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2024年10月20日日曜日

井上靖『楊貴妃伝』

日曜日が祝日だと月曜が振替休日になる。よって、土日月と三連休になることが多い。9月に二度あり、10月に一度あった。11月にもある。
今月の三連休は用事があって軽井沢に出かけた。連休ということで人が多く、店も道路も混んでいた。
用事を済ませ、新幹線の自由席に乗ったが、空席がない。嫌になっちゃったので高崎で降りることにした。降りたところで行く当てもない。とりあえず改札を抜けると上信電鉄乗り場という案内が出ている。高崎から下仁田までの単線の私鉄である。途中上州富岡駅から徒歩で富岡製糸場に行けると案内に書かれている。単線のローカル鉄道はのどかでいい。コインロッカーに荷物を預け、一日乗り放題切符を買って、次に発車する電車を待つ。
調べてみると木造駅舎の駅があるようだ。上州一ノ宮駅と上州福島駅。このふた駅で下車し、写真を撮るなどして過ごす。というかそれ以外にすることもない。
上信電鉄の「信」は信州のことだが、この路線は長野県に通じていない。終点の下仁田から峠を越えて、今のJR小海線の駅につなぐ計画があり、社名を上野(こうずけ)鉄道から上信電気鉄道に変更したそうだ。
中学高校時代はほとんど本を読まなかった。夏休みの宿題で読まされることはあったが。ただ記憶しているのは井上靖の本を何冊か読んだことだ。おそらく中学のと『しろばんば』『夏草冬濤』を読んでいて著者に親しみを持っていたのだろう。中国の歴史にも多少興味があった。この本を読む前後に『天平の甍』『蒼き狼』あたりを読んでいたのかもしれない。いずれまた読みかえしてみたい。
高校時代は現代国語も古文もさっぱりだったが、漢文だけは好きだった。『楊貴妃伝』のおかげかもしれない。
新幹線がまだなかった頃、高崎から軽井沢へは横川経由だった。今では新幹線であっという間だ。下仁田から峠を越えて佐久、小諸に向かうルートで軽井沢に行けたらさぞ楽しい旅になったろうと思う。

2024年7月7日日曜日

大川豊『大川総裁の福祉論!』

8050問題が取り沙汰されている。
引きこもりなど問題を持った子どもが50歳になったとき、親は80歳。高齢になった両親はいつまで子どもの支援をしなければならないのだろうか。もし子どもに知的身体的その他の障がいがあったとしたら事態はますます深刻だ。
障がいを持つ子どもに対しては支援する制度が発達段階に応じて整備されているが、特別支援学校卒業後の就労支援はとりわけ重要だ。福祉的就労には就労継続支援A型と就労継続支援B型がある。一般社会への参加のため高度な訓練が必要なA型は企業の福祉枠に就き、雇用契約を結ぶ。当然、給与も支払われる。それに対しB型は雇用契約を結べない。あくまで自立のための訓練であり、給与ではなく工賃をもらう。工賃は作業内容にもよるが、月額1万数千円。これに障がい者年金を加えたところで彼らはどうやって生きていけばいいのか。
著者大川豊が取材した先の福祉施設や就労支援を行う企業、団体の人たちが口を揃えて言うのは障がい者をどうやって自立させるかである。より具体的に自立を促すのは社会参加=就労だろう。描いた絵をレンタルする。布を織って、それを加工してもらい商品化する。知的障がい者のなかには創造的な活動を得意とするものが多い。健常者にはできない発想や色づかいがあるという。
最後に登場するQUONチョコレートなどは画期的と言っていい。もともとはパン製造や印刷事業からスタートした経営者がショコラティエと知り合い、チョコレートの製造販売にシフトしていった。チョコレートはパンのような複雑な工程はなく、リスクも少ない。それでいて高価格。製造工程をいくつかに分け、単純な作業にして障がい者に担当させる。材料を切り刻んだり、石臼で茶葉を挽いたり、梱包用の箱をつくったり。一人ひとりの個性に合わせた仕事を見つける。できることをできる人に任せるのだ。
未来を明るく照らす仕事場がこの国にはまだある。

