2024年11月19日火曜日

森村誠一『人間の証明』

子どもの頃はよく映画を観た。月島のおばちゃん(母の叔母)に連れていってもらった築地の松竹でガメラを観たし、大井町にも映画館がいくつかあった。映画は僕らの世代でも身近な娯楽だった。
中学生、高校生になって映画は観なくなった。この時期は本も読まなくなったし、当時何をしていたか思い出せないけれど、娯楽のない毎日を過ごしていた。
高校時代、唯一観てみたいなと思った映画がある。「人間の証明」である。テレビコマーシャルで大々的に宣伝され、話題作となった。テーマ曲もヒットした。いわゆる角川映画の嚆矢ともいえる作品である。そんな宣伝文句に惹かれて久しぶりに映画を観に行こうと思ったのだ。監督は佐藤純彌、脚本は松山善三。もちろん彼らがすごいスタッフだと知ったのはずっと後のことだけれど、これまでにないスケールの大きな映画という印象を受けた。
映画が公開されたのがたしか1977年。大学受験を控えた高校3年生だった。原作はそれより前に出たのではないか。僕は角川文庫で読んだ。まず本で読むというのは昔からの悪い癖で野球の本や剣道の本、卓球の本など新しいスポーツに興味を持つとまず指南書のような書物に頼ってしまうのである。こういう頭でっかちはたいてい上達なんぞしない。
そういえば作者の森村誠一は昨年亡くなった。没後一年ということで縁のある町田市の市民文学館で森村誠一展が開催されているというニュースが流れていた。行ってみたい気もするが、『人間の証明』しか読んだことのない薄い読者としては敷居が高い。むしろ三鷹市に今年できた吉村昭書斎に行ってみたい。こっちはそれほど敷居が高くない。
『人間の証明』を読んだ記憶はあるが、中身はさほど憶えていない。映画も結局ロードショーで観ることはなく、ずっと後になってテレビで観た。そこでああ、こんなお話だったんだっけと思い出したのである。
母さん、僕のあの記憶どうしたでせうね?

2024年10月30日水曜日

家永三郎『太平洋戦争』

暑い10月だった。
それももう終わろうとする頃になって、ようやく気温が下がってきた。それでも南の海上では台風が発生し、少しずつ日本列島に向かっている。
先日総選挙が行われた。大方の予想通り、与党の大敗。過半数を割った。裏金問題を収支報告書不記載問題と言い換えたりしてるんだから勝てるはずもない。自民党ではペナルティとして非公認や比例代表との重複を認めないなどしていた。裏金をつくった議員が多く落選していた。非公認ながら当選した人もいる。どうなんだろう。起訴されなかったとはいえ、政治生命は終わっているはず。おそらく今後政治家を続けたとしても大きな汚点を残した議員たちは要職には付けないだろう。大方の民意が拒否したのに当選させた地元っていうのもなんだか恥ずかしい気がする。
家永三郎の名は高校生のときから知っていた。当時教科書裁判所という訴訟が争われていたからだ。しかも氏は高校の大先輩にあたる人でだった。
教科書裁判について詳しいことは知らないが、1962年の教科書検定で家永らが執筆した日本史の教科書が不合格となったことが発端であるらしい。たしか戦争の記述に関することだったと聞いたことがある。
大学2年の夏休みだったか、書店でこの本を見つけた。日本史は好きな科目ではあったが、近現代史は不勉強なこともあり、手に取ってみたのである。へえ、そういうことだったのかとただただ感心しながら読んだ記憶がある。この本が上梓されたのは1968年。戦争が終わって23年後にはこのような考察がなされていたのである。その後史料も増え、より精度の高い著作も生まれたかもしれないが、僕にはじゅうぶん過ぎる内容だった。
大学生になって少しは専門的な本を読むようになった。おそらくこの本が最初だったと思う。読み終わったとき、俺は家永三郎の『太平洋戦争』を読んだぞ、という自信が沸いたことを今でもしっかり憶えている。本の中身はさておいて。

2024年10月27日日曜日

梶井基次郎『檸檬』

昔(少なくとも僕の10代から20代前半の頃)と比べると都内にも新しい駅がつくられ、新しい駅名が付けられている。浮間舟渡のようなふたつの地名が合成された駅名もあれば、天王洲アイルという意味不明な駅名もある。天王州でよかったんじゃないか?アイルを付けることで企業誘致にひと役買ったのだろうか。
東京メトロ東西線の九段下駅は東西線が高田馬場から延伸した1964(昭和39)年に開業している。これだって九段でよかったんじゃないかと思う。どうしてわざわざ「下」を付けたのだろう。
九段下駅は靖国通りを横切って南北に走る目白通りに沿ってある。日本橋川とほぼ平行している。昔は日本橋川を東に渡れば、神田区だった。九段下は麹町区にありながら、その縁に沿っており、だから九段ではなく九段下が相応しいと考えられたのかもしれない。だったら神楽坂駅は神楽坂上じゃないのか?
九段下駅を降りて、靖国通りを西進すると右に靖国神社、左に北の丸公園がある。通勤通学で利用する人以外はおそらくこのどちらかに向かう可能性が高い。公園内にある日本武道館でコンサートなどイベントがあると田安門の辺りにまるで桜が満開を迎えたみたいに大勢の人でごった返す。このようなたまにしかこの駅を訪れることがない人に駅を降りたら坂道がありますよ、平坦な道ではないですよと乗客にわかりやすく暗示するための「下」なのかもしれない。
坂の上には僕が通った高校がある。大して思い出はないのだが、夏休みか何かの課題で梶井基次郎の『檸檬』を読んで感想を書けという。あまり読書する習慣のなかった僕には辛い課題だった。多分、表題作の「檸檬」と他のいくつかの短編を読んでお茶を濁したような気がする。梶井基次郎のファンだという同級生がいて、どんな話なのかと訊いてみたが、そいつの話もよくわからなかった。
ときどき九段下駅で降りて、あの坂道を登ると昔のことを思い出す。

2024年10月20日日曜日

井上靖『楊貴妃伝』

日曜日が祝日だと月曜が振替休日になる。よって、土日月と三連休になることが多い。9月に二度あり、10月に一度あった。11月にもある。
今月の三連休は用事があって軽井沢に出かけた。連休ということで人が多く、店も道路も混んでいた。
用事を済ませ、新幹線の自由席に乗ったが、空席がない。嫌になっちゃったので高崎で降りることにした。降りたところで行く当てもない。とりあえず改札を抜けると上信電鉄乗り場という案内が出ている。高崎から下仁田までの単線の私鉄である。途中上州富岡駅から徒歩で富岡製糸場に行けると案内に書かれている。単線のローカル鉄道はのどかでいい。コインロッカーに荷物を預け、一日乗り放題切符を買って、次に発車する電車を待つ。
調べてみると木造駅舎の駅があるようだ。上州一ノ宮駅と上州福島駅。このふた駅で下車し、写真を撮るなどして過ごす。というかそれ以外にすることもない。
上信電鉄の「信」は信州のことだが、この路線は長野県に通じていない。終点の下仁田から峠を越えて、今のJR小海線の駅につなぐ計画があり、社名を上野(こうずけ)鉄道から上信電気鉄道に変更したそうだ。
中学高校時代はほとんど本を読まなかった。夏休みの宿題で読まされることはあったが。ただ記憶しているのは井上靖の本を何冊か読んだことだ。おそらく中学のと『しろばんば』『夏草冬濤』を読んでいて著者に親しみを持っていたのだろう。中国の歴史にも多少興味があった。この本を読む前後に『天平の甍』『蒼き狼』あたりを読んでいたのかもしれない。いずれまた読みかえしてみたい。
高校時代は現代国語も古文もさっぱりだったが、漢文だけは好きだった。『楊貴妃伝』のおかげかもしれない。
新幹線がまだなかった頃、高崎から軽井沢へは横川経由だった。今では新幹線であっという間だ。下仁田から峠を越えて佐久、小諸に向かうルートで軽井沢に行けたらさぞ楽しい旅になったろうと思う。

2024年9月20日金曜日

クロード・レヴィ=ストロース『悲しき熱帯』

9月も半ばを過ぎたというのに猛暑が続いている。さすがに朝晩は凌ぎやすくなったというものの湿度は高く、涼しさも生温い。暑さ寒さも彼岸までと昔の人は言ったものだが、もう少し夏が続きそうである。
近年の傾向として、春から急激に真夏になり、夏から短い秋を経て冬が訪れる。陽気のいい春と秋が極端に短く感じられる。日本という国家の将来も心配だが、日本の気候も同様に悩みの種である。
1980年頃から構造主義という学術思想のジャンルを耳にするようになる。僕がわからないなりに構造主義に関心を持ったのは82年に『野生の思考』を読んでからだ。どうしてその本を手にとったのか、当時のことはまったく憶えていない。テレビかラジオでその存在を知ったのだろうか。
それまで学んだことは西洋の思想であり、文学であり、科学であった。あくまで西洋文明が前提となっていた。非西洋であるアジア、アフリカ、南アメリカ、オセアニアに文明があるとは信じられていなかった。そうではない、非西洋にも西洋と同じものの考え方や風習、制度があるということを示してくれたのが構造主義だった(と、おそらくその程度の理解しか持っていなのだが)。
今の世の中は弱者に手厚い。女性や子ども、障がい者たち、近年では性的少数者にも光を当てている。こうした一面的なものの見方を克服してきた背景には構造主義的な考えがあるのではないだろうかとひとり勝手に思っている。
『野生の思考』以後、構造主義入門であるとか構造主義とは何かといったタイトルの本を何冊か読んでみた。深い理解は得られなかった。そんな流れでクロード・レヴィ=ストロースのもうひとつの大作『悲しき熱帯』に出会った。
これは文化人類学や構造主義の専門的な本ではなく、著者がブラジルを旅した紀行文である。気楽に読めて、未開文明に対する興味が自然に湧いてくる。レヴィ=ストロースの懐の深さが感じられる一冊である。

