがテーマになっている。東京や地方に加えて、ヴェネチアなども散策している。
なかなか大きな散歩論であった。
今場所は横綱照ノ富士が不調、先場所綱取りに失敗した霧島も初日から連敗。4人の大関が揃って勝つ日がなかった。そんななか、新入幕で幕尻の尊富士が11連勝。先場所新入幕で優勝争いに絡んだ大の里と大関琴ノ若、豊昇龍が追う展開。新入幕の力士が優勝したのは1914年に遡るという。
14日目、大関経験者朝乃山戦で尊富士は右足を痛める。花道を車椅子で引きあげ、救急車で病院に運ばれた。思いがけないアクシデント。千秋楽の出場が危ぶまれた。本人も相当悩んだ末に土俵に上がる(この辺りはテレビ解説していた伊勢ヶ濱親方が伝える)。今場所好調の豪ノ山を押し倒して見事初優勝を飾った。
辛口解説でお馴染みの伊勢ヶ濱は大の里が敗れたあと、圧力の強さだけでなく、まわしをしっかり取って、自分の型をつくらないとこれから上位に通用しなくなると苦言を呈していた。僕には尊富士をはじめ、自らの弟子たちに立ちはだかるこの大物に送ったよきアドバイスに思えた。
先週だったか、昼間ラジオを聴いていたら、ゲストが島田雅彦で近著のことを話していた。
島田雅彦は学生時代に小説家としてデビューし、その作品は話題になった。残念ながら読んではいない。その後も芥川賞の候補となるような話題作を世に出したらしいがまったく読むことなく40年以上経つ。というわけで島田雅彦は僕にとってはじめましてであり、たとえば十条の斎藤酒場で偶然隣り合わせて、散歩について哲学的な考察を教えていただいた人というわけだ。
これまで下町を中心に町歩きの本は読んでいたけれど、この本は歩くことそのものがテーマになっている。東京や地方に加えて、ヴェネチアなども散策している。
なかなか大きな散歩論であった。
2024年3月3日日曜日
今尾恵介『ふらり珍地名の旅』
このあたりは荏原郡蛇窪村と呼ばれていた。蛇が多く生息する谷間の湿地帯だったのかもしれないし、近くを流れる立会川が護岸工事される以前は蛇行を繰り返し、蛇のようだったのかもしれない。
蛇窪村はその後、上蛇窪、下蛇窪となり、昭和7年、東京市荏原区に編入されるにあたり、上神明町、下神明町と改称される。商業地域や住宅地の開発を見据えて、蛇窪はないだろうと誰か言ったと思われる。さらに昭和16年、上下神明町を南北に分け、北側を豊町、南側を二葉町とした(二葉町は後に二葉となる)。こうして地名がいわれ(歴史や地形的な特徴、言い伝え)を持たない町が生まれた。自由が丘や光が丘のように。
蛇窪の南側にも小さな集落が多くあった。大井伊藤町、大井金子町、大井出石町、大井原町、大井山中町などなど。今は大井、西大井とひと括りにされているが、そのいくつかは小学校の名にとどめている。
今尾恵介の本はこれまで何冊か読んでいる。地名や駅名に関するものだ。いずれも興味深く読了した記憶がある。今尾恵介は地名会のさかなクンだ。勉強したいことを見つけられることはだいじだと思う。教科としての国語算数理科社会ではなく、学びたいものを自分で見つけること。ふりかえって自分の人生のなかで夢中になれるものはあまりなかった。あっても持続しないことばかりだった。いまさら嘆いても仕方ないのであるが。
珍地名といってもどこからが珍なのかは主観的なところだ。この本で知っていた珍地名は東京都江東区海辺と同じく目黒区油面。個人的には足立区の地名に興味がある。六月とか島根とか宮城とか。
実家の近くに東急大井町線の下神明、戸越公園という駅がある。昭和10年まで下神明駅は戸越駅、戸越公園駅は蛇窪駅だった。
2023年12月31日日曜日
青柳いづみこ『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ』
この本の著者も言及しているが、アサガヤは地名で阿佐谷、駅名は阿佐ケ谷と表記される。ややこしいが、一般には阿佐ヶ谷が浸透している。
荻窪駅の北側に住むようになって十数年経つ。意外なくらい阿佐ヶ谷とは無縁の生活をしていた。それまでは映画を観に行くか、渋谷方面にバスで行くためくらいしか阿佐ヶ谷まで歩くことはなかった。ここ何年か、コロナ禍で在宅勤務となり、運動不足を補うために歩くようにした。阿佐ヶ谷駅周辺まで行って帰ると四キロほどのウォーキングになる。主に歩くのは松山通り商店街やスターロードである。歩くというのは退屈な行為であるから、道々にある店の看板を見るなどして過ごす。いろんな店があるものだなと思う。そのうち散歩がてら、気になった蕎麦屋やラーメンの店に行く。知らない町に小さな根が生えてくる。
阿佐ケ谷駅の南側にもときどき足を伸ばす。川端通りという商店街がある。ウォーキングをするようになって、日本大学相撲部の位置も知る。この辺りには花籠部屋もあったという(花籠部屋が今の日大相撲部の場所だったか)。
