2018年6月30日土曜日

近藤勝重『13歳から身につける一生ものの文章術』

以前読んだ大野晋の『日本語の教室』(岩波新書)に、本を読ませて感想文を書かせたり、営業上必要な報告論文や商業用の手紙を書かせる研修をある企業で行ったところ業績が格段にアップしたというようなことが書かれていた。社員の知識不足や言語能力の欠乏には言語を中心とした訓練がふさわしいという。
世の中の問題は大概の場合、言葉の問題だ。そのためには読書と作文は欠かすことはできない。反論の余地はない。
でも僕は思うのだ、そうは言っても、と。
たしかに言語の力は何ものにも代えがたいけれど、人間には向き不向きがある。本を読めと言って読める人間とそうでない人間がいる。それも訓練だといえばそれまでだが。作文に関しても同様。絵が描ける人と描けない人がいるように文章が書ける人と書けない人がいる。どちらもまったくかけない人はいないだろうが、大人だってもらったメールに返信をするのが苦痛な人は多いはずだ。
僕はかろうじて本を読む習慣と人並み程度の作文が書ける能力にめぐまれた(ついでに言えばろくでもない絵だって描ける)。そのせいでこれまで本を読めなかったり、作文が書けない人のことを考えたことがなかった。どうしてこの人はものごとを知らないのだろう、口では立派なことをしゃべるのに拙い日本語しか書けないのだろう、そういう人に少なからず出会ってきた。本を読まなくたって、文章が書けなくたって、映画やドラマや演劇を人一倍観て、自身に刺激を与え続けている人もいるし、作文以外にも自分を表現する手段を持っている人もいる。たいせつなのは人それぞれが自分の生き方を持っていることであり、そのことをちゃんと認めてあげることだ。
ときどき日本語に関する本を読む。
13歳はとっくに過ぎてしまったけれど、作文の基礎を教わった。この本で作文が書けるようになっても書けない友だちの気持ちがちゃんとわかる子どもになってくれたらいいと思いながら。

2018年6月20日水曜日

山本周五郎『栄花物語』

ずいぶん昔、ショパンのCDを買った。CD=コンパクトディスクの時代だから、レコードしかなかった学生時代ではない。1980年代の半ば以降だろう。
マット・ディロンがサントリーのテレビコマーシャルに出演していた。シルキーというウイスキーだった。ディロンがウイスキーを飲んでいるとどこからともなくピンクの象がやって来る。
ナレーションは「時代なんか、パッと変わる。サントリーリザーブシルキー、新発売」である。不思議な空気に包まれたCMだったが、とりわけバックに流れる音楽が印象に残った。コピーライターは秋山晶で氏の作品集にクレジットが掲載されている。使用されている楽曲はショパン作曲マズルカ第38番作品番号59-3。
というわけでCDを購入したのである。ピアノはウラディミール・アシュケナージ。マズルカはポーランドの民族舞踏の形式のひとつで基本は4分の3拍子。ということは後日知る。ルービンシュタインの音源もある。これもまたずっと後日に知る。
高校時代の日本史だったか、大学での一般教養の講義だったか思い出せないけれど、江戸時代に田沼意次という政治家がいて、大商人と手を組んだ腐敗政治の人で後に失脚し、松平定信が登場したみたいな話を聞く。当時の若者にわかりやすくたとえると田沼意次が田中角栄で松平定信はその後を受けた“クリーン”三木武夫だということだった。
昭和の成長期を支える多くの立法にたずさわった田中角栄は時代を読み解く知を持ち、民衆の心をよく理解していた(最近田中角栄の本が多く上梓されている)。商業の発展が幕政を圧迫するであろう先々を見越していた田沼意次と重なり合うところがたしかにある。歴史の授業では通り一遍に悪の政治家で終わってしまうことが多いようだが、実は有能でかつ質素な生活をしていた人なのだ。
本当のところはどうだがわからない。が、山本周五郎がそう書いているのだから、おそらく間違いないだろうと思っている。

2018年6月10日日曜日

吉村昭『漂流記の魅力』

FacebookやTwitterなど、読書に限ったことではないけれど今では有力な情報源になっている。
ちょっと興味を惹く記事が表示される。読んでみようとタップする。何行かさわりだけ書かれていて、続きを読みたければ「いいね!」してくださいという。この時点で興味が失せる。ニュースの発信元が「いいね」か「いいね」じゃないかなんて読んでみなければわからないじゃないか。
youtubeにアップした動画をシェアしてくれたら、TwitterやInstagramでこのアカウントをフォローしてくれたらプレゼントを差し上げますというのもいかがなものかと思う。フォロワーが増えないとかページビューが稼げないというなら、まず取り組むべき課題は発信する情報そのものを魅力的にしていくことなんじゃないだろうか。SNSをキャンペーンの応募はがき替わりとでも考えているのだろう。これがまたひそかに応援している企業だったりするとかなしい気持ちになってくる。
傍から何か言うのは簡単なことだ。自分が企業のソーシャルメディア担当者だったら、やはりエサでフォロワーやRTを釣るような愚行をきっとするのだろうとも思う。企業やブランドを好きになってもらうSNS施策のハードルは相当高い。
ソーシャルの友だちと本の話で盛り上がることが多いのは司馬遼太郎、山本周五郎、吉村昭、あたりだ。
僕はずいぶん後になってから読みはじめたのでさほど多くの著作に触れたわけではないけれど、これらの本を多少でも読んでみてよかったと思っている。去年も『闇を裂く道』や『高熱隧道』を読んで、やはり吉村昭ファンの友だちと盛り上がった。
吉村作品で好きなのは“歴史もの”、“第一次産業もの”だったが、ついに“トンネルもの”デビューを果たしたのである。あまり読んでいないジャンルに“漂流もの”がある。たしか『アメリカ彦蔵』くらいしか読んでいない。
そこでこの本を手にとってみたのである。

2018年6月8日金曜日

菅野仁『友だち幻想:人と人の“つながり”を考える』

こんなはずじゃなかったと思うことがいくらでもあった。
他人から見れば大人に違いないだろうが、どうしてこんな大人になってしまったんだろうか。少なからず誰しもそう思うときがあるんじゃなかろうか。
人が成長していくなかでなにが難しいかといえば、自分の力の見きわめと人間関係ではないかと思っている。「彼を知り己を知れば」という故事があるが、自分を知るということは人生最大の難問である。たいてい人は自己を過大評価している。できないこともできると思い込んで生きている。それならそれで前向きでけっこうなのだが、同時に過小評価もしている。俺はそこまでの人物ではないと思っている。過大と過小のあいだを行ったり来たりしているだけで最適化された自分を見出すことがない。面倒くさいのだ、人間は。
人間どうしの関係もやっかいなものだ。自分で自分のことすらわからないでいるわけだから、ましてや他人様のことなどわかるわけがない。その他者だって誰ひとりとして自分の理解者であるわけがない(だからごくまれにわかってくれる人と出会うとうれしくてたまらなくなるのだろう)。
何を考えているかわからない人たちのあいだで、誰もわかっちゃくれないんだよなあと思っているうちに人は歳を重ねていくのだ。
10年前に出版された本がまた売れ出しているらしい。もともと売れてはいたそうだが、昨年あたりから3倍くらい売れ出したという。
そういうわけで興味を持った。
著者は宮城教育大副学長だった菅野仁。東北は仙台出身の社会学者である。人間関係、まさに“人のつながり”を長年研究してきた人なのだろう。
想定している読者は高校生くらいか。これから直面するであろう世の中のしくみを丁寧に説いている。もちろん大人が読んでも学ぶべき点が多い。「大人になるためにかならず必要なことなのだけれど、学校では教えないことが二つあります」なんて御意としかこたえようがない。
もっとはやく気づけばよかった。

