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2024年8月2日金曜日

柳田國男『こども風土記』

子どもの頃、馬乗りという遊びをよくした。主に男の子の遊びで冬場にすることが多かった。
どんな遊びかというと(文章で説明するのは大変難しいのだが)だいたい10人前後がふた組にわかれる。馬側と乗り側である。馬側はまずひとり、壁を背にして立つ。残りは馬になる。先頭の馬は腰を折って、立っている子の股間に頭を突っ込む。馬は足を肩幅くらいにひろげる。二番目の馬はやはり腰を折り曲げて、一番目の馬の股間に頭を入れる。そうやって例えば1チーム5人なら4人の馬が連なる。
乗り手は助走をつけて、跳び箱を飛ぶような感じで馬に飛び乗る。5人が乗ったら先頭の乗り手と壁を背にした子がじゃんけんをし、勝った方が乗り手になる。もちろんじゃんけんで決着するのは順当に5人の乗り手が馬に乗れた場合であって、馬の上でバランスを崩してしまう乗り手もいれば、飛び乗ったとき勢い余って横に落ちてしまう乗り手もいる。これは「オッコチ」と呼ばれ、誰かがオッコチした場合、攻守が入れ替わる。また身体の小さい弱そうな子の上に全員が重なるように乗るなどして馬をつぶしてしまうこともある。これは「オッツブレ」と呼ばれ、乗り手側は次も乗り手として遊びを継続する。
なんでこんなことを思い出したかというと、この本に紹介されている「鹿鹿角何本」という広く伝わった子どもの遊びの延長線上に馬乗りという遊びがあるらしいとわかったからだ(馬乗りは地方によっては胴乗りとも呼ばれていたらしい)。昔は乗り手が馬に乗ると指を何本か馬の背に突き当てて鹿鹿角何本と言ったそうだが、僕は知らない。
馬乗りをしていたのは小学生の頃だ。1960年代の後半から70年代のはじめくらい。その後は小学生ではなくなったので、後輩にあたる小学生たちが馬乗りを連綿と受け継いでいったのかどうかは知らない。
馬乗りはまだ子どもたちの間で行われているのだろうか。馬乗りはどこへ行ってしまったのだろうか。

2023年3月27日月曜日

宮本常一『忘れられた日本人』

ものごころついた頃から、夏は南房総で過ごしたと何度となく書いている。
だいたい7月の終わりから8月の中頃まで、祖父母と姉と暮らす日々が続いた。お盆になると両親がやってくる。毎日のように浜へ行って泳ぐのであるが、お盆になると地元の子どもたちは海に入らなくなる。この頃、台風が発生しやすくなり、波が高くなる。年寄りたちはしょうろさま(おしょろさま)に連れて行かれるから浜へ行ってはいけないという。しょうろさまとはお盆で帰ってくる霊の乗りものである。海水浴を楽しむのはよそから来たものたちだけになる。
こうした言い伝えを聞いて育った子どもたちも高齢者の仲間入りをしていることだろう。口承は今でも続いているのだろうか。
記録を遺すということはたいせつなことである。記録を遺さなければならないから、改ざんが行われ、ねつ造がなされるのである。
歴史は、記述された資料に則り、時間軸を再構成した過去である。合理的に考えれば歴史のベースは文字ということである。もちろん文字が失われたから歴史が遺されないということでもない。文字とことばを奪われた南米の帝国や文化は構造物や生活習慣のかたちで今に遺っている。
口承は文字化されているわけではない。語り継がれて生き残った風習である。これらが成立するためには村などの地域が共同体として機能していることが大前提になる。宮本常一が各地で聞き取りを行い、記録に遺したのは昭和の時代。地域も家族もまだ空洞化していなかった。
果たして宮本が行ったようなフィールドワークは今でも可能なのだろうか。都市部では共助という発想が希薄になり、農村部は過疎化がすすんでいる。民間伝承の採集といった仕事はかなりやりにくくなっているのではないだろうか。
かつて日本画家東山魁夷は「古い建物のない町は思い出のない人間と一緒だ」と語ったという。思い出のない町から成る日本は思い出のない国になってしまうんじゃなかろうか。