2024年2月25日日曜日

風来堂編、宮台真司他著『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』

もう50年以上も昔のこと。小学生だった僕の住む町に知的障害のある少年がいた。年齢は少し上だったように思う。ごく普通に町を歩いており、時折公園などに姿をあらわし、いっしょに遊びたがっているように見えることがあった。少し年下の低学年の子たちに声をかけていることもあった。
中学生になり、学区域が大きくなったことで行動範囲が広がった。他の小学校の区域にもやはり知的障害のある子どもがいた。昔はどの町にもひとりやふたりはいたのかもしれない。彼らの本当の名前は知らなかったが、それぞれに呼び名を持っていて、町で見かけると声をかけてはいたずらする輩も少なからずいた。当時、特殊学級と呼ばれるクラスのある学校もあった。おそらく彼らはそんな特別な学校に通っていたのだろう。
大人になってからそういった子どもたちを見ることがなくなった。あるいは身近にいるものの気がつかなくなっただけかもしれない。特殊学級はその後特別支援学級と名前を変える。世の移り変わりとともに彼らは保護者や制度によって手厚く守られるようになり、そのために町なかから姿を消したのではないだろうか。
異界とは異人、ストレンジャーたちの界隈。花街や色街、被差別地域など、日常から解き放たれて発散する場所だった。そういった点ではお祭りも異界の一種といえる。異界のルールは「法」ではなく、「掟」であると語るのは宮台真司だ。たしかにジャニーズ事務所や宝塚歌劇団の問題は「法」という視点からとらえられたときにはじめて生じる問題だった。反社会的勢力が世の中で見えにくくなっていることもこうした背景がある。
今はそうした異界が次々と消え去り、異界を知らない世代が異界なき社会をつくろうとしている。この本はかつてこんな異界が日本中にありましたよと言い伝えるガイドブック。すでに跡形もなくなっている異界も多いが、貴重な記録である(記憶している世代がある限りではあるが)。

2022年8月26日金曜日

太宰治『グッド・バイ』

先月軽井沢を訪れたとき、横川駅まで行ってみた。
碓井峠越えで知られた横川も今は分断された信越本線の終着駅である。信越本線は他にも篠ノ井駅から長野駅、直江津駅から新潟駅の3つパートにわかれている。
横川駅前には碓井峠鉄道文化むらがある。もともとあった横川機関区(後に横川運転区)の敷地に機関車や電車など多くの車両が遺されている。横川で思い出されるのはアプト式。くわしい説明は避けるが歯車を力を借りて急勾配を登るシステムである。専用の電気機関車がつくられた。ED42という形式で施設内の車庫に保存されている。きちんとメンテナンスされているようでいざとなったら動かせるものと思われる。もうひとつ碓井峠の名物機関車といえばEF63。横川駅に到着した電車特急は2台のEF63に牽引されて峠を越えたのである。この機関車も動かせる状態で保存されている。事前に講習を受ければ、運転することもできるという。
そのほか、屋外には日本全国で活躍した機関車をはじめとした車両が展示されている。雨ざらしになって塗装が剥げかかっている。少しかなしい気持ちになる。とはいうもののこれだけの機関車が並んでいると鉄道の旅が今より時間がかかり、不便だったにもかかわらず、よろこびやかなしみやあらゆるものを乗せて運んでいた時代を思い出させる。僕が眺めているのは鉄道車両ではなく、過ぎ去っていった鉄道の黄金時代ではないかとさえ思えてくる。
太宰治を読みなおす旅を続けている。
太宰の作品はほとんど戦中に書かれている。新潮文庫の『グッド・バイ』には表題の遺作のほか、戦後に書かれたすぐれた短編が収められている。いよいよこれから太宰治の戦後がはじまるという期待感をもたせる作品集であるが、まるで平和な日本を生きるのが照れくさかったかのようにこのあと命を絶つ。
生きていたら「グッド・バイ」以上の作品が書けたかもしれない。書けなかったもかもしれない。