2018年6月1日金曜日

吉村昭『大本営が震えた日』

2年にいちどのプライバシーマーク更新審査が終わる。
最初に認証を取得したのが2006年だから、今回で7回目の更新になる。3月に申請書を提出し、文書審査を経て、先月現地審査が行われた。不適合と指摘された事項に対し、改善報告書の作成提出、今はひと段落している。
日頃はどうやっておもしろい広告をつくろうかということしか頭にない。規格だ、手順だ、規程書だなどというのはまったくの門外漢である。それにしても見よう見まねでよくここまでやってきたものだ。
審査では毎度のことであるが、映像コンテンツの制作工程とそれにかかわる個人情報の流れを説明する。舞台裏を聞いた審査員は「CMってこうやってつくられるのですね」と感心してくれる。おそらく彼らが審査員になってこの会社を訪ねなければ知りえなかった話に違いない。はじめて映像コンテンツをつくる広告主の担当者のように目を輝かせる。僕たちがコンプライアンスという不慣れな作業に戸惑うように彼らのなかにも今まで知らなかった世界がインプットされる。
広告の仕事をしてきてよかったと思うのはさまざまな業種、商品、サービスに出会えたことだ。あるときはお菓子をつくる人、またあるときは不動産を販売する人と案件ごとにその担当者の立ち位置に身を置いてみる。できるだけ相手の立場でものを見て、考える。これが楽しい。広告屋だから広告のことだけ考えていればいいという考え方もあるだろうが、へんに専門家ぶるのはどうかと思う。
太平洋戦争にいたるまで、幾多の工作があり、漏えいの許されない情報管理があった。現実に危機的状況にもさらされた。そして吉村昭の手によって掘り起こされた。
プライバシーマークの審査の際は審査員の方たちもたいへんだろうなとか、もっとちゃんとした会社のコンプライアンス担当の方はどんな気持ちでこの日を迎えるのだろうなどと想像してみる。もちろんたいしたことを思い描けるわけではない。

2018年5月29日火曜日

吉村昭『落日の宴』

立ち食いそばではあるのだが(差別する意識はまったく持っていない)、スマートフォンで写真を撮ってソーシャルメディアにアップなどすることがある。
するてえと、やはり立ち食いそば好きな何人かが「いいね」してくれる。では彼らはどんなそばを食べているのだろうとタイムラインを見にいく。そこで今まで知らなかったお店の情報を得ることができる。「#立ち食いそば」とか「#路麺」などというハッシュタグが付けられている。それらを手がかりにまた新しい店を見つける。世の中はすこぶる便利になっている。
昔ながらの立ち食いそばが好きなせいか、茹で麺で汁の濃いそばを食べることが多くなった。真っ黒い汁を路麺ファンは「暗黒汁」などと呼んでいる。末広町や神田須田町などに店を構える六文そば、秋葉原から少し歩いた台東区台東にある野むら、神田岩本町の味じまんなどが茹で麺+暗黒汁の店として知られている。そして彼らが愛好する種物はゲソ天だったりする。今までは立ち食いそばならかき揚げを注文しておけばいいだろうと安易に考えていたが、それは京都に行って寺社仏閣めぐりをしただけで鉄道博物館を訪ねなかったに等しい。
年明けだったか、大衆そばの本を読み、参考にしながら食べ歩いている。まだまだ行ってみたい店も多い上にSNSからおいしい情報が飛び込んでくる。しばらくは立ちそば放浪の旅を楽しもう。
川路聖謨を主人公にしたこの本は3年ほど前に読んだ。プチャーチンが長崎にやってきたとき交渉にあたった人物である。ロシア側の受けもよかったようであるが、さすがに3年も前に読んだ本だとつぶさに思い出すことができない。
吉村昭の著作は一時乱読したことがあり、これまでにも読みっ放しのものが何冊かある。思い出してはここに記しておこうと思うのだけれど、困ったことになかなか思い出せないでいる。
そういえば出久根達郎も川路聖謨の本を書いていた。これも題名を失念している。

2018年5月25日金曜日

安野光雅、藤原正彦『世にも美しい日本語入門』

ハコネノ ヤマハ テンカノケン
カンコクカンモ モノナラズ
小学5年生のときだったか、夏休みの林間学校で訪れた箱根。観光バスに同乗していたタノヨシマサ校長(字は思い出せないが、頭の禿げ上がった筋肉質の先生だったとうっすら記憶している)が「箱根八里」を歌いはじめた。
校長はこの古めかしい歌を歌ったあと、函谷関とは、萬丈の山、千仞の谷とは、羊腸の小径とは、と解説を加えていった。当時わからないこともあっただろうけれど見事に記憶に残っている。
そして皆で歌った。見たことはないけれど往時の武士(もののふ)が脳裏をかすめた。
日本人の教育ってこういうことなんだとこの本を読んで思う。
以前観た篠田正浩監督の「少年時代」では少年たちがガキ大将を先頭に軍歌を歌いながら登校する。歌(歌詞は、あるいは言葉はと言い換えてもいいかもしれない)は日本人に身近だったことがわかる。そして日本語も日本人としての考え方も矜持も植え付けられていく(もちろん軍歌がいいと言っているわけではない)。
『国家の品格』でおなじみの藤原正彦は作家新田次郎のご子息であり、母親は『流れる星は生きている』の藤原ていである。さらには小学校時代の図画工作の先生が安野光雅であったと知って驚いた。
近年、学校でも国語の授業がどんどん減らされているという。美しい日本語との接点が失われていく。戦後、「赤とんぼ」の三番の歌詞が歌われなくなった。民法上婚姻は16歳以上であること、ねえやが職業蔑視という理由からだという。「春の小川」も「さらさらながる」という歌詞が「さらさらいくよ」に「書き換え」が行われている。美しい文語文は路面電車のように忌み嫌われていたのだろうか。
それはともかく、この本で美しい日本語に触れるたびに、日本人に生まれてよかったと思う。どうせならもっとちゃんと勉強しておけばよかった。
あの頃の校長先生のように語り継ぐべき素晴らしい日本語を僕は身につけているだろうか。

2018年5月16日水曜日

新村出『広辞苑先生、語源をさぐる』

自分で書き間違えをするのに自分では気が付かない。だから誤記が多いわけだが、そのくせ人の間違いにはよく気が付く。狭量な人間なんだと思う。
広告の仕事をしている。広告主名や商品・サービス名は絶対に間違ってはいけない。本業である表現のことより、誰かが書いた誤記が気になることもある。キヤノンを平気でキャノンと書く人がいる。キューピーマヨネーズなどと書く人もいる。富士フイルムであり、フィルムではない。ナカグロが入るのか入らないのか気になる社名もある。そんなことは世の中的にはどうでもいいようなことなのだが、広告をつくる人としては気遣いが必要だろうと常日頃思っている。
キヤノンがキャノンにしなかったのはロゴをつくる際、「ャ」が小さいとバランスが悪かったからだ聞いたことがあるが、本当のところは知らない。
ロゴマークと英文表記をごっちゃにしている人も時折見かける。ソニーはSONYと表記してはいけない。Sonyである。ホンダもHondaだ。もちろんこれもまたどうでもいいことかもしれないが、少なくとも広告の仕事をしている人としてはできれば間違えたくないところだ。
かく言う自分ももう30年近く前、広告主であるとあるシャッターメーカーを〇〇シャッターとやってしまったことがある。正しくはシヤッターである。この「ヤ」もキヤノンと同様デザイン的な見地から決められたのだろうか。
新村出といえばおそらく日本人では知らない人はいないであろう広辞苑の著者である。
辞書をつくるというのはどういう仕事なのか。以前読んだ三浦しおんの『舟を編む』以上の想像ができない。
小学校の頃だったか、語源辞典なるものがあってたいそうおもしろいと聞いたことがある。そもそも、「そもそも」はおもしろいと思う。長年言葉の専門家であり続けた新村先生は小難しいことを避ける。さらりと語源に触れ、それにまつわる話を聞かせてくれる。
巨人とはこういう人のことを言うに違いない。

2018年5月13日日曜日

今尾恵介『路面電車』

大都市から路面電車が姿を消した最大の原因はモータリゼーションの進展にあるといわれている。
路面電車という時代遅れの交通システムが都市部の混雑、渋滞を惹き起こしていたというのだ。当時の日本人の考え方からすれば、経済効率と利便性が最優先。本格的に普及していったクルマは最も愛されるべき乗り物だった。
東京をはじめとする大都市では路面電車はこぞって廃止され、バスに代わり、さらに高速交通網として地下鉄道が建設される。クルマが最優先されたのはそこらで見かける歩道橋を見てもわかる。自動車の走行の邪魔にならないよう歩行者を安全に迂回させるルートだ。日本人は誰もが成長していたから、足の不自由な人や小さな子どもを連れたファミリーやお年寄りのことなど考えることもなかったのだろう。「時代の考え」はそうだった。
明治の頃、さかんに鉄道が敷設されていったが、鉄道が通ると農作物が育たないという「時代の考え」があった。鉄道駅から離れたところに市街地をもつ地方都市にはそんな考えが蔓延していたのではないか。
なんでもかんでも新しくすることが日本的なものの考え方ではある。路面電車は古いから新しくする、地下鉄にする。これは日本という国の伝統的美点なのかもしれないが、そうのうちなんとかなるだろうからつくってしまえという発想は戦費もないのにロシアと戦争をはじめた時代から連綿と続いている。
ヨーロッパを旅すると古い建物を多く見る。石造りであったり、レンガ造りであったりする。古い町の景観と同じように路面電車も大切に有効に乗り継がれている。都心部へのクルマを制限して、郊外電車とつなぐという発想が素晴らしい。穴を掘るでもなく、高架線をつくるわけでもないからたいしてお金もかからない。
夢や未来を語るのは自由だけれど、人々にとって必要な交通手段を人間的な視点からきちんと考えて結果を出している。それがLRTという昔からあって新しい乗り物だと思う。