2023年1月11日水曜日

柳田国男『遠野物語・山の人生』

子どもの頃、母から聞いた話。
母の実家は南房総千倉町の西端、白間津という集落にあった。白間津を越えると白浜町になる。乙浜という漁港のある集落である。白間津の東には大川という集落があり、さらに東の千田という集落で七浦という村を構成していた。白間津は七浦村のはずれであり、千倉町のはずれであった。
白間津と大川の境界あたりは以前は人家に乏しく寂しい地域であった。少し小高いところには洞穴があって、シタダメの貝殻が多く残されていた。シタダメというのはこのあたりでよく食されていた小さな巻貝でおそらく方言なのだろう。正式な名前は知らない。
母がいうにはこの洞穴に手長婆さんという老女が棲んでおり、夜になるとそこに座ったまま長い手を伸ばして磯から貝を取っては食べていたという。ちょっと怖い話でもあるが、おもしろい言い伝えがあるのだなと思ったものだ。と、思っていたら、南房総市のホームページに「南房総にまつわる民話」に紹介されていた。ずっと昔から手長婆の話はあったのである。母の話では残されていた貝殻はシタダメであるが、これを読むとアワビやサザエの貝殻がたくさん出てきたと書いてある。母に聞いた手長婆より、もう少し手が長く、美食家だったのかもしれない。
こんなふうに語り伝えられた話は日本全国、いや世界じゅうにあるだろう。文字にされていなかった語り伝えの物語を顕在化させた柳田国男は偉大だなあと思う。その仕事はいわば物語の考古学だ。かなりの量が発掘されてはいるのだろうが、時間という地層の中に埋もれている話もきっと多いことと思う。
そういえば高校時代の友人川口洋二郎は大学卒業後出版社に勤めている。以前は文庫の編集長だったが、その後柳田国男全集の編纂を担当すると言っていたような気がする。もしかしたら柳田邦男だったかもしれない。柳家小さんだったかもしれない。まあ、またそのうち会うだろうからそのときにでも訊いてみよう。

2021年1月23日土曜日

近藤克則編『住民主体の楽しい「通いの場」づくり 「地域づくりによる介護予防」進め方ガイド』

星野さんという先輩がいた。
高校受験が終わって、都立のK高校に決まりましたと職員室に進学先を報告に行った。当時の都立高校の受験システムは受験する時点で志望校を決めることができず、合格発表時に受験した学校群(たいてい2校か3校)のうちいずれか1校に決まる。どうしてそんなことになったのかはわからないし、わかったところで説明するのもたぶん面倒なのでしない。とにかく合格発表を見に行って、K高校に合格した(発表の場がH高校だというのも不思議なのだが、これもまた話が長くなりそうなのでしない)。
職員室では「K高か、陸上部の星野が行ったところだ」という話で少し盛り上がった。星野さんは僕の三学年上の先輩でやはり同じ中学校から都立K高校にすすんだという。「星野はどうしたんだっけ?」「福祉をやりたいとか言ってましたね、たしか上智をめざしてるって聞いてますけど」そんな話が飛び交う。三学年違うということは、入学したとき卒業した先輩である。中学時代に星野先輩に会ったことはない。
その二か月後。
都立K高校は多摩川の河川敷近くに合宿所をもっていた。野球、サッカーのグラウンド、バレーボールのコート、テニスコートと宿泊用の寮があった。体育祭はこのグラウンドを利用していた(翌年から都内の狭い校庭で行われるようになり、郊外のグラウンドで体育祭を経験したのは僕たちが最後の世代となる)。前日には運動系のクラブ部員やそのOBたちが集まってグラウンド整備を行う。何をやったか今となってはおぼえていない。草むしりとかラインマーカーで線を引く、みたいなことをしたのだろう。
どういうわけで、そこにいた陸上部の先輩が星野さんであるとたしかめられたのかはわからない。「ほ、星野先輩ですか?」気がつくと僕は今までいちども会ったことのなかった星野先輩と対面していた。
最近、仕事の関係で福祉や介護の本を読むことが多く、そのたびに星野さんを思い出す。

2020年9月18日金曜日

高橋亜美、早川悟司、大森信也『子どもの未来をあきらめない 施設で育った子どもの自立支援』

山崎豊子『大地の子』を思い出す。
ソ連軍参戦によって虐殺された満蒙開拓団。過酷な体験を経、記憶を失った松本勝男少年は小学校教師陸徳志に助けられる(このときすでに日本語も自分の名前も忘れてしまっていた)。貧しい暮らしではあったが、勝男は一心という名前を与えられ、両親の深い愛情を受けて育つ。生き別れとなって農家に売られた妹のあつ子とは対照的である。
日本は欧米に比べて、里親の割合が少ないという。
家庭の問題(たいていの場合、離婚や虐待)で養育できなくなった児童の多くは児童福祉施設で生活する。実際にそうした児童の数そのものも欧米に比べると少ないらしい。一概に海外比較を取り沙汰するのもどうかと思う。里親など、民間で児童を養育する方が人道的、先進的な印象があるのかどうか知らないが、日本でも里親制度をもっと普及させたいという意向があることはたしかだ。
実際のところ、児童福祉施設で働く人たちはたいへんだ。愛情を注ぐことだけが仕事ではない。朝はやくから夜遅くまでずっと見守りを続け、その成長を手助けしていかなければならないのだ。「おはよう」「行ってらっしゃい」「おかえり」「おやすみ」を言うのは同一職員であるべきだという。職員が長く働ける環境ではないことがうかがえる。それでいて素行があまりよくなく、犯罪や自殺など問題行動が指摘されがちなのも施設の児童であったりする。
疲弊する現場を救い、じゅうぶんな環境を与えられない子どもたちに里親制度はプラスになるという考えが主流なのかもしれない。里親の比率が増えれば、欧米のように児童福祉先進国になれるという印象もあるのかもしれない。この本では、施設か里親という議論より、社会的養護はどうあるべきかを考える著者たちによってまとめられている。勉強になる。
児童養護にたずさわる人に限らず、多くの人の心に陸徳志が住んでいれば、世の中はもっとよくなるんじゃないかと思う。