2022年7月20日水曜日

太宰治『パンドラの匣』

昔お世話になった広告会社のOB夫妻が軽井沢でカフェ・ギャラリーをオープンした。
夫妻とは今でも親交があり、ときどき簡単なデザインやイラストレーションなどを頼まれる。今回のカフェ・ギャラリーに関してもロゴマークのデザインやホームページ、フライヤーの制作を依頼された。オープン記念のパーティーに招待されて、生まれてはじめて軽井沢を訪れた。
もう30年以上前、小諸にあるペットボトルをつくる機械をつくる工場を訪ねたことがある。工場紹介の動画を制作するために打合せに行ったのである。当時は上野駅から信越本線経由金沢行きの特急列車に乗って行ったものだ。横川駅から2台の電気機関車が特急列車を牽引して碓氷峠を越えていた。
工場は当時JRの小諸駅北西側の小高い場所にあった。タクシーで10分ほどの距離である。最初の打合せでは動画制作にいたる背景やどんな動画にしたいか、何を強調してほしいかなど要望を聞いて、工場内をくまなく見学した。二回目の訪問の際にシノプシスをまとめて提案したと記憶している。実際の撮影は制作会社のスタッフにまかせたので僕が工場を訪ねたのは二回である(あやしい記憶ではあるが)。
先日軽井沢のカフェ・ギャラリーを訪れるにあたり、小淵沢から小海線に乗って小諸まで出た。軽井沢行きのしなの鉄道(昔の信越本線)の発車時間まで駅前をふらふら歩いてみる。駅前にあった蕎麦屋をさがしたりなどして。なんとなくではあるが、駅前はこんな感じだったななどと思い出されるのだが、駅前の蕎麦屋のあったあたりはまったく思い出せない。記憶とはいい加減なものである。
40年ぶりに読みかえす太宰治。
ここに収められている二編、「パンドラの匣」「正義の微笑」は太宰が描いた青春小説といわれている。太宰の明るい話、笑える話が好きだ。それにしてもこんな話だったっけと思うくらいまったくおぼえていなかった。
これもまたあやしい記憶である。

2020年10月31日土曜日

安西水丸『手のひらのトークン』(再読)

イラストレーター安西水丸が電通を辞め、ニューヨークに渡ったのは1969年。50年前のことである。
僕は1992年にニューヨークを訪れている。これももう30年近く昔のことだ。
その日、セントラルパークを散策してサリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に登場する回転木馬を眺めたあと、79ストリートから103ストリートまで地下鉄に乗った。地上に出て西へ。途中、道が狭くなっている。ウエストエンドまでつながっているか不安になったので105ストリートに出て迂回する。コロンブスアベニュー、アムステルダムアベニュー、ブロードウェイ、ウエストエンドアベニューを横切った次の通りがリバーサイドドライブ。そこを左折して2ブロック目に煉瓦づくりのビルがあり、エントランスに”RIVERSIDE MUSIUM"と記されている。パンナム機でホノルルとロスアンゼルスを経由してニューヨークにたどり着いた安西水丸が最初に住んだアパートである。
リバーサイドパークのベンチで休む。ハドソン川の向こうにニュージャージーが見えた。
地下鉄に戻り、86ストリートに出て、92ストリート行きのバスに乗る。セントラルパーク、5番街、マジソンアベニュー、パークアベニューを横切って、バスはヨークアベニューを左折する。下車して、83ストリートを東へ向かう。
(3B)518 East 83ST。
1970年8月。安西水丸はリバーサイドドライブのアパートからアッパーイーストエンドのアパートに引っ越した。さらに東へ進むとイーストエンドアベニューに突きあたり、その先はイーストリバーである。
川沿いにカールシュルツ公園(小説ではカーツシュッツ公園と記されている)がある。ヨーロッパ人が多い地域らしく、きれいな公園だったと記憶している。ベンチに腰かけ、川に浮かぶルーズベルト島をぼんやり眺めたことを思い出す。
この本を読むのは30年ぶりである。

