2022年2月4日金曜日

木下浩一『テレビから学んだ時代』

テレビはあまり視ないけれど、NHKやNHKBSで報道番組や映画、音楽などを視る。民間放送の番組ではテレビ朝日を視ることが比較的多い。路線バスで都内近郊をめぐる番組や刑事もののドラマ。以前必ず視ていた日曜日午後のクイズ番組がなくなってしまった。残念である。
テレビ朝日はその昔、NETと呼ばれていた。正式には日本教育テレビ。アナログの時代は10チャンネルだった。
教育テレビと名が付くものの、あまりNETの番組を視聴して勉強した記憶がない。「狼少年ケン」や「魔法使いサリー」などのアニメーションや「アップ・ダウン・クイズ」(のちにTBS系列になった)などのクイズ番組を記憶している。不思議な番組もあった。ヘリコプターでひたすら空撮するだけの短い番組「東京の空の下」や朝、国鉄の指定券などの販売状況を知らせる「みどりの窓口」など。
テレビがはじまったばかりの頃、テレビ局には一般局と商業教育局というふたつの免許が交付された(準教育局という区分もあったという)。教育局は放映する番組のうち、教育番組、教養番組を一定割合以上流さなければならなかったらしい。「教育」53%以上、「教養」30%以上といった具合に。教育に関しては必ずしも当初のねらいのように学校教育を主にする必要はなく、そもそも学習指導要領に準拠した教育番組が高い視聴率をとって、営業的に成果を上げられるか疑問視されていたこともあり、徐々に社会教育に立ち位置を変えていく。生徒児童ではなく、大人一般を対象にしたのだ。そうした流れのなかで、朝昼夜のワイドショーが生まれ、クイズ番組が量産された。
著者は朝日放送でテレビ番組制作にたずさわった後、メディア史、歴史社会学、ジャーナリズム論を専攻する大学講師である。ベースになっているのは京都大学大学院時代の博士論文というから、本格的な論考といえる。なつかしさだけではない、時代を見つめる視線を感じた。

2022年2月2日水曜日

太宰治『斜陽』

若い頃は寒さなんてへっちゃらだったのに、歳を重ねたせいか、冬の寒さにはめっぽう弱くなった。ましてや今年の冬は寒い。偏西風が西から東に吹いてくれればいいのに今年は蛇行しているので大陸から寒気が日本列島を包みこむように南下してくると気象予報士が解説していた。ただでさえ日々老化(あるいは劣化といっていいかもしれない)しているのに、こう毎日毎日寒くちゃたまったものではない(夏の暑さもだ)。
朝、目がさめる。何時かはその日によって異なる。だいたい6時とか7時とか。目がさめて暗いときもある。時計を見ると5時過ぎだったりする。目がさめて最初に思うのはトイレに行く必要があるかないかである。大丈夫と思えば、二度寝するし、必要ならトイレに行く。トイレに行くにはパジャマのままでは寒いから、ライトダウンを着るなどそれなりの準備が要る。用を済ませたら、洗面所で口をゆすぐ。そして二度寝態勢を整える。すぐに寝入ってしまうこともあるが、たいがいはいちど起きてしまうとなかなか難しい。こういうことが年寄りの特徴なのかもしれない。ラジオを聴いたり、読みかけの本を開いたりもする(厳密にいうと電子ブックリーダーなので電源をオンにする)。それでもなかなか深い眠りは訪れない。たまに10時近くまで寝入ってしまうこともあるが。
角田光代の読書案内的な本を以前読んだ。
角田は『斜陽』を十代の頃読んだそうだが、まったく感情移入できなかった、みたいなことを書いていた。歳を重ねて読みなおしてみてようやく理解できた、みたいなことも書いていた。
40年ぶりに読んでみた。世にいう名作だからといって、誰もが読むべき本なんて、ほんのわずかしかないんじゃないかな。太宰治で読むなら『津軽』と決めている。もう何度も読んで何度も泣いている。歳を重ねて読みなおしてみたい作品もあるだろうが、今の僕は没年の太宰より半世紀近く年上になってしまった。

2022年1月30日日曜日

吉村昭『海馬』

実家の裏手の商店街にお芋屋さんがあった。
幼少の頃だったので記憶はかなり薄れているが、甘味処のような店であったが、高級な店ではなく、庶民的な雰囲気を持っていた。ガラスケースのなかに大学芋があった。店先でさつま芋を蒸していた。夏になると店の奥に重たそうなかき氷機を置き、氷いちごなんぞを供していた。わが家からすぐ目と鼻の先だったこともあり、お芋屋さんのおばさんに声をかけるとうちまで持ってきてくれた。デリバリーなんてことばがまだなかった時代である。
まだ学校に上がる前、同じくらいの歳の子どもたちを引き連れて遊ぶモリくんという少年がいた。3つくらい年長だった。おそらくどこかの公園か何かに連れていってもらったのだろうが、仲間を見失い迷子になってしまったことがある。道もわからず泣きじゃくっていた僕を夕方、帰宅するため路線バスに乗っていたお芋屋さんのおねえさんが見かけた。そんな話が交番に届けられ、僕は無事に保護されたという。
それとはまた別の日にやはり迷子になって、交番のお世話になった(らしい)。そのときは歌の文句じゃないけれど、泣いて泣いてひとり泣いて、泣いて泣き疲れて眠るまで泣いていたという。名前を訊ねられ、自分の名前ではなく当時同居していた叔父の名前をなんどもくりかえしたらしい。電話帳にない叔父の名前をヒントにおまわりさんは「お宅に○○さんという方はいらっしゃいますか」と訊ね、ようやくうちにたどり着いたということだ。
もちろんまったく憶えていない。
この短編集に収められている「闇にひらめく」は今村昌平監督「うなぎ」の原作のひとつである。ひとつであるというのは、『仮釈放』という長編の要素と組み合わさって脚本化されているからである。
どうしてお芋屋さんのことを思い出したのか。なぜ幼少の頃、迷子の常習犯だったのかを思い出したのか。つい1時間ほど前のことなのにすっかり忘れてしまった。

2022年1月26日水曜日

夏目漱石『行人』

阿佐谷にある小さな映画館ラピュタ阿佐ヶ谷では先月まで「のりもの映画祭出発進行!」という特集が組まれていて、瀬川昌治「喜劇急行列車」と熊谷久虎「指導物語」を観た。なんといっても鉄道の旅は心がおどる。
年が明けて、新たな企画がはじまった。「日本推理小説界の巨匠松本清張をみる」という特集である。松本清張といえば鉄道である。「ゼロの焦点」「点と線」「張込み」「砂の器」…。長距離列車のシーンが目に浮かぶ。たまらなく旅をしたくなる。
恥ずかしい話かもしれないが、夏目漱石の作品をほとんど読んでいない。『こころ』『三四郎』…。中学生高校生の時代にほとんど本を読まなかったせいで、本来持つべき日本の青少年としての基礎教養が著しく欠如しているように思う。あの頃、なんとか文庫の百冊のうち、数冊でも読んでいたら、ひとかどの人物になっていただろうと思うことがある(だからいまさらなんなんだ)。
そうえいば『三四郎』は九州から汽車で上京するところから物語がはじまる。関川夏央が『汽車旅放浪記』で取り上げていた。それがきっかけで20年くらい前に読んだ。三四郎に興味があってというより、三四郎が乗っていた長距離列車に惹かれたということだ。寝台列車で九州に行ったことは、残念ながらない。長崎でも佐世保でも西鹿児島でも、いちどブルートレインで旅してみたかった。大人になったら、そのうちできるだろうと思っていたが、そのうちに寝台特急列車がほとんどなくなってしまった。
東京と札幌を寝台列車で往復したことがある。これはこれでよかった。11月の終わりころ。青函トンネルを抜け、はじめて見る北の大地にうっすら雪が積もっていた。
大阪を訪ねた二郎は、遅れてやってきた母と兄一郎夫婦と合流する。しばらく滞在して、和歌山などに出かける。そして帰京する際、大阪から寝台列車に乗る。
その昔、寝台急行「銀河」で大阪に行ったことを思い出した。

2022年1月16日日曜日

カート・ヴォネガット『青ひげ』

昔の読書記録を見ると、カート・ヴォネガット(・ジュニア)を好んで読んでいたのは1987年頃となっている。読書記録といっても、読んだ年月と著者名タイトルを記しただけである。感想などは書いていない。それでも今となってみれば貴重な資料だ。
多少の寄り道はあってにせよ、1985年に大学を出て、テレビCM制作会社でアルバイトをはじめた頃である。それまでは家庭教師や先輩の営むとんかつ店でアルバイトしていた。アルバイトを卒業して、新たなアルバイト生活がはじまったのである(1年後正社員にしてもらったが)。
当時どんな思いで毎日を送っていたのか。その頃読んでいた本を読みなおすと思い出すかもしれないと思い、何年か前から当時読んでいた本を再読している。
邦訳されているカート・ヴォネガットの小説はだいたい読んだつもりでいたところ、『ガラパゴスの箱舟』以降、『タイムクエイク』という新作(といってもずいぶん前に出版されている)があることを知り、さらにはその間にも発表された作品があることを知る。それがこの本『青ひげ』である。
アルメニア人の画家の自伝という体裁になっている。ヴォネガットの小説で自伝的な作品は多い(と思うが、そんな気がするだけかもしれない)。たとえば『母なる夜』は、ハワード・キャンベル・ジュニアの自伝である。たしか『ジェイルバード』もそうだった(ように記憶している)。過去と現在。時間を縦横に飛び交う。ヴォネガットの手にかかる時間の旅は読んでいて心地いい。
読み終わって気付く。もう一冊ある、と。『青ひげ』のあとに『ホーカス・ポーカス』という長編が発表されていた。気が向いたら読んでみよう(ついでにいうと『チャンピオンたちの朝食』もまだ読んでいないみたいだ)。
先の読書記録によるとその当時、筒井康隆もよく読んでいたようである。これはアルバイトをはじめたCM制作会社で知り合ったコグレくんの影響を受けている。

