実家から最寄り駅までは歩くと15分かかった。高校時代はバスで駅まで行った。バスはあまり好きな乗り物ではなかったが、当時はそうする他なかった。大学生になってからは余程のこと(早朝の授業など)がない限り、歩くようにした。母からもらった定期代は煙草代にした。
その後、徒歩3分程の所にJRの駅ができた(奇跡的だ)。かつての最寄り駅までバスに乗ることもなくなった。
大人になってときどきバスに乗りたくなるのは子ども時代のバス乗車体験のせいかもしれない。何度か職場を変え、麹町平河町を仕事場にした。築地や銀座で打合せを終え、時間があると都バスに乗る。銀座通りから日比谷、お堀端を通って会社の近くに停留所があった。気持ちのいい小旅行を味わえた。
会社はその後、築地に移転した。地下鉄で東銀座か築地が最寄りなのだが、時間のあるときは(休日出勤など)東京駅からバスに乗った。これがなかなかいい。丸の内側から出たバスは東京国際フォーラムから有楽町を経て、銀座に出る。晴海通りをすすんで築地の交差点に向かう。車窓から風景を見ると観光客になった気分だ。いっそこのまま勝鬨橋を渡ってみようと何度思ったことか。
この本はたまたまちくま文庫新刊の広告で見つけた。どんな本かもわからなかった。内田百閒の『阿呆列車』みたいな本なんじゃないかと思って読みはじめた。果たして『阿呆バス』だった。
立ち寄った町で、あるいはいつもの駅前で知らない場所に連れてってくれるバスが停まっている。そんなとき筆者は何かもかなぐり捨ててバスという異次元の世界に身を任せる。僕だって駅前に立教女学院とか北野とか行き先表示されているバスが停まっていれば吸い寄せられるように乗ってしまいたいと思うことがある。でもこれに乗ったらテレビで大相撲が見れなくなっちゃうとかつまらない言い訳を思い浮かべて結局乗らない。バスは好きだけど筆者ほどの愛はないんだな、多分。
2025年5月31日土曜日
2025年5月26日月曜日
北村明広『俺たちの昭和後期』
自分が生きてきた時代に対して不平や不満を持つことはなかったように思う。
都立高校を受験するとき、当時は学校群制度というものがあって、特定の高校を志望するのではなく似たようなレベルの学校が2校~3校ずつグループ分けされていて、そのグループを受験するしくみだった。僕が受けた群には3つの学校があって、そのうちのひとつに割りふられた。自宅からはいちばん遠い学校だったが、取り立てて不服はなかった。
大学受験のときは翌年から共通一次が導入される年だった。浪人すると国公立は一校しか受験できなくなる。できれば浪人はしたくなかったのでどこでもいいから(と言っては失礼だが)合格したかった。ちょっとしたプレッシャーはあったが、どうにかこうにか受かった。
仕事をするようになってバブルになった。深夜、タクシーがつかまらず、やれやれな日々を送った。昭和55(1980)年から平成にかけては思い出しただけでもぞっとするような忙しさだった。
著者は昭和の世代定義を以下のようにしている。昭和19年生まれまでの「戦争体験世代」、20〜27年生まれの「発展請負世代」、28〜34年生まれの「センス確立世代」、それ以降に生まれた昭和後期世代。昭和後期世代が圧倒的に長期に渡っている。著者自身は昭和40年生まれ。
さらに昭和を終戦までの初期、復興がすすんだ昭和30年までの第二期、「もはや戦後ではない」から五輪、万博を開催した昭和45年までの第三期(ここまでが昭和中期)。そして46〜54年、発展と混乱、そして公害の時代である第四期、55〜64年の第五期は技術大国ジャパンとバブルの時代と位置付けられている。
これらの定義が妥当かどうかはわからない。当然偏りがあると思うが、われわれ「センス確立世代」は昭和後期の第四期に中学生〜大学生までを経験し、社会に出てから何年か第五期を生きた。いずれにしても懐かしく愛おしく、恥ずかしい時代である。
都立高校を受験するとき、当時は学校群制度というものがあって、特定の高校を志望するのではなく似たようなレベルの学校が2校~3校ずつグループ分けされていて、そのグループを受験するしくみだった。僕が受けた群には3つの学校があって、そのうちのひとつに割りふられた。自宅からはいちばん遠い学校だったが、取り立てて不服はなかった。
大学受験のときは翌年から共通一次が導入される年だった。浪人すると国公立は一校しか受験できなくなる。できれば浪人はしたくなかったのでどこでもいいから(と言っては失礼だが)合格したかった。ちょっとしたプレッシャーはあったが、どうにかこうにか受かった。
仕事をするようになってバブルになった。深夜、タクシーがつかまらず、やれやれな日々を送った。昭和55(1980)年から平成にかけては思い出しただけでもぞっとするような忙しさだった。
著者は昭和の世代定義を以下のようにしている。昭和19年生まれまでの「戦争体験世代」、20〜27年生まれの「発展請負世代」、28〜34年生まれの「センス確立世代」、それ以降に生まれた昭和後期世代。昭和後期世代が圧倒的に長期に渡っている。著者自身は昭和40年生まれ。
さらに昭和を終戦までの初期、復興がすすんだ昭和30年までの第二期、「もはや戦後ではない」から五輪、万博を開催した昭和45年までの第三期(ここまでが昭和中期)。そして46〜54年、発展と混乱、そして公害の時代である第四期、55〜64年の第五期は技術大国ジャパンとバブルの時代と位置付けられている。
これらの定義が妥当かどうかはわからない。当然偏りがあると思うが、われわれ「センス確立世代」は昭和後期の第四期に中学生〜大学生までを経験し、社会に出てから何年か第五期を生きた。いずれにしても懐かしく愛おしく、恥ずかしい時代である。
2025年4月17日木曜日
嵐山光三郎『爺の流儀』
嵐山光三郎さんと二度お目にかかっている。厳密に言えば、二度本人をお見かけしたということだ。
最初は1985(昭和60)年、信濃町の千日谷会堂で。建築の仕事をしていた伯父が亡くなり、葬儀が行われた。嵐山さんはその会葬者のひとりで、白の着物に白の袴という出で立ちで颯爽と献花し、合掌して去っていった。嵐山さんは伯父の弟(僕の叔父)の元同僚で親友でもあったらしい。それで葬儀に駆けつけてくれたのだろう。
二度目はそれからしばらく経って、銀座で嵐山光三郎・安西水丸二人展があり、僕はたまたまオープニングパーティーの場にいた。どこのギャラリーだったかは憶えていない。嵐山さんは文筆家であったが、原稿用紙に自身の顔を描くなどよくしていた。そんな原稿用紙に描いた絵と安西水丸のイラストレーションが何点かずつ掲示されていた。パーティーはマスコミ関係者をはじめ大勢のお客さんがいた。嵐山さんは毎週日曜日の「笑っていいとも増刊号」というテレビ番組に編集者という立場で出演していた。ちょっとしたタレントだった。
パーティー会場に大きな寿司桶が運ばれる。十か二十か、それよりもっと多かったかもしれない。寿司を運び込んだ出前の人といっしょにやってきたスーツ姿の男に声をかけられた。「おまえ、レイコの息子だろう。俺はおまえのおふくろのいとこなんだ」と。レイコというのは母の名でたしかに銀座や築地、月島で寿司屋をやっているいとこがいると聞いたことがあった。「こんなところで食う出前の寿司なんかうまくない。俺の店に来い」と母のいとこTさんに告げられ、ふたりで銀座の店の入り、カウンターに座った。銀座の寿司屋の暖簾を潜るのははじめてのことだった。
嵐山さんの本は久しぶりである。両親の死を経験し、自らも80歳を超え、死についてきちんと向き合えるようになったのだろう。死は恐怖であるとともに最後の愉しみでもあるという。妙に説得力があった。
2025年3月17日月曜日
村上春樹『中国行きのスロウ・ボート』