2018年5月7日月曜日

今尾恵介『地図で読む昭和の日本』

実家に古い地図がある。
古いといっても江戸切絵図とか明治時代の古地図ではない。おそらく昭和50年頃の東京23区の区分地図である。昭和時代の地図も1964年のオリンピック大会以前の地図であれば、町名が昔のままだったり、都電が走っていたり、川が流れていたりして、現在と地図と見比べると一目瞭然のおもしろさがある。1970年以降、都電が廃止され、首都高速など現代のベースができあがってからさほど大きな差は見られなくなった。それでも目を凝らしてみると都内各地で再開発が進み、昔あったものがなくなっている。いや、今なくなってしまったものが地図に残っている。
手はじめに新橋あたりを見てみよう。ゆりかもめはまだ走っていない。汐留貨物駅があり、そこから築地市場へ引き込み線が伸びている。新大橋通りに踏切があったのをおぼえている。貨物駅はこのほか、飯田橋貨物駅や小名木貨物駅、隅田川駅があった。今では隅田川駅が半分だけ遺されている。それぞれオフィスビルや商業施設、高層住宅に姿を変えている。
新宿駅西口には京王プラザホテルを筆頭に高層ビルが建ち並ぼうとしている。品川駅の港南口(東口)は今よりずっと東側にあった。大崎駅の周辺は明電舎や日本精工の工場があった。
昔から変わらない町並みや景観もあるだろうが、40年もあればたいがいの町は変り果てる。歳を重ねるとついこないだのように思えるけれど、客観的に見れば町は変貌を遂げて当然なのかもしれない。
この本は地図という尺度をもとに定点観測した町の変わりようを追いかけている。
今あるものが昔からあったわけではなく、今あるからといって未来永劫あるわけでもない。40年前のジャイアンツファンがタイムスリップして今の世の中にやってきたとしても彼は後楽園スタジアムにたどり着けないのである。
おもしろい本だった。町の風景はまるで人生のように無常だ。
おもしろいと同時に、さびしさもおぼえた。

2018年4月28日土曜日

吉村昭『空白の戦記』


先月のJABAスポニチ大会から野球観戦をはじめている。
高校野球の大会もすでに観に行った。たまたまなんだが、母校の野球部も東京都春季大会の一次予選を勝ち上がった。2014年以来である。昔は32校しか出場できなかった大会だったが、その後64校、96校と増え、今では120校が出場できる。夏の選手権大会東東京と西東京を合わせて200校ほど参加することを考えると運がよければ出られる大会になっている。大学野球はまだ観ていない。
今年はいわゆる松坂世代が20年目を迎えている。現役選手では和田毅、杉内俊哉、藤川球児らがいる。進学したり、社会人を経由した選手もいるのでみんなが20年目というわけではないが。当の松坂大輔も中日ドラゴンズにテスト入団し、復活をめざしている。
昨年のドラフト会議では日本ハムに一位指名された清宮幸太郎を筆頭に広島の中村奨成、ロッテの安田尚憲など高校生が多く上位指名を受けた。もしかすると清宮世代と呼ばれることになるのだろうか。
甲子園で活躍した選手はプロばかりでなく、進学した者も多い。
東京六大学野球では大阪桐蔭の徳山壮磨、岩本久重のバッテリーが早稲田大、主将だった福井省吾が慶応大、履正社の竹田祐が明治大、若林将平が慶応大、秀岳館の川端健斗が立教大に進み、すでに活躍の場が与えられている選手も多い。4年後、彼ら清宮世代はどれほどドラフト会議を席巻するだろうか。
世の中は公文書の改ざんだの、首相案件だのセクハラだので大騒ぎをしているが、できることなら誰にも気づかれないまま歴史の彼方に葬り去ってほしい事案であったに違いない。むしろ改ざんなどしなければバレないですんだかも知れなかったんじゃないかとも思う。
何十年も経って見つかる重要文書もある。ちょっとどきどきする。歴史はあとで掘り起こしたほうが断然おもしろい。こうした史実を吉村昭が文学にするとそれはもうおもしろいものになる。

2018年4月27日金曜日

阿川弘之『お早く御乗車ねがいます』

駅のみどりの窓口以外で紙の時刻表を手に取ることもなくなった。
スマホやタブレット端末ですぐに検索できてしまうから、分厚い時刻表をめくる手間は要らなくなったのだ。東京駅何時何分発名古屋駅何時何分着、乗り換えに何分かかって目的地到着何時何分とあっという間に必要な情報が手に入る。手に入るというか手のひらの上に表示される。もちろんそれで事足りるわけだから何も文句はない。ただ事足りたとしても物足りない。
時刻表を見てみよう。ご丁寧にもどこの駅を通過するかまでちゃんと記されている。隣の駅に行くのでない限り、列車は必ずどこかの駅を経由する。飛行機とは違う。通過する駅があるということは乗車時間中に空間を移動するということで時刻表は列車の移動をちゃんと記している。列車の進行を追いかけていくと、東海道新幹線なら新丹那トンネルを抜けて三島駅を通過したぞ、そろそろ富士山が見えてくるぞと気持ちが高まってくる。スマホの検索結果にはそういったわくわく感がない。これは紙の時刻表の持つ最大の特徴といえる。具体的な車窓の景色が描かれているわけでもないのに列車移動の時空間が記されていることによって移動の醍醐味を味わうことができるのである。
それは東海道新幹線に乗って富士山を見たことがある人の言い分でしょうと言われるかもしれない。はじめて旅する景色だっていい、見たことのない風景でもいい。時刻表には車窓から眺められる移動感が記されていることに変わりはない。
先だって読んだ『鉄道エッセイコレクション』(ちくま文庫)で阿川弘之という作家が鉄道マニアであったことを知る。時代としては昭和30年前後、獅子文六が『七時間半』で描いた電車特急時代の少し前にあたるだろうか。
阿川弘之の作品はまったく読んでいない。『山本五十六』、『米内光政』など戦記物が多いようだ。せっかく鉄道が取り持ってくれたご縁なのでこんど読んでみることにする。

2018年4月26日木曜日

芦原伸編『鉄道エッセイコレクション』

毎年のことだが、四月はいそがしい。
四月だけがいそがしくて後はずっと暇かというとそういうわけでもない。どうして四月がいそがしいのかと冷静に考えてみると、実はさほどいそがしくもないのだなと思うこともある。「しがつ」という音の響きやら、吹きわたる風が寒かったり暑かったりするせいでいそがしく感じられるだけかもしれない。
高校野球で春の都大会がはじまったり(今年はわが母校も予選を突破した)、東京六大学野球や東都大学野球の春季リーグがはじまるせいかもしれない。会社に新入社員が入ってくるように新チームに一年生が加入して戦力が刷新される。そういうことがそわそわ感を助長するのだろう。
春といえば靖国神社で奉納大相撲が開催される。三月場所を休場した白鵬や稀勢の里は出場するのだろうかなどとどうでもいいことを考えてまたそわそわする。
そわそわしたついでにどこか遠くまで出かけてみようかとも思う。電車に乗りたいと思うのもやはりこの季節のなせるわざか。仕事はたまっているが、一日くらいさぼって横浜の先まで京浜急行にゆられてみよう…。そんなろくでもない思いを断ち切るためには心静かに鉄道関連の書籍に目を落とすしかないのである。
先月ちくま文庫から刊行されたこの本はまさにかゆいところに手が届く本である。僕の高校時代の親友が筑摩書房にいるのでここではもちろん「ヨイショ」しながら書いている。
立松和平が、川本三郎が東海道本線や中央本線を各駅停車で旅をする。これ以上贅沢な旅があるだろうか。駅弁の旅もいい。百閒先生の阿呆列車の旅や宮脇俊三の名エッセイは以前読んでいたけれど、見事な再会を果たすことができた。
そして筋金入りの鉄道マニア阿川弘之。この人の作品はあらためてちゃんと読まなければなるまい。次に読むリストに入れておく(『お早く御乗車ねがいます』)。
列車旅はいいなあ。野球も相撲もいいけれど、春はやっぱり小旅行の季節だ。

