2021年9月1日水曜日

長谷川和夫『よくわかる認知症の教科書』

人の名前が思い出せない。
こうしたことが最近頻繁に起こる。認知症かと疑うが、以前読んだ本に「思い出せない」のはただの老化であり、認知症というのは「おぼえられない」のだと書いてあった。その本の題名は思い出せない。
テレビドラマを視ていて俳優の名前が出てこないことがある。誰それと結婚した某だなど、少しでもヒントがあれば今は便利な世の中で検索すれば出てくる。だがしかし、検索に頼ってばかりいるとそのうち何もかもが思い出せなくなりそうで少し怖くなる。
先日も今読んでいる本の著者の名前が思い出せなくなった。苗字はわかる。浅田である。下の名前が思い出せない。作品は思い出せる『鉄道員(ぽっぽや)』『地下鉄(メトロ)に乗って』の著者である。とっさに浮かぶのは彰(あきら)である。どうしたわけか昔読んで難解さしか残らなかった『構造と力』の著者が思い浮かぶ。
アキラではないが、三文字名前であることには妙に確信が持てる。特にすることもなかったのでアイウエオ順に思いつくだけの三文字名前を思い浮かべることにした。アサト、アツオ、アツシ…、イ…、ウ(これは思い浮かばない)…、エイジ、エイタ…。そうこうするうちにサ行。サトシ、サトル、サキト…、シゲル、シゲオ、シゲキ…。ここでようやく思い出す。そうだジロウだと。番号カギをいじって自転車を盗むような作業だったが、ものの15分で思い出すことができた。
先日読んだ長谷川和夫の本。だいたいこの一冊で認知症に関する基礎知識は得られる。認知症とは何か、から診断のプロセス、薬物療法、非薬物療法といった治療方法(薬の種類やさまざまなリハビリテーションまで)、予防やケアの方法に至るまで懇切丁寧に解説されている。認知症は現時点で根治不可能な病ではあるけれど、つまり全貌は詳らかにされてはいないけれど、今わかっていることがわかりやすく解き明かされている。
まさによくわかる教科書である。

2021年8月27日金曜日

長谷川和夫『ボクはやっと認知症のことがわかった』

認知症の本ばかり読んでいる。
長谷川和夫という名前を知る。この本の著者である。認知症世界のレジェンドである。
杉並の高井戸に浴風会という戦前からある高齢者養護の施設がある。その敷地内に認知症介護研究・研修東京センターがあり、認知症介護の研究と介護の専門家の育成を行っている。長谷川は2005〜09年までセンター長だった(05年当時は高齢者痴呆介護研究・研修センターと呼ばれていた)。現在は名誉センター長であり、長谷川式認知症スケールと呼ばれる簡易的な知能検査を考案者としても知られている。
長年認知症の研究と臨床にたずさわってきた長谷川が認知症と診断される。この本は認知症当事者になった認知症研究者の貴重な記録だ。
多くの認知症当事者と向き合ってきた長谷川は自らが当事者になったことを悲観することなく、むしろ前向きに受け容れる。身をもって認知症を理解することができるというのである。専門家であり、当事者でもある。その強みを活かして、認知症理解の普及啓発に取り組む。
昨年とある認知症当事者の話を聞いたことを思い出した。鳥取に住むその女性は、看護師として医療現場で認知症当事者と多く接してきたという。診断された直後はこれからのことを考えて不安になったり、落胆したそうだが、そのうちに看護師の経験を活かせるかもしれないと思うようになり、認知症カフェなどで積極的に認知症本人の方々とコミュニケーションするようになったという。認知症になっても自分らしく、いきいきと過ごせるのだということを「楽しく認知症」というキーワードを駆使して伝えている。
地方都市に暮らす認知症世界の小さなレジェンドである。
長谷川和夫の息子で同じく精神科医の長谷川洋は新聞社の取材に認知症研究の現場から徐々に離れていった父は、自分が認知症になったことで認知症の研究に新たな視点を持つことができたと答えている。
レジェンドのレジェンドたる所以である。

2021年8月23日月曜日

瀧靖之『脳はあきらめない! 生涯健康脳で生きる 48の習慣』

近ごろの若いもんは、と長年言われ続けているうちにいつしか言う立場になっていた、ということがしばしばある。
映像制作会社の社長である知人が言う。最近の20~30代の社員は広告クリエイティブのことをあまりに知らなさすぎると。レジェンドと呼ばれるコピーライターやアートディレクター、名作とされる広告コピーやテレビコマーシャルに関する知識が皆無であると嘆く。仲畑貴志の話をするのに仲畑貴志とは何者であるかから説明しなければならないという。なかにはそんな知識必要ですかと逆ギレされることもあったらしい。これは映画製作が仕事であるのに、過去の名画や著名な監督をまったく知らないに等しいことで憂えるべき事態ではある。もちろん僕らの世代もその時代なりに不勉強であったことは否めないけれど。
そこで社長は月に何度か社員が集まる全社的な会議で最近の話題作(今広告関係の出版社などが話題のCMを雑誌やウェブで紹介している)を見せて、その制作にまつわるエピソードなどを紹介する勉強会をはじめた。
「演出は○○さん、皆さん知ってますか」
「………」
「この人は他にも□□や△△の仕事もしている有名な方です。おぼえておいてください」
みたいなやりとりをしているようだ。
知識はいずれ役に立つ、という考え方に僕らはずいぶん騙されてきた。そもそもが役に立つ知識なんてそう簡単にはおぼえられない、身につかない。20歳を過ぎた大人は役に立つ知識なんて信じていない。仲畑貴志の名前と仕事を知ったところで彼らの脳内にどれほどのドーパミンが放出されるだろう。若者たちにたいせつなことを知識として吸収してほしいと願う社長の気持ちもわからないではないが、肝心なのはどうやって彼らに好奇心を持たせるかではないか。
知的好奇心のレベルを上げていくことが脳への栄養素となり、ドーパミンが分泌されることによって、記憶力がアップする。そのようなことがこの本に書かれていた。

2021年8月21日土曜日

本田美和子、ロゼット・マレスコッティ、イヴ・ジネスト『ユマニチュード入門』

ラピュタ阿佐ヶ谷で長門裕之の特集が組まれている(長門裕之--Natural Born 銀幕俳優)。
長門裕之と聞くと僕たちの世代では、おしどり夫婦の気のいいおじさん的な印象が強いが、父沢村国太郎、祖父牧野省三、叔父加東大介、叔母沢村貞子、そして弟津川雅彦と演劇・映画一族の血を受け継いでいる。加東大介、沢村貞子が出演している映画は何本か観ているけれど、長門裕之の映画はあまり観ていない。「太陽の季節」「赤ちょうちん」くらいか。そんなわけでラピュタ阿佐ヶ谷まで出かけて、今村昌平監督「豚と軍艦」を観る。
終戦後、朝鮮戦争の時代の横須賀が舞台になっている。空気感としては澁谷實「やっさもっさ」の横須賀版といったところか。おもしろい映画だった。
先日読んだ上田諭『認知症そのままでいい』で「ユマニチュード」というフランスで開発された介護手法があることを知った。以前NHKテレビ「クローズアップ現代」で紹介されて話題になったという。この手法は各地で成果を上げており、「魔法のケア」などとも呼ばれている。
というわけでこの番組放映後に発刊されたこの本を読んでみた。
ユマニチュードという技法は、「人とは何か」「ケアする人とは何か」を問う哲学と、それにもとづく150以上の実践技術から成り立っている。これをつくり出したふたり、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティはもともと体育学の教師だったという。その後、医療と介護の現場にたずさわるようになる。病院や施設で寝たきりの人や障害のある人でも「人間は死ぬまで立って生きることができる」としてケアの改革に取り組んだ。
難解な本ではない。「見る技術」「触れる技術」「話す技術」「立たせる技術」など基本的なことが書かれている。むしろ拍子抜けするくらい常識的なことだ。
平易にやさしく介護者の背中を押してあげていることが、この技術のいちばんすぐれた点なのだと思う。

2021年8月18日水曜日

上田諭『認知症そのままでいい』

銀座の小さな広告会社に勤めていた当時の上司から手紙をもらった。正直言って突然の手紙におどろいた。何かあったのかとも思うが筆跡は本人のものである(彼とは賀状のやりとりを続けている)。
小さな広告会社といっても親会社は最大手で彼はそこから出向してきた。文面には貴君の仕事にとって貴重な資料を20数年にわたって預かったままになっている、返却したいが、手紙の表書きの住所でいいか、確認のために同封のはがきを返送してほしい、その際近況など記されたくと書かれていた。そのまま黙って送り返してくれればいいものをまわりくどい手続きを踏むのは往年の彼らしい。
昨年認知症啓発の仕事にたずさわったことは以前書いた。そのとき感じたのは制作の過程で多くの協力者と打合せを重ねるのだが、自分があまり認知症のことを理解できていないということである。そういうわけで題名に認知症と書かれている本を時間のあるとき目を通すようになった。
この本は認知症を特別視しないという一貫した考え方に基づいて書かれている。加齢とともにリスクが高まり、根治する手立ては今のところない。予防もできない。早期発見できたところで投薬治療によって進行を遅らせるだけである。もちろん薬物を投与するということは副反応のリスクも負う。
認知症の主症状は認知機能が低下することである。よく認知症になると元気がなくなるとか、暴力をふるうとか、何かを盗まれた、ここは私の家じゃないなどといった被害妄想におそわれるというけれども、これらは認知症の中核症状ではなく、周辺症状=BPSD(行動・心理症状)であるという。これらは案外本人の話に耳を傾けなかったり、本人を人として尊重しなかったりすることで見られる症状である。認知症と認知症本人に対する正しい理解と接し方がいかに重要かがわかる。
数日後元上司からテレビCMを多くつくっていた当時の僕の作品集が送られてきた。VHSのテープで。