松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」がリリースされたのが1982年。同梱されている歌詞カードは安西水丸のイラストレーションで飾られていた。当時僕は安西水丸を注視していた。「ガロ」、「ビックリハウス」といった雑誌に四コマ漫画をよく連載していたせいか、この人は漫画家を目指しているのだろうと思っていたがユーミンのアルバムに鮮烈なイラストレーションを描いたことでやはりこの人はイラストレーターなのだ、それもただ者ではないと実感した。
雑誌の表紙を描くことも増えてきて、書店をひと巡りすると安西のイラストレーションをいくつか見かけるようになっていた。ちょうどそんな頃、文芸コーナーで平積みされていたこの本に出会った。すごいじゃん、安西水丸。村上春樹の本の表紙を描いてるじゃん。といささか興奮気味に購入したのを今でも憶えている。村上最初の短編集である。以後コンビを組んで出版された本は多い。
そんなこんなで村上春樹初の短編集は僕にとっても思い出深い一冊で時折書棚から取り出しては1、2編目を通してみたりする。だいたいは「中国行きのスロウ・ボート」だったり「午後の最後の芝生」だったり。全編通して読むのは大変久しぶりのことである。あまり目を通すことがなかった「カンガルー通信」や「シドニーのグリーン・ストリート」などはすっかり記憶から飛んでいる。まるではじめて読むように読んだ。
「中国行きのスロウ・ボート」はその後、『村上春樹全作品1979~1989』に収められるにあたって大幅に加筆修正されている(はず)。以前、単行本と全作品と二冊並べて開いて比較しながら読んだ記憶がある。もちろん読んだことを憶えているだけでどこがどう加筆修正されたのかなんて全く記憶にない。
それにしてももう3月だ。安西水丸が世を去ってはや11年。生きていれば今年で83歳になる。命日にはカレーライスを食べようと思っている。
2025年2月13日木曜日
吉見俊哉『東京裏返し 社会学的街歩き』
町と街。この使い分けは難しい。以前、よく読んだ川本三郎は町歩きと表記する。街にすることはない。個人的な感覚であるが、町が現代化したものが街ではないかと思っている。懐かしい佇まいを残した店は町中華であり、街中華は似合わない。マンション、戸建ての広告には街が似合う。まあどちらでもいいことなのだが。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
時間が空くと知らない町をよく歩いた。この本で紹介されている辺りだ。東京の南西側も、例えば渋谷川に合流する宇田川沿いとか生まれ育った品川区も歩いているが、圧倒的に皇居の北側、東側が多い。そういう点からするとこの本で辿る町、地域には新鮮味はなかったが、無性に懐かしさをおぼえた。
第一日目に訪れる石神井川。板橋駅から加賀公園、そしてその周辺を流れる音無川の谷(石神井川はこの辺りではそう呼ばれる)を辿っていくと飛鳥山に出る。護岸工事はなされているものの川が台地を削ったことがよくわかる、素敵な散歩道だ。桜の季節はいいだろう。ここは是非おすすめしたい。王子駅に向かっての音無親水公園は味気ないが、飛鳥山公園に立ち寄って、上野台地の端っこから眺める下町もいい。その前に赤レンガの図書館に立ち寄るのもいい。駒込に出る商店街を歩くのもいい。王子や赤羽の居酒屋に立ち寄るのもいいし、十条に戻って齋藤酒場に寄るのもいい。
散策を終えて居酒屋に寄るのは川本三郎的であるが、この著者の優れたところは街歩きの指南に終わらないところだ。街を歩き、眺め、歴史の地層を掘り返すことで東京をこれからどうすべきかという未来が見えてくる。要らない首都高速道路はなくす、路面電車を増やすなどすることによって東京の未来の風景が見えてくる。こうした将来像に向かって努力することが東京に課された使命なのだ。
この本はラジオ文化放送「大竹まことのゴールデンラジオ」に著者がゲスト出演したことで知った。うちに引きこもっているとラジオから得る情報はありがたい。
2025年2月6日木曜日
島崎藤村『千曲川のスケッチ』
30年以上前、僕は小さな広告会社でテレビコマーシャルなどをつくっていた。
ある日、ベテランの営業担当から声を掛けられた。ペットボトルを製造する機械をつくっている会社がある、企業紹介の動画を制作してくれないかと。数日後、上野発金沢行の特急に乗って、小諸に向かった。長野行の特急も日中何本かあったが、早朝立つには混み合う金沢行しかなかった。新幹線のない時代、高崎、横川、軽井沢を通って小諸駅で下りる。本社と工場は駅の北西方向にあり、タクシーで10分ほどの距離だった。工場を見学させてもらい、動画の主役となる最新の機械について説明を受け、伝えたいことなどを打合せする。構成案を再来週にお持ちします、みたいなことを確認してその日は切り上げた。駅前の蕎麦屋で昼食を摂り、帰京した。
あれは何月だったのだろう。暑くもなく寒くもない普通の一日。天気はよかった。
翌々週、再び小諸。動画の構成案を持参し、多少の手直しがあったが、これで制作してもらいたい、となった。前回同様、営業と蕎麦を食べて帰る。3回目の訪問は制作会社のスタッフらとのロケハンだった。このときの記憶はほとんどない。その後の撮影は営業と制作会社に任せたので小諸に出向くこともなかった。編集、録音、試写も都内のスタジオだった。
小諸の町を散策したことはない。会社員時代はこうした行って帰るだけの出張が多かった。札幌も仙台も岡山も那覇も、夜に飲食した店くらいしか旅の思い出はない。
3年前、軽井沢に行くのに小海線で小諸に出た(遠回りではあった)。駅前を少し歩いて、昔行った蕎麦屋をさがした。見つからなかった。この頃は以前と違って小諸駅のそばに小諸城址懐古園があることも地図で知っていた。ただ訪ねる時間がなかった。
小諸は歩いてみる価値がある。千曲川も近い。島崎藤村が教えてくれた。今度軽井沢を訪ねたら小諸に立ち寄り、千曲の流れをゆっくり眺めてみたいと思った。
ある日、ベテランの営業担当から声を掛けられた。ペットボトルを製造する機械をつくっている会社がある、企業紹介の動画を制作してくれないかと。数日後、上野発金沢行の特急に乗って、小諸に向かった。長野行の特急も日中何本かあったが、早朝立つには混み合う金沢行しかなかった。新幹線のない時代、高崎、横川、軽井沢を通って小諸駅で下りる。本社と工場は駅の北西方向にあり、タクシーで10分ほどの距離だった。工場を見学させてもらい、動画の主役となる最新の機械について説明を受け、伝えたいことなどを打合せする。構成案を再来週にお持ちします、みたいなことを確認してその日は切り上げた。駅前の蕎麦屋で昼食を摂り、帰京した。
あれは何月だったのだろう。暑くもなく寒くもない普通の一日。天気はよかった。
翌々週、再び小諸。動画の構成案を持参し、多少の手直しがあったが、これで制作してもらいたい、となった。前回同様、営業と蕎麦を食べて帰る。3回目の訪問は制作会社のスタッフらとのロケハンだった。このときの記憶はほとんどない。その後の撮影は営業と制作会社に任せたので小諸に出向くこともなかった。編集、録音、試写も都内のスタジオだった。
小諸の町を散策したことはない。会社員時代はこうした行って帰るだけの出張が多かった。札幌も仙台も岡山も那覇も、夜に飲食した店くらいしか旅の思い出はない。
3年前、軽井沢に行くのに小海線で小諸に出た(遠回りではあった)。駅前を少し歩いて、昔行った蕎麦屋をさがした。見つからなかった。この頃は以前と違って小諸駅のそばに小諸城址懐古園があることも地図で知っていた。ただ訪ねる時間がなかった。
小諸は歩いてみる価値がある。千曲川も近い。島崎藤村が教えてくれた。今度軽井沢を訪ねたら小諸に立ち寄り、千曲の流れをゆっくり眺めてみたいと思った。
2025年1月19日日曜日
新美南吉『ごんぎつね でんでんむしのかなしみ―新美南吉傑作選―』
