2021年10月29日金曜日

筧裕介『認知症世界の歩き方』

ソーシャルデザインとは、人間の持つ「創造」の力で、社会が抱える複雑な課題の解決に挑む活動である。コマーシャルではなく、ソーシャル。商売のためではなく社会のためのデザインであると先日読んだ『ソーシャルデザイン実践ガイド』に書いてあった。著者筧裕介はソーシャルデザインを、社会が抱える課題の森をつくり、整理して突破口を見つけ、解決に必要な道を拓く活動としている。そしてその旅の工程は、森を知る、声を聞く、地図を描く、立地を選ぶ、仲間をつくる、道を構想する、道をつくるという7つのステップで構成されるという。
著者が認知症と高齢社会という社会課題に対して試みたソーシャルデザインが『認知症世界の歩き方』である。
認知症にはアルツハイマー型、脳血管性、レビー小体型、前頭側頭型などさまざまな種類があり、その症状も人それぞれ。時間や場所がわからなくなる人もいる。人の顔をおぼえられない人もいる。幻視幻聴に悩まされる人もいる。この本では数多くの当事者を取材し、その声を汲み上げ、認知症本人にしかわからない世界を地図を描くことで、道をつくることで誰にでも理解しやすいようにデザインしている。
認知症になると何もわからなくなる、何もできなくなる、そして最後は寝たきりになってしまうといった誤解や偏見が蔓延している。もちろん症状によってできなくなることはあるけれど、できることをできないことにしてしまったり、役割を取り上げるなどして症状を進行させてしまう周囲にも問題がある。
認知症を正しく理解してもらうために多くの当事者が声を上げている。認知症カフェや講演会などが全国各地で行われている。地道な努力の積み重ねが成果を見せている一方で、多くの人びとにひと目でわかる認知症世界の正しい世界を示すソーシャルデザインの仕事に希望を感じている。
巻頭に認知症世界の地図が描かれている。瞬時にソーシャルデザインの素晴らしさを確信した。

2021年10月26日火曜日

秋山具義『世界はデザインでできている』

先日、世田谷文学館でイラストレーター安西水丸展を観、今月は東京オペラシティアートギャラリーで和田誠展を観た。どちらも全国を巡回する国民的展示である。安西にはイラストレーターという肩書きが付いているが和田にはない。和田誠はアートディレクターであり、装丁家、絵本作家、アニメーション作家、映画監督、作曲家とまさにマルチな分野で活躍してきた。基本はイラストレーターに違いないけれど、彼の活動の数々を規定する言葉は見出しにくかったのだろう。
一線で活躍する以前の少年時代のスケッチや絵日記なども展示されていた。安西水丸もそうだったが、絵を描くことが本当に好きだったんだなということがよくわかる。子どもの頃から似顔絵が得意だったようだ。先生や友だちの似顔絵が多く遺されている。会ったことも人たちばかりなのに、どことなく似ているなと思えてしまう。
和田誠はライトパブリシティ時代の日々を『銀座界隈ドキドキの日々』という本に綴っている。映画を愛する彼は当時新宿にあった日活名画座のポスターを描き続けた(無償で)エピソードをそのなかで紹介している。青年和田誠の仕事が大きなパネル一面に展示されている。圧巻である。
ちくまプリマー新書は若い世代を対象に普遍的でベーシックなテーマを掘り下げるシリーズである(プリマーとは初歩読本、入門書という意味だ)。初学者や若者を対象にしているとはいえ、大人が読んでもためになる本も多い(菅野仁『友だち幻想』などは思わずうなってしまうほどの一冊だった)。
不勉強な僕は秋山具義という名前を知らなかった。知らなかったけれど読んでみるとデザインというひとことで語るには難解なテーマをやさしく説き明かしている。筑摩書房はなかなかいい人選をしたのではないかと思う。
若い人に限らず、たとえば広告やデザインの仕事をはじめたばかりの人たちにも秋山具義はわかりやすく声をかけてくれるに違いない。

