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2024年7月7日日曜日

大川豊『大川総裁の福祉論!』

8050問題が取り沙汰されている。
引きこもりなど問題を持った子どもが50歳になったとき、親は80歳。高齢になった両親はいつまで子どもの支援をしなければならないのだろうか。もし子どもに知的身体的その他の障がいがあったとしたら事態はますます深刻だ。
障がいを持つ子どもに対しては支援する制度が発達段階に応じて整備されているが、特別支援学校卒業後の就労支援はとりわけ重要だ。福祉的就労には就労継続支援A型と就労継続支援B型がある。一般社会への参加のため高度な訓練が必要なA型は企業の福祉枠に就き、雇用契約を結ぶ。当然、給与も支払われる。それに対しB型は雇用契約を結べない。あくまで自立のための訓練であり、給与ではなく工賃をもらう。工賃は作業内容にもよるが、月額1万数千円。これに障がい者年金を加えたところで彼らはどうやって生きていけばいいのか。
著者大川豊が取材した先の福祉施設や就労支援を行う企業、団体の人たちが口を揃えて言うのは障がい者をどうやって自立させるかである。より具体的に自立を促すのは社会参加=就労だろう。描いた絵をレンタルする。布を織って、それを加工してもらい商品化する。知的障がい者のなかには創造的な活動を得意とするものが多い。健常者にはできない発想や色づかいがあるという。
最後に登場するQUONチョコレートなどは画期的と言っていい。もともとはパン製造や印刷事業からスタートした経営者がショコラティエと知り合い、チョコレートの製造販売にシフトしていった。チョコレートはパンのような複雑な工程はなく、リスクも少ない。それでいて高価格。製造工程をいくつかに分け、単純な作業にして障がい者に担当させる。材料を切り刻んだり、石臼で茶葉を挽いたり、梱包用の箱をつくったり。一人ひとりの個性に合わせた仕事を見つける。できることをできる人に任せるのだ。
未来を明るく照らす仕事場がこの国にはまだある。

2022年4月26日火曜日

下坂厚 下坂佳子『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』

厚生労働省の動画に「希望の道」というシリーズがある。認知症の当時者を取材した動画である。
昨年アップロードされた動画で京都在住の下坂厚という人を知った。46歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症と診断されたという。若年性というのは65歳未満で発症した際に用いられる。それにしても46歳というのは若すぎる。動画のなかで新しい仕事を起ち上げたばかりの下坂は目の前が真っ暗になったと診断当時をふりかえっている。
若年性認知症当事者としては仙台の丹野智文が知られている。丹野はさらに若い39歳のときアルツハイマー型認知症と診断された。勤務先の理解や家族の協力、そして本人の明るさと工夫によって認知症当事者であっても自分らしく前を向いている。講演活動などを通じて認知症の理解を訴えている。
下坂も丹野に出会い、認知症とともに生きる社会をつくる方向に自らの気持ちをシフトさせたひとりに違いない。丹野のような社交性や持ち前の明るさを持っているわけではないが、若い頃から好きだった写真撮影を通して、日々の気持ちを記録し、広く伝えている。
そういえば、今年も新たに認知症普及啓発の動画が何本かアップロードされていたが、それらの動画には本人のインタビューに加え、家族や支援者(パートナー)の声も収録されていた。パートナーは主に自治体や社会福祉協議会の担当者であったり、福祉施設のケアマネージャー、雇用主、親友などさまざまである。当事者と日々接している理解者の話には説得力があり、当事者ひとりのインタビューでは見えにくい部分にも光を差し込んでくれる。
この本は当事者下坂厚の声だけでなく、パートナーのまなざしも織りまぜられた構成になっている。下坂がパートナーに支えられる一方で、家庭や職場、そして社会を支えている姿が見てとれる。短い動画やネットの記事だけではわからない下坂厚を浮き彫りにしようという意思と意図が見てとれる。

