2022年6月26日日曜日

山本有三『波』

6月だというのに突然猛暑がやってきた。
昨日、東京都心で35℃を超え、群馬県伊勢崎市では40℃を超えたという.
気象庁によれば気温が25℃を超えると夏日、30℃を超えると真夏日、そして35℃を超えると猛暑日というらしい。ここ何年か、35℃を超える日はあったけれど、6月としてはなかった。観測史上初とのことだ。6月からこんなに暑くなっては7月、8月が思いやられる。そんなことを今から思いやってもどうにもならないのだが。
暑く、日ざしも強いが、いい天気であるし、風もあるので熱中症にならないように注意しながら、JR三鷹駅南口から玉川上水沿いを散歩してみる。雨が多かったせいもあるだろう、草木がこれでもかというくらいに生い茂っている。水面はほとんど見ることができない。
しばらく歩くと三鷹市山本有三記念館がある。昭和の初期に山本有三が住んでいた洋風建築の建物である。『路傍の石』もここで執筆されたという。足もとにある小石をじっと見つめてみたりする。この建物は戦後、進駐軍に接収され、山本はやむなく転居。接収解除後は国立国語研究所三鷹分室として利用されていた。
『路傍の石』を読んだとき、突然の、あっけない幕切れにちょっとした物足りなさを感じて、別の作品を読もうと思った。他に思い浮かぶのは『真実一路』だが、まずは『波』を読んでみる。小学校教諭である主人公は吾一の担任を思わせる。昔の教師は勉強を教える存在以上に子どもやその親だけでなく、地域の悩みに向き合っていたのではないだろうか。今も昔も教師という職業はたいへんだったのだ。
記念館を出て、玉川上水沿いを進む。上水は井の頭公園を横切って、久我山、高井戸方面に向かう。そのまま流れに沿って歩くと長女が通っていた高校の前に出る。が、しかし暑い。進路を左にとり、JR吉祥寺駅をめざす。動物園の前を通り、昼間から営業している焼鳥屋のにおいをかぎながら、猛暑の散歩を終えた。

2022年6月22日水曜日

安西水丸『左上の海』

建築設計の仕事をしていた伯父は1985(昭和60)年に他界している。
歯の治療をしたあと、出血が止まらなくなり、検査したところ急性骨髄性白血病と診断された。半年に満たない闘病であった。祖父も50代半ばで戦後まもなく病死している。父親よりわずかに長生きしたとはいえ、あっけない人生の幕切れであった。
安西水丸はイラストレーションのほかに小説やエッセイなどを遺している。この短編集は嵐山光三郎が編んだものである。生前の安西を支えた主要人物といえば嵐山、村上春樹、和田誠であろう。なかでも嵐山は渡辺昇時代からの盟友である。そもそも嵐山と平凡社で出会わなかったら。安西水丸は生まれ得なかったといっていい。
1980年代の半ばくらいだったか、安西は嵐山と二人展なるものを開いた。ちょっとした異業種のセッションみたいなリラックスした雰囲気だった。会場は銀座。たまたま縁あってオープニングパーティーに出向いた。大きな寿司桶が重ねられていた。寿司屋の店主が会場に来ていた。俺はお前のおふくろさんの従弟だと言われてびっくりした。場所が銀座だったとおぼえているのは、母の従弟の寿司屋が銀座にあったからだ。そのときはじめてである、嵐山光三郎を間近で見たのは。
嵐山がチョイスした短編のいくつかはすでに読んでいたが、氏の姿を思い浮かべながらもう一度読んでみる。「消えた月」に登場する佐竹、「柳がゆれる」の奥津はともに急性白血病と診断される。この二編は1998年に出版された『バードの妹』という短編集に収められている。安西の身近に急性白血病になったモデルとなるような人物がいたのだろうか。少し気になる。
そういえば銀座での二人展以前に僕は嵐山光三郎を見かけたことがある。
伯父の葬儀(お別れの会)が執りおこなれた信濃町の千日谷会堂で、である。目の覚めるような真っ白い羽織袴でさっそうと祭壇の前にあらわれ、献花した姿を思い出す。

2022年6月19日日曜日

太宰治『晩年』

それにしても梅雨時はじめじめして不快だ。湿度がものすごく高くて、いつ雨が降ってもおかしくない天候のこの季節が大好きなんですよ、という人はそう多くないだろう。
6月末の一週間をフランス、コートダジュールで過ごしたことがある。天候が安定し、バカンスシーズンがはじまるこの季節。地中海の海岸沿いの町も空気がからりとして過ごしやすい。冷やしたロゼワインがおいしい。
天国みたいな町から飛行機を乗り継いで、成田に着く。空はどんよりしていて、よく見ないとわからないくらいの細かい雨が降っている。空港を出るともうだめだ。眼鏡が曇る。というより身体全体が曇りはじめる。こんな目に遭うくらいならフランスなんか行かなければよかったとさえ思う。
太宰治はフランス語をまったく知らないまま、東京帝国大学のフランス文学科に進んだ。フランス語をほとんど知らないまま、フランスを旅した僕の境遇に近いものを感じる。
今日は桜桃忌だった。
おそらく三鷹の禅林寺には多くのファンが集まったことだろう。以前も書いたが、僕はさほど太宰のファンではない。人生のある時期、集中的に読んだ経験があるとしても。
文庫本で出ている太宰治の小説は20代の頃、ほとんど読んでいる。読み残した作品もまだあるだろうということで筑摩書房の太宰治全集も持っている。まったくページをめくっていない巻もある(むしろそっちの方が多いか)。今年に入って、ふと読みなおそうと思い立って、『人間失格』『斜陽』『ヴィヨンの妻』を読んだ。多少記憶に残っている小説もあるが、ほとんはじめて読むような感じだった。
『晩年』は太宰の最初の短編集である。以前読んだときはそんなことすら知らなかった。ある程度歳をとって、多少なりとも知識を得て読みかえしてみると、若き太宰の苦悩の日々が思われる。『津軽』を何度目かに読んだとき、続けて「思ひ出」を再読した記憶がある。それだけはおぼえている。

2022年6月14日火曜日

井伏鱒二『太宰治』

JR荻窪駅北口から教会通りという商店街に入る。『荻窪風土記』では弁天通りと呼ばれていた通りである。東京衛生病院に隣接する天沼教会や閉校になった若杉小学校に沿って日大(二高)通りを渡ったあたりに井伏鱒二の家があった。日大通りを井伏鱒二は、大場通りと呼んでいるが、天沼本通り、税務署通りなどとも呼ばれていた。税務署通りと言われていたように通り沿いに税務署があった。今は荻窪駅の南側に移っている。
井伏の家から日大通りを東進し、旧税務署の先を右に曲がったところに古い木造の建物があった。かつて太宰治が暮らしていた碧雲荘である(その後、大分県のゆふいん文学の森に文化交流施設として移築復元された)。太宰は昭和11年11月から翌年の6月までここに住んだ。
旧税務署先の角には20年ほど前までガソリンスタンドがあった。今なら目印となるのはセブンイレブンだろうが、税務署もなくなり(現在はウェルファーム杉並という子育て支援の施設)、碧雲荘もなくなり、太宰の住んだ下宿は記憶の地層のずっと深いところに埋もれてしまっている。船橋時代からパビナール中毒完治後に移り住んだ碧雲荘から井伏の家まで太宰はどんな道順をたどっていったのか気になるところである。
昭和10年代、天沼や清水町がどんな風景だったか。井伏が引っ越してきたのは1927(昭和2)年。このあたりはほぼ田畑だったというが、それから10年、急速に宅地化がすすんだのだろうか。
太宰は東京帝国大学入学後、井伏鱒二に弟子入りする。会ってくれなければ自殺すると書いた手紙は知られるところである。会ったのに自殺したのだから(未遂も含めて)、太宰という男はたいした嘘つきだ。それはともかく、井伏鱒二の太宰を見守る視線はなかなかいい。それほどまでに太宰の才能を確信していたのか(それはありえないことではない)。
太宰の倍以上生きた井伏はやはり貴重な証言者のひとりに違いない。

2022年6月6日月曜日

檀一雄『小説太宰治』

6月19日は桜桃忌。
入水自殺した太宰治の遺体が見つかった日である(太宰の誕生日でもあるらしい)。三鷹の駅からかなり歩く禅林寺に今なお多くのファンが集まるという。
墓参りをするほどのファンではないけれど、太宰を読むのは案外好きで忘れた頃に昔読んだ小説を読みかえしている(なかでも『津軽』はもう何度も読んでいる)。太宰の魅力的な文章についつい引きこまれてしまう。
40年に満たない太宰の人生はエピソードにあふれている。その数々をあるときは編集者が、あるときは作家仲間が、そしてあるときは遺された遺族が語っている。この本は小説家として開花することを夢見ていた仲間であり、太宰の豊かな才能を敬慕していた檀一雄による。もちろん檀ひとりの記憶とわずかな資料に基づくだけだからノンフィクションとはなりえない。タイトルに小説と付されているのは、あらかじめお断りしているということだろう。
太宰治の生涯をくわしく知らない。ましてや檀一雄についてもよく知らない。以前深作欣二監督「火宅の人」を観た以外に接点はなかった。練馬区の石神井公園の近くに住んでいたことは知っている。長男がCMプロデューサーで美食家として知られている。同じ業種だったこともあり、築地界隈で何度か見かけている。長女は女優である。
太宰と檀の間に交流があったことも実は先日読んだ沢木耕太郎『作家との遭遇』ではじめて知る。太宰より20年も無駄に生きているわりには知らなかったことが多い。熱海まで赴いて、消防夫の協力を得て、行方不明になった太宰をさがしたのは檀であった。荻窪に戻って、そのようすを話しているときに鎌倉の山で自死できなかった太宰が帰ってくる。
檀一雄は1937(昭和12)年に召集され、中国に出征している。軍務が解かれても大陸に残り、放浪生活を送る。
檀の記憶が断片的なのは、太宰に太宰の人生があったように檀には檀の人生があったからだ。