著者青柳いづみこは青柳瑞穂の孫にあたるらしい。青柳瑞穂の名を知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』だったか。ずいぶん昔にジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』という文庫本を読んだことがある。翻訳したのは青柳瑞穂だったのではないだろうか。いやいや記憶にないとすれば僕が読んだのは岩波文庫版で新潮文庫版ではなかったのではないか。
この本は長女が阿佐谷駅前の、まもなく閉店するという書店に立ち寄って何冊か買ってきたうちの一冊である。ソファの上にほったらかしにされていたので、お先に読ませてもらった。将来、もし仮にであるが、阿佐ヶ谷学なる分野が確立した折には貴重な資料となるに違いない。冗談ではなく、阿佐ヶ谷学はぜひとも確立してもらいたい。ついでに高円寺学、荻窪学、西荻学もできるといい。
荻窪駅の北側に住むようになって十数年経つ。意外なくらい阿佐ヶ谷とは無縁の生活をしていた。それまでは映画を観に行くか、渋谷方面にバスで行くためくらいしか阿佐ヶ谷まで歩くことはなかった。ここ何年か、コロナ禍で在宅勤務となり、運動不足を補うために歩くようにした。阿佐ヶ谷駅周辺まで行って帰ると四キロほどのウォーキングになる。主に歩くのは松山通り商店街やスターロードである。歩くというのは退屈な行為であるから、道々にある店の看板を見るなどして過ごす。いろんな店があるものだなと思う。そのうち散歩がてら、気になった蕎麦屋やラーメンの店に行く。知らない町に小さな根が生えてくる。
阿佐ケ谷駅の南側にもときどき足を伸ばす。川端通りという商店街がある。ウォーキングをするようになって、日本大学相撲部の位置も知る。この辺りには花籠部屋もあったという(花籠部屋が今の日大相撲部の場所だったか)。
著者青柳いづみこは青柳瑞穂の孫にあたるらしい。青柳瑞穂の名を知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』だったか。ずいぶん昔にジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』という文庫本を読んだことがある。翻訳したのは青柳瑞穂だったのではないだろうか。いやいや記憶にないとすれば僕が読んだのは岩波文庫版で新潮文庫版ではなかったのではないか。
この本は長女が阿佐谷駅前の、まもなく閉店するという書店に立ち寄って何冊か買ってきたうちの一冊である。ソファの上にほったらかしにされていたので、お先に読ませてもらった。将来、もし仮にであるが、阿佐ヶ谷学なる分野が確立した折には貴重な資料となるに違いない。冗談ではなく、阿佐ヶ谷学はぜひとも確立してもらいたい。ついでに高円寺学、荻窪学、西荻学もできるといい。
2023年8月20日日曜日
安西水丸『東京ハイキング』
南青山のギャラリー、スペースユイで安西水丸展が開催されていた。以前はクリスマス前とか大型連休明けなど年に何度か行われていたけれど、このところ7月にいちどだけになった。7月は彼の誕生月でもあるしちょうどいいといえばちょうどいい。
今年のテーマは川。個展のタイトルは「The River」だった。安西は安西水丸になる前、電通を辞めてニューヨークに移り住んだ。最初に住んだリバーサイドドライブのアパートはハドソン川に近く、その後イーストリバーに近いアッパーイーストに引越した。1969年のことである。安西の描く川を見て思い出したのはこのふたつ。
安西水丸は何冊か東京散策の本を著している。『青インクの東京地図』『大衆食堂に行こう』『東京美女散歩』などである。東京のあちらこちらをこよなく愛し、歩いている姿が目に浮かぶ。
ふと気づいた。水丸は、兄と五人の姉がいたのにあまりきょうだいのことを語らない。短編集『バードの妹』に登場する男が彼の兄をモデルにしていると誰かに聞いたことがある。五人の姉たちは赤坂の家からどこかに嫁いだに違いない。それぞれの縁のある土地でも訪ねてみてくれたらいいのにと思う。もしかすると東京以外の場所で彼女らは暮らしたのかもしれない。姉たちは東京散策の著作に登場しないが、水丸の叔母(彼の父の一番下の妹)はしばしば登場する。四谷荒木町で三味線の師匠をしていたという。古い著作ではあるが、『青の時代』にも出てきたように記憶する。赤坂に生まれ育った人であれば三味線の嗜みくらいは当然あっただろう。
編集者はあとがきで安西水丸を「生粋の東京人」であると評している。僕は少し違うかなと思う。ものごころついたときから過ごした南房総千倉町こそが彼のふるさとであり、彼にとって東京は憧れの町だったはずだ。それはともかく、訪れた町のイラストレーションに気の利いた俳句が添えられている。なかなか洒落た一冊だ。
今年のテーマは川。個展のタイトルは「The River」だった。安西は安西水丸になる前、電通を辞めてニューヨークに移り住んだ。最初に住んだリバーサイドドライブのアパートはハドソン川に近く、その後イーストリバーに近いアッパーイーストに引越した。1969年のことである。安西の描く川を見て思い出したのはこのふたつ。