2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

2021年10月29日金曜日

筧裕介『認知症世界の歩き方』

ソーシャルデザインとは、人間の持つ「創造」の力で、社会が抱える複雑な課題の解決に挑む活動である。コマーシャルではなく、ソーシャル。商売のためではなく社会のためのデザインであると先日読んだ『ソーシャルデザイン実践ガイド』に書いてあった。著者筧裕介はソーシャルデザインを、社会が抱える課題の森をつくり、整理して突破口を見つけ、解決に必要な道を拓く活動としている。そしてその旅の工程は、森を知る、声を聞く、地図を描く、立地を選ぶ、仲間をつくる、道を構想する、道をつくるという7つのステップで構成されるという。
著者が認知症と高齢社会という社会課題に対して試みたソーシャルデザインが『認知症世界の歩き方』である。
認知症にはアルツハイマー型、脳血管性、レビー小体型、前頭側頭型などさまざまな種類があり、その症状も人それぞれ。時間や場所がわからなくなる人もいる。人の顔をおぼえられない人もいる。幻視幻聴に悩まされる人もいる。この本では数多くの当事者を取材し、その声を汲み上げ、認知症本人にしかわからない世界を地図を描くことで、道をつくることで誰にでも理解しやすいようにデザインしている。
認知症になると何もわからなくなる、何もできなくなる、そして最後は寝たきりになってしまうといった誤解や偏見が蔓延している。もちろん症状によってできなくなることはあるけれど、できることをできないことにしてしまったり、役割を取り上げるなどして症状を進行させてしまう周囲にも問題がある。
認知症を正しく理解してもらうために多くの当事者が声を上げている。認知症カフェや講演会などが全国各地で行われている。地道な努力の積み重ねが成果を見せている一方で、多くの人びとにひと目でわかる認知症世界の正しい世界を示すソーシャルデザインの仕事に希望を感じている。
巻頭に認知症世界の地図が描かれている。瞬時にソーシャルデザインの素晴らしさを確信した。

2021年10月13日水曜日

丹野智文『認知症の私から見える社会』

ついに横綱白鵬が引退の時を迎えた。
入幕したばかりの頃の白鵬をおぼえている。無駄も無理もないしなやか取り口でいずれは名力士になるであろう予感を持った。少年時代に卵焼きと読売巨人軍と並び称される国民的横綱大鵬がいた。若かりし頃の大鵬は知らないが、おそらく大鵬は白鵬のような柔軟な相撲を取っていたのではないかと想像した。
大鵬も白鵬も若くして頂点を極めた力士である。世間の風あたりも強かっただろう。横綱の地位は相撲の強さ以上の強さが求められる。その点、朝青龍も日馬富士も土俵の外で弱かった。横綱という地位はやはりたいへんなのだ。
白鵬は相撲を格闘技ととらえていた。もちろん相撲は格闘技ではあるのだけれど、神事であり、武道である。そのことを忘れて勝ち負けにこだわった相撲人生だった。彼の残した数々の記録がかすんで見える大相撲ファンは僕ひとりではないはずだ。
丹野智文は若くしてアルツハイマー型認知症と診断された。39歳のときだった。若さゆえに当時の絶望感もひとしおだったに違いない。もちろん今だって絶望感に襲われることがあるだろう。それでも彼は多くの認知症当事者に発信を続けている。当事者が暮らしやすい社会に向けて声を発している。自らの経験から得たアイデアを広く伝えている。
忘れることに備える工夫や予定を間違えない工夫、置き忘れをなくす工夫・物をなくさない工夫など、その工夫の数々が素晴らしい。タブレットやスマートフォンを積極的に活用していることも若い当事者ならではだ(高齢者には少しハードルが高いかもしれないけれど)。そしてこの本を執筆する際にもスマートフォンのメモアプリや読み上げ機能を活用したという。
丹野智文の文章や語り口には持ち前の明るさ、素直さが感じられる。そのせいもあって彼は、彼を支援してくれる人びとに恵まれている。
これからも多くの当事者の希望の星になってもらいたいと思う。

2021年9月19日日曜日

丹野智文『丹野智文笑顔で生きるー認知症とともにー』

2020年1月。厚生労働省の認知症普及啓発の取り組みとして、認知症になっても希望を持ち、前を向いて暮らしている姿を全国に発信する認知症当事者「希望大使」の任命がはじまった。選ばれた5人のなかでいちばん若い丹野智文は当時46歳。認知症と診断されたのは39歳のときだった。
昨年来、認知症普及啓発の動画制作を手伝っている。その準備のリモート打合せで著者とは何度か同席している(直接会ったことはない)。この人のどこが認知症なのだろう(そういう見方もやはり認知症に対する正しい理解ではないかもしれないが)と思えるくらい、前向きで明るい人である。時間や空間の見当識障害はさほどなく、人の顔と名前がおぼえられないらしい。認知症と診断されたあと、学生時代の部活の仲間で集まったという。帰り際にこんど会ったときには顔を忘れてるけどごめんねと声をかけた。すると仲間たちから君はおぼえてなくても僕たちはおぼえているからだいじょうぶ、と言われたという。
認知症と診断されたときに職場の社長や上司が理解を示してくれた。営業職は難しいから内勤で仕事を用意してくれたという。営業マンとしての丹野は自分も好きなクルマをどう売ろうかと創意工夫を重ねた。それは彼の生きがいでもあった。若年性アルツハイマーの方で仕事を失った人も多いと聞く。そういった点でも丹野智文はいい職場環境と人間関係を持っていた。もちろんそれは彼の持ち前の明るさ、人なつっこさによるかもしれない。それはこの本を読むとよくわかる。
しかしながら生来前向きの著者も苦しいこと辛いことは山ほどあった。それもこの本読んではじめて知った。そして苦しく辛い日々を乗り越えて、いまの丹野智文がいる。彼に励まされ、力を与えられた認知症当事者は数えきれない。まさに「希望大使」を地で行く存在である。
毎年9月は世界アルツハイマー月間。そして21日は世界アルツハイマーデーである。