2022年5月29日日曜日

沢木耕太郎『作家との遭遇』

これだけはどうしても読んでおきたいと思う本が少なくなってきた。歳をとって欲がなくなってきたせいもある。
もともとこれを読んだらあれを読もうといったプランをつくって読書しているわけではない。基本、行きあたりばったりである。最近では仕事で必要な書物以外はずっと読まないままでいた日本の名作を開いてみたり、昔読んだ小説を読みなおすなどしている。人が一生に読める本は限られている。これまで読んできた本との出会いは偶然の出会いであり、それはそれでよかったのだろう。
誰かが読んでいた本を読んだことも多かった。昔の同僚や先輩にすすめられたり、影響を受けて読んだ本も多い。沢木耕太郎の『深夜特急』もそのひとつ。沢木耕太郎の名前を見ると当時親しく付き合っていたコグレさんを思い出す。今ごろどこで何をしているやら。
この本はノンフィクション作家沢木耕太郎による作家論。
沢木は、資料を丹念に収集し、読み解き、事実を克明に記していく。筋金入りのノンフィクションライターである。本書で取りあげられた作家一人ひとりの作品にすべて目を通したうえでテーマを絞り込んで綴っている。そのせいかフィクションとノンフィクションに関しては厳格な線引きを行っている。吉村昭や瀬戸内寂聴について語るとき、その厳格さは色濃くあらわれる。ノンフィクションを書くという自身の存在理由が明確なぶん、文章は骨太で力強さが感じられる。『深夜特急』以外の作品を知らなかった僕には新鮮な出会いだった。
この作家論は最近文庫化された。単行本にはトルーマン・カポーティやアルベール・カミュについての論考も所収されているという。まだつづきがあると思うと少しうれしい。
この本を読み終えて、檀一雄『小説太宰治』と瀬戸内寂聴『美は乱調にあり』とその続編である『諧調に偽りあり』を読んでみたくなった。結果的に読みたい本がまた増えてしまった。
無計画な読書は当分続きそうだ。

2022年5月25日水曜日

安藤元博『広告ビジネスは、変われるか? テクノロジー・マーケティング・メディアのこれから』

長く広告の仕事に携わってきたが、広告の未来は、などと訊ねられてもおいそれとは答えられない。僕が主として関わってきたのは広告表現の企画立案、所謂クリエイティブであって、実をいうとそれ以外のこと、メディアやマーケティングのことなどはまったくの素人同然である。
ここ10年ほどで広告やマーケティングの世界にもデジタルの波は押し寄せている。費用対効果の高いメディアを瞬時に選択し、効果的な表現をたえず見直し、スパイラルアップさせて、興味関心のある潜在的な顧客に有効な情報をタイミングよく刷り込んでいく、みたいなことが行われるようになってきている。
これまで主にテレビCMの企画を主にしてきた。ざっくり不特定多数に情報を届けるこのメディアはデジタルの真逆にあった。テレビCMが完成し、オンエアされる。クライアントからは話題になっているとか、注文が増えているとか、社内の評判がいいなどと言われる。それでいて半年後には再び複数の広告会社と競合プレゼンテーションの知らせが来る。広告、とりわけテレビCMに対する厳密な効果測定は、少なくとも僕たちの時代には行われ得なかった。よく伝わる表現があったとしても、しかるべき時間帯にある程度の出稿がなければ、それは届かない。大量に出稿される広告であっても、魅力のない表現、あるいは反感を買うような表現ならばマイナスの効果しか残さない。広告が効果的に迎え入れられるためにあらゆる要素を効果的に組み立てなければならないのだ。そうした意味からするとデジタル化された広告ビジネスは昔にくらべ、格段の進歩を遂げるだろう。効果が測られることによって、表現が萎縮しなければいいと思うし、クリエイティブに携わる人たちのモチベーションが下がらなければいいと思っている。
この本では統合マーケティングのプラットフォームが語られている。専門分化と統合という難しい課題に広告ビジネスはさらされている。

2022年5月23日月曜日

指南役『黄金の6年間 1978-1983 素晴らしきエンタメ青春時代』

今年は沖縄返還50年にあたる。NHK朝の連続ドラマも沖縄を舞台にしてはじまった。
先日の新聞に石垣出身の元ボクシング世界チャンピオン具志堅用高のインタビュー記事が載っていた。沖縄が日本に復帰した年、インターハイに出場するため具志堅は本土に渡る。パスポートはもう要らなかった。
その4年後、1976年10月10日。高校の文化祭が終わった夜、僕はひとり飯田橋でラーメンを食べていた。店内のテレビはボクシングの試合を中継していた。テレビから沸き起こる歓声に加えて、店にいた多くの客たちもどよめく。WBA世界ライトフライ級チャンピオン具志堅用高誕生の瞬間だった。
JR飯田橋駅から九段に向かって歩く途中に「ひろかわ」というとんかつ屋があった。後で知ったことだが、石垣島から上京した具志堅はこの店でアルバイトをしていたという(僕も駅前で何度か見かけたことがあった)。その日歓声を上げたラーメン屋のお客さんは地元で働く具志堅をずっと応援していた人たちだったに違いない。
著者の指南役によれば、「黄金の6年間」とは1978年から83年までの6年間をさす。東京が最も面白く、猥雑でエキサイティングだった時代、音楽や映画、小説、テレビ、広告、雑誌などメディアを横断してさまざまな分野のクロスオーバー化が進み、新たな才能が生み出された時代であるという。TBSテレビで「ザ・ベストテン」や「3年B組金八先生」がはじまり、村上春樹が小説を書きはじめた時代だ。
こういった時代区分は恣意的なものが多いと思われるが、事例が多く積み重ねられることによって不思議と説得力が生まれてくる。それと同時にこの6年間の前後の時代にも光が射し込んでくる。とりわけ黄金時代の夜明け前は興味深い。
どういうわけか、この本を読み終えて、具志堅用高の世界王座奪取を思い出した。それから1年と2ヶ月。黄金の6年間がはじまる。そして4月に僕は大学生になった。

2022年5月22日日曜日

夏目漱石『吾輩は猫である』

一般の人はあまり使う機会はないだろうが、和文通話表という一覧が無線局運用規則に定められている。要するに無線電話で確実にことばを伝えるために制定されたものだ。「朝日のあ」「いろはのい」と念を押すことによって間違って伝達しないための手段である。英語にもある(というか英文通話表=フォネティックコードの日本語版が和文通話表と解釈していい)。「A、アルファ」「B、ブラボー」などと言う。
和文通話表は昭和25年に施行された電波法で定められた。通信や電波はそれまでは逓信省、その後電気通信省、郵政省が管轄していたが、「切手のき」「手紙のて」「はがきのは」「無線のむ」「ラジオのら」と通信関係が多い。地名も「上野のう」「大阪のお」「東京のと」などがある。「ろ」は「ローマのろ」である。ロンドンではなくローマなのである。ましてやロシアでもない。「ぬ」は「沼津のぬ」である。「ぬり絵」でも「ぬかみそ」でもよかったかもしれないが、昭和の初期まで交通の要衝だった沼津が採用されている。
なんだかなあと思われるものもいくつかある。「そろばんのそ」「煙草のた」「マッチのま」「三笠のみ」「留守居のる」などは少し時代に取り残されているような気がする。「千鳥のち」も千鳥にピンとこない人が増えてきたと思う。
日本近代文学のはじめの一歩は間違いなく夏目漱石であろう。その漱石の最初の作品が本書である。恥ずかしながら、ついぞ読む機会がないまま、齢を重ねてしまった。突飛なアイデアから生まれたこのデビュー作はなかなか奥行があり、味わい深いものがある。後々の諸作品のためのいいスタートダッシュだったといえよう。
調べてみると和文通話表は古くは大正14年に制定されているようだ。「明石のア」「岩手のイ」「上野のウ」と地名が多く見られる。それに基づくと夏目は「名古屋のナ」「敦賀のツ」「目白のメ」となる。
どうでもいいようなことを書いてしまった。

2022年5月9日月曜日

山本有三『路傍の石』

読みはじめたものの読み終えていない本がたくさんある。
おもしろそうだとか、これは読まねばと志だけ高くページを開いてみたものの、こんなはずじゃなかったと思った書物の数々。人生も読書もこんなはずじゃなかったの連続だ。たとえばマクルーハンの『メディア論』など。
高校1年の夏休み、大岡昇平の『野火』を読んで感想文を書けという宿題があった。30頁ほど読んで読みきることをあきらめた。とりあえず原稿用紙のマスを埋めて、提出した。どんなことを書いたかも、本当に提出したのかさえもおぼえていない。それでも何とはなしに気がかりだったので3年くらい前に読んだ。
山本有三のこの小説は小学生の頃、子ども向けの日本文学全集か何かで読みはじめた。冒頭の焼き芋屋の話がせつなくて読む気をなくした。それ以来、いちどたりとも手にとることはなかった。記憶はみごとに失われていた。kindleで何か面白そうな本はないかと探していたとき、突然『路傍の石』という文字が目に飛びこんできた。小学生時代に読みはじめたもののやめてしまった記憶とともに。まるでマドレーヌを紅茶に浸したみたいに。
焼き芋屋のくだりをクリアして読みすすむ。悪い話ではない。吾一という少年はきっと将来、幸せになるような予感がした。オリバー・ツイストやデイヴィッド・コパフィールドのように。けっしてハンス少年のように挫折して溺死したり、青山半蔵のように学問にのめり込んだ末に廃人となるようなことはなさそうだ。
紆余曲折がありながら、吾一は人生を切り拓いていく。印刷工として真摯に仕事に取り組み、夜学に通い、事務職となり、やがて出版事業を起こす。もちろんとんとん拍子というわけにはいかないが、あきらめない、希望を捨てないところが吾一なのである。そして、さあこれからというときにこの物語は幕を閉じる。突然に。
未完の小説だったことがわかっただけでもこの本を読み終えてよかったと思う。