昨年、65歳になり、定年退職を迎えた。
振りかえってみると僕たちが生まれ育った時代はプラスチックと半導体の時代だったのではないかと思えてくる。弁当箱もバケツもプラスチックになった。ペットボトルやレジ袋が普及した。今でこそ環境へ配慮しているが、使い捨てることに罪悪感をあまり感じない時代もあった。プラスチックは自然界で完全に分解されるまで長い年月を要する。適切に回収、廃棄されなかったプラスチックは海ごみと化す。
僕が気がついたとき、トランジスタラジオが普及していた。もう少し上の世代の人たちは真空管でラジオを組み立てていた。1970年代になるとトランジスタやダイオード、さらには回路を集積したICが電子回路の主役になった。真空管でラジオやアンプをつくるにはコイルやトランスなど流通量の少ない部品を探さなくてはならくなっていた。
半導体はさらに集積を重ね、コンピュータの心臓部になり、今や人工知能(AI)技術にも欠かせない。クルマも電気や水素で走る時代になったが、制御系統は半導体化されている。自動運転を支えているのはセンサーと半導体だ。たしかに便利な世の中が技術によってもたらされている。だが、果たしてそれでいいのか、人々は何か大切なものを失っているんじゃないだろうか。便利さという快楽に知らず知らず飲み込まれて気が付いていないだけじゃないだろうか。
以前読んだ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』に「ごんぎつね」で葬式用の料理をつくる描写を「遺体を煮て殺菌消毒する」と読む小学生が多いことが指摘されていた。そんな話をラジオで聴いて、もういちど読んでみようと気持ちになった。
新美南吉は30年に満たない短い生涯のなかで心あたたまる物語を数多く遺してくれた。「花のき村と盗人たち」「おじいさんのランプ」「和太郎さんと牛」「最後の胡弓弾き」などなど。いずれもプラスチックや半導体がなかった時代のお話である。
振りかえってみると僕たちが生まれ育った時代はプラスチックと半導体の時代だったのではないかと思えてくる。弁当箱もバケツもプラスチックになった。ペットボトルやレジ袋が普及した。今でこそ環境へ配慮しているが、使い捨てることに罪悪感をあまり感じない時代もあった。プラスチックは自然界で完全に分解されるまで長い年月を要する。適切に回収、廃棄されなかったプラスチックは海ごみと化す。
僕が気がついたとき、トランジスタラジオが普及していた。もう少し上の世代の人たちは真空管でラジオを組み立てていた。1970年代になるとトランジスタやダイオード、さらには回路を集積したICが電子回路の主役になった。真空管でラジオやアンプをつくるにはコイルやトランスなど流通量の少ない部品を探さなくてはならくなっていた。
半導体はさらに集積を重ね、コンピュータの心臓部になり、今や人工知能(AI)技術にも欠かせない。クルマも電気や水素で走る時代になったが、制御系統は半導体化されている。自動運転を支えているのはセンサーと半導体だ。たしかに便利な世の中が技術によってもたらされている。だが、果たしてそれでいいのか、人々は何か大切なものを失っているんじゃないだろうか。便利さという快楽に知らず知らず飲み込まれて気が付いていないだけじゃないだろうか。
以前読んだ『ルポ 誰が国語力を殺すのか』に「ごんぎつね」で葬式用の料理をつくる描写を「遺体を煮て殺菌消毒する」と読む小学生が多いことが指摘されていた。そんな話をラジオで聴いて、もういちど読んでみようと気持ちになった。
新美南吉は30年に満たない短い生涯のなかで心あたたまる物語を数多く遺してくれた。「花のき村と盗人たち」「おじいさんのランプ」「和太郎さんと牛」「最後の胡弓弾き」などなど。いずれもプラスチックや半導体がなかった時代のお話である。
2024年12月31日火曜日
北村匡平『遊びと利他』
小学生の頃、螺旋形の滑り台があった。公園の遊具としては大きなものでどこの公園にもあるというわけではなかった。学区域内の公園にはなかったと思う。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。
中央の支柱があり、螺旋状に金具が固定されている。その金具が滑り台本体を支えている。高さは3~4メートル。後ろに付いている梯子段で頂上に上り、ぐるぐる回りながら滑り降りる。
高学年になり、この滑り台で鬼ごっこをするのが流行った。4~5人で学区外の公園まで遠征する。ルールはない。滑り台を下から上に上ったり、梯子段を降りたり、梯子段から滑り台に移ることができる場所もあった。滑り台を支える金具を伝って移動することもできた。地上に降りることもできたが、その遊具を離れて遠くに逃げるのは反則だった。誰が考えたか知らないが、スリリングな遊びだった。
今、公園に危険な遊具はなくなっている。回転塔とか箱型ブランコなど。自治体の管理が優先されているからだ。それらに代わって複合遊具が主流になっている。
ロープを使って斜面を登り、櫓の上に行きなさい、できない子は横にある梯子段で登りましょう、上に着いたらすべり台で降りるか、吊り橋を渡って反対側の櫓に行きましょう、といった具合に子どもたちの遊びがマニュアル化されている。ルールが画一化されていて動きが少ない。ちょっと遊んだらすぐに飽きる。著者北村匡平はこれを「余白」の縮減した遊具と規定する。
たとえば斜面だけの遊具が紹介されている。斜面を上って滑り台にする。子どもは滑り台を逆から上るのが好きなのだ。滑り方も頭から滑り降りたり、転がりながらと多種多様な遊び方を子どもたちは発見し、挑戦する。その斜面には柵がない。多少の危険は伴うがそうしたことを通じて子どもたちは自らの限界を知り、危険を体得するという。
この本のテーマとなっている「利他」という概念はわかりにくい。わかりにくいが、読んでいると何となくわかってくる。不思議な一冊だ。
2024年11月19日火曜日
森村誠一『人間の証明』
子どもの頃はよく映画を観た。月島のおばちゃん(母の叔母)に連れていってもらった築地の松竹でガメラを観たし、大井町にも映画館がいくつかあった。映画は僕らの世代でも身近な娯楽だった。
中学生、高校生になって映画は観なくなった。この時期は本も読まなくなったし、当時何をしていたか思い出せないけれど、娯楽のない毎日を過ごしていた。
高校時代、唯一観てみたいなと思った映画がある。「人間の証明」である。テレビコマーシャルで大々的に宣伝され、話題作となった。テーマ曲もヒットした。いわゆる角川映画の嚆矢ともいえる作品である。そんな宣伝文句に惹かれて久しぶりに映画を観に行こうと思ったのだ。監督は佐藤純彌、脚本は松山善三。もちろん彼らがすごいスタッフだと知ったのはずっと後のことだけれど、これまでにないスケールの大きな映画という印象を受けた。
映画が公開されたのがたしか1977年。大学受験を控えた高校3年生だった。原作はそれより前に出たのではないか。僕は角川文庫で読んだ。まず本で読むというのは昔からの悪い癖で野球の本や剣道の本、卓球の本など新しいスポーツに興味を持つとまず指南書のような書物に頼ってしまうのである。こういう頭でっかちはたいてい上達なんぞしない。
そういえば作者の森村誠一は昨年亡くなった。没後一年ということで縁のある町田市の市民文学館で森村誠一展が開催されているというニュースが流れていた。行ってみたい気もするが、『人間の証明』しか読んだことのない薄い読者としては敷居が高い。むしろ三鷹市に今年できた吉村昭書斎に行ってみたい。こっちはそれほど敷居が高くない。
『人間の証明』を読んだ記憶はあるが、中身はさほど憶えていない。映画も結局ロードショーで観ることはなく、ずっと後になってテレビで観た。そこでああ、こんなお話だったんだっけと思い出したのである。
母さん、僕のあの記憶どうしたでせうね?