2021年9月17日金曜日

藤田和子『認知症になってもだいじょうぶ!そんな社会を創っていこうよ』

5月だった、吉岡以介に戸越銀座で会ったのは。
昨年大井町での邂逅もそうだったが、先月五反田で声をかけられたのはびっくりした。おにやんまでうどんを食べ、店を出たところでばったり出くわした。母親が戸越の特別養護老人ホームに入所していることは聞いていた。
母親が熱を出し、大井町の病院に入院していたという。肺炎らしい。2週間ほどで症状は落ち着いて、退院した。病院から施設に送り届けた帰りにうどんを食べたくなったそうだ。
以介がいう。脳疾患で入院して半身が不自由になり、認知機能も低下してきた。人との、社会との接点を失った。俺はその、いちばんだいじなところに気がつかなかった。リハビリすれば少しは回復して、元どおりとはいわないまでも生きるすべが見つかると思っていた。そうじゃないんだ、おふくろにいちばん必要だったのは「役割」だったんだ。こんな姿の自分を人さまには見せたくないと彼女は思うだろう、だから誰にも面会させなかった。そうじゃなかったと今思う。
以介はおにやんまの前で、さほど親しくもない僕の前で泣いた。
若年性アルツハイマー型認知症と診断された著者はもともと前向きな人だったのだろう、PTAの役員として人権教育推進にたずさわってもいた。こうした背景があって、認知症当事者(認知症本人を患者とは呼ばない)として、多くの当事者に声をかけ、仲間を集め、組織をつくり、その声を社会のすみずみに届けようとしている。認知症に対する偏見や誤解をなくし、当事者がよりよい人生を自分らしく生きられるようにと。
巻末第6章にはパートナーたちの言葉が寄せられている。医師、看護や介護、当事者としての活動をサポートする人、そして家族。当事者と彼ら、彼女らは支援される支援する関係ではなく、対等な関係で認知症本人もそうでない人も住みよい社会をつくっていくために活動するパートナーなのだというのが著者の考え方だ。
素敵なことではないか。

2021年9月1日水曜日

長谷川和夫『よくわかる認知症の教科書』

人の名前が思い出せない。
こうしたことが最近頻繁に起こる。認知症かと疑うが、以前読んだ本に「思い出せない」のはただの老化であり、認知症というのは「おぼえられない」のだと書いてあった。その本の題名は思い出せない。
テレビドラマを視ていて俳優の名前が出てこないことがある。誰それと結婚した某だなど、少しでもヒントがあれば今は便利な世の中で検索すれば出てくる。だがしかし、検索に頼ってばかりいるとそのうち何もかもが思い出せなくなりそうで少し怖くなる。
先日も今読んでいる本の著者の名前が思い出せなくなった。苗字はわかる。浅田である。下の名前が思い出せない。作品は思い出せる『鉄道員(ぽっぽや)』『地下鉄(メトロ)に乗って』の著者である。とっさに浮かぶのは彰(あきら)である。どうしたわけか昔読んで難解さしか残らなかった『構造と力』の著者が思い浮かぶ。
アキラではないが、三文字名前であることには妙に確信が持てる。特にすることもなかったのでアイウエオ順に思いつくだけの三文字名前を思い浮かべることにした。アサト、アツオ、アツシ…、イ…、ウ(これは思い浮かばない)…、エイジ、エイタ…。そうこうするうちにサ行。サトシ、サトル、サキト…、シゲル、シゲオ、シゲキ…。ここでようやく思い出す。そうだジロウだと。番号カギをいじって自転車を盗むような作業だったが、ものの15分で思い出すことができた。
先日読んだ長谷川和夫の本。だいたいこの一冊で認知症に関する基礎知識は得られる。認知症とは何か、から診断のプロセス、薬物療法、非薬物療法といった治療方法(薬の種類やさまざまなリハビリテーションまで)、予防やケアの方法に至るまで懇切丁寧に解説されている。認知症は現時点で根治不可能な病ではあるけれど、つまり全貌は詳らかにされてはいないけれど、今わかっていることがわかりやすく解き明かされている。
まさによくわかる教科書である。