2022年4月26日火曜日

下坂厚 下坂佳子『記憶とつなぐ 若年性認知症と向き合う私たちのこと』

厚生労働省の動画に「希望の道」というシリーズがある。認知症の当時者を取材した動画である。
昨年アップロードされた動画で京都在住の下坂厚という人を知った。46歳のとき、若年性アルツハイマー型認知症と診断されたという。若年性というのは65歳未満で発症した際に用いられる。それにしても46歳というのは若すぎる。動画のなかで新しい仕事を起ち上げたばかりの下坂は目の前が真っ暗になったと診断当時をふりかえっている。
若年性認知症当事者としては仙台の丹野智文が知られている。丹野はさらに若い39歳のときアルツハイマー型認知症と診断された。勤務先の理解や家族の協力、そして本人の明るさと工夫によって認知症当事者であっても自分らしく前を向いている。講演活動などを通じて認知症の理解を訴えている。
下坂も丹野に出会い、認知症とともに生きる社会をつくる方向に自らの気持ちをシフトさせたひとりに違いない。丹野のような社交性や持ち前の明るさを持っているわけではないが、若い頃から好きだった写真撮影を通して、日々の気持ちを記録し、広く伝えている。
そういえば、今年も新たに認知症普及啓発の動画が何本かアップロードされていたが、それらの動画には本人のインタビューに加え、家族や支援者(パートナー)の声も収録されていた。パートナーは主に自治体や社会福祉協議会の担当者であったり、福祉施設のケアマネージャー、雇用主、親友などさまざまである。当事者と日々接している理解者の話には説得力があり、当事者ひとりのインタビューでは見えにくい部分にも光を差し込んでくれる。
この本は当事者下坂厚の声だけでなく、パートナーのまなざしも織りまぜられた構成になっている。下坂がパートナーに支えられる一方で、家庭や職場、そして社会を支えている姿が見てとれる。短い動画やネットの記事だけではわからない下坂厚を浮き彫りにしようという意思と意図が見てとれる。

2022年4月23日土曜日

太宰治『ヴィヨンの妻』

先月、三鷹を訪ねた。
太宰治ゆかりの跨線橋を渡って、国鉄武蔵野競技場線廃線跡を歩いたのである。三鷹駅と武蔵野競技場前駅を結ぶこの路線は、中島飛行機武蔵工場の引込線を利用して1951年に開業した。電化単線、全長3.2キロ。中央線の支線だった。
その年、武蔵野グリーンパーク野球場が終点武蔵野競技場前駅近くに完成した。当時、首都圏で開催されるプロ野球の試合のほとんどは後楽園球場を利用していた。明治神宮野野球場は進駐軍に接収されていたため、前年から2リーグ制がはじまったにもかかわらず、球場不足は否めなかったのである。そこで建設されたのが武蔵野グリーンパーク野球場だった。グリーンパークという名前はこのあたりを接収していた米軍がそう呼んでいたことによるらしい。
5万人を収容できる本格的な球場だったが、都心から離れていたことや突貫工事のため芝の育成が不十分だったこともあり、砂塵に悩まされるといった問題もあった。そしてその翌年には神宮球場の接収が解除され、都心に近い川崎球場、駒沢球場ができたことで武蔵野グリーンパーク野球場は51年にプロ野球16試合が行われただけで翌年には武蔵野競技場線も休止。野球場は56年に解体され、鉄道路線は59年に廃止された。
太宰の跨線橋を渡って駅の北側に出ると、線路があったと思われる曲線部が公園になっている。さらに進んで玉川上水を越えるぎんなん橋にはレールが埋め込まれている。かつての国鉄飯田町駅があった飯田橋アイガーデンテラスでも見たことがある。失われた鉄路のモニュメントが遺されるのはいいことだ。戦後間もない頃の野球少年の夢を乗せた電車が(あまりにも短い期間ではあったが)通り過ぎていったのだなどと思いながら野球場跡地まで歩いた。
新潮文庫『ヴィヨンの妻』を読む。昔読んだことはすっかり忘れている。太宰の、死と向き合う小説より、生を生きる活力ある小説が好きだ。

2022年4月15日金曜日

斎藤太郎『非クリエイターのためのクリエイティブ課題解決術』

クリエイティブディレクター(CD)という呼び名はいつ頃生まれたのだろう。
小さなCM制作会社から小さな広告会社に移籍したときのCDは博報堂から電通に移籍した方で昔話をよくしてくれた。その頃、仕事のほとんどが新聞広告や雑誌広告だったから、文案家と意匠家で原稿をつくっていた。彼らにディレクションし、最終チェックをするのはアートディレクター(AD)の仕事だった。古い広告の本をながめると広告表現をつくるリーダーはADだった。杉浦非水も山名文夫も新井静一郎も向秀男もその肩書はアートディレクターだった(と記憶している)。
ADたちはいちはやく東京アートディレクターズクラブという会を起こす。文案家たちがコピーライターの会をつくったのはそれから数年後である。広告表現のなかでビジュアルに加えてメッセージの重要性が認識されはじめた頃かと思われる。意匠家はグラフィックデザイナーと呼ばれるようになって、ADの仕事を支えた。
おそらくそのような戦後広告の黎明期にクリエイティブディレクターという概念はつくられたに違いない。
CDになるためには、グラフィックデザイナー、コピーライター、CMプランナーという修行的立ち位置で何百案ものラフアイデアを書いて、何百というだめ出しをもらってたどり着く必要があった。今でもそういったキャリアアップの仕方はあるが、企業のコミュニケーション構築における広告クリエイティブの比重が大きくなったのか、広告ビジネスを支えるリーダーがCDとしてまさしくディレクションするケースが増えている。
著者の斎藤太郎は電通の営業局出身。(おそらく)コピーやサムネイルを一枚たりとも書いた経験はないだろうが、営業担当として、あるいはメディア担当として広告主と日々対峙してきた経験を持つ。具体的な表現づくりは表現を専門とするCDとともに動く。
広告主と夢を共有し、情熱と強い責任感をもった人ではないかと思う。

2022年4月7日木曜日

太宰治『人間失格』

太宰治を読んでいたのは20歳代だったと思う。消え去った記憶を呼び起こすべく、少しずつ読みなおしている。
JR中央線三鷹駅の西側に朽ちかかった跨線橋がある。朽ち果てているのならともかく、朽ちかかっているというのは見た目にはわかりにくいが、ともかく安全上の観点から補強するか撤去しなければならないらしい。最近はレールの付け替えなどの大工事を深夜に行うこともあれば、土日に列車の運行を止めて作業することもある。鉄道の運行を止めて撤去するとなると大がかりである。どおりで撤去・解体が報道されて以降、具体的な日程は明らかにされていない。
この話がどうして新聞記事になったかというと、この跨線橋が太宰治のお気に入りの場所であったからだ。三鷹市は太宰治とゆかりのある跨線橋を改修して維持できないかと考えていたし、管轄するJR東日本は三鷹市に譲渡するという提案をしていたそうだ。話し合いやさまざまな試算が行われた結果が撤去・解体である。こういった点でも太宰治は面倒くさい人物である。
太宰はこの陸橋のどこが気に入ったのだろう。西側にある電車基地に向かって鉄路が広がっていくその風景を好んだのか、北口側に気に入った小料理屋でも、気前よく金を貸してくれる篤志家でもいたのか(太宰は線路の南側に住んでいたはず)。
先日、せっかくだからこの橋を渡ってみようと思い立ち、三鷹を訪ねた。以前写真で見たよりも所々に補強がなされていて、多少の地震くらいだったびくともしないのでないかと思われるが、古いことは古い。老朽化しているかどうかと訊かれたら僕だってノーと言えない日本人である。
そんなこともあって、『人間失格』を読んでみる。はじめて読んだときとまったく変わることなく、破滅的である。まあ、それはそれでいいのである、今の世の中は。だめなやつはだめなやつの人生があり、破滅的な生き方だってある。たいせつなのは多様性を認め合うことなのだ。

2022年4月3日日曜日

島崎藤村『夜明け前』

わが家の古い戸籍を見る。戸籍が整備されたのは明治のはじめの頃である。戸主は曾祖父で明治10年生まれとなっている。それ以前のものは残されていないが、曾祖父の母親が前戸主(高祖父)の妻として記載されている。生まれは天保5年10月10日とある。高祖母が天保であるとすると高祖父は文政年間あたりの生まれであろうか。まさに青山半蔵と同じ時代を生きたことになる。
今から150年前。旅は歩いて行くものだった。ほんの例外的に駕籠に乗ったり、馬に乗ったりしたものもいたにはいたが、圧倒的多数が徒歩で旅をした。移動速度に制限があるから、街道には宿場町が開け、栄えた。だいたいどこで昼を食べ、どこで泊まるかが計算されていた。のどかな時代といってしまえばそれまでだが、旅に出るというのはそれ相応の覚悟が必要だったのだ。
物語の舞台は中山道馬籠宿。名古屋、岐阜方面から木曽川を北東に遡上すると恵那、中津川を経て馬籠にたどり着く。その先に妻籠があり、さらに進むと関所のあった木曽福島。地名を鉄道路線と結びつけておぼえているせいか、塩尻で南東に方角を変えて東京をめざすといったイメージを持つが、実際の中山道は高崎や熊谷を経て板橋をめざす。いずれにしろ旅人たちは険阻な山道を歩いていった。
これまで読むことのなかったこの本は島崎藤村の代表作である。言ってみれば庶民から見た幕末維新か。木曾谷に設置された固定カメラからめまぐるしく揺れ動く時代をとらえた映像といっていい。黒船の動揺も旅人が日本中に伝えてまわった。勤王攘夷の風は天狗党によって木曽路にもたらされた。慶喜追討の命を受けた東山道軍も通り過ぎていった。街道は人が通りすぎるだけではなく、さまざまな情報の通り道だったことがわかる。
江戸から房州へは船が多く利用されていたという。房州で生まれ育ったわが高祖父も旅をした人であったろうか。江戸の繁華な町を歩いた人であったろうか。

