2020年8月13日木曜日

池井戸潤『半沢直樹1 オレたちバブル入行組』

コロナ感染拡大はまだ続いている。
ウィズ・コロナとかアフター・コロナなどと言われているけれど、たしかにぞれ以前とは生活は変わってきている。在宅ワークになって、毎日のように犬たちを連れて散歩するのが日課になっている。下手をすれば、一日の運動らしい運動がそれだけになってしまうこともある。
ウォーキングや散歩の記録を残すスマホのアプリもある。高校の先輩が使っている。歩いた経路が地図上に残り、トータルの時間と距離、そして平均ペースなどが記録される。おもしろそうなのでダウンロードしてみる。いつも行く駅前のスーパーマーケットの往復だけでは物足りないから、少し遠くの店まで歩いたりする。犬の散歩ではだいたいどんなコースをたどれば、どれくらいの距離でどれくらいの時間がかかったかがわかるので、日によってたくさん歩いたり、暑い日は少し短めにしたりと蓄積されたデータを日々参考にしている。
このアプリはアメリカのスポーツ用品メーカーが開発している。1.6キロを過ぎると、1.6キロを過ぎました、平均ペースは時速何キロですとアナウンスされる。ずいぶん中途半端な距離で途中経過を知らせてくれるのだなと思っていたが、要するに距離の単位がマイルなのだろう。1マイルを過ぎると途中経過を知らせるように組み立てられたいるのだ。距離がマイルのままだとわからない国や地域も多いのでアナウンスだけが1.6キロ通過時の所要時間と平均ペースを伝えるしくみになっている、と推測した。だからなんだということもないのであるが。
コロナ騒ぎで昔のドラマが再放送されていた。
池井戸潤のドラマは「ルーズヴェルト・ゲーム」と「下町ロケット」は視ていたが、「半沢直樹」を視ていなかった。銀行を舞台にしたドラマなんて結局刑事ドラマみたいなものじゃないかと思っていた。実際にそんなものなのだろうが、思っていたよりもおもしろかった。
ついでに原作も読んでみた。

2020年7月30日木曜日

安西水丸『シネマ・ストリート』

そんなに映画好きではなかった。
ましてやキネマ旬報を定期的に購読するような読者でもなかった。それでもキネ旬に連載されていた和田誠の「お楽しみはこれからだ」くらいはときどき立ち読みしていた。映画を絵と文章で再構築することは難しい作業ではあるけれど、きっと楽しいのだろうなと思って眺めていた。
あるとき、いつものように書店でキネ旬のページをめくるといつものページに安西水丸のイラストレーションが描かれている。「お楽しみはこれからだ」というタイトルは「シネマ・ストリート」に代わっていた。新連載がはじまったのである。
こんなことは余計なお世話かも知れないが、和田さんの、連綿と続いたこの名作シリーズを引き継ぐほどの力が安西水丸にあるのか不安で仕方なかった。ときどき立ち読みしては、南房総千倉の映画館に姉と行ってちゃんばら映画を観た話とか、あまり似ていない映画スターのイラストレーションをはらはらしながら眺めていた(別に何様でもない僕がはらはらする道理はないのだが)。
連載が終わって、単行本化された。すぐに買った。奥付には1989年12月12日初版発行とある。立ち読みするようにところどころ拾って読んではみたが、通しで読むことなく、この本は30年以上も書棚で眠っていた。
要するに、大むかしに買った本をようやく読了したというだけのことなのであるが、なんと字が小さな本なのだろうというのがいちばんの感想である。みんな若かったのだ。ヴィレッジヴァンガードでセロニアス・モンクにハイライトをあげたエピソードも記されていた。
古いアートディレクターやグラフィックデザイナーは、今と違って海外のデザインや文化に接する機会が圧倒的に少なかった。レコードジャケットと映画から自らデザインを学ぶしかなった。安西水丸も数多くの映画を窓にして、世界を眺めていたのだろう。
彼が通った映画館もずいぶんなくなっている。さびしいことである。

2020年7月27日月曜日

石井妙子『女帝小池百合子』

怪獣が宇宙から、あるいは地中から、海からやってきて、大勢の人が逃げ惑う。リヤカーや大八車に布団やタンスを載せている人もいる。後方から巨大な生命体が地響きを立てて迫りくる。人々はただ逃げていくだけで、どこへ逃げるかもわからない。
緊急事態宣言という言葉に関して抱くイメージはこんなものであった。
現実の緊急事態は、じっと家の中にとどまっているだけで、リヤカーも大八車も町中で見かけることはなかった。実際に地方に疎開した人もいると聞くが、おそらくは自家用車で移動しただろうし、布団もタンスも持って行ってはいないだろう。
先月末、緊急事態宣言後、熱海に疎開していた内山田東平さんが東京に戻ってきた。
内山田さんは、20年以上前に大手広告会社をリタイアされ、その後しばらく大学で教鞭をとられていた。今は悠々自適の日々であるが、人に頼まれて、コピーなど文章を執筆されている。
ひさしぶりにお昼でも食べましょうということで西荻窪駅で待ち合わせた日はマスクをするのも億劫に感じるほど蒸し暑い日だった。はじめに向かった蕎麦屋は午後一時をまわったというのに店外で待つ人が多く、駅に近い洋食店に向かう。冷たいビールで喉を潤し、ワインとおつまみ2品のセットを注文。近況を報告し合う。何杯かワインをおかわりした後、お腹が空いたねえと店を出て、やはり駅に近いラーメンの店へ。冷や酒を飲みながらラーメンを食べた。いわゆる〆のラーメン。夜みたいな飲み方をしてしまった。
東京都知事選は翌週に迫っていた。
この本はマスコミでずいぶんと話題になっていたが、なかなか読めず、先日ようやく読み終えた。別段、これといって感想はない。こういう人は世のなかにいる。
どうでもいいかなと思ったのは、一方的に小池百合子を「こういう人」だと決めてかかっているところがつまらなかったからだ。もう少し、「いい人」としてもち上げてからでもよかったのではないかと思った。

2020年7月22日水曜日

トルーマン・カポーティ『真夏の航海』

2014年に他界した叔父は、7月生まれで生きていれば今年今月で78歳になる。
先日青山まで出かけたので墓参りをしてきた。叔父と甥の関係ではあるが、どちらかというとたまにバーで顔を合わせたりして(そしておごってもらったりして)ルーズな間柄だったので花を手向けることもなく、線香をあげるのだってごくまれにしかしない。手ぶらで行って、手を合わせて、母は最近こうだとか、自分はこんなことしてるだのと近況報告をして帰ってくる。傍から見ると(傍から見なくても)だめだめな甥っ子といったところだ。
カポーティの小説は何冊か読んでいる。特にイノセントものと呼ばれている(かどうかわからないが)少年時代を描いたものが好きだ。
実をいうとこの本は知らなかった。十代後半に書かれた幻のデビュー作らしい。書かれてすぐに破棄されたのだが、誰かに拾われ、オークションにかけられ、鑑定の末カポーティの作品と判明した。みたいなことがあとがきに記されている。
タイトルからするとさわやかな青春イノセントものという印象を受けるけれど、読んでみるとそうでもない。どことなく暑苦しく、息苦しい。『遠い声遠い部屋』や『冷血』と似たにおいがする。別に鼻をくんくんさせながら読んでいるわけではないが。
翻訳はイラストレーターの安西水丸。1970年前後、ニューヨークに暮らした氏にとってはなつかしい描写にあふれる一冊だったのではないかと想像する。安西水丸といえば、最近昔買った『シネマストリート』という本を読んでいる。キネマ旬報に連載されていた映画日記みたいな画文集である。くだらなくもおもしろい。昔の人はものすごい数の映画を観ていたのだなあと感心する。
ニューヨークといえば、先日ウッディ・アレンの「レイニーデイ・イン・ニューヨーク」を観た。「おいおい、どんな結末で終わるんだよ、この映画」って感じだった。
映画館を出た後、中村屋でカレーライスが食べたくなった。

2020年7月15日水曜日

内田百閒『百鬼園戦後日記I』

3月からはじめた在宅ワークも4か月になる。
出かける用事もないことはないが、用件が済むとさっさと帰ってくる。はやく帰れば、犬たちと散歩にも行けるし、シャワーを浴びて、ビールを飲んでのんびりできる。
仕事場には在宅ワークではない社員もいる。仕事がなくても出社せよという。テレワークをしていると業務日報を毎日提出する(場合によってはまとめて週報)。仕事をまったくしていないわけではないので、日報などはその日こなしたことや明日以降の予定を書き込めばいい。難しいことではない。人によっては、こういう文章を書くのが不得手な人もいて、通勤したほうが楽だと思っていることだろう。
困ってしまうのは、テレワークだからといってやたらと増えるメールである。在宅ですから毎朝これこれを報告してくださいとか、業界紙にこんなニュースが出ていましたなどといったメールが来る。あきらかに慣れない人が配信していることはそのタイトルを見ただけでわかる。【おしらせ】とか【あらためてのお願い】とか【6月からの働き方】について、などなど何のためにカギ括弧をつけているのかよくわからないものが多い。一時的な流行なのかもしれないが。そもそも業界紙の記事を転送されても困る。業界のキーパーソンからこっそり仕入れた情報でもなく、すでに公開されたものを送られても痛いだけである。
ここのところ、寝る前の楽しみとして百閒先生の日記を読んでいた。
戦後の窮乏期、先生が誰それからお酒や麦酒をいただいたか、どのような経緯で印税を前借したかなど、克明に記されている。まことに先生らしい一冊である。先生らしいということは、すなわち人間味あふれるということである。
新型コロナウイルスだ、テレワークだ、ビデオ会議だとふだんしたことのないことをはじめると人はあたふたする。笑ってしまっては失礼かもしれないが、非常事態によって思いがけない人間味にふれることができた。