2021年8月17日火曜日

永田久美子監修『認知症の人たちの小さくて大きなひと言 〜私の声が見えますか?〜』

毎年8月のお盆時期は南房総の父の実家に出向いていた。掃除をして、迎え火を焚いて、墓参りに行く。隣の集落に住む従兄弟の家を訪ね、線香を上げる。15日に送り火を焚いて、最後の墓参りに行く。
これがそれまでの「日常」だった。
新型コロナウイルス感染拡大にともない、昨年の夏はお盆の中日に日帰りにした。早朝の高速バスで隣集落で下りて、従兄弟の家を先にまわる。母方の墓を訪ね、午後、父の実家に着く。自分の家を皮切りに親戚の墓所をまわる。夕方の高速バスで帰京する。あわただしい一日だった。
感染拡大は止まらない。7月から8月にかけて千葉県でも陽性者が増えている。地元紙のホームページを見ると館山市や南房総市も多くいる。地元に住む叔母と従妹に相談する。おそらくひとりで来て、誰にも会わずに墓参りして帰るだけなら行けないこともなかったかもしれない。それでもお盆時期に混雑する駅や渋滞する高速バスはリスクが高い。
昨年認知症の普及啓発動画を制作した。全国から取材できそうな人を選んで(これには認知症の人と家族の会日本認知症本人ワーキンググループのスタッフ方々の協力をいただいた)、インタビューする。認知症だから何もわからないなんてことはない。デイサービスに通いながら、リーダーシップを発揮する元企業の総務部長がいた。認知症の看護を担当して元看護師は認知症と診断された自分の経験を率先して話してくれる。認知症当事者の声は貴重だ。
この本にはそうした当事者や家族、医療や介護にあたる支援者のさりげないひとことが集められている。誰が書いたというわけでもない。認知症介護研究・研修センターの永田久美子が監修している。あとがきに当事者ひとりひとりが放つ希望のキラーパスを、心を開いて、耳を澄ませて受けとめなければいけないというようなことを書いている。深く心にしみる。
お彼岸には墓参りに行きたいと思っている。日常は戻ってくるのだろうか。

2021年7月27日火曜日

斎藤三希子『パーパス・ブランディング 「何をやるか?」ではなく「なぜやるか?」から考える』

オリンピックの卓球で金メダルの可能性があるとすれば、混合ダブルスではないかと思っていた。
可能性があるといっても中国ペアの壁は厚くて高い。決勝はこてんぱんにやられるのではないか、0-4でしかもトータルで20得点も取れないのではないか、30分で試合が終わるのではないか、そんな思いで視ていた。
第一ゲーム、第二ゲーム。伊藤美誠が完璧に分析されている。中国選手になんどか勝ったことのある選手は徹底的にマークされる。似たタイプの選手をさがしてきて、いいところわるいところを洗い出し、弱いところを攻める。水谷が序盤つなぐことに徹していたこともあり、とりわけ伊藤を完璧に理解しているリウシーウェンが水谷から返される簡単なボールをとらえ、伊藤の弱点を徹底的に狙いうちした。
第三ゲームから流れが変わる。水谷が修正する。ナックルドライブ(水谷は回転をかけるフォームで回転をかけないボールを得意としている)で中国ペアをゆさぶる。フォアハンドにこだわり、台からはなれて強打をくりだすシュシンの裏をかく。強豪中国に一矢報いる方法論が見つかる。気持ちが前を向く。
これで常勝中国が浮足立てば、ミスも出てくる。案の定、スピード・パワー・回転に勝るシュシンもリウシーウェンも本来の卓球ができなくなっていく。
電通の佐々木康晴がここ数年、表現アイデアやクラフトではなくパーパスの戦いになっていると先月のカンヌライオンズ*のアワードの結果を受けて語っているように、広告クリエイティブの世界はパーパス=企業の存在理由の時代になりつつある。なにをやるか、どうやるかではなく、なぜやるのか?本音と建前が共存する日本でどこまで浸透するかわからないが、とても腑に落ちる考え方だと思う。
それはともかく、2006年の全日本優勝以来10年以上にわたって日本の卓球を支えてきた水谷隼に金メダル。卓球の神様もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

*カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル
One Show、Clio Awardsとならぶ世界三大広告賞のひとつ。毎年6月フランスのカンヌで開催される。

2021年7月26日月曜日

筧裕介『ソーシャルデザイン実践ガイド 地域の課題を解決する7つのステップ』

人なみに東京オリンピックの開会式を視た。
開会式といえば、選手入場、開会宣言、最終聖火リレーから点火。これだけあればいい。ずいぶん前からオリンピックの開会式、閉会式は余興に熱心である。企画する人、パフォーマンスを見せる人はたいへんだろうが、視ていてそれほど感情移入できない。
聖火の最終リレーで長嶋茂雄が王貞治、松井秀喜とともに登場した。松井が長嶋をしっかり支えていた。長嶋のまなざしに、彼のスポーツに対する、とりわけオリンピックに対するひたむきな思いが映っていた。今回の開会式でいちばん印象深いシーンだった。
ここから先は勝手な想像である。
その日、長嶋茂雄は長男一茂の運転するクルマで国立競技場入りした。車いすに移乗させ、控室まで連れて行ったのは一茂。先に競技場に入った王と松井が待っていた。
一茂は松井の前で父を抱き起こして直立させる。腰に手をあてがい、歩行の際の注意点を教える。こんどは松井が長嶋を抱え立たせる。一歩二歩と松井に支えられた長嶋は歩いてみせる。
以前『ケアするまちのデザイン』というソーシャルデザインの本を読んだ。
この本はその続編というわけではないけれど、世の中にある社会的課題の解決に人びとを導いてくれる。本の帯にコミュニティデザイナー山崎亮の「こんなにわかりやすい本が出るなんて、これからソーシャルデザインに取り組む人は幸せだなあ。」という推薦文が載せられている。この本を手にとったきっかけでもある。
常日頃ソーシャルデザインの仕事にたずさわっているわけではないが、それに近いことを手伝っている。自分がやっていることが森の中に道をつくる一助になってくれているとうれしい。
聖火リレーは無事終わる。一茂は王と松井に謝意を示し、ふたたび車いすに移乗させる。そしてそのまま報道関係者の目にふれられることなく、国立競技場を後にした。
そんな舞台裏があったのではないかと勝手に思っている。

2021年7月19日月曜日

佐野洋子『そうはいかない』

大相撲名古屋場所。
成績如何では引退を余儀なくされる崖っぷち横綱白鵬、そして3連覇と横綱昇進をかける大関照ノ富士が全勝で千秋楽を迎えた。歴史をひもとくと千秋楽の全勝対決は過去に5回しかないという。直近では2012年の同じく名古屋場所の横綱白鵬と大関日馬富士。このときは日馬富士が勝って全勝優勝した。
14日間の土俵で安定した強さを見せていた照ノ富士が白鵬を圧倒するのではないか、そう思ったのは僕だけではないだろう。今場所の白鵬は横綱という看板だけで相撲をとっていた。威圧的、威嚇的な相撲で内容的には今ひとつだった。結果的には白鵬が勝ち名乗りを受け、全勝優勝を果たしたわけだが、千秋楽の相撲はことさら杜撰だったと言わざるを得ない。肘打ち、張り手、関節技のような強引な小手投げ。勝負にだけこだわった品格のない相撲内容。しかも雄叫びとガッツポーズのはしたないおまけ付き。場所後横綱に昇進するであろう照ノ富士に、横綱という地位は勝つためなら手段を選ばないのだというメッセージだったのか、こんな品位に欠ける相撲をとってはいけないのだというメッセージだったのか。
いずれにしても白鵬の心技体が劣化していることが証明された名古屋場所だった。45回目の優勝。おそらくこれが白鵬最後の優勝になるのではあるまいか。
佐野洋子はこれで何冊目になるだろう。
この本はエッセーのようなフィクションのような不思議な空気をまとっている。おもしろいかおもしろくないかと訊かれれば、間違いなくおもしろい。どこがおもしろいかというのは難しいのだが、吸った息をそのまま吐きだすように綴られた一つひとつの文章がおもしろいのだ。著者の思っていることが嘘いつわりなく書かれているように思えて、読んでいてなぜかうれしくなったりするのである。自然体であるとか力みがないとか、そういう文章技術以前に人間まる出しな感じがなんともいえずいいと思う。

2021年7月18日日曜日

原研哉『デザインのデザイン』

長いこと広告制作の仕事にたずさわっていながら、グラフィックデザインに関しては不勉強なままである。
広告コミュニケーションは人を動かすことがたいせつでその際いちばん重要なのはメッセージなのだとずっと考えてきた。デザインはそのなかの一パート=ビジュアルに過ぎない。そんな誤った歴史認識を持ち続けていた。誤った歴史認識というのは大げさな言い方ではあるが、そもそも広告の原点はデザイン=ノンバーバルなコミュニケーションだった。どのようにして伝わる広告をつくるかといった視点で広告をつくっていたのはグラフィックデザイナーであり、アートディレクターだった。アートディレクターという概念を日本に導入したのは新井静一郎と言われているが、くわしいことは忘れた。たしかに古い広告を見ると制作者は杉浦非水、山名文夫などグラフィックデザイナーである。
コピーライターが存在感を増してくるのは昭和でいえば30年なかばか。花王の上野壮夫、森永製菓の村瀬尚、資生堂の土屋耕一、電通の近藤朔らが東京コピーライターズクラブの前身であるコピー十日会を発足させたあたりである。この頃から広告制作の作家としてのコピーライターが意識されはじめた。
グラフィックデザインの世界では戦後間もない昭和26(1951)年に日本宣伝美術会(日宣美)が設立される。日宣美の作品公募は若いデザイナーたちの登竜門としてすぐれた人材発掘の場となった(残念ながら、20年にも満たないうちに公募は中止され、日宣美も解散してしまったが)。
著者原研哉は1958年生まれ。日宣美の時代のデザイナーではないが、若い頃から多くの巨匠と呼ばれるグラフィックデザイナーたちと同時代を生きてきたことが文章から感じられる。日本のグラフィックデザインの流れのなかにあって、きちんと歴史を見つめてきたグラフィックデザイナーのひとりであることがうかがえる。たいへん勉強になった。