2019年7月1日月曜日

あずみ虫『ぴたっ!』

7月はイラストレーター安西水丸の誕生月ということもあり、カレーライスを食べて偲ぶことにしている。命日のある3月も積極的にカレーライスを食べるけれど、時期的にもむしむしする7月はカレーライスを食べるにはうってつけの季節だ。
特別なカレーライスを食べるわけではない。定食屋であるとか蕎麦屋であるとか、あるいはカウンター席がメインのチェーン店であったり、なにもわざわざ南房総を訪れてサザエカレーを食べたり、神宮前のギーに出向くようなことはしない(安西水丸がよく通った伝説の店ギーはもうない)。南青山にあるやぶそばのカレーライスみたいなごくごく普通のものでじゅうぶん満足できる。
あずみ虫はコム・イラストレーターズ・スクールや築地のパレットクラブスクールで安西水丸からイラストレーションを学んだイラストレーターである(以前にも書いた記憶がある)。
先月も青山で個展が開催されていたので寄ってみた。
昨年アラスカを旅して、見聞きしたものを作品にしたという。例によってアルミ板を切って、着彩されている。以前はイラストレーションの存在そのものにインパクトがありすぎて、描かれている絵をじっくり眺めていなかったような気がするのだが、最近はよく見るようにしている。ホッキョクグマはホッキョクグマらしい毛並みを持っている。オジロワシは空に向かって羽ばたいている。味わい深い。
あずみ虫は絵本作家でもあり、素敵な絵本を何冊か描いている。そのなかでも僕はこの本が気に入っていて(イラストレーションもさることながらブックデザインが素晴らしい)、知人や後輩に子どもが産まれるとプレゼントすることにしている。いいタイミングで個展など開催されていて、しかもいいタイミングで在廊されていたりすると訪ねてはサインをしてもらう。産まれたばかりの子の名前と(たいていの場合)象の親子を書いてくれる。
贈られた方もたいへんよろこんでくれる。ありがたい。

2019年6月20日木曜日

三遊亭圓朝「名人長二」

名人という呼び方は特定分野ですぐれた技芸を持つ人を指す。
囲碁や将棋の世界では最高の地位であり、称号とされているが、落語の大家にも呼ばれる。競馬騎手武豊の父、武邦彦がその昔、名人と称されていた。名人より多くの勝ち鞍を上げた騎手もいるけれど、武邦の容姿や騎乗スタイルなどが名人然としていたことによるのかもしれない。
名人というのはある分野で秀でた技芸を持つ人のことだから、総合的に高い能力などには使われないのだろう。政治家に名人はいないし、俳優や作家にもいない(たぶん)。スポーツの世界で、たとえば体操競技は個人総合と種目別にわかれている。鉄棒とかつり輪、あん馬など特定の種目に圧倒的に高い力量を発揮する選手をときどき見かけるが、名人とは呼ばず、スペシャリストと普通の呼び方をされる。名人には和の雰囲気が感じられる。競馬のジョッキーを名人と呼ぶのに多少の違和感を感じるのはそのせいかもしれない。騎手を名人と呼ぶのがいけないと言ってるわけじゃない。よくぞ武邦彦を名人と呼んだものだと当時のマスコミに感心しているのである。
「抜け雀」という落語にも名人が登場する。さんざん呑んで、払えぬ宿代のかわりに絵を描いて帰る。その絵が評判を呼ぶ。そんな噺。左甚五郎の「竹の水仙」もそうだが、名人(というよりこの場合は名工といった方がいいか)の噺は多く、興味深い。
古今亭志ん生の動画がYouTubeにあって、通しで聴いてみた。全部で2時間以上ある。落語というより、芸術だ。書きものがあると聞いてさがしてみたら、青空文庫になっていた。
名人の仕事は後世に遺る。「素人には分からねえから宜いと云って拙いのを隠して売付けるのは素人の目を盗むのだから盗人も同様だ、手前盗人しても銭が欲しいのか、己ア仔様んな職人だが卑しい事ア大嫌いだ」と言ってつくった書棚を打毀す長二。
長二の生き様を通じて、名人ということばが響く。意気でいなせでいざぎよい。

2019年3月26日火曜日

ハンス・ロスリング,オーラ・ロスリング,アンナ・ロスリング・ロンランド『FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』