安西水丸は何冊か東京散策の本を著している。『青インクの東京地図』『大衆食堂に行こう』『東京美女散歩』などである。東京のあちらこちらをこよなく愛し、歩いている姿が目に浮かぶ。
ふと気づいた。水丸は、兄と五人の姉がいたのにあまりきょうだいのことを語らない。短編集『バードの妹』に登場する男が彼の兄をモデルにしていると誰かに聞いたことがある。五人の姉たちは赤坂の家からどこかに嫁いだに違いない。それぞれの縁のある土地でも訪ねてみてくれたらいいのにと思う。もしかすると東京以外の場所で彼女らは暮らしたのかもしれない。姉たちは東京散策の著作に登場しないが、水丸の叔母(彼の父の一番下の妹)はしばしば登場する。四谷荒木町で三味線の師匠をしていたという。古い著作ではあるが、『青の時代』にも出てきたように記憶する。赤坂に生まれ育った人であれば三味線の嗜みくらいは当然あっただろう。
編集者はあとがきで安西水丸を「生粋の東京人」であると評している。僕は少し違うかなと思う。ものごころついたときから過ごした南房総千倉町こそが彼のふるさとであり、彼にとって東京は憧れの町だったはずだ。それはともかく、訪れた町のイラストレーションに気の利いた俳句が添えられている。なかなか洒落た一冊だ。
2023年7月29日土曜日
藤井 淑禎 『「東京文学散歩」を歩く』
文学散歩ではなく、文学散歩を歩くというタイトルに違和感をおぼえたが、どうやらその昔『東京文学散歩』なる作品があり、その散歩道を辿るという趣旨の本であることがわかる。
日本読書新聞に『新東京文学散歩』を連載していたのは主に文芸誌の編集に携わっていた野田宇太郎。この文学散歩は1951年から70年代まで続けられ、単行本や全集など形を変えながら、長い時間をかけて追加され、推敲されてきたようだ。
そもそも首都東京には各地からさまざまな文学者が集まっている。ゆかりの場所を訪ねればキリがない。それでも人は文学の(映画もそうかもしれない)痕迹を追う。どうでもいい人にはどうでもいい散歩には違いない。けれどどうでもよくない人にはどうでもよくない散歩なのであり、僕にとってもどうでもよくはないのである。
明治以降の東京の文学遺跡はほぼ定番化している。柳橋から浅草、向島、玉の井あたりも本郷界隈も麻布もその地名を聞けば、ああ誰それの旧居跡があるところだねと想像がつく。文士村が各地にあるのも東京の特色かもしれない。
以前、大森や蒲田を歩いたことがある。きっかけになったのは高村薫の『レディージョーカー』である。犯行に関わった薬屋の店主はどのあたりに住んでいたのかなどと頼まれもしないのにさがしたものである。奥田英明の『オリンピックの身代金』も多く歩かせてもらった。大田区六郷の火薬店、本郷界隈、江戸川橋、上野、そして千駄ヶ谷。金町にも行ったことがある。たしか『マークスの山』に金町の病院が登場していた。いつしか定番文学散歩には飽き飽きしていた。
読んだ場所を歩いてみたい、その風景を見てみたい。これは人間が生来的に持つ本能なのではないか。そう思うことがときどきある。
神宮外苑が再開発されるという。そもそも再開発されなければならない地域は負け組である。村上春樹の小説に登場した一角獣もやはり伐採されてしまうのだろうか。
そもそも首都東京には各地からさまざまな文学者が集まっている。ゆかりの場所を訪ねればキリがない。それでも人は文学の(映画もそうかもしれない)痕迹を追う。どうでもいい人にはどうでもいい散歩には違いない。けれどどうでもよくない人にはどうでもよくない散歩なのであり、僕にとってもどうでもよくはないのである。
明治以降の東京の文学遺跡はほぼ定番化している。柳橋から浅草、向島、玉の井あたりも本郷界隈も麻布もその地名を聞けば、ああ誰それの旧居跡があるところだねと想像がつく。文士村が各地にあるのも東京の特色かもしれない。
以前、大森や蒲田を歩いたことがある。きっかけになったのは高村薫の『レディージョーカー』である。犯行に関わった薬屋の店主はどのあたりに住んでいたのかなどと頼まれもしないのにさがしたものである。奥田英明の『オリンピックの身代金』も多く歩かせてもらった。大田区六郷の火薬店、本郷界隈、江戸川橋、上野、そして千駄ヶ谷。金町にも行ったことがある。たしか『マークスの山』に金町の病院が登場していた。いつしか定番文学散歩には飽き飽きしていた。
読んだ場所を歩いてみたい、その風景を見てみたい。これは人間が生来的に持つ本能なのではないか。そう思うことがときどきある。
神宮外苑が再開発されるという。そもそも再開発されなければならない地域は負け組である。村上春樹の小説に登場した一角獣もやはり伐採されてしまうのだろうか。
2023年4月17日月曜日
夏目漱石『道草』
最近、夏目漱石を読んでいるのは、Kindleで無料だったりするからである。
