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2016年6月26日日曜日

高峰秀子『にんげん住所録』

古い地図を見ると今の品川区は品川区と荏原区だったことがわかる。
旧品川区は今でいう大崎、品川、大井町。旧荏原区は戸越、平塚、中延から旗の台、小山あたり。東京に35の区があった時代だ。
僕の生まれた家は大井町駅に近いが、昔の区分でいうと荏原区になる。管轄するのは荏原警察署であり、荏原消防署だった。どちらも大井警察署や大井消防署よりはるかに遠い。
近くに川が流れていた。
立会川という。
今は暗渠となってバス通りになっている。川沿いには大小さまざまな工場があった。
そのなかでも大きな工場は三菱重工と日本光学で、前者はなくなってかつて品鶴線と呼ばれた貨物線に横須賀線を通すようになったとき、西大井という駅になった。駅前に高層マンションが建ちならび、西大井広場公園というこのあたりではちょっとした広さを誇る公園もできた。駅も広場も立会川の南岸なので旧品川区である。さらに南へ歩いて行くと旧大森区。馬込、山王という町名があらわれる。
古くからこの辺りに住む人の特徴として、間違った呼び方を貫くという点があげられる。大井町駅からニコンの大井工場へ続く道路は光学通りと呼ばれているが、地元民のほとんどが日本光学(ニッポンコウガク)をニホンコウガクと呼んでいた。そしてこれらの人たちの多くが今社名を改め、ニコンになったことを知らない。
旧荏原区旗の台に昭和大学がある。その昔旗が岡という町はいつしか旗の台と呼ばれるようになった。この昭和大学も昭和大学と呼ばれることがほとんどない。東急旗の台駅にはご丁寧に「昭和大学前」と付記されているにもかかわらず、古くから住む地元住民のほとんどが昭和医大という。
僕も子どもの頃からずっと昭和医大だと思っていた。調べてみると昭和39年に昭和大学と名前を改めたらしい。なんと根強いことか。
高峰秀子は以前、大森に住んでいたという。蒲田の撮影所に通うのに便利だったからだろう。
この本は大人になってからの交友録。女優としても文筆家としても小気味いい人だと思う。

2016年1月19日火曜日

池井戸潤『下町ロケット』

生まれ育った町に工場が多かった。
「こうじょう」ではない。「こうば」である。小学校の同級生も工場の子が多かった。彼らはたいてい野球が上手かった。子どもの頃は不思議に思っていたけれど、今考えてみれば若い工員さんたちがキャッチボールの相手をしてくれたり、河川敷で楽しむ娯楽の野球におそらく連れて行ってくれたにちがいない。そしてたぶん、道具だってそろっていただろう。
そんな工場の子が、今思い出せるだけでもクラスに3人いた。工場で何をつくっていたのか、まるで知らない。近所のM君の家では鉄を削っていた。薄く細いばねのような削りくずがドラム缶に何杯も置かれていた。旋盤やボール盤があった。そうした工作機械の名前を知ったのもずっと後のことである。M君の家で働いていた職人さんにベーゴマを削ってもらった記憶がある。あっという間の作業だった。
ところで品川の大井町や戸越のあたりになぜ小さな工場が多かったのだろう。やはりその一帯が工場地帯だったからか。
区名に川が付く品川は川の町だ。目黒川と立会川。
立会川はほぼ暗渠になってしまったが、三菱重工、日本光学、さらには国鉄大井工場と川沿いに大きな工場があった。目黒川もしかり。再開発されて景観が一新した大崎駅界隈は工場しかなかった。
これらの工場に供給する部品が同級生の家でつくられていたのではあるまいか。そして彼らはキャッチボールで鍛えられていった。
僕の記憶に残る町工場のイメージにくらべると佃製作所はなかなか立派な工場だ。ちゃんとした中小企業であり、零細ではない。しかも夢を持っている。M君の家をはじめとする当時の町工場にだって夢はあったと思う。きっともっとささないな夢だっただろうが、それはそれでいい時代だったと思う。
単行本が出て、直木賞を受賞した頃からずっと読みたかった一冊。文庫本を待っていた。ようやく出た。テレビドラマのはじまりになんとか間に合った。