2022年1月11日火曜日

曽布川拓也、山本直人『数学的に話す技術・書く技術』

数学は苦手じゃなかった。過去形で語られるわけであるから、結果的には苦手科目のひとつになったことは否めない。
中学生から高校の一年生くらいまでは得意科目というほどではないにせよ、試験でそこそこ点数を確保できる科目だった。問題を解く手順を見出し、間違えないように計算すれば答が求められる、こんな単純明快な科目が他にあっただろうか。しかも潔い。0℃、1気圧とする、であるとか摩擦は考えないものとする、といった条件が提示されることがない。論理と数字で答えを出せと言っている。何文字以内で主人公の気持ちを書け、なんてことも言わない。
村上春樹の『1Q84』に登場する川奈天吾は予備校の数学講師である。数学の問題を解くだけの人生。なんともシンプルで羨ましい。
実をいうと中学生くらいのときは建築の仕事に携われたらいいなと思っていた。母方の伯父が建築設計士だった。幼いながらも、高校に行って、大学進学を考えるとき、理系、文系という枠組みがあり、今から50年前くらい、男子は理系に進むものとされていた。高校では数I、数II B、数III(理系志望者のみ)の3教科を履修する。高校2年時にまずは数列で挫折した僕は数II Bを早々とあきらめ、いつしか文系志望者になっていた。数列以降、微分・積分も指数関数も対数関数も三角関数もなしくずし的に身につくことはなかった(数Iだけでも受験できる文系学部も少なからずあったので、数II Bで挫折したことはそれほど堪えなかったけれど)。
この本の筆者はふたり。ひとりは数学で挫折し、もうひとりは数学的思考の重要性を説く専門家である。数列も微積分も確率も数学的に突き詰めれば、ビジネスに役立つ。つまり実用的な学問であることがわかる。それを教科書的なプロセスを経ることで、多くの若者たちが挫折を味わうのだそうだ。今さら数学的思考の重要性がわかったところで手遅れだろうが多くの挫折者に励みになる。

2022年1月8日土曜日

山本周五郎『五瓣の椿』

いつしか正月ならではイベントがなくなっている。
実家を訪れて挨拶する、親戚の家に集まって新年会をする、そうした行事が、である。元日は遅く起きて、昼近くからおせちをつまみに酒を飲み、雑煮を食べて(さっき起きたばかりというのに)、昼寝する。2日3日も同じようなものでテレビで箱根駅伝や大学ラグビーを眺めて過ごす。
子どもの頃はよく父に連れられて親戚の家に年始参りに行ったものだ。
祖父の弟妹(大叔父、大叔母)が東京近郊に住んでいた。長女は平塚、次男は金町、次女は梅島(後に大泉学園に転居)、三男は落合。三女も大井町に暮らしていたが、ほとんと記憶はない。父はこれらの叔父叔母の家を訪ねてまわったのである。このほかにも横浜磯子の氷取沢という町に転居した遠い親戚もいて、父の運転する車で行ったことがある。磯子の小高い山の上にある氷取沢は今では大きなマンションや多くの戸建て住宅におおわれているが、当時は分譲地にまばらに家が建っている別荘地のような町だった。おそらく平塚の叔母さんの家から横浜にまわったのではないだろうか、帰り途、坂道を下ったところを夕日を浴びながら市電が走っていたのをおぼえている。伊勢崎町あたりではなかったかと今になって思う。本牧に住んでいた山本周五郎が山を越えて散歩したあたりではなかろうか。
と、強引に周五郎まで辿り着かせたが、この本は実は7年前に読んでいる。どうしたわけか、ここに書き残すことを怠ってしまった。先日、野村芳太郎監督の映画をネットで観て、原作を読んでいることに気がついた。読んでいるとき、おしのは岩下志麻がいいなと思った記憶があるが、果たして映画の主役はそうだった。
正月休みはテレビで何本かドラマを視た。あまり印象的なストーリーはなかった。もちろんドラマのせいではなく、視る方がそれなりに歳を重ねたからである。

あけましておめでとうございます。
今年もブログ、はじめました。

2021年12月7日火曜日

吉村昭『海軍乙事件』

子どもの頃、夏休みになると祖父に連れられ、南房総にある父の実家で過ごしたことは何度となく書いてきた。曽祖母が亡くなったのが小学校5年生のときだったから(その頃はほとんど寝たままの状態になっていたが)、記憶には残っている。もっと小さかった頃も寝たり、起きたりの生活だったが、話も普通にできたし、何より楽しみだったのがお小遣いだった。
曽祖母は朝食を終えると僕と姉を呼んで、今日のぶんと言っては小袋のなかから10円玉を取り出しては僕らに与えてくれた。それを手にかき氷やラムネを飲んだり、両親からもらっていたお小遣いと合わせて花火を買ったりした。当時かき氷やラムネがいくらだったかまったく記憶にないが、1日10円あれば、子どもたちはしあわせに暮らせた時代だった。
当時を思い出して、今と圧倒的に異なるのは、子どもの足で行ける範囲にお店があったということだ。10年くらい前までは酒屋や魚屋はあったけれど、父の実家のまわりには今、店らしい店は皆無である。大人だって歩いて行ける店はほとんどない。集落の人びとはクルマでスーパーに買い出しに行く。たいていの家庭では大きな冷蔵庫がある。そんな地方の生活が浸透している。
太平洋戦争当時の史実を題材にした吉村昭の短編集。歴史のなかに埋もれてしまった事件に光をあてる。1941年に起きた山本五十六搭乗機撃墜事件は「海軍甲事件」(これもこの短編集に収められている)と呼ばれている。翌年起きた海軍機密文書紛失事件がそれに対して、表題作である「海軍乙事件」である。
この本は76年に刊行されている。今からくらべるとまだまだ戦後が色濃く残っていた時代だったかもしれないが、どれほどの証言者や資料が吉村昭の執筆を支えただろうか。
父の実家のある南房総の集落は乙浜(おとはま)という。そのいわれは知らない。どこかに甲浜という地名があり、それに対して乙浜なのではないか、などと勝手に思っている。

2021年12月5日日曜日

カート・ヴォネガット『ガラパゴスの箱舟』

仕事の合間に隣駅まで歩く。普通に往復すれば3キロ程度のところを少し贅沢に遠まわりし、4キロを47分。遅くもないが速くもない。
先日もヨドバシカメラまで歩いてみた。電車に乗ればふた駅である。これまでも歩いてみよう気はあったが、ルートが複雑そうに思えて歩いたことはなかった。地図アプリで確認すると案外難しそうでない。
幹線道路をしばらく歩く。途中で少し南側の通りを行く。街灯に女子大通りと記載されている。通りの北側に女子大学があった。その先、南へ向かう通りは美大通りと書かれていた。美大はずいぶん昔に郊外(小平)に移ったと思っていたが、まだこの地にも校舎があるらしい。
1980年代、カート・ヴォネガット(ジュニア)の本をよく読んだ。
以前の投稿を見ると93年に『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』を再読している。7年ぶりに読んだと書いてある。「ヴォネガットの作品でとりわけ好きなのは、『ガラパゴスの箱舟』と『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』の2冊」とも記している。
好きな作品のもう一冊を読む、35年ぶりに。
この本はヴォネガットの代表作と言われている。おもしろさもひとしおだ。20代に読んだものを60を過ぎて読み直し、さらにおもしろいと感じたのだから。
僕のなかで80年代のヴォネガットブームはこの本でひとまず落ち着いた。その後読んだのは『タイムクエイク』、2019年まで新作を読むことはなかったのだ。ヴォネガットはこの本を世に出した10年後、2007年に他界している。そんなことすら知らなかった。ベートーベンの第九交響曲は書けなかったけれど、それに勝るとも劣らない作品を書き続けてきた。
『ガラパゴス』から『タイムクエイク』までのおよそ10年間に書かれた彼の作品をこれからゆっくり読みたいと思う。それで言うのだ、長生きはするものだと。
ヨドバシカメラまでは4.34キロ。44分31秒で歩いた。

2021年11月25日木曜日

吉村昭『炎の中の休暇』

在宅勤務をはじめて1年半以上になる。
月にいちどくらい出社して打合せをしたり、精算したりなどするが、毎日通勤しないのはストレスがなくていい。その反面、天気が悪かったりすると家から一歩も外に出ない日もある。青島幸雄じゃないけれど、「これじゃ身体にいいわきゃないよ」である。犬と散歩するほか、近隣のスーパーに買い物に行くほか、できるだけ歩くようにしている。
地図上でどのルートをどのくらいの速さで歩いたかを記録してくれるアプリがある。記録を残すことでモチベーションが保たれる。何キロくらいをどれくらいの速度で歩くのがいいのかはわからないが、大学で体育を専攻し、スポーツクラブに長年勤務している先輩に聞くと、1キロ10分台で歩くのがいいという。ふつうに歩くとだいたい11分台の後半から12分台である。10分台で歩くには速く歩くことを意識しないと歩けない。それにそんなに速く歩くと周囲の景色などほとんど目に入らず、散歩したのに歩いた気がしないのである。
はじめのうちは2キロ。そのうち3キロ。少しずつ距離をのばす。5キロ歩いてみる。時間にして1時間弱。このくらい歩くと歩いたなという実感が残る。さすがにキロ10分台で歩くのはたいへんであるが。これを隔日とまではいわないまでも、週に2回くらいこなせればいいのだけれど、なかなかそうはいかない。週1回がいいところである。
さて、スマホにインストールしたアプリであるが、1.6キロごとに途中経過をアナウンスしてくれる。中途半端なところで歩行距離、所要時間などが知らされる。メートル法をスタンダードとしていない国で開発されたツールなのだろう。
この本は、戦中戦後を舞台にした短編集である。
東京大空襲のあと、女性のもとに出かけていて安否がわからない父をさがしに主人公が江戸川沿いの集落を歩いて訪ねる話がある。見渡す限りの焼け野原。主人公の歩く速さは如何ばかりかと気になった。