そう遠くない将来、僕は年金生活を余儀なくされる。今のうちから倹約できるところは倹約したいと思っているのである。図書館も最近になって利用するようになった。ウォーキングついでに立ち寄れる図書館が近隣に多い。今までは音楽CDばかり借りていたが、読みたい本があれば検索して、予約するようにしている(これがなかなか順番がまわってこないのである)。もちろん仕事で必要な本は、今のところ資料代として精算できる。資料として読む本は味気ないものが多いが、たまにすごくおもしろいものに出会える。また楽しからずや、である。
先日、無料本のなかに『ジャン・クリストフ』があるのを知った。ロマン・ロランの大長編小説である。大学生になったばかりの頃読んだ記憶がある。翻訳もそのとき同じ豊島与志雄である。たしか岩波文庫だったと思う。年金生活後、読む本としてチェックしておく。
『道草』は漱石の自伝的小説といわれている。そういわれても、漱石の生涯なんて、教科書の日本文学史程度の知識しかない(しかもほぼ忘れている)。
ロンドンから帰った主人公健三は駒込に住む。兄は市谷薬王寺町に、姉は津の守坂に住んでいる。案外近い。四谷から牛込、早稲田あたりは当然のことながら、漱石のテリトリーである。この辺りはよく歩いた。知らず知らずのうちに散策していたのだ。
ただでさえめんどくさい人間である健三は、養父のことや細君の父のことでめんどくさい日々を送る。めんどくさい主人公が登場するのは漱石の小説では決して珍しいことではない。この作品が自伝的小説で健三が漱石であるとするならば、胃をやられてしまうのもさもありなんと思う。
四谷の荒木町や市谷台あたりも昔はよく歩いた。余丁町から西向天神も永井荷風の足跡をたどって歩いたものだ。そうした町並みをなつかしく思い浮かべながら読み終えた。
そう遠くない将来、僕は年金生活を余儀なくされる。今のうちから倹約できるところは倹約したいと思っているのである。図書館も最近になって利用するようになった。ウォーキングついでに立ち寄れる図書館が近隣に多い。今までは音楽CDばかり借りていたが、読みたい本があれば検索して、予約するようにしている(これがなかなか順番がまわってこないのである)。もちろん仕事で必要な本は、今のところ資料代として精算できる。資料として読む本は味気ないものが多いが、たまにすごくおもしろいものに出会える。また楽しからずや、である。
先日、無料本のなかに『ジャン・クリストフ』があるのを知った。ロマン・ロランの大長編小説である。大学生になったばかりの頃読んだ記憶がある。翻訳もそのとき同じ豊島与志雄である。たしか岩波文庫だったと思う。年金生活後、読む本としてチェックしておく。
『道草』は漱石の自伝的小説といわれている。そういわれても、漱石の生涯なんて、教科書の日本文学史程度の知識しかない(しかもほぼ忘れている)。
ロンドンから帰った主人公健三は駒込に住む。兄は市谷薬王寺町に、姉は津の守坂に住んでいる。案外近い。四谷から牛込、早稲田あたりは当然のことながら、漱石のテリトリーである。この辺りはよく歩いた。知らず知らずのうちに散策していたのだ。
ただでさえめんどくさい人間である健三は、養父のことや細君の父のことでめんどくさい日々を送る。めんどくさい主人公が登場するのは漱石の小説では決して珍しいことではない。この作品が自伝的小説で健三が漱石であるとするならば、胃をやられてしまうのもさもありなんと思う。
四谷の荒木町や市谷台あたりも昔はよく歩いた。余丁町から西向天神も永井荷風の足跡をたどって歩いたものだ。そうした町並みをなつかしく思い浮かべながら読み終えた。
2022年12月20日火曜日
夏目漱石『彼岸過迄』
3位決定戦と決勝をテレビ観戦する。サッカーについてはくわしく知らないが、さすがに世界の頂点に近づけば近づくほど、技術面のみならず、メンタルやフィジカルの強さが際立って見える。これが日本代表が見たかった「景色」なのかと思う。もちろんくわしいことは知らない。にわかファンのつぶやきである。
とりわけ決勝戦のアルゼンチン対フランス。さらにあと30分延長しても勝敗はつかなかったのではないかと思えるような試合だった。ワールドカップの決勝戦なのだから歴史に遺る好ゲームであるのは当たり前なのかもしれないが、1秒たりとも目の離せない120分だった。結果的にはPK戦となって、運を味方につけたアルゼンチンが勝利した。こうした素晴らしい歴史を人々の心に刻むためにワールドカップという大会は存在しているのだと思った。
最近少しずつ読むようにしている夏目漱石。主人公が歩く町を思い浮かべながら読む。漱石って東京の人なんだなと思う。『三四郎』の谷中、『それから』の代助が住む神楽坂、『門』の宗助が住む崖下の家はおそらくは雑司ヶ谷だ。
この『彼岸過迄』にもさまざまな地名が登場する。敬太郎の下宿する本郷、須永が住む小川町。田口は内幸町、松本は矢来町に住んでいる。それぞれが車(人力車)、電車(路面電車)で往き来する。もちろん歩いても移動できる距離である。東京は狭かったんだと思う。その昔、東京市は15区からなっていた。その後市域が拡大され、東京35区が誕生する。今の23区と原形になる。