2021年10月24日日曜日

井伏鱒二『漂民宇三郎』

8月のお盆はコロナ感染拡大のため例年行っている墓参りをやめた。9月のお彼岸のときでもと思ったが、それも行きそびれて結局10月になってしまった。南房総に向かう高速バスはコロナのせいかずいぶん便が減っている。行きは館山まで高速バス、JR内房線に乗り換えて千倉、千倉駅前から路線バスでと考えていた。高速バスから鉄道に乗り換えるのであれば、平日のほうがいい。休日だとどうしても道が混む。時間どおりに館山に到着できない場合もある。
前日に従兄に電話してあった。千倉駅まで迎えに来てくれるという。15分ほどで千倉町の大川という集落にたどり着く。6月に他界したもうひとりの従兄に線香をあげる(当然のように葬儀には行っていない)。迎えに来てくれた従兄の家に移動して、伯父と伯母に線香をあげ、コーヒーをご馳走になる。隣集落の白間津にも従兄が暮らしている。車で送ってもらう。白間津の従兄の家でも線香をあげて、祖父母が眠る寺に向かう。朝から冷たい雨が降っている。ここまでは母方の親戚。
寺から下りてもう一軒訪ねる。ここは父方の叔母がいる。さらに隣の集落、白浜町乙浜にもうひとり叔母がいる。乙浜の叔母に電話をして迎えに来てもらう。乙浜には父の実家があり、墓もある。父と親戚の墓をまわってひと段落である。順調に墓参りを済ませられると15時過ぎの東京駅行きの高速バスに間に合うはずだったが、その便はなくなっていた。天気がよければ掃除でもして夕方の便で帰るのだが、あいにくの雨である。叔母に千倉駅まで送ってもらい、そのまま2両編成の電車に乗って帰る。途中君津で快速に乗り換え、18時過ぎに帰宅。今年もようやくひと心地着いた。
車中、『漂民宇三郎』を読む。井伏鱒二も漂流ものを書いていたと知ったのは最近のこと。そういえば『ジョン万次郎漂流記』も井伏鱒二だったっけ。吉村昭とちがって、緊迫感があまりない。それはそれで読みやすくていい。

2021年10月19日火曜日

吉村昭『北天の星』

先日、NHKの音楽番組でピアノの歴史を放映していた。
弦を爪に弾くチェンバロにくらべ、ピアノはハンマーで弦を叩くしくみを持つ。音の強弱を鍵盤のタッチで表現できるようになった。18世紀以降急速に普及する。そして最初にピアノを見た日本人は大黒屋光太夫であると伝えていた。
ときどきではあるが、吉村昭を読む。
丹念に資料にあたり、関係者の話を聴く。創作によるところもあるにはあるが、史実に忠実に描いていくその姿勢に感服する。とりわけ感心するのはテーマとなる事件が終わったあと、後日談もしっかりまとめ上げるところだ。作品をドラマティックに終えてもそれはそれでいいと思うのだが、大概の場合、吉村昭は事件後を描く。ふりかえる。
たいした予備知識もなくこの本を読みはじめた。漂流したわけではないが『アメリカ彦蔵』『大黒屋光太夫』のような話なのだろうと思っていた。それにしてもロシアというのはひどい国である。これはあきらかに拉致事件といっていい。当時、日本とロシアは摩擦状態にあったというが、おそろしい話である。
主人公五郎治は二度逃亡を試みる。樺太の500キロ北にあるオホーツクからである。はじめは陸路で、続いて船で。いずれも追手に捕らわれるのであるが、極寒の地で飢えと戦いながらの逃亡劇は『長英逃亡』とはまた違った意味でスリリングだった。
五郎治は5年後、国後島に帰ってくる。大黒屋光太夫は帰国まで10年かかったから、ロシア滞在期間は半分である。光太夫がロシアでピアノをはじめて見たように、五郎治は種痘の現場を目撃する。その方法を詳細に筆記する。参考となる文献も手に入れる。
鎖国政策の時代であるから、海外からの帰国者はきびしい尋問を受け、行動を制限される。監視もされた。それでもようやく日本の土を踏んだ五郎治。まずはめでたしめでたしだった。ところがここから後日談がはじまる。
吉村昭が伝えたかったのは帰国後の五郎治だったのだ。