2024年9月10日火曜日

江國香織『読んでばっか』

たしか6月だったと思う。昼間聴いていたラジオ番組のゲストが江國香織で新作の自著を紹介していた。読書論あるいは読書日記的な本なのだろうと思い、興味を持った。区の図書館で予約する。
江國香織は30年ほど前によく読んだ作家のひとりだ。当時は川上弘美や角田光代の作品も好んで読んでいた。江國の綴る文章の美しさにはとりわけ魅せられたものだ。
8月の半ばを過ぎて、ようやく貸出の用意ができましたとメールをもらう。2ヶ月待った。やはり話題の本なのだ。
ところがどうだろう。目次を追っても、所々目を通してもあまり楽しくない。僕が読んだ本が少ないのである。読んだことのない本の感想などあまり読みたくはない。もちろん読みたく思わないのはこちらの都合で著者の圧倒的な読書の量と質についていけないのである。そうこうするうちに返却期日が近づいてきた。佐野洋子のところだけ読んで、返しにいった。
手にした本を必ず読んでいるわけではない。買ってはみたものの読まなかった(読めなかった?)本はいくらでもある。代表的なのはマーシャル・マクルーハンの『メディア論』だ。たぶん公私ともに忙しかった30代の頃だろう。広告に携わる者としてマクルーハンくらい読まなくちゃみたいな風潮が当時あった。あったかどうかはわからないが、自分自身のなかにそんな風潮があった。あったというより勝手につくっていた。読みはじめて数十頁で読めなくなる。しばらくそのまま放置する。1~2年経ってもういちど最初から読んでみる。やはり数十頁で読めなくなる。放置する。こんなこと何回か繰り返していた(何回かも覚えていない)。この本はたぶん書棚のどこかに眠っているはずだ。そろそろ最後のトライをしてみてもいいかも。
そもそもこのブログは本を読んで感じたこと考えたことを今の生活や思い出などと照らし合わせて好き勝手に綴っている。読まなかった本について何かを書くのははじめてのことだ。

2024年9月1日日曜日

ジャン=ジャック・ルソー『新エロイーズ』

8月はあっという間に過ぎ去っていった(今年の8月に限ったことではないけれど)。
別段、何かしていたわけでもない。この暑さのなか迂闊に外出はしないよう気をつけていた。母が入院していた病院に支払いに行った。南房総に墓参りに行った。図書館まで予約した本を借りに行き、返却に行った。母が退院するので手続きに行った。郵便局と銀行を何度か往復した。少し仕事もした。それくらい。後はオリンピックを見て、高校野球を見て、MLBを見て、じっとして動かない台風10号を見て、要するにテレビを視ているいるうちに8月が終わってしまったのだ。
それにしても今年の甲子園は接戦が多く、ジャイアントキリングが何試合かあってずいぶん楽しめた。霞ヶ浦、小松大谷、大社が印象に残る。来月以降もとっとと過ぎ去ってはやいとこ甲子園がはじまらないかとさえ思う。
ジャン=ジャック・ルソーの『新エロイーズ』を読んだのは大学3年生のときだ。卒業論文はルソーについて書こうと朧気ながら考えていて、すでに何度か読んでいた『エミール』以外の作品を読んでおこうと思ったのかもしれない。
ルソーというと『学問芸術論』『人間不平等起源論』『社会契約論』などやや小難しい著作もあるが、『新エロイーズ』は書簡体の恋愛小説である。高貴な女性と貧しい男性との恋はスタンダールの『赤と黒』を思い出させるが、当時の読書記録によるとスタンダールを読んだ直後に『新エロイーズ』を読んでいる。立て続けに読んだので印象がごっちゃになっている。
ルソーの本をもう一度読んでみるならこの本だろうと思う。手もとに岩波文庫が4冊ある。しかしながら頁をめくった途端にその字の小ささに気が遠くなるのである。当時の僕にはこれくらいの大きさの文字が苦も無く読めたのだ。
21歳の8月は今よりもっと時間がゆっくり流れていたに違いない。暇で暇でたいしてすることもなかったという点は今も昔も変わらないとして。

2024年8月25日日曜日

三遊亭圓朝『真景累ヶ淵』

お盆。南房総の父の実家に一晩泊まり、墓参りに行く。
朝はやく出かければ日帰りもできるだろうが、慌ただしいのでのんびり東京を出て、その日は父の墓に行き、翌日は隣集落の母方の祖父母伯父伯母の眠る墓所を訪ねる。従兄弟の家をまわり、線香をあげる。
つい何年か前まで房州は昼間はそれなりに暑いけれど日が翳るといい風が吹いて凌ぎやすくなったものだ。窓を開け放つと夜もなんとか眠れる。はずだった。このところの猛暑は情け容赦なく南房総の海辺の町にも襲いかかる。夕食を済ませ、することもないのではやめに寝るとする。ところがこれが眠れない。開け放した窓からほとんど風が入ってこない。扇風機の風を浴びながら何度も寝返りを打つ。夜中にも熱中症になる人が多いと聞く。ときどき起き上がって水を飲む。納戸からもう一台扇風機を出す。
ラジオでも聴こうかとスマホに手を伸ばす。昼間聴きそびれた番組を聴く。それでも眠りは訪れない。ユーチューブで落語を聴く。ときどき水を飲む。とうとうペットボトル2本の水がなくなる。近くの自販機まで買いに行く。時計を見ると午前四時だ。じきに夜が明ける。
先日読み終えたこの本を思い出した。三遊亭圓朝の噺を速記で読みものにしたものだ。録音も録画もない時代に噺を速記で書き留めておく、それだけで圓朝の偉大さがわかる。
ユーチューブには六代目三遊亭圓生の『真景累ヶ淵』がアップされている。たしか三まで聴いている(一から八まである)。四を聴こうかと思ったがやめた。さらに眠れなくなりそうな気がしたから。
結局明るくなるまで起きていた。五時を過ぎていたと思う。白々と夜が明けて来ていた。目が覚めたのは七時過ぎ。少しは眠ったのだろう。
朝食を済ませ、布団をたたみ、夜中に出した扇風機をしまいに行く。納戸には以前叔母が持ってきてくれたポータブルクーラーがあった。昨日のうちに気がついていれば、もう少し快適な夜だったのに。

2024年8月18日日曜日

三遊亭圓生『浮世に言い忘れたこと』

夏休みになってしばらくすると南房総乙浜から祖父が上京する。ひと晩泊って、翌日、姉と僕を連れて祖父は帰る。両国駅発の列車に乗って。
小学校に上がった頃から、あるいは就学前からだったかもしれないが、僕は白浜の父の実家で夏を過した。最初の記憶が1966(昭和41)年だったとすると当時、房総東線(今の内房線)は電化されておらず、C57という蒸気機関車が列車を牽引していたはず。もちろんその頃は鉄道に興味はなく、もったいないことをしたと思う。僕が一年生のとき、1904(明治37)年生まれの祖父は62歳だった。いつの間にか当時の祖父の年齢を超えてしまっている。祖父はいつも両国駅で冷凍みかんを買ってくれた。今でも両国駅に行くと甘くて酸っぱくて冷たいみかんを思い出す。
昔は上野駅が東北、上信越方面の玄関であり、東京駅は関西以西九州方面の玄関、新宿駅は甲州信州の玄関だった。同様に千葉方面の玄関口は両国駅だった。東京は行先のよって駅が異なるパリみたいだった。今はあらゆる列車が東京駅を起点としている。ちょっと味気ない。
この本では晩年の圓生が若き日々を振りかえる。落語のこと、寄席のこと、芸のこと。暮らしのことや、食べもののこと、着物のことなど衣食住に関しても話している。食い道楽、着道楽だったことなども伺える。今はこうだが、昔はこうだったみたいな話は年寄りくさくもあるが、明治大正昭和を知る噺家ならではの話題で持ちきりである。
圓生は1900(明治33)年生まれ。祖父と同世代である。祖父は若い頃はお洒落な人だったと聞いたことがある。いい着物や洋服を何着も持っていたという。日本では大正時代から昭和の初期にかけて、生活様式が洋風化し、大衆文化が発展する。時代的には圓生や祖父たちの青春時代と重なる。都会と地方では格差は当然あっただろうが、祖父も多少は都会の流行に接する機会があったのかもしれない。

2024年8月11日日曜日

川端康成『親友』

日本人は惜敗を賞賛する。もちろん懸命に闘った敗者を称えることは悪いことではない。ただ手放しで称えることは如何なものか。
オリンピックの卓球。男子シングルス準々決勝では張本智和が中国の樊振東を最後逆転されたものの追い詰めた。女子団体のダブルスもあと一歩のところで逆転された。スポーツ報道は例によって健闘を称える。2月に行われた世界選手権団体では女子は先に王手をかけたが逆転負け。このときも日本と中国は実力が伯仲してきたなどと報道された。
スポーツ競技で本来目指すべきは勝利ではないのか。もちろん大きく見れば人間的に成長させるという視点も大切だろうが、大きな大会にのぞむにあたり、やはり目標が設定される。卓球でいえば、中国を倒して金メダルということになるだろう。それをオリンピックの度に、世界選手権の度に日本は苦杯を舐めてきた。目標が完遂できなかったからには反省があり、勝利するために強化すべきポイントを掲げ、そのために練習方法を改善する必要があるはずだ。当然相手選手の研究も。どこをどう強化すれば中国卓球に勝てるのか。報道が伝えるべきは、今終わった試合の敗者を称えるだけでなく、相手のどこを攻めればよかったのか、なぜそれができなかったのか、できるようになるにはどのような練習が必要なのか、ではないか。
卓球の大きな大会がある度に日本じゅうが盛り上がり、勝ち進むことで期待が高まり、最終決戦を迎える。ここで王者に悉く敗れる。こんなことをいつまで繰り返しているのだろう。
実況中継で解説者が言う。中国選手は中国製の回転のかかりやすいラバーを使っていると。ならば日本選手だって同じラバーを使えばいいじゃないか。大人の都合で日本選手は日本製のラバーを使わなくちゃいけないとするならば、まず正すべきは「大人の都合」だ。
川端康成の『親友』を読む。少女雑誌に連載されていたという。川端には思いのほかこうした作品が多い。

