2021年6月30日水曜日

青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』

行政の仕事はサービスであるといわれているが、あまり効率のいい仕事ではないような気がしている。住民票1枚請求するだけでも、本人が不自由な暮らしをしているとすると代理人が委任状をもっていかなくてはならない。委任状すら書けない人も多いはず。それでも委任状を本人に書いてもらってくださいと窓口は言う。不正をするかもしれないと住民を疑っているのだろう。ここで少し暴れると事情を察してくれる(すごすごと引き返す人は委任状を捏造して、後日窓口にやってくる)。それでいて利用目的があいまいな住民基本台帳の大量閲覧は後を絶たない。
国と自治体との連携もあいまいな部分が多い。新型コロナのワクチンが供給できるという連絡を受け、自治体で予約を行う。ふたを開けるとじゅうぶんなワクチンが確保できていなかったという事例もあるという。何をやっているのか、日本の行政は。
福島の原発事故から避難を余儀なくされた人が、自主的な否かを別にして大勢いるという。県外に避難して、住宅供給の援助を受ける。やがて援助が打ち切られる。彼らはこの時点で避難者としてカウントされなくなる。どう考えても理不尽である。
かつての避難区域も避難指示が解除され、帰還困難区域を残すのみとなっている。多くの避難者が避難区域に戻ってきたかといえば、けっしてそうではない。医療体制の復興が追いついていないというのが現状で懸念をもつ避難者が多いのだという。避難による人口流出で税収も減っているはずだ。医療復興は遠い道のりなのかもしれない。
東京電力が被害者に支払った損害賠償は10兆円を超えている。それも避難指示区域(福島第一原発から30Km圏内)の被災者に限られることで、みにくいやっかみも生まれる。原発の廃炉まで40年かかると言われている。福島の完全な復興まではもっとかかるのではないだろうか。
それにしても長男に自死されたおとうさんは気の毒でならない。

2021年6月29日火曜日

岡本欣也『ステートメント宣言。』

コピーライター岩崎俊一が旅立って、もうすぐ7年になろうとしている。
前に書いたかもしれないが、すぐれた広告表現というものは発明ではなく、発見であると岩崎俊一は言っていた。何度か事務所で打合せをしたことがあるが、氏はひたすら資料を読み、広告会社の営業担当者の話に耳を傾けた。若いCMプランナーが考えたアイデアを吟味した。今回与えられた課題にみんなどう対応しているのかを。その間、鉛筆を手にとることはなかった。とにかく人の話を傾聴していた。
岩崎事務所の打合せスペースの端にデスクが置いてあり、そこには氏の弟子とおぼしき若い男がいつも座っていた。打合せに参加するでもなく、ひたすら何かを書くでもなく、じっと机に向かっていた。彼の書いたものを見たこともなければ、声すら聞いたことがなかった。書生のようでもあった。20年以上昔のことである。
それから何年かして、書生は独立した。日本たばこ産業(JT)のマナー広告「あなたが気づけばマナーは変わる。」が話題を呼ぶ。コピーライターは岩崎事務所の書生、岡本欣也だった。
この本は広告コピーの指南書という体裁をとりながら、著者の岩崎事務所時代が描かれている。彼は岩崎俊一から指導を受けた経験がほとんどないという。長いこと、打合せルームの隅に置かれた机に座り、岩崎俊一の声にじっと耳を傾けていたのだろう。毎日、毎日、岩崎氏のことばが彼の体内にうっすら積もってゆき、分厚い地層をつくった。その地層の下に蓄えられたエネルギーが自然発生的に噴出した。いつしか岩崎俊一同様、言葉を発見する術をおぼえたのだ。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」の世界である。
それにしても岡本欣也の岩崎俊一にそそぐまなざしがいい。もちろん僕はさほど岩崎大先生のことは知らないけれど、非常に難解な人であったことは容易に想像がつく。なにものにも代えがたい経験を積ませてもらった氏への感謝の気持ちにあふれている。

2021年6月28日月曜日

佐野洋子『問題があります』

4月に訪ねた世田谷文学館にもういちど。
安西水丸展に東京ガスの新聞広告が展示されている。1984年頃の制作ではないかと思う。新聞10段のスペースに大きく安西水丸のイラストレーションが描かれている。この新聞広告は準朝日広告賞や毎日広告デザイン賞に入賞している。若い人たちはわからないが、記憶に残っている60代以上の方は多いのではないか。
古い新聞広告を展示会場で見ることはある。たいていは紙焼きされたものかコピーであることが多いのに、この原稿は新聞の切り抜きだ。紙は茶に変色している。うっすら裏面も透けて見える。想像するに誰かが保管していたものに違いない。大きな広告賞をもらった安西水丸が自ら掲載紙を切り抜いて、だいじにファイルしていたのではないか。そんな姿を思い浮かべたりする。
以前、逝去直後に銀座で開催された安西水丸展に南房総千倉町で少年時代を過ごした彼のノートや絵が展示されていた。大学時代の卒業制作、そして電通クリエーティブ局時代にたずさわった雑誌広告も(今回ももちろん展示されている)。きっと本人がだいじにとっておいた愛おしい作品の数々に違いない。
東京ガス新聞広告のアートディレクターを僕は昔から知っている。昔から知っているが、SNSで友だちになったのはつい最近のことだ。もちろん向こうはおぼえていない。30何年も昔のことだから。4月に展示を見たあと、アートディレクター氏に連絡をとると僕もぜひ見にいきたい、付き合ってくれないかと誘われた。それでも二度目の訪館となったのである。アートディレクター氏は「都市ガスってフェミニストね」というキャッチコピーを書いたコピーライター氏にも声をかけた。当時のクリエーティブスタッフと展示を見てまわり、館内のコーヒーショップで長いこと歓談した。
素敵な土曜日だった。
『役に立たない日々』『私はそうは思わない』い続いて三冊目の佐野洋子。天真爛漫なエッセーである。

2021年5月31日月曜日

井伏鱒二『荻窪風土記』(再読)

荻窪駅にはじめて来たのは中学3年生のときだった。北口を出ると迷い込んだら二度と戻って来れないような古い市場があった。
3年後、大学に通うようになって浮間清志と知り合う。浮間は荻窪駅にほど近いアパートに住んでいた。学校の帰りに立ち寄り、なんども泊まったりもした。時間はありあまるほどあった。駅前の市場は大きな商業ビルになっていた。
井伏鱒二が「新潮」に「豊多摩郡井荻村」と題する随筆を連載していたのが昭和56(1981)~7(1982)年(この年、『荻窪風土記』というタイトルで単行本として刊行される)。もしかするとどこかで著者とすれ違っていたかもしれない。
井伏は昭和2年に荻窪に引っ越してきた。1993年、95歳で没するまで60年以上にわたって荻窪で生きてきた。昭和のはじめ、見わたす限り田畑や雑木林が広がる武蔵野の地は急激な変貌を遂げることになる。このあたりが農地だったことは地図を見たり、歩いてみたりするとわかる。まっすぐな道が少なく、枝分かれする道が多い。きちんと直角に交わる交差点に行きつくと、これは区画整理されてできた新しい道ではないかと思う。
文学青年窶(やつ)れの仲間らと井伏鱒二は阿佐谷の中華料理店ピノチオに集まったという。「シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭」と記述されている。ピノチオは、阿佐ヶ谷駅北口の中杉通り沿いにあったと思われるが、井伏の住まいから歩くにはいく通りものルートが考えられる。どの道も近道そうでいてそうでなかったりする。おそらくは桃園川沿いを歩いて行ったのではないかと想像するが、実際のところはわからない。
浮間のアパートのすぐ裏手に春木家という蕎麦屋がある。今でもときどき足を運ぶが、蕎麦と同様、中華そばがうまくて人気だ。近所でありあまる時間を過ごしながら、浮間と春木家で食事したことはなかったなと行くたびに思い出す。ありあまる時間ほど、お金は持っていなかったのである。

2021年5月22日土曜日

伊藤公一『なんだ、けっきょく最後は言葉じゃないか。』

戸越銀座商店街で吉岡以介にまたしてもばったり出くわした。
脳疾患で倒れた母親を郊外の施設に入所させたが、区の施設に空きがあって入所できることになり、その手続きのために戸越銀座に来たという。たいへんだなというと、特養(特別養護老人ホーム)の人たちはみんな親切で、仕事に誇りを持っている。母親も保護者も等しく大切にしてくれる。問題があるとすれば面倒な手続きを強いる行政だという。なにそれ、と訊ねると、実家のある区の施設に入るにあたり、転居届を出すといいと施設に言われて窓口に行ったのだが、本人ではないから委任状が必要だという。委任状が書けるくらいなら窓口まで連れてきますよ、書かせて書けないことはないだろうが何年かかるかわかりません、あなたたちの仕事は行政サービスをすることなんじゃないですか。区民の状況を理解してあげるスタンスはないんですか。
吉岡は窓口で食い下がったという。
向こうも折れて、備考欄に委任状が書けない旨をくわしく書いてくれという。吉岡は、母親の病気に至る経緯や現在の様子など書き連ねたという。で、その書類を渡すと代理人の本人確認が必要だという、免許証を見せる。するとさらに親子関係がわかる書類、たとえば戸籍謄本が必要だという。
吉岡はいつも持ち歩いている母親の医療介護関係の保険証やら銀行の通帳、印鑑を見せたらしい。母の名前のこれだけの書類を持ち歩いていても親子だとわからないんですかと訊く。
戸籍謄本が必要です。それが区役所の答だった。
コピーライティングの指南書は多い。
広告コミュニケーションのしくみを学ぶのであれば、小霜和也谷山雅計の本が役に立つと思う。この本は少し違う。著者の広告コピーに対する考え方、姿勢、哲学が語られている。コピーを書く人のための本ではなく、コピーとどう向き合っていくかを考えさせる高度な内容だ。
ある意味、理論的というより、感覚的な本に思えるのはそのせいかもしれない。