2022年3月29日火曜日

夏目漱石『門』(再読)

気がつくと、大相撲春場所が終わっていて、選抜高校野球が開催されている。
それもそのはず。桜はあっという間に満開になっている。
今年に限ったことでなく、3月はあわただしい季節である。
新宿の落合に大叔父が住んでいた。祖父の弟にあたる。今は父のいとこが住んでいる。その昔書いていたメモによると、30年前の3月29日に訪ねている。産まれて4カ月の長女を連れていったと記されている。大叔父が感慨深そうに80まで生きたのだからもうじゅうぶん生きたと話していたことも。
大叔父は落合に住む前は根津や駒込西片町に住んでいたと聞いている。
はじめて読んだ本だと思っていたら、すでに読んでいたということがたまにある。
夏目漱石の『門』は再読だった。しかも過去にこのブログに書き留めている。10年ちょっと前のことだ。
先日『それから』を読んで、主人公が住む町やその行動範囲を追いかけるといい散歩のコースになるのではないかと思った。牛込神楽坂から富坂上の伝通院あたりである。
さて、この本の主人公宗助はどこに住んでいるのか。山の手の奥であるとか、電車の終点から20分歩くなどとヒントは出ている。そして崖下に住んでいる。崖の上には大家の住まいがある。はじめのうちは根津あたりではないかと思っていたが、想像するに今の豊島区雑司ヶ谷ではないだろうか。雑司ヶ谷といっても鬼子母神の方ではなく、護国寺に近く、文京区の目白台と隣接するあたり。崖下の道は弦巻通りと呼ばれている。かつて川が流れていたのかもしれない。
弦巻通りから北側、つまり崖上をながめると小津安二郎監督「東京暮色」の舞台になった坂道が見える。笠智衆や原節子、有馬稲子が上り下りをくり返していた。ずいぶん以前のこのあたりを散策した記憶がある。都電の鬼子母神前から東京メトロの護国寺駅まで歩いた。その坂道をさがして歩いたのか、歩いていたら偶然見つかったのか。今となってははっきりしない。

2022年3月19日土曜日

勝浦雅彦『つながるための言葉』

3月19日は叔父の命日である。
ちょうどお彼岸の頃でもあり、墓参りをするのを常としている。誰が供えたか、赤いチューリップが花立てに挿してあった。何年か前には黄色いチューリップが供えられていた。赤いチューリップも黄色いチューリップも叔父の仕事に所縁がある。生前をよく知る方が供えて行ってくれたのだろう。
広告の仕事をしているのだから、広告に関する本を最低でも月に一冊は読まなければいけない、30年くらい前に広告会社の大先輩にそう教えられた。最近はとんとご無沙汰である。去年は10冊ほどしか読んでいない。
広告の本といってもマーケティングやメディア、プロモーションなどなど幅が広い。主に読むのはクリエーティブに関するものだ。たいていの場合、著者はヒットCMやビッグキャンペーンを手がけた人で自身の方法論を披露している本が圧倒的に多い。ふむふむなるほどと思うものの、時間の経過とともに記憶は薄らいでいく。あの本はよかったなあと後になって思い出すこともさほどない。
筆者は学生の頃からコピーライターを志望していたという。いくつか広告会社を経験し(最初は営業だった)、現在は電通のコピーライター、クリエーティブディレクターである。若い頃から苦労をされた方なのではないかと思う。たくさんの本を読んでいて、それを血肉としている。少なくとも僕にはそう見える。コピーライターとしての仕事はほとんと知らなかったがTCC(東京コピーライターズクラブ)のサイトで見てみた。じんわりとしたいいコピーが並んでいた。言葉の一つひとつを丁寧に紡ぎ合わせているようだ。
筆者はあるときコピーライターをめざしたかもしれないが、本当に望んでいたのは言葉を通じて素敵な関係を構築することだったのではないか。「他者への敬意と愛情によって、つながる言葉をつくる」というのがこの本の大きなねらいだ。その願いはじゅうぶん叶えられていると思う。

2022年3月16日水曜日

村山昇『キャリア・ウェルネス』

知人の勤める会社は社員数20数名。いわゆる中小企業である。規模は小さいけれどそのぶん風通しのいい組織だとトップは自負しているそうである。
週にいちど原則全員参加の会議があるという。もちろんこのご時世だからウェブ会議システムを使ったリモート会議であろう。売上の推移であったり、昨今の業界の話題などをトップがしゃべりまくる。これも中小企業にありがちである。
先だって若年世代の離職率が高いという話題になったそうだ。新卒で働きはじめた社員の3割ほどが3年以内に辞めてしまう。どこかの企業がまとめた若手社員がやる気をなくす言葉ランキングなどを紹介しながら、そのトップは話し、入社1〜3年の社員に感想を求めたという。しかも彼らのほとんどが中途採用(第二新卒)だった。すでに離職経験のあるものたちの目の前で話すような内容だったのだろうか。新婚カップルにどういうきっかけがあったら離婚しますかと訊くようなものではないか。
まあ、なんとも風通しのいい会社だ。
この本は仕事を通じて(主に若い世代に)どんなキャリアを積ませるかを説いている。成功がある種義務付けられていた時代があった。そのために能力とものごとや人に対する処し方を身につけていかなければ取り残されてしまう組織があった(今でももちろんあるだろうが)。著者は「成功のキャリア観」と成功を得られなかった人たちが閉じこもる「自己防衛のキャリア観」といった昭和平成の遺物とおさらばして「健やかさのキャリア観」を持つことが健康に働いて生きていくために必要だという。
ふりかえって見ると僕も自分の仕事の意味をずっと見い出せないまま働いてきたような気がする。キャリアをどう積んでいくかなんて考えもしなかった。報酬とちょっとした名声のためだけの仕事。
最近になってようやく少しだけ自分の仕事の意味がわかってきた。ほんの少しだけだけど、人の役に立っているのかなということが。

2022年3月6日日曜日

夏目漱石『それから』

以前、早稲田鶴巻町に住んだことがある。近くに夏目坂、漱石公園など漱石ゆかりの地が多くあった。
たいして読んでいなかった夏目漱石を最近読んでいる。早稲田界隈が舞台かというと案外そうでもない。かといって特別な地名が出てくるわけでもない。東京に住んでいる人ならたいてい知っている町でストーリーは進展する。
いい歳をしてこの本をはじめて読む。主人公の代助は牛込(神楽坂)に住んでいる。実家は青山にあり、父と兄夫婦が暮らしている。大阪から戻った友人の平岡夫婦は小石川に住まいを見つける。
実家に行く代助は牛込から電車に乗る。おそらく今の飯田橋駅辺りだろう。平岡の妻、三千代に会うときは江戸川沿い、大曲の辺りから春日の坂道を上っていく。平岡の家は伝通院の近くにある。歩いて行けない距離ではない。もちろん当時のことだから、電車以外にも車という手立てがある。車というのは人力車で、電車というのは路面電車だ。
読みすすむと話はだんだん込み入ってくる。代助と三千代、代助と平岡、そして代助と父。徐々に結末に向かっていくのだけれども、代助の移動ばかりが読んでいて気になって仕方ない。とりわけ牛込から小石川へ、代助はどんな道を歩いていったのか。
四十数年前、九段にある高校に通っていた頃。練習試合で伝通院近くの都立高校まで行くことになった。最寄駅は東京メトロ丸の内線の茗荷谷駅か都営地下鉄三田線(当時は都営6号線と呼ばれていたと思う)の春日駅である。飯田橋から国電で隣駅の水道橋まで出て、都営地下鉄に乗り換えた。春日駅は本郷台地と小石川台地の谷にある。富坂というだらだら長い坂道を歩いてめざしていた高校にたどり着いた。駅からは15分くらいだったと思う。
当時もし漱石のこの作品を読んでいたら、おそらく大曲から安藤坂を上って行ったかもしれない。それはともかくとして漱石の描く東京を散歩してみるのって楽しいかもしれない。