2021年11月22日月曜日

山本周五郎『日日平安』

父が書いた作文を読んだことがある。
子どもの頃は、夏休みになると千葉県安房郡(現南房総市)白浜町にある父の実家で過ごした。祖父が迎えに来て、姉とふたりを連れて両国駅から列車に乗っていったのである。南房総の記憶はほとんど夏休みの記憶といっていい。
8月の旧盆以外だと父はよく正月に帰省していた。まぶしい陽光にさらされることのない冬の白浜町はどこか寂し気に見えた。その年も3が日を過ごしたあと父の運転するクルマで東京に向かう予定だった。帰りがけに父は一軒寄りたいところがあると言って、いつもと違う道を走る。
中村先生の家だった。
中村先生は、父の小学校時代の担任の先生である。すでに教職を辞していたとは思うが、老け込んでいるようすはなく、ひさしぶりに対面した父に酒をすすめる。この時点でこの日じゅうに家に帰ることはないのだと悟った。中村先生と父は何杯も酒を酌み交わし、昔話に興じたり、テレビを視たりしてその夜を過ごした。ちあきなおみの「喝采」や小柳ルミ子の「瀬戸の花嫁」がいくどか画面から流れ、その都度、いい曲だねと中村先生は言っていた。その記憶がたしかならば、その新年は1973年ということになる。
途中席を立った先生が古びた封筒を持って居間に戻ってきた。なかから取り出したのは父の作文だった。小学校の何年生のときだったか、組替えがあった。中村先生を慕っていた父は、担任の先生が代わることがいやで、祈るような気持ちで新学期を迎えた。組替えが発表され、担任は引き続き、中村先生であると知る。そのときのよろこびが記されていた。
人生というものは他人から見ればなんていうこともない事実の積み重ねである。山本周五郎のこの短編集は小さく心を揺さぶる。もういちど読みたい一冊である。
定年退職後、洋蘭の栽培を趣味としていた中村先生の自慢の温室を翌朝、案内してもらった。真冬なのに、そのなかは夏の陽光に満ち溢れていた。

2021年11月14日日曜日

吉村昭『雪の花』

東京にはいくつか「いもあらいざか」と呼ばれる坂がある。芋洗坂とか一口坂と表記される。
「いもあらい」は、疱瘡(天然痘)にかかった患者が水で清めて神仏に祈願することだという。「いもあらいざか」付近には疱瘡神が祀られていたともされている。地名の起源などをたどる本にはだいたいそのようなことが書かれている。どうして一口坂を「いもあらいざか」と読むのか。疱瘡神が祀られていた社の地名が一口町だったなどという説もあるようだ。
疱瘡は恐ろしい伝染病だった。感染を防ぐ方法も治療方法もわからず、人びとはひたすら神仏にすがり、奇妙な伝承を信じた。疱瘡神は赤い色を苦手とするというのもそのひとつで、罹患した子どもの傍らには赤いものを置いたり、未患の子どもらには赤い下着や玩具、置物を与えたという。
天然痘は日本だけでなく、ヨーロッパでもアメリカ大陸でも大流行し、多くの生命を奪っている。それでも昔から頭のいい人がいたのだろう、天然痘に罹った患者の膿やかさぶたを未患者の体内に取り入れることで免疫をつくる予防法(種痘)が行われるようになった。紀元前1000年頃のインドでというから驚きである。種痘(人痘法)はイギリスやアメリカに伝えられたが、予防接種としてはまだリスクの高いものだった。
18世紀半ば、ジェンナーが登場する。天然痘に罹った牛(牛痘)の膿を接種することで天然痘は安全に予防できるようになった。ジェンナーの牛痘法は世界にひろまったが、日本に定着するまでは時間がかかった。ロシアに拉致された中川五郎治が松前で行った記録があるが、これは五郎治がその方法を秘匿したためひろまることはなかった。
越前福井藩の医師笠原良策らの尽力で種痘(牛痘法)はようやく一般に普及する。ジェンナーに遅れること半世紀。日本は疱瘡の脅威から逃れることができた。
いつしか「いもあらいざか」と聞いて、不思議な名前だと思うようになっていた。

2021年11月10日水曜日

吉田勝明『認知症が進まない話し方があった』

昨年から認知症当事者の方をインタビュー取材して、動画にまとめる仕事をしている。認知症と診断された方を患者とは呼ばない。当事者とか本人と呼ぶ。
認知症当事者である丹野智文は、著書のなかで症状があるけれども生き生きと暮らしている人を患者と呼ぶことで重い病気の人というイメージを与えることを懸念している。単に認知症と診断された人が当事者なのではなく、診断された本人が自分の意思で自由に行動したり、要求することが当たり前にできるのだということを社会に発信していく。そんな本人が「当事者」であると丹野はいう。
仕事で担当しているのは、企画と構成である。現場に赴いて直接問いかけることはない。それでも事前の打合せでお話をうかがうこともある。ウェブ会議で、ではあるけれど。
当事者の方に声をかけるのは緊張する。認知症に関して知識があるわけでもなく、身近な当事者を介護した経験ももちろんない。よく言われていることだが、認知症当事者とコミュニケーションするには本人目線がたいせつである。ついつい認知症でない人のスタンダードで話してはいないか、本人を混乱させるような高圧的で一方的な発話をしてはいないか。とにかく緊張する。
認知症は、認知機能が低下したり、損なわれる病である。これもよく言われることだが、認知機能が低下したからといって、脳のはたらきすべてが奪われているわけではない。相手の顔も名前もおぼえられない人でも、子どもの顔と名前すら思い出せない人でもやさしく微笑みかければ、微笑みかえしてくる。「私誰だかわかる?」などと声をかければ、試されていると感じ、不快に思う。人間はどんなに認知機能が低下しても、感情はずっとその人のままなのだ。
先日読んだ『ユマニチュード入門』に人間の尊厳を保つケア=ユマニチュードには4つの柱があり、それは「見る」「話す」「触れる」「立つ」であるという。とりわけ「話す」に特化したのが本書である。

2021年11月8日月曜日

吉村昭『蜜蜂乱舞』

はじめてこの本を読んだのは7年前。養蜂のことなど何も知らなかった。
養蜂には同じ場所でさまざまな花の蜜を採取する定置養蜂と花を探しもとめて日本全国旅を続ける移動養蜂がある。移動養蜂は莫大な労力とコストを必要とする。
特攻隊の基地があった鹿児島県鹿屋市。蜂屋の伊八郎は、毎年の菜の花の季節が終わると新たな花を求めて北へ向かう。巣箱は2台のトラックに載せ、採蜜に必要な道具のほか炊事用具、テントもライトバンに積みこむ。7ヶ月におよぶ旅のはじまりである。
蜜蜂は暑さにも寒さにも弱い。巣箱のなかに熱がこもることで死んでしまう。これは蒸殺と呼ばれ、移動中細心の注意が払われる。気温の下がった夜に移動をはじめ、風を通すために極力停車させない。そして夜明け前に蜂場に到着するよう配慮する。採蜜を続けながら、本州へ。長野、青森を経て、連絡船で北海道十勝へたどり着く。
蜜蜂たちの日々の動きを観察することも欠かせない。分蜂という新たな女王蜂の誕生があり、盗蜂といって自分の巣箱以外の蜜を盗む蜂もあらわれる。経験を積んだ鉢屋は次々に起こる事態を冷静に対処する。
花のある場所付近にスズメバチの巣がないかも確認する。見つかった場合はすみやかに処分する。秋になって食べ物を求めて羆があらわれる。蜂蜜を大好物とする羆は蜂だけでなく、人をも襲う。そのためにライトバンには猟銃も用意されている。いのちがけの仕事なのである。
吉村作品にはマグロを追いかけたり、ハブを生け捕りにする話もある。スケール感や恐怖感では蜜蜂の比ではないかもしれないが、この物語には蜜蜂を見つめるまなざしの深さと家族の秩序を常に考える愛情に満ちた伊八郎の生き方がしっかりつながっている。蒸殺で蜂を失った男、家族を捨て殺人を犯した仲間、轢き逃げで刑務所で暮らす長男の妻の兄。伊八郎一家と隣り合わせているこれらの挫折。こうした緊張感が彼ら家族の絆をいっそう深めている。

2021年11月5日金曜日

獅子文六『達磨町七番地』

かんだやぶそばに行った。たいへんひさしぶりに、である。
先月のことだが、昔お世話になった広告会社の方たちにお会いした。そのなかのひとりアートディレクターの松木さんは、8月に手術を受け、その後順調に回復された。蕎麦屋でも行きたいよねなどと話していたが、まだまだ新型コロナ感染者数は増える一方で緊急事態宣言が解除されるのを待っていたのである。
集まったのはクリエーティブディレクターでコピーライターだった内山田さんと山石橋さん。いずれも後期高齢者である。かんだやぶそばでなければいけない理由もなかった。まつやでも室町の砂場でもよかったが、僕が学生時代大晦日のみやげ売り場でアルバイトをしていたことがあり、そんな話をしていたら、かんだやぶそばいいよねってことになった。昼過ぎにお店の前で待ち合わせ。土曜日だったので少し行列ができていた。ビールとぬる燗を飲みながら、板わさ、焼きのり、合焼きなどの定番メニューをつまんで、せいろう蕎麦をたぐった。至福のひとときだった。
獅子文六がパリ遊学を終えて、帰国したのが1925年。戯曲や翻訳の仕事を続けていたが、やがて小説を執筆するようになる。36年には新聞連載された『悦ちゃん』が評判を呼ぶ。この本に収められている小説は36〜38年に新聞や雑誌に掲載された短編である。
軍部の力が増し、暗雲立ち込めている時代ではあったが、後に娯楽小説の大家となるその片鱗がすでに見えている。昭和初期、戦前の、ほんのわずかな幸せな時代が描かれている。パリ時代の経験をもとに書かれた表題作「達磨町七番地」のほか、南州、北州の友情物語「青空部隊」やデパートの店員を主人公にした「青春売場日記」など当時の社会や風俗を知る上でも楽しい作品集だ。
「青空部隊」は後に「青空の仲間」というタイトルで映画化されている。南州は三橋達也、北州は伊藤雄之助だったらしい。観てみたい映画がまた一本増えてしまった。