2021年5月14日金曜日

安西カオリ『ブルーインク・ストーリー:父・安西水丸のこと』

実家の近くに大元という中華料理屋(いわゆる町中華である)があって、仕事で遅くなったときなど夜中に訪ねたものだ。
大元のおやじは(今はおそらくご子息が店を切り盛りしていると思う)大の中日ファンで店の壁という壁には東京中日スポーツの記事や中日ドラゴンズの選手の写真やサイン色紙が貼ってあった。実家の隣のツネオさんが太洋(現DeNA)ファン、向いのキヨンドさんが東映(現日本ハム)ファンだったけれど、僕の住んでいた町では巨人以外のファンはまったく奇異な存在だったのだ。
ある晩、野菜炒めをつまみながらコップ酒をすすっていた。少し酔った僕は、僕の叔父も中日ファンなんですよと口ばしってしまった。おやじさんは目を丸くして、「そうなの?叔父さんって、奥さん(僕の母のことを言っている)の弟さん?ああ、そうなんだ」とたいそうよろこんで、一升瓶の栓を開けてもう一杯飲めとすすめる。今年は今ひとつなんだよね、とか新人の誰それがいいとか、監督はいいけどなんとかというコーチがよくないなどと一方的にまくしたてた。
で、おにいさんも中日?と訊ねられて、僕はつい「僕は巨人なんですけど」と答えてしまった。おやじさんの話はここで終わり、おあいそのとき、お酒二杯分がしっかり計上されていた。
安西カオリは2年前に『さざ波の記憶』を上梓している。父・安西水丸のイラストレーションをあしらった画文集である。増刷されなかったのか、今入手するのは困難な本になっている。この本は前作に数編の書き下ろしを加えたもので、特に目新しさは感じないけれど、ニューヨーク時代のこと、カレーライスのこと、中日ドラゴンズのこと、北海道のことなどが新たに語られている。筆者が思う安西水丸が一般のファンの人たちが思い描く安西水丸に少し近づいた印象である。
安西水丸が描いた星野仙一胴上げのイラストレーションが東京中日スポーツに載ったことを思い出した。
1999年だった。

2021年4月30日金曜日

岩下智『「面白い!」のつくり方』

先日購入したラジオはなかなか優秀で海外からの電波もしっかりキャッチしてくれる。
ラジオの優秀さについてはくわしく知らない。通信型受信機だと何マイクロボルト以下などと仕様書に記載されているが、このラジオには数値表示はない。聴きたいと思った放送が聴きたい時間に聴くことができればそれでじゅうぶん優秀なのである。
よく聴くのは台湾国際放送。平日の夜20時から一時間、日本向けの放送がある。もちろん日本語である。このプログラムは翌日の夕17時から周波数を変えて再放送される。アジア諸国の日本向け放送はこのほか、中国国際放送、KBSワールドラジオ(韓国)、ベトナムの声放送、朝鮮の声放送(北朝鮮)、モンゴルの声放送などがある。時間帯が合わなかったりもするので聴いていない放送も多い。
以前に使っていた小型ラジオも短波帯を聴くことができたが、ロッドアンテナをいっぱいに伸ばしても、ちょっと物足りなかった記憶がある。外部アンテナ端子がなかったのでロッドアンテナにビニール線を巻きつけたりなどしたものだ。
台湾国際放送ではニュースや音楽番組などを聴く。新型コロナウイルスの新規感染者が一日にひとりであるとかふたりいたなどと報道されている。みごとに封じ込めた国なのだと思う。音楽番組では日本のヒット曲のカバーがときどき紹介される。中国語で聴く日本の流行歌。味わい深い。
コピーライターの書く広告本をたまに読む。この本の著者はアートディレクターである。若い頃、不勉強だった僕はアートディレクターはビジュアルのことだけを考える人だと思っていた。そもそもクリエイティブディレクターよりアートディレクターの方が歴史がある。
アートディレクターもコピーライターもコミュニケーションのアイデアを生み出すことにおいては同じように悩んでいる。とりわけ著者は「面白さ」というものときちんと向き合っている。真摯な姿勢と粘り強い考察に好感が持てる。

2021年4月29日木曜日

ホイチョイ・プロダクションズ『電通マン36人に教わった36通りの「鬼」気くばり』

中学生の頃、アマチュア無線をはじめた。
当時、ラジオで海外からの日本語放送を聴くようになり、「ラジオの製作」「初歩のラジオ」といった雑誌を読むようになり、その流れでアマチュア無線に興味を持った。流れとしてはそんなところか。
今から50年近く昔、アマチュア無線人口は多かった。50MHz帯という入門者の多いバンド(周波数帯)で電波を出し、交信した。近所には同好の士も多くいた。最近のアマチュア無線については何も知らないので少し聴いてみることにした。アマチュアバンドを聴くことができる受信機を持っていたのだ。たぶん撮影現場でワイヤレスマイクの音を拾えるように買ったものだと思う。
430MHz帯は現在ではもっともポピュラーなバンドで休日はもちろん、平日も電波を出している人が多い。無線機も手頃で、アンテナも小さくてすむということで入門者にうってつけなのだろう。かつての50MHz帯がそうであったように。
電離層の反射で遠くまで電波が届く短波滞と違って、VHF帯、UHF帯は直線的に電波が飛ぶ。見通しのいい高台や高層ビルの上階に行くとおどろくほど遠くの無線局の声が聴こえる。ハンディ機と呼ばれる小型のトランシーバーを持って、山岳移動する人も多いという。
広告制作の世界に限らないが、仕事を受注し、それを継続するための努力は欠かせない。ときに過剰対応や忖度も辞さない思いで営業活動を行っている下請制作会社も多いという。そうした企業の人材育成に必要なのは、広告の知識でもトレンドでもなく、筆者らの掲げる「戦略的おべっか」なのかもしれない。
もちろん本気でそんなことは思っていない。
先日古い荷物を整理していたら、アマチュア無線を趣味としていた頃のQSLカードが出てきた。QSLというのは相手局と交換する、交信したことの証となるカードのことだ。見ると海外のアマチュア無線局と交信していたようだ。ほとんど記憶はないのだが。

2021年4月26日月曜日

佐野洋子『私はそうは思わない』

去年の緊急事態宣言で、会社としては4月からテレワークになったが、その前の2月末くらいから自宅で仕事をするようにしている。
動画の構成を書いたり、絵コンテを描いたりするのが主な仕事なので(他にもつまらない仕事があるのだが)通勤する必要はほとんどない。どうしても対面で打合せをしなければならないときと撮影やナレーション収録に立ち会うときは現場に出向く。もう年齢も年齢だし、仕事も以前ほど多くない。のんびり家で考えたり、書いたりするのがちょうどいい。
三度目の緊急事態宣言が発令されて、行政はリモートワークを推進するよう呼びかけている。いわゆる「お願い」だ。お願いして、みんなが言うことを聞いて、この感染症が収束するならそんなにめでたいことはない。もう少し効果的なといおうか、抜本的な解決への糸口はないのだろうか。
リモートワークであるが、導入できる業種とできない業種があることはたしかだ。どうしてもその場にいて、対面で話をし、ハンコを押してもらわなければならない仕事ってきっとある。感染症がひろがるからリモートで仕事してね、はいわかりました、と簡単にはたらき方をシフトできる仕事なんてそう多くない。それでもどうすればリモートで効率よく仕事のできる環境が整えられるかというのは今の経営者に課された課題である。今世の中にどんなツールがあって、どう活かせば、はたらき方を変えられるのか。そんな情報が山のようにある。コロナで経済は停滞しているかもしれないが、世の中は進歩している。
いちばんやっかいなのは、在宅では人ははたらかないという先入観だ。昭和・平成型の経営者に多いと思う。出社していれば仕事をしていることになり、テレワークしているやつらは何をしてるかわかったもんじゃないと思っている人たち。得てしてICTに弱い。
まあ、あまりとやかく言っていると佐野洋子の読み過ぎだと叱られるかもしれないからこの辺でやめておく。

2021年4月24日土曜日

安西水丸『ビックリ漫画館』

1月に続いて、世田谷文学館。本日4月24日から、企画展「イラストレーター安西水丸展」がはじまる。明日(25日)から三度目の緊急事態宣言が発出される。大型連休中は休館になるのではないかと思っていたが、案の定、芦花公園駅駅前の案内板に4月25日から5月11日まで臨時休館という貼り紙があった。
展示はシルクスクリーンや印刷物以外に原画や直筆の原稿など盛りだくさんでひさしぶりに安西水丸を堪能した。生前彼を支えた嵐山光三郎、村上春樹、和田誠とのかかわりなどもくわしく語られていたように思う。なかでも嵐山光三郎との交友による影響は大きく、彼なくして安西水丸は生まれなかったと言ってもいい。
1980年代の中頃だったか、銀座のギャラリーで嵐山光三郎と安西水丸は二人展を開催した。ふたりともすでに平凡社を退社して、それぞれの道にすすんでいた。嵐山は文筆家であるが、原稿用紙に万年筆で描いた落書きのような絵を展示していた(なぜだかそのオープニングパーティーに僕はいた)。
展示室に戻ろう。いつ撮ったのか、若い頃の制作風景も動画で残っていた。カラートーンをカッターで切りとる、その指先が若い。何度も何度もくりかえし見ていたくなる。アトリエの写真をつないだ動画もあった。鎌倉のアトリエの、このソファの上に倒れていたのかな、などと思う。これまで見てきた個展では知り得なかった安西水丸の生涯に触れることができる展示だった。
1977年ブロンズ社から上梓されたこの本は『ガロ』や『ビックリハウス』などに掲載された初期の作品集。平凡社のエディトリアルデザイナーだったこの頃から漫画の連載をこなしていた。おそらくは嵐山光三郎の人脈によるところが大きかったのではないかと思う。
それともうひとり、安西水丸に多大な影響を与えたのは、彼が少年時代に愛読していた漫画雑誌冒険王に連載されていた福井英一の「イガグリくん」であったことはまちがいない。