2020年7月10日金曜日

清水義範『秘湯中の秘湯』

雨降るなか、南青山まで出かけた。
道すがら30年くらい前に読んだ本をもういちど読んでみる。
最初に読んだときは抱腹絶倒だったことを思い出す。案内文、報告文、取扱説明書、翻訳文など、あらゆる文章を遊び倒している。「ジャポン大衆シャンソン史」などは電車のなかで笑ってしまった。文庫では安西水丸が人間の真面目さが生み出すおかしさであると解説している。
6年前に叔父が亡くなり、葬儀といおうか、お別れの会、みたいなことが行われたときのことだ。場所は南青山の某斎場である。僕がついて行ければいいのだが、母がひとりで行くことになった。新橋で東京メトロ銀座線に乗り換えて、青山一丁目で降りて歩けばいいと思っていたが、果たして駅からの10分ほどの道のりがわかるかどうか。説明するのも面倒だ。わかったところで母が道順を理解しなければ、本人も不安だろうし、こちらも心配だ。もっと簡単な道順はないものだろうか。
人によっては千代田線の乃木坂が近い、六本木に出てタクシーに乗るといい、表参道からタクシーだなどという。基本つましい生活をしている母のことだから、どこそこでタクシーに乗れという指示は理解こそすれ納得はしないだろう。
と思っていたら、待ち合わせ場所のすぐ近くにバス停があった。品川駅で降りて、新宿西口行きの都営バスに乗ればいい。今の世の中だから、ネットでバスの乗り場も降りるバス停も地図上で確認できる。問題はそれをどう母に伝え、理解させ、納得させるかである。
とりあえず、仕事の合間に品川駅に行ってみた。そしてバス停までの道のり(歩道橋を渡る)をたしかめ、バスに乗った。目的地までのイメージを目に焼き付けたのだ。そしてバス停からの道のり、所要時間などつぶさに母におしえた。
「周到な手紙」という短編が収められている。母親をひとりで上京させる息子の、まさに周到な手紙を読んで、6年前のことをなつかしく思い出した。

2020年7月8日水曜日

小霜和也『ここらで広告コピーの本当の話をします。』

ミュンヘン五輪の陸上男子100メートルで優勝したのはワレリー・ボルゾフ(ソ連)だった。
このときは有力視されていたアメリカ代表の選手が2次予選で前代未聞の遅刻事件を起こした。もちろんそのことが勝因とは言えない。この種目はローマ大会で東ドイツのアルミン・ハリーを最後に黒人選手の独壇場だった。ボルゾフはどうすれば彼らより先にゴールできるか、それだけを念頭に鍛錬してきた。ベストな状態で100メートルを走り切るのに、いちばん大きな障害は“力み”である。スタートダッシュのよかった選手が前を走る、隣のコースの選手が追いすがってくる。レースはその時々でランナーのフォームやメンタルに影響をおよぼす。いかにリラックスして平常心で、精密機械のように走り切るかが勝敗を左右する。
ボルゾフとそのコーチングスタッフは、ハリーの走りを徹底的に研究し、無駄のないフォームと平静な心の状態をトレーニングによって培った。
という話を昔『スピードの秘密』(ベースボールマガジン社)という本で読んだ。
決して差別的な意味ではなく、黒人選手には白人や他の有色人種にはない天性の運動能力を持っている気がしている。しなやかなバネのような身体能力とでもいおうか。
以前から広告関係の書籍にときどき目を通すようにしている。
ヒットCMを数多くつくっているクリエイティブディレクターやコピーライターの著作が多い。彼らの得てきた知見を若い世代に伝えようという意図がわかる。独自の視点ですぐれた広告をその切り口ごとに整理して、解説を加えている。
素質豊かな天性のクリエイティビティを持ったクリエイターのエッジの立った本もあれば、自らの経験を冷静に顧みて、緻密に理論構築していくタイプもある。
博報堂に在籍し、電通と互角にわたり合った小霜和也のこの本は、広告、そしてコピーライティングの在り方を的確に指摘する。
これ以上の広告の教科書は今のところないといっていいだろう。

2020年7月1日水曜日

阿部広太郎『コピーライターじゃなくても知っておきたい心をつかむ超言葉術』

4年ほど前のこと。
あるPCメーカーの動画を制作することになり、打合せに出かけた。当時使っているPCは他社のもので、それもかっこわるいと思い、担当する会社のPCを購入することにした。しかし、ちょっとした事情があってタブレット端末にした。十分の一くらいの値段で買えたのだ(こう書くと先立つものがなかったと思われるかもしれないが、あくまでちょっとした事情があったことにしておく)。
広告をつくっている人はたいていそうだと思うが(あるいは最近の人はそうじゃないかもしれないが)、担当している広告主の商品を率先して購入する。以前、小さな制作会社にいた頃、味噌はひと味違う味噌だった。だしの素はかつお風味の〇〇だしだった。洗剤のパッケージには間違っても月のマークが印刷されていることはなかった。
ずいぶん前に買ったタブレット端末ではあったが、機能的にすぐれているし、大きすぎず、小さすぎず、使い勝手がよかった。在宅ワーク時のビデオ会議(テレビ会議?テレカン?呼び方はいろいろあるけれど)にも場所をとらないので重宝していた。リモートの打合せでは、メモをとったり、資料を見たりする必要があるのでPCとiPadは使わないのだ(打合せしながらPCでメモをとったり資料を見る方法がわからない)。
2、3日前からそのタブレット端末が充電できなくなった。調べてみると同じ症状の人は多い。電源を供給するマイクロUSB端子の接触が悪くなるらしい。さっそく修理してくれるショップをさがす。
この本の著者は、学生時代アメリカンフットボールに没頭していたというコピーライターだ。
文章においても頑丈な骨格と強靭で柔軟な筋肉を基本に据えている。そしてルールを重んじる。気合や情熱が先走った体育会系でなく、紳士的なスポーツマンという印象を持った。
タブレットの不具合は、思いのほか深刻でちゃんと修理すると新品が買えてしまうくらいだという。困ったものだ。

2020年6月21日日曜日

野呂邦暢『鳥たちの河口』

ラズベリーパイ(Raspberry Pi)というシングルボードコンピュータがある。
3年ほど前、秋葉原をうろうろした際、面白半分で購入した。
マイクロSDカードにOS(LinuxベースのRaspbian)をコピーして起ち上げるとインターネットに接続し、ブラウザ経由でメールもSNSも利用できる。追加のモジュールでデジタルカメラになったり、遠隔操作できるロボットのキットもある。
ずっと眠らせているのもいかがなものかと思い、在宅ワークの合間におそらくラズパイの使い途としてもっともポピュラーであると思われる音楽サーバーをつくってみる。VolumioというOSをインストールして、設定や操作は同じネットワークでつながっているPCやスマートフォンで行う。音楽は、CDからデータ化して(リッピングという)HDDなどの記憶メディアに保存する。デジタルの音源をアナログに変換する拡張ボードがあり、それを装着することでふつうのスピーカーで再生できる。ちょっとしたステレオになる。
昨年読んだ岡崎武の『上京する文學』で野呂邦暢を知る。芥川賞作家である。『一滴の夏』に続いて読んでみる。
舞台は長崎諫早である。野呂は「言葉の風景画家」とも称されているようであるが、目の前の情景を文章でみごとに浮かび上がらせる。まねのできない独自の世界を生み出す稀有な作家だ。
諫早湾の干拓事業やたびたび襲った周辺地域の洪水のことはくわしく知らない。長いこと水と生きてきた町がそこにあった。見知らぬ町を訪れた気持ちになる。
いつか諫早の河口の景色を見たとき、ああ、これが野呂邦暢の描いた風景だと思い出す日もあるだろう。
せっかくなので2TBの外付けHDDを買って、家にあるCDのほとんどをデータにした。100枚に満たない数でもそれなりに時間はかかったが、HDDの容量はほんのわずかである。現時点で1800曲。すべて聴くにも膨大な量になった。

2020年6月20日土曜日

獅子文六『バナナ』

主人公が家族で食事に出かける。神田三崎町の天ぷら屋だ。
「水道橋からそう遠くない裏町へ、車が曲がって行ったが、およそ美食に縁のない界隈に、戦後売り出した、テンプラ屋があった」
どこだろう。つい検索してみたくなる。
獅子文六の小説は彼が生まれた横浜が舞台となることがある。今回は神戸が登場する。
神戸には何度か足を運んだ。いずれも慌ただしい旅程で印象らしい印象は残っていない。新幹線で行って、プレゼンテーションして、中華街で定食を食べて帰ってきたこともあった。作者にとってもさほどなじみのある町とも思えないが、横浜生まれの獅子文六にとって親近感がわいたのではなかろうか。あるいは同じ国際貿易都市というカテゴリーで見てしまう先入観がそう思わせるのか。
国際結婚も獅子文六の作品にときどき見られる。『娘と私』は自伝的小説だから当然として、『箱根山』の乙夫も混血児だったし、『やっさもっさ』のシモンとバズーカお時。まだ読んでいないが『アンデルさんの記』のセシール・アンデルセンも英日のハーフだという。『評伝獅子文六 二つの昭和』には獅子文六と彫刻家イサムノグチのエピソードが書かれていて興味深い。
この本でちくま文庫から刊行されている獅子文六の作品はひととおり読み終えた。ここまで読んでくると作者の仕掛け方が少しわかってくる。わかってきたところで次に読む本がなくなる。よくあることだ。
ところで東南アジアではバナナの天ぷらが食されるという。食べたことはないし、あまり食べたいとも思わない。バナナ輸入を扱ったこの小説のなかで天ぷらがときおり登場する。バナナについて下調べをしているうちに作者はその存在を知ったのではあるまいか。そのせいで執筆中やたらと天ぷらを食べたくなったのではないか。余計な勘繰りをしてみる。
「今晩は、神田のテンプラ屋の天丼でいいよ。…」
ラストの主人公の台詞である。三崎町の天ぷら屋だろうか。やはり気になる。