ずっと常識だと思っていたことがいつの間かそうでなくなっている。
高校生の頃、もう40年以上前のことだが、部活動の練習中に水を飲むとバテやすくなるだとかそんな理由で水分補給ができなかった(戦争中の考え方の名残りという考えもあるらしい)。今、運動時水分補給法みたいな法律が施行されたら当時の指導者たちはこぞって有罪判決を受けることだろう。
歯磨きの仕方だってそうだ。これは50年以上前。歯ブラシを上下に動かして磨くように教わった。それも保健の先生が朝礼台の上で両手じゃなきゃ持てないような巨大な歯ブラシを使い、音楽に合わせてパフォーマンスしていた。もっと昔だと蒸気機関車が走ると畑の作物が育たなくなるなど、こんなことを挙げていたらきりがない。
今風のかっこいい経営者や若者に支持されるオピニオンリーダー的な人が常識を覆せなどと言うが、何も無理して覆さなくても時が経てば勝手に覆されていく。もちろん覆された常識がいつまで常識という地位にとどまるのか知れたものじゃない。
とりあえず思い浮かぶ身のまわりのことでさえ変わっていくのだ。地球とか世界とかグローバルな視点で見たら、もっと目を見張る変化があっておかしくない。そんな気づかなさに気づかせてくれる考え方、ものの見方がファクトフルネスという発想である。
東南アジアやアフリカ、南アメリカが発展途上国で場所によっては未開民族が住んでいて、風土に根づいた不治の病が蔓延しているという印象を50年前以上に僕たちは植え付けられた(もちろん正確にそう教わったわけではなく、あくまで印象としてであるが)。事実=ファクト=客観的統計はそうではない。50年の間にかつての途上国は平均的な豊かさを獲得している。よほどの紛争や天変地異がない限り「健康で文化的な最低限度の」生活を送っている。
長年にわたってそんなことに気づきさえしなかったわれわれの方がよほど未開な民族だ。

2018年8月22日水曜日

坂崎仁紀『うまい!大衆そばの本』

高校野球では公立校を応援している。
公立出身だからといえばそれまでだが、甲子園に出場する都道府県立、市立の高校に肩入れする傾向がある。そういった点からすると今年は都立小山台が東東京大会で決勝進出し、甲子園の選手権大会でも秋田県立金足農が決勝に進んだ。両校とも最後の試合で涙をのんだわけであるが、よくやったと許してしまうのも公立ファンならではかも知れない。所詮は選び抜かれた野球エリートが集まる強豪私立にかなうわけがないのだという甘えがある。そういったゆるさは嫌いじゃない。
個人的に蕎麦屋を三種類にわけている。ひとつは「町蕎麦」と呼んでいる普通の蕎麦屋である。基本出前をしてくれる。その対極にあるのが「老舗蕎麦」であり、かんだやぶや室町砂場を筆頭に昔ながらの名店である。きちんと線引きできるかどうかは実は微妙なところで、たとえば神田のまつやは老舗でありながら、限りなく町蕎麦屋に近いと思っている。
もうひとつが「独立系」で主として老舗系で修業を積んで独立したり、脱サラして夢をかなえた蕎麦屋である。基本的に少しおしゃれで少し値の張る蕎麦屋であることが多い(僕があまり行かない蕎麦屋でもある)。
お昼からちゃんとつまんで、お酒を呑むなら迷わず老舗系を訪ねる。日常的に昼食ということであれば町蕎麦屋に入る。はじめて訪れた町で鄙びた蕎麦屋ののれんをくぐるときのわくわく感は何ものにもたとえようがない。
もうひとつの蕎麦屋を忘れていた。「立ち食い系」である。これまで立ち食いそばは町蕎麦屋の下に位置付けていたきらいがあった。だがここ半年以上、都内の立ち食いそばを食べ歩いてみて、立ち食いそばは町蕎麦の一ジャンルであると認識を改めた。
著者の坂崎仁紀の提唱する「大衆そば」はそれまでの僕の蕎麦に対する考え方に大きな変革をもたらしてくれたのである。
そして今日のお昼も迷うことなく、大衆そばだ。