2024年8月2日金曜日

柳田國男『こども風土記』

子どもの頃、馬乗りという遊びをよくした。主に男の子の遊びで冬場にすることが多かった。
どんな遊びかというと(文章で説明するのは大変難しいのだが)だいたい10人前後がふた組にわかれる。馬側と乗り側である。馬側はまずひとり、壁を背にして立つ。残りは馬になる。先頭の馬は腰を折って、立っている子の股間に頭を突っ込む。馬は足を肩幅くらいにひろげる。二番目の馬はやはり腰を折り曲げて、一番目の馬の股間に頭を入れる。そうやって例えば1チーム5人なら4人の馬が連なる。
乗り手は助走をつけて、跳び箱を飛ぶような感じで馬に飛び乗る。5人が乗ったら先頭の乗り手と壁を背にした子がじゃんけんをし、勝った方が乗り手になる。もちろんじゃんけんで決着するのは順当に5人の乗り手が馬に乗れた場合であって、馬の上でバランスを崩してしまう乗り手もいれば、飛び乗ったとき勢い余って横に落ちてしまう乗り手もいる。これは「オッコチ」と呼ばれ、誰かがオッコチした場合、攻守が入れ替わる。また身体の小さい弱そうな子の上に全員が重なるように乗るなどして馬をつぶしてしまうこともある。これは「オッツブレ」と呼ばれ、乗り手側は次も乗り手として遊びを継続する。
なんでこんなことを思い出したかというと、この本に紹介されている「鹿鹿角何本」という広く伝わった子どもの遊びの延長線上に馬乗りという遊びがあるらしいとわかったからだ(馬乗りは地方によっては胴乗りとも呼ばれていたらしい)。昔は乗り手が馬に乗ると指を何本か馬の背に突き当てて鹿鹿角何本と言ったそうだが、僕は知らない。
馬乗りをしていたのは小学生の頃だ。1960年代の後半から70年代のはじめくらい。その後は小学生ではなくなったので、後輩にあたる小学生たちが馬乗りを連綿と受け継いでいったのかどうかは知らない。
馬乗りはまだ子どもたちの間で行われているのだろうか。馬乗りはどこへ行ってしまったのだろうか。

2024年7月29日月曜日

笹山敬輔『笑いの正解 東京喜劇と伊東四朗』

毎週土曜日は文化放送の「伊東四郎 吉田照美 親父・熱愛(おやじパッション)」を聴いている。
驚かされるのは伊東四朗の記憶力だ。子どもの頃歌った歌や往年のヒット曲を口ずさんだり、共演した俳優との思い出話をはじめ、ありとあらゆることを記憶している。台詞を憶えるのが役者としての最低限の仕事と心得ていて、常日頃から記憶力を鍛錬しているともいう。円周率は1000桁まで諳んじていて、楽屋などで時間があれば呟いているそうだ。歴代の天皇、アメリカの州などもすいすいと口から出てくるらしい。
御歳87歳。来年は米寿を迎える。喜劇の世界はもちろん、現役で活躍する芸能人としても貴重な存在であるが、その脳内に演劇人としての膨大な経験やデータが蓄積されている。伊東四朗にインタビューして、東京喜劇の今昔を解き明かそうとした著者のねらいは正しかった。
伊東四朗は俳優としてじゅうぶん過ぎるほどのベテランであるが、伊東四朗といえば〇〇といった代表的なキャラクターはない。渥美清や森光子、高倉健のような代表作がない。人によってはベンジャミン伊東だ、おしんの父親だと思うかもしれないが、どうにも絞りきれない。もちろん主役の人ではない。いい脇といった役どころが多い。喪黒福造のように主役を張ったところで長くは続けない。ひとつの役にしがみつく野暮さがない。東京の喜劇人なのだ。
僕にとって伊東四朗はてんぷくトリオの伊東四朗だ。押し出しの強い三波伸介と戸塚睦夫の間でひっそりと存在感を示していた。著者の笹山敬輔は1970年代のてんぷくトリオもベンジャミン伊東も知らない。にもかかわらず、伊東の若き日を見事に描き出している。同じ著者の『ドリフターズとその時代』を以前読んだことがある。丁寧な取材をベースにテレビや演芸の、著者自身が体験できなかった歴史を解き明かす。
この本は先のラジオ番組で知った。難しそうな印象だったが、そんなことはなかった。

2024年7月23日火曜日

安西水丸『一フランの月』

安西水丸の書いた本のなかで断然好きなのが『手のひらのトークン』である。
電通を退社した安西は1970年にニューヨークに渡る。グラフィックデザインの仕事を見つけ、71年春までニューヨークで暮らした。安西水丸はまだ渡辺昇だった。『トークン』にはその一年の日々が描かれている。あとがきには90パーセント本当の話と記されている。妻を呼び寄せ、リバーサイドドライブに住み、後にアッパーイーストのアパートに引っ越した。休日には美術館を巡り、イーストリバー沿いの公園を散策した。そんな日々である。そして就労ビザを取得するために手を尽くしたものの翌年の春、ニューヨークを後にせざるを得なくなった。
帰国する際、安西はヨーロッパを周遊する。パリやアムステルダムに立ち寄り、書物でしか知らなかった西洋美術に接する。未完の小説『一フランの月』はこのヨーロッパの旅が舞台になっている。そうした意味ではこの本は『トークン』の続編といえる。
安西水丸はどんな思いから続きを書こうと思ったのだろう。すでに長い時間が経っている。未完とはいえ、実際に読んでみるとありのままの日々を描いた『トークン』にくらべると創作的な要素が多い。主人公の「ぼく」もニューヨーク時代の無垢な安西水丸=渡辺昇にくらべると少し大人になっているように思える。
帰国後、安西は縁あってエディトリアルデザイナーとして平凡社に勤務する。雑誌「太陽」の編集部で嵐山光三郎とコンビを組む。嵐山の伝手もあって、安西はイラストレーターの道を歩きはじめる。渡辺昇は安西水丸になった。
幼少の頃から絵を描く人を夢みていたニューヨーク時代の渡辺昇。ヨーロッパの旅を通じ、西洋美術に刺激され、(どちらかといえばぼんやりした憧れだったイラストレーターをめざそうと決意する。安西水丸はイラストレーターへの道に突き進むきっかけとなった日々をもういちど書き留めておこうと思ったのかもしれない。

2024年7月18日木曜日

村上春樹『レキシントンの幽霊』

叔父は七月生まれ。というわけで東京のお盆の時期に墓参りをすることが多い。墓所は青山にあり、墓参りを終えるとカレーライスを食べる。叔父はカレーライスが好物だった。
南青山のギャラリースペースユイで安西水丸Green展が開催されている。墓に行く前に立ち寄る。以前はシルクスクリーンの作品だけだったが、最近はジークレーと呼ばれる新たなプリント方法があるようだ。絵画の世界もデジタルの波が押し寄せている。僕は色鮮やかなジークレーより少しマットで奥ゆかしいシルクスクリーンが好きなのだが。
『レキシントンの幽霊』を久しぶりに読む。
先日『蛍・納屋を焼く・その他の短編』を読んで、そのなかの「めくらやなぎと眠る女」のショートバージョンがこの短編集に収められていたことを思い出したのである(『レキシントンの幽霊』では「めくらやなぎと、眠る女」となっている)。それ以外にもミステリアスで興味深い作品が多い。作者自身があえてミステリアスにしたわけでもあるまい。短編小説の特性として、ストーリーの展開や描写は凝縮される。結果的に読者にとっての不思議さ、不可解さも色濃く印象に残る。仮に「氷男」や「トニー滝谷」が長編であったとしたら、その印象は緩やかに、時間をかけて読者に浸透していったのではないかと思う。
「トニー滝谷」は映画化された。公開は2005年前後だったか。滝谷役はイッセー尾形だった。妻役とアルバイト役の女性は宮沢りえが二役を演じた。どちらかといえば、村上春樹の映画化作品というより、市川準監督作品として観た。映画の細かい部分は憶えていない。機会があればもういちど観たい。
墓参りの後、神田神保町のエチオピアあたりでカレーライスを食べようと思ったが、お腹も空いてきたので青山のツインタワー地下のインドカレーの店に入った。辛口のキーマカレーと中辛の海老カレー。チェーン店なのだろうけれど、なかなかおいしいカレーだった。

2024年7月13日土曜日

三島邦彦『言葉からの自由』

三島邦彦の著書を読む。
これまで多くのコピーライターの本を読んできた。そのなかで谷山雅計『広告コピーってこう書くんだ読本!』(この本は最近増補新版が出ている)と小霜和也『ここらで広告コピーの本当の話をします。』の二冊が印象に残っている。
三島のこの著書は理路整然と系統立てた構成を持っているように見えない(もちろん徒然なるままに書かれた本が刊行されることは滅多にないのだが)。コピーについて、言葉について思いついたまま書き連ねていったような印象を受ける。
「書くことは思い出すことに似ている」という。人は文章を書くとき、自らの人生に積み重ねてきた記憶を掘り起こす(文章じゃなくたって、区役所の書類だって、氏名、住所、生年月日を思い出しながら書いている)。


「記憶の中に散乱する言葉を丁寧に拾い集めるようにしてコピーは書かれる」


的確な指摘である。
またコピーを書く上でつくった自分なりの原則を紹介している。


「12歳までの言葉で書くことだ」


コピー年鑑に掲載されているコピーを眺めて気づいたという。この世の美しいものも大切なものもすべて小学生までの漢字で表現できる。
さらにはスキーマにふれる。
スキーマとはひとつの言語の、それぞれの状況で瞬時に身体が反応するような、身体に埋め込まれた意味のシステムである。seeかlookか、hearかlistenが英語を母語とする人は頭で考えることなく無意識に使い分けている。違和感なく聴きとることができる。このようなスキーマは広告コピーにもあるのではないかと三島は言う。そして広告コピーのスキーマを身につけるにはコピーライターの書いた本を読んだり、養成講座などでプロのコピーライターの生の声を聴くことが必要だ。
本書はいつも身近に置いておいて、ときどき拾い読みするといい。コピーライターを目指す者はまず過去のコピー年鑑を頭の中に叩き込み、次のこの本を叩き込むべきだと思う。