2013年10月20日日曜日

本田創編著『地形を楽しむ東京「暗渠」散歩』


時間が許せば、ふらっと東京の町を歩く。
まだ行ったことのない土地の方が圧倒的に多い。できれば東京23区内を均等に訪れたいと思っているのだが。不思議なもので生まれも育ちも東京なものだから、フラットな視線で東京の町を眺めることができない。どうしても思い出や思い入れのある町が地図上で、あるいは脳裏に浮かんできて知らず知らずにそういう町ばかり歩いている。
たとえばずっと住んでいた大井町とか馬込とか戸越などいわゆる地元はよく歩く。不思議なことに馴れ親しんできたとこちらが一方的に思っているつもりでも案外知らなかった道や新たな発見が多い。へえ、この道はあの道につながっていたのか、とか実家と目と鼻の先にまったく通ったことのなかった道がある。
たとえば高校のあった飯田橋から、神田方面。あるいは麹町方面。毎日通っていたというのは実は過信に過ぎず、知ってるつもりになっているだけだったりする。みんながよく行く店だから、よく通る道だから自分も知っているつもりになっている。戒めなければいけない。
月島や佃島。ここは母が下宿していた大叔父の家があったので幼少の頃の思い出がある。
赤坂丹後町。伯父が家を買って、母も佃島から移り住んだ。
駒込西片町。父方の大叔父が住んでいた下町。記憶はないが、その町の名前は耳に残っている。
よく歩く町はこうした知っている町が多い。もっと本を読んだり、映画を観たり、自分自身とかかわりのない町に興味を持たなければいけないんじゃないかと思うのだ。
川の本を読んだ。
川といってもかつて川であった川の本だ。
子どもの頃近所の公園で手打ち野球(その後ハンドベースボールと呼ばれたらしいが最近の子どもたちはやるんだろうか、そんな遊び)をしていて、公園の外まで打球を飛ばせばホームラン。すぐ近くを流れる立会川に落すと一発でチェンジだった。立会川にボールが落ちると少年たちは靴と靴下を脱ぎながら走って一カ所だけあった梯子段を降りてボールを拾いにいったものだ(もちろんそこは立ち入り禁止だったけど)。ボールを拾った子はそこで声高に叫ぶ。
「チェンジ!」
立会川のその場所は今ではバス通りになっている。

2012年5月23日水曜日

嵐山光三郎『東京旅行記』


昨日は金環日食ということで太平洋側各地で盛り上がった。今日はあいにくの雨だが、昨日が今日じゃなくて本当によかった。
今日は今日で降りしきる雨のなか、東京スカイツリーのオープンの日なのだそうだが、まあそれは日食に比べれば小さい話だ。
最近すっかり下町や山の手方面の町歩きから遠ざかっている。そのかわりといってはなんだが、父の見舞がてら大井町を歩く。実家は厳密にいうと大井町ではなく、大井町という大きな区画と境を接する別の村だったと思われる地域であるけれども最寄駅が大井町だったので生まれ育った場所は大井町と自分で決めている。
実家からいまは暗渠と化した立会川を渡ったところが大井町である。川の向こうのなだらかな坂を上ったあたりがかつての大井森前町。現在西大井駅になったあたりに三菱重工があった。その東側に日本光学。こちらはいまも健在だ。立会川の向こう側は小学校の区域がちがう。そのせいかいまでも歩くたびにちょっとどきどきする。
森前町からさらに馬込方面に行くと大井原町。原小学校という校名にその地名が残っていた(いまとなってはその小学校も統合されてなくなった)。原町の東には大井滝王子町。滝王子神社があるあたり。その北側が大井山中町。山中小学校にその地名を残している。
このあたり一帯が素気ない大井とか西大井といった町名に変わったのが昭和39年。自分ではほとんどこれらの町名の記憶はなく、学校名や、商店街名、交番名などでうかがい知るのみである。ただひとつ、東急大井町線のガード下からいまの広町の一帯を権現町といったが、それはよく母親が「ゴンゲンチョウ」とよく呼んでいたのでそのあたりは古い町名と実際の町とが一致する。
東京歩きできないぶんを嵐山光三郎の旅行記で補てんする。

