2020年2月26日水曜日

松本清張『点と線』

JR大井町駅の南側に通称「開かずの踏切」がある。子どもの頃は近くに鮫洲などという地名もあったから、アカズの踏切というのは固有の名称だと思っていた。都市部を中心にそこらじゅうにあるものだと知ったのはずいぶん大人になってからである。気がついたときには、踏切のすぐ近くに歩道橋ができた(いつごろできたか記憶にないが、本来の機能を発揮しない踏切の代替機能をじゅうぶんに果たしていた)。
小学生の頃、にわかに鉄道ブームが起こった。
友人らと日曜日の朝、写真を撮りに出かける。歩道橋からのアングルはちょっとかっこよかった。それぞれが当時どの家庭にも一台はあった小さなカメラを持って出かけた。オリンパスペンとか、リコーオートハーフ。僕が使っていたのはキヤノンデミというやはりハーフサイズのカメラだった。
何を撮るかといえば、前日の午後九州を発した寝台特急列車である。西鹿児島から、熊本から、長崎、佐世保から夜を徹して走り続けたブルートレインが早朝から東京駅にたどり着く。当時牽引していたのはEF65という電気機関車である。前面にはさくら、みずほ、はやぶさなど列車の愛称を記したヘッドマークプレートを掲げていた。要するに撮りたかったのはそれである。
松本清張に限らず、昭和の小説や映画では夜汽車が数多く走る。ブルートレインと呼ばれた豪華な寝台特急列車だけではない。堅い二等車の座席で目がさめると窓外は一面の雪景色だったりする。
この小説は、鉄道愛好家の間で時刻表に精通した犯人が巧みなアリバイ工作をはかることでもよく知られている。東京駅13番線ホームから15番線に停車中の博多行き特急列車を見渡せる例のシーンである。
定期的に運行される寝台特急も今となってはわずかとなってしまった。夜間長距離を走る列車もあるにはあるが、不定期運行となっている。松本清張で夜汽車の気分を味わうというのはちょっとしたぜいたくである。

2020年1月30日木曜日

奥田英朗『東京物語』

2020年。オリンピックイヤーである。
昨年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の最終回、開会式で聖火が灯されるシーンを視て、ああ今ごろこの聖火台の下で島崎国男がダイナマイトを抱えて逃走しているのだと思った人も多いだろう(そんなことはないか)。
奥田英朗の『オリンピックの身代金』は、人にすすめられて読んだ。人がすすめる本というのはたいてい、まあそんなものかくらいにしか思わないのだけれど、この本は抜群におもしろかった。読み終えたあと、主人公島崎がダイナマイトを入手した六郷土手や本郷、弥生の東京大学の周辺、下宿していた西片町、現金の受け渡しに失敗した上野などを歩き回った記憶がある。著者もおそらく東京じゅうをくまなく歩いていたであろうことがこの本を読むとわかる。
奥田英朗は、1978年に高校を卒業して、上京している。僕とまったくの同世代である。この本は、上京当時の著者が主人公である比較的初期の作品だ。
キャンディーズの解散コンサート(東京ドームはまだなく、会場は後楽園球場だった)やそのときどきのヒット曲、流行・風俗が顔を覗かせる。映画「未知との遭遇」が公開され、中日ドラゴンズの新人小松辰夫に大きな期待が寄せられていた。そんな時代もあったねと中島みゆきみたいに思い出す。ごく普通に東京で生まれ育った僕らに見えなかった景色を地方からやってきた青年が克明に描き出す。
主人公久雄は、上京初日に東京芸術大学にすすんだ平野という友人を訪ねる。文京区西片町に下宿していた。水道橋駅から都営地下鉄6号線(三田線と呼ばれるようになったのはその年の7月だ)に乗って、白山駅で下車する。東大大学院生だった島崎国男のプロトタイプかもしれない。
上京した人が描く東京は、目新しいテーマではないだろうけれど、この時代の東京を描いてくれたことはたいへんうれしい。
1978年は、1978年の匂いを持っているのだ。

2020年1月24日金曜日

獅子文六『やっさもっさ』

子どもの頃、磯子に住む親戚を訪ねた。帰り途、父の運転するクルマで丘陵地を抜けた。西日を浴びた緑色の路面電車が繁華街を走っていた。伊勢佐木町辺りだっただろうか。記憶に残る数少ない横浜の風景である。
大学生の頃の指導教官が横浜に住んでいた。1982年だったか、新年会を催すとのことで、卒論指導を受けていた学生や院生、卒業生らが集まった。中区山元町。横浜駅ないしは桜木町駅から根岸方面へバスの便があると聞いていたが、地図を頼りに石川町駅から歩いた。川沿いを歩いて、地蔵坂を登る。坂道はやがて山手本通りに合流し、そのまままっすぐ400メートルほどでめざす先生の家に着く。
ところが現実はそうはいかない。坂道の途中には道幅の狭い脇道があり、石段があったりする。魅惑的な小道についつい引き込まれる。七転八倒、余計なまわり道の末、ようやく山元町にたどり着いた。
山元町と隣接した大平町、その交差点近くに曹洞宗の寺がある。義母の実家の菩提寺である。墓所は根岸の共同墓地で、米軍住宅に隣接している。根岸の競馬場跡が見える。葬儀や法事で何度か訪れている。その度に石川町駅から山元町まで歩いた冬の日を思い出す。
山元町から横浜駅根岸通をさらに進んだ辺り、競馬場跡と米軍キャンプの跡地が公園になっている。高台にあって見晴らしがいい。海が見える。本牧辺りだろうか。
根岸を起点にして、元町や関内、伊勢佐木町などを歩いてみるのもおもしろそうだ。山手に住んでいた山本周五郎が根岸の山を越えて、横浜橋で蕎麦を食べていたと何かの本で読んだ。横浜には横浜の歴史があり、東京の下町とは少し違うけれど、魅力に富んでいる。
澁谷實監督「やっさもっさ」を昨年観て、原作も読んでみたくなった。C書房の川口洋次郎に問い合せたところ、12月刊行予定と聞いた。崎陽軒とタイアップした限定版の装丁なども含め、話題の一冊となった。
この本を片手に横浜散策するのも悪くない。

2020年1月20日月曜日

瀬尾まいこ『図書館の神様』

2020年の全日本卓球選手権男女シングルスは、東京オリンピック代表が相次いで敗れた。
男子決勝では一昨年の覇者張本智和が、3連覇をねらう伊藤美誠が女子準決勝で敗退。女子はここ数年、伊藤、平野美宇、今回優勝の早田ひななど実力が拮抗した若手が台頭している。男子は水谷隼が06年から18年までに10回優勝(準優勝3回)しており、絶対王者の感があった。
かつて、男子では斎藤清がシングルスで8度優勝を飾ったことがある。80年代も絶対王者の時代だった。一昨年、当時14歳の張本智和が決勝で水谷を退け、しばらくは張本時代が続くものと思っていた。卓球界はいよいよ戦国時代に突入したのかもしれない。男子優勝の宇田幸矢もさることながら、準決勝で張本に敗れた戸上隼輔(インターハイ2連覇)は、これまでにないパワーの持ち主で、打倒中国に向けて新戦力登場といった印象だ。
50~60年代、卓球日本として世界にその名をとどろかせていた時代、荻村伊智朗が日本のエースだった。荻村は国際卓球連盟会長として卓球による親善外交や競技の普及、イメージアップに尽力した人としても知られているが、男子シングルスで世界選手権を2度、団体で5度制覇している。ところが全日本卓球選手権大会男子シングルスにおいて荻村は一度しか優勝していない。これは荻村伊智朗が国内の選手に弱かったということではなく、当時の日本卓球がハイレベルだったことを物語ってはいないだろうか。高いレベルで切磋琢磨していた時代といってもいいだろう。
絶対王者の時代から群雄割拠の時代へ。テレビで男女シングルスの試合を見て、日本の卓球に希望が持ててきた。
はじめて読む作家である。どろどろしてそうでいてピュアな空気が漂う。静かな映画を観ているような気分。今風の清々しい小説だ。
ところで、ここしばらく卓球の神様は、中国に居ついているが、そろそろに日本にもやってくるかもしれない。

2019年12月29日日曜日

古今亭志ん生『なめくじ艦隊』

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」が低視聴率だったと報道されていた。
いつものような時代劇じゃなかったから面食らった視聴者も多かったのかも知れないし、主役が前半(金栗四三)と後半(田畑政次)でわかれるのがわかりにくかったのかも知れない。いずれにしても視聴率なんてものはテレビを視ていた人の視聴態度を示す数値ではなく、その時間にテレビの電源が入っていて、そのチャンネルのコンテンツが画面に映し出されていたというだけのことだから、関係者もさほど落胆するには及ばない、と思っている。僕個人としては、このドラマは嘉納治五郎の物語でもなければ、金栗、田畑の物語でもなく、古今亭志ん生のドラマだと勝手に思っている。出演者に不祥事があって、代役を立てて、撮り直ししたなんていうのも志ん生の生涯みたいでおもしろかった。
以前読んだ野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』を思い出す。アスリートや大会の運営にかかわるスタッフたちではなく、ホテルの料理長、航空自衛隊、建築家、映画監督、グラフィックデザイナーらにスポットを当てた名著である。「いだてん」にはこうした人たちも(すべてではないけれど)登場する。村上信夫、松下英治、丹下健三、市川崑、亀倉雄策らである。1964年のオリンピックが実に丁寧に描かれている。強いてあげるならば、国際ストーク・マンデビル競技大会にももう少しふれたかったところだろう。
この本は古今亭志ん生の語りを速記したものだ。志ん生らしさが文章からにじみ出ている。志ん生の一生がおもしろいのは、才能もあり、努力も怠らなかったにもかかわらず、自ら破天荒な道を選んで、自爆するように挫折を重ねていったことだ。
普通にちゃんと噺に取り組んでいればもっとはやく芽が出ただろうにと思う。だけどそうじゃなかったところに古今亭志ん生の芸の奥深さがある。美空ひばりじゃないけれど人生って不思議なものですね。

