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2024年2月25日日曜日

風来堂編、宮台真司他著『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』

もう50年以上も昔のこと。小学生だった僕の住む町に知的障害のある少年がいた。年齢は少し上だったように思う。ごく普通に町を歩いており、時折公園などに姿をあらわし、いっしょに遊びたがっているように見えることがあった。少し年下の低学年の子たちに声をかけていることもあった。
中学生になり、学区域が大きくなったことで行動範囲が広がった。他の小学校の区域にもやはり知的障害のある子どもがいた。昔はどの町にもひとりやふたりはいたのかもしれない。彼らの本当の名前は知らなかったが、それぞれに呼び名を持っていて、町で見かけると声をかけてはいたずらする輩も少なからずいた。当時、特殊学級と呼ばれるクラスのある学校もあった。おそらく彼らはそんな特別な学校に通っていたのだろう。
大人になってからそういった子どもたちを見ることがなくなった。あるいは身近にいるものの気がつかなくなっただけかもしれない。特殊学級はその後特別支援学級と名前を変える。世の移り変わりとともに彼らは保護者や制度によって手厚く守られるようになり、そのために町なかから姿を消したのではないだろうか。
異界とは異人、ストレンジャーたちの界隈。花街や色街、被差別地域など、日常から解き放たれて発散する場所だった。そういった点ではお祭りも異界の一種といえる。異界のルールは「法」ではなく、「掟」であると語るのは宮台真司だ。たしかにジャニーズ事務所や宝塚歌劇団の問題は「法」という視点からとらえられたときにはじめて生じる問題だった。反社会的勢力が世の中で見えにくくなっていることもこうした背景がある。
今はそうした異界が次々と消え去り、異界を知らない世代が異界なき社会をつくろうとしている。この本はかつてこんな異界が日本中にありましたよと言い伝えるガイドブック。すでに跡形もなくなっている異界も多いが、貴重な記録である(記憶している世代がある限りではあるが)。

2022年10月23日日曜日

石井光太『ルポ 誰が国語力を殺すのか』

杉並区内には3つの川が流れている。
昔はもっとたくさんの中小河川があった。埋め立てられたか暗渠になって、今ではそのほとんどが遊歩道などになっている。3つの川は北から妙正寺川、善福寺川、神田川。いずれもおおざっぱに言えば西から東に流れている。善福寺川は中野富士見町あたりで神田川に合流し、妙正寺川も落合で神田川に文字通り落ち合う。
善福寺川沿いを歩いてみる。大きく蛇行をくり返しているところがこの川の魅力だ。杉並区の中心部に多くの緑地や広場、公園、運動場があるのもこの川が流れているからである。妙正寺川も蛇行しているが、大きく蛇行をはじめるのは中野区に入ってから。
今回歩いたのは環状八号線の南荻窪から善福寺池まで。下流に向かえば、前述のように豊かな緑がひろがるのであるが、その日は上流をめざした。この間、善福寺公園までは緑地や公園などない殺風景な道が続く。小さな蛇行に沿って歩く。川幅がだんだん狭くなっていく。
右岸を歩こうか、左岸を歩こうか、迷いながら行ったり来たりをくり返すうちに善福寺公園にたどり着く。善福寺川は下の池(善福寺池は上と下とふたつの池がある)から小さな滝のような段差を伝って流れていた。
文化放送大竹まことのゴールデンラジオを聴いていたら、この本の著者、ノンフィクション作家石井光太が紹介されていた。センセーショナルなタイトルの本でもあり、ついつい聴きいってしまった。
国語力とは「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」という4つの力からなる能力と文部科学省では定義づけられているという。著者は、以下のように述べる。「私が思うに国語力とは、社会という荒波に向かって漕ぎ出すのに必要な「心の船」だ。語彙という名の燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる」と。
以前読んだ藤原正彦『祖国とは国語』を思い出した。

2022年5月29日日曜日

沢木耕太郎『作家との遭遇』

これだけはどうしても読んでおきたいと思う本が少なくなってきた。歳をとって欲がなくなってきたせいもある。
もともとこれを読んだらあれを読もうといったプランをつくって読書しているわけではない。基本、行きあたりばったりである。最近では仕事で必要な書物以外はずっと読まないままでいた日本の名作を開いてみたり、昔読んだ小説を読みなおすなどしている。人が一生に読める本は限られている。これまで読んできた本との出会いは偶然の出会いであり、それはそれでよかったのだろう。
誰かが読んでいた本を読んだことも多かった。昔の同僚や先輩にすすめられたり、影響を受けて読んだ本も多い。沢木耕太郎の『深夜特急』もそのひとつ。沢木耕太郎の名前を見ると当時親しく付き合っていたコグレさんを思い出す。今ごろどこで何をしているやら。
この本はノンフィクション作家沢木耕太郎による作家論。
沢木は、資料を丹念に収集し、読み解き、事実を克明に記していく。筋金入りのノンフィクションライターである。本書で取りあげられた作家一人ひとりの作品にすべて目を通したうえでテーマを絞り込んで綴っている。そのせいかフィクションとノンフィクションに関しては厳格な線引きを行っている。吉村昭や瀬戸内寂聴について語るとき、その厳格さは色濃くあらわれる。ノンフィクションを書くという自身の存在理由が明確なぶん、文章は骨太で力強さが感じられる。『深夜特急』以外の作品を知らなかった僕には新鮮な出会いだった。
この作家論は最近文庫化された。単行本にはトルーマン・カポーティやアルベール・カミュについての論考も所収されているという。まだつづきがあると思うと少しうれしい。
この本を読み終えて、檀一雄『小説太宰治』と瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』とその続編である『諧調に偽りあり』を読んでみたくなった。結果的に読みたい本がまた増えてしまった。
無計画な読書は当分続きそうだ。