2018年4月24日火曜日

佐藤良介『なぜ京急は愛されるのか』

京浜急行の本線は品川を起点として品川区大田区を縦断し、川崎、横浜そして湘南へと続く。
品川駅と都営地下鉄と連絡する泉岳寺駅は港区になるが、東京都民で京浜急行と接点があるのは上記二区だけである。品川区で生まれ育った僕とて実は京浜急行は身近な路線ではなかった。品川区も大田区も東急文化圏と京急文化圏にわけられているからだ。小学校中学校と最寄駅が東急だった関係で遠足などの校外活動はどうしても東急のテリトリーになる。当時海沿いにあった品川火力発電所や鈴ヶ森刑場跡など社会科見学で出向く際は貸切バスだ。電車を乗り継ぐことはない。そういうわけではじめて京急に乗ったのはかなり大きくなってからような気がしているが、はっきりとした記憶はない。
高校の頃、部活で足を捻挫した友人を送って平和島駅で下車した記憶が残っている。彼は本来大森駅を、僕は大井町駅を利用していた。どうして京急だったのか。もしかすると国鉄がずいぶん長いことストライキをしたことがあり、だとすると昭和50年の11月かも知れない(いわゆるスト権スト)。
いくら何でも品川区に住んでいて高校生になるまで京急に乗ったことなかったなんてありえないとも思うのだが、他に思い出せないのだから仕方がない。このときをMy first KQとしておこう(俺って相当オクテだったんだな)。
電車に乗ったり近所を走る貨物列車をながめたりするの好きだったわりには京浜急行の電車のフォルムや赤とクリームの色合いが好きになれなかった。今にして思うと乗る機会に恵まれなかったことによるやっかみなのではないかとも思う。
横浜に行くなら京急だ。東海道でも、東急でもなく、ましてや湘南新宿ラインでもない。北品川駅を過ぎ、高架になるのはちょっとどうなんだと思うけれど、右側に座って海側を見ようか、左側から台地をながめようかわくわくしている自分がいる。
いつの頃からかすっかり京急ファンになっていた。

2018年3月28日水曜日

大岡昇平『雲の肖像』

前回お話したアニメーションのつづき。
ひとりで撮影編集をしたけれど、さすがに音楽や効果音、ナレーションは自分ではできない。昔なじみの音効さん(音楽、効果音を専門とするスタッフ)に相談し、楽曲とSE(サウンドエフェクト)をつけてもらう。ナレーターも以前からよく知っている青年にお願いした。
広告会社のクリエーティブディレクターと前もって話をして、運動会っぽい曲がいいよねということになっていた。運動会らしい音楽と聞いて、ヘルマン・ネッケの「クシコスポスト」やルロイ・アンダーソンの「トランペット吹きの休日」を想起するのは中年以上の方と言っていい。いまどきの運動会ではそんな古典的楽曲は流れない。でもまあ、世の中の記号としてこういう曲があるのは助かる。手品でいうところの「オリーブの首飾り」、サーカスなら「美しき天然」である。
映像制作のフローで最終工程は音楽やナレーションなど、音のミックスである。レベルの高低、レイアウトなどを検討する作業である。ベストな結果が出るまで何度も何度も繰り返し聴いてはチェックする。この動画のためにつくってもらった「クシコスポスト」を何十回となく聴いたわけだ。
試写の結果、無事に広告主のOKが出て、長い長い制作作業は終了した。
ちょうどその頃読んでいたこの本は大岡昇平らしい緊迫感はあまり感じられず、獅子文六のドラマを少しシリアスにしたかな、くらいの印象が残っている。
翌日、仕事を休んで横浜の保土ヶ谷球場に野球を観に行った。
秋季関東高校野球大会の準決勝。この大会でここまで勝ち進んできたチームは春のセンバツ出場は当確といえる。試合は千葉の中央学院対神奈川の東海大相模。久しぶりに観る野球である。高校野球らしく応援席にはブラスバンドが陣どっている。
初回東海大相模のチャンス。三番バッター森下が打席に向かう。ブラスバンドが彼のための応援曲に切り換える。
「クシコスポスト」だった。

2018年3月26日月曜日

アーネスト・ヘミングウェイ『老人と海』

9月末から10月にかけてアニメーションの仕事をしていた。
1センチにも満たない小さなチョコレートが集まって、何らかのカタチになる。実際には最初につくったカタチを少しずつ崩していく。逆再生すればいい。
理屈は簡単だが、実際は難しい。ひとつひとつのチョコレート(ジグソーパズルみたいなカタチ)をピンセットや爪楊枝で少しずつ動かしていく。2~3ミリほど動かしたり回転させてはシャッターを切る。大きく動かさないほうがいい。小さく少しずつ動かすことで動きがスムースになる。さじ加減が難しい。
溶けにくい製法のチョコレートなのだが、ほおっておくとピンセットにくっついたりして微妙な動きを阻害する。気持ちが焦る。無理をして舞台にしているアクリル板を動かしてしまう。カメラを固定した三脚を蹴飛ばしてしまう。すべてがやり直しだ。
アニメーションというのは何かを動かすことだと思っていたが、むしろカメラや背景など動かしてはいけないものをどうやって動かさないかが大切だと知る。
1,000枚を超える写真を撮り、よさそうなものを選んで編集ソフトに貼り付けていく。実際に使用した写真は300枚くらいか。その都度再生し、動きをチェックする。
パズル型のチョコレートは水色、ピンク、黄色、チョコレート色の4色。そのうち水色とピンクの発色がよくないという。なんとかならないかと相談される。フォトショップというソフトで水色とピンクだけ切り抜いて、色を濃くすればいい。300枚という量だけが問題だ。
一枚一枚の写真に対峙してみると撮影時にはわからなかった小さなゴミだとか、数ミリの動きで生まれるパースの変化に気付く。カメラとレンズによって映し出された写真に奥行きがあることを今さらのように知る。
編集を終えて音をつけた。ナレーションと音楽と効果音。アニメーションがさらに楽しく仕上がった。
『老人と海』を読む。本のことはいずれ書くことにする。

2018年3月25日日曜日

レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』

目黒寄生虫館に隣接するギャラリーに黒沼真由美の個展「Arthropoda」を観に行く。
黒沼真由美はレース編みでサナダ虫を編んだり、競馬をモチーフにした油彩やドローイングなど個性的な作品を創作し、すでに何度か個展を開催している。サナダ虫をレースで編もうというインスピレーションは通いつめた目黒寄生虫館で得たという。
プラ板に精緻なダニなどの絵を描き、オーブントースターで焼いたものが今回の主作品である。甲を表面に描き、脚を裏面に描く。表と裏をシームレスに描きわけることで高低差が表現され、立体感が生まれる。会場には虫眼鏡が用意されていて、拡大して見るようになっている。顕微鏡世界の新しい表現を模索したという。
東京藝術大油絵科卒業、修士課程を修了した黒沼は、テレビコマーシャルの制作会社で企画の仕事にたずさわった。当時から突拍子もないアイデアをいくつも生み出した。ただ奇抜すぎた企画案が多かったせいか、世の中でこれといった代表作は残っていない。
あるとき、小豆、それも大納言小豆をぜいたくに使ったアイスバーのコマーシャルの企画を依頼された。彼女は小豆三納言というアイデアを考えた。大納言、中納言、少納言と三人の小豆キャラクターを描き、そのなかでアイスバーになることができるのは大納言だけ、その大納言を羨む中納言や少納言が「まろもまろも、アイスバーになりとうございます~」と地団駄踏むという抜群におもしろい企画だった。
アニメーションをつくる予算がなかったのかあるいは他の理由でカタチにはならなかったけれど、今でも鮮明に記憶にのこっている。
レイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』『さよなら、愛しい人』に続き三冊目になる。この本は初期の作品だという。そう言われてみれば若さというか青臭さを感じる。
フリップ・マーロウの活躍を読みながら、「まろもまろも」という黒沼真由美のCM企画を思い出した。

2018年3月20日火曜日

大岡昇平『事件』

町の蕎麦屋で食べる蕎麦と立ち食いそばが同じである必要なまったくないと思っている。
むしろ違った方がいい。行列のできるラーメン屋のラーメンとそっくり同じラーメンを提供する立ち食いラーメン屋があっても流行るのは行列できるラーメン屋だろう。おいしいラーメン屋の味を再現したインスタントラーメンもコンビニエンスストアなどで見かけるが、絶対同じものではないと信じて疑わない。インスタントラーメンはあくまでもインスタントラーメンであり、どうあがきもがいても「生麺のような食感」でしかない。
立ち食いそばも同様で立ち食いそばとしておいしかったらそれでいいのであって、老舗の高級蕎麦屋みたいにうまくなくてかまわないのだ。もりそば一枚に1,000円近い額を払うのと同じ蕎麦を安く手軽に食べようと思うこと自体虫がよすぎる。注文と同時に生麺を茹で、天ぷらを揚げはじめる。その手間はありがたいことだけれどもだからといって過剰な期待は持っていない。立ち食いそばとしておいしかったらそれで満足である。
その点、茹で麺を使用する昔ながらの立ち食いそば屋には長年培われた工夫が見られる。そばづくりを製麺所にアウトソーシングしたぶん、つゆや天ぷらに力を注いでいる。コシだの香りだので若干劣る茹で麺スタイルは町蕎麦屋や老舗蕎麦屋との圧倒的な違いをむしろ武器にして戦っている。やわらかい麺と合っただしやかえし、揚げものなどの豊富な具材、そして薬味の唐辛子などすべて合わさって得も言われぬうまい一杯にができる。その完成度が高ければ高いほど立ち食いそばは他の蕎麦屋の蕎麦とは異なるジャンルの食べものになる。
話が蕎麦だけにちょっとのびてしまった。
裁判をあつかった大岡昇平の作品としては『ながい旅』(小泉尭史監督「明日への遺言」の原作)を読んだことがある。克明に審理の経過が描かれていた。そんなこともあってこの本はぜひ読んでみたいと思っていた一冊だった。