2019年7月8日月曜日

獅子文六『箱根山』

東京で生まれ育ったので、小学校の頃、林間学校(たしか区の施設があった)や修学旅行で訪ねた箱根や日光は比較的身近な観光地である。
とりわけ箱根は小田原から湯本に出て、スイッチバックの登山電車で強羅、ケーブルカーで早雲山、ロープウェイで湖尻、遊覧船で関所や元箱根を観光して、というコースが確立している。乗りもの好きでなくても気持ちが高揚してくる。駅前で蕎麦を食べ、場合によっては温泉に浸かり、ゆでたまごを食べて日帰りすることもできる。よくできた観光地だ。
江戸時代は関所で栄えた箱根も明治時代になってからは交通の便が悪く、衰退していったという。大正になって、国府津から熱海線というローカル線が敷かれ、東京、横浜から直通の列車が小田原に乗り入れるようになる。さらに昭和に入り、丹那トンネルが開通したことで小田原、熱海は東京に近い温泉保養地としてふたたび注目を集めることになる。そして小田急や大雄山鉄道など交通網が整備され、発展を遂げる。
箱根の山はケンカのケンと呼ばれたくらい20世紀以降の箱根は小田急、西武鉄道、東急が入り乱れて鉄道や道路、遊覧船の航路をはじめ観光施設の建設を競い合ったという。当時の熾烈をきわめるケンカは時代とともに忘れ去られつつある。その記憶を今に伝えているのが(もちろんそれが主たる目的ではあるまいが)この『箱根山』という小説。
娯楽文芸の大家(と勝手に呼んでいる)獅子文六作品だけに肩ひじ張らずに読むことができ、微笑ましい登場人物たちに共感をおぼえる。『てんやわんや』『自由学校』『七時間半』などと同様、映画化もされている。映画(監督は「特急にっぽん」の川島雄三)はまだ観ていないが、加山雄三と星百合子のコンビに老舗旅館の女主人が東山千栄子とキャストを眺めるだけで期待が高まる。
獅子文六のすぐれた作品を最近ちくま文庫が装いも新たに発刊している。随所に昭和のにおいが感じられ、読んでいて楽しい。

2017年8月20日日曜日

吉村昭『闇を裂く道』

丹那トンネルが開通するまで東海道本線は国府津から箱根の山を迂回して沼津に出ていた。
旧東海道本線は御殿場線という名のローカル線になっている。古い幹線の名残りを見に国府津まで出かけたことがある。もともと東海道本線なだけあって、かつて複線だった跡やトンネルの跡を見ることができた。
富士山を間近で眺めることのできるのどかなローカル線ではあるが、東海道本線時代には輸送量の多さと勾配のきつい難所越えがネックだった。国府津や沼津での機関車交換に時間をとられた。急坂を登りきれずレールの上を車輪が滑るため、機関車前部から砂を巻きながら走ったともいう。
SLの時代でなくなってからも国府津駅にはしばらく機関庫と転車台が遺されていた(ように記憶している)。雄大な富士をバックに蒸気機関車全盛期に思いを馳せる。
丹那トンネルは熱海(来宮)と函南を結ぶ。完成当時清水トンネルに次ぐ日本で二番目に長いトンネルだった。その上は丹那盆地があり、湧き水の豊かな水田地帯だったという。わさびが名産だったというからそれはきれいで豊かな水だっただろう。
吉村昭のトンネル作品には黒部ダム建設用のトンネルを掘るノンフィクション『高熱隧道』がある。火山帯の高熱地下を掘り続ける話だった。こんどのトンネルは水攻めである。トンネル内に流れ出る水は工事を難航させただけではない。丹那盆地の住民の生活をも変えてしまった。出水で枯れたこの地はその後酪農と畑作を主とするようになった。
なにしろ15年もの歳月をかけて開通したトンネルだ。この本だけでは語り尽くせぬ物語があったにちがいない。崩落事故や崩壊事故で多くの犠牲者を出した。崩落事故にまきこまれた17名の作業員が一週間後救出される。闇の中でじっと救助を待つ。読んでいるだけで酸素が薄く感じられてくる。
こんど熱海に行く機会があったら、温泉なんてどうでもいいから、トンネルの入り口を見てみたい。