2021年8月27日金曜日

長谷川和夫『ボクはやっと認知症のことがわかった』

認知症の本ばかり読んでいる。
長谷川和夫という名前を知る。この本の著者である。認知症世界のレジェンドである。
杉並の高井戸に浴風会という戦前からある高齢者養護の施設がある。その敷地内に認知症介護研究・研修東京センターがあり、認知症介護の研究と介護の専門家の育成を行っている。長谷川は2005〜09年までセンター長だった(05年当時は高齢者痴呆介護研究・研修センターと呼ばれていた)。現在は名誉センター長であり、長谷川式認知症スケールと呼ばれる簡易的な知能検査を考案者としても知られている。
長年認知症の研究と臨床にたずさわってきた長谷川が認知症と診断される。この本は認知症当事者になった認知症研究者の貴重な記録だ。
多くの認知症当事者と向き合ってきた長谷川は自らが当事者になったことを悲観することなく、むしろ前向きに受け容れる。身をもって認知症を理解することができるというのである。専門家であり、当事者でもある。その強みを活かして、認知症理解の普及啓発に取り組む。
昨年とある認知症当事者の話を聞いたことを思い出した。鳥取に住むその女性は、看護師として医療現場で認知症当事者と多く接してきたという。診断された直後はこれからのことを考えて不安になったり、落胆したそうだが、そのうちに看護師の経験を活かせるかもしれないと思うようになり、認知症カフェなどで積極的に認知症本人の方々とコミュニケーションするようになったという。認知症になっても自分らしく、いきいきと過ごせるのだということを「楽しく認知症」というキーワードを駆使して伝えている。
地方都市に暮らす認知症世界の小さなレジェンドである。
長谷川和夫の息子で同じく精神科医の長谷川洋は新聞社の取材に認知症研究の現場から徐々に離れていった父は、自分が認知症になったことで認知症の研究に新たな視点を持つことができたと答えている。
レジェンドのレジェンドたる所以である。

2021年8月21日土曜日

本田美和子、ロゼット・マレスコッティ、イヴ・ジネスト『ユマニチュード入門』

ラピュタ阿佐ヶ谷で長門裕之の特集が組まれている(長門裕之--Natural Born 銀幕俳優)。
長門裕之と聞くと僕たちの世代では、おしどり夫婦の気のいいおじさん的な印象が強いが、父沢村国太郎、祖父牧野省三、叔父加東大介、叔母沢村貞子、そして弟津川雅彦と演劇・映画一族の血を受け継いでいる。加東大介、沢村貞子が出演している映画は何本か観ているけれど、長門裕之の映画はあまり観ていない。「太陽の季節」「赤ちょうちん」くらいか。そんなわけでラピュタ阿佐ヶ谷まで出かけて、今村昌平監督「豚と軍艦」を観る。
終戦後、朝鮮戦争の時代の横須賀が舞台になっている。空気感としては澁谷實「やっさもっさ」の横須賀版といったところか。おもしろい映画だった。
先日読んだ上田諭『認知症そのままでいい』で「ユマニチュード」というフランスで開発された介護手法があることを知った。以前NHKテレビ「クローズアップ現代」で紹介されて話題になったという。この手法は各地で成果を上げており、「魔法のケア」などとも呼ばれている。
というわけでこの番組放映後に発刊されたこの本を読んでみた。
ユマニチュードという技法は、「人とは何か」「ケアする人とは何か」を問う哲学と、それにもとづく150以上の実践技術から成り立っている。これをつくり出したふたり、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティはもともと体育学の教師だったという。その後、医療と介護の現場にたずさわるようになる。病院や施設で寝たきりの人や障害のある人でも「人間は死ぬまで立って生きることができる」としてケアの改革に取り組んだ。
難解な本ではない。「見る技術」「触れる技術」「話す技術」「立たせる技術」など基本的なことが書かれている。むしろ拍子抜けするくらい常識的なことだ。
平易にやさしく介護者の背中を押してあげていることが、この技術のいちばんすぐれた点なのだと思う。