2018年7月9日月曜日

打川和男『図解入門ビジネス最新ISO27001 2013の仕組みがよ~くわかる本 』

今年の夏の高校野球(選手権大会)は100回記念ということで出場校が多い。埼玉、千葉、神奈川、愛知、大阪、兵庫、福岡が2地区にわかれる。
東京でも予選がはじまった。野球部出身ではないが、ほぼ毎年母校の試合を観ている。これはちょっとした癖みたいなもので観ないとどうにも落ち着かない。東東京大会であるが、東京の東西を比較すると球場の数は圧倒的に西東京に多い。東東京で試合会場になるのは、神宮、神宮第二、大田、江戸川、駒沢だが、今年は駒沢球場、大田スタジアムが改修工事となっている。かわって府中市の明大球場が東東京大会一二回戦の会場として割り当てられている。三回戦以降は神宮、神宮第二、江戸川の三球場でまわすようだ。
先月仕事場のプライバシーマーク更新審査を終えて、少しだけ気持ちにゆとりができたのかも知れない、将来的にISMSの認証を取得できたらいいなと思った。そういうときは多少読むのがつらいとしてもこの手の本を読む。そしてたいてい後悔する。
この本も例外ではなかった。そもそも「よ~くわかる」なんていう工夫のかけらもないタイトルの本でよ~くわかるはずはないのである。この本はISMS認証の取得を考えている人に手ほどきしてくれる参考書ではなく、すでに認証を取得しているが2013年の規程の改訂にともなってどう今後対応したらいいかの、いわばチェックリストの域を出ない。プライバシーマーク認証取得のときもこうした書籍に目は通したけれど、これからどうしたらいいのか雲をつかむような読者を想定してわかりやすく次のアクションに導いてくれるものはほとんどない。第三者認証取得物語的な小説で想像力にはたらきかけてくれたらもっとたくさんの人を魅了するだろうにと思う。
明大球場で行われた初戦はみごとなコールド勝ちだった。
今年のチームは何年かぶりに春に都大会まで駒を進めているので、少しだけ期待している。もちろん少しだけである。

2018年6月30日土曜日

近藤勝重『13歳から身につける一生ものの文章術』

以前読んだ大野晋の『日本語の教室』(岩波新書)に、本を読ませて感想文を書かせたり、営業上必要な報告論文や商業用の手紙を書かせる研修をある企業で行ったところ業績が格段にアップしたというようなことが書かれていた。社員の知識不足や言語能力の欠乏には言語を中心とした訓練がふさわしいという。
世の中の問題は大概の場合、言葉の問題だ。そのためには読書と作文は欠かすことはできない。反論の余地はない。
でも僕は思うのだ、そうは言っても、と。
たしかに言語の力は何ものにも代えがたいけれど、人間には向き不向きがある。本を読めと言って読める人間とそうでない人間がいる。それも訓練だといえばそれまでだが。作文に関しても同様。絵が描ける人と描けない人がいるように文章が書ける人と書けない人がいる。どちらもまったくかけない人はいないだろうが、大人だってもらったメールに返信をするのが苦痛な人は多いはずだ。
僕はかろうじて本を読む習慣と人並み程度の作文が書ける能力にめぐまれた(ついでに言えばろくでもない絵だって描ける)。そのせいでこれまで本を読めなかったり、作文が書けない人のことを考えたことがなかった。どうしてこの人はものごとを知らないのだろう、口では立派なことをしゃべるのに拙い日本語しか書けないのだろう、そういう人に少なからず出会ってきた。本を読まなくたって、文章が書けなくたって、映画やドラマや演劇を人一倍観て、自身に刺激を与え続けている人もいるし、作文以外にも自分を表現する手段を持っている人もいる。たいせつなのは人それぞれが自分の生き方を持っていることであり、そのことをちゃんと認めてあげることだ。
ときどき日本語に関する本を読む。
13歳はとっくに過ぎてしまったけれど、作文の基礎を教わった。この本で作文が書けるようになっても書けない友だちの気持ちがちゃんとわかる子どもになってくれたらいいと思いながら。

2017年11月6日月曜日

吉田凞生編『中原中也詩集』

出かけるときはカメラを持ち歩く。
町歩きのメインのカメラはパナソニックのLUMIX GX-1というちょっと古いマイクロフォーサーズ。このボディにニコンの20mmやフォクトレンダーの17.5mmか25mmを付けて出かける。野球を観るときはカール・ツァイスの85mm。マイクロフォーサーズだと160mm(35mm換算)の望遠になる。
荷物を多くしたくない旅行や外出用にペンタックスQという小さなミラーレスカメラも持っている。小さいだけのカメラで飛び抜けて素晴らしい写真が撮れるわけではない(もちろん撮影者の技術にも問題があろう)。ペンタックスQシリーズはQ7とかQ10など新しい機種が次々に登場したが、マグネシウム合金でその筐体を仕上げた初代Qは格別に持ち味がいい。
ペンタックスQには標準ズームレンズを付けて出かけることが多い。他の選択肢が少ないからだ。Dマウントレンズという昔の8mmカメラで使われていたレンズをマウントアダプターを介して使うこともある。中古カメラのショップで5.5mmというオールドレンズを手に入れた。35mm換算にして30mm。イメージサークルの関係で四隅はケラれるけれどまずますのワイドレンズである。
読んだけれどブログに残さなかった本が幾冊もある。
読み終わって何年も経つとなんでこれを読んだのか、そのとき何を考えていたのかなど思い出せない。この詩集もそのひとつ。少しだけ思い出せるのはその頃の通勤途中、耳さびしくなり、何か聴きたいと思って、図書館で借りたCDを(もちろん個人で楽しむために)録音し、仕事の行き帰りにゆわーんゆわーんと聴いていたことだ。
言葉を耳で聴くというのはいいものだ。言葉が「ことば」になる。そのうちもの足りなくなって詩集を読むことにした。
どの詩を読んでも切ない気持ちになるのはどうしてだろう。
まるでオールドレンズで撮ったみたいな風景が眼前にひろがるのだ。