2022年3月1日火曜日

永井荷風『日和下駄』

仕事場がずっと麹町にあった。現在は築地に移転している(どのみち在宅勤務なので仕事場の場所は今となってはどうでもいいことだが)。
麹町の頃は時間があると仕事終わりに番町、四谷、市谷など坂道を上って下りて散策しながら帰ったものだ。今日は市谷を歩こうとか飯田橋まで歩こうだとか、東京の真ん中を起点にするとどこへでも歩いて行けた。今思えばただの徘徊である。
なかでも気に入っていたのは四谷の学習院の裏あたりから、須賀町や若葉町を歩くルートである。鉄砲坂を下り、商店街を少し歩いて戒行寺坂を上る。須賀神社に立ち寄ってからもとの道に戻って(須賀神社から荒木町をめざすこともあった)、闇(くらやみ)坂を下る。坂下には若葉公園という小さな児童公園がある。そしてさきほど通った商店街に戻ってから、赤坂御所の方に向かう。JR中央線のガードと首都高速道路を過ぎると左手に公園がある。みなみもとまち公園という。かつて鮫ヶ橋と呼ばれた一帯である。
四谷にはもうひとつ暗闇坂がある(こちらは暗坂あるいは暗闇坂と表記するようだ)。東京メトロ丸の内線四谷三丁目駅の北側、愛住町から靖国通りに下る石段である。靖国通りをわたると富久町。隣接するのはかつて市谷監獄のあった市谷台町、そして永井荷風が住んでいた余丁町である。夕刻であれば余丁町から西向天神をめざして夕陽を見るのもいい。余丁町の先は昔フジテレビがあった河田町。河田町を越えると若松町、喜久井町でここまで来ると夏目漱石の世界だ。
10年以上前に岩波文庫の『荷風随筆集』を読んだ。それ以来の「日和下駄」である。
荷風が歩いたところはだいたい歩いている。荷風の足跡をたどる試みはいくつも書籍化されていて、たとえば川本三郎であるとか、毎日新聞に連載されていた大竹昭子による『日和下駄とスニーカー』など世の中に物好きは多いとわかる。
『日和下駄』は現代の江戸東京切絵図なのである。

2022年2月13日日曜日

松本清張『影の車』

床屋で店主と会話を楽しむ人をよく見かける。自分はそういうタイプではない。全体的に短くとか横も刈り上げてとか伝えたあとはほとんど目を瞑って、ときどき眠ってしまう。今の床屋は2~3年ほど通っているだろうか。おそらく自分より年下の床屋ははじめてだ。それまで通っていた近所の床屋が突然店じまいして路頭に迷っていた。ある週末、今通っている床屋の前を通りかかるとけっこう繁盛しているように見える。試しに入ってみた。以来通うようになった。若い店主夫婦とその母親(たぶん夫の母だ)の3人で切り盛りしていた。
ずいぶん混んでいる日があった。週末はたいてい複数の客が待っていたりする。ようやく番がまわってくる。いつものようにおおまかに曖昧に指示をして、目を瞑っていた。散髪が終わって、シャンプーと髭剃り。これは奥さんか母親が担当する。その間に店主は次の客の散髪にかかる。髭を剃っていたときだろうか、隣の客と店主の会話が聞こえる。どうやら店主の趣味はサーフィンであることがわかる。
「最近はもっぱら千葉ですよ」
「クルマで行くの?混むでしょ」
「土日じゃないからそうでもないですよ」
「やっぱり九十九里とか?」
「千倉です」
そうかこの店主は休日になると南房総の千倉までサーフィンをしに出かけるのか。ちょっと脳に刺激が与えられた。
先日、野村芳太郎監督の「影の車」という古い映画を観ていて、同じような感覚を味わった。主人公の浜島と小磯泰子は都心ベッドタウンの路線バスで再会する。以前ふたりの親交があったのは千葉県の千倉町であるということがそのセリフからわかる。そのときと同じ刺激を床屋で受けた。
松本清張の『影の車』は連作短編集。映画化されたのはそのなかの「潜在光景」と題される第一編である。その光景は映画でいうと千倉町の瀬戸という海岸だ。
こんど床屋に行った折には店主に話しかけてみよう。「千倉のどの辺ですか、よく行かれるのは?」と。

2022年2月9日水曜日

小林多喜二『蟹工船・党生活者』

電子ブックリーダーは長らくソニー製を使っていた。ページ送りのボタンが付いていて、ディスプレイをスワイプしなくてもいいところが気に入ったのである。たとえば防水バッグに入れて風呂で本を読むときに、これなら確実に操作できる(実際にお風呂で読んだのは数えるほどしかかなったが)。暗いところで画面を照らすLEDライトもオプション装備を付けているみたいでよかった。
かれこれ8年くらい使ってきたが、新機種はもう発売されず、だんだんと不便になってきた。ブックリーダーから書籍を購入するサイトにつなげなくなったり、別のデバイスで購入した本をダウンロードできなくなったり。液晶画面にシミのような黒ずみができたり。
というわけでKindleに変えた。ソニーのリーダーには吉村昭や司馬遼太郎、山本周五郎など読み返したい本が多く格納されている。まあ、読みたくなったら電源を入れることにしよう。
Kindleを購入して簡単な設定を終える。以前に購入した書籍があるようで小林多喜二のこの本はすでにライブラリに入っていた。せっかくなので読んでみた。
言論や行動の自由が今よりもっとなかった時代を知らない。本当にそんな時代があったのだろうか、信じられない、というよりイメージできないときもある。今は今で、自由がある。自由ではあるけれども、新しい考え方が次々に生まれてきて、逆に窮屈な時代になってきていると思う昭和平成世代も多くいると思われる。
さてKindleの端末(一世代前の第10世代)とソニーの電子ブックリーダーを比較すると、薄さ軽さでソニー製に分がある。8年使ってきたこともあって、やはり手になじんでいるのだろう。持った感じの厚みや重さ(仕様を見ると10グラムしか違わないのだが)が異なる。オプション的な機能(辞書機能など)にも少し違いがあるが、今のところ不便を感じていない。
まあ、そのうち慣れていくだろうとは思っているが。

2022年2月6日日曜日

島崎藤村『破戒』

新型コロナの新たな変異株であるオミクロン株が猛威をふるっている。
先週東京都では2万人を超える新規感染者を確認する日が複数あった。全国レベルでも過去最多が頻繁に更新されいる。オミクロン株は発症がはやいであるとか比較的軽症で済むなどいろいろ言われている。情報が飛びかってはいるが、本当のところはよくわからない。第5波と呼ばれていた昨年夏から秋にかけてのピークもどうして収束していったのかきちんとした説明を聞いたことがない。
以前にも書いたかもしれない。中学高校時代にほとんと本を読まなかった。今にして思えば、多感なこの時期に(今でも歳なりに多感なつもりではいるけれど)読書体験がなかったことはおそらくその後の人間形成に支障をきたしているのではないかと思うのだが、今のところ自覚症状はない。
島崎藤村がいつの時代の人なのか、作品はどんな傾向なのか。ほぼ知らない。『夜明け前』とを書いたことは知っている。内容は知らない。もう一冊、題名だけ知っている。それが『破戒』だ。著者名と作品名を結びつけて記憶しているだけだ。
士農工商穢多非人という言葉を知ったのは中学か高校の歴史の授業だったと思う。よくわからなかった。具体的にイメージができなかったのである。あるいはそういった可視化されない世界に対して臆病だったのかもしれない。イメージする勇気がなかったのかもしれない。
それにしてもよくできた小説である。
主人公丑松の先輩教師に風間敬之進がいる。士族の出である敬之進は丑松と気心が合う。穢多の丑松、旧士族でありながら没落の道をたどる敬之進。そして旧態依然たる教育界を牛耳る校長、郡視学、町議、そして代議士候補。丑松を敬愛する生徒省吾は敬之進の息子でその姉志保に丑松は心を寄せる。そして親友土屋銀之助。すべてのキャストが機能している素晴らしい作品である。希望の明かりを最後に灯す。
これまで読むことのなかった自分が恥ずかしい。

2022年2月4日金曜日

木下浩一『テレビから学んだ時代』

テレビはあまり視ないけれど、NHKやNHKBSで報道番組や映画、音楽などを視る。民間放送の番組ではテレビ朝日を視ることが比較的多い。路線バスで都内近郊をめぐる番組や刑事もののドラマ。以前必ず視ていた日曜日午後のクイズ番組がなくなってしまった。残念である。
テレビ朝日はその昔、NETと呼ばれていた。正式には日本教育テレビ。アナログの時代は10チャンネルだった。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
テレビがはじまったばかりの頃、テレビ局には一般局と商業教育局というふたつの免許が交付された(準教育局という区分もあったという)。教育局は放映する番組のうち、教育番組、教養番組を一定割合以上流さなければならなかったらしい。「教育」53%以上、「教養」30%以上といった具合に。教育に関しては必ずしも当初のねらいのように学校教育を主にする必要はなく、そもそも学習指導要領に準拠した教育番組が高い視聴率をとって、営業的に成果を上げられるか疑問視されていたこともあり、徐々に社会教育に立ち位置を変えていく。生徒児童ではなく、大人一般を対象にしたのだ。そうした流れのなかで、朝昼夜のワイドショーが生まれ、クイズ番組が量産された。
著者は朝日放送でテレビ番組制作にたずさわった後、メディア史、歴史社会学、ジャーナリズム論を専攻する大学講師である。ベースになっているのは京都大学大学院時代の博士論文というから、本格的な論考といえる。なつかしさだけではない、時代を見つめる視線を感じた。