2017年7月24日月曜日

吉村昭『七十五度目の長崎行き』

ちょうど昨年の4月と7月に仕事で長崎を訪れた。
波佐見という町にある小さな社がある。水神宮という。土の神様と水の神様が祀られている。その社殿に奉納される天井画を取材した。はじめての長崎だった。というかはじめての九州だった。
仕事で行く旅は味気ない。効率が最優先されるからだ。
早朝の飛行機、レンタカーでの移動、宿の近くで夕食。翌早朝から取材・撮影して、最終の飛行機で帰京する。仕事だからといえばそれまでだけど、それでも長崎に行ってきたというと眼鏡橋は見てきたか、グラバー園には行ったのか、ちゃんぽんは食べたのかと訊ねられる。行ったところは波佐見という焼きものの町で長崎市街にいたのはほんの2時間ほどだ。三菱重工長崎造船所もシーボルトや坂本龍馬ゆかりの地もまったく訪ねていない。
負け惜しみではなく、多くの人が想像するのと少しちがった旅ができるのはそれはそれでうれしいこともある。
長崎空港から波佐見町に行くにはJR大村線に沿った国道を北上する。川棚という小さな駅(これがなかなか風情のある駅なのだ)を目印に川棚川沿いを上流に行ったあたりが波佐見町だ。このあたりは穀倉地帯で麦畑がどこまでもひろがっている。仕事の合間や移動中にレンタカーの窓から見た風景こそ何ものに代えがたかったりするものだ。
ちなみに朝9時過ぎに東京駅を出発すると川棚駅に16時半に着く。乗換はわずか2回である。いまどき陸路で長崎に行くのもどうかと思うが、思いのほか遠くない(波佐見町のもうひとつの入口JR佐世保線の有田駅なら乗換1回で16時前に着く)。いつかそんな旅をしてみたい。
吉村昭は長崎を舞台にした作品をいくつも書き上げている。その訪問回数は100を超えるという。そのほとんどが資料収集や取材などの仕事だったわけだからやはりあわただしい移動のくりかえしだったのではないだろうか。
移動の車窓から吉村昭はどんな風景を目にしただろうか。

2017年6月13日火曜日

安西水丸『神が創った楽園』

1992年9月から10月にかけてニューヨークに遊びに行った。
当時のメモにはセントラルパークの回転木馬(『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に出てくるあの回転木馬だ)を見ること、安西水丸がニューヨーク滞在中住んでいた家をさがすこと、トイザらスでおもちゃを買うこと、TYMNETという中継サービスを利用してパソコン通信をすることといったささやかな目標が記されている。
安西水丸は1969年3月羽田空港を立ち、ハワイ経由のパンナム機で渡米した。はじめはハドソン川のほとり、リバーサイドドライブにあるアパートに住み、その後アッパーイーストの閑静なアパート(たしか83st.だったと思う)に引っ越している。
1990年、僕はタヒチを訪れている。新婚旅行でだ。
特にどうしても行きたい場所が思いつかなかった。当時は毎日忙しかったから、日常から逃避できる南の島がいいんじゃないかと思った。できればフランス語圏がいい。選択肢は狭まってきて、行き先はタヒチに決まった。予備知識はなにもなかった。パペーテからプロペラ機に乗り換え、海の上の空港に着き、船でボラボラ島へ。ポール・ゴーギャンやサマセット・モームの『月と六ペンス』を思い出したのは到着してしばらくたってからのこと。
安西水丸は2004年にタヒチ・ビバオア島を訪れている。
彼の訪ねた町や通ったバーなど、僕はいつも後を追いかけるように訪問していたが、めずらしいことにタヒチに関しては僕の方が先輩である。とはいえやはり絵を描く人だけあって、ゴーギャンの足跡を追っている。ぼんやり海をながめながらヒナノビールを飲んでばかりいた輩とはちょっとちがう。
そもそも僕は「何もしない」をしに行く旅だったのでパペーテとボラボラ島以外は訪ねていない。複製だらけのゴーギャン美術館に行った気もするが記憶にない。
ちなみに僕はニューヨークに行ったのにストロベリーフィールズを訪ねていない。