2021年6月30日水曜日

青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』

行政の仕事はサービスであるといわれているが、あまり効率のいい仕事ではないような気がしている。住民票1枚請求するだけでも、本人が不自由な暮らしをしているとすると代理人が委任状をもっていかなくてはならない。委任状すら書けない人も多いはず。それでも委任状を本人に書いてもらってくださいと窓口は言う。不正をするかもしれないと住民を疑っているのだろう。ここで少し暴れると事情を察してくれる(すごすごと引き返す人は委任状を捏造して、後日窓口にやってくる)。それでいて利用目的があいまいな住民基本台帳の大量閲覧は後を絶たない。
国と自治体との連携もあいまいな部分が多い。新型コロナのワクチンが供給できるという連絡を受け、自治体で予約を行う。ふたを開けるとじゅうぶんなワクチンが確保できていなかったという事例もあるという。何をやっているのか、日本の行政は。
福島の原発事故から避難を余儀なくされた人が、自主的な否かを別にして大勢いるという。県外に避難して、住宅供給の援助を受ける。やがて援助が打ち切られる。彼らはこの時点で避難者としてカウントされなくなる。どう考えても理不尽である。
かつての避難区域も避難指示が解除され、帰還困難区域を残すのみとなっている。多くの避難者が避難区域に戻ってきたかといえば、けっしてそうではない。医療体制の復興が追いついていないというのが現状で懸念をもつ避難者が多いのだという。避難による人口流出で税収も減っているはずだ。医療復興は遠い道のりなのかもしれない。
東京電力が被害者に支払った損害賠償は10兆円を超えている。それも避難指示区域(福島第一原発から30Km圏内)の被災者に限られることで、みにくいやっかみも生まれる。原発の廃炉まで40年かかると言われている。福島の完全な復興まではもっとかかるのではないだろうか。
それにしても長男に自死されたおとうさんは気の毒でならない。

2020年9月18日金曜日

高橋亜美、早川悟司、大森信也『子どもの未来をあきらめない 施設で育った子どもの自立支援』

山崎豊子『大地の子』を思い出す。
ソ連軍参戦によって虐殺された満蒙開拓団。過酷な体験を経、記憶を失った松本勝男少年は小学校教師陸徳志に助けられる(このときすでに日本語も自分の名前も忘れてしまっていた)。貧しい暮らしではあったが、勝男は一心という名前を与えられ、両親の深い愛情を受けて育つ。生き別れとなって農家に売られた妹のあつ子とは対照的である。
日本は欧米に比べて、里親の割合が少ないという。
家庭の問題(たいていの場合、離婚や虐待)で養育できなくなった児童の多くは児童福祉施設で生活する。実際にそうした児童の数そのものも欧米に比べると少ないらしい。一概に海外比較を取り沙汰するのもどうかと思う。里親など、民間で児童を養育する方が人道的、先進的な印象があるのかどうか知らないが、日本でも里親制度をもっと普及させたいという意向があることはたしかだ。
実際のところ、児童福祉施設で働く人たちはたいへんだ。愛情を注ぐことだけが仕事ではない。朝はやくから夜遅くまでずっと見守りを続け、その成長を手助けしていかなければならないのだ。「おはよう」「行ってらっしゃい」「おかえり」「おやすみ」を言うのは同一職員であるべきだという。職員が長く働ける環境ではないことがうかがえる。それでいて素行があまりよくなく、犯罪や自殺など問題行動が指摘されがちなのも施設の児童であったりする。
疲弊する現場を救い、じゅうぶんな環境を与えられない子どもたちに里親制度はプラスになるという考えが主流なのかもしれない。里親の比率が増えれば、欧米のように児童福祉先進国になれるという印象もあるのかもしれない。この本では、施設か里親という議論より、社会的養護はどうあるべきかを考える著者たちによってまとめられている。勉強になる。
児童養護にたずさわる人に限らず、多くの人の心に陸徳志が住んでいれば、世の中はもっとよくなるんじゃないかと思う。