2021年7月6日火曜日

ねじめ正一『落合博満論』

左足を三塁方向に踏み出して、身体は投手とやや正対するような構えで投球を待ち、やわらかく、それでいて鋭くバットを振り抜く。その打ち方は評論家がしばしば言う「身体が開く」打ち方であまり効率的な打法ではない。それでも落合が右に左にセンターにヒットやホームランを量産できたのは右足に体重を残して、スイングの軸にしていたからではないか。身体を開くことで内角も外角もふところを深くして待つことができる。基本はセンター方向に打ち返す。結果、内角に来たボールはレフト方向に、外角のボールはライト方向に素直に打ち返される。
落合博満のバッティングを僕はこのように見ていた。もちろん僕は本格的に野球をやったことはない。あくまでひとりの野球ファンとしての見解である。
小学校の頃、クラスの男子の大半は巨人ファン。なかでも圧倒的な人気を誇ったのが長嶋茂雄である。三塁手で四番打者で背番号3を希望する者が多かった。長嶋のバッティングフォームや守備をまねる者も多かった。1960年代の終わり頃から70年代にかけて、長嶋茂雄は打点王を続け、存在感はあったものの、打率、本塁打では翳りが見えはじめていた。それでも71年に最後の首位打者になったときは、やっぱり長嶋だと熱狂したのをおぼえている。
落合博満も長嶋ファンだったという。60年代の長嶋全盛期を目にしてきたに違いない。華やかな球歴を持ち、常勝チームの一員としてスター街道を歩んできた長嶋と当時の野球文化(あるいは野球部文化といってもいいかもしれない)になじめなかった落合とではその出自は異なるが、野球というスポーツの本質、チームとして勝敗を決する競技であることを十分すぎるほど知っていた。そのことは監督としての落合を見るとよくわかる。長嶋を日本一にした落合は、自らも日本一のチームを率いたいと思ったのだろう。
それにしても落合のバッティングフォームは長嶋のそれによく似ていた。

2021年6月30日水曜日

青木美希『いないことにされる私たち 福島第一原発事故10年目の「言ってはいけない真実」』

行政の仕事はサービスであるといわれているが、あまり効率のいい仕事ではないような気がしている。住民票1枚請求するだけでも、本人が不自由な暮らしをしているとすると代理人が委任状をもっていかなくてはならない。委任状すら書けない人も多いはず。それでも委任状を本人に書いてもらってくださいと窓口は言う。不正をするかもしれないと住民を疑っているのだろう。ここで少し暴れると事情を察してくれる(すごすごと引き返す人は委任状を捏造して、後日窓口にやってくる)。それでいて利用目的があいまいな住民基本台帳の大量閲覧は後を絶たない。
国と自治体との連携もあいまいな部分が多い。新型コロナのワクチンが供給できるという連絡を受け、自治体で予約を行う。ふたを開けるとじゅうぶんなワクチンが確保できていなかったという事例もあるという。何をやっているのか、日本の行政は。
福島の原発事故から避難を余儀なくされた人が、自主的な否かを別にして大勢いるという。県外に避難して、住宅供給の援助を受ける。やがて援助が打ち切られる。彼らはこの時点で避難者としてカウントされなくなる。どう考えても理不尽である。
かつての避難区域も避難指示が解除され、帰還困難区域を残すのみとなっている。多くの避難者が避難区域に戻ってきたかといえば、けっしてそうではない。医療体制の復興が追いついていないというのが現状で懸念をもつ避難者が多いのだという。避難による人口流出で税収も減っているはずだ。医療復興は遠い道のりなのかもしれない。
東京電力が被害者に支払った損害賠償は10兆円を超えている。それも避難指示区域(福島第一原発から30Km圏内)の被災者に限られることで、みにくいやっかみも生まれる。原発の廃炉まで40年かかると言われている。福島の完全な復興まではもっとかかるのではないだろうか。
それにしても長男に自死されたおとうさんは気の毒でならない。

2021年6月29日火曜日

岡本欣也『ステートメント宣言。』

コピーライター岩崎俊一が旅立って、もうすぐ7年になろうとしている。
前に書いたかもしれないが、すぐれた広告表現というものは発明ではなく、発見であると岩崎俊一は言っていた。何度か事務所で打合せをしたことがあるが、氏はひたすら資料を読み、広告会社の営業担当者の話に耳を傾けた。若いCMプランナーが考えたアイデアを吟味した。今回与えられた課題にみんなどう対応しているのかを。その間、鉛筆を手にとることはなかった。とにかく人の話を傾聴していた。
岩崎事務所の打合せスペースの端にデスクが置いてあり、そこには氏の弟子とおぼしき若い男がいつも座っていた。打合せに参加するでもなく、ひたすら何かを書くでもなく、じっと机に向かっていた。彼の書いたものを見たこともなければ、声すら聞いたことがなかった。書生のようでもあった。20年以上昔のことである。
それから何年かして、書生は独立した。日本たばこ産業(JT)のマナー広告「あなたが気づけばマナーは変わる。」が話題を呼ぶ。コピーライターは岩崎事務所の書生、岡本欣也だった。
この本は広告コピーの指南書という体裁をとりながら、著者の岩崎事務所時代が描かれている。彼は岩崎俊一から指導を受けた経験がほとんどないという。長いこと、打合せルームの隅に置かれた机に座り、岩崎俊一の声にじっと耳を傾けていたのだろう。毎日、毎日、岩崎氏のことばが彼の体内にうっすら積もってゆき、分厚い地層をつくった。その地層の下に蓄えられたエネルギーが自然発生的に噴出した。いつしか岩崎俊一同様、言葉を発見する術をおぼえたのだ。まさに「門前の小僧習わぬ経を読む」の世界である。
それにしても岡本欣也の岩崎俊一にそそぐまなざしがいい。もちろん僕はさほど岩崎大先生のことは知らないけれど、非常に難解な人であったことは容易に想像がつく。なにものにも代えがたい経験を積ませてもらった氏への感謝の気持ちにあふれている。

2021年6月28日月曜日

佐野洋子『問題があります』

4月に訪ねた世田谷文学館にもういちど。
安西水丸展に東京ガスの新聞広告が展示されている。1984年頃の制作ではないかと思う。新聞10段のスペースに大きく安西水丸のイラストレーションが描かれている。この新聞広告は準朝日広告賞や毎日広告デザイン賞に入賞している。若い人たちはわからないが、記憶に残っている60代以上の方は多いのではないか。
古い新聞広告を展示会場で見ることはある。たいていは紙焼きされたものかコピーであることが多いのに、この原稿は新聞の切り抜きだ。紙は茶に変色している。うっすら裏面も透けて見える。想像するに誰かが保管していたものに違いない。大きな広告賞をもらった安西水丸が自ら掲載紙を切り抜いて、だいじにファイルしていたのではないか。そんな姿を思い浮かべたりする。
以前、逝去直後に銀座で開催された安西水丸展に南房総千倉町で少年時代を過ごした彼のノートや絵が展示されていた。大学時代の卒業制作、そして電通クリエーティブ局時代にたずさわった雑誌広告も(今回ももちろん展示されている)。きっと本人がだいじにとっておいた愛おしい作品の数々に違いない。
東京ガス新聞広告のアートディレクターを僕は昔から知っている。昔から知っているが、SNSで友だちになったのはつい最近のことだ。もちろん向こうはおぼえていない。30何年も昔のことだから。4月に展示を見たあと、アートディレクター氏に連絡をとると僕もぜひ見にいきたい、付き合ってくれないかと誘われた。それでも二度目の訪館となったのである。アートディレクター氏は「都市ガスってフェミニストね」というキャッチコピーを書いたコピーライター氏にも声をかけた。当時のクリエーティブスタッフと展示を見てまわり、館内のコーヒーショップで長いこと歓談した。
素敵な土曜日だった。
『役に立たない日々』『私はそうは思わない』い続いて三冊目の佐野洋子。天真爛漫なエッセーである。

2021年5月31日月曜日

井伏鱒二『荻窪風土記』(再読)

荻窪駅にはじめて来たのは中学3年生のときだった。北口を出ると迷い込んだら二度と戻って来れないような古い市場があった。
3年後、大学に通うようになって浮間清志と知り合う。浮間は荻窪駅にほど近いアパートに住んでいた。学校の帰りに立ち寄り、なんども泊まったりもした。時間はありあまるほどあった。駅前の市場は大きな商業ビルになっていた。
井伏鱒二が「新潮」に「豊多摩郡井荻村」と題する随筆を連載していたのが昭和56(1981)~7(1982)年(この年、『荻窪風土記』というタイトルで単行本として刊行される)。もしかするとどこかで著者とすれ違っていたかもしれない。
井伏は昭和2年に荻窪に引っ越してきた。1993年、95歳で没するまで60年以上にわたって荻窪で生きてきた。昭和のはじめ、見わたす限り田畑や雑木林が広がる武蔵野の地は急激な変貌を遂げることになる。このあたりが農地だったことは地図を見たり、歩いてみたりするとわかる。まっすぐな道が少なく、枝分かれする道が多い。きちんと直角に交わる交差点に行きつくと、これは区画整理されてできた新しい道ではないかと思う。
文学青年窶(やつ)れの仲間らと井伏鱒二は阿佐谷の中華料理店ピノチオに集まったという。「シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭」と記述されている。ピノチオは、阿佐ヶ谷駅北口の中杉通り沿いにあったと思われるが、井伏の住まいから歩くにはいく通りものルートが考えられる。どの道も近道そうでいてそうでなかったりする。おそらくは桃園川沿いを歩いて行ったのではないかと想像するが、実際のところはわからない。
浮間のアパートのすぐ裏手に春木家という蕎麦屋がある。今でもときどき足を運ぶが、蕎麦と同様、中華そばがうまくて人気だ。近所でありあまる時間を過ごしながら、浮間と春木家で食事したことはなかったなと行くたびに思い出す。ありあまる時間ほど、お金は持っていなかったのである。