2021年4月21日水曜日

森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』

ラジオを買った。
昔だったらトランジスタラジオなどと言ったのだろうが、今はラジオである。真空管式から半導体へ、当時としては画期的なイノベーションがあったに違いない。ラジオは持ち運びができるようになり、乾電池さえあればどこでも聴くことができる。厳密にいうと電波の届かないところでは聴くことができない。
ふだんは枕元に置いている。寝る前にスマホをいじったり、電子ブックリーダーで読書するのはやめた。寝るときくらいスクリーンから目を離したい。
夜、ラジオ深夜便を聴きながら寝る。朝起きると、平日なら伊集院光の番組を聴く(金曜日は別プログラム)。日曜はイルカの番組を聴きながら二度寝する。昼間も音楽を聴くかわりにラジオを聴くことが多くなった。NHKの音楽番組や大竹まことの番組をである。
最近はスマホやPCでもラジオを聴くことができる。デジタルでライブ配信されているのである。わざわざラジオ(受信機)を買う必要もないのだが、スマホの音とラジオの音は少し違うと(勝手に)思っている。ラジオは音声信号を電波に乗せて、放送局の送信所から送られる。その電波をラジオはキャッチし、微弱な電波を電気信号に変え、増幅し、復調する。復調とは電波に乗った音声信号を取り出す工程のことである。復調された音声信号にはどことなく遠くのアンテナから発射された電波の名残がある。光と同じ速さでどこからか飛んできた音のにおいがする。
もちろんそんなはずはない。スマホで聴いても、ラジオで受信しても音声は音声だ。
この本は青少年向けだろうか。対人関係、人間関係のコミュニケーションで悩む若者をターゲットにしている。とても評判のいい本だということを誰かに聞いて、読んでみた。
とても丁寧に「ずるい言葉」を解説している。僕には少しまどろっこしかったけれど、本にして読ませるより、読んで聞かせてもらったらいいかもしれないと思った。ラジオみたいに。

2021年4月2日金曜日

芝木好子『女の肖像』

杉並に馬橋という町があった。
JR中央線高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のまんなかあたり。線路をはさんで南北にひろがる一帯である。今は高円寺北、高円寺南と阿佐谷北、阿佐谷南という町になっている。旧町名をとどめている杉並区立馬橋小学校は高円寺北、馬橋稲荷神社は阿佐谷南にある。小学校に隣接して馬橋公園がある。元は気象庁の気象研究所だった。その前は陸軍気象部だったという(空襲で焼けた)。
芝木好子と聞くと下町の作家というイメージがある。
『隅田川暮色』『葛飾の女』『洲崎パラダイス』といった東京の東側が舞台になった作品が多いせいかもしれない。自身は王子で生まれ、浅草で育ったという。年譜によると昭和17年に結婚し、高円寺に移り住んだ。以後死ぬまで高円寺で暮らした。当時、町の名前は馬橋だったに違いない。
鷹狩りに訪れた徳川家光が高円寺という寺院で休憩したといわれている。寺の名前が知れるようになり、村の名前が高円寺村になったという。江戸時代初期の頃から高円寺は高円寺だったのである。馬橋という地名のいわれは知らないが、家光一行がまたがっていた馬と関係があるのではないかとひそかに思っている。
高円寺には関東大震災後、都心から多くの人が移ってきた。とりわけ深川など下町からの転入者が多かったと何かの本で読んだことがあるが、忘れてしまった。商店街などを歩くとどことなく下町風情を感じるのはそのせいではないかと思っている。出久根達郎の『佃島ふたり書房』も佃から高円寺に移転している(と、うっすら記憶している)。
この町に移り住んだ芝木好子は下町の方角に向かいながら、それらの町を舞台にした創作を綴ったのだろう。この本はたしか画商として自立する女性が主人公だった。銀座の画廊が舞台だった。なにぶん、読み終わってから7~8年は経っているので詳細はおぼえていないのである。
この本はテレビドラマになったという。これもまたおぼえがない。

2021年3月29日月曜日

蟹江憲史『SDGs(持続可能な開発目標)』

食品ロスを減らそう、使い捨てプラスチックを減らそうというテーマで二度ほど動画制作にたずさわった。
一昨年につくったものとくらべると昨年制作した動画では温室効果ガス排出について言及されている。結果的に捨てられてしまう食品をつくって、運んで、調理して…といったあらゆる工程で、使い捨てプラスチックの生産や廃棄などさまざまな局面でエネルギーが使われ、温室効果ガスが排出されるというのだ。ゼロエミッション東京ではないけれど、世界は着実に地球環境に向き合っている。
仕事場では名ばかりであるが、コンプライアンスを担当している。たとえば、個人情報を安全に管理している、みたいなことだ。会社ではなんらかの第三者認証さえ付与されれば、銀行にも受けがいいとかその程度のコンプライアンス意識である。必ずしも組織的な対応にはなっていない。
最近思うのは、企業が大きかろうが小さかろうが、情報セキュリティに高い意識を持って安全管理に取り組むというのは今となっては当たり前のことで、災害時や緊急時に事業継続できる体制づくりはどこでも取り組まれている。それでいて、記録文書を残さなかったり、システムのトラブルをなんどもなんどもくりかえすのは官公庁か大銀行くらいのことだ。それだって大津波のような甚大な災害が起きたら事業継続どころの騒ぎではない。あきらめるしかない。
SNSなど、ネットで炎上という事象が頻繁に起きるようになって、うすうすではあるが、多くの人に情報意識が芽生えてきているように思う。なにも目くじら立てて、情報セキュリティの認証を得る必要もないだろう。私たちは情報を適切に取り扱い、安全管理していますなんて自慢をするよりも一つひとつの企業が、一人ひとりの人間が未来のために取り組むべき課題がある。
それがSDGs、持続可能な開発目標だと思う。難しい課題ではあるけれど、今すぐ取り組まなければならないテーマばかりだ。

2021年3月27日土曜日

横川和夫『その手は命づな ひとりでやらない介護、ひとりでもいい老後』

去年、大井町でばったり会った吉岡以介と連絡を取り合う機会があった。
脳疾患で倒れた母親は退院後、郊外の施設に入所したという。半身が不自由で日常生活のほとんどの場面で介助が必要だという。
「そうするしかなかったんだよ」
それでもリハビリテーションをがんばれば少しはいい方向に向かうだろうと吉岡はリハビリに力を入れている施設を選んだ。自宅からは遠いが、勤務先からは電車で乗り換えなしだという。ところが新型コロナウイルス感染拡大で面会は事前予約したうえで15分のみ。吉岡は在宅勤務となり、母親の入所する施設は遠い場所になってしまった。在宅での仕事も要領を得ず、なかなか面会にも行けないと話す。
著者の河田珪子は義父母の介護にあたり、自分ですべてする必要はないと考えた。手を貸してくれる人がいる、介助が必要な人がいる。世の中はおたがいさまなのだ。「まごころヘルプ」はこうしてスタートした。サービスを利用する利用会員、サービスを提供する提供会員がそれぞれ会費を払って参加する。おたがいにメリットがある。
河田は家庭の事情で祖父母に育てられた。それがすべてではないにしても彼女は年寄りが好きだという。年寄りのためになることをしたいという。その思いは、高齢者だけでなく、妊婦や障がい者、外国人へと裾野を広げていく。まごころヘルプの次の取り組みとして「うちの実家」、そして「実家の茶の間・紫竹」といった居場所づくりへと連なっていく。
河田が考える「居場所」はよくある「通いの場」とは異なる。参加者に何かをさせるのではなく、一人ひとりが好きなことする。プログラムがない(ラジオ体操だけは続けているようであるが)。非行事型の居場所と言われている。
それはともかく、吉岡の母親も施設入所以外に、もっと本人も周囲も気持ちが豊かになれる選択肢があったのではないかという気もする。もちろん本人はそれどころではなかっただろうが。

2021年3月26日金曜日

獅子文六『食味歳時記』

佃に大叔父が住んでいた。母が南房総千倉町から上京したときに頼った人だ。伯父(母の兄)も上京した際には大叔父の世話になったと聞いている。東京で頼れる唯一といっていい親戚だったのだ。
最近になって思い出した。大叔父ともうひとり、東京で暮らしている親戚がいたことを。
くめおばさんという。
くめおばさんは祖父のきょうだいの末で、昭和のはじめに上京し、四谷荒木町にある食用油問屋柏原商店に奉公した。この家で主に家事をまかされただけでなく、ふたりの子ども(一女一男)の世話もした。主人が築地の料亭などに油を卸すかたわら、奥さんは長唄の師匠として多くの弟子に教授していた。とある大学の長唄研究会の顧問も兼ねていて、柏原商店の手狭な座敷には学生も多く集まったという。
柏原家でくめおばさんは、ねえやさんと呼ばれていた。家族からはもちろん、多くの弟子たち、長唄研究会の学生たちからもねえやさんと声をかけられ、そのうち僕ら親戚もねえやさんと呼ぶようになっていた。一生結婚することはなかったが、ねえやさんと呼ばれることで実家の人間ではなくなり、柏原家の人になったのだと思う。
母方の祖父の親戚はたいていおだやかで、どちらかといえばのんびりした性格の人が多い。祖母の親戚にしっかり者が多いのとは対照的である。くめおばさんも人あたりのいいおだやかな人柄だったと、幼少の頃しか知らないけれど記憶している。
文豪と呼ぶにはおだやかで娯楽性の高い作品が多い獅子文六であるが、なかなかの食通だったと聞いている。戦前から戦後にかけて、変わっていった食文化に関してもなるほどと思わせる観察眼を見せている。さすがとしか言いようがない。
くめおばさんに最後に会ったのは東京女子医大病院だった。今にして思うとさほど高齢ではなかったが、ガンにおかされていたのだ。
今、くめおばさんは柏原家の墓に眠っている。茗荷谷の寺だと聞いているが、くわしいことは知らない。