中学生、高校生になって映画は観なくなった。この時期は本も読まなくなったし、当時何をしていたか思い出せないけれど、娯楽のない毎日を過ごしていた。
高校時代、唯一観てみたいなと思った映画がある。「人間の証明」である。テレビコマーシャルで大々的に宣伝され、話題作となった。テーマ曲もヒットした。いわゆる角川映画の嚆矢ともいえる作品である。そんな宣伝文句に惹かれて久しぶりに映画を観に行こうと思ったのだ。監督は佐藤純彌、脚本は松山善三。もちろん彼らがすごいスタッフだと知ったのはずっと後のことだけれど、これまでにないスケールの大きな映画という印象を受けた。
映画が公開されたのがたしか1977年。大学受験を控えた高校3年生だった。原作はそれより前に出たのではないか。僕は角川文庫で読んだ。まず本で読むというのは昔からの悪い癖で野球の本や剣道の本、卓球の本など新しいスポーツに興味を持つとまず指南書のような書物に頼ってしまうのである。こういう頭でっかちはたいてい上達なんぞしない。
そういえば作者の森村誠一は昨年亡くなった。没後一年ということで縁のある町田市の市民文学館で森村誠一展が開催されているというニュースが流れていた。行ってみたい気もするが、『人間の証明』しか読んだことのない薄い読者としては敷居が高い。むしろ三鷹市に今年できた吉村昭書斎に行ってみたい。こっちはそれほど敷居が高くない。
『人間の証明』を読んだ記憶はあるが、中身はさほど憶えていない。映画も結局ロードショーで観ることはなく、ずっと後になってテレビで観た。そこでああ、こんなお話だったんだっけと思い出したのである。
母さん、僕のあの記憶どうしたでせうね?
2024年10月27日日曜日
梶井基次郎『檸檬』
昔(少なくとも僕の10代から20代前半の頃)と比べると都内にも新しい駅がつくられ、新しい駅名が付けられている。浮間舟渡のようなふたつの地名が合成された駅名もあれば、天王洲アイルという意味不明な駅名もある。天王州でよかったんじゃないか?アイルを付けることで企業誘致にひと役買ったのだろうか。
東京メトロ東西線の九段下駅は東西線が高田馬場から延伸した1964(昭和39)年に開業している。これだって九段でよかったんじゃないかと思う。どうしてわざわざ「下」を付けたのだろう。
九段下駅は靖国通りを横切って南北に走る目白通りに沿ってある。日本橋川とほぼ平行している。昔は日本橋川を東に渡れば、神田区だった。九段下は麹町区にありながら、その縁に沿っており、だから九段ではなく九段下が相応しいと考えられたのかもしれない。だったら神楽坂駅は神楽坂上じゃないのか?
九段下駅を降りて、靖国通りを西進すると右に靖国神社、左に北の丸公園がある。通勤通学で利用する人以外はおそらくこのどちらかに向かう可能性が高い。公園内にある日本武道館でコンサートなどイベントがあると田安門の辺りにまるで桜が満開を迎えたみたいに大勢の人でごった返す。このようなたまにしかこの駅を訪れることがない人に駅を降りたら坂道がありますよ、平坦な道ではないですよと乗客にわかりやすく暗示するための「下」なのかもしれない。
坂の上には僕が通った高校がある。大して思い出はないのだが、夏休みか何かの課題で梶井基次郎の『檸檬』を読んで感想を書けという。あまり読書する習慣のなかった僕には辛い課題だった。多分、表題作の「檸檬」と他のいくつかの短編を読んでお茶を濁したような気がする。梶井基次郎のファンだという同級生がいて、どんな話なのかと訊いてみたが、そいつの話もよくわからなかった。
ときどき九段下駅で降りて、あの坂道を登ると昔のことを思い出す。
東京メトロ東西線の九段下駅は東西線が高田馬場から延伸した1964(昭和39)年に開業している。これだって九段でよかったんじゃないかと思う。どうしてわざわざ「下」を付けたのだろう。
九段下駅は靖国通りを横切って南北に走る目白通りに沿ってある。日本橋川とほぼ平行している。昔は日本橋川を東に渡れば、神田区だった。九段下は麹町区にありながら、その縁に沿っており、だから九段ではなく九段下が相応しいと考えられたのかもしれない。だったら神楽坂駅は神楽坂上じゃないのか?
九段下駅を降りて、靖国通りを西進すると右に靖国神社、左に北の丸公園がある。通勤通学で利用する人以外はおそらくこのどちらかに向かう可能性が高い。公園内にある日本武道館でコンサートなどイベントがあると田安門の辺りにまるで桜が満開を迎えたみたいに大勢の人でごった返す。このようなたまにしかこの駅を訪れることがない人に駅を降りたら坂道がありますよ、平坦な道ではないですよと乗客にわかりやすく暗示するための「下」なのかもしれない。
坂の上には僕が通った高校がある。大して思い出はないのだが、夏休みか何かの課題で梶井基次郎の『檸檬』を読んで感想を書けという。あまり読書する習慣のなかった僕には辛い課題だった。多分、表題作の「檸檬」と他のいくつかの短編を読んでお茶を濁したような気がする。梶井基次郎のファンだという同級生がいて、どんな話なのかと訊いてみたが、そいつの話もよくわからなかった。
ときどき九段下駅で降りて、あの坂道を登ると昔のことを思い出す。
2024年8月18日日曜日
三遊亭圓生『浮世に言い忘れたこと』
夏休みになってしばらくすると南房総乙浜から祖父が上京する。ひと晩泊って、翌日、姉と僕を連れて祖父は帰る。両国駅発の列車に乗って。
小学校に上がった頃から、あるいは就学前からだったかもしれないが、僕は白浜の父の実家で夏を過した。最初の記憶が1966(昭和41)年だったとすると当時、房総東線(今の内房線)は電化されておらず、C57という蒸気機関車が列車を牽引していたはず。もちろんその頃は鉄道に興味はなく、もったいないことをしたと思う。僕が一年生のとき、1904(明治37)年生まれの祖父は62歳だった。いつの間にか当時の祖父の年齢を超えてしまっている。祖父はいつも両国駅で冷凍みかんを買ってくれた。今でも両国駅に行くと甘くて酸っぱくて冷たいみかんを思い出す。
昔は上野駅が東北、上信越方面の玄関であり、東京駅は関西以西九州方面の玄関、新宿駅は甲州信州の玄関だった。同様に千葉方面の玄関口は両国駅だった。東京は行先のよって駅が異なるパリみたいだった。今はあらゆる列車が東京駅を起点としている。ちょっと味気ない。
この本では晩年の圓生が若き日々を振りかえる。落語のこと、寄席のこと、芸のこと。暮らしのことや、食べもののこと、着物のことなど衣食住に関しても話している。食い道楽、着道楽だったことなども伺える。今はこうだが、昔はこうだったみたいな話は年寄りくさくもあるが、明治大正昭和を知る噺家ならではの話題で持ちきりである。
圓生は1900(明治33)年生まれ。祖父と同世代である。祖父は若い頃はお洒落な人だったと聞いたことがある。いい着物や洋服を何着も持っていたという。日本では大正時代から昭和の初期にかけて、生活様式が洋風化し、大衆文化が発展する。時代的には圓生や祖父たちの青春時代と重なる。都会と地方では格差は当然あっただろうが、祖父も多少は都会の流行に接する機会があったのかもしれない。
小学校に上がった頃から、あるいは就学前からだったかもしれないが、僕は白浜の父の実家で夏を過した。最初の記憶が1966(昭和41)年だったとすると当時、房総東線(今の内房線)は電化されておらず、C57という蒸気機関車が列車を牽引していたはず。もちろんその頃は鉄道に興味はなく、もったいないことをしたと思う。僕が一年生のとき、1904(明治37)年生まれの祖父は62歳だった。いつの間にか当時の祖父の年齢を超えてしまっている。祖父はいつも両国駅で冷凍みかんを買ってくれた。今でも両国駅に行くと甘くて酸っぱくて冷たいみかんを思い出す。