2021年10月29日金曜日

筧裕介『認知症世界の歩き方』

ソーシャルデザインとは、人間の持つ「創造」の力で、社会が抱える複雑な課題の解決に挑む活動である。コマーシャルではなく、ソーシャル。商売のためではなく社会のためのデザインであると先日読んだ『ソーシャルデザイン実践ガイド』に書いてあった。著者筧裕介はソーシャルデザインを、社会が抱える課題の森をつくり、整理して突破口を見つけ、解決に必要な道を拓く活動としている。そしてその旅の工程は、森を知る、声を聞く、地図を描く、立地を選ぶ、仲間をつくる、道を構想する、道をつくるという7つのステップで構成されるという。
著者が認知症と高齢社会という社会課題に対して試みたソーシャルデザインが『認知症世界の歩き方』である。
認知症にはアルツハイマー型、脳血管性、レビー小体型、前頭側頭型などさまざまな種類があり、その症状も人それぞれ。時間や場所がわからなくなる人もいる。人の顔をおぼえられない人もいる。幻視幻聴に悩まされる人もいる。この本では数多くの当事者を取材し、その声を汲み上げ、認知症本人にしかわからない世界を地図を描くことで、道をつくることで誰にでも理解しやすいようにデザインしている。
認知症になると何もわからなくなる、何もできなくなる、そして最後は寝たきりになってしまうといった誤解や偏見が蔓延している。もちろん症状によってできなくなることはあるけれど、できることをできないことにしてしまったり、役割を取り上げるなどして症状を進行させてしまう周囲にも問題がある。
認知症を正しく理解してもらうために多くの当事者が声を上げている。認知症カフェや講演会などが全国各地で行われている。地道な努力の積み重ねが成果を見せている一方で、多くの人びとにひと目でわかる認知症世界の正しい世界を示すソーシャルデザインの仕事に希望を感じている。
巻頭に認知症世界の地図が描かれている。瞬時にソーシャルデザインの素晴らしさを確信した。

2021年10月26日火曜日

秋山具義『世界はデザインでできている』

先日、世田谷文学館でイラストレーター安西水丸展を観、今月は東京オペラシティアートギャラリーで和田誠展を観た。どちらも全国を巡回する国民的展示である。安西にはイラストレーターという肩書きが付いているが和田にはない。和田誠はアートディレクターであり、装丁家、絵本作家、アニメーション作家、映画監督、作曲家とまさにマルチな分野で活躍してきた。基本はイラストレーターに違いないけれど、彼の活動の数々を規定する言葉は見出しにくかったのだろう。
一線で活躍する以前の少年時代のスケッチや絵日記なども展示されていた。安西水丸もそうだったが、絵を描くことが本当に好きだったんだなということがよくわかる。子どもの頃から似顔絵が得意だったようだ。先生や友だちの似顔絵が多く遺されている。会ったことも人たちばかりなのに、どことなく似ているなと思えてしまう。
和田誠はライトパブリシティ時代の日々を『銀座界隈ドキドキの日々』という本に綴っている。映画を愛する彼は当時新宿にあった日活名画座のポスターを描き続けた(無償で)エピソードをそのなかで紹介している。青年和田誠の仕事が大きなパネル一面に展示されている。圧巻である。
ちくまプリマー新書は若い世代を対象に普遍的でベーシックなテーマを掘り下げるシリーズである(プリマーとは初歩読本、入門書という意味だ)。初学者や若者を対象にしているとはいえ、大人が読んでもためになる本も多い(菅野仁『友だち幻想』などは思わずうなってしまうほどの一冊だった)。
不勉強な僕は秋山具義という名前を知らなかった。知らなかったけれど読んでみるとデザインというひとことで語るには難解なテーマをやさしく説き明かしている。筑摩書房はなかなかいい人選をしたのではないかと思う。
若い人に限らず、たとえば広告やデザインの仕事をはじめたばかりの人たちにも秋山具義はわかりやすく声をかけてくれるに違いない。

2021年10月24日日曜日

井伏鱒二『漂民宇三郎』

8月のお盆はコロナ感染拡大のため例年行っている墓参りをやめた。9月のお彼岸のときでもと思ったが、それも行きそびれて結局10月になってしまった。南房総に向かう高速バスはコロナのせいかずいぶん便が減っている。行きは館山まで高速バス、JR内房線に乗り換えて千倉、千倉駅前から路線バスでと考えていた。高速バスから鉄道に乗り換えるのであれば、平日のほうがいい。休日だとどうしても道が混む。時間どおりに館山に到着できない場合もある。
前日に従兄に電話してあった。千倉駅まで迎えに来てくれるという。15分ほどで千倉町の大川という集落にたどり着く。6月に他界したもうひとりの従兄に線香をあげる(当然のように葬儀には行っていない)。迎えに来てくれた従兄の家に移動して、伯父と伯母に線香をあげ、コーヒーをご馳走になる。隣集落の白間津にも従兄が暮らしている。車で送ってもらう。白間津の従兄の家でも線香をあげて、祖父母が眠る寺に向かう。朝から冷たい雨が降っている。ここまでは母方の親戚。
寺から下りてもう一軒訪ねる。ここは父方の叔母がいる。さらに隣の集落、白浜町乙浜にもうひとり叔母がいる。乙浜の叔母に電話をして迎えに来てもらう。乙浜には父の実家があり、墓もある。父と親戚の墓をまわってひと段落である。順調に墓参りを済ませられると15時過ぎの東京駅行きの高速バスに間に合うはずだったが、その便はなくなっていた。天気がよければ掃除でもして夕方の便で帰るのだが、あいにくの雨である。叔母に千倉駅まで送ってもらい、そのまま2両編成の電車に乗って帰る。途中君津で快速に乗り換え、18時過ぎに帰宅。今年もようやくひと心地着いた。
車中、『漂民宇三郎』を読む。井伏鱒二も漂流ものを書いていたと知ったのは最近のこと。そういえば『ジョン万次郎漂流記』も井伏鱒二だったっけ。吉村昭とちがって、緊迫感があまりない。それはそれで読みやすくていい。

2021年10月19日火曜日

吉村昭『北天の星』

先日、NHKの音楽番組でピアノの歴史を放映していた。
弦を爪に弾くチェンバロにくらべ、ピアノはハンマーで弦を叩くしくみを持つ。音の強弱を鍵盤のタッチで表現できるようになった。18世紀以降急速に普及する。そして最初にピアノを見た日本人は大黒屋光太夫であると伝えていた。
ときどきではあるが、吉村昭を読む。
丹念に資料にあたり、関係者の話を聴く。創作によるところもあるにはあるが、史実に忠実に描いていくその姿勢に感服する。とりわけ感心するのはテーマとなる事件が終わったあと、後日談もしっかりまとめ上げるところだ。作品をドラマティックに終えてもそれはそれでいいと思うのだが、大概の場合、吉村昭は事件後を描く。ふりかえる。
たいした予備知識もなくこの本を読みはじめた。漂流したわけではないが『アメリカ彦蔵』『大黒屋光太夫』のような話なのだろうと思っていた。それにしてもロシアというのはひどい国である。これはあきらかに拉致事件といっていい。当時、日本とロシアは摩擦状態にあったというが、おそろしい話である。
主人公五郎治は二度逃亡を試みる。樺太の500キロ北にあるオホーツクからである。はじめは陸路で、続いて船で。いずれも追手に捕らわれるのであるが、極寒の地で飢えと戦いながらの逃亡劇は『長英逃亡』とはまた違った意味でスリリングだった。
五郎治は5年後、国後島に帰ってくる。大黒屋光太夫は帰国まで10年かかったから、ロシア滞在期間は半分である。光太夫がロシアでピアノをはじめて見たように、五郎治は種痘の現場を目撃する。その方法を詳細に筆記する。参考となる文献も手に入れる。
鎖国政策の時代であるから、海外からの帰国者はきびしい尋問を受け、行動を制限される。監視もされた。それでもようやく日本の土を踏んだ五郎治。まずはめでたしめでたしだった。ところがここから後日談がはじまる。
吉村昭が伝えたかったのは帰国後の五郎治だったのだ。

2021年10月17日日曜日

吉村昭『漂流』

子どもの頃は冒険物語が好きで、ジュール・ベルヌの『十五少年漂流記』や子ども向きに書かれたダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』をよく読んだ。漂流してたどり着いた無人島で暮らすことを想像しながら。
大人になってからは無人島にもし一冊だけ本を持っていけるとしたら何?などと友人たちと会話していた。今なら『カラマーゾフの兄弟』と答えるだろう。無人島に一杯だけラーメンを持っていけたら、なんて話もした。
冬型の気圧配置が強まる。荒れた海。航行能力を失った船。北西風に流されて漂流する男たちはアホウドリが繁殖する島に着く。湧き水もない、火もない、岩だらけの島でどうやって行く生きていくのか。島から船影をみることはない。島にやってくるのは同じような漂流者のみ。絶望感の襲われて生命を落とす者もいる。
これまで何冊か吉村昭の小説を読んできたが、人間が生きていくことに関してここまで追い込んだ作品はなかった。軍艦をつくることも、トンネルを掘ることも、まぐろを獲ることも、ハブを捕まえることも、それはそれで大変なことだけれど、何もない、誰もいない、本来ならば生きるすべのない島で生きること、生きて帰ることを吉村昭はテーマに据えた。裏を返せば、人間の無力さとその克服がテーマであると言っていい。
土佐から4人で漂着した主人公長平は仲間を失い、ひとりで生きていく。後からやってくる漂流者から火や道具がもたらされる。人が増えることは知恵も増えることにつながる。長平がつくったのは保存食と防寒具だけだった。やがて彼らは道をつくり、池をつくる。そしてついには流木を集めて船づくりに取り組む。フイゴをつくって釘を鍛造する。それはそれは気の遠くなるような話である。
この小説は、人間という本来無力な存在が生きていく、その歳月の物語といえる。
無人島に一杯だけラーメンを持っていけるのであれば、日本橋たいめいけんのラーメンにしたい。