2018年3月16日金曜日

中川右介『阿久悠と松本隆』

音楽というのは苦手のジャンルであまりくわしいことはわからない。それでも人並みに流行歌と接してきた。
ラジオをよく聴いていたのは中学生から大学生くらいの時期、1970年代のはじめから80年代のはじめくらいだろうか。音楽は知らず知らずのうちに耳から入り込んで血肉となる栄養みたいなものだった。
広告の仕事をするようになって、歌をつくる人を意識するようになる。どんな表現にもつくり手がいるということをつくり手のはしくれになって気が付いた。音楽のことはわからないが言葉なら少しわかる。昔聴いた流行歌はすぐれた歌詞に支えられていた。
作詞家で好きだったのは、北山修、なかにし礼、阿久悠、松本隆。そして最近になって感服しているのが中島みゆきだ。僕にとっての五大作詞家のうち阿久悠と松本隆が題名になっている。さっそく読んでみる。
この本は(著者本人も言っているように)作家論ではない。阿久悠は阿久悠の時代を生きた作詞家であり、松本隆は松本隆のキャリアの中で創作を続ける。時代の渇きを癒す歌を書き続けた阿久悠と決して時代に寄り添うことのなかった松本隆。比較したところであまり意味はない。
著者は歴史年表を紐解くように70年代半ばから80年初頭のヒットチャートを追いかける。どんな曲が売れたか流行ったか、淡々と史実が並べられる。70年代を突っ走てきた阿久悠は、写しだす時代そのものが見えにくくなった80年代以降、その詞に味わいを増していく。歌を売ることをやめ、遺すようになっていく。
あとがきを読むと著者は坂崎幸之助『J-POPスクール』の編集にたずさわっていたという(僕にとってニューミュージックの教科書だ)。歴史年表の中にときどきふたりのエピソードが資料文献から効果的に引かれる。とりわけ大瀧詠一のアルバム《A LONG VACATION》の話は知らなかっただけによかった。
〈君は天然色〉をもう涙なしには聴くことができなくなった。

2018年3月15日木曜日

佐藤尚之『ファンベース』


20年近く前からMacintoshのコンピュータを使っていた。
1990年頃はまだコンピュータ関連の出版物がさほど多くなかったし、Macという製品の特性として使い方を習得しなければいけない機械ではなかったので情報源としてはパソコン通信の掲示板がメインだったように思う。バイブルと呼ばれるムックもあった。いずれにしろMacintoshの普及に一躍買ったのはAppleコンピュータの人ではなく、ユーザだったという印象が強い。
ファンが企業や商品・ブランド、サービスを支える時代だという。
何年か前に読んだロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』にそんなことが書かれていた。5年ほど前にアメリカで注目されはじめたマーケティング手法らしいが、それ以前から変化を続ける消費者に対応すべくコミュニケーションデザインという新しいクリエイティブ手法を模索していた著者が満を持してまとめた一冊がこの本だ。アンバサダー・マーケティングが日本にも浸透し、豊富な事例が見られるようになったといこうことか。
顧客の中でファンと呼ばれるおよそ20%が全売り上げの80%を支えているという。そのなかにはさらにコアファンと呼ばれる熱狂的な支持者がいる。従来型の「瞬間風速的」キャンペーンもコミュニケーションとして必要ではあるものの、今ある売り上げを支え、さらには今後の製品開発に欠かせない真摯な意見を表明するファンをだいじにする施策も欠かすことができない。
なぜか。
人口が減少していく。商品やサービスの機能的な差異がなくなっていく。情報過多の傾向はますます加速する。結果、新規顧客を獲得することが困難になる。このあたりの表現も毎年ひとつずつ100万人都市がなくなるとか、世界中の砂浜の砂粒の数くらい情報があふれるだとか、読者を惹きつける表現も巧みだ(さすがクリエイティブ)。
筑摩書房のファンとして(笑)人にすすめたくなる本である。

2018年2月19日月曜日

内田百閒『大貧帳』

なべさんを思い出した。
なべさんは美術デザイナーだった。映画やコマーシャルなどを撮影する際のセットをデザインする仕事である。先輩デザイナーの助手だったけれど低予算の仕事のときは主にキッチンまわりのデザインをひとりですることもあった。
彼のいいところは美術まわりだけでなく、制作の担当する仕事、商品をきれいに並べるとか、後片付けとかも手伝ってくれるところだ。よく働くなべさんは上の人にも下の人にも好かれた。
住んでいるところが僕の実家に近かった。休みの日に駅で待ち合わせて酒を飲みに行くこともあった。スタジオで撮影がはやく終わるとどこかで一杯やって帰りましょうよと声をかけてくれた。まあ、そこまではいいんだが、たいていの場合、なべさんはお金を持っていない。飲んで騒いで、さあ帰ろうとなると今手持ちがない、今度返すから貸してくれという。それでいて(家が近かったせいもあるが)タクシーで帰りましょうよなどという。割り勘の飲み代も払えないのにである。
あるときなべさんにいくらかお金を貸しているという話を当時の同僚に話したところ、俺はもっと貸しているという。先輩はもっと貸していた。総額にするとたいした金額になる。そのとき皆で話したのは貸した金が返ってくるかどうかではなく、なべさんはどうしてそんなにお金を持っていないのかということである。昔何週間かロケ撮影で家を空けているあいだに奥さんが生まれたばかりの子どもを連れてどこかへ行ってしまったことをそのときはじめて知った。きっと養育費だとか慰謝料で首が回らないのかも、なんて話をした。そこらへんはなべさんの人柄だろうと思う。
そうこうするうち、なべさんの上司がやってきて皆にお詫びしてお金を返してくれた。なべさんはよその制作会社の人たちからも借金していて、ついに発覚したのだという。
お金を借りたことはほとんどないが、借りるというのもたいへんなんだろうと思う。

2018年2月17日土曜日

内田百閒『ノラや』

犬を飼うようになって八年ほどになる。
飼っているといっても世話をしているのは家内で、自分で何かするわけではない。家内が家をあけるときに餌をあげたり、糞尿の始末をするくらいだが、いつ頃からか忘れたが休日に散歩に連れていくようになった。申し遅れたが、写真のように二匹いる。義妹の飼っている犬が子どもを産み、雄の二匹をいただいた。兄弟ということになるか。
それまで犬を飼ったことはいちどもなく、どういう生き物かまったく見当がつかなかったが、散歩に行くかと訊くと尻尾を振って(よろこんでいるらしい)玄関の方へ駆けていく。人間のことばがわかるのかと思ったがそうでもなく、最近では椅子から立ち上がってそろそろ散歩に連れて行ってやろうかと思っただけで尻尾を振って駆けていく。どうやらことばがわかるわけではないようである。もしかすると人の心が読めるのかもしれない。そう思うと迂闊なことは考えにくいので緊張を強いられる。
家内が言うにはいつも餌をやる時間になるとそろそろではないかと催促するようなしぐさをするという。娘を叱っているときなどはそっとハウスに戻って隠れるようにしている。
当然のことながら猫を飼ったことはないし、飼おうと思ったこともない。飼い主に話を聞くと猫もかしこいらしい。犬よりも断然かしこくてかわいいみたいなことを言うがそれは猫好きな人だからだろう。
百閒先生はどうやら犬は嫌いだったようだ。巻末平山三郎の解説に吉田茂との対談の様子が描かれているが、その中で犬はほえたり噛みついたり人間を敵視するという。犬好きには犬好きの、猫好きには猫好きのそれぞれの理屈があるのだろうから、ここでそんな議論はしない。
この本は猫が好きな人にはたまらないくらいかなしいお話だけれど、別に猫をかわいがる人じゃなくてもかなしい気持ちになる。自分が飼っている犬がある日どこかへ行ってしまったらと思うと泣けて泣けて仕方ない。