2021年5月22日土曜日

伊藤公一『なんだ、けっきょく最後は言葉じゃないか。』

戸越銀座商店街で吉岡以介にまたしてもばったり出くわした。
脳疾患で倒れた母親を郊外の施設に入所させたが、区の施設に空きがあって入所できることになり、その手続きのために戸越銀座に来たという。たいへんだなというと、特養(特別養護老人ホーム)の人たちはみんな親切で、仕事に誇りを持っている。母親も保護者も等しく大切にしてくれる。問題があるとすれば面倒な手続きを強いる行政だという。なにそれ、と訊ねると、実家のある区の施設に入るにあたり、転居届を出すといいと施設に言われて窓口に行ったのだが、本人ではないから委任状が必要だという。委任状が書けるくらいなら窓口まで連れてきますよ、書かせて書けないことはないだろうが何年かかるかわかりません、あなたたちの仕事は行政サービスをすることなんじゃないですか。区民の状況を理解してあげるスタンスはないんですか。
吉岡は窓口で食い下がったという。
向こうも折れて、備考欄に委任状が書けない旨をくわしく書いてくれという。吉岡は、母親の病気に至る経緯や現在の様子など書き連ねたという。で、その書類を渡すと代理人の本人確認が必要だという、免許証を見せる。するとさらに親子関係がわかる書類、たとえば戸籍謄本が必要だという。
吉岡はいつも持ち歩いている母親の医療介護関係の保険証やら銀行の通帳、印鑑を見せたらしい。母の名前のこれだけの書類を持ち歩いていても親子だとわからないんですかと訊く。
戸籍謄本が必要です。それが区役所の答だった。
コピーライティングの指南書は多い。
広告コミュニケーションのしくみを学ぶのであれば、小霜和也谷山雅計の本が役に立つと思う。この本は少し違う。著者の広告コピーに対する考え方、姿勢、哲学が語られている。コピーを書く人のための本ではなく、コピーとどう向き合っていくかを考えさせる高度な内容だ。
ある意味、理論的というより、感覚的な本に思えるのはそのせいかもしれない。

2021年5月14日金曜日

安西カオリ『ブルーインク・ストーリー:父・安西水丸のこと』

実家の近くに大元という中華料理屋(いわゆる町中華である)があって、仕事で遅くなったときなど夜中に訪ねたものだ。
大元のおやじは(今はおそらくご子息が店を切り盛りしていると思う)大の中日ファンで店の壁という壁には東京中日スポーツの記事や中日ドラゴンズの選手の写真やサイン色紙が貼ってあった。実家の隣のツネオさんが太洋(現DeNA)ファン、向いのキヨンドさんが東映(現日本ハム)ファンだったけれど、僕の住んでいた町では巨人以外のファンはまったく奇異な存在だったのだ。
ある晩、野菜炒めをつまみながらコップ酒をすすっていた。少し酔った僕は、僕の叔父も中日ファンなんですよと口ばしってしまった。おやじさんは目を丸くして、「そうなの?叔父さんって、奥さん(僕の母のことを言っている)の弟さん?ああ、そうなんだ」とたいそうよろこんで、一升瓶の栓を開けてもう一杯飲めとすすめる。今年は今ひとつなんだよね、とか新人の誰それがいいとか、監督はいいけどなんとかというコーチがよくないなどと一方的にまくしたてた。
で、おにいさんも中日?と訊ねられて、僕はつい「僕は巨人なんですけど」と答えてしまった。おやじさんの話はここで終わり、おあいそのとき、お酒二杯分がしっかり計上されていた。
安西カオリは2年前に『さざ波の記憶』を上梓している。父・安西水丸のイラストレーションをあしらった画文集である。増刷されなかったのか、今入手するのは困難な本になっている。この本は前作に数編の書き下ろしを加えたもので、特に目新しさは感じないけれど、ニューヨーク時代のこと、カレーライスのこと、中日ドラゴンズのこと、北海道のことなどが新たに語られている。筆者が思う安西水丸が一般のファンの人たちが思い描く安西水丸に少し近づいた印象である。
安西水丸が描いた星野仙一胴上げのイラストレーションが東京中日スポーツに載ったことを思い出した。
1999年だった。

2021年4月30日金曜日

岩下智『「面白い!」のつくり方』

先日購入したラジオはなかなか優秀で海外からの電波もしっかりキャッチしてくれる。
ラジオの優秀さについてはくわしく知らない。通信型受信機だと何マイクロボルト以下などと仕様書に記載されているが、このラジオには数値表示はない。聴きたいと思った放送が聴きたい時間に聴くことができればそれでじゅうぶん優秀なのである。
よく聴くのは台湾国際放送。平日の夜20時から一時間、日本向けの放送がある。もちろん日本語である。このプログラムは翌日の夕17時から周波数を変えて再放送される。アジア諸国の日本向け放送はこのほか、中国国際放送、KBSワールドラジオ(韓国)、ベトナムの声放送、朝鮮の声放送(北朝鮮)、モンゴルの声放送などがある。時間帯が合わなかったりもするので聴いていない放送も多い。
以前に使っていた小型ラジオも短波帯を聴くことができたが、ロッドアンテナをいっぱいに伸ばしても、ちょっと物足りなかった記憶がある。外部アンテナ端子がなかったのでロッドアンテナにビニール線を巻きつけたりなどしたものだ。
台湾国際放送ではニュースや音楽番組などを聴く。新型コロナウイルスの新規感染者が一日にひとりであるとかふたりいたなどと報道されている。みごとに封じ込めた国なのだと思う。音楽番組では日本のヒット曲のカバーがときどき紹介される。中国語で聴く日本の流行歌。味わい深い。
コピーライターの書く広告本をたまに読む。この本の著者はアートディレクターである。若い頃、不勉強だった僕はアートディレクターはビジュアルのことだけを考える人だと思っていた。そもそもクリエイティブディレクターよりアートディレクターの方が歴史がある。
アートディレクターもコピーライターもコミュニケーションのアイデアを生み出すことにおいては同じように悩んでいる。とりわけ著者は「面白さ」というものときちんと向き合っている。真摯な姿勢と粘り強い考察に好感が持てる。

2021年4月29日木曜日

ホイチョイ・プロダクションズ『電通マン36人に教わった36通りの「鬼」気くばり』

中学生の頃、アマチュア無線をはじめた。
当時、ラジオで海外からの日本語放送を聴くようになり、「ラジオの製作」「初歩のラジオ」といった雑誌を読むようになり、その流れでアマチュア無線に興味を持った。流れとしてはそんなところか。
今から50年近く昔、アマチュア無線人口は多かった。50MHz帯という入門者の多いバンド(周波数帯)で電波を出し、交信した。近所には同好の士も多くいた。最近のアマチュア無線については何も知らないので少し聴いてみることにした。アマチュアバンドを聴くことができる受信機を持っていたのだ。たぶん撮影現場でワイヤレスマイクの音を拾えるように買ったものだと思う。
430MHz帯は現在ではもっともポピュラーなバンドで休日はもちろん、平日も電波を出している人が多い。無線機も手頃で、アンテナも小さくてすむということで入門者にうってつけなのだろう。かつての50MHz帯がそうであったように。
電離層の反射で遠くまで電波が届く短波滞と違って、VHF帯、UHF帯は直線的に電波が飛ぶ。見通しのいい高台や高層ビルの上階に行くとおどろくほど遠くの無線局の声が聴こえる。ハンディ機と呼ばれる小型のトランシーバーを持って、山岳移動する人も多いという。
広告制作の世界に限らないが、仕事を受注し、それを継続するための努力は欠かせない。ときに過剰対応や忖度も辞さない思いで営業活動を行っている下請制作会社も多いという。そうした企業の人材育成に必要なのは、広告の知識でもトレンドでもなく、筆者らの掲げる「戦略的おべっか」なのかもしれない。
もちろん本気でそんなことは思っていない。
先日古い荷物を整理していたら、アマチュア無線を趣味としていた頃のQSLカードが出てきた。QSLというのは相手局と交換する、交信したことの証となるカードのことだ。見ると海外のアマチュア無線局と交信していたようだ。ほとんど記憶はないのだが。

2021年4月26日月曜日

佐野洋子『私はそうは思わない』

去年の緊急事態宣言で、会社としては4月からテレワークになったが、その前の2月末くらいから自宅で仕事をするようにしている。
動画の構成を書いたり、絵コンテを描いたりするのが主な仕事なので(他にもつまらない仕事があるのだが)通勤する必要はほとんどない。どうしても対面で打合せをしなければならないときと撮影やナレーション収録に立ち会うときは現場に出向く。もう年齢も年齢だし、仕事も以前ほど多くない。のんびり家で考えたり、書いたりするのがちょうどいい。
三度目の緊急事態宣言が発令されて、行政はリモートワークを推進するよう呼びかけている。いわゆる「お願い」だ。お願いして、みんなが言うことを聞いて、この感染症が収束するならそんなにめでたいことはない。もう少し効果的なといおうか、抜本的な解決への糸口はないのだろうか。
リモートワークであるが、導入できる業種とできない業種があることはたしかだ。どうしてもその場にいて、対面で話をし、ハンコを押してもらわなければならない仕事ってきっとある。感染症がひろがるからリモートで仕事してね、はいわかりました、と簡単にはたらき方をシフトできる仕事なんてそう多くない。それでもどうすればリモートで効率よく仕事のできる環境が整えられるかというのは今の経営者に課された課題である。今世の中にどんなツールがあって、どう活かせば、はたらき方を変えられるのか。そんな情報が山のようにある。コロナで経済は停滞しているかもしれないが、世の中は進歩している。
いちばんやっかいなのは、在宅では人ははたらかないという先入観だ。昭和・平成型の経営者に多いと思う。出社していれば仕事をしていることになり、テレワークしているやつらは何をしてるかわかったもんじゃないと思っている人たち。得てしてICTに弱い。
まあ、あまりとやかく言っていると佐野洋子の読み過ぎだと叱られるかもしれないからこの辺でやめておく。