2020年9月7日月曜日

大久保真紀『児童養護施設の子どもたち』

先月のことだが、鵠沼海岸まで出かける用事があった。
新宿経由で藤沢というと湘南新宿ラインか、東京駅まで出て東海道線(今は上野東京ラインというらしい)と思っていたら、時間帯によっては小田急線の方がはやく着くという。なかには片瀬江ノ島行という便もあって、乗り換えなしで目的地に着く。小田急線は箱根に行くときなど乗ったことはあったが、日常的に利用する機会はほとんどない。少し緊張しながら乗車する。
高校時代、合宿所がJR南武線の沿線にあった。当時は屋外のコートでバレーボールの練習をしていた。春休み中に合宿があった。連日天候に恵まれず、宿舎のなかで基礎体力づくりなどばかり行っていた。新学期を迎えると公式戦も近い。できることなら組織的な練習をしたい時期である。
横浜の大学に通う先輩が体育館を貸してくれる(厳密にいえば大学の先輩らと合同練習ということになる)ことになった。登戸で小田急線に乗り換えて、相模大野、大和。そこから相鉄線(=相模鉄道、おそらくこのときはじめて乗ったと思う)で和田町という駅で下り、あとはひたすら坂道を上った。
新宿発藤沢行の電車が相模大野駅駅に停車した。ふと、40年以上昔の記憶がよみがえった。一時間半ほどの行程だったが、ひどく長い道のりだった。横浜を経由した方がはやかったと思うのだが、路線検索などない時代にどうして小田急大和経由をとったのか、今となっては謎である。さらに不思議なことに行きは思い出せるのだが、どうやって合宿所に戻りついたか、まったく思い出せない。
何をもって当たり前と考えるか。裕福とは言えないが、ごく当たり前に生まれ育った自分の生い立ちからくらべてみれば、当たり前の環境に恵まれない子どもたちが多くいる。保護者がいて、人並みに甘えたり、叱られたりして育った子どもたちだけで社会は構成されていないということに気がつく。
世の中は映画やテレビドラマより深いと感じる。

2020年8月26日水曜日

ちばかおり『ハイジが生まれた日』

僕が籍を置く会社は45年前にできた。
創業者たちは1975年の8月にそれまでいたCM制作会社を飛び出して、会社をつくったのだ。西麻布の交差点近く、15平方メートルに満たない狭いマンションの一室。まるでガレージでコンピュータをつくりはじめたみたいなイメージを持つがそれほどドラマチックじゃない、おそらく。
創業者たちのいた会社はTCJ(日本テレビジョン株式会社、1969年に社名変更)という。輸入商社ヤナセの子会社で戦後いちはやくテレビの時代を見越して、CMと番組コンテンツ(アニメーション)の制作をはじめた。日本で最古のテレビコマーシャルは精工舎(現・セイコーホールディングス)の時報CMで、その制作を担当したのがTCJである。僕たちの世代が子どもの頃夢中になったテレビアニメ「鉄人28号」や「エイトマン」もTCJ制作だった。
テレビ(とりわけ民間放送)が急速に普及したことで、CM制作は急成長を遂げた。その一方でテレビアニメーションは採算が悪く、需要があるにもかかわらず、多くの手数がかかったためTCJをはじめとするコンテンツ制作会社のお荷物部署になっていった。
TCJに高橋茂人という人がいて、ヨハンナ・シュピリの『アルプスの少女ハイジ』をテレビアニメにしたいという夢を持っていた。この本『ハイジが生まれた日』の主人公である。TCJがアニメーションの仕事を手放したとき、エイケン(これはサザエさんの制作で知られている)と瑞鷹エンタープライズというアニメーション会社が生まれた。高橋氏は瑞鷹をつくった人である。
アニメーションの世界にGAFAのような巨大企業は存在しない。自分たちのつくりたいものをつくる。多くのスタッフがかかわって、我が強いアーティストたちがぶつかり合う世界だ。日本のアニメーションの歴史は離散集合をくりかえしてきた。なかなか一筋縄ではいかない。
この本は、そんな歴史の一シーンを描いている。

2020年7月27日月曜日

石井妙子『女帝小池百合子』

怪獣が宇宙から、あるいは地中から、海からやってきて、大勢の人が逃げ惑う。リヤカーや大八車に布団やタンスを載せている人もいる。後方から巨大な生命体が地響きを立てて迫りくる。人々はただ逃げていくだけで、どこへ逃げるかもわからない。
緊急事態宣言という言葉に関して抱くイメージはこんなものであった。
現実の緊急事態は、じっと家の中にとどまっているだけで、リヤカーも大八車も町中で見かけることはなかった。実際に地方に疎開した人もいると聞くが、おそらくは自家用車で移動しただろうし、布団もタンスも持って行ってはいないだろう。
先月末、緊急事態宣言後、熱海に疎開していた内山田東平さんが東京に戻ってきた。
内山田さんは、20年以上前に大手広告会社をリタイアされ、その後しばらく大学で教鞭をとられていた。今は悠々自適の日々であるが、人に頼まれて、コピーなど文章を執筆されている。
ひさしぶりにお昼でも食べましょうということで西荻窪駅で待ち合わせた日はマスクをするのも億劫に感じるほど蒸し暑い日だった。はじめに向かった蕎麦屋は午後一時をまわったというのに店外で待つ人が多く、駅に近い洋食店に向かう。冷たいビールで喉を潤し、ワインとおつまみ2品のセットを注文。近況を報告し合う。何杯かワインをおかわりした後、お腹が空いたねえと店を出て、やはり駅に近いラーメンの店へ。冷や酒を飲みながらラーメンを食べた。いわゆる〆のラーメン。夜みたいな飲み方をしてしまった。
東京都知事選は翌週に迫っていた。
この本はマスコミでずいぶんと話題になっていたが、なかなか読めず、先日ようやく読み終えた。別段、これといって感想はない。こういう人は世のなかにいる。
どうでもいいかなと思ったのは、一方的に小池百合子を「こういう人」だと決めてかかっているところがつまらなかったからだ。もう少し、「いい人」としてもち上げてからでもよかったのではないかと思った。