2020年6月13日土曜日

橋口幸生『言葉ダイエット』

人のことは言えないが、まわりくどい話し方をする人がいる。
つまり、こういうことですよね、と簡単に話せばいいものをつまりああだのこうだの物理的には不可能だけれど個人的にはきらいではないなどとよくわからないことを平気で延々と話す人がいる。人のことは言えないが。
以前同じCM制作会社に話の長い(というかくどい)プロデューサーがいた。ロケ撮影時に誰よりもはやくトランシーバーのバッテリーがなくなることで知られていた。
文章においても同様で、言いたいことを書いているのか相手のご機嫌を伺っているのか、なにをねらいにしているのか、わからないことをくどくどと平気で書く人がいる。くどいようだが、人のことは言えない。
くどい文章は、嫌いじゃない。新しい新曲とか、何卒どうかよろしくお願い申し上げます、などと言われたり、書かれたりすると、ああこの人は一生懸命伝えようとしているんだなと思う。日々そうやって、できないながらも、不器用ながらも必死でことばを紡いでいるのだなと思う。けして悪いことではない。
ただ、広告文案やスピード感を必要とされるビジネス文書の世界ではあまり好まれないようだ。そこで本書にあるようにできるだけ無駄を省いて、端的に伝わる文章を心がける必要がある。タイトルは言葉ダイエットとあるが、厳密にいえば、文章であるとか論点を整理して、ダイエットせよという主旨であり、言葉そのものをダイエットすることでもない。文章ダイエットではありきたり過ぎて、手にしてもらえないと著者は思ったのかもしれない。的確かどうかは別として、言葉ダイエットの方が興味をそそる(広告制作者は、こうした表現をエッジが立った言い方とか、キャッチーな表現などと言う)。
経験豊富なコピーライターによってポイントがよく整理されており、勉強になる。あまりくどくどと感想を述べるとこの本のよさも伝わりにくくなると思われるので、この辺でやめておく。

2020年6月10日水曜日

村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』

横田滋さんが亡くなった。
北朝鮮の拉致被害者の象徴的な存在ともいえる横田めぐみさんの父親である。
誠に失礼なことを承知で書くが(そしてとても恥ずかしいことであるが)、僕はさほど拉致問題に対して深い関心を寄せていなかった。どうしてこんな事件が起こったのか、そんな北朝鮮の事情も、当時の時代背景も詳しく知ろうとも思わなかった。あまりにも一方的な国家的犯罪であり、情状酌量の余地はない。どのような思考回路と論理でもってしても、この拉致という犯罪を正当化するものはないだろう。
どちらかといえば僕は、生き別れた父と娘というイメージに深い悲しみと憤りをおぼえる。自分の娘が何者かによって拉致され、突然姿を消して40何年にわたって会うことができないというその状況に気が狂いそうになる。 つい自分ごと化してしまって、はなはだ感情論的な話にしてしまう。北朝鮮はそういう国家なのだとか、当時の共産主義国家は、などということはどうでもいい。
横田さんは何年にもわたって、まったく手がかりのない闇のなか、めぐみさんを捜しつづけた、寂しさや悲しさを乗り越えて。なによりも誰よりも強い父親だったのだ。
村上春樹がこれまで語ることのなかった父を語っている。雑誌に掲載された原稿がおそらく反響を呼んで出版にいたったものと思われる。著者の父と聞くと、南房総の千倉町で療養していた天吾の父親(NHKの集金人だった)を思い出す。『1Q84』のなかの挿話であり、現実の話ではない。
村上春樹は、自身が父として意識する部分がないので、息子と語られる父という関係はある意味、純化されている。語りべは無垢な少年のままである。そんな思いをもって、読みすすめた。
横田滋さんは、果たしてどんな父親像をめぐみさんの脳裏に刻んだだろうか。いつかめぐみさんがその思いを語る日が訪れることを切に願ってやまない。
強く、やさしく、立派な父親であったと彼女が語る日を。

2020年6月3日水曜日

橋口幸生『100万回シェアされるコピー』

緊急事態宣言が解除されたが、日々の報道では新たな感染者も増えている。で、相変わらず在宅勤務を続けている。特に対面で打ち合わせを必要とする作業もなく、iPadで絵を描いたり、PowerPointで絵コンテを組むなどほとんどの仕事がデスクワークだから支障はない。アイデアが浮かばないときは気晴らしに本を読んだり、音楽を聴いたりしている。傍から見たらさぼっているように見えるが、会社のデスクにいても同じような状況なら同じようなことをしている。
ずいぶん前からテレビコマーシャルの仕事よりもyoutubeで流す動画の仕事が増えている。どうしても15秒で表現しなければならないわけではないので、思いのほか自由に発想できる。もちろん制作予算もあってのことだから、何でもできるということでもない。予算にはまらないのでいいアイデアなんだけど、今回はナシだなあなどと言われるのが、やはりベテランと呼ばれるような歳になっているだけに避けたいところでもある。逆の見方をすれば、制作費のことまで気を遣ってたいしておもしろくもないアイデアばかり提案するつまらない大人になってしまったということだ。
テレビであれば、青汁だのコンドロイチンだの大きな声ではりさけべば、好意を持つかどうか、買うか買わないかは別にして一応広告の役割を果たすだろう。放映予算をつぎ込んでオンエアを増やせば、いい目立ち方かどうかは別にして印象にも残るだろう(どことは言わないけれど、よく見かける青汁のコマーシャルはもったいない。期待している購買層に有効な手法なのかもしれないが、あの“押し出し”の強さには辟易する)。
ウェブにだってなかば強制的に視聴させるやり方があるにはあるが、視たくない人に大量投下するというのは芸がない。そもそもウェブはそんなメディアではない。
やはり、だいじなのは“ことば”だと思う。いちばん安上がりで効果的である。そしていちばん難しい。

2020年5月30日土曜日

獅子文六『大番』

加東大介は好きな俳優のひとりである。
黒澤明の「七人の侍」や「用心棒」では味のある脇役であり、成瀬己喜男の「浮雲」では生真面目で冴えない男を演じている。その加東が主役に抜擢されたのが千葉泰樹の「大番」である。株屋のギューちゃんこと赤羽丑之助の一代記はヒット作となって「続大番風雲編」「続々大番怒濤編」「大番完結編」と4本シリーズとなった。
戦前~戦後、兜町でのしあがった佐藤和三郎という男がこの小説のモデルであるという。佐藤は新潟県の出身であるが、ギューちゃんは獅子文六ゆかりの地である四国宇和島の貧農のせがれという設定で脚色されている。よく株でひと儲け、などと言うが、正直言って、株のことはよくわからない。獅子文六も千葉泰樹もあまり詳しくなかったと聞く。いまさら勉強してもたぶんひと儲けはできないだろうから、わからないままにしておく。
映画でヒットした「大番」は、その何年後かテレビドラマ化されたという。赤羽丑之助を演じたのは渥美清。残念ながら記憶にない。
ところで大番とはどういう意味なのだろう。辞書で調べると平安から鎌倉にかけて皇居や市中を警備した武士である(大番役の略)とか江戸幕府の職名で江戸城、大坂城、二条城の警備にあたった大番組の略であるとされている。原作者が『大番』と題したのだから、それはそれでいい。『大番』は『大番』であり、『てんやわんや』は『てんやわんや』だし、『青春怪談』は『青春怪談』である。株式相場の最前線で戦う男の物語という意味なのかとおぼろげに考えている。あるいは相場の用語として大番ということばがあるのかもしれない。これもまたわからないのでわからないままにしておく。
相場で当てるというのはきわめてギャンブル性が強い。一生を蕎麦屋の茹で釜の前で地道に努力するのとは違う。あっけなくひと財産をなし、あっけなく死んでいく。そんな単純きわまりない人生の大河小説というべき一冊だった。

2020年5月22日金曜日

ビートたけし『ラジオ北野』

消しゴムの最期を見たおぼえがない。
消しゴムは鉛筆で書かれた文字なり、数字なり、絵なり、図なりをその身を削って消して、自らの分身ともいえる消しかすとなって消耗していく。身近にあるものとしては、石鹸に近い。しかしながら身の細った石鹸はたいていの場合、真新しい石鹸と癒着合体されることでその使命を、存在が無となる瞬間までまっとうする。使い果たされんとしている消しゴムには他の消しゴムと接着する性質はなく、かといって消しゴムは自力で動くことはできず何ものかのはたらきかけがなければ、仕事ができないから、少なくとも手指で支えられなければ機能しない。その大きさ(というか小ささ)の限界値は学術的にはあきらかにされていないが、おおむね縦横1cm、厚さ5mmくらいではなかろうか(どうでもいいことではあるが)。そして小さく小さくなった消しゴムは、筋力が衰えるみたいに、その形を維持する力がなくなり、ぽろぽろと細かくくだけるようにちぎれて、やがて消しかすとともにごみ箱に移される。ずいぶん端折ってしまったが、消しゴムの最期とはこんなことではないだろうか。
これほどみごとになくなってしまう物体もめずらしい。醤油だって、マヨネーズだって容器に入っている。厳密に最後の一滴まで使い切ることは困難である。石鹸に近いと先述したが、タンスに入れる防虫剤とも似ている。こちらは成分が気化してなくなってしまう。包装材だけがむなしく取り残される。マジシャンが脱出に成功したみたいに。
この本は7年ほど前に単行本で読んだ。その後文庫化もされたようだ。
ビートたけしの雑誌の連載や対談はおもしろい。くだらないおもしろさだけでなく、ちゃんとわかっている発言をするからおもしろいのだ。もちろんくだらなくもある。どうしよもなくくだらない。ちゃんとわかっているのにくだらないから、おもしろいのだ。
つい、くだらないことをちゃんと考えてみたくなる。