2019年12月23日月曜日

太宰治『津軽』(再読)

先月、中学時代の同期会があった。
幹事の石羽紫史(もちろん仮名)から案内をもらって、出席するつもりでいたが、返信欄に書くかっこいい文章が思い浮かばず、ほったらかしにしていた。しばらくして彼女から催促のメッセージが届いていた。
数年前にもいちど同期会があり、たまたまその日石羽と会って半ば強引に連れていかれた。それ以来である。中学も小学校も入った年にいつも石羽紫史は隣の席だった。しっかり者の女子は苦手だが、好きだ、当時から。石羽に声をかけられると断りきれない。
高校は別々だったが、3年生になって(もう部活も引退し、人並みに受験勉強に明け暮れていた頃)、何度か大井町の駅の近くやその近くの図書館で石羽と出くわすことがあった。ちょっとときめいたりした。こんど会ったら初恋の人になってくれないかって告白してみようかなと思う。
大井町の居酒屋には20人くらいが集まった。見覚えのある人もいるし、名前を聞いて思い出す人、名前を聞いてもまったく思い出せない人もいる。小学校がいっしょだったりするとすぐに思い出せるが、中学の3年間でクラスも違って、部活でも接点がなかったりすると思い出しようもない。
どうしても思い出せない女子がいた。あの人だれ?とこっそり聞いてみる。佐伯先生よ、という。同級生ではなく、全共闘で安田講堂の屋上から火炎瓶を投げていた保健体育の佐伯英子先生だった。
太宰治でも読んでみようかと思ったとき、たまには別の本をと思いながら、いつも手にしてしまうのが『津軽』である。読むたびに最後、泣く。
石羽に誘われて二次会はカラオケ(やはり断りきれず)。深夜に終わって、終電もない。実家に泊まることにした。俺もそっちの方だから途中までいっしょに行こうぜと同期生のひとりに声をかけられる。小雨の降るなか歩き出す。たまにこうして集まるのもいいもんだな、なんてしゃべりながら。
が、やつの名前がいまだに思い出せないでいる。

2019年12月19日木曜日

池波正太郎『原っぱ』

ICカード乗車券をチャージする。スイカとかパスモといった類のカードに、である。
最近はカードを置いてチャージできる機械も見かける。どうやってお金が転送されるのかじっと見つめているのだけれど、未だそのしくみが解明できない。不思議でしょうがない。「カードを動かさないでください」と女性の声がする。損したら困るから絶対動かそうなんて思わない。
置き型ではないチャージ機では「カードをお入れください」「紙幣をお入れください」と女性の声にしたがって操作するとチャージができる。ICカードを入れて、紙幣を入れる。たとえば1,000円チャージするのに一万円札しかなかったりする。カードと紙幣が機械にするすると吸い込まれ、(機械によってはひったくるように紙幣を吸いとる育ちのよくないやつもいる)おつりとカードが吐き出されるまで空白の時間が生まれる。この瞬間、所持金はゼロだ。不安に襲われる。ICカードとなけなしの一万円札を取り上げられた状態で、そんなことは今までいちどもないのだけれど、突如大停電が起こったらどうすればいいのかと。一文無しの状態でブラックアウトした大都会へほおり出されてしまうのだろうか。チャージするたびに怯える瞬間的な恐怖。
永遠とも思われるような長い長い沈黙の後、「カードをお取りください」「おつりをお取りください」という女性の声が聞こえる。杞憂に終わる。
この本は池波正太郎作品のなかで数少ない現代もの。自伝的小説であるといわれている。そうは言われても時代小説はあまり読まないし、池波正太郎というとグルメエッセイばかり読んでいたから、実をいうとピンとこない。もともと芝居好きでそのキャリアの最初は劇作家だったという。演劇にかかわる登場人物に納得がいく。
池波正太郎が好きだった神田まつやのカレー南蛮そばが食べたくなる。ちょいと地下鉄に乗って行ってみようか。おっとその前にチャージしなくちゃ。

2019年12月16日月曜日

中野翠『今夜も落語で眠りたい』

寝る前にYoutTubeで落語を聴いていると以前書いたところ、何人かの友人からこの本をすすめられた。著者は30年ほど前から落語の魅力に取りつかれ、カセットやCDで夜な夜な古典の名作を聴いていたという。聴いていたというより落語に恋をしたといってもいい。作者の落語愛を感じる。
寝る前に落語なんて、同じようなことをする人っているものだ。で、古今亭志ん生の噺を聴いていると眠くなってしまうというのも同様。著者は桂文楽や志ん生推しではあるが、当時まだ現役バリバリだった古今亭志ん朝をいちばんのおすすめとしている。かつて僕がテレビコマーシャルの撮影で出会った頃の志ん朝師匠だ。
長年出版社に勤務している高校時代の友人川口洋次郎(もちろん仮名である)は、この本は名著だと言っていた。川口は今僕が読んでいるような本、たとえば吉村昭だとか獅子文六、司馬遼太郎なんかを中学生高校生時代にほぼ読み終えていた文学少年だった。これも後で知ったことだが、落語にも造詣が深い。今でもときどき寄席に足を運んでいるらしい。どうりで現代国語や日本史が得意だったわけだ。剣道も嗜んでいたが、これは当時から知っている。人は見かけによらない。
川口は同じ著者の、やはり落語にまつわる別のタイトルを編集者として担当していたのに自社の著作ではなく、文藝春秋のこちらを「名著」としてすすめてくれた。深川をルーツに持つ江戸っ子気質の川口洋次郎のことだから、照れ隠しに自分の携わった本をすすめなかったのかもしれない。
新書に滑稽新書と人情新書があるとすれば、この本は人情ものにちがいない。著者の噺家への愛情に満ち満ちている。ただの古典落語の紹介本ではない。とりわけ古今亭志ん朝師匠に関するくだりは読む者の涙を誘う。
遅ればせながら川口の言う「名著」の意味がわかってきた。ときどき出かける図書館でいつも「貸出中」になっていることも頷ける。紛うことなき名著である。

2019年12月13日金曜日

安西カオリ『さざ波の記憶』

9月、東京湾を北上し千葉市付近に上陸した台風15号。
その記録的な暴風が大規模停電や断水など甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。吹き飛んだ屋根瓦や倒壊した家屋の多くは未だ修復される見込みもなく、ブルーシートを被せられたままだという。とりわけ被害の大きかった鋸南町のようすはときどきSNSで知ることができる。道のりの遠さを感じる。
南房総市白浜町にある父の実家も何枚か瓦が落ちたり、ずれたりし、窓ガラスが4枚割れた。瓦はたまたま通りかかった職人がなおしてくれた。窓ガラスは10月の台風19号に備え、板を打ち付けてもらったが、まだ修繕できていない。
千葉県安房郡千倉町白間津で生まれた母も先月、85歳になった。10月には伯母が、11月には叔母が相次いで亡くなった。母のすぐ上の姉とふたつ下の妹だ。7人いた母のきょうだいもあっという間に母ひとりだけになってしまった。5年前に8歳下の叔父がなくなったときもそうだったが、自分の妹や弟に先立たれてしまったショックは隠しようもない。
イラストレーター安西水丸は、イラストレーションだけでなくエッセイや小説など文章も多く遺している。彼の生い立ちを知るうえで興味深い資料だ。とはいえ本人が書き記したことだけでその生涯を再構築するのは難しく、誰かの証言などあると安西水丸像がより鮮明に浮かび上がる気がする。
安西カオリは、安西水丸の長女である。子どもの目線で見た安西水丸。ふだんあまり父親らしいイメージを周囲に与えてこなかっただけに、これはなかなか新鮮だ。父安西水丸の思い出や千倉町に住んでいた祖母の思い出が語られる。千倉の磯に打ちつける波の音がする。海のにおいが行間から漂ってくる。
安西水丸には兄がひとりと5人の姉がいた。兄はずいぶん以前に他界したそうだが、聞くところによると姉もすでに4人が亡くなっているという。肉親の声は貴重だ。
なんだか湿っぽい話になってしまった。

2019年12月11日水曜日

ナカムラクニオ『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』

還暦を迎える年のせいか、高校の同期と会うことが多い。
会うとたまにBARBEE BOYS(バービーボーイズ)の話題になる。どうしてバービーボーイズなのかを説明するのは面倒なのでここではしない。「いまみちってすげえよな」「いまみちはChar(チャー=竹中尚人)よりギターうまいよな」とかそんなたわいもない話だ。
たしかに80~90年代にかけて、バービーボーイズは一世を風靡した。この手の音楽に関しては詳しくないが、ギターとベースそしてドラムとボーカルのKONTA(近藤敦)が奏でるサックスとシンプルな楽器構成なのに音に厚みと深みがある。
それと同時にどことなく昭和のにおいを感じる。なんといっても杏子とKONTAのツインヴォーカルがいい。ハスキーな杏子と伸びのある高音を持ち味とするKONTA。歌詞は現代風だけれど(当時としては)、どことなく昭和歌謡を思わせる。木の実ナナと小林旭のデュエットをロックに乗せたら、きっとこんな感じなんだろうな。新しさのなかになつかしさがあった。
間奏のあいだにKONTAがサックスを鳴らす。杏子は激しく踊る。学生時代に出会ったテツandトモはそのライブを見て、なんでだろう~を発案したという。もちろんこれは嘘である。
村上春樹の文章を丹念に読んでいるんだなというのがこの本の感想。でも村上春樹のような文章を書いたところで村上春樹が書いた文章じゃないからね。ためになるようなならないような、そんな本だ。
いまみちともたかはCharよりギターがうまいという発言に関しては、個人的に納得していない。僕が通った中学校の向かいにある都立高校に伝説のギタリストがいた。校門にはいつも女性ファンが待ちかまえていた。背中にCharと刺繍されたジャンパーを着ていた竹中尚人は地元品川の英雄だ。Charを超えるギタリストなんて、そんなものがいたらお目にかかりたいね。品川区民はみんなそう思っていたはずだ。

2019年11月28日木曜日

和田誠『銀座界隈ドキドキの日々』(再読)