2020年4月1日水曜日

大場俊雄『早川雪洲-房総が生んだ国際俳優』

映画撮影の現場ことばで「セッシュ(あるいはセッシュー)する」という用語がある。
とりたてて専門用語というほどのことではないが、画面上高低のバランスがよくないとき、低い方に下駄を履かせて(実際には箱馬か平台にのせて)、構図を調整することをさす。
1900年代はじめ単身でアメリカに渡り、ハリウッドスターになった早川金太郎(雪洲)は女優たちにくらべて身長が低く(172センチといわれている)、ツーショットのシーンなどでは踏み台にのせなくてはならなかった。こうした撮影現場での工夫はそれまでも行われてきたが、早川雪洲によって言語化されたというわけだ。多少なりとも日本人に対する偏見があったかもしれない。
「セッシュする」はその後、人物だけではなく、撮影する被写体全般にも使われる。小道具や撮影用商品もしばしば「セッシュ」される。
1907(明治40)年、房総沖でアメリカの大型商船ダコタ号が座礁する。
白浜や乙浜、七浦など地元集落から漁船を出すなど、大勢の村人が救出にあたったという。そのとき、通訳として活躍したのが東京の海城学校(現海城高等学校)で海軍士官学校をめざして英語を学んだ雪洲であったと地元では語られていた(語っていたのは実は千葉県七浦村、現南房総市千倉町出身の母だったりする)。ところがそれは事実ではないらしい。調べてみると通訳にあたったのは雪洲の兄であった。ハリウッドに渡って大スターになった地元の英雄早川雪洲が伝説化して、いつしか語り継がれてしまったのかもしれない。
著者大場俊雄は、館山市出身。東京水産大学(現東京海洋大学)を卒業後、教職を経て、千葉県の水産試験場であわびの増殖の研究に従事していた。千倉町の漁業関係者に聞き取り調査をすすめているうちに伝説のスター早川雪洲の存在を知ったという。
研究者ならではの綿密かつ正確な調査が雪洲の正しい生涯を明らかにする。背筋の伸びたきちんとした著作である。

2019年10月28日月曜日

矢野誠一『三遊亭圓朝の明治』

縁は異なものというが、本のつながりもまたおもしろい。
もともとはよく仕事中に聴いていたガーシュウィンの「巴里のアメリカ人」から古い映画を観たくなった。その流れでちょっと小洒落たタイトルの『パリの日本人』(鹿島茂)を読む。そのなかで若き日の獅子文六のパリ滞在時の描写があり、フランス人の妻との間にもうけたひとり娘の子育て記であり自伝的小説ともいえる『娘と私』を読む。そのなかに塩原多助のような心境で生きていく所存が語られている。塩原多助は明治大正昭和のはじめまで修身の教科書に載っていたというから昔の人ならどんな人か想像がつく。知らない世代はただ気になるだけである。調べてみると多助は上州下新田の百姓で家を再興し、養父を供養するため江戸に出て炭屋として大成する壮大なドラマの主人公であることがわかる。作者は三遊亭圓朝。
ここでようやくこの本にたどり着く。
昭和という時代は20年までの戦前戦中期と戦後に大別できる。軍国主義と民主主義というまるで裏返しの時代が同居した時代である。戦後まもなく教科書に墨を塗ったのは昭和ひと桁の終わりからふた桁のはじめに生まれた世代だ。異なる価値観に二重に支配されてきた世代であるみたいなことを以前語っていたのは昭和10年生まれの大江健三郎だったか。残念ながらおぼえていない。
三遊亭圓朝は江戸と明治、すなわち近世と近代を生きている。安政の時代に真打になり、鳴り物入り道具仕立ての芝居噺で知られたが、明治になって素噺に転向。『名人長二』や『塩原多助一代記』といった人情噺や『牡丹灯籠』『真景累ヶ淵』などの怪談噺を創作した。
明治維新の前と後とで世の中がどう変わったか。興味深いテーマではあるが、実感しようもなければ想像のしようもない。時代の変化を見聞きしたくてふたつの時代を生きた三遊亭圓朝を読んでみた。うっすらわかってきたようでもあり、まだまだ雲をつかむようでもあり。