2021年3月25日木曜日

今井むつみ『英語独習法』

スキーマという言葉はなかなか難しい。
この本のはじめのところで「ある事柄についての枠組みとなる知識」、「多くの場合、もっていることを意識することのない」知識のシステムと書かれている。知識を身につけるということは知っているだけではだめで、使えなくは意味がない。身体化された知識が必要になる。これは認知心理学の概念であり、IT用語としてはデータベースの構造を示すという。いずれにしてもわかりにくい。
以下、自分なりの解釈。
小さい子どもは指を使ってものを数える。たいてい10までは簡単に数えられるようになる。たし算だって2+3とか5+4などはそのうち指を使わなくても計算できるようになる。ところが6+7とか8+9となると俄然難しくなる。いわゆる「くり上がり」のある足し算だ。子どもはくり上がりのないたし算を何度も何度もくり返すうちに、5が1+4であったり2+3であったりすることに気がつく。そして10が何+何で成り立っているかも理解する。そして6+7は3+3+7、つまり3+10であるとその計算方法を学ぶ。
スキーマとはこのような知識のシステムを自ら培うことなのではないかと思った(もちろんそんな簡単なことではないが)。だから機械的に答を暗記してしまう勉強法より、考えさせるやり方は大切なのだ。
母語を身につけいくのは非常に複雑なスキーマを育てていくことである。そして日本語を母語とするものは日本語スキーマを持っている。外国語をいくら学んでも外国語のスキーマは持っていないからおいそれとは身につかない。
著者は認知科学、言語心理学、発達心理学が専門であるという。決して言語学者でもなければ英語学者でもない。外国語を身につけるためには何が必要か、どんな勉強をしたらいいのか、今までまったく知らなかったアプローチがあった。目から鱗が落ちるとはこのことである。
ところで目から鱗が落ちるとは英語では何というのだろう。

2021年3月21日日曜日

ウジトモコ『デザインセンスを身につける』

在宅で仕事をするようになって一年。
昼食は自分でつくることが多い。たいていは蕎麦、ラーメンなど麺類を茹でるか、スーパーで安く買えた焼きそばだったり、あまったごはんで炒飯。でも圧倒的に多いのは蕎麦だ。
内田百閒は昼はもりそばと決めていたという。別にそれでもまったく飽きることはないが、市販のめんつゆに少し飽きてきた。そばつゆをつくってみようと思った。
そばつゆといえばかえしである。便利なものでネットで調べるとかえしのつくり方はすぐにわかる。醤油と砂糖、みりんの配合が5:2:1がいいとか、5:1:1がいいとか。手はじめに醤油100cc、みりん40cc、砂糖目分量でやや少なめでつくってみた。おいしくできた(もっと長く寝かせればいいのだろうが、一週間後から使いはじめてすぐに使い切ってしまった)。
二回目はためしに砂糖を多め、みりんを少なめにしてみた。思っていた以上に甘くなってしまった。何度かトライした末、醤油100、砂糖20、みりん20くらいがちょうどいい。砂糖はこれより少なめでもいいかもしれない。
寝かせたかえしをだしで割る。温かい蕎麦ならかえしとだしの割合は1:8、もり汁ならば1:3が程よいという。概ね間違ってはいない。せっかくかえしをつくったのだからとさば節、宗田節などがミックスされた厚削りを買ってみたが、やはりだしをとるのは手間がかかる。かつお風味の顆粒だしでじゅうぶんにおいしいと感じる。そこいらの蕎麦屋より、うまいんじゃないか。
蕎麦は乾麺か、茹で麺(蒸し麺?)。後者は立ち食いそばの店で見かける。生麺にくらべてどうかとも思うが、それはそれでうまいものだ。1分ちょっと湯がくだけいい簡便さも魅力である。
著者ウジトモコの本は二冊目。前回読んだ『これならわかる!人を動かすデザイン22の法則』に比べるとポイントが絞られていて、内容的にもやさしい。若い人たちにすすめるのならこっちかもしれない。

2021年3月4日木曜日

大久保真紀『ルポ児童相談所』

先日、ちょっとしたきっかけで新潟県の児童相談所に勤務する青年と話をした。
もちろんリモート。ウェブ会議システムを使った。
以前から悩みを持つ人にかかわりたいと思っていたという。中学生の頃は教師をめざそうと思ったこともあるそうだ。高校時代は心理学を学ぶことに興味を持ち、大学の先輩で福祉の仕事に就いた人がいて、児童福祉に携わる自分をイメージしたという。
相談の受理業務を担当している。いわゆる初期対応チームということか。短~中期で解決できそうなケースを受け持ち、主に保護者と面接することが多いという。子どもと直接やりとりするのは児童心理司という心理職なのだそうだ。常に複数のケースを抱えていて、優先順位をつけながら、スケジュール管理するのがひと苦労だと話す。
仕事のやりがいを訊いてみた。ひとつとして同じ状況にある家庭はなく、支援の方法も千差万別、通り一遍にはいかないが、何度か面接や支援をくり返していくうちに、光を見出したように保護者の表情が変わってくる。そんな場面に出会えることがうれしいという。子どもの人生にとって重大な局面、問題解決の場面に真摯に向き合う仕事ではあるが、支援する側として客観的に俯瞰して見る姿勢も必要だ。
児童相談所に持ち込まれたケースのうち家庭での養育が難しいとされる子どもはとりあえず一時保護所で保護される。一時保護所にいられる期間は限られているため、その後家庭に戻ることが困難な場合は児童養護施設や里親に託される。施設での生活については同じ著者の『児童養護施設の子どもたち』にくわしい。また一時保護所にフォーカスした児童相談所の仕事については慎泰俊が書いている。
もう少し日常的な児童相談所の仕事を知りたいと思うのだが、デリケートな個人情報にあふれている職場でもあり、おいそれとは見学などさせてもらえない。
この本と実際に勤務している青年の話でずいぶんイメージがひろがった。

2021年2月26日金曜日

原野守弘『ビジネスパーソンのためのクリエイティブ入門』

出社するときはたいてい午後に家を出る。
打合せをして、あるいは事務処理をしてすぐに帰る。メインの仕事場は自宅になっている。どこかでお昼を食べていくこともあれば、お弁当を買っていくこともある。
最寄り駅の近くに崎陽軒の店舗ができた。今日は横濱ピラフを買って行く。ピラフや炒飯は少し小ぶりなのでたいていポケットシウマイをいっしょに購入するのだが、品切れだった。
家にずっといるとなかなか読書がはかどらない。電車に乗るとその往復でけっこう読める。たまには出社するのも悪くない。
タイトルに「ビジネスパーソンのための」とあるが、この本は広告クリエイティブ初学者と広告ビジネスに限らないビジネスパーソンを対象としている。そのスタンスのおかげでわかりやすい入門書となっている。入門書といっても内容はかなり高度だ。
広告クリエイティブの基本は「誰に何をどう伝えるか」を整理することだと教わってきた。「誰に」はターゲットだから、事前の情報でだいたい把握できる。「どう伝えるか」は表現手法だ。ここがクリエイティブの勝負どころだった。肝腎なのが「何を」である。いわゆるファクト。伝えるべき内容(人々を効果的につかまえる「何」)がきちんと決められていないと無限大の「どう伝えるか」に振りまわされてしまう。
とはいうものの、たいていの商品やサービスがどんなにオリジナリティがあったとしても、競合する商品が次から次へと生まれ、せっかくのありがたみが薄れていく。コモディティ化してしまう。あっという間に賞味期限を終える陳腐な新製品、新サービス。PCやスマホなどデジタル製品はまさにそんな環境におかれている。
思えばこれまでずいぶん「何をどう伝えるか」に力を注いできたように思う。
たいせつなのは「なぜ伝えたいのか、伝えなければいけないのか」だとこの本を読んでわかった。そして人を突き動かすのは「好き」の力であることも。
目がさめた気分だ。

2021年2月25日木曜日

山崎亮編『ケアするまちのデザイン 対話で探る超長寿時代のまちづくり』

小さい頃、さほど裕福な暮らしをしていたわけではない。
それでも本が読みたいといえば(よほど高額の書籍でもない限り)買ってもらっていた。毎日のお小遣いの何十倍もの値段のそれをである。もちろん湯水のごとく買い与えられていたわけではない。ときどき折を見ておねだりすると買ってもらえた。その辺のさじ加減は幼い頃からスキーマとして意識下に形成されていたのかもしれない。たいていは買ってもらった一冊(たとえば『宝島』や『十五少年漂流記』とか)を何度もくりかえし読んだ。子ども時代に膨大な数の本を読んだわけではけっしてない。
その後も月に何十冊、年に何百冊も読むような読書家にはなっていない。読みたいときに読みたい本を読む気ままな読書家(それを読書家と呼んでいいとするならば)である。実は両親が買ってくれたのは、何冊かの本でなく、本という紙とインクでできた物質ではなく、なんて言ったらいいのか難しいが、本を読む時間、本に接する環境だったのではないかと思うことがある。今でもこうしてときどきページをめくるのは、子ども時代へのノスタルジーなのではないか。
超長寿時代を迎え、さまざまな地域で課題となっている「地域包括ケア」、この本はその先進事例にもとづいて、地域共生社会を模索している。
先だって読んだ『長生きするまち』では環境づくりが介護予防にとってたいせつだと書かれていた。とはいえ、まちづくりほど一筋縄でいかない課題はないだろう。
誰が町をつくるのか、その主体は誰なのか。住宅を設計するには利用者である依頼者の声に耳を傾ける。町を設計するときは不特定多数の利用者が存在する。彼らのありとあらゆる思いを汲んで、どうまちづくりに取り組めばよいのか。建築家、医師、看護師、福祉施設の経営者らがあらゆる視点からケアするまちをかたちづくっていく。対話しながら。
コミュニティをつくっていくことがこの先たいせつな仕事になると思う。