1980年代半ば。
銀座のイエナ(という書店があった)でカート・ヴォネガット・ジュニアの『スローターハウス5』という本に出会う。表紙のイラストレーションやレタリングが素敵だったので内容はともかく読んでみた。はじめて読むSF小説だった。
イラストレーター、装丁家の和田誠さんを強く意識したのはこのときからかもしれない。和田さんみたいな絵をいつか描きたいと思って、著書を読むようになった。描いた絵を見るより、書いた文章を読んだ方がためになりそうな気がしたからだ。
1993年、同じく銀座の教文館(たぶん今でもある)。新刊だったこの本が平積みされていた。多摩美術大学を卒業して、広告制作プロダクション、ライト・パブリシティに入社。以後10年にわたって過ごした銀座時代の記憶といっていい。学生時代からグラフィックデザイナーとして活躍していた和田誠の、社会に出てはじめて出会う人びとと経験が語られる。ドキドキの日々というタイトルはその心情を物語っている。
2017年11月。表参道のHBギャラリーで和田さんの個展が行われていた。神宮球場で昼間野球を観戦したあと、青山通りの裏道を歩いて行った。ひととおり絵を見て、振りかえるとギャラリーの真ん中に置かれたテーブルに和田さんが座っている。ジーンズに茶色のセーター、グレーのマフラーを巻いていた。セーターの色はCMYKでどう指定したらいいか難しそうな茶色だった。
はじめて見る実物の和田誠。ファンと思われる女性に話しかけられ、聞こえるような聞こえないような声で受け答えしている。せっかくだから僕も話しかけてみようと思ったけれど、汗が吹き出してきて、頭がぼおっとしはじめる。落ち着け、落ち着けと言い聞かせる。そのうちお客さんも増えてくる。汗びっしょりの僕はとりあえずその場を逃れるしかできなかった。喉がからからに乾いていた。
そんな僕の、ドキドキの一日。

ご冥福をお祈り申し上げます。

2019年11月23日土曜日

岸本佐和子『ひみつのしつもん』

神宮第二球場が取り壊される。主に高校野球の公式戦に使用されることが多かったため、高校球児の聖地などと新聞などに書かれていたが、実際はただのポンコツ野球場である。
人工芝はお隣、神宮球場のお古が敷かれているという。実際にグラウンドに立ってみたことはないけれど、観客席から見る限り、緑色のゴム製シートを貼ってあるだけに見える。そのグリーンもところどころ(というかかなり)剥げてしまって、黒いゴムの下地のようなものが見えている。一般に想像される芝というテクスチャーもほぼなくなっているのか、雨上がりの試合ではあっちですってんころりん、こっちですってんころりんと守備についた選手がすべって転ぶ。最近では雨が降った降らないにかかわらずすべっている選手を見かける。あんまりじゃないか。
さらにこの球場は狭い。日本の国土がそもそも狭いうえ、港区新宿区渋谷区に囲まれ、まさに都会の真ん中に位置しているのだから、狭いのは仕方ない。同じ広さのマンションが買えるかと言われたら、返事に窮する。夏の西東京大会などで使用される郊外の球場は地の利を活かしてか、それなりの広さがある。東東京の球場でも江戸川球場、大田スタジアムなどはまあまあ広い。金持であることと尊敬されることが違うように、球場は広さだけではないとは思うけれど、狭い球場は狭いだけでちょっと残念である。強いて言えば、観客席のシートとその間隔が少し広い。どうでもいいことかもしれないが、これは唯一、神宮第二球場が誇れる美点であろう。
岸本佐和子のエッセーは『なんらかの事情』『ねにもつタイプ』に続いて三冊目。もの忘れだとか子どもの頃の話なんか歳が近いせいかみしみしと沁みてくる。発想や着眼点のユニークさは翻訳家ならでは、という感じがする。あたたかいか寒いかは別にして、懐が深い。
こんなポンコツ野球場、とっとと壊してしまえばいいと思っているのに、なぜだろう、この寂しさは。

2019年11月19日火曜日

保田武宏『志ん生の昭和』

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」で森山未來とビートたけしが古今亭志ん生を演じている。本来の主眼である東京オリンピックより、志ん生の半生がおもしろい。僕にとってこのドラマは、志ん生の物語だ。
「いだてん」といえば、大塚の足袋専門店播磨屋の店主役に、不祥事で降板したピエール瀧に代わって三宅弘城が抜擢されている。ある薬品会社のテレビコマーシャル制作の仕事で30年ほど前に会ったことがある。
バブル経済の時代。コンシューマーに名前の知られていない企業を中心にリクルートCMがさかんに制作され、放映された。僕が担当した薬品会社もBtoB(ビジネス・トゥ・ビジネス)という企業対企業のビジネスを展開する広告主だった。若い人たちに支持されるような広告を打ちたい。知名度を高めたい。当時そうしたオーダーは多かった。
ターゲットに近い年齢の出演者になにがしかおもしろいパフォーマンスをさせてみてはどうかという企画が決まり、オーデションを行った。そこにやってきたのが三宅弘城である。明るくはきはきした性格で小柄ではあったが、圧倒的に目立つ存在だった。なにか他の人にはまねのできないことをやって見せてくれないかと注文したところ、その場でバック転をしてみせた(オーデションはもちろん合格し、撮影本番の日もカメラの前で元気いっぱいにバック転を見せてくれた)。
著者は元新聞記者で演芸に造詣が深い。噺家としての志ん生の成長成熟を事実から迫る。好感の持てる一冊ではあるが、そのぶんドラマティックではない。結城昌治の創作を好むか、ノンフィクションとして仕上げられたこちらを好むかは読者の判断によるだろう。
三宅弘城は、それからしばらく忘れていたけれどそのうちときどきテレビドラマで見かけるようになった。若かりし頃、少し緊張しながらもバック転を決めてくれた三宅君を見るにつけ、たいへんなつかしく思うのである。

2019年11月15日金曜日

獅子文六『悦ちゃん』

古い本の奥付で見ると筑摩書房は、神田小川町にあったことがわかる。いつしか台東区蔵前に移転していた。以前、高校の友人T島としばらくぶりに会って名刺を交換するまで知らなかった。
浅草橋の問屋街は縁あって、幾度か訪ねたことがあるが、蔵前は知らない。子どもの頃は国技館があった。少年時代の大相撲の記憶のほとんどがこの地にあるというのに。
筑摩書房の社屋の一階を蔵前ちくま書店として書籍を販売する催しが先日あった。友人がいるからということもあるが、比較的筑摩書房の本は好きな方だ。梨木香歩の『ピスタチオ』や『水辺にて』など今でも娘の部屋の書棚に残っている。新書や文庫もよそと横並びのようなタイトルではなく、ユニークな品揃えだ。とりわけ文庫はホームランやあざやかなヒットより、小技を利かせた渋いニッチな作品が刊行されている。当たりはずれはもちろんあるものの、毎月の新刊情報が楽しみである(ついでに言うとちくまプリマー新書もいい)。
そんなこともあって蔵前ちくま書店を訪ねてみる。
店内の書架には文庫、新書、単行本が並ぶ。なかなかの眺めである。お客さんも多い。盛況だ。おもしろそうな本はないかさがしてみるが、これだけ多いとさがすのも面倒だ。しばらくしてT島が下りてくる。この書架はいつも通りの陳列だという。なあんだ。
話題になっている本は平積みされている。新刊本は入口付近にまとめて置かれている。新刊の単行本(岸本佐和子『ひみつのしつもん』と文庫の新刊(ナカムラクニオ『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』)を購入する。他にも読みたい本はあるのだが、電子書籍化されているものも多く、荷物になるのでその日はここまで。
この小説は獅子文六最初の新聞連載小説だという。連載期間の1936~37年だから、実の娘が11~12歳。白百合学園に通っていた頃かもしれない。
ちくま文庫の獅子文六、読了したのは、これで9冊目だ。

2019年11月12日火曜日

結城昌治『志ん生一代』

今は亡き古今亭志ん朝師匠に会ったのは四半世紀以上昔のこと。
1993年11月、高級ふりかけ錦松梅のテレビコマーシャル撮影のときだ。志ん朝師匠が出演するCMは昔からあったのだが、それからずいぶん年月が経ち、師匠も風格が増してきたので新しく撮りなおすことになった。その絵コンテを描いて、クライアントに提案し、一連の手続きの後、調布のスタジオで撮影本番を迎えることになった。
師匠が座敷でくつろいでいると来客がある。「お客さんかい?何?錦松梅?」どうやら贈りものか手土産が錦松梅だったという話。「錦松梅って、あの錦松梅?あったかいご飯に最高の錦松梅?器もいい錦松梅?上がってもらいなさい上がってもらいなさい」とすっかり上機嫌に。ここで突如疑心がわく。「で、本当に錦松梅なんだろうな」ってさげ(たいしたさげではないが)。
当日演出のI田さんと控室で内容の確認を行う。I田さんは大学時代に落語研究会に所属し、中学生の頃から志ん朝師匠の大ファンだという。傍から見ても緊張しているのがわかる。師匠が言う。「ここんとこですがね、あったかいおまんまじゃだめですかね」と。言われてみれば、ごはんじゃちょっと冷めた感じだし、落語っぽくない。クライアントも同意してくれて「あったかいおまんまに最高の錦松梅」となった。
落語好きだった父は、若手でいいのは談志(立川談志)か志ん朝とよく言っていたっけ。父にとって新進気鋭の噺家も僕が出会った頃はもう貫禄十分、脂が乗り切っていた。面と向かって話をするには恐れ多いくらい輝いていた。そのわりに話しぶりはやさしく、人当たりも柔らかかった。
破天荒な人生を歩んだ古今亭志ん生も次男強次(後の志ん朝)が生まれ、志ん生を襲名したあたりから、芸に磨きがかかったように思われる。その後、慰問で満州に渡り、終戦を迎え、食うや食わずで帰国する。
最愛の次男強次が志ん生をがんばらせたのかもしれないなどと思う。