昔は上野駅が東北、上信越方面の玄関であり、東京駅は関西以西九州方面の玄関、新宿駅は甲州信州の玄関だった。同様に千葉方面の玄関口は両国駅だった。東京は行先のよって駅が異なるパリみたいだった。今はあらゆる列車が東京駅を起点としている。ちょっと味気ない。
この本では晩年の圓生が若き日々を振りかえる。落語のこと、寄席のこと、芸のこと。暮らしのことや、食べもののこと、着物のことなど衣食住に関しても話している。食い道楽、着道楽だったことなども伺える。今はこうだが、昔はこうだったみたいな話は年寄りくさくもあるが、明治大正昭和を知る噺家ならではの話題で持ちきりである。
圓生は1900(明治33)年生まれ。祖父と同世代である。祖父は若い頃はお洒落な人だったと聞いたことがある。いい着物や洋服を何着も持っていたという。日本では大正時代から昭和の初期にかけて、生活様式が洋風化し、大衆文化が発展する。時代的には圓生や祖父たちの青春時代と重なる。都会と地方では格差は当然あっただろうが、祖父も多少は都会の流行に接する機会があったのかもしれない。
2024年8月2日金曜日
柳田國男『こども風土記』
子どもの頃、馬乗りという遊びをよくした。主に男の子の遊びで冬場にすることが多かった。
どんな遊びかというと(文章で説明するのは大変難しいのだが)だいたい10人前後がふた組にわかれる。馬側と乗り側である。馬側はまずひとり、壁を背にして立つ。残りは馬になる。先頭の馬は腰を折って、立っている子の股間に頭を突っ込む。馬は足を肩幅くらいにひろげる。二番目の馬はやはり腰を折り曲げて、一番目の馬の股間に頭を入れる。そうやって例えば1チーム5人なら4人の馬が連なる。
乗り手は助走をつけて、跳び箱を飛ぶような感じで馬に飛び乗る。5人が乗ったら先頭の乗り手と壁を背にした子がじゃんけんをし、勝った方が乗り手になる。もちろんじゃんけんで決着するのは順当に5人の乗り手が馬に乗れた場合であって、馬の上でバランスを崩してしまう乗り手もいれば、飛び乗ったとき勢い余って横に落ちてしまう乗り手もいる。これは「オッコチ」と呼ばれ、誰かがオッコチした場合、攻守が入れ替わる。また身体の小さい弱そうな子の上に全員が重なるように乗るなどして馬をつぶしてしまうこともある。これは「オッツブレ」と呼ばれ、乗り手側は次も乗り手として遊びを継続する。
なんでこんなことを思い出したかというと、この本に紹介されている「鹿鹿角何本」という広く伝わった子どもの遊びの延長線上に馬乗りという遊びがあるらしいとわかったからだ(馬乗りは地方によっては胴乗りとも呼ばれていたらしい)。昔は乗り手が馬に乗ると指を何本か馬の背に突き当てて鹿鹿角何本と言ったそうだが、僕は知らない。
馬乗りをしていたのは小学生の頃だ。1960年代の後半から70年代のはじめくらい。その後は小学生ではなくなったので、後輩にあたる小学生たちが馬乗りを連綿と受け継いでいったのかどうかは知らない。
馬乗りはまだ子どもたちの間で行われているのだろうか。馬乗りはどこへ行ってしまったのだろうか。
どんな遊びかというと(文章で説明するのは大変難しいのだが)だいたい10人前後がふた組にわかれる。馬側と乗り側である。馬側はまずひとり、壁を背にして立つ。残りは馬になる。先頭の馬は腰を折って、立っている子の股間に頭を突っ込む。馬は足を肩幅くらいにひろげる。二番目の馬はやはり腰を折り曲げて、一番目の馬の股間に頭を入れる。そうやって例えば1チーム5人なら4人の馬が連なる。
乗り手は助走をつけて、跳び箱を飛ぶような感じで馬に飛び乗る。5人が乗ったら先頭の乗り手と壁を背にした子がじゃんけんをし、勝った方が乗り手になる。もちろんじゃんけんで決着するのは順当に5人の乗り手が馬に乗れた場合であって、馬の上でバランスを崩してしまう乗り手もいれば、飛び乗ったとき勢い余って横に落ちてしまう乗り手もいる。これは「オッコチ」と呼ばれ、誰かがオッコチした場合、攻守が入れ替わる。また身体の小さい弱そうな子の上に全員が重なるように乗るなどして馬をつぶしてしまうこともある。これは「オッツブレ」と呼ばれ、乗り手側は次も乗り手として遊びを継続する。
なんでこんなことを思い出したかというと、この本に紹介されている「鹿鹿角何本」という広く伝わった子どもの遊びの延長線上に馬乗りという遊びがあるらしいとわかったからだ(馬乗りは地方によっては胴乗りとも呼ばれていたらしい)。昔は乗り手が馬に乗ると指を何本か馬の背に突き当てて鹿鹿角何本と言ったそうだが、僕は知らない。
馬乗りをしていたのは小学生の頃だ。1960年代の後半から70年代のはじめくらい。その後は小学生ではなくなったので、後輩にあたる小学生たちが馬乗りを連綿と受け継いでいったのかどうかは知らない。
馬乗りはまだ子どもたちの間で行われているのだろうか。馬乗りはどこへ行ってしまったのだろうか。
2024年6月25日火曜日
講談社校閲部『間違えやすい日本語実例集』
今の東急大井町線と池上線は別々の鉄道会社が経営していて、大井町線には東洗足という駅があり、池上線には旗が岡という駅があった。その後乗り換えできるように統合され、旗の台駅になった。実相寺昭雄『昭和鉄道少年』にそんなことが書いてあった。
旗の台は品川区民にはよく知られた地域である。区内で随一といっていい昭和大学病院が聳え立っているからである。池上線のホームとつながった改札から降りた乗客の多くは中原街道方面に歩く。おそらくは昭和大学病院に向かうのであろう。
旗の台駅から僕の実家までは2キロ弱。大井町線の隣駅荏原町を横に見ながら商店街をすすんでいく。第二京浜国道を渡ってさらに直進する。道は一直線である(三間通りと呼ばれている)。学区域が違うので友人や知人はいないが、昔から身近な地域だった。
広告制作の仕事をしてきてよかったと思うのは、いろんな業種の人たちと話ができたことだ。食品会社の人、製薬会社の人、金融関係の人、石油会社の人や官公庁の人たちなど枚挙にいとまがない。もちろん広告を通じてということだから、広告とあまり関係のない仕事には接することはなかった。たとえば医療関係者や学芸員、図書館司書など。
出版関係には友人が何人かいたが、裏方ともいえる校閲担当の人とは接点はなかった。どんな仕事なのか興味を持ったのは以前に読んだ牟田都子著『文にあたる』を読んだときだ。この本は校正や校閲を担当するものとしての心がまえみたいなことが語られている。今回読んだのは実際の校閲者が具体的にどんな事例に出会い、どう対処してきたかというきわめて実務的な現場のお話である。臨場感がある。
細々とブログを続けてきたが、僕の文章なんて小っ恥ずかしい赤字の宝庫なんだろうな。まったくもって汗をかく一冊だ。
さて、その日は旗の台で用事を済ませた後、実家まで歩いて、父に線香をあげる。父の誕生日も近かったから。
2024年4月14日日曜日
安西水丸『水丸劇場』
横浜に行ったのは2019年5月以来だと記憶する。
以前読んだ北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』に取り上げられていた昭和33年の東芝日曜劇場「マンモスタワー」を視たいと思い、横浜の放送ライブラリーを訪れた(おそらくここでしか視聴できないはず)。
テレビ番組のほとんどが生放送だった時代、少しだけ普及しはじめたVTRがこのドラマで部分的に使われている(インサートやオープニングなど)。ドラマの主要部分は生放送だから、台詞の言い間違いなど明らかなNGシーンもそのまま放映されていた。この頃のテレビ番組はほぼアーカイブが残されていないが、今でも視聴できるこのドラマは奇跡と言っていい。主演は人気絶頂の映画スター森雅之。特別出演の森繁久彌が存在感を放っていた。