2018年2月14日水曜日

四方田犬彦編著『1968[1]文化』

1968年は今から50年前ということになる。
人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年であり、誰ひとりとして月に降り立つ者もいなかった時代だ。ずいぶん昔のことのようにも思えるが、ついこのあいだという気もする。
今と同じように日本は平和だったが、よく考えてみると太平洋戦争の終結から20年ちょっとしか経っていない。フィリピンのジャングルには日本兵が生きていたし、まだまだ戦争の熱が冷めきっていない時代だった(それなのに冷戦の時代と言われていた)。
アメリカの若者はベトナム戦争に送り出されていた。ピーター・ポール&マリーは花をさがしていた(ヒットしたのはその数年前だけれど)。日本の若者たちは学生運動に勤しんでいた。あらゆる大学で闘争をくりかえしていた。阪神タイガースのジーン・バッキー投手と読売ジャイアンツのコーチ荒川博が甲子園球場で殴り合いを演じていた。
時代は熱かった。
60年代は否定の時代、70年代以降は肯定(否定性の否定)の時代と言われている。68年はありとあらゆる場所で反対運動が繰り広げられていた。安保闘争終結後、体制や既成概念を覆そうとするエネルギーに支えられた熱い季節が終わる。若者たちは岡林信康を歌わなくなり、結婚しようとか貧しい下宿屋からお風呂屋さんに行ったよねみたいな歌が流行りはじめる。さらに数年経って、村上春樹がデビューする。そう考えると60年代と70年代は20世紀と21世紀以上に世界が変わる。
1968〜72年。めまぐるしい変化の時代に数多くの才能があらわれては消えていった。あるいはその季節だからこそ開いた花もあったろう。忘れ去られていくものを書物というカタチで記憶にとどめる作業。それがこの本のテーマだ。
その頃、僕は小学校の高学年から中学生になりかけていた。うっすらとした記憶だけが残っている。大人になってふりかえってみるとものすごい時代に小学生をやっていたんだなと思う。

2018年2月13日火曜日

半藤一利『昭和と日本人 失敗の本質』

仕事場が平河町にあったころ、紀尾井町あたりで半藤一利さんを何度か見かけたことがある。
このブログでは面倒くさいので敬称を略しているのだが、なんどかお見かけしているのでどうも略しにくい。半藤さんと呼ぶことにする。
お昼に紀尾井町の交差点にあるつけ麺屋か蕎麦屋に行く道すがらであったと思う。仕事場を移ってしばらくつけ麺を食べていない。
もちろん通りすがりに見かけただけであり、相手は芸能人でもプロ野球選手でもないから、まわりががやがやすることもない。たまたま僕がテレビや雑誌で氏のお顔を拝見したことがあるからわかるまでで、挨拶するわけでもなく、ましてやサインを求めることもない。
長いこと週刊文春や月刊文藝春秋の編集長だったという。その関係もあって、紀尾井町あたりに出没するのだろう。文藝春秋といえば松井清人さんも編集長だった。松井さんは実家の近所の大きな家具屋のご長男で、地元のお祭りなどでときどきいらしている。もし麹町あたりでばったり会ったなら「松井さんには母がいつもたいへんお世話になっていて…」くらいの挨拶はしなければならないだろう。鈴木某という高校の同期生も文藝春秋の編集長だったらしいが、ずっと接点がなかったので以前名前を聞いたけれど忘れた。
半藤さんが歴史、とりわけ昭和史に造詣が深いことは知っている。数多くの著書を上梓されている。残念ながらこれまで読む機会に恵まれなかった(唯一読んだのは大相撲の本だった)。ネット書店でこの本を見かけ、紀尾井町を歩いていた氏を思い出して読んでみることにした。さまざまなパーツを買い集め、削ったり、接着したり、色をつけたりして昭和のジオラマをつくっている人のように思えた。あの人の中にはこんなにたくさんの史実が詰まっているのだなと思うともういちど麹町界隈でお目にかかりたいものである。
そのときにちゃんとお声がけできるようもっと昭和史を勉強しておきたいと思う。

2018年1月30日火曜日

城山三郎『大義の末』

昔話が多い。60年近く生きてくれば、おのずとそうなるだろう。
次女に昔の話をする。終戦後日本は、みたいな話だ。娘は言う。「パパから見れば終戦は近かったかもしれないけれど、私から見ればもう何十年も昔のことだし、明治維新も戦争もみんないっしょに見える」と。正確にどう言ったかはおぼえていないが、だいたいそんなようなことを言った。
たしかにそうだ。自分が生まれる50年以上も前のできごと(しかも二十歳を過ぎて聞かされるわけだから今からだと70年以上前の話になる)となれば、それは教科書に出てくる歴史だ。伊藤博文が暗殺されたとか、夏目漱石の『三四郎』がベストセラーになって、などという話を聞かされたらやはり自分とは無縁な昔の話だと思うだろう。そう考えると娘の言いたいこともわからないでもない。
太平洋戦争、大東亜戦争、第二次世界大戦などさまざまな呼ばれ方をしている「先の大戦」が終わって今年で73年になる。戦争の話は主に終戦時国民学校の5年生だった母から召集令状、警戒警報、空襲警報、防空壕、防空頭巾、灯火管制、特攻隊、配給、そんなことばをくりかえし聞いて育った。歳のはなれた母の弟は大きくなったら兵隊さんになると言っていた。当時の人びとは皆「お国ために」生き、そして死んでいった。
子どもだった母親の話だけでは戦争の実情はわからない。本を読んだり、映画を観たりすることで補完していく。今の人はたいていそうだろう。そして直接体験者ではないけれど(間接体験者とでもいうのだろうか)、語り継いでいかなければならない。強く意識したことはないが、そうあるべきだと思う。
ほおっておくとたいせつななにかがどんどん遠ざかっていく。ついこのあいだまで目の前にあったものがいつしかなくなってしまう。この本の主人公も同じような思いを持ち続けていたのではないだろうか。
手段はどうあれ、70年を超える時間の彼方に思いをめぐらせる。だいじなことだと思う。

2018年1月27日土曜日

フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

昨年ようやくリドリー・スコット監督の「ブレードランナー」を観た。
映画の公開は1982年。2019年のロスアンジェルスが舞台となっている。
原作を読んでみる。
フィリップ・K・ディックははじめて読む。1968年の小説である。50年前、人類がはじめて100メートルを9秒台で走った年だ。月に降り立ったものも誰ひとりとしていなかった。日本は明治100年で、グループサウンズが流行っていた。
昔はカート・ヴォネガットをよく読んでいたが、SFと呼ばれるジャンルはあまり読まない。
映画ではクルマが空を飛んでいたが、コンピュータのモニタはブラウン管だった。液晶ディスプレイはまだ想像を超えていたのかもしれない。小説の中で‘映話’と訳語をあてられているのはおそらくテレビ電話のことだろう。これは2019年を間近にひかえた現代でほぼ実用化されている(ただしブラウン管ではない)。ネクサスもアンドロイドも人間の姿はしていないけれど商品化されている。火星はまだまだ生活圏にはほど遠い。
未来を描く小説も映画もやがて検証される。そのあたりが難しい。SFの正しい定義はくわしく知らないが、根も葉もない空想世界ではSFとはいえないのではないか。あくまで科学的でなければならないのではないか。そう思うとたいへんな仕事だ。
「ブレードランナー」で思い出したのは、なぜか日暮里である。山手線の日暮里駅から北はいくつかの路線が分岐する。常磐線が東に大きくカーブしていく。その上を京成本線がゆるやかに、同じく東にカーブして越えていく。尾久橋通りの上を走る日暮里・舎人ライナーが常磐線と京成本線を越えていく。西日暮里を過ぎると山手線と東北本線が分かれていく。見えはしないが、地下には東京メトロ千代田線が走っている。幾重にも重なった立体交差が未来都市を想起させる(勝手にそう思っている)。
話がとっちらかってしまった。慣れないジャンルの本を読んだせいかもしれない。