2024年7月7日日曜日

大川豊『大川総裁の福祉論!』

8050問題が取り沙汰されている。
引きこもりなど問題を持った子どもが50歳になったとき、親は80歳。高齢になった両親はいつまで子どもの支援をしなければならないのだろうか。もし子どもに知的身体的その他の障がいがあったとしたら事態はますます深刻だ。
障がいを持つ子どもに対しては支援する制度が発達段階に応じて整備されているが、特別支援学校卒業後の就労支援はとりわけ重要だ。福祉的就労には就労継続支援A型と就労継続支援B型がある。一般社会への参加のため高度な訓練が必要なA型は企業の福祉枠に就き、雇用契約を結ぶ。当然、給与も支払われる。それに対しB型は雇用契約を結べない。あくまで自立のための訓練であり、給与ではなく工賃をもらう。工賃は作業内容にもよるが、月額1万数千円。これに障がい者年金を加えたところで彼らはどうやって生きていけばいいのか。
著者大川豊が取材した先の福祉施設や就労支援を行う企業、団体の人たちが口を揃えて言うのは障がい者をどうやって自立させるかである。より具体的に自立を促すのは社会参加=就労だろう。描いた絵をレンタルする。布を織って、それを加工してもらい商品化する。知的障がい者のなかには創造的な活動を得意とするものが多い。健常者にはできない発想や色づかいがあるという。
最後に登場するQUONチョコレートなどは画期的と言っていい。もともとはパン製造や印刷事業からスタートした経営者がショコラティエと知り合い、チョコレートの製造販売にシフトしていった。チョコレートはパンのような複雑な工程はなく、リスクも少ない。それでいて高価格。製造工程をいくつかに分け、単純な作業にして障がい者に担当させる。材料を切り刻んだり、石臼で茶葉を挽いたり、梱包用の箱をつくったり。一人ひとりの個性に合わせた仕事を見つける。できることをできる人に任せるのだ。
未来を明るく照らす仕事場がこの国にはまだある。

2024年7月4日木曜日

J.D.サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

『ライ麦畑でつかまえて』を読む。1964年に刊行されている。僕が読んだのは白水Uブックスという新書サイズの文庫になってからだ。ジョン・アップダイクもカート・ヴォネガットも入口は白水Uブックスだった。
2003年に同じ白水社から村上春樹訳が出る。出版社が同じなのはおそらく契約の関係か。
それまで40年近く、ホールデン・コールフィールドの語りは野崎孝が担当していた。別に吹き替えの声優が代わったわけでもないけれど、僕は新たな気持ちで村上訳を読んだ。野崎訳とくらべてみようなんて気もなかった。村上春樹は小説をはじめ多く読んでいたから、違和感もなく、すんなり受けとめた。ホールデンが新しくなったわけでもなかったし。
村上訳も野崎訳も何度か繰り返し読んでいる。先日、村上訳を読み直して、野崎訳をもう一度読んでみたいと思った。ブルーのカバーはなくなっていたけれど『ライ麦畑』は書棚にあった。両者の訳文をくらべるのはたいして意味はないと思ったが、続けて読んでみるとそれぞれのホールデン像が微妙に異なることに気付く。
作家の兄を持ち、英作文を得意とするホールデンは未成熟な少年でありながら、語彙も豊かで文章も巧みなはずだ。父親は弁護士でアッパーイーストサイドの(高級そうな)アパートメントに住んでいる。どんなに心が破綻していても一定水準以上のインテリジェンスを彼に与えなければならない。村上訳にはそういった意図が感じられる。単なるクレージーボーイの独白に止めたくないという意思が。まるでホールデンの弁護人みたいに。題名の『キャッチャー・イン・ザ・ライ』もまんまといえばまんまだが、少し知的な感じがする。
野崎ホールデンと村上ホールデン。僕たちの世代でいえば、前者が圧倒的な多数派であるに違いない。将来はどうだろうか。この先新たな翻訳は生まれないだろう。そのうち村上訳がスタンダードになるかもしれない。
それはそれでいい。

2024年6月30日日曜日

村上春樹『蛍・納屋を焼く・その他の短編』

「めくらやなぎと眠る女」という短編小説が短編アニメーション映画になり、近く公開されるいう。監督はピエール・フォルデス。作曲家として、また画家としても活躍するアーティストであるらしい。題名はめくらやなぎであるが、いくつかの短編のエピソードが加えられており、東京を救うカエルくんも登場する。むしろ監督のオリジナルストーリーといえそうだ。
それはさておき、久しぶりに村上春樹の短編集を読む。装幀はイラストレーター安西水丸。今ではほとんどすべての装幀を社内で行っている新潮社であるが、この本が刊行された1984年はまだ外部のアートディレクターやイラストレーターなどが担当していた。新潮社の装幀室ができて、クレジットされるようになったのは1990年代になったからだと思う。それにしても1980年代の安西水丸は多忙をきわめていたのだろうか、手書き文字だけの実にあっさりとしたデザインだ(3年後に文庫化されたが、その表紙にはおそらくめくらやなぎをイメージした思われるイラストレーションがあしらわれている)。
それもさておき、この短編集にはいくつかの興味深い作品が収められている。後の『ノルウェイの森』につながる「蛍」やウィリアム・フォークナーの短編「バーン・バーニング」と同じタイトルを付けられた「納屋を焼く」、初期村上ワールドの源泉ともいえる像工場が登場する「踊る小人」などである。
「めくらやなぎと眠る女」は1990年代に書き直され、『レキシントンの幽霊』という短編集に収められた。そのときタイトルは「めくらやなぎと、眠る女」と改められている。またこの短編は2000年代に英訳され、海外でも多く読まれたらしい。映画化につながったのにはそのような背景があるのだろう。
「めくらやなぎと眠る女」と「めくらやなぎと、眠る女」はどう違うのだろう。今度『レキシントンの幽霊』を探し出して読み直してみようと思う。

2024年6月25日火曜日

講談社校閲部『間違えやすい日本語実例集』

用事があって旗の台を訪れる。
今の東急大井町線と池上線は別々の鉄道会社が経営していて、大井町線には東洗足という駅があり、池上線には旗が岡という駅があった。その後乗り換えできるように統合され、旗の台駅になった。実相寺昭雄『昭和鉄道少年』にそんなことが書いてあった。
旗の台は品川区民にはよく知られた地域である。区内で随一といっていい昭和大学病院が聳え立っているからである。池上線のホームとつながった改札から降りた乗客の多くは中原街道方面に歩く。おそらくは昭和大学病院に向かうのであろう。
旗の台駅から僕の実家までは2キロ弱。大井町線の隣駅荏原町を横に見ながら商店街をすすんでいく。第二京浜国道を渡ってさらに直進する。道は一直線である(三間通りと呼ばれている)。学区域が違うので友人や知人はいないが、昔から身近な地域だった。
広告制作の仕事をしてきてよかったと思うのは、いろんな業種の人たちと話ができたことだ。食品会社の人、製薬会社の人、金融関係の人、石油会社の人や官公庁の人たちなど枚挙にいとまがない。もちろん広告を通じてということだから、広告とあまり関係のない仕事には接することはなかった。たとえば医療関係者や学芸員、図書館司書など。
出版関係には友人が何人かいたが、裏方ともいえる校閲担当の人とは接点はなかった。どんな仕事なのか興味を持ったのは以前に読んだ牟田都子著『文にあたる』を読んだときだ。この本は校正や校閲を担当するものとしての心がまえみたいなことが語られている。今回読んだのは実際の校閲者が具体的にどんな事例に出会い、どう対処してきたかというきわめて実務的な現場のお話である。臨場感がある。
細々とブログを続けてきたが、僕の文章なんて小っ恥ずかしい赤字の宝庫なんだろうな。まったくもって汗をかく一冊だ。
さて、その日は旗の台で用事を済ませた後、実家まで歩いて、父に線香をあげる。父の誕生日も近かったから。

2024年6月20日木曜日

J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』

「成熟」という言葉を辞書で引いてみると「穀物や果物などが十分熟すること」、「人の心や身体が十分に成長すること」とある。もともとは農作物に対して使われていた言葉がたとえとして人間に使われるようになったのかあるいはその逆なのかはわからないが、はじめに示されるのは「穀物や果物」である。
人は成熟していく。とりわけ大きく成熟を遂げるのは十代や二十代の少年期や青年期だろう。心や身体が十分に成長することによってさまざまな知識や技能を獲得し、経験を積んでいく。ただ六十年以上生きてみるともっと年齢を重ねても成熟することはある。たとえば五十歳を過ぎてから山登りや楽器の演奏をはじめた、なんて人たちだ。はじめのうちは慣れなかったり、身体が思うように動かなくてもある程度反復することでそれまでなかった能力を身に付けることは可能だ。もちろん若い頃にくらべれば時間はかかるだろうけれど。人はたえず未成熟と成熟の間に生きている存在なのかもしれない。
ラスト、フィービーが乗る回転木馬のシーンが好きでこの本をもう何度も読んでいる。
ホールデン・コールフィールドはクリスマス前のとある深夜にかつての英語の先生アントリーニに会いに行く。この教師はホールデンの破綻を熟知している。アントリーニはホールデンに「未成熟なるもののしるしとは、大義のために高貴なる死を求めることだ。その一方で、成熟したもののしるしとは、大義のために卑しく生きることを求めることだ」と書いた一枚のメモ書きを渡す。ライ麦畑のキャッチャーになりたいと成熟することを頑なに拒み続けるホールデンにアントリーニ先生は卑しく生きていく術を説いたのだ。
この作品の成功の後、ある事件をきっかけにサリンジャーは隠遁生活を送る。まるで大義のために高貴なる死を求めたかのように。ホールデン・コールフィールドはサリンジャーに乗りうつって、未成熟なまま生き続けたのかもしれない。