2022年2月2日水曜日

太宰治『斜陽』

若い頃は寒さなんてへっちゃらだったのに、歳を重ねたせいか、冬の寒さにはめっぽう弱くなった。ましてや今年の冬は寒い。偏西風が西から東に吹いてくれればいいのに今年は蛇行しているので大陸から寒気が日本列島を包みこむように南下してくると気象予報士が解説していた。ただでさえ日々老化(あるいは劣化といっていいかもしれない)しているのに、こう毎日毎日寒くちゃたまったものではない(夏の暑さもだ)。
朝、目がさめる。何時かはその日によって異なる。だいたい6時とか7時とか。目がさめて暗いときもある。時計を見ると5時過ぎだったりする。目がさめて最初に思うのはトイレに行く必要があるかないかである。大丈夫と思えば、二度寝するし、必要ならトイレに行く。トイレに行くにはパジャマのままでは寒いから、ライトダウンを着るなどそれなりの準備が要る。用を済ませたら、洗面所で口をゆすぐ。そして二度寝態勢を整える。すぐに寝入ってしまうこともあるが、たいがいはいちど起きてしまうとなかなか難しい。こういうことが年寄りの特徴なのかもしれない。ラジオを聴いたり、読みかけの本を開いたりもする(厳密にいうと電子ブックリーダーなので電源をオンにする)。それでもなかなか深い眠りは訪れない。たまに10時近くまで寝入ってしまうこともあるが。
角田光代の読書案内的な本を以前読んだ。
角田は『斜陽』を十代の頃読んだそうだが、まったく感情移入できなかった、みたいなことを書いていた。歳を重ねて読みなおしてみてようやく理解できた、みたいなことも書いていた。
40年ぶりに読んでみた。世にいう名作だからといって、誰もが読むべき本なんて、ほんのわずかしかないんじゃないかな。太宰治で読むなら『津軽』と決めている。もう何度も読んで何度も泣いている。歳を重ねて読みなおしてみたい作品もあるだろうが、今の僕は没年の太宰より半世紀近く年上になってしまった。

2022年1月30日日曜日

吉村昭『海馬』

実家の裏手の商店街にお芋屋さんがあった。
幼少の頃だったので記憶はかなり薄れているが、甘味処のような店であったが、高級な店ではなく、庶民的な雰囲気を持っていた。ガラスケースのなかに大学芋があった。店先でさつま芋を蒸していた。夏になると店の奥に重たそうなかき氷機を置き、氷いちごなんぞを供していた。わが家からすぐ目と鼻の先だったこともあり、お芋屋さんのおばさんに声をかけるとうちまで持ってきてくれた。デリバリーなんてことばがまだなかった時代である。
まだ学校に上がる前、同じくらいの歳の子どもたちを引き連れて遊ぶモリくんという少年がいた。3つくらい年長だった。おそらくどこかの公園か何かに連れていってもらったのだろうが、仲間を見失い迷子になってしまったことがある。道もわからず泣きじゃくっていた僕を夕方、帰宅するため路線バスに乗っていたお芋屋さんのおねえさんが見かけた。そんな話が交番に届けられ、僕は無事に保護されたという。
それとはまた別の日にやはり迷子になって、交番のお世話になった(らしい)。そのときは歌の文句じゃないけれど、泣いて泣いてひとり泣いて、泣いて泣き疲れて眠るまで泣いていたという。名前を訊ねられ、自分の名前ではなく当時同居していた叔父の名前をなんどもくりかえしたらしい。電話帳にない叔父の名前をヒントにおまわりさんは「お宅に○○さんという方はいらっしゃいますか」と訊ね、ようやくうちにたどり着いたということだ。
もちろんまったく憶えていない。
この短編集に収められている「闇にひらめく」は今村昌平監督「うなぎ」の原作のひとつである。ひとつであるというのは、『仮釈放』という長編の要素と組み合わさって脚本化されているからである。
どうしてお芋屋さんのことを思い出したのか。なぜ幼少の頃、迷子の常習犯だったのかを思い出したのか。つい1時間ほど前のことなのにすっかり忘れてしまった。

2022年1月26日水曜日

夏目漱石『行人』

阿佐谷にある小さな映画館ラピュタ阿佐ヶ谷では先月まで「のりもの映画祭出発進行!」という特集が組まれていて、瀬川昌治「喜劇急行列車」と熊谷久虎「指導物語」を観た。なんといっても鉄道の旅は心がおどる。
年が明けて、新たな企画がはじまった。「日本推理小説界の巨匠松本清張をみる」という特集である。松本清張といえば鉄道である。「ゼロの焦点」「点と線」「張込み」「砂の器」…。長距離列車のシーンが目に浮かぶ。たまらなく旅をしたくなる。
恥ずかしい話かもしれないが、夏目漱石の作品をほとんど読んでいない。『こころ』『三四郎』…。中学生高校生の時代にほとんど本を読まなかったせいで、本来持つべき日本の青少年としての基礎教養が著しく欠如しているように思う。あの頃、なんとか文庫の百冊のうち、数冊でも読んでいたら、ひとかどの人物になっていただろうと思うことがある(だからいまさらなんなんだ)。
そうえいば『三四郎』は九州から汽車で上京するところから物語がはじまる。関川夏央が『汽車旅放浪記』で取り上げていた。それがきっかけで20年くらい前に読んだ。三四郎に興味があってというより、三四郎が乗っていた長距離列車に惹かれたということだ。寝台列車で九州に行ったことは、残念ながらない。長崎でも佐世保でも西鹿児島でも、いちどブルートレインで旅してみたかった。大人になったら、そのうちできるだろうと思っていたが、そのうちに寝台特急列車がほとんどなくなってしまった。
東京と札幌を寝台列車で往復したことがある。これはこれでよかった。11月の終わりころ。青函トンネルを抜け、はじめて見る北の大地にうっすら雪が積もっていた。
大阪を訪ねた二郎は、遅れてやってきた母と兄一郎夫婦と合流する。しばらく滞在して、和歌山などに出かける。そして帰京する際、大阪から寝台列車に乗る。
その昔、寝台急行「銀河」で大阪に行ったことを思い出した。

2022年1月16日日曜日

カート・ヴォネガット『青ひげ』

昔の読書記録を見ると、カート・ヴォネガット(・ジュニア)を好んで読んでいたのは1987年頃となっている。読書記録といっても、読んだ年月と著者名タイトルを記しただけである。感想などは書いていない。それでも今となってみれば貴重な資料だ。
多少の寄り道はあってにせよ、1985年に大学を出て、テレビCM制作会社でアルバイトをはじめた頃である。それまでは家庭教師や先輩の営むとんかつ店でアルバイトしていた。アルバイトを卒業して、新たなアルバイト生活がはじまったのである(1年後正社員にしてもらったが)。
当時どんな思いで毎日を送っていたのか。その頃読んでいた本を読みなおすと思い出すかもしれないと思い、何年か前から当時読んでいた本を再読している。
邦訳されているカート・ヴォネガットの小説はだいたい読んだつもりでいたところ、『ガラパゴスの箱舟』以降、『タイムクエイク』という新作(といってもずいぶん前に出版されている)があることを知り、さらにはその間にも発表された作品があることを知る。それがこの本『青ひげ』である。
アルメニア人の画家の自伝という体裁になっている。ヴォネガットの小説で自伝的な作品は多い(と思うが、そんな気がするだけかもしれない)。たとえば『母なる夜』は、ハワード・キャンベル・ジュニアの自伝である。たしか『ジェイルバード』もそうだった(ように記憶している)。過去と現在。時間を縦横に飛び交う。ヴォネガットの手にかかる時間の旅は読んでいて心地いい。
読み終わって気付く。もう一冊ある、と。『青ひげ』のあとに『ホーカス・ポーカス』という長編が発表されていた。気が向いたら読んでみよう(ついでにいうと『チャンピオンたちの朝食』もまだ読んでいないみたいだ)。
先の読書記録によるとその当時、筒井康隆もよく読んでいたようである。これはアルバイトをはじめたCM制作会社で知り合ったコグレくんの影響を受けている。

2022年1月11日火曜日

曽布川拓也、山本直人『数学的に話す技術・書く技術』

数学は苦手じゃなかった。過去形で語られるわけであるから、結果的には苦手科目のひとつになったことは否めない。
中学生から高校の一年生くらいまでは得意科目というほどではないにせよ、試験でそこそこ点数を確保できる科目だった。問題を解く手順を見出し、間違えないように計算すれば答が求められる、こんな単純明快な科目が他にあっただろうか。しかも潔い。0℃、1気圧とする、であるとか摩擦は考えないものとする、といった条件が提示されることがない。論理と数字で答えを出せと言っている。何文字以内で主人公の気持ちを書け、なんてことも言わない。
村上春樹の『1Q84』に登場する川奈天吾は予備校の数学講師である。数学の問題を解くだけの人生。なんともシンプルで羨ましい。
実をいうと中学生くらいのときは建築の仕事に携われたらいいなと思っていた。母方の伯父が建築設計士だった。幼いながらも、高校に行って、大学進学を考えるとき、理系、文系という枠組みがあり、今から50年前くらい、男子は理系に進むものとされていた。高校では数I、数II B、数III(理系志望者のみ)の3教科を履修する。高校2年時にまずは数列で挫折した僕は数II Bを早々とあきらめ、いつしか文系志望者になっていた。数列以降、微分・積分も指数関数も対数関数も三角関数もなしくずし的に身につくことはなかった(数Iだけでも受験できる文系学部も少なからずあったので、数II Bで挫折したことはそれほど堪えなかったけれど)。
この本の筆者はふたり。ひとりは数学で挫折し、もうひとりは数学的思考の重要性を説く専門家である。数列も微積分も確率も数学的に突き詰めれば、ビジネスに役立つ。つまり実用的な学問であることがわかる。それを教科書的なプロセスを経ることで、多くの若者たちが挫折を味わうのだそうだ。今さら数学的思考の重要性がわかったところで手遅れだろうが多くの挫折者に励みになる。