2021年4月24日土曜日

安西水丸『ビックリ漫画館』

1月に続いて、世田谷文学館。本日4月24日から、企画展「イラストレーター安西水丸展」がはじまる。明日(25日)から三度目の緊急事態宣言が発出される。大型連休中は休館になるのではないかと思っていたが、案の定、芦花公園駅駅前の案内板に4月25日から5月11日まで臨時休館という貼り紙があった。
展示はシルクスクリーンや印刷物以外に原画や直筆の原稿など盛りだくさんでひさしぶりに安西水丸を堪能した。生前彼を支えた嵐山光三郎、村上春樹、和田誠とのかかわりなどもくわしく語られていたように思う。なかでも嵐山光三郎との交友による影響は大きく、彼なくして安西水丸は生まれなかったと言ってもいい。
1980年代の中頃だったか、銀座のギャラリーで嵐山光三郎と安西水丸は二人展を開催した。ふたりともすでに平凡社を退社して、それぞれの道にすすんでいた。嵐山は文筆家であるが、原稿用紙に万年筆で描いた落書きのような絵を展示していた(なぜだかそのオープニングパーティーに僕はいた)。
展示室に戻ろう。いつ撮ったのか、若い頃の制作風景も動画で残っていた。カラートーンをカッターで切りとる、その指先が若い。何度も何度もくりかえし見ていたくなる。アトリエの写真をつないだ動画もあった。鎌倉のアトリエの、このソファの上に倒れていたのかな、などと思う。これまで見てきた個展では知り得なかった安西水丸の生涯に触れることができる展示だった。
1977年ブロンズ社から上梓されたこの本は『ガロ』や『ビックリハウス』などに掲載された初期の作品集。平凡社のエディトリアルデザイナーだったこの頃から漫画の連載をこなしていた。おそらくは嵐山光三郎の人脈によるところが大きかったのではないかと思う。
それともうひとり、安西水丸に多大な影響を与えたのは、彼が少年時代に愛読していた漫画雑誌冒険王に連載されていた福井英一の「イガグリくん」であったことはまちがいない。

2021年4月21日水曜日

森山至貴『10代から知っておきたい あなたを閉じ込める「ずるい言葉」』

ラジオを買った。
昔だったらトランジスタラジオなどと言ったのだろうが、今はラジオである。真空管式から半導体へ、当時としては画期的なイノベーションがあったに違いない。ラジオは持ち運びができるようになり、乾電池さえあればどこでも聴くことができる。厳密にいうと電波の届かないところでは聴くことができない。
ふだんは枕元に置いている。寝る前にスマホをいじったり、電子ブックリーダーで読書するのはやめた。寝るときくらいスクリーンから目を離したい。
夜、ラジオ深夜便を聴きながら寝る。朝起きると、平日なら伊集院光の番組を聴く(金曜日は別プログラム)。日曜はイルカの番組を聴きながら二度寝する。昼間も音楽を聴くかわりにラジオを聴くことが多くなった。NHKの音楽番組や大竹まことの番組をである。
最近はスマホやPCでもラジオを聴くことができる。デジタルでライブ配信されているのである。わざわざラジオ(受信機)を買う必要もないのだが、スマホの音とラジオの音は少し違うと(勝手に)思っている。ラジオは音声信号を電波に乗せて、放送局の送信所から送られる。その電波をラジオはキャッチし、微弱な電波を電気信号に変え、増幅し、復調する。復調とは電波に乗った音声信号を取り出す工程のことである。復調された音声信号にはどことなく遠くのアンテナから発射された電波の名残がある。光と同じ速さでどこからか飛んできた音のにおいがする。
もちろんそんなはずはない。スマホで聴いても、ラジオで受信しても音声は音声だ。
この本は青少年向けだろうか。対人関係、人間関係のコミュニケーションで悩む若者をターゲットにしている。とても評判のいい本だということを誰かに聞いて、読んでみた。
とても丁寧に「ずるい言葉」を解説している。僕には少しまどろっこしかったけれど、本にして読ませるより、読んで聞かせてもらったらいいかもしれないと思った。ラジオみたいに。

2021年4月2日金曜日

芝木好子『女の肖像』

杉並に馬橋という町があった。
JR中央線高円寺駅と阿佐ヶ谷駅のまんなかあたり。線路をはさんで南北にひろがる一帯である。今は高円寺北、高円寺南と阿佐谷北、阿佐谷南という町になっている。旧町名をとどめている杉並区立馬橋小学校は高円寺北、馬橋稲荷神社は阿佐谷南にある。小学校に隣接して馬橋公園がある。元は気象庁の気象研究所だった。その前は陸軍気象部だったという(空襲で焼けた)。
芝木好子と聞くと下町の作家というイメージがある。
『隅田川暮色』『葛飾の女』『洲崎パラダイス』といった東京の東側が舞台になった作品が多いせいかもしれない。自身は王子で生まれ、浅草で育ったという。年譜によると昭和17年に結婚し、高円寺に移り住んだ。以後死ぬまで高円寺で暮らした。当時、町の名前は馬橋だったに違いない。
鷹狩りに訪れた徳川家光が高円寺という寺院で休憩したといわれている。寺の名前が知れるようになり、村の名前が高円寺村になったという。江戸時代初期の頃から高円寺は高円寺だったのである。馬橋という地名のいわれは知らないが、家光一行がまたがっていた馬と関係があるのではないかとひそかに思っている。
高円寺には関東大震災後、都心から多くの人が移ってきた。とりわけ深川など下町からの転入者が多かったと何かの本で読んだことがあるが、忘れてしまった。商店街などを歩くとどことなく下町風情を感じるのはそのせいではないかと思っている。出久根達郎の『佃島ふたり書房』も佃から高円寺に移転している(と、うっすら記憶している)。
この町に移り住んだ芝木好子は下町の方角に向かいながら、それらの町を舞台にした創作を綴ったのだろう。この本はたしか画商として自立する女性が主人公だった。銀座の画廊が舞台だった。なにぶん、読み終わってから7~8年は経っているので詳細はおぼえていないのである。
この本はテレビドラマになったという。これもまたおぼえがない。

2021年3月29日月曜日

蟹江憲史『SDGs(持続可能な開発目標)』

食品ロスを減らそう、使い捨てプラスチックを減らそうというテーマで二度ほど動画制作にたずさわった。
一昨年につくったものとくらべると昨年制作した動画では温室効果ガス排出について言及されている。結果的に捨てられてしまう食品をつくって、運んで、調理して…といったあらゆる工程で、使い捨てプラスチックの生産や廃棄などさまざまな局面でエネルギーが使われ、温室効果ガスが排出されるというのだ。ゼロエミッション東京ではないけれど、世界は着実に地球環境に向き合っている。
仕事場では名ばかりであるが、コンプライアンスを担当している。たとえば、個人情報を安全に管理している、みたいなことだ。会社ではなんらかの第三者認証さえ付与されれば、銀行にも受けがいいとかその程度のコンプライアンス意識である。必ずしも組織的な対応にはなっていない。
最近思うのは、企業が大きかろうが小さかろうが、情報セキュリティに高い意識を持って安全管理に取り組むというのは今となっては当たり前のことで、災害時や緊急時に事業継続できる体制づくりはどこでも取り組まれている。それでいて、記録文書を残さなかったり、システムのトラブルをなんどもなんどもくりかえすのは官公庁か大銀行くらいのことだ。それだって大津波のような甚大な災害が起きたら事業継続どころの騒ぎではない。あきらめるしかない。
SNSなど、ネットで炎上という事象が頻繁に起きるようになって、うすうすではあるが、多くの人に情報意識が芽生えてきているように思う。なにも目くじら立てて、情報セキュリティの認証を得る必要もないだろう。私たちは情報を適切に取り扱い、安全管理していますなんて自慢をするよりも一つひとつの企業が、一人ひとりの人間が未来のために取り組むべき課題がある。
それがSDGs、持続可能な開発目標だと思う。難しい課題ではあるけれど、今すぐ取り組まなければならないテーマばかりだ。

2021年3月27日土曜日

横川和夫『その手は命づな ひとりでやらない介護、ひとりでもいい老後』

去年、大井町でばったり会った吉岡以介と連絡を取り合う機会があった。
脳疾患で倒れた母親は退院後、郊外の施設に入所したという。半身が不自由で日常生活のほとんどの場面で介助が必要だという。
「そうするしかなかったんだよ」
それでもリハビリテーションをがんばれば少しはいい方向に向かうだろうと吉岡はリハビリに力を入れている施設を選んだ。自宅からは遠いが、勤務先からは電車で乗り換えなしだという。ところが新型コロナウイルス感染拡大で面会は事前予約したうえで15分のみ。吉岡は在宅勤務となり、母親の入所する施設は遠い場所になってしまった。在宅での仕事も要領を得ず、なかなか面会にも行けないと話す。
著者の河田珪子は義父母の介護にあたり、自分ですべてする必要はないと考えた。手を貸してくれる人がいる、介助が必要な人がいる。世の中はおたがいさまなのだ。「まごころヘルプ」はこうしてスタートした。サービスを利用する利用会員、サービスを提供する提供会員がそれぞれ会費を払って参加する。おたがいにメリットがある。
河田は家庭の事情で祖父母に育てられた。それがすべてではないにしても彼女は年寄りが好きだという。年寄りのためになることをしたいという。その思いは、高齢者だけでなく、妊婦や障がい者、外国人へと裾野を広げていく。まごころヘルプの次の取り組みとして「うちの実家」、そして「実家の茶の間・紫竹」といった居場所づくりへと連なっていく。
河田が考える「居場所」はよくある「通いの場」とは異なる。参加者に何かをさせるのではなく、一人ひとりが好きなことする。プログラムがない(ラジオ体操だけは続けているようであるが)。非行事型の居場所と言われている。
それはともかく、吉岡の母親も施設入所以外に、もっと本人も周囲も気持ちが豊かになれる選択肢があったのではないかという気もする。もちろん本人はそれどころではなかっただろうが。