70分のドラマを見終わって、ふと、去年ある放送局を定年退職した高校バレーボール部の後輩Nからもらった年賀状を思い出した。再就職し、勤務地は横浜だと記されていた。それってもしかして、ここ(放送ライブラリー)じゃないかなと不思議に勘が働いて、物は試し、受付でN〇〇〇さんってこちらにいらっしゃいますかと訊ねてみた。するとどうだろう、内線電話をかけはじめるではないか。
5分後、30数年ぶりでNと再会を果たすことができた。
電車のなかで安西水丸を読む。この本は安西の没後、「クリネタ」というニッチな雑誌に特集された記事を中心にまとめられ、急遽刊行されたものだ。
氏の書いた4コマ漫画やフィクション、カレーライスのこと、眼鏡のことなどさまざまな切り口から生前の安西を忍んでいる。和田誠、黒田征太郎、大橋歩らの追悼文のほかに南青山にあったバー、アルクール店主の勝教彰、水丸事務所を支えた(今でも支えている?)大島明子のコメントも載っている。
あれから10年。多くのファンにとってと同様、安西水丸は僕にとっても忘れられない、忘れてはいけない存在なのである。
以前読んだ北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』に取り上げられていた昭和33年の東芝日曜劇場「マンモスタワー」を視たいと思い、横浜の放送ライブラリーを訪れた(おそらくここでしか視聴できないはず)。
テレビ番組のほとんどが生放送だった時代、少しだけ普及しはじめたVTRがこのドラマで部分的に使われている(インサートやオープニングなど)。ドラマの主要部分は生放送だから、台詞の言い間違いなど明らかなNGシーンもそのまま放映されていた。この頃のテレビ番組はほぼアーカイブが残されていないが、今でも視聴できるこのドラマは奇跡と言っていい。主演は人気絶頂の映画スター森雅之。特別出演の森繁久彌が存在感を放っていた。
70分のドラマを見終わって、ふと、去年ある放送局を定年退職した高校バレーボール部の後輩Nからもらった年賀状を思い出した。再就職し、勤務地は横浜だと記されていた。それってもしかして、ここ(放送ライブラリー)じゃないかなと不思議に勘が働いて、物は試し、受付でN〇〇〇さんってこちらにいらっしゃいますかと訊ねてみた。するとどうだろう、内線電話をかけはじめるではないか。
5分後、30数年ぶりでNと再会を果たすことができた。
電車のなかで安西水丸を読む。この本は安西の没後、「クリネタ」というニッチな雑誌に特集された記事を中心にまとめられ、急遽刊行されたものだ。
氏の書いた4コマ漫画やフィクション、カレーライスのこと、眼鏡のことなどさまざまな切り口から生前の安西を忍んでいる。和田誠、黒田征太郎、大橋歩らの追悼文のほかに南青山にあったバー、アルクール店主の勝教彰、水丸事務所を支えた(今でも支えている?)大島明子のコメントも載っている。
あれから10年。多くのファンにとってと同様、安西水丸は僕にとっても忘れられない、忘れてはいけない存在なのである。
2024年1月20日土曜日
半村良『戦国自衛隊』
斎藤光正監督「戦国自衛隊」が公開されたのが1979年12月。僕が20歳のときである。文庫本と映画がコラボレーションする、いわゆる角川映画のひとつだった。角川映画は角川書店(現KADOKAWA)が映画をベースにしたメディアミックス展開として知られていた。
第一作は市川崑監督「犬神家の一族」(原作横溝正史)だそうだが、第二作の「人間の証明」(佐藤純彌監督)が話題になった。森村誠一の原作もジョー山中が歌った主題歌もヒットした。1977年。僕は高校三年生だった。
五作目にあたる「戦国自衛隊」に興味はそそられたが、劇場でこの映画は観ていない。当時あまり映画を観る習慣がなかったのである(後にテレビで視たが鮮明な記憶は残っていない)。
年が明けて1980年。読書記録によれば、この年の1月にこの本を読んでいる。映画を観る前に原作を読んでおこうと思ったのか、映画を観るお金がなかったから文庫本だけで済ませようと思ったのか。季節的には学年末の試験やレポートなどに追われていた頃だと思う。あと三カ月で大学三年生になる。今となっては遥か彼方の遠い記憶であるが、学生時代ももうじき折り返しかと思うとちょっと憂鬱な心持になる、そんな時期だった。
年が明けて1980年。読書記録によれば、この年の1月にこの本を読んでいる。映画を観る前に原作を読んでおこうと思ったのか、映画を観るお金がなかったから文庫本だけで済ませようと思ったのか。季節的には学年末の試験やレポートなどに追われていた頃だと思う。あと三カ月で大学三年生になる。今となっては遥か彼方の遠い記憶であるが、学生時代ももうじき折り返しかと思うとちょっと憂鬱な心持になる、そんな時期だった。
半村良という作家は当時も今もくわしくは知らない。『戦国自衛隊』から30年経って、『葛飾物語』を読んだ。葛飾の長屋を舞台に昭和の庶民を描いた素敵な小説だった。その後『小説浅草案内』を読む。ここに登場する粋で素朴な浅草っ子がいい。僕にとって、半村良は決してSF作家ではないが、遠い昔に『戦国自衛隊』との出会いがなければ、半村良の描く東京の東側にはお目にかかれなかったかもしれない。つまり『戦国自衛隊』の半村良という記憶があったから、彼の描く下町に出会えた気がするのである。
そういえばパスティーシュの名手清水義範の師匠が半村良だったっけ。清水義範のSFのなかでは『イマジン』が好きだ。
2023年11月19日日曜日
フランツ・カフカ『変身』
大学に入学したのは1978年のことである。
そこは教員養成系の大学だった。特段、教員になりたいという希望はなかった。それどころか、将来自分が何になりたいかということをあまり考えていなかった。とりあえず受かりそうな大学を選んで受験し、結果的に教員養成系の大学に合格したのである。
高校時代の成績不振により、理工系を断念。文系学部に志望を変えたのだが、法律や経済はどことなく近寄りがたく、かといって文学部をめざすほどでもない。文学部に憧れはあったものの、もう少しお手軽な学部はないかと模索していたのである。もちろん教育学部がお手軽とは今でも思っていないが。
近所に東京教育大学を卒業し、出版社に勤務している方がいた。学業優秀でたしか中学から国立に通っていたと聞く。文学部に憧れたのもこの人のせいかもしれない。そんなこんなで教育系の大学を受験したのかもしれない。
入学して一、二年は教育学の概論的な本や当時明治図書から出版されていた世界教育学選集(コメニュウス『大教授学』やコンドルセ『公教育の原理』など)を読んでいた。そのうち大江健三郎を読みはじめ、その後小説が多くなる。海外の小説も読みはじめたが、カフカの『変身』は比較的はやい時期だった。そのすぐ後にカミュの『異邦人』を読んでいる。たぶん実存主義とか不条理文学なるものに多少は関心を抱いた頃なのかもしれない。
それにしてもグレゴール・ザムザの、この物語は冒頭のインパクトが強すぎて、その後どうなったのか、最後はどうなったんだっけといった部分の記憶が飛んでいる。朝起きたら虫になっていたってどういうことなんだ、明日もし俺が朝起きて虫になっていたとしたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと考えているうちに物語は後半を迎える。もういちど読んでみようかと思うけれど、再読したところでやはり冒頭のインパクトによって後半を忘れてしまいそうなのでよしておく。
そこは教員養成系の大学だった。特段、教員になりたいという希望はなかった。それどころか、将来自分が何になりたいかということをあまり考えていなかった。とりあえず受かりそうな大学を選んで受験し、結果的に教員養成系の大学に合格したのである。
高校時代の成績不振により、理工系を断念。文系学部に志望を変えたのだが、法律や経済はどことなく近寄りがたく、かといって文学部をめざすほどでもない。文学部に憧れはあったものの、もう少しお手軽な学部はないかと模索していたのである。もちろん教育学部がお手軽とは今でも思っていないが。