2024年6月16日日曜日

勝浦雅彦『ひと言でまとめる技術』

近い将来、広告の仕事からリタイアする。それでも広告の本はときどき読むようにしている。コピーやデザイン、映像、コミュニケーションに関するものである。
以前はすぐれたコピーはどうすれば書けるかみたいな内容を自らの経験を踏まえて語られる本が多かった。広告制作のプロフェッショナルがその分野の初心者や志望者に向けて書いていた。最近はコピーを書くためというより、コミュニケーション能力を向上させるための指南書といった趣の本が増えている(ような気がする)。プロのコピーライターが若いコピーライターに向けて、というよりもっと幅広く学生や若いビジネスマンに役立つスキルを提供している。
プレゼンテーションというと広告関係の仕事をしている人にとってはクライアントのコミュニケーション課題にどのような基本的な考え方(ストラテジー)を持って、どう具体的に解決をはかっていくか(表現)を提案する場である。絵コンテやカンプを提示して広告主の理解と納得を得ることが最終的なイメージである。これは広告業界のプレゼンテーションの一例に過ぎず、世の中のどんな業種であれ、依頼主の課題解決のための提案作業は存在する。これら世に数多いるプレゼンターはすぐれたプレゼンターではあるもののプレゼンテーションそのものを語る専門家ではない。もちろんスティーブ・ジョブズのようなクリエイティブな人間もいるにはいるが。
その点、広告クリエイティブを生業としてきた者は「わかりやすく伝える」プロフェッショナルでもある。
著者勝浦雅彦は広告会社の営業からキャリアをスタートさせた。その後クリエイティブの世界に身を投じ、幾多のプレゼンテーションを通して、言語化力、伝達力の重要性を学んできた。それらの経験をとりまとめて後世に遺しておくことは広告制作のプロフェッショナルが果たさなければならない社会貢献なのではないだろうか。
そんなことを思わせる一冊である。

2024年6月10日月曜日

村上春樹『1Q84』

人生のなかで村上春樹の作品に出会えたことは大きい。多くの読者がそうであるように村上ワールドに魅せられてきたひとりである。いちど読んだきりではもったいないと思い、長編小説は二度三度と読むようにしてきた。
『海辺のカフカ』を再読したあと、『1Q84』が刊行された。一気に読みほした。つい最近のことように思っていた。気がつくとこの本が出版されてから十数年が経つ。ついこのあいだ読んだ本、観た映画が十年以上前だったことはよくある。クォーツ時計の水晶に誰かが規格以上の電圧をかけたに違いない。
タイトルから伺い知れるようにジョージ・オーウェルの『1984』が着想にかかわっているようだ。残念ながらまだ読んでいない。
ふと思い立って二度目を読む。大筋は憶えてはいるものの、細部の記憶が欠落している。たとえば教団の起こりやリトル・ピープル、空気さなぎあたりは読み流したのだろう。もちろん完璧に流れを記憶していたら再読する意味はない。文章と自らの記憶を照合しながら読みすすめる。
この物語の中心人物ではないが、ふたりのプロフェッショナルが起伏を生み出している。興味深いキャラクターだ。幾多の苦難と経験を血肉に換えてきたセキュリティのプロであるタマルと高度な知性に裏打ちされた鋭利な勘を持つ元弁護士牛河である。慎重すぎるほど慎重に青豆を保護するタマル。そして青豆を追い詰める牛河。思わず固唾を呑んでしまう。そして牛河が見せた一瞬の隙をタマルは見逃さない。皮剥ぎポリスが乗り移ったかのようだ。
僕は『ねじまき鳥クロニクル』に匹敵するくらいの傑作であると思っているが、それでも出版以前に起こったカルト教団の事件や当時から多く報道されていたDV問題など具体的ではないにせよ、重い題材を扱っている。NHKの過剰な集金体制や「福助」頭なども含め編集者はずいぶん気を遣ったことだろう。
初読から十数年。読み手もそれなりに大人になっている。

2024年5月31日金曜日

三遊亭圓生『噺のまくら』

高校の同期会があった。本来は還暦同期会という主旨で2020年に開催される予定だった。還暦を迎える年は2019年だったが、全員が60歳になったところで実施しようということで1年遅れで計画されたらしい。世の中にはおかしなことを考える人がいるものだ。当然のことながら2020年はコロナ蔓延で中止。新型コロナの感染が落ち着いてきたところで再度計画され、この5月に開催となった。還暦ではなく、高齢者同期会になった。
同期会とかクラス会にはあまり積極的に参加する方ではない。それでも3回か4回は出席している。同じクラスによくしゃべったりするような親しい人が少なく、卒業後のクラス会ではじめてことばを交わした人も多い。どんな仕事をしているのか、なぜ先生にならなかったのか(僕がすすんだ大学は教員養成系だった)、結婚しているのか、子どもはいるのか、歳はいくつかなどなど、面接みたいな質問を受ける。何年かして顔を出すとまた同じようなことを訊かれる。正直言って煩わしい。共通の思い出のようなものもない。話のきっかけがないのである。
落語で本題に入る前の世間話や小咄をまくらという。いろんな噺のまくらを紹介しているのがこの本である。おそらくは口述筆記であろう、するするとリズムよく読めていい。まるで圓生がしゃべっているみたいだ。
圓生といえば弟子に圓楽がいて、その弟子である楽太郎が圓楽を受け継いだ。それ以外の古い三遊派の名跡は受け継がれていない。園右、園遊、園馬などだ(三代目園右はつるつる頭の噺家でドラマやCMなどによく出演していたのをおぼえている)。若い世代からいい噺家が出てきたら、襲名させるべきではないかなと思うのだが、いかがなものだろう。もちろん大名跡圓朝は永久欠番として。
圓生や圓楽はやはりいてくれた方がいいと思う。
同期会であるが、ちょっと都合がつかなくて欠席した。けっして話題がないからという理由ではない。

2024年5月18日土曜日

三遊亭圓生『江戸散歩』

麹町、神田、日本橋、京橋、芝、麻布、赤坂、四谷、牛込、小石川、本郷、下谷、浅草、本所、深川。東京府に15の区が置かれたのは1878(明治11)年。1889(明治22)年に誕生した東京市はこの15区を市域としていた。府下の荏原郡、南豊島郡、東多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の町村は1932(昭和7)年に東京市に編入され、新たに20区が新設。東京35区が誕生した。1943(昭和18)年に東京府は東京都となり、東京市は廃止される。35区はその後再編され、今の23区になった。
江戸の市街は概ね東京15区だった。その名残りが多く見られるのがこの地域である。今で言う山手線の内側と日本橋、浅草、本所、深川である。品川の戸越は江戸越えの村というのが地名の由来とされている。この辺りは江戸ではなかったのである。
子どもの頃から落語は細々とながら好きな演芸だった。ユーチューブなどでよく聴くようになったのはここ10年くらいだろうか。大人になってから落語好きな知り合いが多くいたことに驚いている。
この本は三遊亭圓生が訪ねた東京、すなわち江戸の町や寄席などが数々の思い出とともに紹介されている。ラジオやテレビがなかった時代、寄席は映画館とともに娯楽の花形だった。都内各所にたくさんあった。また落語に出てくる町も江戸の町だ。ほほう、あの噺のあの長屋は上野広小路にあったのかなどと思いを馳せる。隔世の感がある。
実は圓生をあまり聴いたことがなかった。古い噺家で好きなのは古今亭志ん生。立川談志や志ん朝を聴くことも多い。圓生は食わず嫌いというか、端正な顔立ちと語り口が軽妙な噺家という印象が強く、そうしたイメージがかえって面白みに欠けると勝手に思い込んでいた。
せっかく圓生に江戸を案内してもらったのだからと思い、「髪結新三」と「紺屋高尾」を聴いてみた。この本の他、著書は何冊かあるようだ。もう少し読んでみたい。

2024年5月11日土曜日

山口拓朗『言語化大全』

自民党派閥による政治資金パーティー裏金問題では要領を得ない政治家たちが説得力に乏しい説明を繰り返している。いつどこで誰が何のために慣例化したのか、まったくわからないまま法改正の手続きをすすめている。説明責任を果たさなければならないと言うけれど説明責任なんて果たさなくてもいい。わかりやすく説明してくれればそれでいい。
うまく言語化できないという悩みに応えるのが本書である。言語化力を身につける上で大切なのは語彙力、具体化力、伝達力。とりわけ具体力が鍵を握ると著者は言う。よく整理されていてわかりやすい。具体化力のベースは5W3H。いつどこで誰がなぜ何をどのようにどれくらいでいくらでをできる限り明確にすることが基本である。「説明責任」を果たせない方々にぜひ読んでもらいたい。
若い世代にとってコミュニケーション能力は身に付けたいスキルのひとつになっている。「コミュ力(りょく)」と略されることも多い。
背景にはコミュニケーション能力の必要性が増した社会があるのだろう。適切に言語化することで正確に意思疎通をはからなければならない時代なのかもしれない。曖昧な物言いや仲間内だけにしか伝わらない話し方がここ何年かでずいぶん少なくなってきたような気がする。昔みたいに「言わなくたってわかるだろう」という世の中ではなくなっているのだ。
オフコースのヒット曲に「言葉にできない」(作詞作曲小田和正)があるが、言語化できないのと言葉にできないのとでは少し違うと思っている。世の中のあらゆるものが言語化できるというわけじゃない。事実とか事象ではない事柄、たとえば感情世界や感覚世界などは言語化するのは難しい。もちろん何かにたとえるとか、類似したもので説明することは決して不可能ではないだろう。ただそのものずばり、その本質を言葉にするのは困難な作業だ。
言葉にできないものは言葉にできないままにしておくのがいいと思う。