2021年10月13日水曜日

丹野智文『認知症の私から見える社会』

ついに横綱白鵬が引退の時を迎えた。
入幕したばかりの頃の白鵬をおぼえている。無駄も無理もないしなやか取り口でいずれは名力士になるであろう予感を持った。少年時代に卵焼きと読売巨人軍と並び称される国民的横綱大鵬がいた。若かりし頃の大鵬は知らないが、おそらく大鵬は白鵬のような柔軟な相撲を取っていたのではないかと想像した。
大鵬も白鵬も若くして頂点を極めた力士である。世間の風あたりも強かっただろう。横綱の地位は相撲の強さ以上の強さが求められる。その点、朝青龍も日馬富士も土俵の外で弱かった。横綱という地位はやはりたいへんなのだ。
白鵬は相撲を格闘技ととらえていた。もちろん相撲は格闘技ではあるのだけれど、神事であり、武道である。そのことを忘れて勝ち負けにこだわった相撲人生だった。彼の残した数々の記録がかすんで見える大相撲ファンは僕ひとりではないはずだ。
丹野智文は若くしてアルツハイマー型認知症と診断された。39歳のときだった。若さゆえに当時の絶望感もひとしおだったに違いない。もちろん今だって絶望感に襲われることがあるだろう。それでも彼は多くの認知症当事者に発信を続けている。当事者が暮らしやすい社会に向けて声を発している。自らの経験から得たアイデアを広く伝えている。
忘れることに備える工夫や予定を間違えない工夫、置き忘れをなくす工夫・物をなくさない工夫など、その工夫の数々が素晴らしい。タブレットやスマートフォンを積極的に活用していることも若い当事者ならではだ(高齢者には少しハードルが高いかもしれないけれど)。そしてこの本を執筆する際にもスマートフォンのメモアプリや読み上げ機能を活用したという。
丹野智文の文章や語り口には持ち前の明るさ、素直さが感じられる。そのせいもあって彼は、彼を支援してくれる人びとに恵まれている。
これからも多くの当事者の希望の星になってもらいたいと思う。

2021年10月10日日曜日

太田省一『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』

緊急事態宣言が解除された。
新型コロナ感染症の新規陽性者が8月下旬ころから減少してきた。なぜ減少してきたのかはいまだ解明されていない(納得いく説明を聞いたことがない)。ともかく昨年の今ごろと同じくらいの数に落ち着いている。
ひさしぶりに飲食店に出かける。30年ほど前に仕事でいっしょになった仲間ふたりとである(うちひとりは海外で仕事をしており、このタイミングで3年ぶりに帰国していた)。外でお酒を飲むのはほぼ一年ぶり。店は空いていて、入口も開けっ放し。極力マスクをするように気をつけていた。こうした飲み方がこれからのスタンダードなのかもしれない。お店の人は何時まででもいいと言ってくれたが、世の中全般ラストオーダー20時、閉店21時となっているので、はやめに解散した。
1980年代初めに漫才ブームが起きる。多くのお笑い芸人がテレビを席巻する。なかでもフジテレビ系の「オレたちひょうきん族」は毎週高視聴率をマークした。その後一時のブームは去ったものの、お笑い界は次から次へと新たな芸人を生んでいる。ここ数年も漫才やコントのコンテスト形式の番組をはじめ、お笑いはテレビの主要コンテンツになっている。
著者はテレビ文化論を専門とする社会学者で、お笑いの変遷を丁寧に調査分析している。説得力がある。現在の芸人たちを「お笑い第7世代」ととらえ、社会の変化とともにお笑いの質がどう変化してきたか語る。「第7世代」の前、80~90年代にかけて活躍した「第3世代」を生む土壌となったのが漫才ブームであり、タモリ、たけし、さんまのビッグ3である。
明石家さんまは毎日放送「ヤングおー!おー!」の頃の記憶はあるが、あまり頻繁に視ていなかった。関西の芸人ということで少し距離があったのかもしれない。タモリとビートたけしは主にラジオの深夜放送で熱心に聴いていた。なつかしい。
外飲みから帰宅して一時間くらいして大きな地震があった。

2021年10月4日月曜日

浅田次郎『長く高い壁 The Great Wall』

大学に進んで、第二外国語としてドイツ語を選択した。1年次に履修する初級(ドイツ語Ⅰ)はなんとかクリアしたものの、中級(ドイツ語Ⅱ)の単位を取得できないまま4年生になっていた。もうこれはなんとしてでも取らなくちゃならないならない。
当時の記憶はほとんどない。とりあえず飛び込んだ教室で履修カードを出した。幸運なことにカフカの短編を読む講義だった。毎週日本語訳をノートに書いて授業にのぞむには難解で手間ではあったが、カフカを読むというのはひとり旅した未知の街で知人に偶然会ったような気持だった。とはいえ文庫本で『変身』『審判』『城』を読んだ程度の付き合いでしかなかったが。
大学生としてのラストシーズンで(追いつめられながら)読んだのは“Beim Bau der Chinesischen Mauer”、直訳すると「万里の長城が築かれたとき」といった感じか。1981年、新潮社から決定版カフカ全集が刊行された年である(知っていれば手に入れていたのだがなあ)。独和辞典と格闘しながら、なんとか読み終えた。学年末の最後のテストもクリアできた。今この歳になってみれば、笑って話せる思い出のひとつだ。
浅田次郎のこの小説は、万里の長城が舞台になっている。
従軍記者として中国戦線に派遣された探偵小説家小柳逸馬が謎の事件の解明のため、現地に派遣される。戦記のようでもあり、推理小説のようでもある。事件に関与したと思われる人物一人ひとりの尋問が積み重ねられ、軍部の不合理もあぶり出され、この戦争の意味も問われる。が、それにもまして印象に残るのは兵士たちがうまそうに食べる中国料理だ。貧しいと思っていた中国の食卓は豊かなものだったと浅田次郎は登場人物の川津中尉に語らせている。
それはともかくとして、万里の長城という謎に包まれた舞台で謎に包まれた事件が起こる。謎に満ちた小説だった。万里の長城の謎を僕はカフカの短編に教えてもらった。

2021年10月2日土曜日

恩蔵茂『「FMステーション」とエアチェックの80年代』

大学生になってアルバイトをはじめて、最初に買ったのはカセットデッキだった。大学の生協で値引きされていた。
当時ウォークマンは発売されていなかったけれど、音楽を楽しむ主要メディアはカセットテープだった。うちにあるのはカセットデッキのみ。友人にレコードからカセットにコピーしてもらい、ヘッドホンで聴いていた。そのうちステレオを買い替えるという友人があらわれ、アンプとチューナーが要らなくなったという。あわせて5,000円で譲るという。10代でステレオを買い替えるというのはどんなお育ちだったのか知らないが、その週にアンプ、その次の週にチューナーを大学で受けとった。秋葉原に行って、小ぶりなスピーカーの箱(エンクロージャと呼ぶにはあまりに安価だった)と直径16センチのフルレンジスピーカーをふたつ買って、アンプにつないだ。ウォークマンが世に出る一年前、なんとか世間の若者並みに音楽を楽しめる環境ができた。もちろんラジカセが一台あれば済んだのだろうが。
レコードプレイヤーがなかったので録音する音楽はもっぱらFM放送だった。テレビやラジオの放送を録音することをエアチェックと呼んでいた。この本のタイトルを見たとき、上記のような昔日の思いがよみがえった。
FM情報誌という雑誌があった。
著者はそのなかの「FMステーション」という隔週刊誌の編集にたずさわっていたという。FM局がまだまだ少なかった時代とはいえ、時間に追われるたいへんな仕事だっただろうと想像する。ましてや先行する三誌「FMファン」「週刊FM」「FMレコパル」に大きく後れをとった新規参入。雑誌そのもののアイデンティティを見いだせないままの行き当たりばったり。70年代後半から80年代にかけて、時代はそんな自由さを許してくれていたのかもしれない。
当時、僕が愛読していたのは「FMレコパル」だった。
著者にはちょっと申し訳ない思いで読み終えた。

2021年9月24日金曜日

岩嵜博諭、佐々木康裕『パーパス 「意義化」する経済とその先』

5月だったか6月だったか、とある企業のパーパスを認知させるための動画を企画した。
パーパスとは存在理由、存在意義のこと。企業が何をしているか、どうしているかではなく、なぜ企業として存在しているかを問うたメッセージである。ミッション(使命)やビジョン(めざす未来の姿)とは少し違う。これまで多くの企業が最上位概念としてビジョンを策定し、そのためのミッションを宣言し、経営計画、事業戦略を練ってきた。パーパスはさらにその上、ピラミッドの頂点に位置する。
そもそも何のためにビジネスを行うのかという視点が生まれた背景には消費者がモノを買うだけの消費者から社会をよりよくするために消費する市民に変化したことがあげられる。こうした変化を支えているのがミレニアル世代(1980~95年生まれ)、Z世代(1996~2015年生まれ)と呼ばれる若い世代である。彼らにとって企業の存在意義は株主価値最大化ではなく、社会をよりよい方向に進化させることであるという。地球環境、消費者の価値観、企業間の競争環境の変化のなかでパーパスは重視されてきている。
社会をよりよくしようという取り組みはすでに進められている。持続可能な資材を使った製品開発、使い捨てをやめて修理再生可能な製品やサービスの確立など、この本には多くの事例が紹介されている(ファッション関連が多い)。またパーパスを起点にして社会的な責任を果たす企業が従来の行政に代わって公的活動を提供することも予見されている。なかなかスケールの大きい話であるが、実現すれば世界は大きく変わっていくような気がする。
さて、パーパス動画の企画であるが、手さぐり状態であれこれ模索し、立案し提案した。残念ながら競合プレゼンテーションに敗れ、不採用だった。もう少し事前にパーパスのことを学んでおけばよかった。あまりにも不勉強であったことは否めない。
終わってみてわかることがよくある。