2019年11月9日土曜日

獅子文六『沙羅乙女』

今年は獅子文六没後50年ということらしいが、人類がはじめて月に降り立って50年というほどには世の中を騒がせているわけではない。それでも12月には横浜の神奈川文学館で「没後50年獅子文六展」が企画されているし、ラピュタ阿佐ヶ谷では9月から「獅子文六ハイカラ日和」と題して映画化された作品を特集して上映している。
獅子文六原作の映画では以前「てんやわんや」を観ている。どうして舞台が宇和島なのかその頃はわからなかったが、自伝的小説である『娘と私』を読むと戦後、住む家がなくなって宇和島に疎開したことがわかる。
ここのところ、筑摩書房で獅子文六作品を文庫で復活させている。昭和の人気作家をもういちど読み直してもらおうというその着眼点はおもしろい。そうでもなければおそらく読むことはなかったであろう作家である。
この作品は1938年に東京日日新聞に連載され、2年後には東宝映画制作で映画化されている。監督は佐藤武。同じころつくられた作品に「チョコレートと兵隊」という戦意高揚のための国策映画がある。2004年にアメリカで発見され、国立映画アーカイブに保存されている。日本人の文化や生活を知るためにアメリカが没収し、長いこと幻のフィルムと呼ばれていたそうだ。
映画「沙羅乙女」の原版ないしはプリントはどこかに保存されていて、どこかで上映されたのだろうか。1930年代に刊行され、映画化された『悦ちゃん』と『胡椒息子』は戦後、テレビドラマ化されている(『悦ちゃん』なんてついこのあいだのことだ)。『沙羅乙女』の映像復活はあるのか。
夢を追いかけるだけの父と夜学に通う弟を養うため、煙草屋の雇われ店主として生計を立てる娘・遠山町子。ふたりの若者が町子に求婚する。ひとりはエリート銀行マン、もう一方は故郷を離れ、菓子職人として独立することを夢見ている。
人間関係の狭間で揺れ動く町子の健気さがいい。映画で観てみたいものだ。

2019年11月6日水曜日

ロバート・ホワイティング『野茂英雄 日米の野球をどう変えたか』

名もない弱小野球チームに磨けば光るだろうが、磨かれる機会のないままプレーを続ける隠れた逸材があり、ひょんなことから覚醒し、つられてメンバーもレベルアップ、多少の艱難辛苦はありながら、ついには全国制覇を成し遂げる…。そんなお話は少年漫画の世界であって、実際にはほぼありえない。野球に限った話ではないが、大概のスポーツはその競技の世界(ある種のシステム、あるいはヒエラルキーのような世界)がちゃんとつくられていて、その内側で頭角をあらわし、評価されたものが次のステージへステップアップしていく。
野球でいえば、リトルリーグ、シニアリトルから甲子園常連の強豪校に進学するとか、中学生の大会で実績をつくって、といった進路がパターンとしては多い。たとえ甲子園に出場することができなくても大学に進学し、体育会で続けたり、社会人として、あるいはクラブチームで活躍の機会を得るということもある。現在プロ野球で活躍している選手のキャリアを紐解くとほとんどそれなりのステップを踏んでいる。次のステージにすすめるということはなにがしかの注目を集めるだけの選手であるということだ。
野茂英雄には輝かしい球歴はなかった。大阪府大会ではベスト16どまり。プロから誘いを受けたらしいが、社会人野球に進む。都市対抗野球に出場し、日本代表としてソウルオリンピックに出場、銀メダルを獲得する。一躍アマチュアナンバーワン投手としてドラフト1位指名を受け、近鉄バファローズに入団する。1989年のことである。
独特な投球フォームといい、そのキャリアといい、突然変異的に野球のヒエラルキーに飛び込んできた野茂英雄は、日本的精神論的献身的野球に無縁な存在であり、周囲に惑わされることのない孤高のエースだった。メジャーリーグに挑戦したことも野茂の野球人生においては至極当然のことだったのではないだろうか。もちろん野茂は何も答えてくれないだろうが。

2019年11月2日土曜日

三遊亭圓朝『塩原多助一代記』

母方の祖母は明治に生まれ、昭和59(1984)年に他界している。
母の実家は久五郎という屋号だった。僕たちは久五郎のおばあさんとか白間津のおばあさんと呼んでいた。白間津というのは千葉県七浦村(現南房総市千倉町)の集落で、白浜町と隣接している。
祖母の実家はもともと庄屋だったのだろうか、門構えのある立派な家だった。曾祖父は村長だった。村の小学校の終業式や卒業式には燕尾服を身につけて、来賓席に座っていたと母が言う。
祖母は長女でしっかり者ではたらき者だった。格式のある家で育ったせいもあるだろうが、家というものを重んじ、跡取りの長男をたいせつにしていた。戦後まもなく祖父が若くして亡くなった。そのせいもあるだろう。
夏休みは南房総で過ごし、伯父の息子きょうだいと姉と僕の4人で遊んだ。祖母の家の玄関には雑巾が置いてある。足を拭いて上がれという意味だ。いとこたちはお構いなしに上がる。姉と僕は足を拭く。座敷の畳に付いた足跡を祖母が見つける。怒られるのはいつも僕だった。姉は女の子だし、如才なく立ち回りがうまい。外孫で愚図で要領の悪い僕が恰好の餌食になる。
母が結婚するのに祖母が強く反対したという話を聞いている。祖母の風当たりが強かったのはそんなことも関係しているのかも知れないが、よくわからない。
『塩原多助一代記』は、昭和のはじめまで修身の教科書にあったという。久五郎のおばあさんがきっと好きだった話に違いない。
その後、祖母は東京に連れてこられて伯父の家で暮らしていた。受験が終わり、大学に受かった話をしに行く。おまえのおっかさんは勉強ができたし上の学校に行きたがってたけど、行かせられなかった、なんて話をする。母が高校に行きたかったという話は本人からなんども聞かされている。そして、それでおまえは何になるんだと訊ねられた。その頃は、何になるつもりもなかったのでうやむやな答しかできなかった。
その恥ずかしさだけが記憶に残っている。

2019年10月31日木曜日

獅子文六『胡椒息子』

幼稚園の頃の記憶である。
毎朝の送迎バスに乗って通園していた。乗り場は近所の荒物屋の前。そこにはひとつ年長のKくんの家である。子どもたちが並んで待っている。バスがやってくる頃になって、ようやくKがパンをかじりながら家から出てくる。他にも年長の子がいたかどうかおぼえていないが、いちばん最後にやってきた彼はいつも列の先頭に立って、気に入った年下の子どもたちを引き連れて、いちばん最初にバスに乗り込む。嫌なやつではあるが、そんな子ども、ましては年上の子はいくらでもいたのでどうと思うこともなかった。
あるときふと気が付く。いちばん最初にバスに乗ると降りるときは最後になる。最後に乗ると乗降口の近くの席に座ることになって、降りるときはいちばん最初に降りることができる。半世紀以上前の記憶だからどうしてそうだったのかはわからない。後から乗れば先に降りられるということはたしかだったように記憶している。それから僕はどんなにはやく乗り場に着いても最後尾あたりに並ぶようにした。前の方に並んでも結局Kが来たら、Kの側近たちが前の方に並ぶからだ。
あるときKは最後尾に並んでいる僕をいちばん前に押しやって、自分が最後尾に並んだ(どのみちいつもいちばん最後にやってくるのだから本来そこが彼の指定席なのだ)。きっとKも気付いたに違いない。いちばん最後に乗れば、いちばん最初に降りられて、いちばんはじめに登園できるということに。
牟礼家の次男昌二郎は12歳。婆やお民との関係は、夏目漱石の『坊っちゃん』の主人公と清を思い出させた。
Kとは小学校はいっしょだったが中学は別でその後口をきくこともなかったが、高校に入ると一学年上にKがいた。もちろん通学時に会うこともなく、校内で会うこともなかった。やがてKは法曹界に名をとどろかす名門私大に進学し(東大は落ちたという噂だ)、現役で司法試験を突破したという。頭のいい人はどこか違うものだ。

2019年10月28日月曜日

矢野誠一『三遊亭圓朝の明治』

縁は異なものというが、本のつながりもまたおもしろい。
もともとはよく仕事中に聴いていたガーシュウィンの「巴里のアメリカ人」から古い映画を観たくなった。その流れでちょっと小洒落たタイトルの『パリの日本人』(鹿島茂)を読む。そのなかで若き日の獅子文六のパリ滞在時の描写があり、フランス人の妻との間にもうけたひとり娘の子育て記であり自伝的小説ともいえる『娘と私』を読む。そのなかに塩原多助のような心境で生きていく所存が語られている。塩原多助は明治大正昭和のはじめまで修身の教科書に載っていたというから昔の人ならどんな人か想像がつく。知らない世代はただ気になるだけである。調べてみると多助は上州下新田の百姓で家を再興し、養父を供養するため江戸に出て炭屋として大成する壮大なドラマの主人公であることがわかる。作者は三遊亭圓朝。
ここでようやくこの本にたどり着く。
昭和という時代は20年までの戦前戦中期と戦後に大別できる。軍国主義と民主主義というまるで裏返しの時代が同居した時代である。戦後まもなく教科書に墨を塗ったのは昭和ひと桁の終わりからふた桁のはじめに生まれた世代だ。異なる価値観に二重に支配されてきた世代であるみたいなことを以前語っていたのは昭和10年生まれの大江健三郎だったか。残念ながらおぼえていない。
三遊亭圓朝は江戸と明治、すなわち近世と近代を生きている。安政の時代に真打になり、鳴り物入り道具仕立ての芝居噺で知られたが、明治になって素噺に転向。『名人長二』や『塩原多助一代記』といった人情噺や『牡丹灯籠』『真景累ヶ淵』などの怪談噺を創作した。
明治維新の前と後とで世の中がどう変わったか。興味深いテーマではあるが、実感しようもなければ想像のしようもない。時代の変化を見聞きしたくてふたつの時代を生きた三遊亭圓朝を読んでみた。うっすらわかってきたようでもあり、まだまだ雲をつかむようでもあり。