2010年11月18日木曜日

村松友視『時代屋の女房』

このあいだ免許の更新に都庁まで出向いたのだが、昔は鮫洲か府中でしか更新ができなかった時代に比べるとなんと便利になったものか。便利の裏側にはなにかが犠牲になっている。品川の大井町に生まれ育ったぼくにとっては鮫洲という街との接点を失ったのがなんとしても大きい。
鮫洲から南へ行くと立会川という京急の駅があり、大井競馬場の最寄り駅になっている。さらに南下すると鈴ヶ森の刑場跡がある。小学校の区内見学では品川火力発電所から鈴ヶ森というのは定番ルートだった。もっと南に行くと第一京浜国道が産業道路と分岐する。その扇の要には大森警察署があり、『レディジョーカー』でおなじみだ。「時代屋の女房」とともに収められている「泪橋」はこの立会川界隈が舞台となっている。
立会川から京浜東北線のガードをくぐり、池上通りを右折すると三叉(みつまた)商店街という、大井町では東急大井町線沿いに連なる権現町と並ぶ商店街があった。最近はとんと歩いていないので今はどうなっているのか。昔の町名でいうと倉田町だったと思う。
この小説に出てくるクリーニング屋の今井さんは横須賀線の踏切近くに店をかまえていたようだが、時代屋からはかなりの距離がある。横須賀線は以前貨物線で品鶴(ひんかく)線と呼ばれ、ぼくの通った小学校のどの教室からも眺めることができた。EH10という重量級の電気機関車が大量の貨物を引いて走っていた。踏切をわたると伊藤博文の公墓がある。さすがこれは昔のままだろう。
「時代屋の女房」も「泪橋」もアウトローになりきれなかった半端な男たちが主人公である。そういった意味ではリアルで哀しい物語である。
時代屋のあった場所は今は駐車場になっているらしい。

2010年6月19日土曜日

小山鉄郎『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』

フランスのセーヌ、ローヌ、ロワールに相当する河川が品川でいえば目黒川と立会川だろう。とりわけ後者は京浜急行の駅名にもなっており、知名度は相当高い(はず)。
立会川はもうかなり昔に暗渠となり、その上は普通の道路となっているが、ぼくの子どもの頃は今のJR横須賀線の西大井駅のあたりにあった、たしか三菱重工だったと思うが、その工場の敷地内が暗渠化されているくらいで、あとは都内でよく見かけたどぶ川みたいなむき出しの小河川だった。三菱重工の隣は日本光学、今のNIKONで大井町界隈は品川の産業の中枢であったことがうかがえる。
その産業地帯に小さな公園がいくつかあり、そろそろ遊び場探しに苦心していた少年たちは猫の額ほどの公園でよく手打ち野球というゲームに興じた。軟式テニスに使うようなゴムボールをバットのかわりに自らの握りこぶしで打つ野球だ。ノーバウンドで公園の外に出ればホームラン。だいたいひと試合でホームランが十数本飛び出す空中戦野球でもあった。ただしさらなるローカルルールがあって、公園外にボールが飛んでも、当時むき出しの立会川にボールが落ちると一発チェンジ。ちょっとしたレッドカードだった。
で、ボールが川に落ちるとどうするかというと、急いで走り、走りながら靴とくつしたを脱ぐ。公園より下流に川に降りられる梯子段があって、そこから川に入ってボールをひろう。ルール上はこの時点でスリーアウトとなる。もちろん得点にはならない。
川の流れは美空ひばりの歌のようにゆるやかだったから、たいていボールは無事確保できたのだが、ごくたまに雨上がりの翌日など水かさが増して流れが急なときなどボールに追いつけず取り逃がすことがあった。そういうときはもちろんゲームセットだ。
漢字は象形文字だと子どもの頃から教わっていたが、こうして古代文字と今の漢字(旧字)と見比べると概念としての“象形文字”がより具体的な形で理解できる。それとこの手の話は本で読むより、話を聞いたほうがてっとりばやい。本になってしまったのは仕方ないが、白川先生のお話を伺っているというスタンスで書かれているこの文章は親切で、臨場感がある。