2019年9月11日水曜日

鹿島茂『パリの日本人』

9月9日早朝千葉県に上陸した台風15号による被害が凄まじい。
南房総市にある父の実家では瓦が4枚飛んで、大きな窓ガラスが3枚割れたという。近くに住む叔母から連絡をもらった。Twitterで情報を収集してみると千葉県の大半は停電が続いており、断水している地域も多いという。固定電話も携帯電話もつながらない状況で、今日(11日)も場所によっては復旧の見込みが立っていない。
状況がわからない9日朝叔母に電話をかけた。つながらない。隣の集落にいるもうひとりの叔母にもつかながらない。とりあえずメールで訊ねたところ、夕方になって被害の状況を知らせる返信があった。携帯の回線はときどきつながるのだろう。奇跡的に返信をもらった。
取り急ぎ状況確認に駆けつけたいのであるが、鉄道も高速バスも止まっている。今日の時点で高速バスは東京~館山間のみ運行、JRは木更津~安房鴨川間が運休。館山までバスで行ってもそこから先の路線バスが止まっている。
台風の通過後、猛暑がやってきた。停電したまま3日目を迎えている。地域のコミュニティセンターには電源が確保されていて、スマートフォンの充電もできるという(回線はつながっていないけれど)。叔母らの不便を考えるといてもたってもいられない。もちろん行ったところで何ができるわけでもないのだが。
Twitterでは千葉県の南の方の被害があまり報道されていないという声があがっている。そんな中、熱中症による犠牲者も報道されていた。叔母やいとこたちだけでなく、父のいとこや遠い親戚などに高齢者もいて、気がかりだ。
この本は明治以降、パリに憧れ、訪れ、学び、遊んだ人々の貴重な記録だ。パリが古くから多くの日本人を魅了してきた町であることがうかがえる。タイトルはヴィンセント・ミネリ監督の「巴里のアメリカ人」をもじったものだろう。しゃれている。
たいへん興味深い内容だったのだが、今日はこの辺でとどめておく。

2019年6月6日木曜日

村上春樹編訳『セロニアス・モンクのいた風景』

2014年3月半ばの週末。安西水丸の仕事場に一本の電話がかかる。
村上春樹からだった。来週あたり久しぶりに青山でお昼でも食べましょう、食事でもしながら(その年の夏に刊行予定の単行本の)打ち合わせでもしましょう、という内容だった。もちろん本当かどうかはわからない。僕お得意のつくり話である。
その週末、安西水丸は鎌倉のアトリエで帰らぬ人となる。
事務所の女性と家族以外で安西水丸が最後に会話をしたのは村上春樹だったかもしれない。もちろんつくり話だけど。
1990年代の終わりか2000年代がはじまったばかりの頃か、南青山のバーのカウンターで村上春樹を見た。隣でパイプをくゆらせていたのは安西水丸ではなかったか。もしかしたらどこかの編集者だったかもしれない。バーの夜にしては比較的はやい時間に席をたち、その一行は帰って行った。その頃、彼が日本にいたかどうかも定かでない。村上春樹は小柄な中年男で顔が村上春樹でなかったらおそらく誰も気が付かなかったに違いない。店内にはいつものようにジャズのCDがかかっていた。
2016年、東京練馬のちひろ美術館で「村上春樹とイラストレーター」というイベントが開催された。村上春樹が安西水丸に装幀を依頼していた本がこの本だと遅ればせながら知る。その「あとがき」がパネル展示されていた。モンクにハイライトをねだられた安西水丸、その仕事を引き継いでくれた和田誠(ハイライトのパッケージをデザインしたのも和田誠だ)。そんなエピソードが書かれていた。
ふだん仕事をしながら音楽を聴くけれど、ジャズは苦手なジャンルだった。ジャズは用語が難しい。それでもいつかこの本をちゃんと読んで「あとがき」にたどり着かなくちゃと思っていた。
セロニアス・モンクのアルバムを聴きながら読み終えた。青山のバーでよく流れていたのはたぶんモンクだったに違いない。カウンターに並んでいた村上春樹と安西水丸が目に浮かぶ。

2019年5月28日火曜日

平松洋子『食べる私』

今年は還暦を迎えるということらしく、まわりが騒がしい。
高校同期の仲間から突然連絡が入り、飲み会が催されたり、部活のOB会では記念品(といっても赤いポロシャツ)贈呈というセレモニーがあって、今年は壇上に上がらされる。ふつうの会社員なら定年退職だ。実際誕生月以降は給与を半減されて延長雇用となる友人も多い。もちろん本当のところはわからない。月給が半分になっちゃうんですよと言えと言われているだけでほんとは今まで以上にもらえるのかも知れない。収入のことなんか本人以外にわかるはずがない。
僕が30歳になる少し前まで定年は55歳が普通だったと記憶している。それが60歳になって、そのうち65歳になり、いずれ70歳になるだろうなどといわれていた。延長が制度化された企業も多く、実質65歳定年というのはほぼ実現されているといえるだろう。60歳ないしはその前の段階で会社に見切りをつけて、個人事業主となる人も多い。これまで長く培ってきたスキルや人脈を活かして独立しようという発想である。たしかに今まで一生懸命働いてきた人が急に仕事を辞めてしまうのは心と身体によくないだろう。
いずれにしても歳をとることをあまり根詰めて考えてもいい方向に道は開けていかないような気もしているので、なるようになるだろうくらいの気持ちでいる。
平松洋子の本といえば、本人がおいしいものを食べて語ってもらう、何々をどこどこでというシリーズをよく読んだ。シズル感のある文章が素敵な人だと思った。年齢も近く、背景に同じものを持った人だということも印象をよくしている。
この本は食をめぐる本格的な対話(対談、座談ではなく対話だとあとがきに綴られている)だ。さまざまな分野の方々と会って、食をめぐる話をくりひろげる。その守備範囲は広大で読みながら人によってはどこにフォーカスを合わせていいのか少し戸惑う。どちらかといえばもう少しお気楽な食べもの談義の方が好きだ。
つまらない話をしてしまった。