2019年10月24日木曜日

田口まこ『伝わるのは1行。』

ラグビーワールドカップが盛り上がりを見せている。にわかファンも増えているという。僕もそのひとりだ。
以前、西武新宿線の沿線に住んでいた頃(10年以上前になるかと思う)、早稲田大学の上井草グラウンドが近かったので土日、時間があると観に行った。関東対抗戦に出場するAチームの試合はなかったが、Bチームによる関東ジュニア選手権、Cチーム以下の練習試合を観た。ラグビーは単純でいて複雑、複雑なのに単純な競技である。前に進むか後ろに下がるかというシンプルに図式化されている。そのルールにそぐわない行為が反則とされる。テレビで視ているとわかりやすいが、現場で観ていて、しかも反対側のサイドで起きたルール違反はなかなかわかりずらい。毎週のように通っていると思われる隣席のベテランファンが「オフサイドだ」とか「ノットリリースザボール」などとつぶやいてくれるのを耳をそばだてながら観戦していた。
本書はコピーライターをめざす人のための本ではなく、コピーライターの経験を通じて得た文章技術を広く伝える著書である。
最近はどうだかわからないが、広告制作会社ライトパブリシティは、以前コピーライター募集と銘打って未経験者を募集していた。著者もきっとそんな未経験者のひとりだったのではないだろうか。この本を通してうかがえることは、ライトパブリシティが如何にしっかりと未経験の新入社員を教育したかということだ。おそらく著者は「心に刺さる1行」のために日頃から丹念に「絞る」「広げる」「選ぶ」「磨く」を繰り返してきたのだろう。著者の身に付き、血肉となったコピーライティングの方法論が簡潔明快、具体的実践的に語られている。コピーライターではなくても、コピーライターの思考回路や気持ちがよくわかる。
SNSや企画書などで文章を書かなければならないテキスト難民にとって「プチ」役立つ一冊に違いない。
それにしても日本代表のベスト8はたいしたものだ。

2019年10月20日日曜日

恩田陸『蜜蜂と遠雷』

音楽というのは、天賦の才能がものを言う分野だと思う。まったく何の天分もなく普通の人が長年努力を積み重ねることで花開く芸術ではない。音楽に限った話でもないかもしれない。落語に出てくる名人だって、たまたま生まれつき才能に恵まれ、その道に(おそらく偶然に)たどり着いてきわめる機会に恵まれたのだ。
まだ観ていないけれど、この作品は最近、映画化され公開されている。
天才的な若手ピアニストたちが国際的なコンクールに挑む。ピアノコンクールを小説にするというのもなかなか難儀なことと思うが、おもしろく気持ちよく読み終えることができた。
知っている曲はほんのわずかで演奏される曲のほとんどを聴いたことがない。読みすすめながら、あるいは読み終えてからyoutubeなどで聴いている。全曲を収めたCDも発売されている。ルービンシュタインやリヒテル、グレン・グールド、中村紘子など錚々たるピアニストによる演奏だ(というか、この4人くらいしか知ってる人がいない)。
野村芳太郎監督の「砂の器」(原作松本清張)という映画がある。
秀夫少年は父千代吉と放浪の旅にあった。病気の父を療養所に入れ、秀夫の面倒を見てくれた親切な巡査がいた。秀夫はそこから逃げ出し、行方がわからなくなる。そして20年後、和賀英良という人気の若手天才ピアニストになっていた。この空白の期間がこの映画(小説も)で重要な役割を果たす。
おそらく「砂の器」の秀夫も音に対する絶対的な才能があったはずだ。あるときそれに気づき、音楽に傾倒したのだろう。クライマックスともいえる演奏会で和賀英良の少年時代、つまり本浦秀夫時代の父子放浪の旅が映像化される。その音楽に込められた思いがシーンとなって浮かび上がる。これは映画の演出技法に過ぎないが、音に精通した者は皆、脳裏に映像を思い浮かべるのではないだろうか。
風間塵の演奏を聴きながら(読みながら)、昔観た映画を思い出した。

2019年10月18日金曜日

塙宜之『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』

今年もドラフト会議が終わった。
前評判の高かった佐々木朗希(大船渡)、奥川恭伸(星稜)、石川昴弥(東邦)が複数球団から指名を受ける。甲子園で活躍した選手か、全国大会の経験よりも素質能力で将来性を判断するのか、高校生の指名は難しい。僕個人としては練習試合の最高球速160キロより、甲子園の、失投が許されない場面で針の穴に糸を通すような150キロに魅力を感じる。難しいと言ったのは、現時点の完成度が必ずしも将来性と結びつかないからだ。何年後かプロ野球のスターになっているのは佐々木でも奥川でもないかもしれないのである。江川卓だって松坂大輔だって、ふたを開けてみれば人間だった。怪物なんかじゃ決してなかった。
テレビのお笑い番組が好きだった。南州太郎、東京ぼん太、てんぷくトリオ、獅子てんや瀬戸わんや、牧伸二、晴乃チックタック、青空球児好児…。子どもの頃爆笑していたのは関東の芸人が多い。
最近はテレビもさほど視ないので若手芸人の動向に関しては疎い。おもしろいなと思うのはナイツとテツandトモ。そのナイツの塙宜之が本を出したのを新聞で読んだ。自身、関西系の漫才コンクールM-1で決勝まで進みながら優勝できなかったことの「言い訳」がそのタイトルになっている。
塙はそのネタからもわかるように野球に詳しい。新聞には漫才界を野球の落合博満の解説のように解き明かしたいというようなことが紹介されていた。もちろん塙宜之ならそのくらいのことはお手のものと思っていた。きっと落合みたいに解説されたのだろうが、如何せん、読み手の方が最近の若手芸人を知らない。少しはイメージできるコンビもいるのだが、視たことがないからよくわからない。せっかく落合が解説してくれているのに、実は俺、野球のこと全然知らないんだよねって状態だった。
それでもナイツの漫才の自己分析、自己評価も随所に展開されていて、ナイツファンとしては楽しめる内容だった。

2019年10月16日水曜日

小木曽健『ネットで勝つ情報リテラシー --あの人はなぜ騙されないのか』

先日の台風19号で東京近郊多摩川沿いの某所で冠水し、被害が出た。
高層マンション地下の電気設備に被害が出、エレベーターが使えなくなり、下水処理施設も被害を受けたため自室でのトイレ使用を禁止して、各階に設けた仮設トイレを使用するよう通達されたというのだ。これが「うんこ禁止令」と称されて、Twitterで拡散される。なかでも被害を受けていないにもかかわらず、そのマンション名がブリリアというだけで「計画停便」とはやし立てられる。SNSおそるべし、である。
ネット以前の時代ならこういった風評は長い時間をかけられてひろまっていっただろうが、誰かが書き立て、おもしろおかしくコメントされて拡散されるSNSの世界では1~2日で全世界にひろがる。件の某所のイメージは地に落ちる。「お住まいはどちらですか?」「某所です」「はああ…」といったやりとりが目に浮かぶ。
その一方で先月の台風15号による千葉停電の際には、被災地を見舞う声や支援を呼びかける書き込みが多く見られ、Twitterはやっぱり素晴らしい情報ツールだと思った。その矢先だっただけに残念である。今回の台風19号はさらに広範囲に甚大な被害をもたらしている。被災地ではきっと有用な情報が流布されていると信じたい。被害があまりにも大きすぎたせいで、ツッコミどころを失ったネットの野次馬たちがここぞとばかりに掘りかえしたのがこの某所だったのだろう。やれやれである。
ネットの情報は玉石混淆と言われている。定義が曖昧なまま、出典が定かでないまま、あっという間に拡散される。思い違いも不定見もどんどんひろがっていく。飯田泰之『ダメな議論』と内容的に似ているが、実例が豊富でわかりやすい(おもしろさは別として)。すべての情報は発信者の思い込みや偏りが含まれているから真実も本当もないただの情報だという。肝に銘じてフェイクニュースに立ち向かわなくちゃいけない。

2019年9月30日月曜日

田中泰延『読みたいことを、書けばいい。 人生が変わるシンプルな文章術』

著者は大手広告会社で24年間コピーライターとして活躍していたという。広告に関しては最近不勉強なもので、彼がどんなコピーを書いていたか、どんな広告キャンペーンに携わっていたか知らない(調べればわかるのだろうが、その辺が不勉強なのである)。
有名無名を問わずコピーライターをはじめとしたクリエイティブ経験者による文章指南、コミュニケーション指南の書籍は多いが、この本は違う。他社の味噌とタケヤみそくらい違う。ネスカフェゴールドブレンドを飲んでいる人にしかわからないが違う。
どこがどう違うか具体的に指摘してみろと言われたら困るのだが、野球のバッティングに例えるとフォームができている、しっかりしている。タイミングをくるわされても下半身がくずれない、身体が開かない(専門的なことはわからないが)。なぜバッティングフォームに例えたかというと、彼は誰かに依頼されない限り文章を書かない。ピッチャーが真剣に投げ込んだボールを打ち返してヒットにする、ホームランにする。そんなイメージを持ったからだ。
わかりにくい例えだが、文章とは何か、何のために文章を書くのかといった哲学がしっかりしているということだと思う。ただそんなことを生真面目に書き綴ったら、自分自身照れくさい。こそばゆい。だから随所にふざけてみせる。それが著者にとっての「読みたいこと」なのだ。文章に対するフォームがぶれていないから、調べることにも読書に関してもその姿勢は真摯だ。
合間合間に挿入されるコラムで実用的な文章術が展開されている。文章を書く書かないは別にして若い世代の読者には有効な読み物になっている。これだけでもこの本を読んだ価値はある。それにもまして読みすすめていくうちに見えてくる著者の文章への思いには好感が持てる。いやむしろ圧倒される。
時間をあけて、もういちど読んでみたい。その際には著者の言うように同じ本をもう一冊買うことにしよう。