2024年5月7日火曜日

大岡昇平『武蔵野夫人』

大岡昇平『武蔵野夫人』を読む。
舞台は国分寺崖線。昔の多摩川が武蔵野台地を削った崖地である。地元では「はけ」と呼ばれている。小説の冒頭ではけがどうやってつくられたか、どんな特徴を持つ土地かが紹介される。読みすすめるにつれ、行ってみたいと思う。
実を言うと40数年前にはけの道を歩いたことがある。大学一年のとき。一般教養の地理の授業だった。担当の先生は名前ももう忘れてしまったが、授業中寝ている学生を今おもしろい話をしてるからといってわざわざ起こしに来るような人で、2回目か3回目の講義のときに教室を出て、国分寺崖線を案内してくれた。さして地理だの地形だのに強い関心を持っているとは思えない(僕だけか?)新入学生相手の一般教養の講義でフィールドワークをしちゃうことからして熱心な先生だったんだなと今になって思う。
中央線で国分寺駅。東に向かって歩きはじめる。野川の北側の道に出て、さらに東進。途中に貫井神社がある。湧水が見られる。手を振れはしなかったが、清冽で冷たそうだ。さらに東へ。北に向かえば武蔵小金井の駅に通ずるであろう通りを横切る。間もなくはけの森美術館にたどり着く。その隣の家が『武蔵野夫人』の舞台となった「はけの家」である。
物語の主人公は秋山道子。夫は大学でフランス語を教えている。学徒召集で南方に渡った従弟勉が復員してくる。勉はジャングルを彷徨い、地形に関して少なからず興味をおぼえたようだ。はけの家周辺をよく散策しては強く惹かれる。勉は作者自身を投影させた存在だろうか。大岡も南方(ビルマではなくフィリピンだが)から復員している。また主に渋谷辺りで育った彼にとって、宇田川や渋谷川といった水辺は身近な存在だった。野川流域の河岸段丘に魅力を感じたのはそのせいもあるのではないか。
夏になると戦争の本をよく読む。武蔵小金井駅で帰りの電車を待ちながら、今年は『レイテ戦記』を読んでみようと思った。

2024年4月29日月曜日

川端康成『みづうみ』

ゆうちょ銀行のキャッシュカードが、頻繁に使わないせいか、すぐに磁気が弱くなる。磁気を読みとるATMのセンサーとの相性があり、使えるATMと使えないATMがあるという声もネットにはある。使えたり使えなかったりするということは要するに「使えない」ということだ。ついでに言えば通帳も読みとれなくなったこともある。
調べてみると郵便局のATMで磁気修復ができるという。手順がまだわからなかったので少し遠いが大きな郵便局まで歩く。近所の郵便局にはATMが一台しかない。操作に手こずっているうちに行列ができてはプレッシャーがかかる。思っていた以上に操作は簡単で、カードを入れて、暗証番号を入力したらすぐに修復された。それにしてもATMで磁気不良が修復できます、なんてことをホームページに掲載している時点でゆうちょ銀行は「負け」である。以前(おそらく1~2年前)同じようにカードが使えなくなったときは窓口に行った。また使えなくなったらいちいち郵便局に行かなくちゃならないのかと思うとどんなに丁寧に、親切に対応されても憂鬱な気分になる。
川端康成は軽井沢に別荘を持っていた。1940年に英国の宣教師から購入したという。場所は万平ホテルの北側、幸福の谷(ハッピー・バレー)と呼ばれていた辺りになる。住民有志らが移築保存を模索していたが、2021年9月解体されることになったという記事を読んだ記憶がある。
この小説は軽井沢滞在中に書かれたという。今の言葉でいえば、主人公はストーカーだ。誰しも無意識に持っている人間の陰湿な部分を描いているのだろう。川端作品のなかでは評価の高い作品であるらしい。僕の好みではないが。
いろいろ付き合いというものがあって、年金の振込をゆうちょ銀行にしようと考えていた。磁気不良の機会も増えることだろう。僕自身もこの先どんどんポンコツになっていく身である。仕方ない、相哀れみながら生きていこう。

2024年4月21日日曜日

長谷川四郎『九つの物語』

東京の桜はビークを過ぎて、葉桜となる。少し寂しい。
若い頃は歳をとった後の生活をイメージできなくて、大江健三郎や太宰治の全集を買い揃えたり、これは老後にもういちど読むぞと思い、捨てずに文庫本を残しておいた。とてもじゃないが、字の小さい本は今となってはお手上げだ。目測を誤った。
最近は昔読んだ本を読みかえすことを主としている。キンドルで無料の夏目漱石や芥川龍之介など。去年、半年近くかけて読み直した『ジャン・クリストフ』も無料だった。
こないだソファの肘掛に古い本が置いてあった。長谷川四郎『九つの物語』である。長女がどこかの古書店で見つけたのだろう、百十円という値札が付いていた。刊行は1980年だ。装幀は安野光雅。とても魅力的な本に仕上がっている。娘はこうしたいいものを見抜く力を小さい頃から持っていた。せっかくなので読んでみる。
時代も場所も特定できない九つの物語が並んでいる。強いて言えば東京の下町か、あるいは多摩川沿いの武蔵野かもしれない。いずれも心を穏やかにする小品である。著者も心穏やかに書いたに違いない。九つの物語というタイトルから想像したのは、J・D・サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』である。もうすっかり忘却の彼方に消えた本を思い出させたのは単にタイトルの類似によるのだろう。サリンジャーは第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦に参加していた。先日、NHKの「映像の世紀」で紹介されていた。それで思い出しただけだ。
20代最後の年に広告会社に転職した。クリエーティブという部門である企業のPR動画を制作していた。そのカメラマンが長谷川元吉だった。映画やCMの世界ではベテランだった。この本を読んで長谷川四郎について少し調べてみた。元吉は四郎のご子息であった。残念ながら、お話しする機会はなかった。
長女がどこかから拾ってきた一冊の書物からの古い記憶を辿ることができた。

2024年4月14日日曜日

安西水丸『水丸劇場』

横浜に行ったのは2019年5月以来だと記憶する。
以前読んだ北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語』に取り上げられていた昭和33年の東芝日曜劇場「マンモスタワー」を視たいと思い、横浜の放送ライブラリーを訪れた(おそらくここでしか視聴できないはず)。
テレビ番組のほとんどが生放送だった時代、少しだけ普及しはじめたVTRがこのドラマで部分的に使われている(インサートやオープニングなど)。ドラマの主要部分は生放送だから、台詞の言い間違いなど明らかなNGシーンもそのまま放映されていた。この頃のテレビ番組はほぼアーカイブが残されていないが、今でも視聴できるこのドラマは奇跡と言っていい。主演は人気絶頂の映画スター森雅之。特別出演の森繁久彌が存在感を放っていた。
70分のドラマを見終わって、ふと、去年ある放送局を定年退職した高校バレーボール部の後輩Nからもらった年賀状を思い出した。再就職し、勤務地は横浜だと記されていた。それってもしかして、ここ(放送ライブラリー)じゃないかなと不思議に勘が働いて、物は試し、受付でN〇〇〇さんってこちらにいらっしゃいますかと訊ねてみた。するとどうだろう、内線電話をかけはじめるではないか。
5分後、30数年ぶりでNと再会を果たすことができた。
電車のなかで安西水丸を読む。この本は安西の没後、「クリネタ」というニッチな雑誌に特集された記事を中心にまとめられ、急遽刊行されたものだ。
氏の書いた4コマ漫画やフィクション、カレーライスのこと、眼鏡のことなどさまざまな切り口から生前の安西を忍んでいる。和田誠、黒田征太郎、大橋歩らの追悼文のほかに南青山にあったバー、アルクール店主の勝教彰、水丸事務所を支えた(今でも支えている?)大島明子のコメントも載っている。
あれから10年。多くのファンにとってと同様、安西水丸は僕にとっても忘れられない、忘れてはいけない存在なのである。

2024年4月10日水曜日

今尾恵介『地名の楽しみ』

沓掛(くつかけ)という地名がある。街道の、たとえば峠の入り口や暴れ川の近くなど交通の難所に多いという。旅人はそこで草鞋(沓)を新しくし、履きつぶした草鞋を木に掛けて、その先の安全を祈願したというのがその由来である。
ときどき散歩に出かけるのだが、清水という町がある。かつて井伏鱒二が住んでいた。地名の起こりとなった湧き水のある場所に案内板があり、この辺りが以前、豊多摩郡井荻村沓掛と呼ばれていたことが記されている。古い地図で見ると昭和40年くらいまでたしかに沓掛町という町が存在している。昭和7年に東京市に編入されるまで杉並町と井荻町の境界があったあたりである。
今は住宅地になっており、沓掛町と呼ばれるようになった言われはまったくわからない。土地はほぼ平坦である。町の北側に妙正寺川が流れている。今は護岸が整備されているが、最上流の地域でもあり、川幅は狭い。もしかするとかつては暴れ川だったのかもしれない。古くは街道があって、多くの旅人が行き交ったのだろうか。その面影は皆無である。
地名は面白い。江東区はかつて深川区と城東区が合併した。下町で水路が多くあるので深川と呼ばれる川があったのだろうと思っていたら、そうではなくその辺りを開拓した深川八郎右衛門にちなむという。城東区には砂町がある。見渡す限りの砂地だったのだろう思っていたが、この地も砂村新左衛門という人が開拓したことで砂村と呼ばれるようになり、その後、大正時代の町制施行で砂町になってしまったというのだ。
今、東京で人気の町、恵比寿も恵比寿ビールの工場があり、出荷を担う駅ができ、その後地名も恵比寿になってしまった。それまであった小さな町の名前は消えてしまった。
地名は先人からのメッセージと言われる。古い地名を訪ねる旅は面白い。沓掛という地名は小学校の名前に遺されている。杉並区立沓掛小学校である。古い地名を辿るのに小学校の名前は貴重だ。