2017年7月26日水曜日

小霜和也『急いでデジタルクリエイティブの本当の話をします。』

1980年頃、すなわち僕が大学生だった当時、デジタルと名の付くものといえば時計くらいしかなかった。
今ではあらゆるものにデジタルという言葉が付く。カメラはデジタルカメラになった。デジタル家電なる製品も一般的なものとなった。有形物でなくてもデジタルマーケティングなる方法論も生まれた。
デジタルクリエイティブは少し違うような気がしている。それは方法論としてデジタル化された手法を意味するのではなく、デジタル化のすすんだ世の中でどういったコミュニケーションが有効かを模索する考え方なのではないかと思っている。
そもそもクリエイティブという仕事は課題解決のための方法のひとつで視聴覚=感性を刺激する高速で平易なコミュニケーションであり、そのためのアイデアの集積回路みたいなことかなとずっと思っていた。
方法論としてのデジタルクリエイティブの端緒はコンピュータ上であらゆるデザインや動画の加工・編集ができるようになったことではないだろうか。センスのある職人の手からセンスのある人の手にクリエイティブは譲渡された。手仕事のデジタル化だ。写植文字を切り刻んで素敵なボディコピーをレイアウトする仕事がなくなり、フイルムをひとコマずつ切ってつなぐ職人技が意味をなさなくなった。
あくまで方法論の話であるが。
デジタルクリエイティブとはデジタルな環境下でより効果的な広告表現ということか。それは(ある程度まで)計測可能で、PDCAがまわせるシステムであり、まさに「運用する」クリエイティブである。そのためには総合系エージェンシーとデジタル系エージェンシーとの融合が欠かせないという。
もちろん筆者の出自はデジタルでなく、クリエイティブだからクリエイティブ寄りの見解が多い。「デジタル系エージェンシーはこれまでクリエイターを育ててこなかった」と一刀両断されているもともとデジタル系の方はこの本にどういった反応を示すだろうか、興味深い。

2017年7月10日月曜日

中尾孝年『その企画、もっと面白くできますよ。』

ときどき思い出したように広告クリエイティブの本を読む。
お目にかかったことのある人、いっしょに仕事をしたことのある人より、最近ではほとんど面識のない方の書いた本が増えてきた。時代を引っ張ってきた先達が少しづつ世代交代をくりかえし、業界内での新陳代謝がすすんでいるせいだろう。
中尾孝年は電通入社当初、中部支社クリエーティブ局に配属されたという。21世紀になる少し前のことだ。僕は当時、中部支社のCM企画を年に何本か手伝っていた。エネルギー関連の仕事やコンビニエンスストアのキャンペーンなど。
新幹線で名古屋に行って、夜遅くまで打合せをして、ぎりぎり最終ののぞみ号で帰るか、クリエーティブ局の方々とお酒を飲んで一泊し、翌朝帰京した。いっしょにチームを組んでいるCMプランナーに同世代が多く、仕事が片付いても話は尽きなかった。
当時は(今もそうだけど)仕事をするうえであまり余裕がなく、自分のアイデアを絵コンテに描いて、さらにその案をプレゼンテーションの舞台にのせるだけで精いっぱいだった。誰かが考えたアイデアに自分のアイデアを盛り込んで、ブラッシュアップしたりもした。そうして一年に何本かテレビコマーシャルになってオンエアされた(名古屋地区だけ放映されてできあがりを視ていない仕事も多かった)。
自分なりに「面白い」広告を考えよう、つくろうと努力してきたつもりだけど、今になってみるとさほど面白くはなかった気がする。もっと面白くしようという熱意みたいなものがなかったような気もする。とりあえず面白そうなカタチになればそれでいい。そうしてお酒を飲みに出かけた。
著者の中尾孝年はおそらくその頃の新入社員だったのだろう。
おじさんたちがとっとと仕事を片付けて、栄の街に繰りだしていく頃、クリエーティブ局のフロアでひとり「面白い」企画を追求していたのだろう。そして当時彼を指導した上司にも勝るすぐれた上司になっているにちがいない。