2021年10月17日日曜日

吉村昭『漂流』

子どもの頃は冒険物語が好きで、ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』や子ども向きに書かれたダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をよく読んだ。漂流してたどり着いた無人島で暮らすことを想像しながら。
大人になってからは無人島にもし一冊だけ本を持っていけるとしたら何?などと友人たちと会話していた。今なら『カラマーゾフの兄弟』と答えるだろう。無人島に一杯だけラーメンを持っていけたら、なんて話もした。
冬型の気圧配置が強まる。荒れた海。航行能力を失った船。北西風に流されて漂流する男たちはアホウドリが繁殖する島に着く。湧き水もない、火もない、岩だらけの島でどうやって行く生きていくのか。島から船影をみることはない。島にやってくるのは同じような漂流者のみ。絶望感の襲われて生命を落とす者もいる。
これまで何冊か吉村昭の小説を読んできたが、人間が生きていくことに関してここまで追い込んだ作品はなかった。軍艦をつくることも、トンネルを掘ることも、まぐろを獲ることも、ハブを捕まえることも、それはそれで大変なことだけれど、何もない、誰もいない、本来ならば生きるすべのない島で生きること、生きて帰ることを吉村昭はテーマに据えた。裏を返せば、人間の無力さとその克服がテーマであると言っていい。
土佐から4人で漂着した主人公長平は仲間を失い、ひとりで生きていく。後からやってくる漂流者から火や道具がもたらされる。人が増えることは知恵も増えることにつながる。長平がつくったのは保存食と防寒具だけだった。やがて彼らは道をつくり、池をつくる。そしてついには流木を集めて船づくりに取り組む。フイゴをつくって釘を鍛造する。それはそれは気の遠くなるような話である。
この小説は、人間という本来無力な存在が生きていく、その歳月の物語といえる。
無人島に一杯だけラーメンを持っていけるのであれば、日本橋たいめいけんのラーメンにしたい。

2021年10月13日水曜日

丹野智文『認知症の私から見える社会』

ついに横綱白鵬が引退の時を迎えた。
入幕したばかりの頃の白鵬をおぼえている。無駄も無理もないしなやか取り口でいずれは名力士になるであろう予感を持った。少年時代に卵焼きと読売巨人軍と並び称される国民的横綱大鵬がいた。若かりし頃の大鵬は知らないが、おそらく大鵬は白鵬のような柔軟な相撲を取っていたのではないかと想像した。
大鵬も白鵬も若くして頂点を極めた力士である。世間の風あたりも強かっただろう。横綱の地位は相撲の強さ以上の強さが求められる。その点、朝青龍も日馬富士も土俵の外で弱かった。横綱という地位はやはりたいへんなのだ。
白鵬は相撲を格闘技ととらえていた。もちろん相撲は格闘技ではあるのだけれど、神事であり、武道である。そのことを忘れて勝ち負けにこだわった相撲人生だった。彼の残した数々の記録がかすんで見える大相撲ファンは僕ひとりではないはずだ。
丹野智文は若くしてアルツハイマー型認知症と診断された。39歳のときだった。若さゆえに当時の絶望感もひとしおだったに違いない。もちろん今だって絶望感に襲われることがあるだろう。それでも彼は多くの認知症当事者に発信を続けている。当事者が暮らしやすい社会に向けて声を発している。自らの経験から得たアイデアを広く伝えている。
忘れることに備える工夫や予定を間違えない工夫、置き忘れをなくす工夫・物をなくさない工夫など、その工夫の数々が素晴らしい。タブレットやスマートフォンを積極的に活用していることも若い当事者ならではだ(高齢者には少しハードルが高いかもしれないけれど)。そしてこの本を執筆する際にもスマートフォンのメモアプリや読み上げ機能を活用したという。
丹野智文の文章や語り口には持ち前の明るさ、素直さが感じられる。そのせいもあって彼は、彼を支援してくれる人びとに恵まれている。
これからも多くの当事者の希望の星になってもらいたいと思う。

2021年10月10日日曜日

太田省一『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』

緊急事態宣言が解除された。
新型コロナ感染症の新規陽性者が8月下旬ころから減少してきた。なぜ減少してきたのかはいまだ解明されていない(納得いく説明を聞いたことがない)。ともかく昨年の今ごろと同じくらいの数に落ち着いている。
ひさしぶりに飲食店に出かける。30年ほど前に仕事でいっしょになった仲間ふたりとである(うちひとりは海外で仕事をしており、このタイミングで3年ぶりに帰国していた)。外でお酒を飲むのはほぼ一年ぶり。店は空いていて、入口も開けっ放し。極力マスクをするように気をつけていた。こうした飲み方がこれからのスタンダードなのかもしれない。お店の人は何時まででもいいと言ってくれたが、世の中全般ラストオーダー20時、閉店21時となっているので、はやめに解散した。
1980年代初めに漫才ブームが起きる。多くのお笑い芸人がテレビを席巻する。なかでもフジテレビ系の「オレたちひょうきん族」は毎週高視聴率をマークした。その後一時のブームは去ったものの、お笑い界は次から次へと新たな芸人を生んでいる。ここ数年も漫才やコントのコンテスト形式の番組をはじめ、お笑いはテレビの主要コンテンツになっている。
著者はテレビ文化論を専門とする社会学者で、お笑いの変遷を丁寧に調査分析している。説得力がある。現在の芸人たちを「お笑い第7世代」ととらえ、社会の変化とともにお笑いの質がどう変化してきたか語る。「第7世代」の前、80~90年代にかけて活躍した「第3世代」を生む土壌となったのが漫才ブームであり、タモリ、たけし、さんまのビッグ3である。
明石家さんまは毎日放送「ヤングおー!おー!」の頃の記憶はあるが、あまり頻繁に視ていなかった。関西の芸人ということで少し距離があったのかもしれない。タモリとビートたけしは主にラジオの深夜放送で熱心に聴いていた。なつかしい。
外飲みから帰宅して一時間くらいして大きな地震があった。