2013年10月23日水曜日

村上春樹『遠い太鼓』


海外で暮らすというのはどんな気分なのだろう。
前世紀の最後の年にアメリカのテキサスに3週間滞在した。コンピュータ・グラフィックスをサンアントニオの制作会社に発注し、その進捗状況をチェックする、そんな仕事だった(細かく言えばそれ以外にもたいへんな仕事はあったけど)。さすがに3週間もいると仕事以外の時間を持て余す。話すことといえば日本に帰ったらまず何を食べたいかなんてことばかりだ。
以前南仏を訪れたとき、SNCFの列車に乗って、アルル、アヴィニヨン、マルセイユ、ニースなどをまわった。そのなかでいちばん気に入った町はアンティーブ。町全体が静かで(まあコートダジュールの町はたいていそうなんだけど)、リゾート地ではあるのだろうが観光地らしくない。城壁に囲まれた旧市街が駅から近い。ビーチも近い。ああ、海外で永住するならこんな町がいい、と思ってしまったわけだ。
それから具体的に永住するにあたって、アパートの家賃はいくらくらいなのだろうとか、なにか仕事は見つかるだろうかとか、日本に残してきた両親の面倒はどうするんだろうかとか考えはじめた。で、永住する計画は考えないことにした。
母方の叔父が20代の終りに近い頃、それまで勤めていた広告会社を辞めて2年ほどニューヨークのデザインスタジオで働いていた。本人はもっといたかったらしいがビザの関係で帰国せざるを得なかったようだ。叔父から母宛てに何通か手紙が届いており、見せてもらったことがある。祖母(つまり母と叔父の母)が誰かに住所を代筆してもらって手紙を送ってくれた話なんかが書かれている。平和なうちに帰ってきなさいと書いてあったという。
村上春樹が南ヨーロッパで暮らした何年かを書き記したこの本はそんな叔父のニューヨーク便りにも似ておもしろい。具体的なことを具体的に考えなければ海外で生活するってのはやっぱり楽しいのだ。見知らぬ土地で見知らぬ国民性や風習に出会い、不思議な体験ができるのだ。ギリシャやローマに住んでみたいとはこれっぽっちも思わないけれど、この種の経験というものはしてみてけっして損はないだろう。
深い井戸に潜るには海外で生活するのがいちばん手っ取りばやいという気もするし。

2013年10月20日日曜日

本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』


時間が許せば、ふらっと東京の町を歩く。
まだ行ったことのない土地の方が圧倒的に多い。できれば東京23区内を均等に訪れたいと思っているのだが。不思議なもので生まれも育ちも東京なものだから、フラットな視線で東京の町を眺めることができない。どうしても思い出や思い入れのある町が地図上で、あるいは脳裏に浮かんできて知らず知らずにそういう町ばかり歩いている。
たとえばずっと住んでいた大井町とか馬込とか戸越などいわゆる地元はよく歩く。不思議なことに馴れ親しんできたとこちらが一方的に思っているつもりでも案外知らなかった道や新たな発見が多い。へえ、この道はあの道につながっていたのか、とか実家と目と鼻の先にまったく通ったことのなかった道がある。
たとえば高校のあった飯田橋から、神田方面。あるいは麹町方面。毎日通っていたというのは実は過信に過ぎず、知ってるつもりになっているだけだったりする。みんながよく行く店だから、よく通る道だから自分も知っているつもりになっている。戒めなければいけない。
月島や佃島。ここは母が下宿していた大叔父の家があったので幼少の頃の思い出がある。
赤坂丹後町。伯父が家を買って、母も佃島から移り住んだ。
駒込西片町。父方の大叔父が住んでいた下町。記憶はないが、その町の名前は耳に残っている。
よく歩く町はこうした知っている町が多い。もっと本を読んだり、映画を観たり、自分自身とかかわりのない町に興味を持たなければいけないんじゃないかと思うのだ。
川の本を読んだ。
川といってもかつて川であった川の本だ。
子どもの頃近所の公園で手打ち野球(その後ハンドベースボールと呼ばれたらしいが最近の子どもたちはやるんだろうか、そんな遊び)をしていて、公園の外まで打球を飛ばせばホームラン。すぐ近くを流れる立会川に落すと一発でチェンジだった。立会川にボールが落ちると少年たちは靴と靴下を脱ぎながら走って一カ所だけあった梯子段を降りてボールを拾いにいったものだ(もちろんそこは立ち入り禁止だったけど)。ボールを拾った子はそこで声高に叫ぶ。
「チェンジ!」
立会川のその場所は今ではバス通りになっている。