冒頭から登場する敬太郎が主人公かと思いきや、実際は田口市蔵だったりする。どっちが主人公かと思わせるところは漱石がしばしば使う手である。
神田小川町から矢来町へは、靖国通りを歩いて飯田橋に出て、神楽坂を上るんだろうなと想像しながら、神楽坂から榎木町方面に歩いて漱石山房に立ち寄るのもわるくないと思った。
2022年10月30日日曜日
宮台真司、福山哲郎『民主主義が一度もなかった国・日本』
このあいだ杉並区内には3つの川が流れていると書いた。その昔はもっと小さな河川がたくさんあった。そのひとつが桃園川。
桃園川は杉並区天沼の弁天池を源流とし、さらに上流の西側から流れる用水などと合流して東進する。もちろん今は暗渠になっている。流れは弁天池から西南に向かい、JR阿佐ヶ谷駅近くで線路を越える。ちょうどそのあたりから桃園川緑道と呼ばれる遊歩道が整備されている。遊歩道はほぼ東進するかたちで高円寺駅前の先で環状七号線を渡り、しばらくすると中野区に入る。中野区内では中野川と呼ばれていたそうだが、暗渠化されたのが昭和40年くらいのことだから、おぼえている人も少ないに違いない。大久保通りと平行して東進を続け、東中野駅南側の末広橋で神田川と合流する。
先日緑道を歩いてみた。東中野駅から、合流地点をめざし、そこから川上へ遡上した。思ったより蛇行が少ない。渋谷川などもそうだが、都会の川はのびのびしている。
ラジオにときどき出演する宮台真司という社会学者がいる。ちょっと強いことばを選んで、鋭い批判や論評をくり広げる。社会学者、東京都立大教授と紹介されていたが、広範かつ深い知識を持ち合わせているようである。社会学の範疇に留まらない幅広いマトリックスを持っている。それでいてわかりやすい。腑に落ちる。著作も多いようである。読んでみることにする。
この本は民主党が政権交代を果たした2009年に上梓された。同党参議院議員福山哲郎との対談形式。宮台真司の主張はきちん理論武装されていて、わかりやすいが、ときどき難しい。くり返し読んでイメージする。ああ、ここのところ今度ラジオでわかりやすく話してください、とお願いしたいところである。まあ読み慣れていないということもあるだろう。これから少しずつ読んでいって、著者の主義主張を学んでいくしかない。
阿佐ヶ谷駅までたどり着き、いつもの蕎麦屋で鴨せいろを食べた。
桃園川は杉並区天沼の弁天池を源流とし、さらに上流の西側から流れる用水などと合流して東進する。もちろん今は暗渠になっている。流れは弁天池から西南に向かい、JR阿佐ヶ谷駅近くで線路を越える。ちょうどそのあたりから桃園川緑道と呼ばれる遊歩道が整備されている。遊歩道はほぼ東進するかたちで高円寺駅前の先で環状七号線を渡り、しばらくすると中野区に入る。中野区内では中野川と呼ばれていたそうだが、暗渠化されたのが昭和40年くらいのことだから、おぼえている人も少ないに違いない。大久保通りと平行して東進を続け、東中野駅南側の末広橋で神田川と合流する。
先日緑道を歩いてみた。東中野駅から、合流地点をめざし、そこから川上へ遡上した。思ったより蛇行が少ない。渋谷川などもそうだが、都会の川はのびのびしている。
ラジオにときどき出演する宮台真司という社会学者がいる。ちょっと強いことばを選んで、鋭い批判や論評をくり広げる。社会学者、東京都立大教授と紹介されていたが、広範かつ深い知識を持ち合わせているようである。社会学の範疇に留まらない幅広いマトリックスを持っている。それでいてわかりやすい。腑に落ちる。著作も多いようである。読んでみることにする。
この本は民主党が政権交代を果たした2009年に上梓された。同党参議院議員福山哲郎との対談形式。宮台真司の主張はきちん理論武装されていて、わかりやすいが、ときどき難しい。くり返し読んでイメージする。ああ、ここのところ今度ラジオでわかりやすく話してください、とお願いしたいところである。まあ読み慣れていないということもあるだろう。これから少しずつ読んでいって、著者の主義主張を学んでいくしかない。
阿佐ヶ谷駅までたどり着き、いつもの蕎麦屋で鴨せいろを食べた。
2022年9月25日日曜日
壺井栄『二十四の瞳』
妙正寺川は、杉並区の妙正寺公園内の妙正寺池を源としている。新宿区の下落合あたりで神田川と合流する。妙正寺池から下流に向かって1キロほどで中野区になる。ほどなく西武新宿線鷺ノ宮駅にたどり着く。ほぼ東北東に向かって流れていた川はこの辺りから南へと大きく流路を変える。さらに2〜300メートルほど川沿いを行くとオリーブ色に塗られた橋が見えてくる。名前もオリーブ橋という。
全長9.7キロのこの川には90くらいの橋が架かっている。たいていは地名に基づく名前が付けられているので、オリーブ橋というのは奇抜な命名だと思っていた。