2021年2月20日土曜日

岩田豊雄『海軍』

南房総の七浦村(現在の南房総市千倉町白間津)で1942(昭和17)年に生まれた叔父は、母と8つ違う。幼少の頃、大きくなったら何になりたいかと訊ねると兵隊さんと元気よく答え、「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨」と歌っていたという。
このあたりは、戦争末期本土防衛の拠点として、特に館山には航空基地や砲台が多かったという。隣集落の白浜にはレーダー基地もあったらしい。そんな環境下で子ども時代を過ごした世代にとって、たとえ東京におけるような頻繁な空襲がなかったとはいえ、戦争は身近なできごとだったに違いない。
先日介護予防の本を読んで、近隣に公園がある地域では運動不足になるお年寄りが比較的少ないという調査があることを知った。環境をつくることがたいせつなのだ。
昭和の初期から、日本は軍部主導の国家になっていく。ナショナリズムに燃えた指導者が強い国づくりをめざし、それに呼応するように世論が後押しをする。当時はあたりまえのことだったかもしれないが、まぎれもない負の連鎖がはじまったのである。
岩田豊雄は、ペンネームではなく本名でこの軍神の物語を書いた(さすがに大衆娯楽作家獅子文六名義では書けなかっただろう)。主人公谷真人は、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に搭乗し戦死した九軍神のひとり、横山正治がモデルとされている。戦争の時代に生まれ、戦争に染められたまま死んでいった22年の短い生涯だった。
著者岩田豊雄はこの作品で朝日文化賞を受賞したが、終戦後は戦争協力作家として「追放」されかかる。愛媛県の宇和島に疎開したのはこうした圧力から身を隠すためだったという。戦争中ではなく、終戦直後に疎開するというのはおかしな話だが、それなりの理由があったのである。
『てんやわんや』『大番』など宇和島での生活が著者におよぼした影響ははかり知れない。この『海軍』による逃亡が獅子文六の作品にいちだんと磨きをかけたのだろう。

2021年2月15日月曜日

近藤克則『長生きできる町』

「近ごろの若い連中は仕事に前向きでない」などとついこの間まで若かった連中が嘆いていた。
どんな話かというと、たとえば映画製作の会社にいながら、小津安二郎も黒澤明も山田洋次も知らない、作品を見たこともないことが嘆かわしいということだ。あくまでたとえばの話である。
仕事の関係で福祉の本を読んでいる。
日本では人口が減っていく。人は長生きする。医療や介護、福祉に多額の費用が使われる。このままいくと財政が破綻するのでは、などとささやかれてもいる。それとは別にできることなら介護などされたくない、すなわち健康寿命を延ばしていきたいというのが多くの人の本音だろう。そこに介護「予防」というキーワードが浮かんでくる。
厚生労働省でも介護予防の取り組みがすすめられている。地域ボランティアによる集いやサロンの開設、いわゆる通いの場が生まれている。介護施設や病院を新設するより、費用もかからないし、健康的である。
著者は地域ごとの格差、とりわけ健康格差を調査している。
予防には一次予防(健康増進)、二次予防(早期発見、早期治療)、三次予防(再発、悪化予防)があるという。著者が提唱するのは0次予防。「人を変えるのではなく、環境を変えることでその中にいる人たちの行動を変える」という考え方である。たとえば近隣に広い公園がある地域では運動機能が低下している人が少ないという調査がある。公園面積の広い地域の高齢者はスポーツなどの会に参加している割合も多いらしい。なぜ運動をしないのかという原因だけを考えるのではなく、原因の原因を考えることが重要だという。そのなかで運動をしやすい環境をつくることの重要性が見えてきたのだと。
近ごろの若い連中を嘆いている諸氏よ。彼らがなぜ勉強しないのか、なぜ前向きにならないのか、その原因を考えてみよう。そして原因の原因を考えて、彼らをとりまく環境を変えてあげよう。そして行動を促そう。

2021年2月12日金曜日

鷹匠裕『ハヤブサの血統』

JRと東京メトロの荻窪駅を下りて、青梅街道を西に向かう。20分ほど歩くと郵便局があり、警察署が見えてくる。その先は商業施設とマンション群。
ここに日産の工場があった。2001年に郊外に移転され、再開発がはじまった。日産自動車の工場になる以前は1925年につくられた中島飛行機東京工場。おそらく戦前戦中の地図には記されていなかっただろう軍需拠点だった。
中島飛行機はその名のとおり、飛行機とエンジンをつくる会社である。広大な敷地の隅に「旧中島飛行機発動機発祥之地」と刻まれた碑が立っている。2011年、警察署の裏手(北側)に桃井原っぱ公園という広場が生まれた。どれほど広い敷地だったのか、周囲をぐるりと歩いてみるとわかる。そしてこの公園は災害時にヘリコプターの緊急離発着場としても使用されるという。時代が移り変わっても、空とつながっている土地なのである。
中島飛行機は数多くの戦闘機とそのエンジンを開発してきたが、最も知名度が高かったのは一式戦闘機、通称「隼」ではないだろうか。この本のタイトルにある「ハヤブサ」である。
鷹匠裕2冊目の長編小説になる。
デビュー作の『帝王の誤算-小説 世界最大の広告代理店を作った男-』は、著者にとっても僕にとっても同時代同業界の物語だった。創作の域を越える臨場感があり、ハラハラドキドキしながら読んだことをおぼえている。
今回は自衛隊の次期主力戦闘機の開発にまつわる話。
鷹匠裕は以前、自衛隊の次期主力戦闘機選びを題材に「ファイター・ビズ」という小説を書いている。城山三郎経済小説大賞の最終候補作にまでなった作品である。残念ながら、まだ読んでいないけれど、おそらくは今回の長編のベースになったものではないかと推測する。
中島飛行機は1938年に武蔵野製作所を開設している。主に陸軍向けのエンジンを組み立てていたという。「ハヤブサ」に近いのはこちらかもしれない。こんど歩いてみたい。

2021年1月30日土曜日

角田光代『私はあなたの記憶のなかに』

天気のいい午後、荻窪駅からバスに乗る。
芦花公園駅に行く関東バスである。千歳烏山まで行くのもあれば、さらにその先の北野行きもある。なんどか乗ったことがある。たいていはバス停から数分の世田谷文学館に行くときに利用する。おぼえているのは坂本九の時代の展示、たしか上を向いて歩こう展というタイトル(だったか)、和田誠展にも行ったことがある。他にも行ったと思うけれどおぼえていない。
今回は「あしたのために あしたのジョー!展」である。少年マガジンに連載された人気漫画「あしたのジョー」には夢中になった。厳密にいえば、その後テレビアニメーションになってからだと思う。四方田犬彦が1968年を検証するような書物を書いていたと思うが、子どもではあったけれど、すごい時代だった。
その傑作漫画のストーリーを、ちばてつやが描いた原画などを通して概観する。手描きの漫画原稿のなんと味わい深いことか。スミベタの筆のタッチなんか感動的だ。
タイトルの「あしたのために」は、この漫画のキーワードだった。その時代のキーワードといってもいいかもしれない。僕たちは「左ひじをわきの下からはなさぬ心がまえでやや内角をえぐりこむように打つべし、打つべし!」したものだ。誰もがみんな矢吹丈だった。
角田光代の小説をひさしぶりに読んでみる。短編集である。
そのなかの一編「おかえりなさい」を読んで、学生時代に高校の先輩に頼まれたアルバイトを思い出す。住宅街に行って、アンケート用紙をくばり、後日回収するというものだった。まずはアンケート用紙を受け取ってもらえない。回収に行っても不在であったり、まともな回答はほとんど得られなかった。結局どうしたか。ご想像におまかせするしかない。
記憶の彼方の、遠い遠い記憶であるが、もしかしたら当時歩きまわった住宅街は世田谷のこのあたりだったのではなかっただろうか。
頭のなかでジャブを連打しながらふと思い出した。

2021年1月27日水曜日

アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』

S信用金庫に入金をしなくてはならなかった。
信用金庫は都内に多くあるけれど、地域性があるのでたとえば港区を拠点にした信金と大田区を拠点にした信金とでは支店の分布が異なる。それでも信金同士のネットワークがあり、わざわざ目的の信金の支店まで出向かなくても、近くにある信金のATMで出入金や通帳の記帳が可能である。
と、思っていたのとは少し違って、信用金庫には信用金庫のグループ(派閥だろうか?)があるようで便利なのは同じグループ内に限られる。自宅からいちばん近い信用金庫ではS信金の通帳を取り扱えなかった。あまり調べもしなかった方が悪いのだが、40分ほど歩いた私鉄駅の駅前にある支店まで出向いたことがある。
先日も同じ用件で近くの提携関係のある信金をさがした。徒歩20数分のところにあるらしい。さっそく歩いて行ってみる。途中寄り道をしながら30分ほど歩く。ATMに通帳をすべり込ませる。取扱いができませんというアラートとともに吐き出される。提携していると思ったのは勘違いだった。S信用金庫とJ信用金庫が提携していないわけがないと勝手に思い込んでしまったのである。
仕方なく、スマホで近くの信金をさがす。1キロほど南に歩くと一軒ある。S信用金庫との提携関係もある。ふたたび歩きはじめる。中央線沿線なのに下町風情のある商店街を抜けると目的の信金が見つかった。そして自動ドアのガラスに貼り紙。「長らくご愛顧いただきました…」閉店している。もういちどスマホでさがす。さらに南に行って大きな街道沿いにあった。へとへとになってたどり着き、無事用件を済ます。
スマホが脳をハックしているのだという。スマホによって脳はたくさんのドーパミンを発するのだという。特に若者に与える影響が大きい。よかった、もう若者ではなくて。
スマホに依存しながら、5.67キロメートルを1時間18分ほどで歩いた。身体を動かしたせいか、その晩はよく眠れた。