2021年8月18日水曜日

上田諭『認知症そのままでいい』

銀座の小さな広告会社に勤めていた当時の上司から手紙をもらった。正直言って突然の手紙におどろいた。何かあったのかとも思うが筆跡は本人のものである(彼とは賀状のやりとりを続けている)。
小さな広告会社といっても親会社は最大手で彼はそこから出向してきた。文面には貴君の仕事にとって貴重な資料を20数年にわたって預かったままになっている、返却したいが、手紙の表書きの住所でいいか、確認のために同封のはがきを返送してほしい、その際近況など記されたくと書かれていた。そのまま黙って送り返してくれればいいものをまわりくどい手続きを踏むのは往年の彼らしい。
昨年認知症啓発の仕事にたずさわったことは以前書いた。そのとき感じたのは制作の過程で多くの協力者と打合せを重ねるのだが、自分があまり認知症のことを理解できていないということである。そういうわけで題名に認知症と書かれている本を時間のあるとき目を通すようになった。
この本は認知症を特別視しないという一貫した考え方に基づいて書かれている。加齢とともにリスクが高まり、根治する手立ては今のところない。予防もできない。早期発見できたところで投薬治療によって進行を遅らせるだけである。もちろん薬物を投与するということは副反応のリスクも負う。
認知症の主症状は認知機能が低下することである。よく認知症になると元気がなくなるとか、暴力をふるうとか、何かを盗まれた、ここは私の家じゃないなどといった被害妄想におそわれるというけれども、これらは認知症の中核症状ではなく、周辺症状=BPSD(行動・心理症状)であるという。これらは案外本人の話に耳を傾けなかったり、本人を人として尊重しなかったりすることで見られる症状である。認知症と認知症本人に対する正しい理解と接し方がいかに重要かがわかる。
数日後元上司からテレビCMを多くつくっていた当時の僕の作品集が送られてきた。VHSのテープで。

2021年8月17日火曜日

永田久美子監修『認知症の人たちの小さくて大きなひと言 〜私の声が見えますか?〜』

毎年8月のお盆時期は南房総の父の実家に出向いていた。掃除をして、迎え火を焚いて、墓参りに行く。隣の集落に住む従兄弟の家を訪ね、線香を上げる。15日に送り火を焚いて、最後の墓参りに行く。
これがそれまでの「日常」だった。
新型コロナウイルス感染拡大にともない、昨年の夏はお盆の中日に日帰りにした。早朝の高速バスで隣集落で下りて、従兄弟の家を先にまわる。母方の墓を訪ね、午後、父の実家に着く。自分の家を皮切りに親戚の墓所をまわる。夕方の高速バスで帰京する。あわただしい一日だった。
感染拡大は止まらない。7月から8月にかけて千葉県でも陽性者が増えている。地元紙のホームページを見ると館山市や南房総市も多くいる。地元に住む叔母と従妹に相談する。おそらくひとりで来て、誰にも会わずに墓参りして帰るだけなら行けないこともなかったかもしれない。それでもお盆時期に混雑する駅や渋滞する高速バスはリスクが高い。
昨年認知症の普及啓発動画を制作した。全国から取材できそうな人を選んで(これには認知症の人と家族の会日本認知症本人ワーキンググループのスタッフ方々の協力をいただいた)、インタビューする。認知症だから何もわからないなんてことはない。デイサービスに通いながら、リーダーシップを発揮する元企業の総務部長がいた。認知症の看護を担当して元看護師は認知症と診断された自分の経験を率先して話してくれる。認知症当事者の声は貴重だ。
この本にはそうした当事者や家族、医療や介護にあたる支援者のさりげないひとことが集められている。誰が書いたというわけでもない。認知症介護研究・研修センターの永田久美子が監修している。あとがきに当事者ひとりひとりが放つ希望のキラーパスを、心を開いて、耳を澄ませて受けとめなければいけないというようなことを書いている。深く心にしみる。
お彼岸には墓参りに行きたいと思っている。日常は戻ってくるのだろうか。