近所に東京教育大学を卒業し、出版社に勤務している方がいた。学業優秀でたしか中学から国立に通っていたと聞く。文学部に憧れたのもこの人のせいかもしれない。そんなこんなで教育系の大学を受験したのかもしれない。
入学して一、二年は教育学の概論的な本や当時明治図書から出版されていた世界教育学選集(コメニュウス『大教授学』やコンドルセ『公教育の原理』など)を読んでいた。そのうち大江健三郎を読みはじめ、その後小説が多くなる。海外の小説も読みはじめたが、カフカの『変身』は比較的はやい時期だった。そのすぐ後にカミュの『異邦人』を読んでいる。たぶん実存主義とか不条理文学なるものに多少は関心を抱いた頃なのかもしれない。
それにしてもグレゴール・ザムザの、この物語は冒頭のインパクトが強すぎて、その後どうなったのか、最後はどうなったんだっけといった部分の記憶が飛んでいる。朝起きたら虫になっていたってどういうことなんだ、明日もし俺が朝起きて虫になっていたとしたら、俺はどうやって生きていけばいいんだと考えているうちに物語は後半を迎える。もういちど読んでみようかと思うけれど、再読したところでやはり冒頭のインパクトによって後半を忘れてしまいそうなのでよしておく。
2023年5月28日日曜日
村上春樹『街とその不確かな壁』
実家から歩いて10分ほどの小さな神社のなかに図書館があった。当時わが家からいちばん近い図書館だった思う。そこからさらに5分ほど歩くと大きな図書館があり、神社のなかの図書館はその分館だった。
こじんまりとした木造二階建ては、当時の小学校の校舎を連想させた。一階は大人向けの本が並び、黒光りした木の階段を昇ると絵本や児童書のコーナーがあったと記憶する。今はもうその場所に図書館はなく、記憶も薄れてきているが、そこは僕が生まれてはじめて訪ねた図書館だった。
図書館にはササキさんという中年の男性がいた。不思議なことにはじめて会ったときから僕と姉のことを知っていた。貸し出しカードの名前を見て、ふたりを知り合いの子だと気づいたのだろう。ササキさんは区役所に勤めていて、その頃この図書館に派遣されていたのだった。父と酒場で知り合ったことはずっと後になってから聞いた。
実家からバス通りを避け、裏道を行く。5分ほど歩くと橋が架かっていた。そう、川が流れていたのだ。西から東へ。昭和40年代に暗渠化されて、今ではバス通りになっている。ほぼ川沿いを歩いて、橋を渡ってたどり着く小さな社のなかにある小さな木造の図書館。今にして思えば、なんと神秘的な場所だったことか。
その後、区内に図書館が増えてきた。大きな図書館が近隣にいくつかできて、いつしか神社のなかの図書館に通うことは少なくなり、そしていつしか図書館もなくなっていた。
村上春樹の6年ぶりとなる新作長編を読む。40年以上前に雑誌に掲載され、その後単行本化されなかった中編の書き直しといわれている。きわめて動きの少ない静かな静かな物語だった。そして昔よく行った図書館を思い出させてくれた。
僕がはじめて通った図書館は本当にもうなくなってしまったのだろうか。どこか知らない街にひっそり佇んでいるのではないだろうか。高く不確かな壁に囲まれて、無数の夢を蔵書として。
こじんまりとした木造二階建ては、当時の小学校の校舎を連想させた。一階は大人向けの本が並び、黒光りした木の階段を昇ると絵本や児童書のコーナーがあったと記憶する。今はもうその場所に図書館はなく、記憶も薄れてきているが、そこは僕が生まれてはじめて訪ねた図書館だった。
図書館にはササキさんという中年の男性がいた。不思議なことにはじめて会ったときから僕と姉のことを知っていた。貸し出しカードの名前を見て、ふたりを知り合いの子だと気づいたのだろう。ササキさんは区役所に勤めていて、その頃この図書館に派遣されていたのだった。父と酒場で知り合ったことはずっと後になってから聞いた。
実家からバス通りを避け、裏道を行く。5分ほど歩くと橋が架かっていた。そう、川が流れていたのだ。西から東へ。昭和40年代に暗渠化されて、今ではバス通りになっている。ほぼ川沿いを歩いて、橋を渡ってたどり着く小さな社のなかにある小さな木造の図書館。今にして思えば、なんと神秘的な場所だったことか。
その後、区内に図書館が増えてきた。大きな図書館が近隣にいくつかできて、いつしか神社のなかの図書館に通うことは少なくなり、そしていつしか図書館もなくなっていた。
村上春樹の6年ぶりとなる新作長編を読む。40年以上前に雑誌に掲載され、その後単行本化されなかった中編の書き直しといわれている。きわめて動きの少ない静かな静かな物語だった。そして昔よく行った図書館を思い出させてくれた。
僕がはじめて通った図書館は本当にもうなくなってしまったのだろうか。どこか知らない街にひっそり佇んでいるのではないだろうか。高く不確かな壁に囲まれて、無数の夢を蔵書として。
2023年5月21日日曜日
東京コピーライターズクラブ、鈴木隆祐『コピーライターほぼ全史』
1980年代にコピーライターブームがあった。僕は当時、小さな出版社にでも潜りこんで編集者になろうと思っていた。
大手広告会社でグラフィックデザイナーを経て、やはり大手の出版社でエディトリアルデザイナーでもあった叔父からコピーライターをめざせとアドバイスをもらった。そこで通いはじめたコピーライター養成講座。思っていたほどコピーは書けなかった。出される課題は橋にも棒にもかからない。唯一、たまに佳作として選ばれるのはラジオCMの原稿だった。話しことばより書き言葉の方が得意だと思っていたのに。
電波媒体の広告制作を仕事とするようになったのにはそんな経緯がある。
かつて広告制作に携わる人はアートディレクターと呼ばれていた。アートもだいじだけど、メッセージもたいせつだよねってことで昭和30年代、それまでの広告文案家はアメリカから輸入されたコピーライターという単語で呼ばれるようになった。コピー十日会を前身とする東京コピーライターズクラブが誕生したのもこの頃である。
この本の最初の方に登場してくる方々は、僕が30歳くらいの頃の上司の上司である(僕の上司もTCCクラブ賞をかつて受賞している)。それから若い世代が台頭してきて、スターがあらわれ、名作コピーの数々が誕生した。商品の差別化が難しくなってきて、広告も少しずつ変わってきた。その変化をいちはやく捉えてヒットCMをつくりだす若きコピーライターまでこの本は網羅している。
磯島拓矢の項に「北海道国際空港(現AIR DO)」とあった。おそらく校正漏れだろう。著者はジャーナリストであるという。致し方ないところであるが、コピーライターなら広告主名はまず間違えることはない。タイトルにある「ほぼ」とは、こうした不完全なところがありますよ、ということか。
まあ、別に目くじら立てて非難するわけではもちろんない。完璧な文章は完璧な絶望と同じくらい存在しないのだから。
かつて広告制作に携わる人はアートディレクターと呼ばれていた。アートもだいじだけど、メッセージもたいせつだよねってことで昭和30年代、それまでの広告文案家はアメリカから輸入されたコピーライターという単語で呼ばれるようになった。コピー十日会を前身とする東京コピーライターズクラブが誕生したのもこの頃である。
この本の最初の方に登場してくる方々は、僕が30歳くらいの頃の上司の上司である(僕の上司もTCCクラブ賞をかつて受賞している)。それから若い世代が台頭してきて、スターがあらわれ、名作コピーの数々が誕生した。商品の差別化が難しくなってきて、広告も少しずつ変わってきた。その変化をいちはやく捉えてヒットCMをつくりだす若きコピーライターまでこの本は網羅している。