2018年1月24日水曜日

坂崎仁紀『ちょっとそばでも 大衆そば・立ち食いそばの系譜』

紙を仕入れて、印刷し、包装紙などに加工して販売していた父の仕事をときどき手伝うようになったのは小学生の高学年か、中学生の頃だったか。
紙を卸したり、印刷したりするのは台東区の入谷や竜泉あたり。広くいえば浅草界隈ということになる。生麺を茹でる立ち食いそば屋にはじめて行ったのはおそらくそのあたりではないかと思う(残念ながら正確に思い出すことができない)。このあいだ鶯谷や入谷を歩いて、あのとき食べた立ち食いそば屋をさがしたが、まるで見当がつかない。
立ち食いそばのそばは製麺所でつくられた茹麺を湯がいて出す店と生麺を店内で茹でる店がある(冷凍麺の店もある)が、近ごろでは店内で茹でる生麺の店が増えている。小ロットで茹でては茹でたてを提供する。普通の町のそば屋で食べるようなそばを手軽に味わえる。コシがあってうまい。
近年、チェーンで展開する立ち食いそば屋も多い。どこに行っても安定した味を楽しめるようになっている。それとは別に独立系の店も根強い人気に支えられている。立ち食いそば的には現代は素晴らしい時代であると思う。
茹でたての生麺が一般的になってきている一方で、若い頃よく食べた茹麺タイプが妙になつかしく感じられるようになった。なつかしさばかりではない。茹麺には茹麺のよさがある。たとえば生麺では太いそばにはなかなか出会えない。太ければ太いほど茹で時間がかかるので立ち食いそばというビジネスモデルにはそぐわない。コシの強さという点では生麺にはかなわないが、かき揚げなど揚げものとの相性は少しやわらかい茹麺のほうがいいような気もしている。
というわけでここのところ、時間を見つけては立ち食いそばを食べに出かける。この本は格好のガイドブックである。秋葉原や新橋には古くから続いている店が多い。もちろん入谷、竜泉、千束あたりにも人気店が多いという。
そのうち父と行ったそば屋にも再会できるのではないかと思っている。

2018年1月23日火曜日

内田百間『御馳走帖』

先月人に頼まれてイラストレーションを描いた。
小さい頃から絵を描くのは好きだったが、きちんと勉強したわけでもない。当時読んでいた連載漫画を写していただけだ。美術を専門とする大学があることは知っていたが、特別な人が進む場所だと思って見向きもしなかった。広告の仕事をするようになって絵を描くようになる。はじめのうちはうまくもないくせにうまく描こうとして下手な絵ばかり描いてきた。あるときふと気がついて、もともとうまくなんか描けっこないんだから、思い切り下手に描こうと思った。その努力の甲斐あって、今ではすっかり絵が下手くそになった。
それでも絵を描いてくれませんかなどと頼まれる。僕が長年たずさわってきた業界では絵の描ける人と描けない人がいて、圧倒的に後者が多い。絵の描ける人のうち大半が上手に描ける。絵が描けて下手な人はそれほど多くない。きっとそんなわけで需要があるのではないかとおぼろげに思っている。
イラストレーションを担当した仕事はブリックライブというレゴブロック遊び放題のイベント告知のためのものだ。昨年に続いて今年も各地で開催される。メインビジュアルを新しくしてさらなる集客をはかろうということらしい。そんなことを言われてもたくさんのお客さんを集めるような絵なんか描けるわけがない。とはいえ人に頼まれたりするのはきらいじゃないからほいほい、ちょいちょいと描いてみた。
阿呆列車以来、百間先生のファンになった。
なれなれしく先生などと呼んでいるが、できることなら先生のように列車に乗って、小鳥を飼うかは別としても、好きなものを食べて、お酒を飲んで暮らしたいと思っている。そのためならお昼はもりそば一枚でいいとも思っている。現実的にはもりそばだけではちょっとさびしいのでかき揚げをのせるとか、玉子とじにするとか、カレー南蛮にするとか自分なりに工夫したい。
小泉堯史監督の「まあだだよ」をもう一度観たくなった。

2018年1月5日金曜日

獅子文六『ちんちん電車』

あけましておめでとうございます。

正月、テレビ番組を視ながらテツandトモは鉄板だと思う。
おもしろくはないが、つまらくもない。場を賑わせてくれるし、お年寄りも子どもも楽しめる。「なんでだろう〜」という歌は耳に馴染み、共感を呼ぶ。小難しい漫才や品のないコントではないストレートな娯楽がある。「笑点」の大喜利と似た温度を感じる。ある種の健全さを感じる。NHK的なお笑いだ。
獅子文六の鉄道ものでは『七時間半』が知られているが、都電をモチーフにしたエッセーもあった。電車そのものというよりはその沿線にまつわる思い出話が主役だ。1966年に出版されている。都電撤去が本格的にはじまったのが1967年。去りゆく都電への愛惜がこめられている。
獅子文六は慶應義塾幼稚舎の時代、横浜に帰省するにあたり、札の辻から品川駅前まで1系統(品川駅前と上野駅前を結ぶ)によく乗っていたという。時代は明治。東京市電になる以前の東京電車鉄道の時代か。
少年期から慣れ親しんだ路線に乗り、高輪、芝、新橋、銀座、日本橋、神田と北上していく。なつかしい店や風景が綴られる。当時随一といっていい盛り場だった浅草の思い出も克明に語られる。『自由学校』執筆の際、東京じゅうを取材してまわったらしいが、このエッセイでは品川〜上野、浅草にフォーカスされている。逆に言えば、ブレがない。
都電が廃止されて40数年(荒川線が現存するが)、都電の思い出を語る人も少なくなってきた。戦争も震災もそうだが、路面電車も語り継がれていかなきゃいけないと思う。
話は戻るけれど、テツandトモは正月番組にはうってつけの存在になっている。
これは傘の上で升や鞠をまわさない海老一染之助染太郎だ。そう思っていたら、最近ではテツ(染太郎役に相当する)がスタンドマイクやらなにやらを顎の上に乗せる。おそるべしテツandトモ。こちらの思いが見透かされてしまったみたいだ。
なんでだろう。

2017年12月30日土曜日

今年の3冊 2017

クリスマスコンサートを聴きに吉祥寺の明星学園に出かける。
中学生のアンサンブルや、アマチュアオーケストラ、ムジカプロムナードの演奏を楽しむ。ピアニストとしてゲスト出演した三好タケルは長女の高校時代の同級生で、なんどかライブに行ったり、焼鳥屋で飲んだりしている。
今回の演目はガーシュインの「Rhapsody in Blue」、実はここ2〜3週間仕事中になんども聴いていた曲だった。まるでリクエストして、それに応えてくれたかのような選曲だった。
今年読んだ本の中で印象の強かった3冊をピックアップしようという試みは久しぶりである。今年は簡単であるといえば簡単だが、難しいといえば難しい。

森田誠吾『魚河岸ものがたり』
四方田犬彦『月島物語』
出久根達郎『佃島ふたり書房』

上記3冊で決まりだ。
でもあまりにも偏りすぎちゃいはしまいか。築地、月島、佃。この一年の読書が隅田川の河口にひとまとめにされてしまうのもいかがなものか。他に読んだ本を見てみよう。

今年読みはじめた作家としては城山三郎。広田弘毅の生き方はそのまま作者の生き方に投影されているようだった。平松洋子も今年から。軽妙なエッセイがなんともいえない。昨年から引き続き読んでいる獅子文六。娯楽映画を観ているようなテンポ感がすばらしい。
常連組としては山本周五郎、吉村昭。今年も心に沁みる名作に出会えた。久しぶりに読んだのが関川夏央。昭和を見つめるまなざしがたまらなく共感を呼ぶ。
忘れた頃に読む海外の小説。今年はモーム、ディケンズ、フィッツジェラルドと数は少なかったが内容的には充実していた(と勝手に決めている)。

とはいうものの今年は「築地、月島、佃」の一年だったかな。とりわけ佃、月島は個人的に結びつきの強い土地だけに読書を通じて受ける印象が強すぎる。
来年はどんな本に出会え、どのような一年になるのか。
今年もご愛顧ありがとうございました。
来年もよろしくお願い申し上げます。

2017年12月25日月曜日

平松洋子『あじフライを有楽町で』

佃にお昼を食べに行く。
築地市場橋(仕事場がその近くにある)から佃まで歩けば30分近くかかる。散歩するには楽しい距離だが、平日昼食を摂りに行くにはちょっとぜいたくな距離だ。
ふたつのルートがある。
佃大橋を渡るか、勝鬨橋経由で西仲通りを歩くか。
佃大橋はかつてぽんぽん蒸気のたどった航路に沿って架けられている。東京に出てきて新佃に住んでいた若き日の母の記憶をたどりながら歩くコースだ。いっぽうの勝鬨橋は少年時代に月島のおじちゃん、おばちゃんの家に遊びに行くときバスで通ったルート。いずれも吹く風がなつかしい。
12月の暖かい日、勝鬨ルートで佃に向かった。
佃で何か特別なものを食べるわけではない。ごく普通の町の蕎麦屋に入って、もりそばと小ぶりな丼もののセットを注文する。店の名は相馬屋という。おそらくは古くからこの地にある蕎麦屋だ。客観的に評価すればとびきりうまい蕎麦屋というわけでもなかろう。うまい蕎麦はうまい蕎麦屋に行けば食べることができるが、佃に根づいた蕎麦屋の味は佃までたどり着かなければありつけない。
その日はあさり丼ともりそばのセットを食べる。
ラフな服装の男性がふたり。なにかしらの丼ともりそばを慣れた手つきで食べている。近所で働く若者の遅い昼休みか。そのうち老夫婦らしき男女が来店する。今日は何にしようかなとお品書きを開く。
佃のお昼の風景が見たくて築地から歩いてきた。佃の人になって、佃の人が食べるお昼をいっしょに食べたくて。
平松洋子の『○〇は(を)○○で』シリーズを読むのは、『ひさしぶりの海苔』も含めると4冊目になる。
毎度毎度おいしいお店や食材、食べ方を指南してくれる。そそられる記録である。世代もほぼ同じなのでなつかしい景色にも出会える。
強いて言えば文章がうますぎる。シズル感があり過ぎる。読んだ時点で食べた気になってしまう。残念といえば残念だが、うらやましいといえばうらやましい。