調べてみるとどうやらこの橋の近くに壺井栄が住んでいたというのである。オリーブ橋は、小豆島出身の壺井にちなんで名付けられたのだ。橋の南側には中野区立若宮小学校があった。今は統合されて同区立美鳩小学校になっている。若宮小学校は壺井の出身校である小豆島町立苗羽(のうま)小学校と姉妹校の提携を結んでいた。この辺り一帯は壺井栄の町なのである。壺井はそれまで世田谷に住んでいた。隣家の住人は林芙美子だったという。鷺宮に転居したのは1942年。
というわけで『二十四の瞳』を読んでみる。子どもの頃読んだ気もするが、読んでいない気もする。いずれにしてもまったく記憶がない。以前観た木下恵介監督の映画の方が記憶に残っている。主演は高峰秀子、大人になった磯吉を田村高廣が演じていた。映画では大石先生と子どもたちとの(卒業後も含めて)ふれあいの物語が色濃く印象的に描かれているが、原作を読んでみると瀬戸内海べりの寒村にも先の戦争が大きな影響を及ぼしていることがわかる。壺井栄が残しておきたかったのは戦時下の、銃後の日本だったのではないかと思う。
妙正寺川の最初の橋は妙正寺公園の入り口にある落合橋である。ひとつずつ橋の数を数えながら、下流に歩いていくとオリーブ橋は24番目にあたる。おそらく偶然だとは思うが。
全長9.7キロのこの川には90くらいの橋が架かっている。たいていは地名に基づく名前が付けられているので、オリーブ橋というのは奇抜な命名だと思っていた。
調べてみるとどうやらこの橋の近くに壺井栄が住んでいたというのである。オリーブ橋は、小豆島出身の壺井にちなんで名付けられたのだ。橋の南側には中野区立若宮小学校があった。今は統合されて同区立美鳩小学校になっている。若宮小学校は壺井の出身校である小豆島町立苗羽(のうま)小学校と姉妹校の提携を結んでいた。この辺り一帯は壺井栄の町なのである。壺井はそれまで世田谷に住んでいた。隣家の住人は林芙美子だったという。鷺宮に転居したのは1942年。
というわけで『二十四の瞳』を読んでみる。子どもの頃読んだ気もするが、読んでいない気もする。いずれにしてもまったく記憶がない。以前観た木下恵介監督の映画の方が記憶に残っている。主演は高峰秀子、大人になった磯吉を田村高廣が演じていた。映画では大石先生と子どもたちとの(卒業後も含めて)ふれあいの物語が色濃く印象的に描かれているが、原作を読んでみると瀬戸内海べりの寒村にも先の戦争が大きな影響を及ぼしていることがわかる。壺井栄が残しておきたかったのは戦時下の、銃後の日本だったのではないかと思う。
妙正寺川の最初の橋は妙正寺公園の入り口にある落合橋である。ひとつずつ橋の数を数えながら、下流に歩いていくとオリーブ橋は24番目にあたる。おそらく偶然だとは思うが。
2022年6月26日日曜日
山本有三『波』
6月だというのに突然猛暑がやってきた。
昨日、東京都心で35℃を超え、群馬県伊勢崎市では40℃を超えたという.
気象庁によれば気温が25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日、そして35℃を超えると猛暑日というらしい。ここ何年か、35℃を超える日はあったけれど、6月としてはなかった。観測史上初とのことだ。6月からこんなに暑くなっては7月、8月が思いやられる。そんなことを今から思いやってもどうにもならないのだが。
気象庁によれば気温が25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日、そして35℃を超えると猛暑日というらしい。ここ何年か、35℃を超える日はあったけれど、6月としてはなかった。観測史上初とのことだ。6月からこんなに暑くなっては7月、8月が思いやられる。そんなことを今から思いやってもどうにもならないのだが。
暑く、日ざしも強いが、いい天気であるし、風もあるので熱中症にならないように注意しながら、JR三鷹駅南口から玉川上水沿いを散歩してみる。雨が多かったせいもあるだろう、草木がこれでもかというくらいに生い茂っている。水面はほとんど見ることができない。
しばらく歩くと三鷹市山本有三記念館がある。昭和の初期に山本有三が住んでいた洋風建築の建物である。『路傍の石』もここで執筆されたという。足もとにある小石をじっと見つめてみたりする。この建物は戦後、進駐軍に接収され、山本はやむなく転居。接収解除後は国立国語研究所三鷹分室として利用されていた。
『路傍の石』を読んだとき、突然の、あっけない幕切れにちょっとした物足りなさを感じて、別の作品を読もうと思った。他に思い浮かぶのは『真実一路』だが、まずは『波』を読んでみる。小学校教諭である主人公は吾一の担任を思わせる。昔の教師は勉強を教える存在以上に子どもやその親だけでなく、地域の悩みに向き合っていたのではないだろうか。今も昔も教師という職業はたいへんだったのだ。