2021年9月19日日曜日

丹野智文『丹野智文笑顔で生きるー認知症とともにー』

2020年1月。厚生労働省の認知症普及啓発の取り組みとして、認知症になっても希望を持ち、前を向いて暮らしている姿を全国に発信する認知症当事者「希望大使」の任命がはじまった。選ばれた5人のなかでいちばん若い丹野智文は当時46歳。認知症と診断されたのは39歳のときだった。
昨年来、認知症普及啓発の動画制作を手伝っている。その準備のリモート打合せで著者とは何度か同席している(直接会ったことはない)。この人のどこが認知症なのだろう(そういう見方もやはり認知症に対する正しい理解ではないかもしれないが)と思えるくらい、前向きで明るい人である。時間や空間の見当識障害はさほどなく、人の顔と名前がおぼえられないらしい。認知症と診断されたあと、学生時代の部活の仲間で集まったという。帰り際にこんど会ったときには顔を忘れてるけどごめんねと声をかけた。すると仲間たちから君はおぼえてなくても僕たちはおぼえているからだいじょうぶ、と言われたという。
認知症と診断されたときに職場の社長や上司が理解を示してくれた。営業職は難しいから内勤で仕事を用意してくれたという。営業マンとしての丹野は自分も好きなクルマをどう売ろうかと創意工夫を重ねた。それは彼の生きがいでもあった。若年性アルツハイマーの方で仕事を失った人も多いと聞く。そういった点でも丹野智文はいい職場環境と人間関係を持っていた。もちろんそれは彼の持ち前の明るさ、人なつっこさによるかもしれない。それはこの本を読むとよくわかる。
しかしながら生来前向きの著者も苦しいこと辛いことは山ほどあった。それもこの本読んではじめて知った。そして苦しく辛い日々を乗り越えて、いまの丹野智文がいる。彼に励まされ、力を与えられた認知症当事者は数えきれない。まさに「希望大使」を地で行く存在である。
毎年9月は世界アルツハイマー月間。そして21日は世界アルツハイマーデーである。

2021年9月17日金曜日

藤田和子『認知症になってもだいじょうぶ!そんな社会を創っていこうよ』

5月だった、吉岡以介に戸越銀座で会ったのは。
昨年大井町での邂逅もそうだったが、先月五反田で声をかけられたのはびっくりした。おにやんまでうどんを食べ、店を出たところでばったり出くわした。母親が戸越の特別養護老人ホームに入所していることは聞いていた。
母親が熱を出し、大井町の病院に入院していたという。肺炎らしい。2週間ほどで症状は落ち着いて、退院した。病院から施設に送り届けた帰りにうどんを食べたくなったそうだ。
以介がいう。脳疾患で入院して半身が不自由になり、認知機能も低下してきた。人との、社会との接点を失った。俺はその、いちばんだいじなところに気がつかなかった。リハビリすれば少しは回復して、元どおりとはいわないまでも生きるすべが見つかると思っていた。そうじゃないんだ、おふくろにいちばん必要だったのは「役割」だったんだ。こんな姿の自分を人さまには見せたくないと彼女は思うだろう、だから誰にも面会させなかった。そうじゃなかったと今思う。
以介はおにやんまの前で、さほど親しくもない僕の前で泣いた。
若年性アルツハイマー型認知症と診断された著者はもともと前向きな人だったのだろう、PTAの役員として人権教育推進にたずさわってもいた。こうした背景があって、認知症当事者(認知症本人を患者とは呼ばない)として、多くの当事者に声をかけ、仲間を集め、組織をつくり、その声を社会のすみずみに届けようとしている。認知症に対する偏見や誤解をなくし、当事者がよりよい人生を自分らしく生きられるようにと。
巻末第6章にはパートナーたちの言葉が寄せられている。医師、看護や介護、当事者としての活動をサポートする人、そして家族。当事者と彼ら、彼女らは支援される支援する関係ではなく、対等な関係で認知症本人もそうでない人も住みよい社会をつくっていくために活動するパートナーなのだというのが著者の考え方だ。
素敵なことではないか。

2021年9月15日水曜日

浅田次郎『終わらざる夏』

北海道には何度か足を運んでいるが、それより北には行ったことがない。もちろんその先に国境があるためだが、聞けば稚内から樺太(サハリン)の大泊(コルサコフ)へは定期便のフェリーがあるという。千島列島への便はない。ロシア統治下にある樺太と千島列島ははなれているが、同じサハリン州に属している。
以前、仕事で北方領土について調べたことがある。両国の主張、交渉の経緯など知れば知るほど謎だらけだ。ロシアにはロシアの言いぶんがあるのだろうが、主に日本人が暮らしていた島々を武力をもって制圧した彼らは胸を張ってその地を祖国領土と思えるのか。謎である。千島(クリル)列島はカムチャツカ半島の延長上の島々だからロシア領、色丹島、歯舞群島は北海道の延長にあるから、日本領という解釈もあるらしい。だったらとっとと返還すればいい。
毎年8月には戦争関係の本を読もうと思っている。今年はどうしたわけか認知症の本ばかり読んでいた。月末になってようやくこの本を読みはじめた。
千島列島最北の島で終戦直後に戦闘があったことをまったく知らなかった。
アラスカとカムチャツカの中ほどにあるアッツ島を制圧した連合国軍が千島列島を経由して北海道、本州と攻め入ってくるのではないかと推察した日本軍は北方に強力な戦車隊を配備した。ところがこの優秀な部隊はいちども戦闘を交えることなく、終戦を迎えた…。というのが、おおまかなあらすじ。描かれているのは終戦前後のわずかな日々。終戦工作のために応召された3人をはじめとして主役が入れ替わるように物語は少しずつ展開する。
僕は常々、浅田次郎を大人のおとぎ話作家だと思っていたが、この本の中でもファンタジーがある。戦争を題材にした小説には不似合いなのではないかとも思えるが、これも浅田次郎らしさか。
占守島には赤く錆びた帝国陸軍の戦車が遺されているという。なぜソ連は日ソ中立条約を破棄したのか。それもまた謎である。

2021年9月9日木曜日

岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説――「俺たちシリーズ」などとTVドラマの黄金時代』

青春ドラマはよく視ていた。
主に日曜夜8時から放映されていたと思うが、ほとんど平日午後4時から再放送で視たと記憶している。平日のそんな時間にテレビを視ていたということは、おそらく高校受験か大学受験の頃に集中的に視ていたのではないか。
初期、夏木陽介の「青春とはなんだ」、竜雷太の「これが青春だ」あたりは小学低学年の頃のドラマだから、記憶に残っているのは中高生になった頃に視たせいだと思う。中学生の頃は村野武範の「飛び出せ!青春」、中村雅俊の「われら青春」、高校生になって「俺たちの旅」を視た。ずいぶん前に村野武範とコマーシャルの撮影をしたことがある。ディレクターのプロフィールを送れというので、(「飛び出せ!青春」の主題歌「太陽がくれた季節」を歌った)青い三角定規の西口久美子は中学の先輩、名古屋章(ドラマに出てくるラーメン店の店主)は高校の先輩にあたります、と、どうでもいいことを書いたおぼえがある。
視聴経験があるくらいの記憶はあるけれど、ひとつひとつの内容まではおぼえていない。数年前だったか、「俺たちの旅」がBSで再放送されていた。不思議なことに、視ればだいたいのストーリーを思い出す。
テレビコマーシャルなどの映像制作に長年携わっているが、ドラマや映画をつくったことはない。いわゆるスポンサー(広告主)にお金を出してもらって、一定以上の効果(CMなら売上げやイメージの向上、ドラマなら視聴率)が求められるというおおまかなしくみは同じだけれど、実際につくってみるとスピード感や精密度など相違点は多いのではないかと考える。撮影の規模も違う。出演者も多く、地方ロケなどその統率がたいへんだろう。
著者は主に日本テレビでドラマを担当していたプロデューサーである。現場のスタッフと異なった視点でドラマ制作を見ていたらしいことは読んでいてよくわかる。
同じような仕事でもいろんな見方があるということだ。

2021年9月1日水曜日

長谷川和夫『よくわかる認知症の教科書』

人の名前が思い出せない。
こうしたことが最近頻繁に起こる。認知症かと疑うが、以前読んだ本に「思い出せない」のはただの老化であり、認知症というのは「おぼえられない」のだと書いてあった。その本の題名は思い出せない。
テレビドラマを視ていて俳優の名前が出てこないことがある。誰それと結婚した某だなど、少しでもヒントがあれば今は便利な世の中で検索すれば出てくる。だがしかし、検索に頼ってばかりいるとそのうち何もかもが思い出せなくなりそうで少し怖くなる。
先日も今読んでいる本の著者の名前が思い出せなくなった。苗字はわかる。浅田である。下の名前が思い出せない。作品は思い出せる『鉄道員(ぽっぽや)』『地下鉄(メトロ)に乗って』の著者である。とっさに浮かぶのは彰(あきら)である。どうしたわけか昔読んで難解さしか残らなかった『構造と力』の著者が思い浮かぶ。
アキラではないが、三文字名前であることには妙に確信が持てる。特にすることもなかったのでアイウエオ順に思いつくだけの三文字名前を思い浮かべることにした。アサト、アツオ、アツシ…、イ…、ウ(これは思い浮かばない)…、エイジ、エイタ…。そうこうするうちにサ行。サトシ、サトル、サキト…、シゲル、シゲオ、シゲキ…。ここでようやく思い出す。そうだジロウだと。番号カギをいじって自転車を盗むような作業だったが、ものの15分で思い出すことができた。
先日読んだ長谷川和夫の本。だいたいこの一冊で認知症に関する基礎知識は得られる。認知症とは何か、から診断のプロセス、薬物療法、非薬物療法といった治療方法(薬の種類やさまざまなリハビリテーションまで)、予防やケアの方法に至るまで懇切丁寧に解説されている。認知症は現時点で根治不可能な病ではあるけれど、つまり全貌は詳らかにされてはいないけれど、今わかっていることがわかりやすく解き明かされている。
まさによくわかる教科書である。