2020年5月14日木曜日

獅子文六『断髪女中』

新型コロナ感染の騒ぎで3月中頃から、不要不急の出社を避け、自宅で仕事をしている。
朝からずっと家にいると、2匹いる犬が休日と勘違いするのか、散歩に行こうと誘いに来る。たしかに天気が悪くない限り、休日には散歩に連れて行くのだ。しばらく寒かったので午後はやめに家を出る。そのことを知ってか知らずか、たとえば日曜日ならNHKの「のど自慢」が終わるころになるとそわそわと視界に入ってくる。
打ち合わせで出勤する以外は家にいるから、ここ1か月は毎日のことである。小型犬なので果てしなく歩くわけではない。だいたい1.5キロメートル前後の距離を30分ほどかけて歩く(最近スマートフォンにアプリを入れたのでどんなコースをどれくらいかけて歩いたかわかる)。そんなことでもない限り、自粛ブームのなか、身体がなまってしまう。もしかすると飼い主が飼い犬を連れて散歩に連れてってやってるのではなく、しかるべき時間になると「行こうぜ行こうぜ、オレたちが連れってやるからさ」とそわそわしながらまとわりついてくるのかもしれない。
獅子文六再発見を仕掛けた編者が編む短編集が3月に2冊刊行された。ひとつはモダンボーイ篇と副題の付いた『ロボッチイヌ』、そしてモダンガール篇である『断髪女中』である。獅子文六といえば長編大衆娯楽小説というイメージが強い。短編小説は新鮮に映る。昔の小説だから、といって侮ることはできない。獅子文六の小説はその時代の産物ではあるけれど、普遍的な主題と味わいを持っている(どうも獅子文六再発見ブームにまんまと乗せられてしまった感がなきにしもあらずであるが)。
次は何を読もうか。ちくま文庫の『バナナ』か小学館文庫の『大番』か。東宝映画でシリーズ化された娯楽大作『大番』がちくま文庫のラインナップに入っていないのはちょっと惜しい気がする。
そうこうするうちに午後になる。
振り向くと2匹の犬が尻尾を振ってこっちを見ている。

2020年5月7日木曜日

松岡正剛『日本文化の分析 「ジャパン・スタイル」を読み解く』

2009年から11年まで3年にわたってNHKで放映された「坂の上の雲」をもういちど見ている。厳密にいえばリアルタイムでは断片的にしか見ていないので、今回はじめて見るに等しい。
当時は司馬遼太郎を読む習慣がなかった。もちろん『坂の上の雲』という題名は知っていたが、いつ頃のどんな話だったか皆目見当がつかなかった。大学生の頃だったか、高校の先輩に絶対読めと言われていたが、読まないまま30年が過ぎていた。『竜馬がゆく』や『関ケ原』なら、だいたいの時代背景や登場人物が想像できる。『坂の上の雲』ではわからない。ヒントがなさすぎる。
NHKでオンエアされたドラマは、生涯で唯一、坂の上の雲に接する機会だったかもしれない。それなのに断片的にしか見なかったのは痛恨の極みであった。わずかに残された生命を削って執筆を続ける正岡子規の印象が残っている(というかその程度の印象しか残っていない)。
ふとしたきっかけで司馬遼太郎を読むようになり、幕末から明治へと時代をたどった。とりあえず設けた最終ゴールが『坂の上の雲』だった。2016年のことだ。
あらためてドラマを見ていると、この長編小説が重厚壮大なテーマを持っていたことに気づく。それは、はじめて世界の大きさを知った小さな島国が近代国家として産声をあげるとともに、一気に成長を遂げようとするエネルギーの提示である。近代日本の原点は、まさにここにある。
知の巨人松岡正剛。その新作を読む(というほど多くの著作を読んでいるわけではないが)。
日本文化とは何か、日本らしさとは何か、その特色は何か。さまざまな側面から日本文化の理解をはかる。その視点の数々は膨大な読書体験がベースにある著者ならではのものだ。
「歴史は言葉づかいの組み立てでできている」という。現在意味を変えて流通している言葉の起源が想像もつかないような別の言葉だったりする。そういったものの見方に吸い込まれていく思いだ。

2020年4月30日木曜日

本橋信宏『60年代 郷愁の東京』

東京都のホームページに「東京アルバム」というコーナーがある。そのなかにある東京WEB写真館「東京・あの日・あの時~昭和20年代から現代へ~」がなんとも言えず懐かしい。
よく見ると昭和30年代の前半から後半にかけて、微妙に変化している。昭和35(1960)年までごみ収集車は大八車だった。自動車に切り替わったのはその翌年からだという。モータリゼーションが進んで、道路にクルマが溢れる写真もこのころから散見される。勝鬨橋が開閉していたのは昭和45(1970)年までであり、銀座から都電が消えたのが昭和42(1967)年。同じような昔の写真であっても、時代の変化は着実に刻まれている。
昭和34(1959)年にオリンピック東京招致が決まった。日本は戦後の一復興国から経済成長を是とした先進国へ舵を切った。東京を中心に各地で近代化という名の景観破壊がはじまった。川は高速道路となった。あるものは埋め立てられ、あるものは暗渠となった。数寄屋橋は名前だけの橋になった。日本橋は道路にふさがれた。近所の側溝も蓋をされた。
なくなってしまった60年代の風景で興味深いのは、個人的には四谷と赤坂見附の間、紀伊国坂にあった都電の喰違トンネルである。四谷を出発した都電3系統の電車は、迎賓館の前あたりから真田濠の専用軌道に入り、トンネルを抜け、弁慶濠に沿って坂を下る(この間は単線だったという)。赤坂見附の停留所が待っている。都電でいちばん素敵な風景だったと回想していたのは実相寺昭雄だったっけ。今では首都高速4号線が喰違トンネルのあったあたりを通過する。クルマで通ることもあるけれど、味気ないことこの上ない。
7年ほど前に読んだ60年代の東京描写。著者の本橋信宏はアダルトビデオメーカーで制作や広報に携わった人物だという。
60年代は、今の世の中ではほとんど見ることのできないおもしろい景色に満ち溢れていた。昭和の真ん中の時代だった。

2020年4月29日水曜日

岡崎武『上京する文學』

すっかり忘れていた。
昨年の10月だったか、はじめてヘリコプターに乗ったのだ。もちろん仕事で、である。東京の海ごみ(そのほとんどがプラごみ)を減らしましょうというキャンペーン動画で海ごみの主な流入口とされる河川を中心に撮影することになり、ともに企画制作を担当する新聞社のヘリコプターに同乗したのである。
羽田を離陸した後、高度規制の関係で多摩川をしばらく遡上して都内に入る。東海道新幹線が見えていたから、おそらく鵜の木から田園調布あたりかと思う。台場から新国立競技場、都庁周辺をまわって、赤羽の水門付近から、荒川を下る。被写体として荒川が選ばれたのは都内の大きな河川で広い河川敷を持っているからだ。そこにはポイ捨てされたプラごみも多い。隅田川は護岸されているし、東京都のキャンペーンなので対岸が他県の江戸川や多摩川だと、それでもかまわないのだが、少し気にかかる。
当日は晴れてはいたけれど、少しガスがかかったような天気で見通しがあまりよくない。一週間先延ばしすればスカッと晴れたのにと、それはもちろん後で思ったこと。
空から眺める東京は小さく感じた。渋滞のないせいもあるけれど、台場~新宿~赤羽~荒川河口があっという間なのである。東京は狭い。
「上京」という言葉にぴんとこないのは、上京した経験がないからだろう。上京者は上京前と上京後というふたつの人生と文化に出会っている。些細なことかもしれないが、この二面性は大きい(と上京経験のない僕は思う)。
本書は「文學」にまつわる上京者の状況を調べ上げている。必ずしも地方出身者に限らないところもおもしろい人選だ。野呂邦暢という名前をはじめて知る。著者が特に力を込めて語っている長崎県出身の(そして上京を経て、長崎を舞台に活躍した)小説家である。
さっそく読んでみた。
著者もそうだが、同世代では奥田英朗も上京者だ。先日読んだ『東京物語』はまさに上京物語だった。

2020年4月28日火曜日

牧村健一郎『評伝 獅子文六』

新型コロナウイルスの騒ぎで、多くのイベントが中止や延期になっている。
大相撲春場所は無観客で開催、中央競馬も無観客で日程を消化している(競馬会の収入の柱は勝ち馬投票券なので大きな影響を受けないという)が、選抜高校野球は中止、東京六大学野球、プロ野球は延期、その他スポーツに限らず自粛の嵐が吹き荒れている。このような状況がはたしていつまで続くのか。
先日、全国高校総合体育大会(インターハイ)の中止も決定された。今夏の甲子園にも影響を及ぼすだろう。高校野球はすでに各地の春季大会が中止になっている。練習はおろか、新入部員の勧誘もできないわけだから、部活動とはいえ事態は深刻だ。
2月頃、珍しく仕事に追われ(それだけじゃないのだが)、3月になったら行こうと思っていた神奈川文学館の企画展・収蔵コレクション展18「没後50年 獅子分六展」も会期が短縮され、3月3日で終わってしまった。ひさしぶりに横浜に出かけ、餃子、焼売、サンマーメンでビールを飲もうと思っていた。残念である。
昨秋には、この催しのプレイベント的にラピュタ阿佐ヶ谷で「獅子文六ハイカラ日和」と題する古い映画の特集が組まれていた。12月にはシウマイの崎陽軒とタイアップしたちくま文庫『やっさもっさ』が発売され、話題になった。
大衆小説家として一世を風靡した獅子分六もいつの間やら人気が下火になり、忘れ去られそうになっていた。それでも獅子文六を評価する識者、読者による地道な再発見の努力が重ねられていた。筑摩書房による文庫化、映画の特集や「獅子分六展」もこうした流れのひとつ。そしてこの評伝も。
自粛ムードのなか、ステイホーム週間になってしまいそうなゴールデンウィーク(NHKは頑なにこの言葉を避け、大型連休と呼んでいるが)であるが、黄金週間という言葉を生んだ作家に(厳密には映画の原作者に)あらためて目を向けてみるのはけっして悪いことではあるまい。