2024年4月5日金曜日

川端康成『山の音』

ドジャースに移籍した大谷翔平。オープン戦は好成績をマークし、期待は膨らむばかりだった。
開幕してみると一番バッターのベッツが絶好調であるせいもあり、大谷が本調子には見えないのである。ヒットは一日に1本か2本。なによりもホームランが打てていない。まるでこの春の選抜高校野球から採用された低反発バットを使っているようだ。何億という莫大な年俸をもらいながら、平凡な記録でシーズンを終えたらこれまでの賞賛が非難の声に変わる。そんなことまで心配してしまう。
常勝球団に移籍したことがプレッシャーになっているのではないかとも思う。これまでは(失礼な話だが)勝てば儲けもの、みたいなチームに所属していた。今年は違う。勝たなければいけないチームの一員であり、主力なのである。もちろんその程度の環境の変化で押しつぶされる選手ではないとは思うが、これだけ打てないと邪推もはたらく。単なる通訳以上のパートナーだった水原一平の事件もある。野球には集中していると本人は取材に応えているようだが、尋常でない金額を最も信頼していた男から騙し取られたとなれば、本当に大丈夫なの、と思ってしまう。
と、ずっと心配していたドジャースタジアムでの開幕シリーズ。チームは好調で勝ち星を重ねながらも、打てない大谷が気がかりでならなかった。
4月3日(日本時間4日)、開幕41打席目にしてついに今季初アーチ。
うれしかった。
成瀬巳喜男監督の「山の音」を観たのは10年近く前になる。
戦後の混乱がようやく収まりつつある時代。鎌倉のある一家の舅と嫁の心の交流が描かれている。この構図には既視感があった。小津安二郎の「東京物語」でも舅と戦死した次男の嫁が心を通わせる。奇しくも嫁役は原節子である。映画の公開は「東京物語」が一年はやいが、脚本執筆時に小津は『山の音』を意識していたのかもしれない。
映画を観て、原作を読みたいと思った。ようやく読み終えた。

2024年3月27日水曜日

島田雅彦『散歩哲学──よく歩き、よく考える』

大相撲春場所は昔から「荒れる春場所」として知られている。古くは若浪が平幕優勝した(古すぎるだろう)。冬から春へ、季節の変わり目でもあるこの場所はコンディションづくりが難しいという。
今場所は横綱照ノ富士が不調、先場所綱取りに失敗した霧島も初日から連敗。4人の大関が揃って勝つ日がなかった。そんななか、新入幕で幕尻の尊富士が11連勝。先場所新入幕で優勝争いに絡んだ大の里と大関琴ノ若、豊昇龍が追う展開。新入幕の力士が優勝したのは1914年に遡るという。
14日目、大関経験者朝乃山戦で尊富士は右足を痛める。花道を車椅子で引きあげ、救急車で病院に運ばれた。思いがけないアクシデント。千秋楽の出場が危ぶまれた。本人も相当悩んだ末に土俵に上がる(この辺りはテレビ解説していた伊勢ヶ濱親方が伝える)。今場所好調の豪ノ山を押し倒して見事初優勝を飾った。
辛口解説でお馴染みの伊勢ヶ濱は大の里が敗れたあと、圧力の強さだけでなく、まわしをしっかり取って、自分の型をつくらないとこれから上位に通用しなくなると苦言を呈していた。僕には尊富士をはじめ、自らの弟子たちに立ちはだかるこの大物に送ったよきアドバイスに思えた。
先週だったか、昼間ラジオを聴いていたら、ゲストが島田雅彦で近著のことを話していた。
島田雅彦は学生時代に小説家としてデビューし、その作品は話題になった。残念ながら読んではいない。その後も芥川賞の候補となるような話題作を世に出したらしいがまったく読むことなく40年以上経つ。というわけで島田雅彦は僕にとってはじめましてであり、たとえば十条の斎藤酒場で偶然隣り合わせて、散歩について哲学的な考察を教えていただいた人というわけだ。
これまで下町を中心に町歩きの本は読んでいたけれど、この本は歩くことそのものがテーマになっている。東京や地方に加えて、ヴェネチアなども散策している。
なかなか大きな散歩論であった。

2024年3月23日土曜日

今尾恵介『消えた駅名 駅名改称の裏に隠された謎と秘密』

いちど付けられた駅名がそんなにころころと変えられるなんてこの本を読むまで知らなかった。生まれ育った地域にも消えた駅名があった。東急大井町線の戸越(現下神明)と蛇窪(現戸越公園)である(本書でも取り上げられている)。僕が生まれるずっと前のことだ。
最近の例だと東武スカイツリーライン(旧伊勢崎線)の業平橋だろうか。東京スカイツリー開業とともに「とうきょうスカイツリー」と改称された。古くは同線の玉ノ井が東向島に変わったが、リアルには知らない。地図と歴史を辿っていけば改称された駅はたくさんある。地図と地名の人、今尾恵介だからできた一冊だ。
なぜ駅が改称されたか。市区町村の合併によってとか、付近の施設がなくなった、あるいは新たな施設が生まれたなど理由はさまざまである。観光地やニュータウンの入口として乗客や住民を誘致するための改称もある。同一鉄道会社の路線で同じ駅名は付けられない(A駅からA駅への切符は混乱を来すからだ)。同じ駅名を避けて、武蔵Aとしていた駅がそもそものA駅が改称されたことで武蔵AからAに改称されたという例も多い。
駅は大人の事情によって名前を新しくしていった。その事情が読んでいて楽しい。駅は世につれ、といったところか。
最近は合成駅名とでもいうのか、ふたつの地名を併記する駅が増えている。JR埼京線の浮間舟渡、東京メトロ銀座線の溜池山王、都営地下鉄大江戸線の落合南長崎など。たしかに駅を堺に隣接するふたつの町がある場合、駅名をひとつにするのは今の世の中では難しい。だったら両方を付けてしまおうという考えは大人の事情対応として有効だ。昔は考えられなかった気遣いである。荻窪駅だって今新設されたならば荻窪天沼駅となったに違いない。
僕はこうした合成駅名を民主主義的駅名と呼んでいる。新しい駅名だけを見ると日本の民主主義は進展してきた。本来的な意味でいう民主主義は果たしてどうなんだろう。

2024年3月11日月曜日

北浦寛之『東京タワーとテレビ草創期の物語 ――映画黄金期に現れた伝説的ドラマ』

1953(昭和28)年にテレビ放送がはじまったが、草創期の映像は残されていない。コンテンツのほとんどが生放送だったからだ。録画して保存するなんて誰ひとりとして思いつかなかったのだろう。
CMはフリップを映すだけであり、海外から提供されたドラマや映画も流された。日本最古のテレビコマーシャルは精工舎の時報CMと言われているが、これも諸説あり、現存する最古のCMということらしい。他にも一番最初のCMはこれだという見解もあるようだが、如何せん実物が残っていないのである。
当時、NHKも日本テレビも独自の電波塔を持っていた。開局申請が増え、東京のテレビ局が共同で使える電波塔が企画された。東京タワーだ。主導したのは産経新聞の前田久吉。かくして1958(昭和33)年、東京タワーは完成した。
この本は東京タワー完成時に放映されたドラマにフォーカスしている。現在のTBSが制作した「マンモスタワー」である。近い将来斜陽産業となるであろう映画と今は未知数だがいずれ大きなメディアになるであろうテレビの世界。来たるべき映像産業の対立を描いている。当時、映画の観客動員数はピークを迎えていた。旧態依然とした映画会社の経営者たちはテレビ恐るるに足らずと豪語していた。ひとりの映画製作者が主人公。映画製作はもっと合理的にしなければならないと主張する。その役が誰もが認める映画スター森雅之だ。ちょっと興味を唆られる。
このドラマは完全な生放送ではなく、当時希少だったVTRも駆使されている。風景などは事前に収録されていたらしい。そんなこともあってか実はこのドラマは保存されている。全てではないかもしれないが、今でも横浜関内の放送ライブラリーという施設で視聴可能だ。放送ライブラリーはずいぶん前に訪ね、昔のCMやニュース、ドラマなどを視た記憶がある。
行ってみようかな、横浜まで。帰りに野毛で餃子とサンマーメンを食べたいし。

2024年3月3日日曜日

今尾恵介『ふらり珍地名の旅』

僕が生まれ育った町は品川区二葉である。若草の二葉が生い茂る地域であった。北隣にあるのは豊町。農業に適した肥沃な大地だった。というのは冗談で地名のいわれはない。
このあたりは荏原郡蛇窪村と呼ばれていた。蛇が多く生息する谷間の湿地帯だったのかもしれないし、近くを流れる立会川が護岸工事される以前は蛇行を繰り返し、蛇のようだったのかもしれない。
蛇窪村はその後、上蛇窪、下蛇窪となり、昭和7年、東京市荏原区に編入されるにあたり、上神明町、下神明町と改称される。商業地域や住宅地の開発を見据えて、蛇窪はないだろうと誰か言ったと思われる。さらに昭和16年、上下神明町を南北に分け、北側を豊町、南側を二葉町とした(二葉町は後に二葉となる)。こうして地名がいわれ(歴史や地形的な特徴、言い伝え)を持たない町が生まれた。自由が丘や光が丘のように。
蛇窪の南側にも小さな集落が多くあった。大井伊藤町、大井金子町、大井出石町、大井原町、大井山中町などなど。今は大井、西大井とひと括りにされているが、そのいくつかは小学校の名にとどめている。
今尾恵介の本はこれまで何冊か読んでいる。地名や駅名に関するものだ。いずれも興味深く読了した記憶がある。今尾恵介は地名会のさかなクンだ。勉強したいことを見つけられることはだいじだと思う。教科としての国語算数理科社会ではなく、学びたいものを自分で見つけること。ふりかえって自分の人生のなかで夢中になれるものはあまりなかった。あっても持続しないことばかりだった。いまさら嘆いても仕方ないのであるが。
珍地名といってもどこからが珍なのかは主観的なところだ。この本で知っていた珍地名は東京都江東区海辺と同じく目黒区油面。個人的には足立区の地名に興味がある。六月とか島根とか宮城とか。
実家の近くに東急大井町線の下神明、戸越公園という駅がある。昭和10年まで下神明駅は戸越駅、戸越公園駅は蛇窪駅だった。