2021年7月26日月曜日

筧裕介『ソーシャルデザイン実践ガイド 地域の課題を解決する7つのステップ』

人なみに東京オリンピックの開会式を視た。
開会式といえば、選手入場、開会宣言、最終聖火リレーから点火。これだけあればいい。ずいぶん前からオリンピックの開会式、閉会式は余興に熱心である。企画する人、パフォーマンスを見せる人はたいへんだろうが、視ていてそれほど感情移入できない。
聖火の最終リレーで長嶋茂雄が王貞治、松井秀喜とともに登場した。松井が長嶋をしっかり支えていた。長嶋のまなざしに、彼のスポーツに対する、とりわけオリンピックに対するひたむきな思いが映っていた。今回の開会式でいちばん印象深いシーンだった。
ここから先は勝手な想像である。
その日、長嶋茂雄は長男一茂の運転するクルマで国立競技場入りした。車いすに移乗させ、控室まで連れて行ったのは一茂。先に競技場に入った王と松井が待っていた。
一茂は松井の前で父を抱き起こして直立させる。腰に手をあてがい、歩行の際の注意点を教える。こんどは松井が長嶋を抱え立たせる。一歩二歩と松井に支えられた長嶋は歩いてみせる。
以前『ケアするまちのデザイン』というソーシャルデザインの本を読んだ。
この本はその続編というわけではないけれど、世の中にある社会的課題の解決に人びとを導いてくれる。本の帯にコミュニティデザイナー山崎亮の「こんなにわかりやすい本が出るなんて、これからソーシャルデザインに取り組む人は幸せだなあ。」という推薦文が載せられている。この本を手にとったきっかけでもある。
常日頃ソーシャルデザインの仕事にたずさわっているわけではないが、それに近いことを手伝っている。自分がやっていることが森の中に道をつくる一助になってくれているとうれしい。
聖火リレーは無事終わる。一茂は王と松井に謝意を示し、ふたたび車いすに移乗させる。そしてそのまま報道関係者の目にふれられることなく、国立競技場を後にした。
そんな舞台裏があったのではないかと勝手に思っている。

2021年3月27日土曜日

横川和夫『その手は命づな ひとりでやらない介護、ひとりでもいい老後』

去年、大井町でばったり会った吉岡以介と連絡を取り合う機会があった。
脳疾患で倒れた母親は退院後、郊外の施設に入所したという。半身が不自由で日常生活のほとんどの場面で介助が必要だという。
「そうするしかなかったんだよ」
それでもリハビリテーションをがんばれば少しはいい方向に向かうだろうと吉岡はリハビリに力を入れている施設を選んだ。自宅からは遠いが、勤務先からは電車で乗り換えなしだという。ところが新型コロナウイルス感染拡大で面会は事前予約したうえで15分のみ。吉岡は在宅勤務となり、母親の入所する施設は遠い場所になってしまった。在宅での仕事も要領を得ず、なかなか面会にも行けないと話す。
著者の河田珪子は義父母の介護にあたり、自分ですべてする必要はないと考えた。手を貸してくれる人がいる、介助が必要な人がいる。世の中はおたがいさまなのだ。「まごころヘルプ」はこうしてスタートした。サービスを利用する利用会員、サービスを提供する提供会員がそれぞれ会費を払って参加する。おたがいにメリットがある。
河田は家庭の事情で祖父母に育てられた。それがすべてではないにしても彼女は年寄りが好きだという。年寄りのためになることをしたいという。その思いは、高齢者だけでなく、妊婦や障がい者、外国人へと裾野を広げていく。まごころヘルプの次の取り組みとして「うちの実家」、そして「実家の茶の間・紫竹」といった居場所づくりへと連なっていく。
河田が考える「居場所」はよくある「通いの場」とは異なる。参加者に何かをさせるのではなく、一人ひとりが好きなことする。プログラムがない(ラジオ体操だけは続けているようであるが)。非行事型の居場所と言われている。
それはともかく、吉岡の母親も施設入所以外に、もっと本人も周囲も気持ちが豊かになれる選択肢があったのではないかという気もする。もちろん本人はそれどころではなかっただろうが。

