井伏の家から日大通りを東進し、旧税務署の先を右に曲がったところに古い木造の建物があった。かつて太宰治が暮らしていた碧雲荘である(その後、大分県のゆふいん文学の森に文化交流施設として移築復元された)。太宰は昭和11年11月から翌年の6月までここに住んだ。
旧税務署先の角には20年ほど前までガソリンスタンドがあった。今なら目印となるのはセブンイレブンだろうが、税務署もなくなり(現在はウェルファーム杉並という子育て支援の施設)、碧雲荘もなくなり、太宰の住んだ下宿は記憶の地層のずっと深いところに埋もれてしまっている。船橋時代からパビナール中毒完治後に移り住んだ碧雲荘から井伏の家まで太宰はどんな道順をたどっていったのか気になるところである。
昭和10年代、天沼や清水町がどんな風景だったか。井伏が引っ越してきたのは1927(昭和2)年。このあたりはほぼ田畑だったというが、それから10年、急速に宅地化がすすんだのだろうか。
太宰は東京帝国大学入学後、井伏鱒二に弟子入りする。会ってくれなければ自殺すると書いた手紙は知られるところである。会ったのに自殺したのだから(未遂も含めて)、太宰という男はたいした嘘つきだ。それはともかく、井伏鱒二の太宰を見守る視線はなかなかいい。それほどまでに太宰の才能を確信していたのか(それはありえないことではない)。
太宰の倍以上生きた井伏はやはり貴重な証言者のひとりに違いない。
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