2018年2月13日火曜日

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』

仕事場が平河町にあったころ、紀尾井町あたりで半藤一利さんを何度か見かけたことがある。
このブログでは面倒くさいので敬称を略しているのだが、なんどかお見かけしているのでどうも略しにくい。半藤さんと呼ぶことにする。
お昼に紀尾井町の交差点にあるつけ麺屋か蕎麦屋に行く道すがらであったと思う。仕事場を移ってしばらくつけ麺を食べていない。
もちろん通りすがりに見かけただけであり、相手は芸能人でもプロ野球選手でもないから、まわりががやがやすることもない。たまたま僕がテレビや雑誌で氏のお顔を拝見したことがあるからわかるまでで、挨拶するわけでもなく、ましてやサインを求めることもない。
長いこと週刊文春や月刊文藝春秋の編集長だったという。その関係もあって、紀尾井町あたりに出没するのだろう。文藝春秋といえば松井清人さんも編集長だった。松井さんは実家の近所の大きな家具屋のご長男で、地元のお祭りなどでときどきいらしている。もし麹町あたりでばったり会ったなら「松井さんには母がいつもたいへんお世話になっていて…」くらいの挨拶はしなければならないだろう。鈴木某という高校の同期生も文藝春秋の編集長だったらしいが、ずっと接点がなかったので以前名前を聞いたけれど忘れた。
半藤さんが歴史、とりわけ昭和史に造詣が深いことは知っている。数多くの著書を上梓されている。残念ながらこれまで読む機会に恵まれなかった(唯一読んだのは大相撲の本だった)。ネット書店でこの本を見かけ、紀尾井町を歩いていた氏を思い出して読んでみることにした。さまざまなパーツを買い集め、削ったり、接着したり、色をつけたりして昭和のジオラマをつくっている人のように思えた。あの人の中にはこんなにたくさんの史実が詰まっているのだなと思うともういちど麹町界隈でお目にかかりたいものである。
そのときにちゃんとお声がけできるようもっと昭和史を勉強しておきたいと思う。

2017年6月20日火曜日

関川夏央『昭和が明るかった頃』

CM制作会社でアルバイトをはじめて何度目かの撮影現場ではじめて吉永小百合を見た。
ある飲料のお中元用のテレビコマーシャルだった。
映画やテレビ番組などさほど多く出演しておらず、テレビコマーシャルも4~5社と契約していたが、それ以上は出演しないというのが事務所の方針だったと聞いた。
全盛期の吉永小百合を知らない僕たちの世代にとって彼女は圧倒的なスターだった。もちろん全盛期を知る上の世代にとってもこれは同じことだろう。シズル撮影(僕たちはグラスに注ぐ飲料のカットを撮るためにグラスを磨いたり、氷を削ったりしていたのだ)の準備のかたわら、照明機材の隙間から遠く見る吉永小百合は光彩を放っていた。
吉永小百合は何を演じても吉永小百合である。体当たりの演技や汚れ役ができない。そんな批判も一方であったという。関川夏央は吉永小百合の全盛期は1962年春(浦山桐郎監督「キューポラのある街」)から64年秋(清水邦行監督「愛と死をみつめて」)と言い切る。それ以降一本もヒット作がないにもかかわらず神話的な存在でありえたのはその全盛期に団塊の世代とその上の男たちが清純派として冒しがたい空気をまとった吉永小百合像をつくってしまったからだという。
吉永小百合が日活のトップスターになった背景には石原裕次郎が61年スキーで大けがをしたこともある。
関川夏央は吉永小百合と石原裕次郎を対比させながら、戦後激流の時代を読みとる。吉永小百合に関しては当時の社会の変化や日活という環境、そして勤労少女たらざるを得なかった彼女の家庭環境、そして生真面目な性格がキャパシティの小さな女優として早熟な運命を課してしまったのかもしれない。
もちろん作者のめざしたところは娯楽映画の歴史や俳優論ではなく「ある時代の思潮と時代そのものの持つ手ざわり」(文庫版あとがき)である。
関川夏央が愛してやまない戦後昭和の第二期(昭和35年から15年)がそこにある。