2021年1月25日月曜日

慎泰俊『ルポ児童相談所-一時保護所から考える子ども支援』

都立K高校の、郊外にあるグラウンドで星野先輩に会った。
前回も書いたけれど、その人が星野さんであるとどうしてわかったのか、よくわからない。気がつくと僕は先輩の前にいて、同じ中学校から来た者だと自己紹介していた。バレーボール部の一員として今日(体育祭の前日)の準備に参加したということも(たぶん)伝えた。
星野さんは笑みをたたえたまま、僕の身体をくんくんとしながら一周する。
「うん、四中の匂いがする。なつかしいなあ。星野です、よろしく」と言った。僕らの出身校は地元で四中と呼ばれていた。それから先は何を話したか記憶はない。時間にすれば10分にも満たないような邂逅だった。
星野さんは大学進学時に社会福祉を志したと聞いている。どういうわけで福祉を学ぼうとしたのか、どうしてそのことが印象に残っているのか。たぶん当時(1970年代半ば)の若者の多くは福祉になんて関心がなかったと思うのだ。翳りを見せはじめたとはいえ、経済は成長していた。多少不景気な年があっても、まだまだそのうちなんとかなるだろうと誰もが思っていた時代である。社会福祉を学ぶ大学もそう多くなかったと記憶する。
児童養護に特に関心があるわけでもなかった。たまたま児童福祉に関する仕事があって、少しは勉強したくなっただけである。広告の仕事を長くしていると妙に広告の専門家になったような気がしてくる。それはそれで結構なことだが、むしろ広告の仕事のおもしろさは未知の領域に(素人なりに)接点を持てることだと思っている。かっこいいことを言ってみたが、せっかく出会えた分野だから、ついでに多少の知識を得ておこうという実はケチな考えなのだ。
福祉の領域は広い。高齢者、障害者、困窮者など弱者と向き合っている。児童福祉の、児童相談所の仕事もたいへんなことがこの本でわかる。
40数年前に出会った星野先輩が僕の知らなかった世界にめぐり合わせてくれた、そんな気がしている。

2021年1月23日土曜日

近藤克則編『住民主体の楽しい「通いの場」づくり 「地域づくりによる介護予防」進め方ガイド』

星野さんという先輩がいた。
高校受験が終わって、都立のK高校に決まりましたと職員室に進学先を報告に行った。当時の都立高校の受験システムは受験する時点で志望校を決めることができず、合格発表時に受験した学校群(たいてい2校か3校)のうちいずれか1校に決まる。どうしてそんなことになったのかはわからないし、わかったところで説明するのもたぶん面倒なのでしない。とにかく合格発表を見に行って、K高校に合格した(発表の場がH高校だというのも不思議なのだが、これもまた話が長くなりそうなのでしない)。
職員室では「K高か、陸上部の星野が行ったところだ」という話で少し盛り上がった。星野さんは僕の三学年上の先輩でやはり同じ中学校から都立K高校にすすんだという。「星野はどうしたんだっけ?」「福祉をやりたいとか言ってましたね、たしか上智をめざしてるって聞いてますけど」そんな話が飛び交う。三学年違うということは、入学したとき卒業した先輩である。中学時代に星野先輩に会ったことはない。
その二か月後。
都立K高校は多摩川の河川敷近くに合宿所をもっていた。野球、サッカーのグラウンド、バレーボールのコート、テニスコートと宿泊用の寮があった。体育祭はこのグラウンドを利用していた(翌年から都内の狭い校庭で行われるようになり、郊外のグラウンドで体育祭を経験したのは僕たちが最後の世代となる)。前日には運動系のクラブ部員やそのOBたちが集まってグラウンド整備を行う。何をやったか今となってはおぼえていない。草むしりとかラインマーカーで線を引く、みたいなことをしたのだろう。
どういうわけで、そこにいた陸上部の先輩が星野さんであるとたしかめられたのかはわからない。「ほ、星野先輩ですか?」気がつくと僕は今までいちども会ったことのなかった星野先輩と対面していた。
最近、仕事の関係で福祉や介護の本を読むことが多く、そのたびに星野さんを思い出す。

2021年1月15日金曜日

伊坂幸太郎『あるキング』

昨年はいちども野球を観戦しなかった。少なくともここ20年、いや30年、40年でも例のないことだ。
野球を観るもなにも試合が行われなかったのだから観に行きようもなかったし、開催された試合の多く(観たい試合の多く)は無観客で行われた。
東京六大学野球春のリーグ戦は8月に開催された。一回戦総当たり、観客は3,000人までだった。秋のリーグ戦は二回戦までで勝ち点ではなくポイント制で行われた。観客の上限は5,000人。行こうと思えば行けた神宮ではあるが、どちらかというと土日よりも勝ち点をかけた三回戦の月曜日に仕事をさぼって観るのが好きなので結局出かけることはなかった。
高校野球はセンバツも選手権も中止になり、独自大会と呼ばれる東西東京大会が開催された。春季大会も中止になったので、昨秋デビューした球児たちはいきなりの引退試合となった。秋季大会は予定通り開催されたけれどブロック予選から無観客試合になった。予選は当番校のグラウンドで行われるのだが、これも無観客。これまで多くのグラウンドを見てきた。特に西東京の郊外にある私立高校のグラウンドでのんびり観戦するのが好きだった。
無観客の大会に限らずテレビで中継される試合は大がかりな応援などもなく、打球音と拍手だけのシンプルな構成である。これはこれで野球の楽しみが感じられていい。
伊坂幸太郎は人気のある作家のようだが、これまで読んだことはなかった。例の、角田光代のおすすめとしてページをめくってみた。
架空の地方都市の架空のプロ野球チームという想定である。よく少年漫画などではありそうな設定ではあるが、小説となるとなかなか難しいものがある。書き手の力量が問われるテーマだ。まあ、架空の野球選手の話なので、打てばホームランということでもけっこうなのだが、あまりにも突拍子もない選手の出現がまるでおとぎ話のようである。
さて、現実の、今年の野球ははたしてどうなるのか。

2021年1月5日火曜日

安西水丸『東京エレジー』

正月は例年通り、何をすることもなく過ごした。
2日、テレビでドラマを視ていたら、毎年夏訪れる南房総の風景が映っていた。TBSで放映された『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』いわゆる「逃げ恥」である。
子どもが生まれ、新型コロナウイルス感染拡大のため両親の住む館山に疎開したみくり(新垣結衣)が散歩している。バックに海がひろがり、遠くに家満喜(やまき)冷凍工場が見える。家満喜さんは白浜町乙浜の大きな魚屋で、以前は木村浅廣さんが営んでいた。父の同級生で親友だった。その手前に見えるのはアヴェイル白浜というリゾートマンションだ。その裏手に父の実家がある。みくりが子どもを連れてやってきた公園は塩浦海岸沿いにある。毎年夏休みになると祖父に連れられて泳ぎに行った浜だ。今では標準語っぽく「しおうら」と呼んでいるが、地元に行くと「しょーら」という。だからテレビを視ていて、「あ、しょーらの浜だ、ここ」と思ったわけである。
次にみくりと平匡(星野源)が電話で会話するシーンがある。白浜町と隣接した千倉町の白間津である。みくりは南房千倉大橋という比較的最近できた橋の上にいる(1989年に開通しているが、少なくとも僕の子ども時代にはなかった)。平匡は橋の北側、白間津漁港あたりに車を停めている。千倉大橋の歩道には、ここ白間津で少年時代を過ごしたイラストレーター安西水丸が描いたタイル絵が埋め込まれている。
この本は1982年に青林堂から出ている。その2年前に出版された『青の時代』が千倉時代の回想であるとすれば、本書は中学卒業後上京した時代が舞台になっている。具体的な場所はわかりにくくなっているが、赤坂、護国寺、荒木町、井草、井の頭あたりか。千倉で過ごした少年時代はなりをひそめ、東京人としての安西水丸がこのあたりからはじまる。どことなくよそよそしい目で東京をながめている感じがいい。

2020年12月31日木曜日

ウジトモコ『これならわかる!人を動かすデザイン22の法則』

デザインには関心がなかった。
広告の仕事をするようになってはじめて大学でデザインを専攻した人ってたくさんいたんだと知る。テレビコマーシャルの仕事が多かったので、たとえばタイトルを映像に載せる場合もなんとくこんな感じがかっこいいとか、あっちの書体よりこっちの方がコピーの内容としっくりくるねとか、なんの基礎も教養もないスタッフとして接してきた。
20代最後の年に小さな広告会社に移って数年、グラフィック広告にもたずさわるようになった。見よう見まねでサムネイルを描いたり、グラフィックデザイナーが手いっぱいのときは版下をつくったりもした。
ふたたび映像制作会社に戻る。他に人もいないので会社の求人広告や年賀状、名刺などのデザインを頼まれる。気がつけば年賀状など20年以上も続けていた。
デザインの基本は無駄のないビジュアルだと思う。スティーブ・ジョブズはデザインとはもののしくみだと言っていたそうだが、わからないでもない。あれもこれもと、アメ横のお菓子屋さんみたいに詰め込んでみたところで、そのお客さんはよろこぶだろうが、世間にぽんとほおり出されたビジュアルはたいてい無視される。
僕も個人の嗜好としては意味があまり感じられない装飾などを嫌う傾向があるので、著者の言わんとすることはよくわかる。さりとて世のグラフィックデザイナー諸氏は、すべてがワンヘッドライン、ワンビジュアルといったシンプルでかっこいい仕事にめぐまれているわけではない。あれやこれやと意味のない情報を入れろ、文字を大きくしろ、太くしろ、濃くしろと言われ続けている方が圧倒的に多いだろう。
ポリシーの異なるA案、B案、C案を提案したとき、この三つをひとつにした案にしてくれという経営者もいる。デザインのことより、あなたの会社が心配になる。
さて、たいへん勉強になった一冊だが、タイトルに「これならわかる!」の一文を加えたことがたいへん惜しいと思う。