2021年3月4日木曜日

大久保真紀『ルポ児童相談所』

先日、ちょっとしたきっかけで新潟県の児童相談所に勤務する青年と話をした。
もちろんリモート。ウェブ会議システムを使った。
以前から悩みを持つ人にかかわりたいと思っていたという。中学生の頃は教師をめざそうと思ったこともあるそうだ。高校時代は心理学を学ぶことに興味を持ち、大学の先輩で福祉の仕事に就いた人がいて、児童福祉に携わる自分をイメージしたという。
相談の受理業務を担当している。いわゆる初期対応チームということか。短~中期で解決できそうなケースを受け持ち、主に保護者と面接することが多いという。子どもと直接やりとりするのは児童心理司という心理職なのだそうだ。常に複数のケースを抱えていて、優先順位をつけながら、スケジュール管理するのがひと苦労だと話す。
仕事のやりがいを訊いてみた。ひとつとして同じ状況にある家庭はなく、支援の方法も千差万別、通り一遍にはいかないが、何度か面接や支援をくり返していくうちに、光を見出したように保護者の表情が変わってくる。そんな場面に出会えることがうれしいという。子どもの人生にとって重大な局面、問題解決の場面に真摯に向き合う仕事ではあるが、支援する側として客観的に俯瞰して見る姿勢も必要だ。
児童相談所に持ち込まれたケースのうち家庭での養育が難しいとされる子どもはとりあえず一時保護所で保護される。一時保護所にいられる期間は限られているため、その後家庭に戻ることが困難な場合は児童養護施設や里親に託される。施設での生活については同じ著者の『児童養護施設の子どもたち』にくわしい。また一時保護所にフォーカスした児童相談所の仕事については慎泰俊が書いている。
もう少し日常的な児童相談所の仕事を知りたいと思うのだが、デリケートな個人情報にあふれている職場でもあり、おいそれとは見学などさせてもらえない。
この本と実際に勤務している青年の話でずいぶんイメージがひろがった。

2021年2月25日木曜日

山崎亮編『ケアするまちのデザイン 対話で探る超長寿時代のまちづくり』

小さい頃、さほど裕福な暮らしをしていたわけではない。
それでも本が読みたいといえば(よほど高額の書籍でもない限り)買ってもらっていた。毎日のお小遣いの何十倍もの値段のそれをである。もちろん湯水のごとく買い与えられていたわけではない。ときどき折を見ておねだりすると買ってもらえた。その辺のさじ加減は幼い頃からスキーマとして意識下に形成されていたのかもしれない。たいていは買ってもらった一冊(たとえば『宝島』や『十五少年漂流記』とか)を何度もくりかえし読んだ。子ども時代に膨大な数の本を読んだわけではけっしてない。
その後も月に何十冊、年に何百冊も読むような読書家にはなっていない。読みたいときに読みたい本を読む気ままな読書家(それを読書家と呼んでいいとするならば)である。実は両親が買ってくれたのは、何冊かの本でなく、本という紙とインクでできた物質ではなく、なんて言ったらいいのか難しいが、本を読む時間、本に接する環境だったのではないかと思うことがある。今でもこうしてときどきページをめくるのは、子ども時代へのノスタルジーなのではないか。
超長寿時代を迎え、さまざまな地域で課題となっている「地域包括ケア」、この本はその先進事例にもとづいて、地域共生社会を模索している。
先だって読んだ『長生きするまち』では環境づくりが介護予防にとってたいせつだと書かれていた。とはいえ、まちづくりほど一筋縄でいかない課題はないだろう。
誰が町をつくるのか、その主体は誰なのか。住宅を設計するには利用者である依頼者の声に耳を傾ける。町を設計するときは不特定多数の利用者が存在する。彼らのありとあらゆる思いを汲んで、どうまちづくりに取り組めばよいのか。建築家、医師、看護師、福祉施設の経営者らがあらゆる視点からケアするまちをかたちづくっていく。対話しながら。
コミュニティをつくっていくことがこの先たいせつな仕事になると思う。

2021年2月15日月曜日

近藤克則『長生きできる町』

「近ごろの若い連中は仕事に前向きでない」などとついこの間まで若かった連中が嘆いていた。
どんな話かというと、たとえば映画製作の会社にいながら、小津安二郎も黒澤明も山田洋次も知らない、作品を見たこともないことが嘆かわしいということだ。あくまでたとえばの話である。
仕事の関係で福祉の本を読んでいる。
日本では人口が減っていく。人は長生きする。医療や介護、福祉に多額の費用が使われる。このままいくと財政が破綻するのでは、などとささやかれてもいる。それとは別にできることなら介護などされたくない、すなわち健康寿命を延ばしていきたいというのが多くの人の本音だろう。そこに介護「予防」というキーワードが浮かんでくる。
厚生労働省でも介護予防の取り組みがすすめられている。地域ボランティアによる集いやサロンの開設、いわゆる通いの場が生まれている。介護施設や病院を新設するより、費用もかからないし、健康的である。
著者は地域ごとの格差、とりわけ健康格差を調査している。
予防には一次予防(健康増進)、二次予防(早期発見、早期治療)、三次予防(再発、悪化予防)があるという。著者が提唱するのは0次予防。「人を変えるのではなく、環境を変えることでその中にいる人たちの行動を変える」という考え方である。たとえば近隣に広い公園がある地域では運動機能が低下している人が少ないという調査がある。公園面積の広い地域の高齢者はスポーツなどの会に参加している割合も多いらしい。なぜ運動をしないのかという原因だけを考えるのではなく、原因の原因を考えることが重要だという。そのなかで運動をしやすい環境をつくることの重要性が見えてきたのだと。
近ごろの若い連中を嘆いている諸氏よ。彼らがなぜ勉強しないのか、なぜ前向きにならないのか、その原因を考えてみよう。そして原因の原因を考えて、彼らをとりまく環境を変えてあげよう。そして行動を促そう。