2019年9月22日日曜日

獅子文六『娘と私』

子どもがまだ小さかった頃を思い出す。
幼稚園に通うようになった頃やその少し前。手もかかったし、仕事だって忙しかった時代。時間があれば公園に連れて行ったり、絵本を読んだり、お風呂に入れたりもしたけれど、子育てらしい子育ては妻に任せきりだった。その当時ふと想像したことがある。もし今万が一妻に先立たれるようなことになったら俺はどうしたらいいのだろうと。
あくまでも仮定の話ではあるにもかかわらず、もしそんなことになったら仕事場の近くに部屋を借りて引越しして、仕事の合間合間に幼稚園の送り迎えをしたり、ごはんを食べさせたりしなくちゃいけないとか、出張のときは親や姉に預けるようにしなくちゃならないとかかなり具体的に想像力をはたらかせた記憶がある。そもそも父親ひとりで子育てができるのだろうかと目の前が真っ暗になった。幸いこれは想像だけで終わり、妻は今でも健康で子どもたちもそのうちすくすく育ってもう大学も卒業している。
鹿島茂『パリの日本人』に若き日にパリに学んだ獅子文六のエピソードが紹介されている。そして『娘と私』、『父の乳』の2作品が例外的な自伝的作品であると知る。留学先で出会ったフランス人の妻を亡くし、ひとり娘をどう育てていこうかという苦悩に満ちた日々を描いているこの『娘と私』を読んで、わが子の幼少時を思い出した。
獅子文六は、1925年から25年間(先妻が亡くなり、二番目の妻が亡くなるまで)中野、千駄ヶ谷、愛媛、駿河台と移り住む。『てんやわんや』の舞台がどうして宇和島で主人公が戦犯容疑を恐れていたのか、『自由学校』でお茶の水橋下の住居がなぜ登場するのか、『箱根山』に登場する青年乙夫をドイツ人と日本人のハーフにしたのか、この本を読むとわかってくる。
おもしろおかしい娯楽作品の印象が強かっただけにこの作品の特異さが強く印象に残った。獅子文六の作品で目頭が熱くなったのははじめてのことだ。

2019年9月18日水曜日

川上徹也『川上から始めよ 成功は一行のコピーで決まる』

台風15号の被害状況を見てきた。
南房総市白浜町の父の実家は瓦が何枚か飛び、窓ガラスが割れた。瓦は、以前リフォームしたとき葺き替えてくれた職人さんがなおしてくれたという。誠にありがたいことである。断水はまだ続いていたが、電気は復旧していた(水道はその翌日復旧した)。散らかった室内を掃除し、割れた窓には前日ようやく入手できたブルーシートをかぶせてきた。
向かいの2軒、そして少し離れた隣の郵便局の屋根の損傷が酷い。うちの被害はまだましな方である。高速バスの往き帰りに見た南房総市冨浦、館山市布良あたりの損壊も著しい。屋根全面に覆われたブルーシートや手つかずのままの屋根が痛々しい。停電や断水が続いている地域も多く、固定電話も携帯電話もつながりにくいところがまだある。白浜コミュニティセンターでは自衛隊が風呂を設営していた。鋸南町あたりには大勢のボランティアが集まって、屋根にブルーシートをかけていったという。大規模な災害ではあるが、こうした話を聞くとほっとする。
川上コピーがだいじだという。
この本でいう川上とはPDCAサイクルでいうP(計画)の根幹になる方針にあたると考えていいだろう。経営なり、商品開発などのプロジェクトで欠かせない方針や目標をいかにたくみに言語化し、社内、社外関係者はもちろん世の中と共有していくことの必要性、重要性が語られる。その言語化された指針が川上コピーというわけである。
アメリカの主要IT企業GAFA(Google、Amazon、Facebook、Apple)の事例が紹介されている。わかりやすい(日本の企業のスローガンなども紹介されている。言いたいことが明確でなく、レトリックだけにとどまっているものも多く、すべてが適切な例とは思われない)。
今回千葉県の台風被害に関しては報道の遅れなどがTwitterで指摘されていた。災害からの復旧にはなによりも初動=川上がたいせつだと思った。

2019年9月11日水曜日

鹿島茂『パリの日本人』

9月9日早朝千葉県に上陸した台風15号による被害が凄まじい。
南房総市にある父の実家では瓦が4枚飛んで、大きな窓ガラスが3枚割れたという。近くに住む叔母から連絡をもらった。Twitterで情報を収集してみると千葉県の大半は停電が続いており、断水している地域も多いという。固定電話も携帯電話もつながらない状況で、今日(11日)も場所によっては復旧の見込みが立っていない。
状況がわからない9日朝叔母に電話をかけた。つながらない。隣の集落にいるもうひとりの叔母にもつかながらない。とりあえずメールで訊ねたところ、夕方になって被害の状況を知らせる返信があった。携帯の回線はときどきつながるのだろう。奇跡的に返信をもらった。
取り急ぎ状況確認に駆けつけたいのであるが、鉄道も高速バスも止まっている。今日の時点で高速バスは東京~館山間のみ運行、JRは木更津~安房鴨川間が運休。館山までバスで行ってもそこから先の路線バスが止まっている。
台風の通過後、猛暑がやってきた。停電したまま3日目を迎えている。地域のコミュニティセンターには電源が確保されていて、スマートフォンの充電もできるという(回線はつながっていないけれど)。叔母らの不便を考えるといてもたってもいられない。もちろん行ったところで何ができるわけでもないのだが。
Twitterでは千葉県の南の方の被害があまり報道されていないという声があがっている。そんな中、熱中症による犠牲者も報道されていた。叔母やいとこたちだけでなく、父のいとこや遠い親戚などに高齢者もいて、気がかりだ。
この本は明治以降、パリに憧れ、訪れ、学び、遊んだ人々の貴重な記録だ。パリが古くから多くの日本人を魅了してきた町であることがうかがえる。タイトルはヴィンセント・ミネリ監督の「巴里のアメリカ人」をもじったものだろう。しゃれている。
たいへん興味深い内容だったのだが、今日はこの辺でとどめておく。

2019年9月9日月曜日

阿川弘之『山本五十六』

いちどだけ長岡を訪ねたことがある。1983年ではなかったか。
大学時代の友人Uさんは新潟県新発田市の出身である。4年生のとき、東京都の教員採用試験に合格し、江戸川の小学校に勤務していた。新潟の採用試験には受からなかったが、いずれは郷里に戻って教鞭をとりたいと言っていた。ところが新卒採用のその年、力試しのつもりで受けた新潟県の採用試験に合格してしまった。その前年不合格になって、新潟大学に3度も落ちているし、よっぽど俺は新潟には縁がない男だと嘆いていたUさんが、である。東京の小学校を1年で辞めて、赴任した新潟の小学校は長岡市にあった。
その年の夏、越後湯沢に用事があったので事前に連絡をとってみた。夏休みだったUさんは買ったばかりのホンダシティで迎えに来てくれた。ドライブがてら、出雲崎から寺泊あたりをまわって、その日はUさんのアパートに泊まった。まるで大学時代のようにだらだらと過ごした僕の、長岡の思い出である。
長岡といえば、幕末の越後にスイスのような永世中立国を築こうとした河合継之助を思い起こす。この地に生まれた山本五十六の父高野貞吉は越後長岡藩士であったという。五十六は後に家名の途絶えていた山本家を相続するが、山本家は長岡藩の上席家老を世襲していた家柄だった。山本五十六は武士の時代を引きずって生きてきたように思われる。
山本五十六が戦争指導者的に見えていたのは実は僕のなかで勝手に膨らませてきたイメージだった。海軍軍人ではあったが軍国主義者ではない。合理的な考え方と世界を見る目を持っていた。戦意高揚、戦線拡大に向かう当時の情勢にあって最後まで冷静な判断力を保持していた人物と言える。下手な言い方かもしれないが、河合継之助のDNAが受け継がれている。
そういえば長岡市内には山本五十六記念館があり、河合継之助記念館もある(しかもものすごく近い)。どうして何にもしないでだらだら過ごしてしまったのだろう。

2019年9月2日月曜日

山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」』

高校野球では投手の球数(投球数)制限が話題になっている。
甲子園の頂点をめざす才能豊かな好投手らが肩や肘に故障を生じ、将来の活躍の場が失われることに対する危惧である。ひと試合100球までとか具体的な案も出されている。野球はルールに関してはおおらかなスポーツで大会ごとに規定を変えてもいいので(たとえば甲子園で行われる大会には点差の開いた際のコールドゲームの規定がない)こうしたアイデアが生まれてくる。
日本ではプロ野球が発達しているので一試合100球、中5~6日の休養などといった慣習が目安とされやすいが、トーナメント方式で連戦を余儀なくされるアマチュア野球を同じ尺度で考えるのもどうかと思う。
ひとり100球などといったルールができたら、相手投手に多く投げさせる作戦もできてくるにちがいない。先日都内某所。隣の席で高校野球を観戦されていた方が球数問題はルールではなくあくまで各チームで自主的に取り組む問題であるという主旨のことを話していた。
もちろん怪物と呼ばれる投手がひとりで決勝戦まで投げぬく姿に多くの野球ファンは魅了されてきたのはたしかであるが。
世の中は急速に変化を遂げている。不安定、不確定、複雑、曖昧な世界で論理的思考=正解を出す技術だけにとらわれているとみな同じ答にしかたどり着けない。そこで注目されているのが「美意識を鍛える」こと。美意識やアートとはクリエイティブな世界に限られたものではなく、「真・善・美」といった普遍的な普遍的な価値観をあらわしていて、今日的状況にあって明確な判断基準になりうる。
論理や理性を重んじてきた日本の企業がコンプライアンス問題で不祥事を起こしたり、海外の企業におされているのは数値目標やアカウンタビリティといったサイエンスに偏った経営に原因があるともいわれ、その打開策として見直されているのが「アート」の力なのだそうだ。
高校野球には新たな美意識が必要なのかもしれない。