記念館を出て、玉川上水沿いを進む。上水は井の頭公園を横切って、久我山、高井戸方面に向かう。そのまま流れに沿って歩くと長女が通っていた高校の前に出る。が、しかし暑い。進路を左にとり、JR吉祥寺駅をめざす。動物園の前を通り、昼間から営業している焼鳥屋のにおいをかぎながら、猛暑の散歩を終えた。
2022年4月23日土曜日
太宰治『ヴィヨンの妻』
先月、三鷹を訪ねた。
太宰治ゆかりの跨線橋を渡って、国鉄武蔵野競技場線廃線跡を歩いたのである。三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶこの路線は、中島飛行機武蔵工場の引込線を利用して1951年に開業した。電化単線、全長3.2キロ。中央線の支線だった。
その年、武蔵野グリーンパーク野球場が終点武蔵野競技場前駅近くに完成した。当時、首都圏で開催されるプロ野球の試合のほとんどは後楽園球場を利用していた。明治神宮野野球場は進駐軍に接収されていたため、前年から2リーグ制がはじまったにもかかわらず、球場不足は否めなかったのである。そこで建設されたのが武蔵野グリーンパーク野球場だった。グリーンパークという名前はこのあたりを接収していた米軍がそう呼んでいたことによるらしい。
5万人を収容できる本格的な球場だったが、都心から離れていたことや突貫工事のため芝の育成が不十分だったこともあり、砂塵に悩まされるといった問題もあった。そしてその翌年には神宮球場の接収が解除され、都心に近い川崎球場、駒沢球場ができたことで武蔵野グリーンパーク野球場は51年にプロ野球16試合が行われただけで翌年には武蔵野競技場線も休止。野球場は56年に解体され、鉄道路線は59年に廃止された。
太宰の跨線橋を渡って駅の北側に出ると、線路があったと思われる曲線部が公園になっている。さらに進んで玉川上水を越えるぎんなん橋にはレールが埋め込まれている。かつての国鉄飯田町駅があった飯田橋アイガーデンテラスでも見たことがある。失われた鉄路のモニュメントが遺されるのはいいことだ。戦後間もない頃の野球少年の夢を乗せた電車が(あまりにも短い期間ではあったが)通り過ぎていったのだなどと思いながら野球場跡地まで歩いた。
新潮文庫『ヴィヨンの妻』を読む。昔読んだことはすっかり忘れている。太宰の、死と向き合う小説より、生を生きる活力ある小説が好きだ。
2022年4月7日木曜日
太宰治『人間失格』
太宰治を読んでいたのは20歳代だったと思う。消え去った記憶を呼び起こすべく、少しずつ読みなおしている。
JR中央線三鷹駅の西側に朽ちかかった跨線橋がある。朽ち果てているのならともかく、朽ちかかっているというのは見た目にはわかりにくいが、ともかく安全上の観点から補強するか撤去しなければならないらしい。最近はレールの付け替えなどの大工事を深夜に行うこともあれば、土日に列車の運行を止めて作業することもある。鉄道の運行を止めて撤去するとなると大がかりである。どおりで撤去・解体が報道されて以降、具体的な日程は明らかにされていない。
この話がどうして新聞記事になったかというと、この跨線橋が太宰治のお気に入りの場所であったからだ。三鷹市は太宰治とゆかりのある跨線橋を改修して維持できないかと考えていたし、管轄するJR東日本は三鷹市に譲渡するという提案をしていたそうだ。話し合いやさまざまな試算が行われた結果が撤去・解体である。こういった点でも太宰治は面倒くさい人物である。
太宰はこの陸橋のどこが気に入ったのだろう。西側にある電車基地に向かって鉄路が広がっていくその風景を好んだのか、北口側に気に入った小料理屋でも、気前よく金を貸してくれる篤志家でもいたのか(太宰は線路の南側に住んでいたはず)。
先日、せっかくだからこの橋を渡ってみようと思い立ち、三鷹を訪ねた。以前写真で見たよりも所々に補強がなされていて、多少の地震くらいだったびくともしないのでないかと思われるが、古いことは古い。老朽化しているかどうかと訊かれたら僕だってノーと言えない日本人である。
そんなこともあって、『人間失格』を読んでみる。はじめて読んだときとまったく変わることなく、破滅的である。まあ、それはそれでいいのである、今の世の中は。だめなやつはだめなやつの人生があり、破滅的な生き方だってある。たいせつなのは多様性を認め合うことなのだ。
2022年3月29日火曜日
夏目漱石『門』(再読)
それもそのはず。桜はあっという間に満開になっている。
今年に限ったことでなく、3月はあわただしい季節である。
新宿の落合に大叔父が住んでいた。祖父の弟にあたる。今は父のいとこが住んでいる。その昔書いていたメモによると、30年前の3月29日に訪ねている。産まれて4カ月の長女を連れていったと記されている。大叔父が感慨深そうに80まで生きたのだからもうじゅうぶん生きたと話していたことも。
大叔父は落合に住む前は根津や駒込西片町に住んでいたと聞いている。
はじめて読んだ本だと思っていたら、すでに読んでいたということがたまにある。夏目漱石の『門』は再読だった。しかも過去にこのブログに書き留めている。10年ちょっと前のことだ。