2013年3月23日土曜日

皆川典久『凹凸を楽しむ 東京「スリバチ」地形散歩』


大井町から武蔵小金井の大学に通っていた。
京浜東北線で品川に出て、山手線で新宿。新宿から中央線に乗り換える。電車に乗っている時間がだいたい1時間。駅から大学までは20分ほど歩く。大井町までやはり15分強歩くから、通学時間は1時間半を越えた。
往きに新宿で中央線に乗るとまだまだ先は長いと思うのだが、帰りに新宿に着くともう帰ってきたような気分になった。高円寺を過ぎて、中野に近づくとさほど遠くないところに新宿の高層ビル街が見えてきた。今ほど数多くはなかった。三角形の住友ビル、シックな色合いの三井ビル、レンガ色のセンタービル、そして京王プラザホテル。
先日仕事で新宿らしい風景を撮影することになり、どこかいいポイントはないだろうかとさがし歩いた。高島屋の屋上庭園に行ってみたりしたが、高層ビルがきれいに見える場所があまりない。そこで思い出したのが中央線の車窓から見えた高層ビル群だった。
なんどか電車で往復してみると大久保〜東中野間、東中野〜中野間で西新宿方面に視界が開ける場所がある。東中野あたりは神田川が北上するあたりで土地が低くなるので、障害物を比較的避けやすい。おそらく結婚式場の日本閣あたりから撮影すればいいのだろうが、ちょいと写真を撮らせてくださいってわけにもいきにくい。どこかさらに見晴らしのいいポイントはないだろうか東中野から山手通りを北上してみた。そうだ、中井だと思い出した。
西武新宿線の中井駅の北側は高台になっている。一の坂、二の坂と坂に数字が振られている。坂の上には目白大学があって、以前訪ねたとき教室から見える山の手の景色がすばらしかったことも思い出した。
ちょうど山手通りが西武線を越えたところが崖のようになっていた。一の坂を上がっていくと南側に開けたいい撮影ポイントがあった。そもそもこの崖は西武線と平行して流れる落合川が削った谷だ。手前に目立つ障害物が少なく、中望遠レンズでいい感じにビル群が切りとれた。
東京の凸凹は実に楽しい。

2008年5月16日金曜日

永井荷風『ふらんす物語』

40年ほど昔。
大手の広告会社に勤めていた叔父が突然辞めてニューヨークに行くといいだした。親きょうだいの反対をおしきって(かどうかはわからないが)、1969年のとある冬にホノルル経由のパンナム機で羽田を発った。
しばらくして母宛に手紙が届き、わずかばかりの荷物のなかに永井荷風の本があって、なんども繰り返し読んでいると書いてあった。
正直ぼくは日本文学はさして読んでいない。じゃあ何文学をこよなく読んだのかといわれるとそれにも答えようがない。少なくとも永井荷風はいちどたりとも読んだことがない。なかった。
実はこれは大いなるミステークであって、例えば、だ。二十歳の頃御茶ノ水にあるフランス語学校に通っていた。一年ばかり。もしその頃読んでいたならば、もうちょっとちゃんとフランスに憧れただろうに。3年前に南仏を訪ねた。その前にもし読んでいたならば、もっときちんとフランスを見て帰っただろうに。昨年もやはり南仏に行った。それまでに読んでいたならば、きっとリヨンまで足をのばして、ローヌ河のほとりを歩いたであろうに。と、日本語では動詞の活用が面倒じゃないのでやたらと条件法を使っているが…。
ともかく船でふた月近く、お金だってバカにならないだろう当時としては想像を絶するエネルギーを使って、明治の時代に西欧へ出向いて見聞をひらいた著者の熱意にほとほと感心せざるを得ない。
そういえば以前叔父がいっていた。ほんとはニューヨークじゃなくてパリに行きたかったんだよねって。1969年、叔父のバッグに入っていた荷風はこの本じゃないかと思うのだ。