2021年1月25日月曜日

慎泰俊『ルポ児童相談所-一時保護所から考える子ども支援』

都立K高校の、郊外にあるグラウンドで星野先輩に会った。
前回も書いたけれど、その人が星野さんであるとどうしてわかったのか、よくわからない。気がつくと僕は先輩の前にいて、同じ中学校から来た者だと自己紹介していた。バレーボール部の一員として今日(体育祭の前日)の準備に参加したということも(たぶん)伝えた。
星野さんは笑みをたたえたまま、僕の身体をくんくんとしながら一周する。
「うん、四中の匂いがする。なつかしいなあ。星野です、よろしく」と言った。僕らの出身校は地元で四中と呼ばれていた。それから先は何を話したか記憶はない。時間にすれば10分にも満たないような邂逅だった。
星野さんは大学進学時に社会福祉を志したと聞いている。どういうわけで福祉を学ぼうとしたのか、どうしてそのことが印象に残っているのか。たぶん当時(1970年代半ば)の若者の多くは福祉になんて関心がなかったと思うのだ。翳りを見せはじめたとはいえ、経済は成長していた。多少不景気な年があっても、まだまだそのうちなんとかなるだろうと誰もが思っていた時代である。社会福祉を学ぶ大学もそう多くなかったと記憶する。
児童養護に特に関心があるわけでもなかった。たまたま児童福祉に関する仕事があって、少しは勉強したくなっただけである。広告の仕事を長くしていると妙に広告の専門家になったような気がしてくる。それはそれで結構なことだが、むしろ広告の仕事のおもしろさは未知の領域に(素人なりに)接点を持てることだと思っている。かっこいいことを言ってみたが、せっかく出会えた分野だから、ついでに多少の知識を得ておこうという実はケチな考えなのだ。
福祉の領域は広い。高齢者、障害者、困窮者など弱者と向き合っている。児童福祉の、児童相談所の仕事もたいへんなことがこの本でわかる。
40数年前に出会った星野先輩が僕の知らなかった世界にめぐり合わせてくれた、そんな気がしている。

2021年1月23日土曜日

近藤克則編『住民主体の楽しい「通いの場」づくり 「地域づくりによる介護予防」進め方ガイド』

星野さんという先輩がいた。
高校受験が終わって、都立のK高校に決まりましたと職員室に進学先を報告に行った。当時の都立高校の受験システムは受験する時点で志望校を決めることができず、合格発表時に受験した学校群(たいてい2校か3校)のうちいずれか1校に決まる。どうしてそんなことになったのかはわからないし、わかったところで説明するのもたぶん面倒なのでしない。とにかく合格発表を見に行って、K高校に合格した(発表の場がH高校だというのも不思議なのだが、これもまた話が長くなりそうなのでしない)。
職員室では「K高か、陸上部の星野が行ったところだ」という話で少し盛り上がった。星野さんは僕の三学年上の先輩でやはり同じ中学校から都立K高校にすすんだという。「星野はどうしたんだっけ?」「福祉をやりたいとか言ってましたね、たしか上智をめざしてるって聞いてますけど」そんな話が飛び交う。三学年違うということは、入学したとき卒業した先輩である。中学時代に星野先輩に会ったことはない。
その二か月後。
都立K高校は多摩川の河川敷近くに合宿所をもっていた。野球、サッカーのグラウンド、バレーボールのコート、テニスコートと宿泊用の寮があった。体育祭はこのグラウンドを利用していた(翌年から都内の狭い校庭で行われるようになり、郊外のグラウンドで体育祭を経験したのは僕たちが最後の世代となる)。前日には運動系のクラブ部員やそのOBたちが集まってグラウンド整備を行う。何をやったか今となってはおぼえていない。草むしりとかラインマーカーで線を引く、みたいなことをしたのだろう。
どういうわけで、そこにいた陸上部の先輩が星野さんであるとたしかめられたのかはわからない。「ほ、星野先輩ですか?」気がつくと僕は今までいちども会ったことのなかった星野先輩と対面していた。
最近、仕事の関係で福祉や介護の本を読むことが多く、そのたびに星野さんを思い出す。