2024年2月25日日曜日

風来堂編、宮台真司他著『ルポ 日本異界地図 行ってはいけない!? タブー地帯32選』

もう50年以上も昔のこと。小学生だった僕の住む町に知的障害のある少年がいた。年齢は少し上だったように思う。ごく普通に町を歩いており、時折公園などに姿をあらわし、いっしょに遊びたがっているように見えることがあった。少し年下の低学年の子たちに声をかけていることもあった。
中学生になり、学区域が大きくなったことで行動範囲が広がった。他の小学校の区域にもやはり知的障害のある子どもがいた。昔はどの町にもひとりやふたりはいたのかもしれない。彼らの本当の名前は知らなかったが、それぞれに呼び名を持っていて、町で見かけると声をかけてはいたずらする輩も少なからずいた。当時、特殊学級と呼ばれるクラスのある学校もあった。おそらく彼らはそんな特別な学校に通っていたのだろう。
大人になってからそういった子どもたちを見ることがなくなった。あるいは身近にいるものの気がつかなくなっただけかもしれない。特殊学級はその後特別支援学級と名前を変える。世の移り変わりとともに彼らは保護者や制度によって手厚く守られるようになり、そのために町なかから姿を消したのではないだろうか。
異界とは異人、ストレンジャーたちの界隈。花街や色街、被差別地域など、日常から解き放たれて発散する場所だった。そういった点ではお祭りも異界の一種といえる。異界のルールは「法」ではなく、「掟」であると語るのは宮台真司だ。たしかにジャニーズ事務所や宝塚歌劇団の問題は「法」という視点からとらえられたときにはじめて生じる問題だった。反社会的勢力が世の中で見えにくくなっていることもこうした背景がある。
今はそうした異界が次々と消え去り、異界を知らない世代が異界なき社会をつくろうとしている。この本はかつてこんな異界が日本中にありましたよと言い伝えるガイドブック。すでに跡形もなくなっている異界も多いが、貴重な記録である(記憶している世代がある限りではあるが)。

2024年2月13日火曜日

カート・ヴォネガット『ホーカス・ポーカス』

テレビでデイブ・スペクターを視るたびに、なんでこの人は日本の文化や風土、日本人の感情を日本人以上に理解して日本語を話すのだろうと驚愕する。まるで脳内に人工知能を所有しているように思える。それでいてけっして賢ぶらない。面白くとも何ともない駄洒落やギャグを連発する。「笑点」の大喜利レベルである。それだけ見ているとおバカな外国人だが、彼はそれをねらっているのだ。どれくらいの笑いのレベルが平均的な日本人に受けるのかを知っている。そこがすごい。あの風貌で確実に日本人と同化している。
たぶん(そんなことは決してしないだろうが)本気で日本の政治や文化の劣化をぶった切るような論評をするとしたら、相当ハイレベルな発言をするのではないかと思っている。
もはや彼はアメリカ人ではない。藤田嗣治が日本人ではないように。
翻訳されているカート・ヴォネガットの小説はほとんど読んでいる。何年か前に『タイムクエイク』という大作を読んで、『ガラパゴスの箱舟』『青ひげ』『ジェイル・バード』を再読した。これでひと通り読んだなと思っていたところ、もう一冊未読の小説が見つかった。それがこの本。ホーカス・ポーカスとはどういう意味かよくわからないが、魔法使いが魔法をかけるときに唱える呪文のようなことらしい。だから意味がなくていいのだ。ギャツビーの「オールド・スポート」みたいなものだ。
カート・ヴォネガットの比喩は深い。ちょっとやそっとじゃ理解できない。立ち止まってばかりいる読書。それでもキンドルのおかげで、すべてではないけれど、知らない言葉や出来事は検索してくれる。大いに助かる。
原書でヴォネガットを読むという知人がいる。村上春樹も私的読書案内で推している。英語で読むとさらに面白さが見つかるのだろうか。僕は翻訳を読むので手いっぱいなのだが。
ところでカート・ヴォネガットを読むたびにデイブ・スペクターを思い出すのはどうしてなんだろう。

2024年1月20日土曜日

半村良『戦国自衛隊』

斎藤光正監督「戦国自衛隊」が公開されたのが1979年12月。僕が20歳のときである。文庫本と映画がコラボレーションする、いわゆる角川映画のひとつだった。角川映画は角川書店(現KADOKAWA)が映画をベースにしたメディアミックス展開として知られていた。
第一作は市川崑監督「犬神家の一族」(原作横溝正史)だそうだが、第二作の「人間の証明」(佐藤純彌監督)が話題になった。森村誠一の原作もジョー山中が歌った主題歌もヒットした。1977年。僕は高校三年生だった。
五作目にあたる「戦国自衛隊」に興味はそそられたが、劇場でこの映画は観ていない。当時あまり映画を観る習慣がなかったのである(後にテレビで視たが鮮明な記憶は残っていない)。
年が明けて1980年。読書記録によれば、この年の1月にこの本を読んでいる。映画を観る前に原作を読んでおこうと思ったのか、映画を観るお金がなかったから文庫本だけで済ませようと思ったのか。季節的には学年末の試験やレポートなどに追われていた頃だと思う。あと三カ月で大学三年生になる。今となっては遥か彼方の遠い記憶であるが、学生時代ももうじき折り返しかと思うとちょっと憂鬱な心持になる、そんな時期だった。
半村良という作家は当時も今もくわしくは知らない。『戦国自衛隊』から30年経って、『葛飾物語』を読んだ。葛飾の長屋を舞台に昭和の庶民を描いた素敵な小説だった。その後『小説浅草案内』を読む。ここに登場する粋で素朴な浅草っ子がいい。僕にとって、半村良は決してSF作家ではないが、遠い昔に『戦国自衛隊』との出会いがなければ、半村良の描く東京の東側にはお目にかかれなかったかもしれない。つまり『戦国自衛隊』の半村良という記憶があったから、彼の描く下町に出会えた気がするのである。
そういえばパスティーシュの名手清水義範の師匠が半村良だったっけ。清水義範のSFのなかでは『イマジン』が好きだ。

2023年12月31日日曜日

青柳いづみこ『阿佐ヶ谷アタリデ大ザケノンダ』

この本の著者も言及しているが、アサガヤは地名で阿佐谷、駅名は阿佐ケ谷と表記される。ややこしいが、一般には阿佐ヶ谷が浸透している。
荻窪駅の北側に住むようになって十数年経つ。意外なくらい阿佐ヶ谷とは無縁の生活をしていた。それまでは映画を観に行くか、渋谷方面にバスで行くためくらいしか阿佐ヶ谷まで歩くことはなかった。ここ何年か、コロナ禍で在宅勤務となり、運動不足を補うために歩くようにした。阿佐ヶ谷駅周辺まで行って帰ると四キロほどのウォーキングになる。主に歩くのは松山通り商店街やスターロードである。歩くというのは退屈な行為であるから、道々にある店の看板を見るなどして過ごす。いろんな店があるものだなと思う。そのうち散歩がてら、気になった蕎麦屋やラーメンの店に行く。知らない町に小さな根が生えてくる。
阿佐ケ谷駅の南側にもときどき足を伸ばす。川端通りという商店街がある。ウォーキングをするようになって、日本大学相撲部の位置も知る。この辺りには花籠部屋もあったという(花籠部屋が今の日大相撲部の場所だったか)。
著者青柳いづみこは青柳瑞穂の孫にあたるらしい。青柳瑞穂の名を知ったのは井伏鱒二の『荻窪風土記』だったか。ずいぶん昔にジャン=ジャック・ルソーの『孤独な散歩者の夢想』という文庫本を読んだことがある。翻訳したのは青柳瑞穂だったのではないだろうか。いやいや記憶にないとすれば僕が読んだのは岩波文庫版で新潮文庫版ではなかったのではないか。
この本は長女が阿佐谷駅前の、まもなく閉店するという書店に立ち寄って何冊か買ってきたうちの一冊である。ソファの上にほったらかしにされていたので、お先に読ませてもらった。将来、もし仮にであるが、阿佐ヶ谷学なる分野が確立した折には貴重な資料となるに違いない。冗談ではなく、阿佐ヶ谷学はぜひとも確立してもらいたい。ついでに高円寺学、荻窪学、西荻学もできるといい。

2023年12月21日木曜日

ハーマン・メルヴィル『白鯨』

サマセット・モームは1954年に『世界の十大小説』というエッセイを上梓している。
その内訳は、ヘンリー・フィールディング『トム・ジョーンズ』、ジェイン・オースティン『高慢と偏見』、スタンダール『赤と黒』、オノレ・ドゥ・バルザック『ゴリオ爺さん』、チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、エミリー・ブロンテ『嵐が丘』、フョードル・ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、レフ・トルストイ『戦争と平和』である。
モームのエッセイは、岩波文庫にあるそうだが、この十大小説のうち僕は半分しか読んでいない。
二十代に読んだのはスタンダールとメルヴィル。後は結構大人になってからだ。『カラマーゾフの兄弟』なんて光文社の古典新訳シリーズで刊行されなければおそらく読む機会はなかっただろう。
『デイヴィッド・コパフィールド』は二十代の頃、当時絶版になっていた新潮文庫(記憶違いかもしれないが)を仕事場近くの小さな書店で見つけて、買うだけ買っておいたものをずっと後になって読んだ。もっとはやく読めばよかったと思うが、こんな長編を読む暇はなかった。『赤と黒』は二十代の頃、岩波文庫で読み、五十を過ぎて光文社の古典新訳で読み直した。
小説を読むようになったのは大学2年の終わりごろから。大江健三郎を読んで、開高健を読んで、スタインベック、ノーマン・メイラーと海外の小説を読みはじめるようになった。そしてどういう経緯かは忘れたが、『白鯨』にたどり着く。おそらくこの本がアメリカ文学の最高峰であるとかなんとか吹き込まれたのではないかと思う。モビー・ディックに復讐心をたぎらせるエイハブ船長。一頭の鯨をめぐる心理戦。まるでミステリー小説を読んでいるようなハラハラドキドキ感を(それだけを)今でもおぼえている。もう一度読む機会は果たしてあるだろうか。