先日『それから』を読んで、主人公が住む町やその行動範囲を追いかけるといい散歩のコースになるのではないかと思った。牛込神楽坂から富坂上の伝通院あたりである。
さて、この本の主人公宗助はどこに住んでいるのか。山の手の奥であるとか、電車の終点から20分歩くなどとヒントは出ている。そして崖下に住んでいる。崖の上には大家の住まいがある。はじめのうちは根津あたりではないかと思っていたが、想像するに今の豊島区雑司ヶ谷ではないだろうか。雑司ヶ谷といっても鬼子母神の方ではなく、護国寺に近く、文京区の目白台と隣接するあたり。崖下の道は弦巻通りと呼ばれている。かつて川が流れていたのかもしれない。
弦巻通りから北側、つまり崖上をながめると小津安二郎監督「東京暮色」の舞台になった坂道が見える。笠智衆や原節子、有馬稲子が上り下りをくり返していた。ずいぶん以前のこのあたりを散策した記憶がある。都電の鬼子母神前から東京メトロの護国寺駅まで歩いた。その坂道をさがして歩いたのか、歩いていたら偶然見つかったのか。今となってははっきりしない。
2022年3月6日日曜日
夏目漱石『それから』
以前、早稲田鶴巻町に住んだことがある。近くに夏目坂、漱石公園など漱石ゆかりの地が多くあった。
たいして読んでいなかった夏目漱石を最近読んでいる。早稲田界隈が舞台かというと案外そうでもない。かといって特別な地名が出てくるわけでもない。東京に住んでいる人ならたいてい知っている町でストーリーは進展する。
いい歳をしてこの本をはじめて読む。主人公の代助は牛込(神楽坂)に住んでいる。実家は青山にあり、父と兄夫婦が暮らしている。大阪から戻った友人の平岡夫婦は小石川に住まいを見つける。
実家に行く代助は牛込から電車に乗る。おそらく今の飯田橋駅辺りだろう。平岡の妻、三千代に会うときは江戸川沿い、大曲の辺りから春日の坂道を上っていく。平岡の家は伝通院の近くにある。歩いて行けない距離ではない。もちろん当時のことだから、電車以外にも車という手立てがある。車というのは人力車で、電車というのは路面電車だ。
読みすすむと話はだんだん込み入ってくる。代助と三千代、代助と平岡、そして代助と父。徐々に結末に向かっていくのだけれども、代助の移動ばかりが読んでいて気になって仕方ない。とりわけ牛込から小石川へ、代助はどんな道を歩いていったのか。
四十数年前、九段にある高校に通っていた頃。練習試合で伝通院近くの都立高校まで行くことになった。最寄駅は東京メトロ丸の内線の茗荷谷駅か都営地下鉄三田線(当時は都営6号線と呼ばれていたと思う)の春日駅である。飯田橋から国電で隣駅の水道橋まで出て、都営地下鉄に乗り換えた。春日駅は本郷台地と小石川台地の谷にある。富坂というだらだら長い坂道を歩いてめざしていた高校にたどり着いた。駅からは15分くらいだったと思う。
当時もし漱石のこの作品を読んでいたら、おそらく大曲から安藤坂を上って行ったかもしれない。それはともかくとして漱石の描く東京を散歩してみるのって楽しいかもしれない。
たいして読んでいなかった夏目漱石を最近読んでいる。早稲田界隈が舞台かというと案外そうでもない。かといって特別な地名が出てくるわけでもない。東京に住んでいる人ならたいてい知っている町でストーリーは進展する。
いい歳をしてこの本をはじめて読む。主人公の代助は牛込(神楽坂)に住んでいる。実家は青山にあり、父と兄夫婦が暮らしている。大阪から戻った友人の平岡夫婦は小石川に住まいを見つける。
実家に行く代助は牛込から電車に乗る。おそらく今の飯田橋駅辺りだろう。平岡の妻、三千代に会うときは江戸川沿い、大曲の辺りから春日の坂道を上っていく。平岡の家は伝通院の近くにある。歩いて行けない距離ではない。もちろん当時のことだから、電車以外にも車という手立てがある。車というのは人力車で、電車というのは路面電車だ。
読みすすむと話はだんだん込み入ってくる。代助と三千代、代助と平岡、そして代助と父。徐々に結末に向かっていくのだけれども、代助の移動ばかりが読んでいて気になって仕方ない。とりわけ牛込から小石川へ、代助はどんな道を歩いていったのか。
四十数年前、九段にある高校に通っていた頃。練習試合で伝通院近くの都立高校まで行くことになった。最寄駅は東京メトロ丸の内線の茗荷谷駅か都営地下鉄三田線(当時は都営6号線と呼ばれていたと思う)の春日駅である。飯田橋から国電で隣駅の水道橋まで出て、都営地下鉄に乗り換えた。春日駅は本郷台地と小石川台地の谷にある。富坂というだらだら長い坂道を歩いてめざしていた高校にたどり着いた。駅からは15分くらいだったと思う。
当時もし漱石のこの作品を読んでいたら、おそらく大曲から安藤坂を上って行ったかもしれない。それはともかくとして漱石の描く東京を散歩してみるのって楽しいかもしれない。
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