2016年2月27日土曜日

杉浦日向子『合葬』


仕事で絵を描いている。
というとちょっとアーティスティックな印象を与えてしまうかもしれないが、そんなにたいそうなものを描いているわけではない。テレビコマーシャルとかWebムービーなど映像コンテンツの企画の仕事をしている。絵など描かずに文章だけでもじゅうぶん仕事はできるんだけど絵があるとイメージしやすく意図が伝わりやすい。絵を見せてもわからない人もいるが。
絵を描くのはその日の気分でサインペンやゲルインキのボールペンを使う。立派な画材を使うような絵は描けないのでもっぱら、安価な筆記具とコピー用紙を使う。最近は0.5ミリとか0.7ミリのシャープペンシルを使う。
シャープペンシルといえば昔からノックボタンの内側に消しゴムが付いていた。
いったい誰が考えついたんだろう。たしかにとっさの場合には便利な構造である。考えついた人の頭上に電球が煌々と輝いたにちがいない。
ところがそこに付いている消しゴムは今どきのよく消えるタイプ(プラスティックイレーサーというらしい)のものではない。昔ながらの、下手をすると紙を汚したり、破いたりしかねない消しゴムだ。正直言って実用性に乏しい。使うとすればどうしようもないときだ。
別の見方もある。華奢なシャープペンシル(昔はシャープペンシルといえば500~1,000円はしたであろう高価な文具だったが、今は100円くらいで買えるし、それ相応の身なりをしている)はノックボタンがはずれやすく、それによって中の芯がこぼれ落ちやすい。消しゴムはその落下防止のための中ブタなのではないか。
久しぶりに漫画を読んだ。昨年映画化された『合葬』だ。
先日、吉村昭の『彰義隊』を読んだが、同じ彰義隊の物語でありながら、こちらは事件の全体像より幕府側の若者にフォーカスしている。息絶えようとする江戸時代。はかないサムライの命がはかなく描かれていた。
杉浦日向子はシャープペンシルなんか使わないんだろうな。

2016年2月1日月曜日

ラズロ・ボック『ワーク・ルールズ!』

とあるCM制作会社の話。
その会社では作業があってお昼を食べに行けない社員のために蕎麦屋とか中華の店からほぼ毎日出前をとっていた。その際、社員の負担は少額の定額(たとえば一食300円とか)にして、給与から天引きしていた。また近くにおでん屋があった。夜は居酒屋みたいになるんだけど昼はランチがあり、そこでも会社名と名前を告げればお金を払わなくてよかった。同じように天引きされた。
食べるってだいじなことだ。
グーグルでは社内にマイクロキッチンと呼ばれる社員食堂やカフェテリアで無料の食事が提供されている。全世界で一日10万食におよぶという。
この制作会社の昼食は無料ではないけれど、外に出られない社員のことをよく考えていた制度だった。自由な発想とか工夫だとかはこうしたなんてこともないサポートから生まれたりする。
時間がない、昼飯どうしよう。今日ははやく帰って洗濯しなくちゃ、貯まっちゃってるからな。ずっと髪を切りたいと思っているんだけど休みがとれない、休日もやることがいっぱいで美容院に行けない。
実はこうした些細なことがイノベーションの障害になっている。グーグルのオフィスにはクリーニング屋がやってくる。移動美容室も訪れる。ちょっとした気がかりなことをちゃんと取りのぞくサービス、福利厚生がある。
この本はマイクロキッチンの本ではない。クリーニングサービスや移動美容室の話でもない。イノベーションを起こすためのクリエーティブなオフィスはどうあるべきか。その基本的な考え方から解き明かしている。グーグルの人事責任者が書いている。どんな人材をどうやって選んで採用するのかから語られる。
先のCM制作会社では経済環境、経営環境の変化から昼食補助制度はなくなってしまったようである。ああ、今日も昼飯抜きかなあ、コンビニで何か買って適当に済ませようかな、なんて思いが仕事にとってたいせつな発想を妨げてはいないだろうか。

2014年12月14日日曜日

並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』

池袋の東京芸術劇場でテトラクロマット第二回公演「花の下にて」(脚本坂下理子、演出福島敏明)という芝居を観に行った。
演劇にはほとんど関心なく生きてきた。東京芸術劇場で芝居を観るのもずいぶんと久しぶりである。以前ここで観たのは木内宏昌演出の芝居だったと記憶している。
この「花の下にて」は幕末の江戸を舞台に、魂のない木偶の人斬りが事件を引き起こす。芝居を観るのはほぼ素人なので、話の筋を追いかけるのが精一杯でどこがどうおもしろかったかなどという整理もできないまま終わってしまったのだが、いたってシンプルな舞台構成でテンポもよく、観ているものを飽きさせない。
幕末の、世の中の流れを大きく変えるうねりのようなものも随所に描かれている。時代の変化が人々の心に動揺を与えている。この芝居は古い時代を終わらせ、新たな世界を呼び起こす時代の区切りを描いていたのかもしれない。
あっという間の2時間だった。
「いつか心の森で迷ったら言葉の小石を目印にして…」でおなじみの並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』を読む。
並河進は模索している。あるいは迷走を続けている。広告はもっと社会にとって価値あるものになれるはずだ。そう信じて、広告の今に疑問を投げかけた。永井一史との対談を通じて、これからの広告会社がめざすべき方向性を見出す。

>企業を出発点にしたときの広告のありかた。
>NPO、個人、コミュニティを出発点としたときの広告のありかた。
>社会課題を出発点としたときの広告のありかた。

そして社会貢献と広告の融合という森をさらに奥深くさまよい歩く。森のなかで多くのクリエイターに出会い言葉を交わす。出口はまだ見つからない。しかし手ごたえはたしかに感じられる。