2021年3月26日金曜日

獅子文六『食味歳時記』

佃に大叔父が住んでいた。母が南房総千倉町から上京したときに頼った人だ。伯父(母の兄)も上京した際には大叔父の世話になったと聞いている。東京で頼れる唯一といっていい親戚だったのだ。
最近になって思い出した。大叔父ともうひとり、東京で暮らしている親戚がいたことを。
くめおばさんという。
くめおばさんは祖父のきょうだいの末で、昭和のはじめに上京し、四谷荒木町にある食用油問屋柏原商店に奉公した。この家で主に家事をまかされただけでなく、ふたりの子ども(一女一男)の世話もした。主人が築地の料亭などに油を卸すかたわら、奥さんは長唄の師匠として多くの弟子に教授していた。とある大学の長唄研究会の顧問も兼ねていて、柏原商店の手狭な座敷には学生も多く集まったという。
柏原家でくめおばさんは、ねえやさんと呼ばれていた。家族からはもちろん、多くの弟子たち、長唄研究会の学生たちからもねえやさんと声をかけられ、そのうち僕ら親戚もねえやさんと呼ぶようになっていた。一生結婚することはなかったが、ねえやさんと呼ばれることで実家の人間ではなくなり、柏原家の人になったのだと思う。
母方の祖父の親戚はたいていおだやかで、どちらかといえばのんびりした性格の人が多い。祖母の親戚にしっかり者が多いのとは対照的である。くめおばさんも人あたりのいいおだやかな人柄だったと、幼少の頃しか知らないけれど記憶している。
文豪と呼ぶにはおだやかで娯楽性の高い作品が多い獅子文六であるが、なかなかの食通だったと聞いている。戦前から戦後にかけて、変わっていった食文化に関してもなるほどと思わせる観察眼を見せている。さすがとしか言いようがない。
くめおばさんに最後に会ったのは東京女子医大病院だった。今にして思うとさほど高齢ではなかったが、ガンにおかされていたのだ。
今、くめおばさんは柏原家の墓に眠っている。茗荷谷の寺だと聞いているが、くわしいことは知らない。

2021年3月25日木曜日

今井むつみ『英語独習法』

スキーマという言葉はなかなか難しい。
この本のはじめのところで「ある事柄についての枠組みとなる知識」、「多くの場合、もっていることを意識することのない」知識のシステムと書かれている。知識を身につけるということは知っているだけではだめで、使えなくは意味がない。身体化された知識が必要になる。これは認知心理学の概念であり、IT用語としてはデータベースの構造を示すという。いずれにしてもわかりにくい。
以下、自分なりの解釈。
小さい子どもは指を使ってものを数える。たいてい10までは簡単に数えられるようになる。たし算だって2+3とか5+4などはそのうち指を使わなくても計算できるようになる。ところが6+7とか8+9となると俄然難しくなる。いわゆる「くり上がり」のある足し算だ。子どもはくり上がりのないたし算を何度も何度もくり返すうちに、5が1+4であったり2+3であったりすることに気がつく。そして10が何+何で成り立っているかも理解する。そして6+7は3+3+7、つまり3+10であるとその計算方法を学ぶ。
スキーマとはこのような知識のシステムを自ら培うことなのではないかと思った(もちろんそんな簡単なことではないが)。だから機械的に答を暗記してしまう勉強法より、考えさせるやり方は大切なのだ。
母語を身につけいくのは非常に複雑なスキーマを育てていくことである。そして日本語を母語とするものは日本語スキーマを持っている。外国語をいくら学んでも外国語のスキーマは持っていないからおいそれとは身につかない。
著者は認知科学、言語心理学、発達心理学が専門であるという。決して言語学者でもなければ英語学者でもない。外国語を身につけるためには何が必要か、どんな勉強をしたらいいのか、今までまったく知らなかったアプローチがあった。目から鱗が落ちるとはこのことである。
ところで目から鱗が落ちるとは英語では何というのだろう。

2021年3月21日日曜日

ウジトモコ『デザインセンスを身につける』

在宅で仕事をするようになって一年。
昼食は自分でつくることが多い。たいていは蕎麦、ラーメンなど麺類を茹でるか、スーパーで安く買えた焼きそばだったり、あまったごはんで炒飯。でも圧倒的に多いのは蕎麦だ。
内田百閒は昼はもりそばと決めていたという。別にそれでもまったく飽きることはないが、市販のめんつゆに少し飽きてきた。そばつゆをつくってみようと思った。
そばつゆといえばかえしである。便利なものでネットで調べるとかえしのつくり方はすぐにわかる。醤油と砂糖、みりんの配合が5:2:1がいいとか、5:1:1がいいとか。手はじめに醤油100cc、みりん40cc、砂糖目分量でやや少なめでつくってみた。おいしくできた(もっと長く寝かせればいいのだろうが、一週間後から使いはじめてすぐに使い切ってしまった)。
二回目はためしに砂糖を多め、みりんを少なめにしてみた。思っていた以上に甘くなってしまった。何度かトライした末、醤油100、砂糖20、みりん20くらいがちょうどいい。砂糖はこれより少なめでもいいかもしれない。
寝かせたかえしをだしで割る。温かい蕎麦ならかえしとだしの割合は1:8、もり汁ならば1:3が程よいという。概ね間違ってはいない。せっかくかえしをつくったのだからとさば節、宗田節などがミックスされた厚削りを買ってみたが、やはりだしをとるのは手間がかかる。かつお風味の顆粒だしでじゅうぶんにおいしいと感じる。そこいらの蕎麦屋より、うまいんじゃないか。
蕎麦は乾麺か、茹で麺(蒸し麺?)。後者は立ち食いそばの店で見かける。生麺にくらべてどうかとも思うが、それはそれでうまいものだ。1分ちょっと湯がくだけいい簡便さも魅力である。
著者ウジトモコの本は二冊目。前回読んだ『これならわかる!人を動かすデザイン22の法則』に比べるとポイントが絞られていて、内容的にもやさしい。若い人たちにすすめるのならこっちかもしれない。

2021年3月4日木曜日

大久保真紀『ルポ児童相談所』

先日、ちょっとしたきっかけで新潟県の児童相談所に勤務する青年と話をした。
もちろんリモート。ウェブ会議システムを使った。
以前から悩みを持つ人にかかわりたいと思っていたという。中学生の頃は教師をめざそうと思ったこともあるそうだ。高校時代は心理学を学ぶことに興味を持ち、大学の先輩で福祉の仕事に就いた人がいて、児童福祉に携わる自分をイメージしたという。
相談の受理業務を担当している。いわゆる初期対応チームということか。短~中期で解決できそうなケースを受け持ち、主に保護者と面接することが多いという。子どもと直接やりとりするのは児童心理司という心理職なのだそうだ。常に複数のケースを抱えていて、優先順位をつけながら、スケジュール管理するのがひと苦労だと話す。
仕事のやりがいを訊いてみた。ひとつとして同じ状況にある家庭はなく、支援の方法も千差万別、通り一遍にはいかないが、何度か面接や支援をくり返していくうちに、光を見出したように保護者の表情が変わってくる。そんな場面に出会えることがうれしいという。子どもの人生にとって重大な局面、問題解決の場面に真摯に向き合う仕事ではあるが、支援する側として客観的に俯瞰して見る姿勢も必要だ。
児童相談所に持ち込まれたケースのうち家庭での養育が難しいとされる子どもはとりあえず一時保護所で保護される。一時保護所にいられる期間は限られているため、その後家庭に戻ることが困難な場合は児童養護施設や里親に託される。施設での生活については同じ著者の『児童養護施設の子どもたち』にくわしい。また一時保護所にフォーカスした児童相談所の仕事については慎泰俊が書いている。
もう少し日常的な児童相談所の仕事を知りたいと思うのだが、デリケートな個人情報にあふれている職場でもあり、おいそれとは見学などさせてもらえない。
この本と実際に勤務している青年の話でずいぶんイメージがひろがった。

2021年2月26日金曜日

原野守弘『ビジネスパーソンのためのクリエイティブ入門』

出社するときはたいてい午後に家を出る。
打合せをして、あるいは事務処理をしてすぐに帰る。メインの仕事場は自宅になっている。どこかでお昼を食べていくこともあれば、お弁当を買っていくこともある。
最寄り駅の近くに崎陽軒の店舗ができた。今日は横濱ピラフを買って行く。ピラフや炒飯は少し小ぶりなのでたいていポケットシウマイをいっしょに購入するのだが、品切れだった。
家にずっといるとなかなか読書がはかどらない。電車に乗るとその往復でけっこう読める。たまには出社するのも悪くない。
タイトルに「ビジネスパーソンのための」とあるが、この本は広告クリエイティブ初学者と広告ビジネスに限らないビジネスパーソンを対象としている。そのスタンスのおかげでわかりやすい入門書となっている。入門書といっても内容はかなり高度だ。
広告クリエイティブの基本は「誰に何をどう伝えるか」を整理することだと教わってきた。「誰に」はターゲットだから、事前の情報でだいたい把握できる。「どう伝えるか」は表現手法だ。ここがクリエイティブの勝負どころだった。肝腎なのが「何を」である。いわゆるファクト。伝えるべき内容(人々を効果的につかまえる「何」)がきちんと決められていないと無限大の「どう伝えるか」に振りまわされてしまう。
とはいうものの、たいていの商品やサービスがどんなにオリジナリティがあったとしても、競合する商品が次から次へと生まれ、せっかくのありがたみが薄れていく。コモディティ化してしまう。あっという間に賞味期限を終える陳腐な新製品、新サービス。PCやスマホなどデジタル製品はまさにそんな環境におかれている。
思えばこれまでずいぶん「何をどう伝えるか」に力を注いできたように思う。
たいせつなのは「なぜ伝えたいのか、伝えなければいけないのか」だとこの本を読んでわかった。そして人を突き動かすのは「好き」の力であることも。
目がさめた気分だ。