2021年8月27日金曜日

長谷川和夫『ボクはやっと認知症のことがわかった』

認知症の本ばかり読んでいる。
長谷川和夫という名前を知る。この本の著者である。認知症世界のレジェンドである。
杉並の高井戸に浴風会という戦前からある高齢者養護の施設がある。その敷地内に認知症介護研究・研修東京センターがあり、認知症介護の研究と介護の専門家の育成を行っている。長谷川は2005〜09年までセンター長だった(05年当時は高齢者痴呆介護研究・研修センターと呼ばれていた)。現在は名誉センター長であり、長谷川式認知症スケールと呼ばれる簡易的な知能検査を考案者としても知られている。
長年認知症の研究と臨床にたずさわってきた長谷川が認知症と診断される。この本は認知症当事者になった認知症研究者の貴重な記録だ。
多くの認知症当事者と向き合ってきた長谷川は自らが当事者になったことを悲観することなく、むしろ前向きに受け容れる。身をもって認知症を理解することができるというのである。専門家であり、当事者でもある。その強みを活かして、認知症理解の普及啓発に取り組む。
昨年とある認知症当事者の話を聞いたことを思い出した。鳥取に住むその女性は、看護師として医療現場で認知症当事者と多く接してきたという。診断された直後はこれからのことを考えて不安になったり、落胆したそうだが、そのうちに看護師の経験を活かせるかもしれないと思うようになり、認知症カフェなどで積極的に認知症本人の方々とコミュニケーションするようになったという。認知症になっても自分らしく、いきいきと過ごせるのだということを「楽しく認知症」というキーワードを駆使して伝えている。
地方都市に暮らす認知症世界の小さなレジェンドである。
長谷川和夫の息子で同じく精神科医の長谷川洋は新聞社の取材に認知症研究の現場から徐々に離れていった父は、自分が認知症になったことで認知症の研究に新たな視点を持つことができたと答えている。
レジェンドのレジェンドたる所以である。

2021年8月23日月曜日

瀧靖之『脳はあきらめない! 生涯健康脳で生きる 48の習慣』

近ごろの若いもんは、と長年言われ続けているうちにいつしか言う立場になっていた、ということがしばしばある。
映像制作会社の社長である知人が言う。最近の20~30代の社員は広告クリエイティブのことをあまりに知らなさすぎると。レジェンドと呼ばれるコピーライターやアートディレクター、名作とされる広告コピーやテレビコマーシャルに関する知識が皆無であると嘆く。仲畑貴志の話をするのに仲畑貴志とは何者であるかから説明しなければならないという。なかにはそんな知識必要ですかと逆ギレされることもあったらしい。これは映画製作が仕事であるのに、過去の名画や著名な監督をまったく知らないに等しいことで憂えるべき事態ではある。もちろん僕らの世代もその時代なりに不勉強であったことは否めないけれど。
そこで社長は月に何度か社員が集まる全社的な会議で最近の話題作(今広告関係の出版社などが話題のCMを雑誌やウェブで紹介している)を見せて、その制作にまつわるエピソードなどを紹介する勉強会をはじめた。
「演出は○○さん、皆さん知ってますか」
「………」
「この人は他にも□□や△△の仕事もしている有名な方です。おぼえておいてください」
みたいなやりとりをしているようだ。
知識はいずれ役に立つ、という考え方に僕らはずいぶん騙されてきた。そもそもが役に立つ知識なんてそう簡単にはおぼえられない、身につかない。20歳を過ぎた大人は役に立つ知識なんて信じていない。仲畑貴志の名前と仕事を知ったところで彼らの脳内にどれほどのドーパミンが放出されるだろう。若者たちにたいせつなことを知識として吸収してほしいと願う社長の気持ちもわからないではないが、肝心なのはどうやって彼らに好奇心を持たせるかではないか。
知的好奇心のレベルを上げていくことが脳への栄養素となり、ドーパミンが分泌されることによって、記憶力がアップする。そのようなことがこの本に書かれていた。

2021年8月21日土曜日

本田美和子、ロゼット・マレスコッティ、イヴ・ジネスト『ユマニチュード入門』

ラピュタ阿佐ヶ谷で長門裕之の特集が組まれている(長門裕之--Natural Born 銀幕俳優)。
長門裕之と聞くと僕たちの世代では、おしどり夫婦の気のいいおじさん的な印象が強いが、父沢村国太郎、祖父牧野省三、叔父加東大介、叔母沢村貞子、そして弟津川雅彦と演劇・映画一族の血を受け継いでいる。加東大介、沢村貞子が出演している映画は何本か観ているけれど、長門裕之の映画はあまり観ていない。「太陽の季節」「赤ちょうちん」くらいか。そんなわけでラピュタ阿佐ヶ谷まで出かけて、今村昌平監督「豚と軍艦」を観る。
終戦後、朝鮮戦争の時代の横須賀が舞台になっている。空気感としては澁谷實「やっさもっさ」の横須賀版といったところか。おもしろい映画だった。
先日読んだ上田諭『認知症そのままでいい』で「ユマニチュード」というフランスで開発された介護手法があることを知った。以前NHKテレビ「クローズアップ現代」で紹介されて話題になったという。この手法は各地で成果を上げており、「魔法のケア」などとも呼ばれている。
というわけでこの番組放映後に発刊されたこの本を読んでみた。
ユマニチュードという技法は、「人とは何か」「ケアする人とは何か」を問う哲学と、それにもとづく150以上の実践技術から成り立っている。これをつくり出したふたり、イヴ・ジネストとロゼット・マレスコッティはもともと体育学の教師だったという。その後、医療と介護の現場にたずさわるようになる。病院や施設で寝たきりの人や障害のある人でも「人間は死ぬまで立って生きることができる」としてケアの改革に取り組んだ。
難解な本ではない。「見る技術」「触れる技術」「話す技術」「立たせる技術」など基本的なことが書かれている。むしろ拍子抜けするくらい常識的なことだ。
平易にやさしく介護者の背中を押してあげていることが、この技術のいちばんすぐれた点なのだと思う。

2021年8月18日水曜日

上田諭『認知症そのままでいい』

銀座の小さな広告会社に勤めていた当時の上司から手紙をもらった。正直言って突然の手紙におどろいた。何かあったのかとも思うが筆跡は本人のものである(彼とは賀状のやりとりを続けている)。
小さな広告会社といっても親会社は最大手で彼はそこから出向してきた。文面には貴君の仕事にとって貴重な資料を20数年にわたって預かったままになっている、返却したいが、手紙の表書きの住所でいいか、確認のために同封のはがきを返送してほしい、その際近況など記されたくと書かれていた。そのまま黙って送り返してくれればいいものをまわりくどい手続きを踏むのは往年の彼らしい。
昨年認知症啓発の仕事にたずさわったことは以前書いた。そのとき感じたのは制作の過程で多くの協力者と打合せを重ねるのだが、自分があまり認知症のことを理解できていないということである。そういうわけで題名に認知症と書かれている本を時間のあるとき目を通すようになった。
この本は認知症を特別視しないという一貫した考え方に基づいて書かれている。加齢とともにリスクが高まり、根治する手立ては今のところない。予防もできない。早期発見できたところで投薬治療によって進行を遅らせるだけである。もちろん薬物を投与するということは副反応のリスクも負う。
認知症の主症状は認知機能が低下することである。よく認知症になると元気がなくなるとか、暴力をふるうとか、何かを盗まれた、ここは私の家じゃないなどといった被害妄想におそわれるというけれども、これらは認知症の中核症状ではなく、周辺症状=BPSD(行動・心理症状)であるという。これらは案外本人の話に耳を傾けなかったり、本人を人として尊重しなかったりすることで見られる症状である。認知症と認知症本人に対する正しい理解と接し方がいかに重要かがわかる。
数日後元上司からテレビCMを多くつくっていた当時の僕の作品集が送られてきた。VHSのテープで。

2021年8月17日火曜日

永田久美子監修『認知症の人たちの小さくて大きなひと言 〜私の声が見えますか?〜』

毎年8月のお盆時期は南房総の父の実家に出向いていた。掃除をして、迎え火を焚いて、墓参りに行く。隣の集落に住む従兄弟の家を訪ね、線香を上げる。15日に送り火を焚いて、最後の墓参りに行く。
これがそれまでの「日常」だった。
新型コロナウイルス感染拡大にともない、昨年の夏はお盆の中日に日帰りにした。早朝の高速バスで隣集落で下りて、従兄弟の家を先にまわる。母方の墓を訪ね、午後、父の実家に着く。自分の家を皮切りに親戚の墓所をまわる。夕方の高速バスで帰京する。あわただしい一日だった。
感染拡大は止まらない。7月から8月にかけて千葉県でも陽性者が増えている。地元紙のホームページを見ると館山市や南房総市も多くいる。地元に住む叔母と従妹に相談する。おそらくひとりで来て、誰にも会わずに墓参りして帰るだけなら行けないこともなかったかもしれない。それでもお盆時期に混雑する駅や渋滞する高速バスはリスクが高い。
昨年認知症の普及啓発動画を制作した。全国から取材できそうな人を選んで(これには認知症の人と家族の会日本認知症本人ワーキンググループのスタッフ方々の協力をいただいた)、インタビューする。認知症だから何もわからないなんてことはない。デイサービスに通いながら、リーダーシップを発揮する元企業の総務部長がいた。認知症の看護を担当して元看護師は認知症と診断された自分の経験を率先して話してくれる。認知症当事者の声は貴重だ。
この本にはそうした当事者や家族、医療や介護にあたる支援者のさりげないひとことが集められている。誰が書いたというわけでもない。認知症介護研究・研修センターの永田久美子が監修している。あとがきに当事者ひとりひとりが放つ希望のキラーパスを、心を開いて、耳を澄ませて受けとめなければいけないというようなことを書いている。深く心にしみる。
お彼岸には墓参りに行きたいと思っている。日常は戻ってくるのだろうか。