2017年6月6日火曜日

関川夏央『昭和時代回想』

先日ある動画を編集していたときのこと。
何か気になるところはありますかと意見を求められたので、インタビューシーンのテロップ「良かった」は「よかった」の方がいいんじゃないかと言ってみた。ディレクター氏がここのインタビューではひらがなが続くのでここは漢字にしておきたいというのでじゃあそうすればと答えた。ひらがなが線路のようにどこまでも続こうが「良い」は「よい」もしくは「いい」であると個人的には思っている。もちろんこれはあくまで個人的な話なので他人様に強要することではない。
個人的な話を続けると「何々するとき」「なになにしたこと」は「する時」「した事」と表記しない。ひとつに文章が古くさく感じられるせいだが、もちろん個人的な話だ。
長いこと広告制作の仕事にたずさわっていると印刷媒体にくらべると映像媒体の制作者の方が漢字を使いたがる。テレビという限られたスペースで文字数を節約しようとの配慮だったかもしれない。僕が個人的にあまり漢字を多用しないのは漢字をあまり多用した文章を読む機会が極端に少ないからだ。
わざとらしい漢字表記もいかがなものかと思う。「おいしい」を「美味しい」と書くのはちょっと恥ずかしい。「はやり」を「流行り」とするのは何となく気が利いていると思う。
関川夏央がふりかえる昭和が好きだ。昭和をいとおしむ姿勢と視線が好きだ。
これまで読んできた筆者の本にはほとんど言及されていなかった彼自身の昭和も描かれている。僕が生まれ育った時代、その10年前に思いを馳せてみる。昭和は案外いいやつな顔をしてそこにたたずんでいる。
関川によれば戦後昭和は15年刻みでその相を変えているという。終戦から昭和35年までの混乱と復興の時代。35年から50年までの高度経済成長とその挫折の時代。さらに昭和の終焉とバブル景気の時代。非常にわかりやすい分類だ。
あっという間に過ぎ去っていった昭和。今にして思えばなんてもったいないことをしたか。

2016年10月23日日曜日

田勢康弘『島倉千代子という人生』

小学生3年か4年の頃、社会の授業で品川区の地図をもらった。
授業中にひろげて、先生の言うこともそっちのけで、品川駅は港区にあり、目黒駅は品川区にあるなどという発見に興奮したものだ。当時あって、今なくなった駅もあれば当時なくて今ある駅もある。横須賀線の西大井駅はなかった。今の横須賀線は品鶴線と呼ばれる貨物専用線だった。
なくなったのは京浜急行の北馬場と南馬場。京浜急行が高架化されるにあたり統合され、新馬場となった。馬場という駅がないにもかかわらず、「新」が付いた。1976年。僕はもう高校生になっていた。
京浜急行は廃止された駅が多いという。立会川駅と大森海岸駅の間にあった鈴ヶ森駅もそのひとつ。戦時中の1942年に廃止されているからずいぶん昔の話だ。
新馬場駅を降りると第一京浜国道の向う側に品川神社、目黒川沿いに荏原神社がある。島倉千代子が地元商店街の「若旦那楽団」の一員としてアコーディオンを弾きながら歌っていた社である。旧東海道を中心に商店街が連なっている。今も若旦那が出てきそうな店構えもある。島倉千代子の生まれ育った家は荏原神社の裏手だったらしい。
この本を最初に読んだのは出版当初のことだから1999年くらいか。単行本は誰かに貸してそれっきりになっていた。電子版が刊行されていることを最近知り、再読する。
島倉千代子がヒット曲を連発していたのは50年代半ばから60年代前半だと思う。僕がリアルタイムで見聞きしていた当時のヒット曲は「ほんきかしら」や「愛のさざなみ」くらい。いずれも60年代後半、島倉は30歳になろうとしていた。若い流行歌手が次々にあらわれてヒット曲を披露していく中で島倉千代子はすでにベテランの部類に属する歌手だったと思う。それなのにいつまでもアイドルのような初々しい印象を与える不思議なキャラクターだった。
この本を読むとそんな彼女のひたむきさが少しわかるような気がする。

2016年6月23日木曜日

吉村昭『東京の戦争』

春野球はとっくに終わり、夏野球の季節だ。
この春は数戦しか観ていない。ちょっと興味が薄れたせいだ。
2011年夏の甲子園優勝の日大三。その主力5人が東京六大学にすすんだのが、翌12年春。エースの吉永、トップバッターの高山ら1年生の活躍が目立った。楽天イーグルスで活躍している茂木も含めてベストナインに3人の1年生。日大三優勝メンバーの慶應横尾、法政畔上、立教鈴木以外にも明治坂本(履正社)、菅野(東海大相模)、立教大城(興南)早稲田重信(早実)と全体としてレベルの高い世代だった。そしてこの春こぞって卒業した。ついつい球場から足が遠のいてしまったのは、誰を観にいこうか、という興味が薄れたからに他ならない。
東京六大学野球でいえば、昨年まで世代的に強かった4年生に依存してきたチームは苦戦を強いられた。早稲田が典型的だ。1学年下にエースが残った明治(柳)、立教(澤田圭)、慶應(加藤)がリーグ戦を盛り上げた。強い世代が抜けて、全体のレベルが下がるという見方はちょっと極端すぎるかもしれないが、リーグ戦で東大が3勝したり、その後の全日本選手権で東京六大学も東都大学も早々に姿を消したのは各大学の戦力が接近して団子レースになったからではないか、などと思っている。
最初に読んだ吉村作品は『羆嵐』だった。それから人に勧めらるがままに『三陸海岸大津波』、『関東大震災』を読み、そして災害三部作(なんていう言い方はされていないけど)の三冊目としてこの本を選んだ。
特定の人物の視点からではなく、戦争というものが、空襲というものが淡々と綴られていく。政治や思想ではなく、戦争とともに戦争そのものを生きた庶民が見たままの戦争だ。
吉村昭は東京日暮里の生まれという。あの戦争で東京の東半分はほぼ焼き尽くされた。それでもときどき歩いていると空襲で焼けなかった一角という場所が70年以上の時を隔てて残っている。奇跡といっていいだろう。