磯島拓矢の項に「北海道国際空港(現AIR DO)」とあった。おそらく校正漏れだろう。著者はジャーナリストであるという。致し方ないところであるが、コピーライターなら広告主名はまず間違えることはない。タイトルにある「ほぼ」とは、こうした不完全なところがありますよ、ということか。
まあ、別に目くじら立てて非難するわけではもちろんない。完璧な文章は完璧な絶望と同じくらい存在しないのだから。
2023年4月23日日曜日
持田叙子編『安岡章太郎短編集』
昭和50年に僕は高校に入学し、「靖国神社の隣にあり」「暗く、重苦しく、陰気な感じのする」校舎に通った。この短編集に収められている「サアカスの馬」は中学生時代に教科書に載っていた。まさか自分がその学校の生徒になるとは思いもしなかった。
ライコウという先生がいた。雷公なのか雷光か、どう表記するかは知らないが、その名のとおり発雷確率の高い社会科の教師だった。本当の名前は(記憶がたしかならば)林三郎である。
ライコウはこの学校に奉職して50年を超えているという。ひとつの学校に大正時代からいたなんてにわかに信じられない。昔の学校制度は詳しくないが、仮に17、8で師範学校か中学校を出て教職に就いたとすると、僕の入学時には70歳くらいだったのではなかろうか。どうしてひとつのそんなに長く学校にいたのか、それもわからない。僕の出身校の前身は東京府立の中学校ではなく、東京市のそれであった。府立の学校にくらべて数の少ない市立中学では異動も少なかったのかもしれない。
ライコウの担当教科は政治経済だった。僕たちの時代は三年生で履修した。社会科というとメインは日本史、世界史、地理で政治経済と二年時に履修する倫理社会は地味な科目だった。ライコウの授業はほぼ教科書通りだったと記憶しているが、脱線することも多かった。余計な話といっても、政治談議や景気の動向なんかでは決してなく、この学校の偉大なる卒業生の話ばかりであった。いろんな卒業生の名前が出てきた。当時はノートに書いたりしていたが、ほとんど忘れている(このノートが現存すればなあと思うが、いまさら持っていても、とも思う)。頻繁に話題になったのはロケット工学者の糸川秀夫である。「諸君の先輩、糸川君は…」などとよく話していたものだ。
ライコウの余談のなかに究極の劣等生、安岡章太郎が登場することはいちどもなかった。これだけはたしかである(記憶は甚だ曖昧であるけれど)。
ライコウという先生がいた。雷公なのか雷光か、どう表記するかは知らないが、その名のとおり発雷確率の高い社会科の教師だった。本当の名前は(記憶がたしかならば)林三郎である。
ライコウはこの学校に奉職して50年を超えているという。ひとつの学校に大正時代からいたなんてにわかに信じられない。昔の学校制度は詳しくないが、仮に17、8で師範学校か中学校を出て教職に就いたとすると、僕の入学時には70歳くらいだったのではなかろうか。どうしてひとつのそんなに長く学校にいたのか、それもわからない。僕の出身校の前身は東京府立の中学校ではなく、東京市のそれであった。府立の学校にくらべて数の少ない市立中学では異動も少なかったのかもしれない。
ライコウの担当教科は政治経済だった。僕たちの時代は三年生で履修した。社会科というとメインは日本史、世界史、地理で政治経済と二年時に履修する倫理社会は地味な科目だった。ライコウの授業はほぼ教科書通りだったと記憶しているが、脱線することも多かった。余計な話といっても、政治談議や景気の動向なんかでは決してなく、この学校の偉大なる卒業生の話ばかりであった。いろんな卒業生の名前が出てきた。当時はノートに書いたりしていたが、ほとんど忘れている(このノートが現存すればなあと思うが、いまさら持っていても、とも思う)。頻繁に話題になったのはロケット工学者の糸川秀夫である。「諸君の先輩、糸川君は…」などとよく話していたものだ。
ライコウの余談のなかに究極の劣等生、安岡章太郎が登場することはいちどもなかった。これだけはたしかである(記憶は甚だ曖昧であるけれど)。
2023年2月20日月曜日
浅田次郎『マンチュリアン・リポート』
「BSチューナーを買って、アンテナも付けたんだけど、映らないんだよ。こんどの休みの日に見てくれないか」
声をかけてきたのは当時僕が所属していた広告会社の副社長道山さんだった。ロンドンやニューヨークで広告ビジネスの経験を有する道山さんは、朴訥とした日本語からは想像しえないような英語を話した。プレゼンテーションの挨拶ではジョークをまじえてクライアントの重鎮たちを笑わせた。もちろん「聞く力」のない僕にはさっぱりわからなかったが。
当時制作を担当していた僕が作業スペースにあるモニターやビデオデッキ、オーディオアンプなどの配線をしていたとき偶然通りがかった道山さんに声をかけられたのである。1989年か1990年の冬だったと思う。NHKがBSの本放送を開始したのは89年の6月だったから。
結論的にいえば、あの手この手を尽くしたもののBSは映らなかった。チューナーの上面にねじ止めされたふたがあり、ねじがゆるんでいた。開けてみると小さなコイルがいくつか並んでいた。おそらく同調用の微調整コイルだろう。
「道山さん、ここを開けて、ドライバーか何かで中の部品、いじりましたか」
映らない理由がなんとなくわかった。アンテナを設置した業者さんに聞いてみてくださいと告げて作業を終えた。
道山さんのお宅で大きな餃子と奥さんが漬けたピクルスをごちそうになった。餃子は大きく、銀座にある天龍という中華料理店のそれとよく似ていた。ピクルスはニンニクの利いた独特の味がした。
「僕はね、満洲で生まれ育ったんだよね。子どもの頃から食べてきた餃子と僕がロシア人から教わったピクルスを女房に教えたんだ。これと同じものをつくってくれって」
満洲という大地もその時代も知らない僕がはじめて満洲に触れたひとときだった。
その後、BS放送は映るようになって、ロンドンやニューヨークから発信されるニュース番組を道山さんは毎日楽しみにしていたという。
声をかけてきたのは当時僕が所属していた広告会社の副社長道山さんだった。ロンドンやニューヨークで広告ビジネスの経験を有する道山さんは、朴訥とした日本語からは想像しえないような英語を話した。プレゼンテーションの挨拶ではジョークをまじえてクライアントの重鎮たちを笑わせた。もちろん「聞く力」のない僕にはさっぱりわからなかったが。
当時制作を担当していた僕が作業スペースにあるモニターやビデオデッキ、オーディオアンプなどの配線をしていたとき偶然通りがかった道山さんに声をかけられたのである。1989年か1990年の冬だったと思う。NHKがBSの本放送を開始したのは89年の6月だったから。
結論的にいえば、あの手この手を尽くしたもののBSは映らなかった。チューナーの上面にねじ止めされたふたがあり、ねじがゆるんでいた。開けてみると小さなコイルがいくつか並んでいた。おそらく同調用の微調整コイルだろう。
「道山さん、ここを開けて、ドライバーか何かで中の部品、いじりましたか」
映らない理由がなんとなくわかった。アンテナを設置した業者さんに聞いてみてくださいと告げて作業を終えた。
道山さんのお宅で大きな餃子と奥さんが漬けたピクルスをごちそうになった。餃子は大きく、銀座にある天龍という中華料理店のそれとよく似ていた。ピクルスはニンニクの利いた独特の味がした。
「僕はね、満洲で生まれ育ったんだよね。子どもの頃から食べてきた餃子と僕がロシア人から教わったピクルスを女房に教えたんだ。これと同じものをつくってくれって」
満洲という大地もその時代も知らない僕がはじめて満洲に触れたひとときだった。
その後、BS放送は映るようになって、ロンドンやニューヨークから発信されるニュース番組を道山さんは毎日楽しみにしていたという。
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