2021年7月27日火曜日

斎藤三希子『パーパス・ブランディング 「何をやるか?」ではなく「なぜやるか?」から考える』

オリンピックの卓球で金メダルの可能性があるとすれば、混合ダブルスではないかと思っていた。
可能性があるといっても中国ペアの壁は厚くて高い。決勝はこてんぱんにやられるのではないか、0-4でしかもトータルで20得点も取れないのではないか、30分で試合が終わるのではないか、そんな思いで視ていた。
第一ゲーム、第二ゲーム。伊藤美誠が完璧に分析されている。中国選手になんどか勝ったことのある選手は徹底的にマークされる。似たタイプの選手をさがしてきて、いいところわるいところを洗い出し、弱いところを攻める。水谷が序盤つなぐことに徹していたこともあり、とりわけ伊藤を完璧に理解しているリウシーウェンが水谷から返される簡単なボールをとらえ、伊藤の弱点を徹底的に狙いうちした。
第三ゲームから流れが変わる。水谷が修正する。ナックルドライブ(水谷は回転をかけるフォームで回転をかけないボールを得意としている)で中国ペアをゆさぶる。フォアハンドにこだわり、台からはなれて強打をくりだすシュシンの裏をかく。強豪中国に一矢報いる方法論が見つかる。気持ちが前を向く。
これで常勝中国が浮足立てば、ミスも出てくる。案の定、スピード・パワー・回転に勝るシュシンもリウシーウェンも本来の卓球ができなくなっていく。
電通の佐々木康晴がここ数年、表現アイデアやクラフトではなくパーパスの戦いになっていると先月のカンヌライオンズ*のアワードの結果を受けて語っているように、広告クリエイティブの世界はパーパス=企業の存在理由の時代になりつつある。なにをやるか、どうやるかではなく、なぜやるのか?本音と建前が共存する日本でどこまで浸透するかわからないが、とても腑に落ちる考え方だと思う。
それはともかく、2006年の全日本優勝以来10年以上にわたって日本の卓球を支えてきた水谷隼に金メダル。卓球の神様もまだまだ捨てたものじゃないと思った。

*カンヌライオンズ国際クリエイティビティ・フェスティバル
One Show、Clio Awardsとならぶ世界三大広告賞のひとつ。毎年6月フランスのカンヌで開催される。

2021年7月26日月曜日

筧裕介『ソーシャルデザイン実践ガイド 地域の課題を解決する7つのステップ』

人なみに東京オリンピックの開会式を視た。
開会式といえば、選手入場、開会宣言、最終聖火リレーから点火。これだけあればいい。ずいぶん前からオリンピックの開会式、閉会式は余興に熱心である。企画する人、パフォーマンスを見せる人はたいへんだろうが、視ていてそれほど感情移入できない。
聖火の最終リレーで長嶋茂雄が王貞治、松井秀喜とともに登場した。松井が長嶋をしっかり支えていた。長嶋のまなざしに、彼のスポーツに対する、とりわけオリンピックに対するひたむきな思いが映っていた。今回の開会式でいちばん印象深いシーンだった。
ここから先は勝手な想像である。
その日、長嶋茂雄は長男一茂の運転するクルマで国立競技場入りした。車いすに移乗させ、控室まで連れて行ったのは一茂。先に競技場に入った王と松井が待っていた。
一茂は松井の前で父を抱き起こして直立させる。腰に手をあてがい、歩行の際の注意点を教える。こんどは松井が長嶋を抱え立たせる。一歩二歩と松井に支えられた長嶋は歩いてみせる。
以前『ケアするまちのデザイン』というソーシャルデザインの本を読んだ。
この本はその続編というわけではないけれど、世の中にある社会的課題の解決に人びとを導いてくれる。本の帯にコミュニティデザイナー山崎亮の「こんなにわかりやすい本が出るなんて、これからソーシャルデザインに取り組む人は幸せだなあ。」という推薦文が載せられている。この本を手にとったきっかけでもある。
常日頃ソーシャルデザインの仕事にたずさわっているわけではないが、それに近いことを手伝っている。自分がやっていることが森の中に道をつくる一助になってくれているとうれしい。
聖火リレーは無事終わる。一茂は王と松井に謝意を示し、ふたたび車いすに移乗させる。そしてそのまま報道関係者の目にふれられることなく、国立競技場を後にした。
そんな舞台裏があったのではないかと勝手に思っている。

2021年7月19日月曜日

佐野洋子『そうはいかない』

大相撲名古屋場所。
成績如何では引退を余儀なくされる崖っぷち横綱白鵬、そして3連覇と横綱昇進をかける大関照ノ富士が全勝で千秋楽を迎えた。歴史をひもとくと千秋楽の全勝対決は過去に5回しかないという。直近では2012年の同じく名古屋場所の横綱白鵬と大関日馬富士。このときは日馬富士が勝って全勝優勝した。
14日間の土俵で安定した強さを見せていた照ノ富士が白鵬を圧倒するのではないか、そう思ったのは僕だけではないだろう。今場所の白鵬は横綱という看板だけで相撲をとっていた。威圧的、威嚇的な相撲で内容的には今ひとつだった。結果的には白鵬が勝ち名乗りを受け、全勝優勝を果たしたわけだが、千秋楽の相撲はことさら杜撰だったと言わざるを得ない。肘打ち、張り手、関節技のような強引な小手投げ。勝負にだけこだわった品格のない相撲内容。しかも雄叫びとガッツポーズのはしたないおまけ付き。場所後横綱に昇進するであろう照ノ富士に、横綱という地位は勝つためなら手段を選ばないのだというメッセージだったのか、こんな品位に欠ける相撲をとってはいけないのだというメッセージだったのか。
いずれにしても白鵬の心技体が劣化していることが証明された名古屋場所だった。45回目の優勝。おそらくこれが白鵬最後の優勝になるのではあるまいか。
佐野洋子はこれで何冊目になるだろう。
この本はエッセーのようなフィクションのような不思議な空気をまとっている。おもしろいかおもしろくないかと訊かれれば、間違いなくおもしろい。どこがおもしろいかというのは難しいのだが、吸った息をそのまま吐きだすように綴られた一つひとつの文章がおもしろいのだ。著者の思っていることが嘘いつわりなく書かれているように思えて、読んでいてなぜかうれしくなったりするのである。自然体であるとか力みがないとか、そういう文章技術以前に人間まる出しな感じがなんともいえずいいと思う。

2021年7月18日日曜日

原研哉『デザインのデザイン』

長いこと広告制作の仕事にたずさわっていながら、グラフィックデザインに関しては不勉強なままである。
広告コミュニケーションは人を動かすことがたいせつでその際いちばん重要なのはメッセージなのだとずっと考えてきた。デザインはそのなかの一パート=ビジュアルに過ぎない。そんな誤った歴史認識を持ち続けていた。誤った歴史認識というのは大げさな言い方ではあるが、そもそも広告の原点はデザイン=ノンバーバルなコミュニケーションだった。どのようにして伝わる広告をつくるかといった視点で広告をつくっていたのはグラフィックデザイナーであり、アートディレクターだった。アートディレクターという概念を日本に導入したのは新井静一郎と言われているが、くわしいことは忘れた。たしかに古い広告を見ると制作者は杉浦非水、山名文夫などグラフィックデザイナーである。
コピーライターが存在感を増してくるのは昭和でいえば30年なかばか。花王の上野壮夫、森永製菓の村瀬尚、資生堂の土屋耕一、電通の近藤朔らが東京コピーライターズクラブの前身であるコピー十日会を発足させたあたりである。この頃から広告制作の作家としてのコピーライターが意識されはじめた。
グラフィックデザインの世界では戦後間もない昭和26(1951)年に日本宣伝美術会(日宣美)が設立される。日宣美の作品公募は若いデザイナーたちの登竜門としてすぐれた人材発掘の場となった(残念ながら、20年にも満たないうちに公募は中止され、日宣美も解散してしまったが)。
著者原研哉は1958年生まれ。日宣美の時代のデザイナーではないが、若い頃から多くの巨匠と呼ばれるグラフィックデザイナーたちと同時代を生きてきたことが文章から感じられる。日本のグラフィックデザインの流れのなかにあって、きちんと歴史を見つめてきたグラフィックデザイナーのひとりであることがうかがえる。たいへん勉強になった。

2021年7月6日火曜日

ねじめ正一『落合博満論』

左足を三塁方向に踏み出して、身体は投手とやや正対するような構えで投球を待ち、やわらかく、それでいて鋭くバットを振り抜く。その打ち方は評論家がしばしば言う「身体が開く」打ち方であまり効率的な打法ではない。それでも落合が右に左にセンターにヒットやホームランを量産できたのは右足に体重を残して、スイングの軸にしていたからではないか。身体を開くことで内角も外角もふところを深くして待つことができる。基本はセンター方向に打ち返す。結果、内角に来たボールはレフト方向に、外角のボールはライト方向に素直に打ち返される。
落合博満のバッティングを僕はこのように見ていた。もちろん僕は本格的に野球をやったことはない。あくまでひとりの野球ファンとしての見解である。
小学校の頃、クラスの男子の大半は巨人ファン。なかでも圧倒的な人気を誇ったのが長嶋茂雄である。三塁手で四番打者で背番号3を希望する者が多かった。長嶋のバッティングフォームや守備をまねる者も多かった。1960年代の終わり頃から70年代にかけて、長嶋茂雄は打点王を続け、存在感はあったものの、打率、本塁打では翳りが見えはじめていた。それでも71年に最後の首位打者になったときは、やっぱり長嶋だと熱狂したのをおぼえている。
落合博満も長嶋ファンだったという。60年代の長嶋全盛期を目にしてきたに違いない。華やかな球歴を持ち、常勝チームの一員としてスター街道を歩んできた長嶋と当時の野球文化(あるいは野球部文化といってもいいかもしれない)になじめなかった落合とではその出自は異なるが、野球というスポーツの本質、チームとして勝敗を決する競技であることを十分すぎるほど知っていた。そのことは監督としての落合を見るとよくわかる。長嶋を日本一にした落合は、自らも日本一のチームを率いたいと思ったのだろう。
それにしても落合のバッティングフォームは長嶋のそれによく似ていた。