2020年4月27日月曜日

野呂邦暢『一滴の夏』

今田孝嗣という同級生がいた。
小学校の頃、好き嫌いがあって給食を残す生徒がいたため、あるとき担任の教師が全部食べ終わらないと昼休みに遊んではいけないというルールをつくった。給食をとっとと食べてしまえば、いくらでも遊ぶことができる。多少苦手な食材があっても遊びたい子どもたちは鼻をつまんでのみこんでいた。先生の打ち出した改革案は奏功した。
だが、今田だけは別だった。
彼には友だちらしい友だちがいなかった。休み時間に誰かといっしょに遊ぶこともなく、会話することもなかった。好き嫌いがあったのかなかったのかもわからない。ただただ食が細く、給食はいつも残していた(パンは持って帰っていた)。身体も小さく、痩せていた。彼にとっては昼休みの遊び時間があろうがなかろうがたいしたことではなかったのかもしれない。
聞くところによると、今田は両親とではなく、お祖母さんと暮らしているということだった。年寄りに甘やかされて育ったのだろうと、当時子どもながらに思ったことがある。
どうでもいいような記憶がときどき呼びさまされる。彼のことを思い出したところで、会ってみたいとも思わないし、消息を知りたいとも思わない。しかしなぜだか気にはなるのである。不思議だ。
野呂邦暢。はじめて読む作家である。
湧水が水たまりをつくり、そのうちにくぼみを見つけては少しずつ流れ出して川を形づくっていくような、気になる文章を綴る。都会のシーンでは高度経済成長期の埃のにおいがし、故郷である長崎諫早の風景は地方都市の哀しげな空気を漂わせる。これまで読んだことのないタイプの小説家だ。
野呂は古書店を愛した作家としても知られているという。大田区山王の古書店主関口良雄が書いた『昔日の客』に登場する(残念ながらまだ読んでいない)。
どこか遠くに置き去りにしてしまった風景を思い出させる。
昼休みが終わって、5時間目の授業がはじまる。今田はひとり、給食を食べていた。

2020年4月23日木曜日

吉村昭『大黒屋光太夫』

1997年に東京湾アクアラインが開通するまで、川崎・木更津間にカーフェリーが運航していた。父が南房総に帰省する際に利用していた関係で何度か乗船した記憶がある。1時間ほどの船の旅だったと思う。
東京湾を横断するフェリーとしては久里浜・金谷間の東京湾フェリーが健在で、数年ほど前だが館山まで所用で出かけた帰りに乗ってみた。40分ほどのアトラクションだった。
普通に陸上で生活していると船の乗る機会はほとんどない。船に乗りたくて、浅草を散策するのに日の出桟橋から水上バスに乗ったのもやはり数年前(このところ数年前のできごとがいつのできごとだったか正確に思い出せない)。
鉄道が発達する前、海にしろ川にしろ、船は重要な交通手段だった。滅多に乗らない船ではあるが、もしこのまま大しけになって難破したらどうなってしまうのだろうとか航行不能に陥って、流されるままに漂流を続けたらどうなっちゃうんだろうかと果てしなく広がる水平線を眺めながら想像する。
大黒屋光太夫は伊勢から江戸に向かう途中、駿河沖で暴風雨に会い、漂流を余儀なくされる。黒潮に流されること7か月、漂着したのはアリューシャン列島の小島だった。と、ここまででもたいした冒険譚なのだが、これはほんの序の口。
井上靖も同じ題材を小説にしている。『おろしや国酔夢譚』は佐藤純彌によって映画化された。鎖国下の日本人が酷烈な気候の見知らぬ国で生きていくことの難しさは想像を絶するものがある。どうせ漂着するなら南の島がいいなと個人的には思う。
それにしても18世紀江戸時代の漂流事件がこれほどまでに克明に描かれているのは、光太夫がはじめて出会う土地、人々、生活などを事細かに筆記していたからだという。矢立から筆を出して、なにがしか書きとめている姿は映画(光太夫役は緒形拳)でも再三登場する。
見知らぬ国に流れ着いたこともたいしたものだが、逐一メモをとっていたこともすごいことだ。

2020年4月21日火曜日

平山三郎『実歴阿房列車先生』

鉄道趣味はある時期、オタク(ヲタク)などと呼ばれることもあり、自ら公言するのは憚られていたように思う。列車の写真を撮影したり、時刻表を眺めていることは好きだったけれど、自分で自分を鉄道ファンだと認めたくないところはあった。まあ、こういうことも不勉強のなせる業であって、歴史を紐解いてみれば、鉄道をこよなく愛する人物がいかに多かったかがわかる。阿川弘之、実相寺昭雄、川本三郎、関川夏央…。
そのなかでも内田百閒は、鉄道趣味普及啓発の父と呼んでもいいくらい鉄道に関する文章を遺している。『阿房列車』と称される鉄道紀行は全15編。新潮文庫で第一から第三まで3巻のシリーズに収められている。その旅のほとんどが無目的。用事がなく、ただただ列車に乗るためだけの旅行である。今でいう「乗り鉄」かというとそればかりではなく、駅のホームにこれから乗車する列車が入線すると、機関車と連結された客車の一両一両を丹念に眺めてまわったというから装置としての鉄道についても深い興味を抱いていたに違いない。
不思議な人物が登場する。ヒマラヤ山系という。日本全国くまなく旅をした百閒先生に付き添って同乗した人物である。後で調べてみるとこの人は、国鉄の職員で戦後、機関誌『國鐵』の編集者として内田百閒と付き合い、長い旅のパートナーとなった平山三郎であることがわかる。この本の著者である。
素人的なイメージでいえば、作家と編集者の関係はある意味主従関係に近いものを感じている。言うことを聞かないわがままな作家先生をおだててなだめて、筆を進ませるのが編集者の仕事ではないかと思っている。あの手この手で締め切りまでに原稿を書かせようと躍起になる姿を想像する。ところが旅の中でヒマラヤ山系=平山三郎は、百閒先生の思い付きやわがままをするりとかわす。先生の思考回路や感情の機微を完全に掌握しているようだ。たよりになる同行者だったことだろう。

2020年4月16日木曜日

獅子文六『ロボッチイヌ』

最近めっきりラジオを聴かない。
といっても、ラジオに毎日耳を傾けていたのは、中学生や高校生の頃のことだ。当時おもしろい番組が多かったからではなく、年齢的環境的にラジオと親和性の高い時期だったからだろう。
10年以上前になるが、通勤時に聴いていた。都営地下鉄だとAMラジオが聴ける。朝のワイド番組を聴きながら通った。そのポケットラジオを枕元に置いておく。夜中に目が覚めたとき「ラジオ深夜便」を聴くこともあった。昔の歌手のヒット曲がイヤホンの向こうから聴こえた。
近頃は便利な世の中になって、パソコンやスマートフォンなどでネット配信のラジオ番組を聴くこともできる。ラジオがなくてもラジオを聴くことができるのだ。不思議な話だが、そういう時代になってしまった。
しかしながら、デジタル端末で聴くラジオ番組はどうも味気ない。そもそもラジオ放送は、電波に音声を合成(変調)して巨大なアンテナから発信される。ラジオ受信機はその電波をキャッチして、音声と合成された電波の中から音声だけを取り出す(検波とか復調などという)しくみを持っている。電波は1秒間に30万キロメートルの速さで飛んでいく。今、発信された音声をほぼ同時に聴くことができる。デジタルではそうはいかない。データはさまざまな記憶媒体や伝送装置を経由する。タイムラグが生じる。ためしにデジタル端末とふつうのラジオとで同時に同じ番組を聴いてみればわかる。
もちろんそんなことはどうでもいい話だ。身になる情報やおもしろいコンテンツが伝わりさえすればそれでいい。音声が変調されて、電波に乗って、ラジオがそれをキャッチして復調する。そんなことはどうでもいいのだが、デジタルは味気ない。なぜなんだろう。
獅子文六の短編集をはじめて読む。ラジオ放送をラジオ受信機で聴く感覚に近い。
ラジオでも最近はボタンを押すだけで選局(チューニング)できる機種がある。あれもちょっと味気ない。

2020年4月15日水曜日

吉村昭『深海の使者』

就学以前の記憶である。
横浜ドリームランドという遊園地があった。幼稚園の遠足で行った憶えがある。どんなアトラクション(もちろん当時はアトラクションなんて言葉は知らない)があったかほとんど記憶にない。唯一憶えているのは、潜水艦である。
潜水艦といっても本当に海中に潜るのではなく、潜水艦状の乗り物が滝の中に入り込んでいくとそこが海中になっているという代物。窓外に深海の様子を見ることができたと記憶している。
当時、週刊少年サンデーに『サブマリン707』という冒険漫画が連載されていた。漫画は月刊誌を一冊だけ許されていたが、週刊誌は立ち読みするくらいしか接する機会がなかった(少年マガジンも少年キングももう少し大きな子どもが読むものだった)。それでも当時、「潜水艦」という言葉は幼年の心を震わせる響きがあった。
潜水艦に関する本を読んだり、映画を観たこともあった。事故が起こり、酸素とともに意識が薄れていく。壮絶で静かな死が待っている。潜水艦内では死体が腐乱しないという。酸素がないので微生物も生きられないのだ。吉村昭の『総員起シ』だったか、そんなことが書かれていた。
太平洋戦争当時、日本はどうやってヨーロッパの枢軸国と連携をとっていたのか。
無線電信があっただろう程度にしか思っていなかったが、無線は暗号を使ったとしても傍受される。さらに発信した位置を特定されてしまう。飛行機はどうか。日ソ中立条約のため、日本の航空機はソビエト領空を飛ぶことができない。北回りの航路はまだ未知数。ソ連領土を迂回する南回りでは長距離過ぎる。船舶は南アジアやアフリカ沿岸などの制海権をイギリスに握られている。インド洋から大西洋に出るには南アフリカのケープタウン沿岸を回らなければならない。もちろんそこにはイギリスの海軍と空軍が待っている。
日本からドイツへ、ドイツから日本へ。潜水艦による長距離航行だけが残された道だった。