2022年1月8日土曜日

山本周五郎『五瓣の椿』

いつしか正月ならではイベントがなくなっている。
実家を訪れて挨拶する、親戚の家に集まって新年会をする、そうした行事が、である。元日は遅く起きて、昼近くからおせちをつまみに酒を飲み、雑煮を食べて(さっき起きたばかりというのに)、昼寝する。2日3日も同じようなものでテレビで箱根駅伝や大学ラグビーを眺めて過ごす。
子どもの頃はよく父に連れられて親戚の家に年始参りに行ったものだ。
祖父の弟妹(大叔父、大叔母)が東京近郊に住んでいた。長女は平塚、次男は金町、次女は梅島(後に大泉学園に転居)、三男は落合。三女も大井町に暮らしていたが、ほとんと記憶はない。父はこれらの叔父叔母の家を訪ねてまわったのである。このほかにも横浜磯子の氷取沢という町に転居した遠い親戚もいて、父の運転する車で行ったことがある。磯子の小高い山の上にある氷取沢は今では大きなマンションや多くの戸建て住宅におおわれているが、当時は分譲地にまばらに家が建っている別荘地のような町だった。おそらく平塚の叔母さんの家から横浜にまわったのではないだろうか、帰り途、坂道を下ったところを夕日を浴びながら市電が走っていたのをおぼえている。伊勢崎町あたりではなかったかと今になって思う。本牧に住んでいた山本周五郎が山を越えて散歩したあたりではなかろうか。
と、強引に周五郎まで辿り着かせたが、この本は実は7年前に読んでいる。どうしたわけか、ここに書き残すことを怠ってしまった。先日、野村芳太郎監督の映画をネットで観て、原作を読んでいることに気がついた。読んでいるとき、おしのは岩下志麻がいいなと思った記憶があるが、果たして映画の主役はそうだった。
正月休みはテレビで何本かドラマを視た。あまり印象的なストーリーはなかった。もちろんドラマのせいではなく、視る方がそれなりに歳を重ねたからである。

あけましておめでとうございます。
今年もブログ、はじめました。

2021年12月7日火曜日

吉村昭『海軍乙事件』

子どもの頃、夏休みになると祖父に連れられ、南房総にある父の実家で過ごしたことは何度となく書いてきた。曽祖母が亡くなったのが小学校5年生のときだったから(その頃はほとんど寝たままの状態になっていたが)、記憶には残っている。もっと小さかった頃も寝たり、起きたりの生活だったが、話も普通にできたし、何より楽しみだったのがお小遣いだった。
曽祖母は朝食を終えると僕と姉を呼んで、今日のぶんと言っては小袋のなかから10円玉を取り出しては僕らに与えてくれた。それを手にかき氷やラムネを飲んだり、両親からもらっていたお小遣いと合わせて花火を買ったりした。当時かき氷やラムネがいくらだったかまったく記憶にないが、1日10円あれば、子どもたちはしあわせに暮らせた時代だった。
当時を思い出して、今と圧倒的に異なるのは、子どもの足で行ける範囲にお店があったということだ。10年くらい前までは酒屋や魚屋はあったけれど、父の実家のまわりには今、店らしい店は皆無である。大人だって歩いて行ける店はほとんどない。集落の人びとはクルマでスーパーに買い出しに行く。たいていの家庭では大きな冷蔵庫がある。そんな地方の生活が浸透している。
太平洋戦争当時の史実を題材にした吉村昭の短編集。歴史のなかに埋もれてしまった事件に光をあてる。1941年に起きた山本五十六搭乗機撃墜事件は「海軍甲事件」(これもこの短編集に収められている)と呼ばれている。翌年起きた海軍機密文書紛失事件がそれに対して、表題作である「海軍乙事件」である。
この本は76年に刊行されている。今からくらべるとまだまだ戦後が色濃く残っていた時代だったかもしれないが、どれほどの証言者や資料が吉村昭の執筆を支えただろうか。
父の実家のある南房総の集落は乙浜(おとはま)という。そのいわれは知らない。どこかに甲浜という地名があり、それに対して乙浜なのではないか、などと勝手に思っている。

2021年12月5日日曜日

カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』

仕事の合間に隣駅まで歩く。普通に往復すれば3キロ程度のところを少し贅沢に遠まわりし、4キロを47分。遅くもないが速くもない。
先日もヨドバシカメラまで歩いてみた。電車に乗ればふた駅である。これまでも歩いてみよう気はあったが、ルートが複雑そうに思えて歩いたことはなかった。地図アプリで確認すると案外難しそうでない。
幹線道路をしばらく歩く。途中で少し南側の通りを行く。街灯に女子大通りと記載されている。通りの北側に女子大学があった。その先、南へ向かう通りは美大通りと書かれていた。美大はずいぶん昔に郊外(小平)に移ったと思っていたが、まだこの地にも校舎があるらしい。
1980年代、カート・ヴォネガット(ジュニア)の本をよく読んだ。
以前の投稿を見ると93年に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を再読している。7年ぶりに読んだと書いてある。「ヴォネガットの作品でとりわけ好きなのは、『ガラパゴスの箱舟』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の2冊」とも記している。
好きな作品のもう一冊を読む、35年ぶりに。
この本はヴォネガットの代表作と言われている。おもしろさもひとしおだ。20代に読んだものを60を過ぎて読み直し、さらにおもしろいと感じたのだから。
僕のなかで80年代のヴォネガットブームはこの本でひとまず落ち着いた。その後読んだのは『タイムクエイク』、2019年まで新作を読むことはなかったのだ。ヴォネガットはこの本を世に出した10年後、2007年に他界している。そんなことすら知らなかった。ベートーベンの第九交響曲は書けなかったけれど、それに勝るとも劣らない作品を書き続けてきた。
『ガラパゴス』から『タイムクエイク』までのおよそ10年間に書かれた彼の作品をこれからゆっくり読みたいと思う。それで言うのだ、長生きはするものだと。
ヨドバシカメラまでは4.34キロ。44分31秒で歩いた。

2021年11月25日木曜日

吉村昭『炎の中の休暇』

在宅勤務をはじめて1年半以上になる。
月にいちどくらい出社して打合せをしたり、精算したりなどするが、毎日通勤しないのはストレスがなくていい。その反面、天気が悪かったりすると家から一歩も外に出ない日もある。青島幸雄じゃないけれど、「これじゃ身体にいいわきゃないよ」である。犬と散歩するほか、近隣のスーパーに買い物に行くほか、できるだけ歩くようにしている。
地図上でどのルートをどのくらいの速さで歩いたかを記録してくれるアプリがある。記録を残すことでモチベーションが保たれる。何キロくらいをどれくらいの速度で歩くのがいいのかはわからないが、大学で体育を専攻し、スポーツクラブに長年勤務している先輩に聞くと、1キロ10分台で歩くのがいいという。ふつうに歩くとだいたい11分台の後半から12分台である。10分台で歩くには速く歩くことを意識しないと歩けない。それにそんなに速く歩くと周囲の景色などほとんど目に入らず、散歩したのに歩いた気がしないのである。
はじめのうちは2キロ。そのうち3キロ。少しずつ距離をのばす。5キロ歩いてみる。時間にして1時間弱。このくらい歩くと歩いたなという実感が残る。さすがにキロ10分台で歩くのはたいへんであるが。これを隔日とまではいわないまでも、週に2回くらいこなせればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。週1回がいいところである。
さて、スマホにインストールしたアプリであるが、1.6キロごとに途中経過をアナウンスしてくれる。中途半端なところで歩行距離、所要時間などが知らされる。メートル法をスタンダードとしていない国で開発されたツールなのだろう。
この本は、戦中戦後を舞台にした短編集である。
東京大空襲のあと、女性のもとに出かけていて安否がわからない父をさがしに主人公が江戸川沿いの集落を歩いて訪ねる話がある。見渡す限りの焼け野原。主人公の歩く速さは如何ばかりかと気になった。

2021年11月22日月曜日

山本周五郎『日日平安』

父が書いた作文を読んだことがある。
子どもの頃は、夏休みになると千葉県安房郡(現南房総市)白浜町にある父の実家で過ごした。祖父が迎えに来て、姉とふたりを連れて両国駅から列車に乗っていったのである。南房総の記憶はほとんど夏休みの記憶といっていい。
8月の旧盆以外だと父はよく正月に帰省していた。まぶしい陽光にさらされることのない冬の白浜町はどこか寂し気に見えた。その年も3が日を過ごしたあと父の運転するクルマで東京に向かう予定だった。帰りがけに父は一軒寄りたいところがあると言って、いつもと違う道を走る。
中村先生の家だった。
中村先生は、父の小学校時代の担任の先生である。すでに教職を辞していたとは思うが、老け込んでいるようすはなく、ひさしぶりに対面した父に酒をすすめる。この時点でこの日じゅうに家に帰ることはないのだと悟った。中村先生と父は何杯も酒を酌み交わし、昔話に興じたり、テレビを視たりしてその夜を過ごした。ちあきなおみの「喝采」や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」がいくどか画面から流れ、その都度、いい曲だねと中村先生は言っていた。その記憶がたしかならば、その新年は1973年ということになる。
途中席を立った先生が古びた封筒を持って居間に戻ってきた。なかから取り出したのは父の作文だった。小学校の何年生のときだったか、組替えがあった。中村先生を慕っていた父は、担任の先生が代わることがいやで、祈るような気持ちで新学期を迎えた。組替えが発表され、担任は引き続き、中村先生であると知る。そのときのよろこびが記されていた。
人生というものは他人から見ればなんていうこともない事実の積み重ねである。山本周五郎のこの短編集は小さく心を揺さぶる。もういちど読みたい一冊である。
定年退職後、洋蘭の栽培を趣味としていた中村先生の自慢の温室を翌朝、案内してもらった。真冬なのに、そのなかは夏の陽光に満ち溢れていた。