2021年2月25日木曜日

山崎亮編『ケアするまちのデザイン 対話で探る超長寿時代のまちづくり』

小さい頃、さほど裕福な暮らしをしていたわけではない。
それでも本が読みたいといえば(よほど高額の書籍でもない限り)買ってもらっていた。毎日のお小遣いの何十倍もの値段のそれをである。もちろん湯水のごとく買い与えられていたわけではない。ときどき折を見ておねだりすると買ってもらえた。その辺のさじ加減は幼い頃からスキーマとして意識下に形成されていたのかもしれない。たいていは買ってもらった一冊(たとえば『宝島』や『十五少年漂流記』とか)を何度もくりかえし読んだ。子ども時代に膨大な数の本を読んだわけではけっしてない。
その後も月に何十冊、年に何百冊も読むような読書家にはなっていない。読みたいときに読みたい本を読む気ままな読書家(それを読書家と呼んでいいとするならば)である。実は両親が買ってくれたのは、何冊かの本でなく、本という紙とインクでできた物質ではなく、なんて言ったらいいのか難しいが、本を読む時間、本に接する環境だったのではないかと思うことがある。今でもこうしてときどきページをめくるのは、子ども時代へのノスタルジーなのではないか。
超長寿時代を迎え、さまざまな地域で課題となっている「地域包括ケア」、この本はその先進事例にもとづいて、地域共生社会を模索している。
先だって読んだ『長生きするまち』では環境づくりが介護予防にとってたいせつだと書かれていた。とはいえ、まちづくりほど一筋縄でいかない課題はないだろう。
誰が町をつくるのか、その主体は誰なのか。住宅を設計するには利用者である依頼者の声に耳を傾ける。町を設計するときは不特定多数の利用者が存在する。彼らのありとあらゆる思いを汲んで、どうまちづくりに取り組めばよいのか。建築家、医師、看護師、福祉施設の経営者らがあらゆる視点からケアするまちをかたちづくっていく。対話しながら。
コミュニティをつくっていくことがこの先たいせつな仕事になると思う。

2021年2月20日土曜日

岩田豊雄『海軍』

南房総の七浦村(現在の南房総市千倉町白間津)で1942(昭和17)年に生まれた叔父は、母と8つ違う。幼少の頃、大きくなったら何になりたいかと訊ねると兵隊さんと元気よく答え、「若い血潮の予科練の七つボタンは桜に錨」と歌っていたという。
このあたりは、戦争末期本土防衛の拠点として、特に館山には航空基地や砲台が多かったという。隣集落の白浜にはレーダー基地もあったらしい。そんな環境下で子ども時代を過ごした世代にとって、たとえ東京におけるような頻繁な空襲がなかったとはいえ、戦争は身近なできごとだったに違いない。
先日介護予防の本を読んで、近隣に公園がある地域では運動不足になるお年寄りが比較的少ないという調査があることを知った。環境をつくることがたいせつなのだ。
昭和の初期から、日本は軍部主導の国家になっていく。ナショナリズムに燃えた指導者が強い国づくりをめざし、それに呼応するように世論が後押しをする。当時はあたりまえのことだったかもしれないが、まぎれもない負の連鎖がはじまったのである。
岩田豊雄は、ペンネームではなく本名でこの軍神の物語を書いた(さすがに大衆娯楽作家獅子文六名義では書けなかっただろう)。主人公谷真人は、真珠湾攻撃の際、特殊潜航艇に搭乗し戦死した九軍神のひとり、横山正治がモデルとされている。戦争の時代に生まれ、戦争に染められたまま死んでいった22年の短い生涯だった。
著者岩田豊雄はこの作品で朝日文化賞を受賞したが、終戦後は戦争協力作家として「追放」されかかる。愛媛県の宇和島に疎開したのはこうした圧力から身を隠すためだったという。戦争中ではなく、終戦直後に疎開するというのはおかしな話だが、それなりの理由があったのである。
『てんやわんや』『大番』など宇和島での生活が著者におよぼした影響ははかり知れない。この『海軍』による逃亡が獅子文六の作品にいちだんと磨きをかけたのだろう。

2021年2月15日月曜日

近藤克則『長生きできる町』

「近ごろの若い連中は仕事に前向きでない」などとついこの間まで若かった連中が嘆いていた。
どんな話かというと、たとえば映画製作の会社にいながら、小津安二郎も黒澤明も山田洋次も知らない、作品を見たこともないことが嘆かわしいということだ。あくまでたとえばの話である。
仕事の関係で福祉の本を読んでいる。
日本では人口が減っていく。人は長生きする。医療や介護、福祉に多額の費用が使われる。このままいくと財政が破綻するのでは、などとささやかれてもいる。それとは別にできることなら介護などされたくない、すなわち健康寿命を延ばしていきたいというのが多くの人の本音だろう。そこに介護「予防」というキーワードが浮かんでくる。
厚生労働省でも介護予防の取り組みがすすめられている。地域ボランティアによる集いやサロンの開設、いわゆる通いの場が生まれている。介護施設や病院を新設するより、費用もかからないし、健康的である。
著者は地域ごとの格差、とりわけ健康格差を調査している。
予防には一次予防(健康増進)、二次予防(早期発見、早期治療)、三次予防(再発、悪化予防)があるという。著者が提唱するのは0次予防。「人を変えるのではなく、環境を変えることでその中にいる人たちの行動を変える」という考え方である。たとえば近隣に広い公園がある地域では運動機能が低下している人が少ないという調査がある。公園面積の広い地域の高齢者はスポーツなどの会に参加している割合も多いらしい。なぜ運動をしないのかという原因だけを考えるのではなく、原因の原因を考えることが重要だという。そのなかで運動をしやすい環境をつくることの重要性が見えてきたのだと。
近ごろの若い連中を嘆いている諸氏よ。彼らがなぜ勉強しないのか、なぜ前向きにならないのか、その原因を考えてみよう。そして原因の原因を考えて、彼らをとりまく環境を変えてあげよう。そして行動を促そう。

2021年2月12日金曜日

鷹匠裕『ハヤブサの血統』

JRと東京メトロの荻窪駅を下りて、青梅街道を西に向かう。20分ほど歩くと郵便局があり、警察署が見えてくる。その先は商業施設とマンション群。
ここに日産の工場があった。2001年に郊外に移転され、再開発がはじまった。日産自動車の工場になる以前は1925年につくられた中島飛行機東京工場。おそらく戦前戦中の地図には記されていなかっただろう軍需拠点だった。
中島飛行機はその名のとおり、飛行機とエンジンをつくる会社である。広大な敷地の隅に「旧中島飛行機発動機発祥之地」と刻まれた碑が立っている。2011年、警察署の裏手(北側)に桃井原っぱ公園という広場が生まれた。どれほど広い敷地だったのか、周囲をぐるりと歩いてみるとわかる。そしてこの公園は災害時にヘリコプターの緊急離発着場としても使用されるという。時代が移り変わっても、空とつながっている土地なのである。
中島飛行機は数多くの戦闘機とそのエンジンを開発してきたが、最も知名度が高かったのは一式戦闘機、通称「隼」ではないだろうか。この本のタイトルにある「ハヤブサ」である。
鷹匠裕2冊目の長編小説になる。
デビュー作の『帝王の誤算-小説 世界最大の広告代理店を作った男-』は、著者にとっても僕にとっても同時代同業界の物語だった。創作の域を越える臨場感があり、ハラハラドキドキしながら読んだことをおぼえている。
今回は自衛隊の次期主力戦闘機の開発にまつわる話。
鷹匠裕は以前、自衛隊の次期主力戦闘機選びを題材に「ファイター・ビズ」という小説を書いている。城山三郎経済小説大賞の最終候補作にまでなった作品である。残念ながら、まだ読んでいないけれど、おそらくは今回の長編のベースになったものではないかと推測する。
中島飛行機は1938年に武蔵野製作所を開設している。主に陸軍向けのエンジンを組み立てていたという。「ハヤブサ」に近いのはこちらかもしれない。こんど歩いてみたい。

2021年1月30日土曜日

角田光代『私はあなたの記憶のなかに』

天気のいい午後、荻窪駅からバスに乗る。
芦花公園駅に行く関東バスである。千歳烏山まで行くのもあれば、さらにその先の北野行きもある。なんどか乗ったことがある。たいていはバス停から数分の世田谷文学館に行くときに利用する。おぼえているのは坂本九の時代の展示、たしか上を向いて歩こう展というタイトル(だったか)、和田誠展にも行ったことがある。他にも行ったと思うけれどおぼえていない。
今回は「あしたのために あしたのジョー!展」である。少年マガジンに連載された人気漫画「あしたのジョー」には夢中になった。厳密にいえば、その後テレビアニメーションになってからだと思う。四方田犬彦が1968年を検証するような書物を書いていたと思うが、子どもではあったけれど、すごい時代だった。
その傑作漫画のストーリーを、ちばてつやが描いた原画などを通して概観する。手描きの漫画原稿のなんと味わい深いことか。スミベタの筆のタッチなんか感動的だ。
タイトルの「あしたのために」は、この漫画のキーワードだった。その時代のキーワードといってもいいかもしれない。僕たちは「左ひじをわきの下からはなさぬ心がまえでやや内角をえぐりこむように打つべし、打つべし!」したものだ。誰もがみんな矢吹丈だった。
角田光代の小説をひさしぶりに読んでみる。短編集である。
そのなかの一編「おかえりなさい」を読んで、学生時代に高校の先輩に頼まれたアルバイトを思い出す。住宅街に行って、アンケート用紙をくばり、後日回収するというものだった。まずはアンケート用紙を受け取ってもらえない。回収に行っても不在であったり、まともな回答はほとんど得られなかった。結局どうしたか。ご想像におまかせするしかない。
記憶の彼方の、遠い遠い記憶であるが、もしかしたら当時歩きまわった住宅街は世田谷のこのあたりだったのではなかっただろうか。
頭のなかでジャブを連打しながらふと思い出した。