2020年4月13日月曜日

間宮武美『僕たちの広告時代』

ずいぶん昔のことだが、『テレビCMの青春時代』という新書を読んだ。
著者の今井和也は、レナウンの宣伝部で「イエイエ」や「ワンサカ娘」を手掛けた方だったと記憶している。主に語られているのは、レナウンと資生堂のテレビコマーシャル。今は亡きふたりのCMディレクターにスポットをあてる。電通映画社(現電通クリエーティブX)の松尾真吾と日本天然色映画(現ニッテンアルティ)の杉山登志だ。この他にも当時、企画制作に携わった者たちが実名で登場する。
広告に限らず、どんな世界にも武勇伝や伝説が多々ある。NHKで放送されていた「プロジェクトX~挑戦者たち」が人気番組だったのも、高度経済成長を経験した日本人の多くが命がけの仕事にあこがれを持っていたからに違いない。トンネルを掘ったり、ダムをつくる方がたいへんな仕事ではあるだろうが、僕自身が広告制作の世界に生きてきたので、とりわけ昭和から平成はじめの「広告時代」に引き込まれてしまう。
広告の世界でいえば、電通という巨人がいて、博報堂がその後を追いかけている。著者は博報堂に中途入社して、サントリーやNTT、東芝などの営業担当として制作にかかわった方だ。一概には言えないけれど、博報堂のスタッフは電通という大きな壁をどう乗り越えるか、ジャイアントをどう倒すかといった強いメンタルを持っていたように思える。あるいは博報堂の制作局の人々と仕事をした僕自身の経験がそう思わせるだけかもしれないのだが。
テレビをはじめとしたマスメディア中心の時代が終わり、デジタルとの融合がすすめられている昨今、著者の遺した「広告時代」が将来の広告にとってどれほどのヒントになるかはわからない。ただ、そんな時代もあったのだという思いがこれからの人たちの心の片隅にあればうれしい。
本書の中で僕がリスペクトしているクリエイティブディレクターの若かりし時代を垣間見ることができた。それだけでもこの本を読んでよかった。

2020年4月9日木曜日

小霜和也『恐れながら社長マーケティングの本当の話をします。』

長いこと広告制作の仕事に携わってきたのでプレゼンテーションをする機会も多かった。
ありがちなことではあるが、プレゼンしてみて、はじめて広告主の本当のニーズがわかったりする。おもしろそうな企画案を携えて、けっこう自信たっぷりに提案したのに「うちの会社はこういうのあまり採用したことないんですよ」などと言われることもあった。書面にされたオリエンテーションシートやマーケティングセクションで精査された市場や消費者の動向などではわからないその企業独自の悩みがそのときはじめてわかったりする。それが案外理屈ではなかったりする。
広告主がずっと歩んできた道のりや成功体験、失敗事例は、企業風土となって拭いがたくその会社にしみついている。内部の人にはこうしたことが暗黙知として了解されているけれど、外の人間には理解しがたいものもある。
「こういうタイプのタレントさんは、うちでは使わないんです」
などと言われてもキョトンとするばかりである。
ときどき広告主の担当者と親密な関係を築いてきた営業担当がわけのわからないオーダーをする。課題となっている商品やサービスとはほとんど関係のない情報だったりする。制作担当としては当然無視する。不評に終わったプレゼンの帰り途、ようやくわけのわからなかったオーダーがわかってくる。そんな経験もした。
人それぞれに個性や主義主張があるように、企業もひとつひとつ独自の文化や生き方があり、企業活動の細部にまで行きわたっている。コミュニケーションの提案だからといってAだからB、BだからCといった論理だけでは解決できない課題は多い。
では企業の全人格を体現しているのは誰かといえば、それはやっぱり社長だろう、という仮説に基づいて、この本はビジネスを語っている。
森永製菓や森下仁丹など、昔からある商標やマークは社長自らかかわっていたという。社長がアートディレクター的な役割も果たしていた時代があったのだ。

2020年4月2日木曜日

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』

いろんな事情があって、しばらくブログの更新ができなかった。いろんな事情というのは、文字通りいろんな事情なのでこと細かに説明することはできない。
昨年末から年初にかけて、そしてその後もわずかではあるものの本は読んでいた。海外の小説を読むのはひさしぶりのことで、この本は20代の頃いちど読んだ記憶がある。『大工よ屋根の梁を高く上げよ/シーモア序章』とか『ライ麦畑でつかまえて』、『ナイン・ストーリーズ』あたりを新潮文庫でまとめて読んでいた頃のことだ。当時の翻訳は野崎孝。タイトル(邦題)は『フラニーとゾーイー』だった。宗教じみた小難しい内容だったくらいしか印象に残っていない。
昨年通りすがりに立ち寄った書店の文庫棚を眺めていたら、村上春樹訳があった(それまで村上訳があるとは知らなかった)。昔読んだ印象はほとんど忘れていたので手にとってみた。表紙が気に入った(『さよなら、愛しい人』と同じ装丁家か)。タイトルは『フラニーとズーイ』になっている。憶えていないわけだから、この際ゾーイーでもズーイでもどちらでもかまわない。訳者によってはズーイーだったりもする。『ライ麦畑』も村上春樹は『キャッチャー・イン・ザ・ライ』としている。翻訳書のタイトルなんかこの際どうでもいいい。
フラニーはグラース家の7人きょうだいの末娘、ズーイは5歳年上の兄で五男。上から順番に整理すると長男シーモア(拳銃自殺する)、次男バディ(作家、役割としてはサリンジャー)、長女ブーブー、三男四男は双子でウォルト(戦死する)とウェーカー。
僕の父も7人きょうだいだった。三男四女。母のきょうだいも同じく7人で、こちらは二男五女。グラース家とちょうど裏返しの構成だ(どうでもいい話ではあるが)。
でも正直言って、表紙のデザインをのぞけば、それくらいしか印象に残ることはなかったけれども、読んでいるうちに思い出してきた。宗教じみた小難しい話だったことを。

2020年4月1日水曜日

大場俊雄『早川雪洲-房総が生んだ国際俳優』

映画撮影の現場ことばで「セッシュ(あるいはセッシュー)する」という用語がある。
とりたてて専門用語というほどのことではないが、画面上高低のバランスがよくないとき、低い方に下駄を履かせて(実際には箱馬か平台にのせて)、構図を調整することをさす。
1900年代はじめ単身でアメリカに渡り、ハリウッドスターになった早川金太郎(雪洲)は女優たちにくらべて身長が低く(172センチといわれている)、ツーショットのシーンなどでは踏み台にのせなくてはならなかった。こうした撮影現場での工夫はそれまでも行われてきたが、早川雪洲によって言語化されたというわけだ。多少なりとも日本人に対する偏見があったかもしれない。
「セッシュする」はその後、人物だけではなく、撮影する被写体全般にも使われる。小道具や撮影用商品もしばしば「セッシュ」される。
1907(明治40)年、房総沖でアメリカの大型商船ダコタ号が座礁する。
白浜や乙浜、七浦など地元集落から漁船を出すなど、大勢の村人が救出にあたったという。そのとき、通訳として活躍したのが東京の海城学校(現海城高等学校)で海軍士官学校をめざして英語を学んだ雪洲であったと地元では語られていた(語っていたのは実は千葉県七浦村、現南房総市千倉町出身の母だったりする)。ところがそれは事実ではないらしい。調べてみると通訳にあたったのは雪洲の兄であった。ハリウッドに渡って大スターになった地元の英雄早川雪洲が伝説化して、いつしか語り継がれてしまったのかもしれない。
著者大場俊雄は、館山市出身。東京水産大学(現東京海洋大学)を卒業後、教職を経て、千葉県の水産試験場であわびの増殖の研究に従事していた。千倉町の漁業関係者に聞き取り調査をすすめているうちに伝説のスター早川雪洲の存在を知ったという。
研究者ならではの綿密かつ正確な調査が雪洲の正しい生涯を明らかにする。背筋の伸びたきちんとした著作である。

2020年3月31日火曜日

吉村昭『背中の勲章』

ふた月ほど前のこと。JR大井町駅で吉岡以介にばったり出くわす。
吉岡は小学校時代の同級生で、僕らが進学する地域の公立中学ではなく、他区の中学に進んだのか、あるいは私立中学に進学したのか、卒業後音信不通になっていた代表的人物である。改札付近で声をかけられなかったら、おそらく気がつかなかったと思う。
話を聞くと昨年の秋に母親が脳疾患で倒れ、大井町の病院に入院しているという。たまたまその日は親戚に不幸があって、通夜に行く途中だった。ふだんは別居している。さほど不自由なくひとり暮らしをしているとはいえ、年老いた母親ひとりで行ったこともない遠くの斎場に行かせるのもと考え、実家まで迎えに行き、最寄り駅のホームで電車を待っている間に具合が悪くなったという。生命にかかわるようなことにならなくてよかったなとなぐさめにもならないことばを伝えると後遺症もあるし、まだまだこれからが大変なんだという。そりゃそうだろう、つまらないことを訊いた自分が恥ずかしい。
同じように電車を待っていた女子高校生らが、すぐに駅員を呼びに行ってくれたという。なかにはペットボトルの水を買ってきてくれたりしたそうだ。世の中ってそんなに悪いもんじゃないぜと以介は強がりのように話していた。一時間もしないうちに救急車で病院に搬送され、治療がはじまったという。
「運がよかったんだよ、おふくろは」
小学校卒業以来再会した友人とそんな話をするとその間の50年弱がほんとうに一瞬のことだったと思う。昨日、12歳だった少年があくる日には病気の母親を抱える初老の男になっているのだ。
太平洋戦争の初期に捕虜となった男が背中にPWとペイントされた服を着せられ、アメリカ本土を転々とする。そして終戦後、様変わりした日本に帰ってくる。ちょっとしたタイムトラベラーだ。
吉岡以介のおふくろさん、どうしただろう。もう退院して、どこかの施設で新しい生活をしているのかもしれない。