2020年12月30日水曜日

穂村弘『にょにょっ記』

年末の、一般的にはあわただしいなか、小中で同級生だった石羽紫史からLINEが届く。
「突然ですが」
こんな時期にこんな書き出しのメッセージにはろくなものがない。
やはり同級だった大野雪絵の訃報だった。
大野とは中学に入ってから同じクラスになったことはなく、小学生の頃もさほど話をした思い出もない。僕にとっては名もなき同級生であり、おそらく彼女にとってもそれは同様だったろう。7~8年前だったか、通っていた小学校と中学校、そして周辺の学校も統合されて、新たに小中一貫校ができた。たしかその年に同期会が開かれて、地元の居酒屋に何人か集まった。そのときことばを交わしたけれど、はじめて会話をしたような感じだった。
その2年くらいあとで、母が地元の大学病院に入院して手術をした。
「大野さんって知ってる?おまえの同級生だっていうんだよ」
術後、母から聞いておどろいた。大野雪絵はその病院でヘルパーとして働いていたのである。
患者のデータ、たとえば住所や保証人の名前を見て、僕の母だとわかったのだろう。入院中はずいぶんと声をかけてもらい、励ましてもくれたにちがいない。
前回読んだ『にょっ記』に続いて続編を読んでみる。
なんでもないようなことをひけらかすのではなく、なんでもないように描いている。おもしろい。どんなふうにおもしろいかというと腹を抱えて笑いころげるようなおもしろさではない。遠赤外線の暖房器具のようにおもしろい。こういうおもしろさこそたいせつにしたい。どうやら続々編もあるようだ。
通夜は大田区の海に近い斎場で営まれた。父を送ったところでもあり、訪ねるのはそれ以来ということになる。東京モノレールの駅からずいぶんと歩く記憶があったが、数分でたどり着いた。大野は祭好きで、町会の神輿を毎年担いでいたという(今年は残念ながら中止なったと聞いている)。石羽もその仲間であるらしい。そろいの半纏を来た人が大勢列をつくっていた。

2020年12月17日木曜日

穂村弘『にょっ記』

ついこないだまで暑くて暑くて仕方なかったのに、気がつくと急に寒くなっている。
昼間は陽あたりのいい場所で仕事をしているので天気さえよければ堪えられる。夕方になると暖房を入れる。それでも寒いので自衛手段として厚着をする。シャツを2枚重ね、セーターを着て、ウインドブレーカーを着て、ライトダウンを着込む。ちなみに今日からタイツも履いている。
明治生まれの祖母センは、ずっと千葉県南房総市千倉町の白間津という集落に住んでいた。当時は千葉県安房郡七浦村白間津。関東大震災も、先の大戦も、明治大正昭和のあらゆる歴史を白間津で経験した。
最晩年、目を患って東京の伯父の家に連れてこられた(このことは前にも書いた気がする)。
祖父は戦後すぐに病死している。5人の娘が嫁いで、長嶋茂雄が栄光の巨人軍に入団した昭和33年、叔父(次男)が高校進学のために上京する。それからおそらく20年近く、ひとり暮らしを続けてきた。
あるとき、伯母に出かける用事があって、母が留守番がてら祖母の世話をしに、伯父の家を訪ねる。こたつに入って、ぼんやりしているのもなんなので母は、祖母をお風呂に入れようと思い立つ。祖母もそうだったらしいが、母も無為に時を過ごすことは損だと思っている。湯を沸かし、浴室まで連れていく。着ているものを脱がそうとしたら何枚も何枚ものシャツを重ね着していたという。お風呂に入れるより、入れるまでがたいへんだったと母が笑いながら話していたのを思い出す。
慣れない東京。息子の家で世話になっているのが心苦しく、せめて風邪などひくまいと思っていたのかもしれない。昨日風呂に入るとき、何枚も何枚も重ねて着ていたシャツやセーターを脱ぎながら、祖母を思い出した。
穂村弘という著者をまったく知らなかったが、角田光代がおススメするので読んでみた。
ちょっとした発見がうれしい。どうでもいいようなことを思い出させてくれるところがうれしい。

2020年12月12日土曜日

井村光明『面白いって何なんすか!?問題 センスは「考え方」より「選び方」で身につく』

井村光明という名前をおぼえている。どこかで会ったこともあるかもしれない。ないかもしれない。
1993年だったか、94年だったか、僕はある食品メーカー(納豆をつくっている会社だった)のテレビコマーシャルをつくった。CMはそこそこ話題になり、新聞や雑誌で取り上げられ、ちょっとしたヒットCMになった。今回は大きな広告賞でも獲れるのではないかとも思った。国内有数の広告賞の一次選考を通過したという情報も耳にしていた。今はどうなっているかわからないけれども、当時、大きな広告賞は業種ごとに部門分けされ、各部門のなかで高い評価を受けた作品が入賞作品として表彰される。そして各部門の入賞作品のなかから大賞であるとか、グランプリであるとか、その年の代表作が決定する。
僕がエントリーしたのは食品部門。食品というジャンルは景気がよかろうが、わるかろうが広告を発信しなければ商品の売れ行きに大きく影響する。特にナショナルクライアントと呼ばれる大手は次から次へとCMを制作し、オンエアしている。ただでさえ競争のきびしい部門である。そんななかで入賞でもしたら、これはすごいことだと想像するだけでわくわくしたのをおぼえている。
結果的には、残念ながら大きな賞をもらうことはなかった(小さな賞には入賞したけれども)。その年の食品部門にはもっとすごいCMがあったのだ。
お腹を空かせたサッカー少年が家に帰ってくる。母親は簡単にできるレトルトカレーを手ばやく供する。カレーを食べた少年は、当時の人気サッカー選手ラモス(ラモス瑠偉=ブラジル出身、ヴェルディ川崎の中心選手)に変身する。永谷園のJリーグカレーのCMである。Jリーグがはじまって、サッカー人気が沸き起こっていた時流にも乗ったし、アイデアもシンプルで素晴らしかった。
大きな広告賞の食品部門はあらかた、このJリーグカレーだった。そしてこの作品の企画を考えたのが井村光明であった。

2020年12月10日木曜日

佐野洋子『役にたたない日々』

井伏鱒二の『荻窪風土記』は名著だと思う。
昭和のはじめ。駅の乗降客も少なく、あたり一面田畑だった時代の荻窪が描写されている。かつては田園風景のひろがっていたこの一帯も今では見る影もないほど変貌を遂げている。
佐野洋子も荻窪に住んでいたらしい。もちろんそんなことは知らなかった。佐野洋子という人もだ。先日読んだ角田光代の『私たちには物語がある』でたいそうおもしろい本を書く人だと知って、手にとってみたのである。
荻窪駅北口に出て青梅街道を渡ったところに教会通り(井伏鱒二の時代は弁天通り)と呼ばれる商店街がある。昔からずっとある店もあるが、様変わりした店も多い。駅の方から北に向かって200メートルほど行くと右に曲がる。その角にS青果店がある。S青果店のおやじさんは、そうかセロリが嫌いで、だから店にも置いていなかったのかなんて話は相当おもしろい。八百屋の向かいにはMという鶏肉店があった。著者はスープをつくりたくて、鶏ガラをわけてもらおうと店主に声をかけるが断られる。
M鶏肉店はお店を閉めてしまったけれど、唐揚げとか焼き鳥とかうまかったなあ。
行ったり来たりするけれども、少し駅の方(つまり南)に戻ったところにKという文房具店がある(S青果店もM鶏肉店も本書のなかでは店の名前までは明かされていないが、だいたいわかる)。偏屈な店主が店番をしている。商売人としてあるまじき態度で難癖をつけられた著者は不快な思いをするが、不思議なことにその店主に好意を抱いてしまう。
家内は中学生の頃からずっと荻窪だったので、教会通りの文房具店のおやじってヘンなの?と訊ねたみたら、おじさんもヘンだったけどおばさんも相当ヘンだったという。僕はいちどもお店に入ったことがない。いちど訪ねてみたいと思った。おじさん、おばさんはまだいるのだろうか。
それにしても佐野洋子おそるべし。この本は平成の『荻窪風土記』である。

2020年12月4日金曜日

角田光代『私たちには物語がある』

もう新しい本を読むこともないかとときどき思う。
昔読んでおもしろかった本やよくわからなかった本をもういちど読むほうが楽しいような気がしてくるのである。今さら『失われた時を求めて』を読むのなら『ジャン・クリストフ』をもういちど読んでみたい。行ったことのない町を訪ねるより、以前歩いた道をもういちどたどりたくなる、そんな気分。
最近、一冊読み終えると次は何を読もうか、電子書籍のサイトの前でぼおっと考えることが多い。知らないうちに吉村昭、山本周五郎、獅子文六など、いつもの検索ワードを打ち込んでいる。
ときどき仕事で絵を描くけれど、人が絵を描くのを見るのが好きだった。顔の輪郭を描くのに僕は頭のてっぺんからくるりと円を描くけれども、あごから描きはじめる人を見たりするととても新鮮に感じる。円を描くのが右回りなのか、左回りなのかも気になる。同じように人が読む本というものに興味がある。コロナ禍の緊急事態宣言の頃、SNSで「七日間ブックカバーチャレンジ」というイベント(イベントっていうのかな)で静かに盛り上がっていた。心に残った本の表紙を一日一冊、七日間紹介するというもの。知らない本も多かったが、へえ、この人はこんな本を読んでいるのかと楽しみながらながめていた。
読みたい本が見つからないとき、よく読書案内的な本を開いた。思い出せるのは関川夏央『新潮文庫20世紀の100冊』村上春樹『若い読者のための短編小説案内』である。もっと読んだかも知れない。思い出せないものは思い出せない。
角田光代の小説は少ししか読んでいないけれど、『対岸の彼女』とか『キッドナップ・ツアー』などが記憶に残っている。読書家でもあるらしい。読みたい本をさがしてくれるかもしれないと思って読んでみる。
かくして興味深い本が何冊も見つかった。全部読むかどうかは別にして、大いに初期の目的は果たした。
見知らぬ町の書店に立ち寄ったような気分である。