2019年8月30日金曜日

獅子文六『青春怪談』

「木綿のハンカチーフ」は、男女の対話型の歌詞が新鮮でヒットした名曲である。
松本隆は以後、このスタイルで次々にヒット曲を生む。吉田拓郎の「外は白い雪の夜」もそう。
この曲に登場する恋人同士はどこに住んでいたのだろう。ときどき疑問に思う。
東へと向かう列車に乗って男は旅立つわけで、めざしたのが東京だとするとそれより西の地方ということになる。そこがどこかをいつか突きとめたいと思っている。今のところ、静岡あたりではないかと想像しているのは、関西だったら「せやけど木枯らしのビル街からだに気いつけてや」にならなければおかしいと思うからだ。名古屋であれば「涙拭く木綿のハンカチーフくだせぇ」になるはずだ。もっと遠くの可能性もある。中国、四国、九州…。だとしたら東に向かうのは列車ではなく飛行機だろう。
というわけで静岡あたりがあやしいと思っているのだが、それも男の方がおいそれとは帰れないだけの(というか文通するような)距離があるのだから、かなり西側ではないかと想像している。それも豊橋から飯田線に乗り継いでかなり山間部に入ったあたりではないだろうか。東京より西といっても三島、沼津、甲府あたりではないんじゃないかと。
どうでもいいことを考えてしまった。
獅子文六はすでに何作か読んできた。
少しずつその手の内がわかってきたように思う。というか、その奇想天外に目が慣れてきたとでもいおうか。舞台は湘南と都内の新橋、四谷、青山、渋谷あたりを往復する。どこがどう奇妙奇天烈かをここに記してしまうとまだ読んでいない方に申し訳ないので書かないし、もちろん批評したり、批判したりするつもりもない。獅子文六は作品を待ち焦がれる読者の期待を裏切らないような娯楽作品を書き、受け容れられてきたのだから。
それにしても松本隆の詞はいい。「都会の絵の具に」とか「いいえ星のダイヤも海に眠る真珠も」など、実にいい歌詞だなあと思う。

2019年8月25日日曜日

大岡昇平『野火』

高校1年か2年の夏休みだったと思う。現代国語で読書感想文を書く宿題があった。
小学生の頃まではよく本を読んでいたけれど、中学に上がってから読書量は激減した。活字嫌いだったわけではない。就学前から毎月少年漫画雑誌を買ってもらい、字が読めるようになる以前から活字に親しんできたのだから。
高校に入ると部活の練習やら、日々の勉強に追われ(といっても大半は居眠りをしていたが)本など読む時間はない。通学の電車は唯一ぼんやりできる時間であり、もったいなくて本など読む気がしない。
そもそもが宿題という権威的な制度のなかで特定の一冊を強要されるのがなにより嫌だった。生徒全員に同じ本を読ませ、同じような感想文を書かせて、それを読まなければならない国語の教師のことを慮るとますます読む気がしなくなる。それでも出された課題に応えていく従順さを身につけることが戦後教育の最大の美点だった時代だ。とりあえず課題の文庫を購入し、読みはじめることにする。
夏休みといってもほぼ毎日部活の練習がある。午前中か午後か炎天下でたいした水分補給もできないまま運動をする。行きと帰りの電車の中でその気になれば少しづつではあるけれど読みすすめることはできる、と思っていた。当時都内を走る電車は今のようにすべてが冷房されているわけではなかった。おそらく冷房化率は50%に満たなかったと思う。昨今続く猛暑日ほどではなかっただろうが、40数年前も夏は暑かった。そうした状況下で読みはじめた課題図書はページをめくっただけで熱風が顔面に吹きつけてくるような暑苦しい本だった。
結局30ページほど読んではみたが、夏休み中に読み終えることはできなかった。読了したという友人におおまかなあらすじを聞いて(僕の周囲には読んだ者の方が圧倒的に少なかったのだが)いい加減に原稿用紙のマスを埋めた。
大岡昇平『野火』を読み終える。この本には夏休みの苦い思い出がある。

2019年8月23日金曜日

竹内薫『教養バカ わかりやすく説明できる人だけが生き残る』

今年も甲子園が終わった。
101回目の全国高等学校野球選手権大会は大阪代表履正社高校が初優勝を飾った。昨年に続いて大阪勢の連覇。レベルが高い。春センバツの一回戦で履正社は星稜の奥川恭伸投手に3安打17三振と手も足も出ず完敗する。その悔しさをバネにしての悲願の初優勝とニュースは伝えていた。
奥川のピッチングは昨秋の明治神宮野球大会で見ている。時速150キロの直球とスライダーのコントロールがすばらしく、打ち崩せる高校生はいないと思われた。実際にそれまでの公式戦で奥川が打たれて負けた試合は春センバツの対習志野戦だけだ(それにしても習志野戦後、星稜林監督の行った相手監督への抗議はいただけなかったな)。
さて、履正社との決勝戦。奥川は実は本調子ではなかったのかもしれない。あるいは高校最後の試合、甲子園の決勝ということで高ぶる気持ちを抑えられなかったのか、これまでにないプレッシャーを受けたのか。テレビで視ていて本来の投球ではないように思えた。昨年の決勝戦で大阪桐蔭の猛打を浴びた金足農吉田輝星投手も残念ながら本来のピッチングはできていなかった。微妙なコントロールを失っていた。決勝戦で実力を発揮するにはワンランク上のメンタルが必要ということか。昨年神宮球場で見た印象が強烈だっただけに(江川を超えるピッチャーがついにあらわれたと思ったし、今でも江川以上だと信じている)残念な決勝戦だった。
そういえば昨秋は打順がもっと上位だった奥川がセンバツ後の春の大会から8番に下がっている。投球に専念させるための配慮だったか、調子がよくなかったのかわからないが、バッティングでも活躍する姿を見たかった。
タイトルは『教養バカ』だが、教養に関する本ではなく、コミュニケーションのついて説いた本である。教養というのは突き詰めれば難しい問題だと思うが、そこらへんはさらっとかわしている。それはそれでいい判断だと思う。

2019年8月20日火曜日

大岡昇平『俘虜記』

南房総にある父の実家に兵士の遺影が飾られている。
軍服を着たその若い男は祖父の弟、父の叔父にあたる人で1945(昭和20)年6月、「ルソン島アリタオ東方10粁ビノンにて戦死」と戸籍には記載されている。僕たちは幼少の頃から彼を「兵隊さん」と呼んでいた。
祖父は9人きょうだい(うち男ふたりは幼い頃亡くなっている)の長男で戦死した大叔父は六男だった。父の叔父叔母たちのなかでいちばん若い1922(大正11)年生まれということもあり、6歳しか違わない大叔父は父にとって兄のような存在だったと聞いたことがあるが、若くして戦場に散った大叔父を知る人もほとんどいなくなった。
中学生くらいのころ、秋葉原で部品を買ってきてはラジオづくりや電子工作に凝っていた。アマチュア無線や海外短波放送を聴いていた。父は大叔父が通信兵だったから、少しは似ているのかも知れないと言ったことがある。「兵隊さん」に関する数少ない証言のひとつである。
太平洋戦争に関してはよく見積もっても教科書以上の知識を持っていない。
1944(昭和19)年にはサイパン、テニアン、グアムそしてレイテが陥落した。主戦場はルソン島に移り、翌3月にはマニラも陥落する。戦史をたどると以後南方で大きな戦いは記載されていない。マニラと小笠原硫黄島占領後の主戦場は沖縄に移り、本土空襲も激しさを増していく。補給を断たれた南方の日本軍は完全に孤立した状況だったに違いない。
大岡昇平は南方で日本軍が玉砕を続ける最中に暗号手としてマニラに赴き、米軍の捕虜となる。捕虜になるまでと捕虜となってからの収容所の生活や心情がこの作品では描かれている。
戦死した大叔父「兵隊さん」は武器も食糧もないジャングルでどんな生活を強いられていたのだろうか。米軍の掃討によってか、島民のゲリラ部隊に襲われたのか、あるいは重度の病に侵されて斃れていったのか。真実は南の島に葬られたままである。

2019年7月30日火曜日

山本周五郎『人情武士道』(再読)

夏の甲子園出場校が決まった。
昨年は記念大会で出場校が多かったが、公立校は8校。金足農が決勝戦まで駒を進めたことは記憶に新しい。今年は49の出場校のうち、公立は14校。佐賀北、米子東、広島商、宇和島東が甲子園に戻ってくる。静岡、高松商も、センバツ準優勝の習志野、同じく4強の明石商も出場を決めた。その他、秋田中央、飯山、高岡商、鳴門、熊本工、富島と県立・市立勢の活躍が楽しみである。
東東京も小山台が決勝に進出。惜しくも敗れたけれど2年連続準優勝は立派な成績だ。西東京でも本命視されていた国士館を日野が破った。ベスト16に進んだ都立校は東3校、西6校とまずまずの成績だった。
東東京は二松学舎、城東などがはやく姿を消したものの関東一は春の実績校として順当な勝ち上がりだったが、西は国士館が初戦敗退、日大三、早実が準々決勝敗退、さらには第一シードの東海大菅生が準決勝で敗れ、秋春8強の国学院久我山が創価に勝って甲子園を決めた。春二回戦で桜美林に敗れて今回ノーシードとなった創価だったが、準決勝では大差でリベンジを果たした。
秋から春、そして夏に向かってチームは様変わりする。昨秋全国を制した札幌大谷が南北海道大会本大会の初戦で敗退し、春センバツ優勝の東邦が愛知県大会予選で敗退。今夏の選手権大会でいちばん注目を集めるのは金沢星稜であることに間違いないだろうが、これまで大きな期待を背負った幾多の選手が短い夏を終えていった。
ここのところ読まなければいけない本がないと山本周五郎の短編ばかり読んでいる。2年前に読んだ初期の短編集『人情武士道』を読む。主に30歳代に書かれた佳作を収録している短編集である。
以前読んだときには気がつかなったが、あらためて読み直してみると、文章に若さが感じられる。小気味よく、勢いがある。気負いといってしまえばそうかもしれないが、ストーリーにのめり込んでいく若き日の周五郎がそこにいる。