2020年2月26日水曜日

松本清張『点と線』

JR大井町駅の南側に通称「開かずの踏切」がある。子どもの頃は近くに鮫洲などという地名もあったから、アカズの踏切というのは固有の名称だと思っていた。都市部を中心にそこらじゅうにあるものだと知ったのはずいぶん大人になってからである。気がついたときには、踏切のすぐ近くに歩道橋ができた(いつごろできたか記憶にないが、本来の機能を発揮しない踏切の代替機能をじゅうぶんに果たしていた)。
小学生の頃、にわかに鉄道ブームが起こった。
友人らと日曜日の朝、写真を撮りに出かける。歩道橋からのアングルはちょっとかっこよかった。それぞれが当時どの家庭にも一台はあった小さなカメラを持って出かけた。オリンパスペンとか、リコーオートハーフ。僕が使っていたのはキヤノンデミというやはりハーフサイズのカメラだった。
何を撮るかといえば、前日の午後九州を発した寝台特急列車である。西鹿児島から、熊本から、長崎、佐世保から夜を徹して走り続けたブルートレインが早朝から東京駅にたどり着く。当時牽引していたのはEF65という電気機関車である。前面にはさくら、みずほ、はやぶさなど列車の愛称を記したヘッドマークプレートを掲げていた。要するに撮りたかったのはそれである。
松本清張に限らず、昭和の小説や映画では夜汽車が数多く走る。ブルートレインと呼ばれた豪華な寝台特急列車だけではない。堅い二等車の座席で目がさめると窓外は一面の雪景色だったりする。
この小説は、鉄道愛好家の間で時刻表に精通した犯人が巧みなアリバイ工作をはかることでもよく知られている。東京駅13番線ホームから15番線に停車中の博多行き特急列車を見渡せる例のシーンである。
定期的に運行される寝台特急も今となってはわずかとなってしまった。夜間長距離を走る列車もあるにはあるが、不定期運行となっている。松本清張で夜汽車の気分を味わうというのはちょっとしたぜいたくである。

2020年1月30日木曜日

奥田英朗『東京物語』

2020年。オリンピックイヤーである。
昨年のNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」の最終回、開会式で聖火が灯されるシーンを視て、ああ今ごろこの聖火台の下で島崎国男がダイナマイトを抱えて逃走しているのだと思った人も多いだろう(そんなことはないか)。
奥田英朗の『オリンピックの身代金』は、人にすすめられて読んだ。人がすすめる本というのはたいてい、まあそんなものかくらいにしか思わないのだけれど、この本は抜群におもしろかった。読み終えたあと、主人公島崎がダイナマイトを入手した六郷土手や本郷、弥生の東京大学の周辺、下宿していた西片町、現金の受け渡しに失敗した上野などを歩き回った記憶がある。著者もおそらく東京じゅうをくまなく歩いていたであろうことがこの本を読むとわかる。
奥田英朗は、1978年に高校を卒業して、上京している。僕とまったくの同世代である。この本は、上京当時の著者が主人公である比較的初期の作品だ。
キャンディーズの解散コンサート(東京ドームはまだなく、会場は後楽園球場だった)やそのときどきのヒット曲、流行・風俗が顔を覗かせる。映画「未知との遭遇」が公開され、中日ドラゴンズの新人小松辰夫に大きな期待が寄せられていた。そんな時代もあったねと中島みゆきみたいに思い出す。ごく普通に東京で生まれ育った僕らに見えなかった景色を地方からやってきた青年が克明に描き出す。
主人公久雄は、上京初日に東京芸術大学にすすんだ平野という友人を訪ねる。文京区西片町に下宿していた。水道橋駅から都営地下鉄6号線(三田線と呼ばれるようになったのはその年の7月だ)に乗って、白山駅で下車する。東大大学院生だった島崎国男のプロトタイプかもしれない。
上京した人が描く東京は、目新しいテーマではないだろうけれど、この時代の東京を描いてくれたことはたいへんうれしい。
1978年は、1978年の匂いを持っているのだ。

2020年1月24日金曜日

獅子文六『やっさもっさ』

子どもの頃、磯子に住む親戚を訪ねた。帰り途、父の運転するクルマで丘陵地を抜けた。西日を浴びた緑色の路面電車が繁華街を走っていた。伊勢佐木町辺りだっただろうか。記憶に残る数少ない横浜の風景である。
大学生の頃の指導教官が横浜に住んでいた。1982年だったか、新年会を催すとのことで、卒論指導を受けていた学生や院生、卒業生らが集まった。中区山元町。横浜駅ないしは桜木町駅から根岸方面へバスの便があると聞いていたが、地図を頼りに石川町駅から歩いた。川沿いを歩いて、地蔵坂を登る。坂道はやがて山手本通りに合流し、そのまままっすぐ400メートルほどでめざす先生の家に着く。
ところが現実はそうはいかない。坂道の途中には道幅の狭い脇道があり、石段があったりする。魅惑的な小道についつい引き込まれる。七転八倒、余計なまわり道の末、ようやく山元町にたどり着いた。
山元町と隣接した大平町、その交差点近くに曹洞宗の寺がある。義母の実家の菩提寺である。墓所は根岸の共同墓地で、米軍住宅に隣接している。根岸の競馬場跡が見える。葬儀や法事で何度か訪れている。その度に石川町駅から山元町まで歩いた冬の日を思い出す。
山元町から横浜駅根岸通をさらに進んだ辺り、競馬場跡と米軍キャンプの跡地が公園になっている。高台にあって見晴らしがいい。海が見える。本牧辺りだろうか。
根岸を起点にして、元町や関内、伊勢佐木町などを歩いてみるのもおもしろそうだ。山手に住んでいた山本周五郎が根岸の山を越えて、横浜橋で蕎麦を食べていたと何かの本で読んだ。横浜には横浜の歴史があり、東京の下町とは少し違うけれど、魅力に富んでいる。
澁谷實監督「やっさもっさ」を昨年観て、原作も読んでみたくなった。C書房の川口洋次郎に問い合せたところ、12月刊行予定と聞いた。崎陽軒とタイアップした限定版の装丁なども含め、話題の一冊となった。
この本を片手に横浜散策するのも悪くない。

2020年1月20日月曜日

瀬尾まいこ『図書館の神様』

2020年の全日本卓球選手権男女シングルスは、東京オリンピック代表が相次いで敗れた。
男子決勝では一昨年の覇者張本智和が、3連覇をねらう伊藤美誠が女子準決勝で敗退。女子はここ数年、伊藤、平野美宇、今回優勝の早田ひななど実力が拮抗した若手が台頭している。男子は水谷隼が06年から18年までに10回優勝(準優勝3回)しており、絶対王者の感があった。
かつて、男子では斎藤清がシングルスで8度優勝を飾ったことがある。80年代も絶対王者の時代だった。一昨年、当時14歳の張本智和が決勝で水谷を退け、しばらくは張本時代が続くものと思っていた。卓球界はいよいよ戦国時代に突入したのかもしれない。男子優勝の宇田幸矢もさることながら、準決勝で張本に敗れた戸上隼輔(インターハイ2連覇)は、これまでにないパワーの持ち主で、打倒中国に向けて新戦力登場といった印象だ。
50~60年代、卓球日本として世界にその名をとどろかせていた時代、荻村伊智朗が日本のエースだった。荻村は国際卓球連盟会長として卓球による親善外交や競技の普及、イメージアップに尽力した人としても知られているが、男子シングルスで世界選手権を2度、団体で5度制覇している。ところが全日本卓球選手権大会男子シングルスにおいて荻村は一度しか優勝していない。これは荻村伊智朗が国内の選手に弱かったということではなく、当時の日本卓球がハイレベルだったことを物語ってはいないだろうか。高いレベルで切磋琢磨していた時代といってもいいだろう。
絶対王者の時代から群雄割拠の時代へ。テレビで男女シングルスの試合を見て、日本の卓球に希望が持ててきた。
はじめて読む作家である。どろどろしてそうでいてピュアな空気が漂う。静かな映画を観ているような気分。今風の清々しい小説だ。
ところで、ここしばらく卓球の神様は、中国に居ついているが、そろそろに日本にもやってくるかもしれない。

2019年12月29日日曜日

古今亭志ん生『なめくじ艦隊』

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」が低視聴率だったと報道されていた。
いつものような時代劇じゃなかったから面食らった視聴者も多かったのかも知れないし、主役が前半(金栗四三)と後半(田畑政次)でわかれるのがわかりにくかったのかも知れない。いずれにしても視聴率なんてものはテレビを視ていた人の視聴態度を示す数値ではなく、その時間にテレビの電源が入っていて、そのチャンネルのコンテンツが画面に映し出されていたというだけのことだから、関係者もさほど落胆するには及ばない、と思っている。僕個人としては、このドラマは嘉納治五郎の物語でもなければ、金栗、田畑の物語でもなく、古今亭志ん生のドラマだと勝手に思っている。出演者に不祥事があって、代役を立てて、撮り直ししたなんていうのも志ん生の生涯みたいでおもしろかった。
以前読んだ野地秩嘉『TOKYOオリンピック物語』を思い出す。アスリートや大会の運営にかかわるスタッフたちではなく、ホテルの料理長、航空自衛隊、建築家、映画監督、グラフィックデザイナーらにスポットを当てた名著である。「いだてん」にはこうした人たちも(すべてではないけれど)登場する。村上信夫、松下英治、丹下健三、市川崑、亀倉雄策らである。1964年のオリンピックが実に丁寧に描かれている。強いてあげるならば、国際ストーク・マンデビル競技大会にももう少しふれたかったところだろう。
この本は古今亭志ん生の語りを速記したものだ。志ん生らしさが文章からにじみ出ている。志ん生の一生がおもしろいのは、才能もあり、努力も怠らなかったにもかかわらず、自ら破天荒な道を選んで、自爆するように挫折を重ねていったことだ。
普通にちゃんと噺に取り組んでいればもっとはやく芽が出ただろうにと思う。だけどそうじゃなかったところに古今亭志ん生の芸の奥深さがある。美空ひばりじゃないけれど人生って不思議なものですね。

2019年12月23日月曜日

太宰治『津軽』(再読)

