まだ学生だった1981年にはディンギーなどという言葉は知らなかった。
大瀧詠一が歌ってヒットした「君は天然色」という楽曲を聴いていると、「渚を滑るディンギーで」という一節が登場する。渚を滑るディンギーとは何ぞやと思ったものである。ほどなくして当時のナンバーワンアイドル歌手である松田聖子が新曲「白いパラソル」で「風を切るディンギーでさらってもいいのよ」と歌い出した。ディンギーとは何なのか。その頃は特段その意味を知ることが重要とも思えなかったのでほったらかしにしておいた。渚を滑って、風を切るディンギーの何たるかを知らないからと言って大瀧詠一や松田聖子の歌を聴くうえで差し障りはなかったのである。
この2曲。作詞はともに松本隆。
以前『阿久悠と松本隆』という本を読んだ。歌謡曲(流行歌、JPOPなどと呼び方はさまざまであるが)の代表的なつくり手に光を当てながら、ヒット曲の系譜が語られる。時代の渇きを歌にしてきた阿久と時代に寄り添うことのなかった松本隆が対照的に描かれている。
作品のなかでディンギーを軽快に操る松本隆は東京青山生まれ。東京に生まれ育ったものとしては(そうイメージしてしまうのも偏見かもしれないが)、青山生まれで青南小学校から慶應中等部に進んだと聞けば、どんな環境で育ったかたいてい想像がつく。裕福に育ったのだなと思う。裕福なんて言葉を使うと貧乏人のやっかみのように聞こえていやなのだが、松本は物質的に恵まれた生活をしていただけでなく、後に作詞家として大成するだけの素養を少年時代の読書によって育み、バンド活動においても細野晴臣、大瀧詠一ら才能豊かなメンバーと出会うだけのすぐれた資質を育んできたように思える。松本隆のよさのひとつは、何かに没頭できること、没頭できることを見い出す力があったことなのではないか。
あれから何年か経って、ようやくディンギーが小型のヨットと知った。
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