2021年11月14日日曜日

吉村昭『雪の花』

東京にはいくつか「いもあらいざか」と呼ばれる坂がある。芋洗坂とか一口坂と表記される。
「いもあらい」は、疱瘡(天然痘)にかかった患者が水で清めて神仏に祈願することだという。「いもあらいざか」付近には疱瘡神が祀られていたともされている。地名の起源などをたどる本にはだいたいそのようなことが書かれている。どうして一口坂を「いもあらいざか」と読むのか。疱瘡神が祀られていた社の地名が一口町だったなどという説もあるようだ。
疱瘡は恐ろしい伝染病だった。感染を防ぐ方法も治療方法もわからず、人びとはひたすら神仏にすがり、奇妙な伝承を信じた。疱瘡神は赤い色を苦手とするというのもそのひとつで、罹患した子どもの傍らには赤いものを置いたり、未患の子どもらには赤い下着や玩具、置物を与えたという。
天然痘は日本だけでなく、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも大流行し、多くの生命を奪っている。それでも昔から頭のいい人がいたのだろう、天然痘に罹った患者の膿やかさぶたを未患者の体内に取り入れることで免疫をつくる予防法(種痘)が行われるようになった。紀元前1000年頃のインドでというから驚きである。種痘(人痘法)はイギリスやアメリカに伝えられたが、予防接種としてはまだリスクの高いものだった。
18世紀半ば、ジェンナーが登場する。天然痘に罹った牛(牛痘)の膿を接種することで天然痘は安全に予防できるようになった。ジェンナーの牛痘法は世界にひろまったが、日本に定着するまでは時間がかかった。ロシアに拉致された中川五郎治が松前で行った記録があるが、これは五郎治がその方法を秘匿したためひろまることはなかった。
越前福井藩の医師笠原良策らの尽力で種痘(牛痘法)はようやく一般に普及する。ジェンナーに遅れること半世紀。日本は疱瘡の脅威から逃れることができた。
いつしか「いもあらいざか」と聞いて、不思議な名前だと思うようになっていた。

2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

2021年11月8日月曜日

吉村昭『蜜蜂乱舞』

はじめてこの本を読んだのは7年前。養蜂のことなど何も知らなかった。
養蜂には同じ場所でさまざまな花の蜜を採取する定置養蜂と花を探しもとめて日本全国旅を続ける移動養蜂がある。移動養蜂は莫大な労力とコストを必要とする。
特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋市。蜂屋の伊八郎は、毎年の菜の花の季節が終わると新たな花を求めて北へ向かう。巣箱は2台のトラックに載せ、採蜜に必要な道具のほか炊事用具、テントもライトバンに積みこむ。7ヶ月におよぶ旅のはじまりである。
蜜蜂は暑さにも寒さにも弱い。巣箱のなかに熱がこもることで死んでしまう。これは蒸殺と呼ばれ、移動中細心の注意が払われる。気温の下がった夜に移動をはじめ、風を通すために極力停車させない。そして夜明け前に蜂場に到着するよう配慮する。採蜜を続けながら、本州へ。長野、青森を経て、連絡船で北海道十勝へたどり着く。
蜜蜂たちの日々の動きを観察することも欠かせない。分蜂という新たな女王蜂の誕生があり、盗蜂といって自分の巣箱以外の蜜を盗む蜂もあらわれる。経験を積んだ鉢屋は次々に起こる事態を冷静に対処する。
花のある場所付近にスズメバチの巣がないかも確認する。見つかった場合はすみやかに処分する。秋になって食べ物を求めて羆があらわれる。蜂蜜を大好物とする羆は蜂だけでなく、人をも襲う。そのためにライトバンには猟銃も用意されている。いのちがけの仕事なのである。
吉村作品にはマグロを追いかけたり、ハブを生け捕りにする話もある。スケール感や恐怖感では蜜蜂の比ではないかもしれないが、この物語には蜜蜂を見つめるまなざしの深さと家族の秩序を常に考える愛情に満ちた伊八郎の生き方がしっかりつながっている。蒸殺で蜂を失った男、家族を捨て殺人を犯した仲間、轢き逃げで刑務所で暮らす長男の妻の兄。伊八郎一家と隣り合わせているこれらの挫折。こうした緊張感が彼ら家族の絆をいっそう深めている。

2021年11月5日金曜日

獅子文六『達磨町七番地』

かんだやぶそばに行った。たいへんひさしぶりに、である。
先月のことだが、昔お世話になった広告会社の方たちにお会いした。そのなかのひとりアートディレクターの松木さんは、8月に手術を受け、その後順調に回復された。蕎麦屋でも行きたいよねなどと話していたが、まだまだ新型コロナ感染者数は増える一方で緊急事態宣言が解除されるのを待っていたのである。
集まったのはクリエーティブディレクターでコピーライターだった内山田さんと山石橋さん。いずれも後期高齢者である。かんだやぶそばでなければいけない理由もなかった。まつやでも室町の砂場でもよかったが、僕が学生時代大晦日のみやげ売り場でアルバイトをしていたことがあり、そんな話をしていたら、かんだやぶそばいいよねってことになった。昼過ぎにお店の前で待ち合わせ。土曜日だったので少し行列ができていた。ビールとぬる燗を飲みながら、板わさ、焼きのり、合焼きなどの定番メニューをつまんで、せいろう蕎麦をたぐった。至福のひとときだった。
獅子文六がパリ遊学を終えて、帰国したのが1925年。戯曲や翻訳の仕事を続けていたが、やがて小説を執筆するようになる。36年には新聞連載された『悦ちゃん』が評判を呼ぶ。この本に収められている小説は36〜38年に新聞や雑誌に掲載された短編である。
軍部の力が増し、暗雲立ち込めている時代ではあったが、後に娯楽小説の大家となるその片鱗がすでに見えている。昭和初期、戦前の、ほんのわずかな幸せな時代が描かれている。パリ時代の経験をもとに書かれた表題作「達磨町七番地」のほか、南州、北州の友情物語「青空部隊」やデパートの店員を主人公にした「青春売場日記」など当時の社会や風俗を知る上でも楽しい作品集だ。
「青空部隊」は後に「青空の仲間」というタイトルで映画化されている。南州は三橋達也、北州は伊藤雄之助だったらしい。観てみたい映画がまた一本増えてしまった。

2021年10月29日金曜日

筧裕介『認知症世界の歩き方』

ソーシャルデザインとは、人間の持つ「創造」の力で、社会が抱える複雑な課題の解決に挑む活動である。コマーシャルではなく、ソーシャル。商売のためではなく社会のためのデザインであると先日読んだ『ソーシャルデザイン実践ガイド』に書いてあった。著者筧裕介はソーシャルデザインを、社会が抱える課題の森をつくり、整理して突破口を見つけ、解決に必要な道を拓く活動としている。そしてその旅の工程は、森を知る、声を聞く、地図を描く、立地を選ぶ、仲間をつくる、道を構想する、道をつくるという7つのステップで構成されるという。
著者が認知症と高齢社会という社会課題に対して試みたソーシャルデザインが『認知症世界の歩き方』である。
認知症にはアルツハイマー型、脳血管性、レビー小体型、前頭側頭型などさまざまな種類があり、その症状も人それぞれ。時間や場所がわからなくなる人もいる。人の顔をおぼえられない人もいる。幻視幻聴に悩まされる人もいる。この本では数多くの当事者を取材し、その声を汲み上げ、認知症本人にしかわからない世界を地図を描くことで、道をつくることで誰にでも理解しやすいようにデザインしている。
認知症になると何もわからなくなる、何もできなくなる、そして最後は寝たきりになってしまうといった誤解や偏見が蔓延している。もちろん症状によってできなくなることはあるけれど、できることをできないことにしてしまったり、役割を取り上げるなどして症状を進行させてしまう周囲にも問題がある。
認知症を正しく理解してもらうために多くの当事者が声を上げている。認知症カフェや講演会などが全国各地で行われている。地道な努力の積み重ねが成果を見せている一方で、多くの人びとにひと目でわかる認知症世界の正しい世界を示すソーシャルデザインの仕事に希望を感じている。
巻頭に認知症世界の地図が描かれている。瞬時にソーシャルデザインの素晴らしさを確信した。

2021年10月26日火曜日

秋山具義『世界はデザインでできている』

先日、世田谷文学館でイラストレーター安西水丸展を観、今月は東京オペラシティアートギャラリーで和田誠展を観た。どちらも全国を巡回する国民的展示である。安西にはイラストレーターという肩書きが付いているが和田にはない。和田誠はアートディレクターであり、装丁家、絵本作家、アニメーション作家、映画監督、作曲家とまさにマルチな分野で活躍してきた。基本はイラストレーターに違いないけれど、彼の活動の数々を規定する言葉は見出しにくかったのだろう。
一線で活躍する以前の少年時代のスケッチや絵日記なども展示されていた。安西水丸もそうだったが、絵を描くことが本当に好きだったんだなということがよくわかる。子どもの頃から似顔絵が得意だったようだ。先生や友だちの似顔絵が多く遺されている。会ったことも人たちばかりなのに、どことなく似ているなと思えてしまう。
和田誠はライトパブリシティ時代の日々を『銀座界隈ドキドキの日々』という本に綴っている。映画を愛する彼は当時新宿にあった日活名画座のポスターを描き続けた(無償で)エピソードをそのなかで紹介している。青年和田誠の仕事が大きなパネル一面に展示されている。圧巻である。
ちくまプリマー新書は若い世代を対象に普遍的でベーシックなテーマを掘り下げるシリーズである(プリマーとは初歩読本、入門書という意味だ)。初学者や若者を対象にしているとはいえ、大人が読んでもためになる本も多い(菅野仁『友だち幻想』などは思わずうなってしまうほどの一冊だった)。
不勉強な僕は秋山具義という名前を知らなかった。知らなかったけれど読んでみるとデザインというひとことで語るには難解なテーマをやさしく説き明かしている。筑摩書房はなかなかいい人選をしたのではないかと思う。
若い人に限らず、たとえば広告やデザインの仕事をはじめたばかりの人たちにも秋山具義はわかりやすく声をかけてくれるに違いない。