2019年7月26日金曜日

山本周五郎『ひとごろし』

テレビのカラー放送がはじまったのが日本では1960年だという。
昭和天皇ご成婚をきっかけにテレビがいっせいに普及したと言われているけれど、カラーテレビはまだまだ一般的ではなかったようだ。続く国家的イベントである1964年の東京オリンピック時にもカラーテレビは広まらなかった。カラー放送される番組が圧倒的に少なかったからだという。そしてカラー放送が増えはじめたのが68年以降。ナショナルのパナカラー、日立のキドカラーなど各社からカラーテレビが出そろった。
実家の向かいにコウちゃんというひとつかふたつ年上の男の子がいて、カラーテレビを買ったから見に来いという。いつもよりはやめに夕飯を済ませて、コウちゃんの家に行ってテレビを視た。灯りの消された薄暗い部屋で「仮面の忍者赤影」を視た。
赤影は特撮忍者ドラマで赤、白、青の仮面を付けた忍者が活躍する。それまでモノクロテレビで視ていたから、仮面がちゃんと赤白青だと知ったのはコウちゃんと視たその日がはじめただ。ものすごく感動したかというと案外そうでもない。モノクロだろうがカラーだろうがストーリーにそれほど影響はなく、ただ画面に色がついている、程度の感慨だったと記憶している。おそらく67年ごろのことではないか。
父がソニーのトリニトロンカラーテレビを買って帰ってきたのは69年の秋頃だと思う。どうしてそんなことを憶えているかというと最初に視たのが当時の人気アニメーション番組「巨人の星」で大リーガーオズマの褐色の肌が強く印象に残っているからだ。どういうきっかけで、何を思って父がカラーテレビを購入したのか、それはわからないままだけれど。
ここのところ時間があると山本周五郎の短編を読んでいる。
周五郎の短編は名作が多い。とりわけこの短編集は佳作ぞろいで読みごたえがある。
初版は1967年というから、僕が特撮忍者ドラマにうつつを抜かしていたころの作品集だ。

2019年7月16日火曜日

沢木耕太郎編『山本周五郎名品館1おたふく』

法事があって、南房総を訪れる。
8月のお盆や彼岸、5月の連休などに墓参りに出かけるが、7月に訪れるのは久しぶりである。夏が夏になり切れていない中途半端な季節ともいえる。青くひろがる海もまだ水温は低そうに見える。
込み入った事情があって、もともとあった墓所から菩提寺の境内に移設した。法要とともに新しい墓への納骨も行った。昨年の夏に寺の住職に相談を持ちかけたから、およそ1年がかりの移設だった。以前の墓所もそうだったが(南房総の小さな集落はどこでもそうだろうが)、海が見わたせて気持ちがいい。ご先祖様も満足してくれたのではあるまいか。前日までの雨が嘘のようにあがり、青空に白い雲が浮かんでいた。
道すがら、山本周五郎を読む。久しぶりの周五郎である。たしか1年ほど前に『正雪記』を読んだ憶えがある。この短編集は沢木耕太郎が編んだもので、はじめて読む短編もあれば、以前読んだものもある。いい話は何度読んでもいい。「あだこ」「晩秋」「おたふく」「雨あがる」…。いずれの物語にも人として生きる道すじのようなものが示されている。それも押しつけがましくなく、くどくなく。さらりとかすかに心に残る。その短編の数々は酒に似ている。口あたりのよさにつられて、盃を重ねるごとに知らないうちに酔いがまわっていい気持ちになる。そして翌朝になっても残像のように酔いが残っている。
沢木耕太郎は20代の頃『深夜特急』の旅の途中、アフガニスタンからイランに入ったところで文庫本の『さぶ』を譲り受けた。これが沢木にとって周五郎とのはじめての出会いだったという。日本の活字に飢えていた沢木は冷たい水をがぶ飲みするようにその文庫本を読んだに違いない。
周五郎のおすすめはと訊ねられるとその答は難しい。『樅ノ木』か『赤ひげ』か、あるいは『青べか』『長い坂』『五辯の椿』…。もしかするとイチ押しは短編作品のなかにあるのではないか。
そんな気もしている。

2019年7月8日月曜日

獅子文六『箱根山』

東京で生まれ育ったので、小学校の頃、林間学校(たしか区の施設があった)や修学旅行で訪ねた箱根や日光は比較的身近な観光地である。
とりわけ箱根は小田原から湯本に出て、スイッチバックの登山電車で強羅、ケーブルカーで早雲山、ロープウェイで湖尻、遊覧船で関所や元箱根を観光して、というコースが確立している。乗りもの好きでなくても気持ちが高揚してくる。駅前で蕎麦を食べ、場合によっては温泉に浸かり、ゆでたまごを食べて日帰りすることもできる。よくできた観光地だ。
江戸時代は関所で栄えた箱根も明治時代になってからは交通の便が悪く、衰退していったという。大正になって、国府津から熱海線というローカル線が敷かれ、東京、横浜から直通の列車が小田原に乗り入れるようになる。さらに昭和に入り、丹那トンネルが開通したことで小田原、熱海は東京に近い温泉保養地としてふたたび注目を集めることになる。そして小田急や大雄山鉄道など交通網が整備され、発展を遂げる。
箱根の山はケンカのケンと呼ばれたくらい20世紀以降の箱根は小田急、西武鉄道、東急が入り乱れて鉄道や道路、遊覧船の航路をはじめ観光施設の建設を競い合ったという。当時の熾烈をきわめるケンカは時代とともに忘れ去られつつある。その記憶を今に伝えているのが(もちろんそれが主たる目的ではあるまいが)この『箱根山』という小説。
娯楽文芸の大家(と勝手に呼んでいる)獅子文六作品だけに肩ひじ張らずに読むことができ、微笑ましい登場人物たちに共感をおぼえる。『てんやわんや』『自由学校』『七時間半』などと同様、映画化もされている。映画(監督は「特急にっぽん」の川島雄三)はまだ観ていないが、加山雄三と星百合子のコンビに老舗旅館の女主人が東山千栄子とキャストを眺めるだけで期待が高まる。
獅子文六のすぐれた作品を最近ちくま文庫が装いも新たに発刊している。随所に昭和のにおいが感じられ、読んでいて楽しい。

2019年7月1日月曜日

あずみ虫『ぴたっ!』

7月はイラストレーター安西水丸の誕生月ということもあり、カレーライスを食べて偲ぶことにしている。命日のある3月も積極的にカレーライスを食べるけれど、時期的にもむしむしする7月はカレーライスを食べるにはうってつけの季節だ。
特別なカレーライスを食べるわけではない。定食屋であるとか蕎麦屋であるとか、あるいはカウンター席がメインのチェーン店であったり、なにもわざわざ南房総を訪れてサザエカレーを食べたり、神宮前のギーに出向くようなことはしない(安西水丸がよく通った伝説の店ギーはもうない)。南青山にあるやぶそばのカレーライスみたいなごくごく普通のものでじゅうぶん満足できる。
あずみ虫はコム・イラストレーターズ・スクールや築地のパレットクラブスクールで安西水丸からイラストレーションを学んだイラストレーターである(以前にも書いた記憶がある)。
先月も青山で個展が開催されていたので寄ってみた。
昨年アラスカを旅して、見聞きしたものを作品にしたという。例によってアルミ板を切って、着彩されている。以前はイラストレーションの存在そのものにインパクトがありすぎて、描かれている絵をじっくり眺めていなかったような気がするのだが、最近はよく見るようにしている。ホッキョクグマはホッキョクグマらしい毛並みを持っている。オジロワシは空に向かって羽ばたいている。味わい深い。
あずみ虫は絵本作家でもあり、素敵な絵本を何冊か描いている。そのなかでも僕はこの本が気に入っていて(イラストレーションもさることながらブックデザインが素晴らしい)、知人や後輩に子どもが産まれるとプレゼントすることにしている。いいタイミングで個展など開催されていて、しかもいいタイミングで在廊されていたりすると訪ねてはサインをしてもらう。産まれたばかりの子の名前と(たいていの場合)象の親子を書いてくれる。
贈られた方もたいへんよろこんでくれる。ありがたい。

2019年6月25日火曜日

吉村昭『総員起シ』

もういちど観ておきたい映画がある。
野村芳太郎「砂の器」であるとか、オリヴィエ・ダアン「エディット・ピアフ~愛の賛歌~」、山田洋次「家族」、ジョン・フォード「怒りの葡萄」などなど枚挙に暇がない。
1970年頃からパニック映画と呼ばれる大惨事や緊急事態を扱った映画が次々につくられる。その手のものはあまり好まないが、ロナルド・ニーム「ポセイドン・アドベンチャー」は唯一といっていい例外である。なんといっても映画を観ながら長い時間息を止めたのはこの映画が最初で最後だ。転覆した船から生還するために逆さまになったセットを上へ上へ、つまり船底へと進んでいく。そこに一縷の望みがある。
逃げられるかどうかわからないとしても逃げ道があるだけまだいい方かもしれない。逃げ場がない状況は恐ろしい。たとえばロン・ハワード「アポロ13」みたいに宇宙で事故なんか起っちゃうと外に逃げましょうってわけにもいかない。そのうち酸素が少なくなってきて惨事になる。こういう状況を見続けているとだんだん呼吸が苦しくなってくる。
この短編集は歴史上あまり知らされていない海難事故を吉村昭が独自の取材力で形にした記録小説集である。書名になった「総員起シ」は潜水艦事故を取り上げている。まさに息づまる作品である。似たような状況は作者のトンネルもの(『高熱隧道』『闇を裂く道』を合わせて勝手にそう呼んでいる)の落盤事故にもあった。真っ暗な地中でできるかぎり息をひそめて救出を待つ。読みながら静かに大きく息を吸う。酸素が薄くなってきたような気がする。
以前同じ作者の『長英逃亡』という長編を読んでいたときには誰かに追われているような錯覚に襲われた。息苦しくなる物語はいくらでもあるのに、どうして吉村昭の小説ばかり酸素を薄く感じさせてしまうのか不思議でならないが、読む側に与えるその感覚は記録文学に取り組む著者の誠実さが生み出した副産物なのかもしれない。