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2022年7月4日月曜日

太宰治『走れメロス』

太宰治というと没した場所である三鷹が注目を浴びることが多い。
たしかにJR三鷹駅を降りると記念碑がいくつかあり、太宰治文学サロンなる施設もある。少し歩くが禅林寺には墓もある。町ぐるみで太宰治ゆかりの地を演出している。1964年に創設された太宰治賞もしばらくの中断の後、1978年に筑摩書房と三鷹市の共同主催で復活している。受賞者は毎年、三鷹市にあるゆかりの地を見学すると聞いたことがある。
先日、太宰治が住んでいた荻窪界隈を歩いてみた。よく知られているのが碧雲荘という下宿。遺された記念碑には「富嶽百景」の一文が引用されている。この短編が書かれた時期は昭和14年くらいとされているが、3年前の明け方、下宿の便所の窓から見た富士が忘れらないと記されている。
碧雲荘が取り壊される直前、最後にひと目見ようと荻窪の駅から歩けば10分くらいかかる不便な一角に多くの人が集まった。僕もコンパクトデジタルカメラで写真を撮った。写真を撮ったはいいものの、その写真が行方知れずとなっていた。こういうときの通例としてさがしものは見つからない。どんなカメラで撮ったのか、記憶メディアはコンパクトフラッシュなのかSDカードなのか、まったく記憶がない。わずか6年ほど前のことなのに。
そうだ。たしか2015~16年あたりだ、報道されたのは。
というわけで、散らかりっぱなしの記憶メディアをかき集めて、写真の捜索をはじめる。もちろんこういうときの通例としてさがしものはおいそれとはあらわれない。年代的に該当しそうなフォルダやデータをさがしてみたが見つからない。撮ったつもりになっているのかもしれない。
ふだんあまり使っていないクラウドサービスに昔の写真を保存している。念のためのぞいてみたら、あった。ご丁寧に詳細データまで付いている。カメラはキヤノンのコンパクトデジタル。撮影日は2008年1月22日であった。
人の記憶はあてにならない。

2017年11月6日月曜日

吉田凞生編『中原中也詩集』

出かけるときはカメラを持ち歩く。
町歩きのメインのカメラはパナソニックのLUMIX GX-1というちょっと古いマイクロフォーサーズ。このボディにニコンの20mmやフォクトレンダーの17.5mmか25mmを付けて出かける。野球を観るときはカール・ツァイスの85mm。マイクロフォーサーズだと160mm(35mm換算)の望遠になる。
荷物を多くしたくない旅行や外出用にペンタックスQという小さなミラーレスカメラも持っている。小さいだけのカメラで飛び抜けて素晴らしい写真が撮れるわけではない(もちろん撮影者の技術にも問題があろう)。ペンタックスQシリーズはQ7とかQ10など新しい機種が次々に登場したが、マグネシウム合金でその筐体を仕上げた初代Qは格別に持ち味がいい。
ペンタックスQには標準ズームレンズを付けて出かけることが多い。他の選択肢が少ないからだ。Dマウントレンズという昔の8mmカメラで使われていたレンズをマウントアダプターを介して使うこともある。中古カメラのショップで5.5mmというオールドレンズを手に入れた。35mm換算にして30mm。イメージサークルの関係で四隅はケラれるけれどまずますのワイドレンズである。
読んだけれどブログに残さなかった本が幾冊もある。
読み終わって何年も経つとなんでこれを読んだのか、そのとき何を考えていたのかなど思い出せない。この詩集もそのひとつ。少しだけ思い出せるのはその頃の通勤途中、耳さびしくなり、何か聴きたいと思って、図書館で借りたCDを(もちろん個人で楽しむために)録音し、仕事の行き帰りにゆわーんゆわーんと聴いていたことだ。
言葉を耳で聴くというのはいいものだ。言葉が「ことば」になる。そのうちもの足りなくなって詩集を読むことにした。
どの詩を読んでも切ない気持ちになるのはどうしてだろう。
まるでオールドレンズで撮ったみたいな風景が眼前にひろがるのだ。