先月、中学時代の同期会があった。
幹事の石羽紫史(もちろん仮名)から案内をもらって、出席するつもりでいたが、返信欄に書くかっこいい文章が思い浮かばず、ほったらかしにしていた。しばらくして彼女から催促のメッセージが届いていた。
数年前にもいちど同期会があり、たまたまその日石羽と会って半ば強引に連れていかれた。それ以来である。中学も小学校も入った年にいつも石羽紫史は隣の席だった。しっかり者の女子は苦手だが、好きだ、当時から。石羽に声をかけられると断りきれない。
高校は別々だったが、3年生になって(もう部活も引退し、人並みに受験勉強に明け暮れていた頃)、何度か大井町の駅の近くやその近くの図書館で石羽と出くわすことがあった。ちょっとときめいたりした。こんど会ったら初恋の人になってくれないかって告白してみようかなと思う。
大井町の居酒屋には20人くらいが集まった。見覚えのある人もいるし、名前を聞いて思い出す人、名前を聞いてもまったく思い出せない人もいる。小学校がいっしょだったりするとすぐに思い出せるが、中学の3年間でクラスも違って、部活でも接点がなかったりすると思い出しようもない。
どうしても思い出せない女子がいた。あの人だれ?とこっそり聞いてみる。佐伯先生よ、という。同級生ではなく、全共闘で安田講堂の屋上から火炎瓶を投げていた保健体育の佐伯英子先生だった。
太宰治でも読んでみようかと思ったとき、たまには別の本をと思いながら、いつも手にしてしまうのが『津軽』である。読むたびに最後、泣く。
石羽に誘われて二次会はカラオケ(やはり断りきれず)。深夜に終わって、終電もない。実家に泊まることにした。俺もそっちの方だから途中までいっしょに行こうぜと同期生のひとりに声をかけられる。小雨の降るなか歩き出す。たまにこうして集まるのもいいもんだな、なんてしゃべりながら。
が、やつの名前がいまだに思い出せないでいる。

2019年12月19日木曜日

池波正太郎『原っぱ』

ICカード乗車券をチャージする。スイカとかパスモといった類のカードに、である。
最近はカードを置いてチャージできる機械も見かける。どうやってお金が転送されるのかじっと見つめているのだけれど、未だそのしくみが解明できない。不思議でしょうがない。「カードを動かさないでください」と女性の声がする。損したら困るから絶対動かそうなんて思わない。
置き型ではないチャージ機では「カードをお入れください」「紙幣をお入れください」と女性の声にしたがって操作するとチャージができる。ICカードを入れて、紙幣を入れる。たとえば1,000円チャージするのに一万円札しかなかったりする。カードと紙幣が機械にするすると吸い込まれ、(機械によってはひったくるように紙幣を吸いとる育ちのよくないやつもいる)おつりとカードが吐き出されるまで空白の時間が生まれる。この瞬間、所持金はゼロだ。不安に襲われる。ICカードとなけなしの一万円札を取り上げられた状態で、そんなことは今までいちどもないのだけれど、突如大停電が起こったらどうすればいいのかと。一文無しの状態でブラックアウトした大都会へほおり出されてしまうのだろうか。チャージするたびに怯える瞬間的な恐怖。
永遠とも思われるような長い長い沈黙の後、「カードをお取りください」「おつりをお取りください」という女性の声が聞こえる。杞憂に終わる。
この本は池波正太郎作品のなかで数少ない現代もの。自伝的小説であるといわれている。そうは言われても時代小説はあまり読まないし、池波正太郎というとグルメエッセイばかり読んでいたから、実をいうとピンとこない。もともと芝居好きでそのキャリアの最初は劇作家だったという。演劇にかかわる登場人物に納得がいく。
池波正太郎が好きだった神田まつやのカレー南蛮そばが食べたくなる。ちょいと地下鉄に乗って行ってみようか。おっとその前にチャージしなくちゃ。

2019年12月16日月曜日

中野翠『今夜も落語で眠りたい』

寝る前にYoutTubeで落語を聴いていると以前書いたところ、何人かの友人からこの本をすすめられた。著者は30年ほど前から落語の魅力に取りつかれ、カセットやCDで夜な夜な古典の名作を聴いていたという。聴いていたというより落語に恋をしたといってもいい。作者の落語愛を感じる。
寝る前に落語なんて、同じようなことをする人っているものだ。で、古今亭志ん生の噺を聴いていると眠くなってしまうというのも同様。著者は桂文楽や志ん生推しではあるが、当時まだ現役バリバリだった古今亭志ん朝をいちばんのおすすめとしている。かつて僕がテレビコマーシャルの撮影で出会った頃の志ん朝師匠だ。
長年出版社に勤務している高校時代の友人川口洋次郎(もちろん仮名である)は、この本は名著だと言っていた。川口は今僕が読んでいるような本、たとえば吉村昭だとか獅子文六、司馬遼太郎なんかを中学生高校生時代にほぼ読み終えていた文学少年だった。これも後で知ったことだが、落語にも造詣が深い。今でもときどき寄席に足を運んでいるらしい。どうりで現代国語や日本史が得意だったわけだ。剣道も嗜んでいたが、これは当時から知っている。人は見かけによらない。
川口は同じ著者の、やはり落語にまつわる別のタイトルを編集者として担当していたのに自社の著作ではなく、文藝春秋のこちらを「名著」としてすすめてくれた。深川をルーツに持つ江戸っ子気質の川口洋次郎のことだから、照れ隠しに自分の携わった本をすすめなかったのかもしれない。
新書に滑稽新書と人情新書があるとすれば、この本は人情ものにちがいない。著者の噺家への愛情に満ち満ちている。ただの古典落語の紹介本ではない。とりわけ古今亭志ん朝師匠に関するくだりは読む者の涙を誘う。
遅ればせながら川口の言う「名著」の意味がわかってきた。ときどき出かける図書館でいつも「貸出中」になっていることも頷ける。紛うことなき名著である。

2019年12月13日金曜日

安西カオリ『さざ波の記憶』

9月、東京湾を北上し千葉市付近に上陸した台風15号。
その記録的な暴風が大規模停電や断水など甚大な被害をもたらしたことは記憶に新しい。吹き飛んだ屋根瓦や倒壊した家屋の多くは未だ修復される見込みもなく、ブルーシートを被せられたままだという。とりわけ被害の大きかった鋸南町のようすはときどきSNSで知ることができる。道のりの遠さを感じる。
南房総市白浜町にある父の実家も何枚か瓦が落ちたり、ずれたりし、窓ガラスが4枚割れた。瓦はたまたま通りかかった職人がなおしてくれた。窓ガラスは10月の台風19号に備え、板を打ち付けてもらったが、まだ修繕できていない。
千葉県安房郡千倉町白間津で生まれた母も先月、85歳になった。10月には伯母が、11月には叔母が相次いで亡くなった。母のすぐ上の姉とふたつ下の妹だ。7人いた母のきょうだいもあっという間に母ひとりだけになってしまった。5年前に8歳下の叔父がなくなったときもそうだったが、自分の妹や弟に先立たれてしまったショックは隠しようもない。
イラストレーター安西水丸は、イラストレーションだけでなくエッセイや小説など文章も多く遺している。彼の生い立ちを知るうえで興味深い資料だ。とはいえ本人が書き記したことだけでその生涯を再構築するのは難しく、誰かの証言などあると安西水丸像がより鮮明に浮かび上がる気がする。
安西カオリは、安西水丸の長女である。子どもの目線で見た安西水丸。ふだんあまり父親らしいイメージを周囲に与えてこなかっただけに、これはなかなか新鮮だ。父安西水丸の思い出や千倉町に住んでいた祖母の思い出が語られる。千倉の磯に打ちつける波の音がする。海のにおいが行間から漂ってくる。
安西水丸には兄がひとりと5人の姉がいた。兄はずいぶん以前に他界したそうだが、聞くところによると姉もすでに4人が亡くなっているという。肉親の声は貴重だ。
なんだか湿っぽい話になってしまった。

2019年12月11日水曜日

ナカムラクニオ『村上春樹にならう「おいしい文章」のための47のルール』

還暦を迎える年のせいか、高校の同期と会うことが多い。
会うとたまにBARBEE BOYS(バービーボーイズ)の話題になる。どうしてバービーボーイズなのかを説明するのは面倒なのでここではしない。「いまみちってすげえよな」「いまみちはChar(チャー=竹中尚人)よりギターうまいよな」とかそんなたわいもない話だ。
たしかに80~90年代にかけて、バービーボーイズは一世を風靡した。この手の音楽に関しては詳しくないが、ギターとベースそしてドラムとボーカルのKONTA(近藤敦)が奏でるサックスとシンプルな楽器構成なのに音に厚みと深みがある。
それと同時にどことなく昭和のにおいを感じる。なんといっても杏子とKONTAのツインヴォーカルがいい。ハスキーな杏子と伸びのある高音を持ち味とするKONTA。歌詞は現代風だけれど(当時としては)、どことなく昭和歌謡を思わせる。木の実ナナと小林旭のデュエットをロックに乗せたら、きっとこんな感じなんだろうな。新しさのなかになつかしさがあった。
間奏のあいだにKONTAがサックスを鳴らす。杏子は激しく踊る。学生時代に出会ったテツandトモはそのライブを見て、なんでだろう~を発案したという。もちろんこれは嘘である。
村上春樹の文章を丹念に読んでいるんだなというのがこの本の感想。でも村上春樹のような文章を書いたところで村上春樹が書いた文章じゃないからね。ためになるようなならないような、そんな本だ。
いまみちともたかはCharよりギターがうまいという発言に関しては、個人的に納得していない。僕が通った中学校の向かいにある都立高校に伝説のギタリストがいた。校門にはいつも女性ファンが待ちかまえていた。背中にCharと刺繍されたジャンパーを着ていた竹中尚人は地元品川の英雄だ。Charを超えるギタリストなんて、そんなものがいたらお目にかかりたいね。品川区民はみんなそう思っていたはずだ。