2014年7月28日月曜日

大岡昇平『ながい旅』

先日カエルの話をした。その続き。
梅雨時だったから仕方のないことだが、雨が続いてカエルが頻繁に姿をあらわすようになった。長女は誰かが迎えに行かないかぎり、玄関まで近寄ろうともしない。家の前に着くと電話をかけてよこす。次女はどちらかといえばカエルがいようがいまいが見ないようにすれば平気だといって普通に帰ってきていたが、再三見かけるようになって何とかならないかと言ってきた。
というわけで捕獲作戦司令官にして直接処理班班長に押しだされるように拝命された次第である。
子どもの頃ならいざ知らず、もうかれこれ50年近くカエルに触れていない。直接捕獲するのは避けたい。ビニールの手袋をすればいいかというとそれも直接触るのとなんら変わりはない。少なくとも精神的には同じだ。カエルに触れることなく捕獲し、安全な場所に逃がすというのが司令官が自らに課した課題である。
実際のところ捕獲はさほど難しくなかった。傘の先で地面を叩いてカエルをおびき出し、バケツに誘い込む。そしてバケツを下げて、近所の池のある公園に放しに行く。任務はあっけなく終了した。
カエルはバケツに捕獲されると最初だけ前脚を伸ばして逃亡をはかろうとする。何も処刑しようというつもりは毛頭ないのだが、なんて潔くないやつなんだという印象を受けた。B29の(またその話になるが)搭乗員処刑に関して上官として全責任を追うと法廷で戦った元第十三方面軍司令官兼東海軍司令官岡田資中将のようになぜ堂々としていられないのだカエルよと思わず声をかけてしまいそうになった。
吉村昭の『遠い日の戦争』が逃亡する戦争犯罪人なら、大岡昇平の『ながい旅』は終戦後法廷でも戦い続けた戦争犯罪人の記録である。その後「雨あがる」の小泉尭史が「明日への遺言」というタイトルで映画化していることも恥ずかしながら最近知った。
カエルを捕獲した翌日、もう一匹、そしてその二日後もう一匹を捕獲、釈放した。三匹もいたのだ。

2014年6月12日木曜日

東郷和彦『北方領土交渉秘録』

前回に続いて高田越えの話なんだけど、128安打を4年間で打つとすると1年春から出場してシーズン平均16本のヒットが必要になる。おおよそであるが16本打てば打率は3割を越える。つまりフルシーズン出場して3割を打たないと高田越えはできない計算になる。鳥谷の1年春は10安打、上本博紀が15安打。まずまずのスタートではあったが、これでは届かない。
そんななかで今注目されているのが明治の高山俊だ。前年日大三のトップバッターとして夏の甲子園優勝に貢献。デビューシーズンに20安打を放って、ベストナインに選ばれた。
2年秋を終え、62本。そして3年春19本、5季終了時点で通算81安打。これはもしかすると、と期待を持たせる。
高山に期待できるところは単にバッティングセンスにすぐれているとか、足が速いとか大舞台での経験が豊富であるとかだけではない。彼にとっていちばん恵まれているのはライバルだ。
明治の同期にはチャンスに強い菅野剛士(東海大相模)や意外性の男坂本誠志郎(履正社)らがいて、入学当初から切磋琢磨できる環境があった。横尾(慶應)、畔上(法政)、吉永(早稲田)ら元チームメートの活躍も刺激になる。さらに同じく高田越えをめざすライバル大城滉二(興南~立教)の活躍も見逃せない。ちなみに大城は2年秋を終え、60安打。今季16本。通算76本で高山を追いかける。
そういえば以前北方領土のことを調べようとして国境問題関連の本をまとめ読みしたことがあった。この本はそのときの一冊。今となってはなかみを思い出せないが、日本とロシアの交渉が再開されると少しだけ思い出す。本を読んでおくということはこうしたこと、つまりいずれ何かの役に立つかもしれないということだ(たぶんそれほど役に立つとも思えないけど)。
いろいろトータルに考えてみると来年の秋には東京六大学野球史を塗り替える21世紀の記録が打ち建てられるかもしれない。