2013年4月25日木曜日

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』


デジタルカメラはこれまで2台買っていた。
最初は仕事でテキサスに行くのに簡単に撮れるデジタルカメラが欲しいと思って、キヤノンのパワーショットS10という今にしてみるとかなりごっついカメラを買った。2000年頃の話。ズームは35ミリ換算で35-70と比較的穏便な仕様。ワイド端が物足りないといえば物足りない。ニコンの一眼に24ミリを付けていた頃と比べるとあまりに物足りなかった。ちなみに24ミリだとたとえば東京ディズニーランドでミッキー、ミニーに子どもたちが群がって記念写真を撮るときに他の親たちよりももう一歩前に出られるのだ。子どもたちが小さい頃、僕の後頭部はずいぶん多くのカメラにおさまったにちがいない。
2台めのデジカメはやはりキヤノンのIXY DIGITAL 900ISだった。ワイド端28ミリのデジカメは当時それほど多くなかったので、案外迷うこともなく決めた。これは今でも現役で町歩きの友である。
デジカメは消耗品だ。フィルムで撮るときのような緊張感もない。そんな気楽に使えるデジカメを、特にこだわることもなくしばらく使いつづけていた。ところが昨年、尊敬するクリエーティブディレクターKさんの持っていたオリンパスのミラーレス一眼を見て、俄然欲しくなってしまった。そのカメラはオリンパスのペンミニだった。何が気に入ったかというとアクセサリーシューに付いていたファインダーだ。モータードライブやレンズフードなど、実を言うと機械に付けるアクセサリーに僕はめっぽう弱いのだ。ペンミニが欲しいということは、あのファインダーを付けたいということなのだ。
先に記したことだが、「蛍」をもういちど読んでみようと思った。『ノルウェイの森』は「蛍」の延長上にある作品だが、その原点にある短編をもういちど。で、結局一冊まるまる再読してしまったというわけだ。
ただでさえ、儚くみずみずしい長編の原型は旧ザクのように多少の荒っぽさを残しながら、それはそれで味わい深い。
ペンミニ+ファインダーは魅力だが、Kさんとまったく同じカメラを持つっていうのもちょっと癪に障る。どうしようかと頭の中をミラーレス一眼のかけめぐる日々がはじまった。

2013年4月21日日曜日

村上春樹『ノルウェイの森』


家にキヤノンデミというハーフサイズのカメラがあった。
ハーフサイズなんてのももう死語かもしれない。35ミリのフィルム1コマぶんを半分にして撮影するエコノミーな規格のカメラだ。36枚撮りのフィルムで72枚撮影できる。もちろん紙焼きの量も値段も倍になる。
子どもの頃はそのカメラを手に大井町の東海道本線に架かる歩道橋の上や品鶴線という貨物線の沿道で列車を撮っていた。それも小学生までの話。中学、高校あたりになるとそろそろ一眼レフが普及しはじめてきた。簡単なカメラでは恰好がつかなくなってきた。カメラを手にすることはなくなった。
20代の半ばを過ぎて、テレビコマーシャルの制作会社に入って、ふたたびカメラを手にすることになる。もちろん、カメラマンとしてではない。CMもその当時は35ミリ、ないしは16ミリのフィルムをまわしていた。露出であるとか、画角であるとか、カメラの知識が皆無では太刀打ちできないのだ。そんなわけでニコンのFM2という一眼レフを購入した。レンズは会社に何本かあったので、とりあえず50ミリを買った。当然中古である。
以来、基礎教養としてのカメラいじりが、85ミリ、35ミリ、135ミリ、28ミリ、24ミリ…、とレンズを買い足すごとにたちの悪いに趣味になっていく。それも子どもが小さいうちまで。そもそもレンズを何本も持って移動することがつらくなってきたのだ。仕事でカメラを持っていってもフィルムは入れない。画角を見るだけ。
『ノルウェイの森』はもう何度読みかえしたことだろう。
たしかに村上春樹の本流の小説ではないけれど、今でも多くの読者を惹きつけてはなさない不思議な魅力を持った長編だ。今回は『蛍・納屋を焼く・その他の短編』でそのプロトタイプとして書かれた「蛍」と読みくらべてみようと思い立って、またページを開いてみた。
子どもたちが大きくなってからはもっぱらコンデジ(コンパクトデジタルカメラ)でカバンのポケットにいつも入れていた。旅行にでも行かない限り、写真はさほど撮らなくなった。
カメラの話はまた後日ということで。