2021年10月4日月曜日

浅田次郎『長く高い壁 The Great Wall』

大学に進んで、第二外国語としてドイツ語を選択した。1年次に履修する初級(ドイツ語Ⅰ)はなんとかクリアしたものの、中級(ドイツ語Ⅱ)の単位を取得できないまま4年生になっていた。もうこれはなんとしてでも取らなくちゃならないならない。
当時の記憶はほとんどない。とりあえず飛び込んだ教室で履修カードを出した。幸運なことにカフカの短編を読む講義だった。毎週日本語訳をノートに書いて授業にのぞむには難解で手間ではあったが、カフカを読むというのはひとり旅した未知の街で知人に偶然会ったような気持だった。とはいえ文庫本で『変身』『審判』『城』を読んだ程度の付き合いでしかなかったが。
大学生としてのラストシーズンで(追いつめられながら)読んだのは“Beim Bau der Chinesischen Mauer”、直訳すると「万里の長城が築かれたとき」といった感じか。1981年、新潮社から決定版カフカ全集が刊行された年である(知っていれば手に入れていたのだがなあ)。独和辞典と格闘しながら、なんとか読み終えた。学年末の最後のテストもクリアできた。今この歳になってみれば、笑って話せる思い出のひとつだ。
浅田次郎のこの小説は、万里の長城が舞台になっている。
従軍記者として中国戦線に派遣された探偵小説家小柳逸馬が謎の事件の解明のため、現地に派遣される。戦記のようでもあり、推理小説のようでもある。事件に関与したと思われる人物一人ひとりの尋問が積み重ねられ、軍部の不合理もあぶり出され、この戦争の意味も問われる。が、それにもまして印象に残るのは兵士たちがうまそうに食べる中国料理だ。貧しいと思っていた中国の食卓は豊かなものだったと浅田次郎は登場人物の川津中尉に語らせている。
それはともかくとして、万里の長城という謎に包まれた舞台で謎に包まれた事件が起こる。謎に満ちた小説だった。万里の長城の謎を僕はカフカの短編に教えてもらった。

2021年10月2日土曜日

恩蔵茂『「FMステーション」とエアチェックの80年代』

大学生になってアルバイトをはじめて、最初に買ったのはカセットデッキだった。大学の生協で値引きされていた。
当時ウォークマンは発売されていなかったけれど、音楽を楽しむ主要メディアはカセットテープだった。うちにあるのはカセットデッキのみ。友人にレコードからカセットにコピーしてもらい、ヘッドホンで聴いていた。そのうちステレオを買い替えるという友人があらわれ、アンプとチューナーが要らなくなったという。あわせて5,000円で譲るという。10代でステレオを買い替えるというのはどんなお育ちだったのか知らないが、その週にアンプ、その次の週にチューナーを大学で受けとった。秋葉原に行って、小ぶりなスピーカーの箱(エンクロージャと呼ぶにはあまりに安価だった)と直径16センチのフルレンジスピーカーをふたつ買って、アンプにつないだ。ウォークマンが世に出る一年前、なんとか世間の若者並みに音楽を楽しめる環境ができた。もちろんラジカセが一台あれば済んだのだろうが。
レコードプレイヤーがなかったので録音する音楽はもっぱらFM放送だった。テレビやラジオの放送を録音することをエアチェックと呼んでいた。この本のタイトルを見たとき、上記のような昔日の思いがよみがえった。
FM情報誌という雑誌があった。
著者はそのなかの「FMステーション」という隔週刊誌の編集にたずさわっていたという。FM局がまだまだ少なかった時代とはいえ、時間に追われるたいへんな仕事だっただろうと想像する。ましてや先行する三誌「FMファン」「週刊FM」「FMレコパル」に大きく後れをとった新規参入。雑誌そのもののアイデンティティを見いだせないままの行き当たりばったり。70年代後半から80年代にかけて、時代はそんな自由さを許してくれていたのかもしれない。
当時、僕が愛読していたのは「FMレコパル」だった。
著者にはちょっと申し訳ない思いで読み終えた。