2008年3月13日木曜日

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

はじめてニューヨークに行ったのは1992年の秋。義妹が57丁目あたりに住んでいて、そこを拠点にマンハッタンを歩きまわった。ニューヨークに行ったらぜひとも見てみたかったものがふたつあって、ひとつは1970年ごろ、大手の広告会社を辞めて単身渡米した叔父の住んでいたアパート。もうひとつはホールデン・コールフィールドが妹のフィービーと行ったセントラルパークの回転木馬だった。
後日、グランドセントラルやストロベリーフィールズを訪れもせず、よくもそんな小さな目的でニューヨークまで行ったものだ人から揶揄されたが、とりわけ回転木馬はひと目見てみたいと思っていたわけだ。本書の中で回転木馬の小屋の中で流れていたのは「煙が目にしみる」だったが、ぼくがその場で聴いたのは「シング」だった。
この本を読むのは3度目で、最初は野崎孝訳の『ライ麦畑でつかまえて』、2度目はペーパーバックの“The Catcher In The Rye”、そして今回の村上春樹訳。野崎訳は何度か読みかえしているので、村上訳は新鮮にうつると同時にちょっとした違和感もおぼえた。現代語っぽすぎると感じたのかもしれない。週刊誌に連載されているビートたけしのなんとか放談みたいな。まあ、翻訳の話は大きな問題じゃない。むしろ村上春樹フリークが大勢いる時代に彼がこの名作の新訳を世に送り出したことのほうが重要だ。昨今の新訳ブームの発端となったのではあるまいか。
サリンジャーはこの作品を執筆後、隠遁生活をおくるなど、なかなかの偏屈者だと聞く。偏屈な作家が描いた偏屈な高校生が世界中の青少年のハートをとらえているあたりがなんともおもしろい。きっと時代を超えて、若者の心の中には少なからずホールデンが生きているということなのだろう。



2007年7月10日火曜日

6月24日フランクフルト経由成田へ

今回の旅は大きくいえばプロバンスの世界遺産めぐり。広告祭にかこつけて思う存分歩きまわるつもりだったんだけど、現実はなかなかそうもいきません。適度に観光、適度に視察といったよくいえばバランスのとれた旅、悪くいえば中途半端な旅。それでもまずまず楽しめたと思います。
欲をいえばきりがありませんが、それはまた次の機会にということで。今度はニーム、ポン・ドュ・ガール、リヨンあたりまで足をのばしてみたいし、今回行きたかったけれど行けなかったヴァンス、サンポール、エズなど行きたいところは山ほどあります。次回はツアーではなく、個人旅行で訪れたいとも思いますし。
そんなことを考えながら、フランクフルトを経由して無事成田までたどりつきました。

6月23日カンヌ国際広告祭


夕方から表彰式がはじまりました。グランプリはUNILEVER,DOVE SELF ESTEEM FUNDの
EVOLUTIONというフィルム。

近頃のお化粧ってどうよっていうメッセージ。ちょっと頭のいいコミュニケーションだなって感じです。




表彰式終了後はビーチでパーティ。ものすごい混雑ぶりです。明朝のフライトがはやいので本日ははやめに退散。ホテルに帰って荷づくりです。

6月22日カンヌ国際広告祭


さてカンヌ国際広告祭ですが、フィルム部門(テレビCM)のショートリスト(予選通過作品)が発表になり、まる1日かけて全作品を観ました。さすがに1日中会場にいると効きすぎた冷房に体調を崩す人もいるようです。
街ではリゾート客にまじって世界の広告制作者が明日最終日に発表されるフィルム部門のグランプリについてあれこれ議論しています。もちろん何を話しているかなんて聞き取れませんが、たぶんそんな話をしてるんじゃないかと思うわけです。

6月21日ヴァロリス

カンヌ駅前のバスターミナルから20分ほどの場所にあるヴァロリスに行ってきました。

晩年ピカソが訪れ、ここで陶芸に目覚めたといわれています。バス停近くの小さな広場にはピカソのつくったブロンズ像があり、ピカソ美術館もあります。バスから見えるカンヌの街や地中海の風景もなかなかです。
午後はふたたびニースに向かいました。これは主におみやげの買出しです。駅前のスポーツ用品店でサッカーフランス1部リーグマルセイユのレプリカユニフォームを買いました。

2007年7月9日月曜日

6月20日グラース

二日間遠出をしたこともあり、今日は近場でのんびり過ごすことにします。カンヌの国鉄駅のすぐ横にバスターミナルがあります。グラース行きのバスは頻繁に出ているようで、それに乗って香水の街グラースを訪れました。

グラースは皮なめしのさかんな街だったようでその匂い消しのために香水がつくられたといわれています。カンヌからバスで40分くらいでしょうか。山の斜面にある街なので陽射がカンヌやニースとはひと味違う印象です。街並みもただの石づくりというより多少黄色がかった感じでコントラストが強く感じられます。

坂道を降りたり、登ったりして、旧市街の広場やステンドグラスがきれいなノートルダム・デュ・ピュイ大聖堂教会、香水工場を見て、お昼を食べて帰ってきました。カンヌから離れると多少物価も安いみたいです。