2021年1月27日水曜日

アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』

S信用金庫に入金をしなくてはならなかった。
信用金庫は都内に多くあるけれど、地域性があるのでたとえば港区を拠点にした信金と大田区を拠点にした信金とでは支店の分布が異なる。それでも信金同士のネットワークがあり、わざわざ目的の信金の支店まで出向かなくても、近くにある信金のATMで出入金や通帳の記帳が可能である。
と、思っていたのとは少し違って、信用金庫には信用金庫のグループ(派閥だろうか?)があるようで便利なのは同じグループ内に限られる。自宅からいちばん近い信用金庫ではS信金の通帳を取り扱えなかった。あまり調べもしなかった方が悪いのだが、40分ほど歩いた私鉄駅の駅前にある支店まで出向いたことがある。
先日も同じ用件で近くの提携関係のある信金をさがした。徒歩20数分のところにあるらしい。さっそく歩いて行ってみる。途中寄り道をしながら30分ほど歩く。ATMに通帳をすべり込ませる。取扱いができませんというアラートとともに吐き出される。提携していると思ったのは勘違いだった。S信用金庫とJ信用金庫が提携していないわけがないと勝手に思い込んでしまったのである。
仕方なく、スマホで近くの信金をさがす。1キロほど南に歩くと一軒ある。S信用金庫との提携関係もある。ふたたび歩きはじめる。中央線沿線なのに下町風情のある商店街を抜けると目的の信金が見つかった。そして自動ドアのガラスに貼り紙。「長らくご愛顧いただきました…」閉店している。もういちどスマホでさがす。さらに南に行って大きな街道沿いにあった。へとへとになってたどり着き、無事用件を済ます。
スマホが脳をハックしているのだという。スマホによって脳はたくさんのドーパミンを発するのだという。特に若者に与える影響が大きい。よかった、もう若者ではなくて。
スマホに依存しながら、5.67キロメートルを1時間18分ほどで歩いた。身体を動かしたせいか、その晩はよく眠れた。

2021年1月25日月曜日

慎泰俊『ルポ児童相談所-一時保護所から考える子ども支援』

都立K高校の、郊外にあるグラウンドで星野先輩に会った。
前回も書いたけれど、その人が星野さんであるとどうしてわかったのか、よくわからない。気がつくと僕は先輩の前にいて、同じ中学校から来た者だと自己紹介していた。バレーボール部の一員として今日(体育祭の前日)の準備に参加したということも(たぶん)伝えた。
星野さんは笑みをたたえたまま、僕の身体をくんくんとしながら一周する。
「うん、四中の匂いがする。なつかしいなあ。星野です、よろしく」と言った。僕らの出身校は地元で四中と呼ばれていた。それから先は何を話したか記憶はない。時間にすれば10分にも満たないような邂逅だった。
星野さんは大学進学時に社会福祉を志したと聞いている。どういうわけで福祉を学ぼうとしたのか、どうしてそのことが印象に残っているのか。たぶん当時(1970年代半ば)の若者の多くは福祉になんて関心がなかったと思うのだ。翳りを見せはじめたとはいえ、経済は成長していた。多少不景気な年があっても、まだまだそのうちなんとかなるだろうと誰もが思っていた時代である。社会福祉を学ぶ大学もそう多くなかったと記憶する。
児童養護に特に関心があるわけでもなかった。たまたま児童福祉に関する仕事があって、少しは勉強したくなっただけである。広告の仕事を長くしていると妙に広告の専門家になったような気がしてくる。それはそれで結構なことだが、むしろ広告の仕事のおもしろさは未知の領域に(素人なりに)接点を持てることだと思っている。かっこいいことを言ってみたが、せっかく出会えた分野だから、ついでに多少の知識を得ておこうという実はケチな考えなのだ。
福祉の領域は広い。高齢者、障害者、困窮者など弱者と向き合っている。児童福祉の、児童相談所の仕事もたいへんなことがこの本でわかる。
40数年前に出会った星野先輩が僕の知らなかった世界にめぐり合わせてくれた、そんな気がしている。

2021年1月23日土曜日

近藤克則編『住民主体の楽しい「通いの場」づくり 「地域づくりによる介護予防」進め方ガイド』

星野さんという先輩がいた。
高校受験が終わって、都立のK高校に決まりましたと職員室に進学先を報告に行った。当時の都立高校の受験システムは受験する時点で志望校を決めることができず、合格発表時に受験した学校群(たいてい2校か3校)のうちいずれか1校に決まる。どうしてそんなことになったのかはわからないし、わかったところで説明するのもたぶん面倒なのでしない。とにかく合格発表を見に行って、K高校に合格した(発表の場がH高校だというのも不思議なのだが、これもまた話が長くなりそうなのでしない)。
職員室では「K高か、陸上部の星野が行ったところだ」という話で少し盛り上がった。星野さんは僕の三学年上の先輩でやはり同じ中学校から都立K高校にすすんだという。「星野はどうしたんだっけ?」「福祉をやりたいとか言ってましたね、たしか上智をめざしてるって聞いてますけど」そんな話が飛び交う。三学年違うということは、入学したとき卒業した先輩である。中学時代に星野先輩に会ったことはない。
その二か月後。
都立K高校は多摩川の河川敷近くに合宿所をもっていた。野球、サッカーのグラウンド、バレーボールのコート、テニスコートと宿泊用の寮があった。体育祭はこのグラウンドを利用していた(翌年から都内の狭い校庭で行われるようになり、郊外のグラウンドで体育祭を経験したのは僕たちが最後の世代となる)。前日には運動系のクラブ部員やそのOBたちが集まってグラウンド整備を行う。何をやったか今となってはおぼえていない。草むしりとかラインマーカーで線を引く、みたいなことをしたのだろう。
どういうわけで、そこにいた陸上部の先輩が星野さんであるとたしかめられたのかはわからない。「ほ、星野先輩ですか?」気がつくと僕は今までいちども会ったことのなかった星野先輩と対面していた。
最近、仕事の関係で福祉や介護の本を読むことが多く、そのたびに星野さんを思い出す。

2021年1月15日金曜日

伊坂幸太郎『あるキング』

昨年はいちども野球を観戦しなかった。少なくともここ20年、いや30年、40年でも例のないことだ。
野球を観るもなにも試合が行われなかったのだから観に行きようもなかったし、開催された試合の多く(観たい試合の多く)は無観客で行われた。
東京六大学野球春のリーグ戦は8月に開催された。一回戦総当たり、観客は3,000人までだった。秋のリーグ戦は二回戦までで勝ち点ではなくポイント制で行われた。観客の上限は5,000人。行こうと思えば行けた神宮ではあるが、どちらかというと土日よりも勝ち点をかけた三回戦の月曜日に仕事をさぼって観るのが好きなので結局出かけることはなかった。
高校野球はセンバツも選手権も中止になり、独自大会と呼ばれる東西東京大会が開催された。春季大会も中止になったので、昨秋デビューした球児たちはいきなりの引退試合となった。秋季大会は予定通り開催されたけれどブロック予選から無観客試合になった。予選は当番校のグラウンドで行われるのだが、これも無観客。これまで多くのグラウンドを見てきた。特に西東京の郊外にある私立高校のグラウンドでのんびり観戦するのが好きだった。
無観客の大会に限らずテレビで中継される試合は大がかりな応援などもなく、打球音と拍手だけのシンプルな構成である。これはこれで野球の楽しみが感じられていい。
伊坂幸太郎は人気のある作家のようだが、これまで読んだことはなかった。例の、角田光代のおすすめとしてページをめくってみた。
架空の地方都市の架空のプロ野球チームという想定である。よく少年漫画などではありそうな設定ではあるが、小説となるとなかなか難しいものがある。書き手の力量が問われるテーマだ。まあ、架空の野球選手の話なので、打てばホームランということでもけっこうなのだが、あまりにも突拍子もない選手の出現がまるでおとぎ話のようである。
さて、現実の、今年の野球ははたしてどうなるのか。

2021年1月5日火曜日

安西水丸『東京エレジー』

正月は例年通り、何をすることもなく過ごした。
2日、テレビでドラマを視ていたら、毎年夏訪れる南房総の風景が映っていた。TBSで放映された『逃げるは恥だが役に立つ ガンバレ人類!新春スペシャル!!』いわゆる「逃げ恥」である。
子どもが生まれ、新型コロナウイルス感染拡大のため両親の住む館山に疎開したみくり(新垣結衣)が散歩している。バックに海がひろがり、遠くに家満喜(やまき)冷凍工場が見える。家満喜さんは白浜町乙浜の大きな魚屋で、以前は木村浅廣さんが営んでいた。父の同級生で親友だった。その手前に見えるのはアヴェイル白浜というリゾートマンションだ。その裏手に父の実家がある。みくりが子どもを連れてやってきた公園は塩浦海岸沿いにある。毎年夏休みになると祖父に連れられて泳ぎに行った浜だ。今では標準語っぽく「しおうら」と呼んでいるが、地元に行くと「しょーら」という。だからテレビを視ていて、「あ、しょーらの浜だ、ここ」と思ったわけである。
次にみくりと平匡(星野源)が電話で会話するシーンがある。白浜町と隣接した千倉町の白間津である。みくりは南房千倉大橋という比較的最近できた橋の上にいる(1989年に開通しているが、少なくとも僕の子ども時代にはなかった)。平匡は橋の北側、白間津漁港あたりに車を停めている。千倉大橋の歩道には、ここ白間津で少年時代を過ごしたイラストレーター安西水丸が描いたタイル絵が埋め込まれている。
この本は1982年に青林堂から出ている。その2年前に出版された『青の時代』が千倉時代の回想であるとすれば、本書は中学卒業後上京した時代が舞台になっている。具体的な場所はわかりにくくなっているが、赤坂、護国寺、荒木町、井草、井の頭あたりか。千倉で過ごした少年時代はなりをひそめ、東京人としての安西水丸がこのあたりからはじまる。どことなくよそよそしい目で東京をながめている感じがいい。