2014年11月5日水曜日

高崎卓馬『表現の技術―グッとくる映像にはルールがある』

今季の東京六大学野球リーグは残り2週をのこして、立教、明治、早稲田、慶応が勝ち点3で並ぶ混戦だった。
まず有利だったのが立教で、最終の明治戦に連勝すれば優勝だった。初戦、エース澤田圭の好投で王手をかけたが、ここから明治が持ち前のねばりを発揮。2戦目を引き分けると3、4戦を連勝し、立教30季ぶりの夢を打ち砕く。明治は勝ち点を4として、早慶戦の結果に望みをつなぐ。どちらかが連勝すれば優勝は早慶いずれか。1勝1敗になった時点で明治の優勝。
結果的には早稲田が先勝し、翌2戦目に優勝をかけたが、慶應の反撃にあえなく敗戦。この時点で明治の44回目の優勝が決まった。
早慶戦前の時点で打率トップ争いは早稲田の小野田、重信とつづく。第2戦終了時でふたりが同率で並んでどうなるかと思っていたら、規定打席に満たなかったやはり早稲田の茂木が4打数4安打と大当たり。一気に首位打者賞を獲得した。最優秀防御率賞は明治の上原。こちらも規定投球回数ぎりぎりでの受賞だった。
ベストナインは立教の澤田圭らが選ばれたが、混戦だったのは三塁手の横尾(慶應)でおそらく茂木と票を分けあったのではあるまいか。外野手の重信も法政の畔上と接戦だったのではと思う。畔上が選ばれていたら、甲子園優勝当時の日大三のレギュラー3人が選出されたことになる。あと1年あるので早稲田吉永、立教鈴木らと5人まとめて選ばれてほしいものだ。
昔から仕事がらみの本はたまにしか読まなかった。後輩が、読み終わったので読んでみませんかとすすめてくれた。
ひとりよがりの方法論や経験談を披歴するだけの本が多いなかでこの本は真剣に読む人の立場になってくれている。きびしさもあり、やさしさもあり、こういう一冊に出会えた広告クリエーティブ志望の若者たちはどれほど勇気づけられることだろう。30年前に読みたかったよ。
さて、11月。野球シーズンのしめくくり、明治神宮野球大会ももうすぐだ。

2012年12月31日月曜日

今年の3冊2012


昨年に比べて今年はそれなりに読んだと思うのだけれど、如何せん無精でこのブログに書き起こせていない本が数多ある。
それらは来年に繰り越しということでいつの日かひのめを見るときをお待ちいただきたい。
読書メーターには今年の20冊をまとめているが、ここはあくまでこのブログ上でのベスト3を揚げる。

佐々木俊尚『「当事者」の時代』
幸田文『おとうと』
川端幹人『タブーの正体』

佐々木俊尚は立ち行かなくなった現代マスコミの言論分析からマス、ネットを含めた広い意味でのメディア空間の先行きに光を当てている。幸田文は隅田川沿いを歩きながら、ふと読んでみたいと思い立った。『タブーの正体』はおそらくこれからの日本の報道の方向性が示唆されている一冊だと思われる。
2012年も暮れを迎えている。来年はもう少し読み、もう少し書き、ほんのわずかでもいいから何かを残していきたい。

2012年11月23日金曜日

北真也『クラウド「超」活用術』


大井町線のガード下はずいぶん趣きが変わった。
かつて飲食店や食料品の店が並んだ細い商店街が区画整理され、広い通りになっていた。ガード下にはスナックや居酒屋、定食屋の名残は残ってはいたが、向かい側の店はすっかり道路になってしまったのだ。まるでダムのなかに沈められた集落みたいだ。そしていまやガード下の店も住人も立ち退きを要求されているらしい。すでに解体がはじめられているところもあれば、窓際に抗議の横断幕を提げている家もある。店はどこもベニヤ板でふさがれていた。いまどんな事態になっているのかはここで語る立場ではないが、なつかしいこの町の風景がこれ以上なくなってしまうのは如何ともしがたい思いだ。
このガード下をさらに進むと下神明駅がある。かつて、なかにし礼が住んでいた品川区豊町という町がある。

 下神明の駅から大井町まで電車のガード下の細い道をぶらぶら歩いた。
 いつまでもつづく緩やかな登りの坂道だった。
 電車でひと駅の距離であったが歩くと十分かかる。(なかにし礼『兄弟』)

さてクラウド本も次々に出ているので、できれば新しいものを読みたいとは思うのだが、正直いってどれを読めばいいのかなかなか判断がつかない。Webで達人たちの記事を拾い読みするという方法もあるんだろうけど、一冊通して読むほうがわかりやすい。そういう野暮な期待にこの本はじゅうぶん応えてくれているんじゃないか。