2020年12月2日水曜日

安西水丸『青の時代』

1977年にブロンズ社から『安西水丸ビックリ漫画館』という本が出版されている。当時彼は漫画雑誌「ガロ」やサブカルチャー雑誌「ビックリハウス」に漫画を載せていた。
『青の時代』は1980年に青林堂から出ている。この80年版を持っていたのだが、どこかにいってしまった。後に買ったのは87年版で装丁が少し違う。70年代から80年にかけての安西水丸を僕は新進気鋭の漫画家だと思っていた。
82年に松任谷由実のアルバム「PEARL PIERCE」が発売される。歌詞カード(ブックレットと呼ぶらしい)に描かれていたイラストレーションを見て、そしてその翌年だったか、書店で見た村上春樹の短編集『中国行きのスロウ・ボート』の表紙イラストレーションで安西水丸はメジャーなイラストレーターになったのだと知る。
その後もシュールな4コマ漫画を描き続けたけれど、この80年代はじめ以降、安西水丸は水丸ワールドを確立し、確固たる地位を築いていく。そういった意味からすると彼の“漫画家”時代の著作、特に南房総千倉で過ごした幼少時代と赤坂丹後町から護国寺の高校に通っていた青春時代が描かれている本書は貴重な史料だ。
千倉町の風景は暗く描かれている。陽光にめぐまれた太平洋の青々とした海原も、5人の姉もみな嫁ぎ、母とふたりで暮らしていた寂しい少年の目からは深い青色だったのだろう。中学卒業と同時に上京し、高校生活をスタートする。慣れない東京で、友だちもいなかった。
四谷荒木町に叔母がいた。長唄の師匠だったというが、くわしいことは知らない。その家か、その近所に同い年の少年がいて、10代の水丸の唯一の友だったとどこかで聞いた気もするが、くわしいことは知らない。
安西水丸のイラストレーションの特徴は、シンプルな線と透明感であるとよく言われる。しかしその絵のずっと奥の方には海の底のような深い青の時代が隠されているような気がしてならない。

2020年11月25日水曜日

阿川佐和子『アガワ家の危ない食卓』

徒歩10分ちょっとのところにスーパーAが一軒あり、ときどき利用している。
今月のはじめだったか、家内が買い物に出かけたら臨時休業だといって帰ってきた。少し前には新聞にチラシがはさみこまれていて、今どき臨時休業っていうのはきっとあれかね、新型コロナの感染者が出たのかね、などと話をしたばかり。案の定、陽性者が出たようでしばらく臨時休業が続いていたが、一週間ほどで営業を再開した。その間の買い物は別のスーパーBを使った。
先週、こんどは僕がスーパーAまで買い物に行くと灯りが消えていて、入口に臨時休業の貼り紙がある。またしても陽性反応者が出た模様。仕方なく、とぼとぼと駅前のスーパーBまで歩いた。どちらかといえばこちらのスーパーBの方がいつも混み合っていて、保菌者が多そうな印象だが、こればかりは目に見えるものではないからわかりようがない。比較的空いている(というよりたいてい空いている時間に行くのであるが)スーパーAからひと月にふたりも感染者が出るなんてちょっと信じがたい気もする。
いずれにしても新型コロナウイルスは、思いのほか身近なところまでやってきている。耳をすませば足音が聞こえてもおかしくない。
阿川弘之の作品をほとんど読んでいない。鉄道ファンで知られていたようで、以前『お早く御乗車願います』という乗りものエッセーと『山本五十六』くらい。
娘の阿川佐和子にも多くの著書があるけれど、やはり読んだことはない。たいがいの本の装丁を和田誠が担当していて、書店で平積みされていると目立つ。目立ちはするけれど、手にとることはほとんどなかった。
この本は長女がどこかから手に入れてきた。和田誠への追悼エッセーが掲載されているという。僕が和田誠ファンだということを娘は小さい頃から知っている。
阿川佐和子は、ときどき和田誠とバーで待ち合わせて、いろんな話を聞かせてもらったという。なんどもうらやしい話ではないか。

2020年11月23日月曜日

梨木香歩『ほんとうのリーダーのみつけかた』

このところ家に閉じこもって頼まれたシナリオや絵コンテをつくっている。
ときどきあてもなく図書館に出かけたり、近所でラーメンを食べたりはするが、犬たちの散歩と買い物以外はほとんど外出することがない。
今年最後の連休ということで、新型コロナ感染拡大が続いているというものの、観光地などは人手でにぎわっているという。天気もいいのでバスに乗って出かけてみることにした。行き先は杉並清掃工場。今書いているシナリオに清掃工場が登場する。井の頭線高井戸駅の近くに巨大な煙突があったことを思い出したのである。
清掃工場に隣接して杉並区高井戸市民センターがある。清掃工場の廃熱を利用して温水プールがあるという。環状八号線をはさんで、美しの湯という温泉施設がある。温泉というのだから廃熱とは関係はなさそうだ。
市民センターと清掃工場のある敷地は広く、その周囲を歩けばおそらく10分以上はかかるだろう。また巨大な煙突は高さ160メートルあるという。ワイドレンズがないとカメラにおさめることは難しい。敷地の北東側の歩道に立つとその全貌を見ることができる。2017年に建て替えられたという建物は緑におおわれている。真上から眺めたことはないが、地図アプリの航空写真で見る限り、屋上も緑化されている。ソーラーパネルも配されている。
『西の魔女が死んだ』というタイトルに惹かれて、梨木香歩を読んだ。
長女が小学生の頃だったから、かれこれ20年ほど昔のこと。どうしてそんなことをおぼえているかというと、読み終わって、これは児童文学なんだと思い、薦めた記憶があるからだ。その後『村田エフェンディ滞土録』『ピスタチオ』『水辺にて』など娘と共有した本は少なくない。
この本は『僕は、そして僕たちはどう生きるか』と同じ系統に属する児童向けの自己啓発書といっていいかもしれない。ひとりでも多くの子どもの心のなかに頼りになるリーダーが育つことを願ってやまない。

2020年11月17日火曜日

谷山雅計『広告コピーってこう書くんだ!読本』

ここ半年以上、広告、特にコピーライティングに関する本を読んでいる。
できるだけ多く、アイデアの断片でもいいから書いてみる。100案くらい考え出してみる。そこからオリエンテーションや市場動向、消費者インサイトなどを照らし合わせて絞り込む。これはいける、と思えた最終候補案を整えていく。
広告コピーの書き方指南の書物はたいていそう書かれている。時間と手間のかかる仕事だが、こうした努力を怠らなかったコピーライターはたしかにいい仕事をしている。見ず知らずの人が目にして、その思いを共有させることが書き手に求められるわけだ。ただ文章をうまく書くだけでは済まされない。
すぐれたコピーライターが本を書く。思いのほか文章が巧くなかったり、ボキャブラリーが足りなかったりすることもある。あれっと思うこともある。でもそれでいいのだ。コピーライターは見ず知らずの人をはっとさせ、動かすのが仕事であり、魅力的なエッセーやフィクションを書くことを不得手としてもまったく問題がない。
比較してみることになんの意味もないとは思うが、電通の、あるいは電通出身者のコピーライターが書く指南書にくらべると博報堂、あるいは博報堂出身者のコピーライターが書く本の方が、おもしろいかおもしろくないかは別にして、シンプルにわかりやすい。説得力がある。
あくまでも私見に過ぎないが、キャンペーンなどのスケールや派手さが目立つ電通に対して、基本的な広告の立ち位置をきちんと説明するところから手順を踏む博報堂の制作姿勢にあるのではないか。その説明能力が制作部門にDNAとして沁みついているのかもしれない。たしかに電通、ないしは電通出身者の語る広告作法はおもしろい。読み物としておもしろい。しかしながら、すとんと腑に落ち、明日からでも実践してみようという気持ちを起こさせるのは博報堂出身者の著書であったりする。
この、谷山雅計だったり、小霜和也だったり。

2020年11月1日日曜日

片岡義男『カレーライス漂流記』

カレーライスといえば、子どもの頃母がつくった、おそらくグリコワンタッチカレーか明治キンケイインドカレーであろう、黄色いルーを思い出す。
次なるカレーライスの思い出は学生食堂にある。他のメニューにくらべ、カレーは大量生産大量消費に向いていた。高度経済成長の時流に乗ったカレーライスは時代を象徴する食べものだった。
いろいろなところでカレーライスを食べてきた。喫茶店やホテルのレストランで食べるカレーライス。これは欧風カレーなどと呼ばれることが多いが、ヨーロッパの人が好んでカレーライスを食べるシーンは想像しにくい。高級なものだとちょっとした鰻の蒲焼きが食べられそうな値段もある。
どちらかというと町の洋食店のカレーライスが好きである。肩の凝らないところがいい。子どもの頃うちで食べたカレーの延長線上にある。蕎麦屋で食べるカレーライスもいい。ニッポンのカレーライスという位置付けが明確だ。味噌汁が添えてあればなおよい。どちらかといえば僕は、カレーライスに関しては味噌汁派でコーヒー派ではない。
最近はインドカレーやパキスタンカレー、スリランカカレーなど本格的なカレーを食べさせる店も増えてきた。あまり行くこともないのだが、それは、なんとかマサラとかバターチキンとか豆とほうれん草のなんとかだとかメニューが(僕にとって)難解なせいだと思う。自分のなかでイメージできないカレーが出てくるのは少し困る。ナンにしますか、ライスにしますかと訊ねられるのもちょっと困る。
まったくもって不勉強きわまりないのだが、片岡義男というと『スローなブギにしてくれ』の原作者であること以外ほとんど知らない(しかもその本も読んでいない)。エッセーなのか、フィクションなのか、なかなかつかみにくい本である。しかし描写は精緻で、なんとなくかっこいい。喫茶店に佇んで、深煎りのコーヒーを飲みながらカレーライスを頬張る風景が目に浮かぶ。