2017年12月22日金曜日

柘植光彦『村上春樹の秘密 ゼロからわかる作品と人生』

築地に仕事場が移転して一年が過ぎた。
それまでの千代田区平河町はいわゆる山の手で、大名屋敷が多くあった。坂道も多かった。青山に出るには赤坂見附の深い谷を越える必要がある。九段に行くには永井坂を下って南法眼坂を上り、行人坂を下って、東郷坂を上る(他にもルートはあるが、どのみち上り下りをくり返す)。麹町や番町の、そんな起伏が案外きらいではなかった。
築地には坂道がない。
坂道というのは人生や青春のメタファーとしてよく登場する。坂がないということは町としての深みに欠けるきらいがある。歩いていても表情を感じない。のっぺりしている。傘がないなら歌にもなるが、坂がないのは味気ない。
その代わりといってはなんだが、築地には川がある。かつて大川と呼ばれただけあって大きな川である。橋が架かっている。大きな橋の上から川面ながめると滔々と水をたたえている。少しだけ豊かな気持ちになる(その昔、銀座や築地がたくさんの川にかこまれていた時代を思うともっと気持ちが昂ってくる)。
坂道がないぶん、下町に住む人たちは川の流れに人生や青春の思いを込めたのかもしれない。そういった意味からすると世界は平等にできている。
村上春樹の小説が初期のものを中心に電子書籍化されている。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』の初期三部作を電子ブックリーダーで読む。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』も読みたいがまだ電子化されていないようだ。
村上春樹の解説本や研究本にはあまり興味がない。誰かが書いた村上春樹より、村上春樹が書いた文章の方が圧倒的におもしろいからだ。
でもこの本はちょっとよかった。村上春樹の人生は上京して早稲田大学入学とともにはじまったように思えるけど、ちゃんと両親がいて、小学生時代があったこともわかったから(Wikipediaには書かれているそうだが)。
たまにはこういう本も読んでみるものだ。

2017年12月21日木曜日

出久根達郎 『逢わばや見ばや完結編』

高円寺というと庶民的な町という印象が強い。
東京の中央線沿線は吉祥寺など住んでみたい町の上位にランクされる駅が多い。その中では意外と思われる町だ。今売れている芸能人らが売れない時代に高円寺に住んでいたというエピソードがテレビ番組で紹介される。商店街に古い店が並んでいる。精肉店の店頭から揚げたてのコロッケの匂いがする。商店主とタレントが気軽に声を掛け合わせる。駅前はそんな商店街を保護するかのように高い建物が少ない。
よしだたくろうが作詩作曲した「高円寺」という歌がある。地方から出てきた若者たちにも住みやすい土地柄だったのかもしれない。
どのようなわけで中央線沿線に高円寺のような町が生まれ育っていったのか。くわしいことはわからない。沿線には軍人が多く住んでいたという。高級将校は荻窪に居を構え、下級軍人の多くは高円寺に住んでいたという話を聞いたことがある。関東大震災後、西東京の郊外へ移住する人が増えた。山の手の住人は荻窪や阿佐ヶ谷に移り、下町の人びとは高円寺に移り住んだともいわれている(らしい)。貧しい人たちがどこからともなく集まって、おたがいに助け合いながら、貧しいながらも美しい風土と気質を築き上げたのかもしれない。
月島の古書店に長く奉公した出久根達郎は1973年に独立し、高円寺に古書店を開く。高円寺という町に月島や佃島と同じ匂いを嗅ぎとったのだろうか。それはレバーカツやもんじゃ焼きにふりかけるソースの匂いだったのかもしれない。そして文筆家の道を徐々に歩みはじめていく。
高円寺に移り住んで開業したのは正しい選択だったように思う。月島時代に培われた出久根達郎の生活感覚や洞察力、養われた体質みたいな目に見えないなにがしかの力が変質されることなく、彼の精神的な資産として引き継がれたであろうから。
高円寺という町をよく知らないけれど、だとすれば高円寺というのはいい町なような気がする。

2017年12月18日月曜日

出久根達郎『二十歳のあとさき』

月島のおじちゃんの家には風呂がなかった。もちろんその頃月島で内風呂のある家なんてアフリカのサバンナでペンギンを飼う家より少なかったと思う。
おじちゃんと銭湯に行ったことがある。
この本の前編である『逢わばや見ばや』で月島の銭湯では当たり前のように見知らぬどうしが背中を流し合っていたと出久根達郎は書いている。もちろんそんなことは知らない。
誰におそわったわけでもなく、おじちゃんの背中を洗ってあげた。
その日は泊まることになっていた。風呂から戻って、夕飯。おじちゃんは一杯やりながら、「よしゆきはちっちゃっけえのに気が利くんだ。俺は背中を流してもらったんだ」と何度もおばちゃんにくりかえしていた。
おじちゃんとおばちゃんには子どもがなかった。昭和20年代の終わり頃、母はふたりを頼って東京に出てきた。おじちゃんの家はその頃新佃にあり、母はその家からぽんぽん蒸気で隅田川を渡り、明石町の洋裁学校に通った。おそらくふたりとも自分の娘のように接してくれたにちがいない。その息子である僕をかわいがってくれたのも然もありなんという気がする。
夕食後、西仲通りを歩いた。
ほろ酔い加減のおじちゃんは「よしゆき、欲しいものがあったら言ってみろ、好きなものを買ってやる」という。さっきおばちゃんに本を買ってもらったばかりだし、欲しいものはなかった。でもそう言うとおじちゃんがかなしそうな顔をすると思ったので、思い切ってキャッチャーミットが欲しいと言ってみた。
スポーツ用品店が当時の西仲商店街にあった。
ぴかぴかのミットを手にとり、右手でこぶしをつくってパンパンとたたいてみる。革のにおいがする。不思議と自分の左手になじむ気がする。
「でもやっぱり要らない、まだ下手くそだから」
いくらなんでもそんな高価なものを買ってもらうことに臆したのだろう。
そしておじちゃんのほっとしたような、さびしいような顔を見上げた。
昭和40年代の月島。
二十歳を過ぎた出久根達郎がいた。

2017年12月10日日曜日

出久根達郎『逢わばや見ばや』

佃大橋から勝鬨橋を撮影していた。
西方に聖路加タワーが見える。その向こうに夕日が落ちていく。東京タワーのシルエット。その背後の空が(運がよければ)赤く染まる。
2秒に1回シャッターを切るようにカメラを設定した。やがて勝鬨橋は薄暮から夕闇のなかで照明が灯された。
「いい写真撮れました?」
カメラと三脚を片付けていたら、通りがかりの女性に声をかけられた。70歳は越えていると思われるが、背筋が伸びてシャキシャキしている。
月島に親戚がいてよく遊びに来たこと、何度も勝鬨橋を都電やバスで渡ったことなどをつい話してしまう。彼女は生まれてからずっと月島だという。どんどんタワーが建っちゃってねと町の変貌を嘆く。西仲にまた新しくタワーが建設されるという。
「電気屋さんのところですね」
「そうそう、つきしまテレビのあの一角。よく知ってるわね」
仕事場が築地に移転して、ときどき佃や月島を歩く。ずいぶん西仲通り商店街も変わってしまった。変化はまだ終わらない。
明治時代に埋め立てられた月島はそれほど歴史のある町ではない。工場の町、河岸勤めの人の町、もんじゃ焼きの町、そして都心に至近なタワーマンションの町とその変化が凝縮されている。
昭和30年代。
僕が生まれた頃は中学校を卒業して働く若者たちが多かった。「キューポラのある街」のジュンも夜学に通いたいと言っていた時代。
著者は昭和34年に茨城から上京。月島の古本屋の丁稚となる。両国から都電で月島にやってくる。房総や水郷方面の玄関口は両国駅だった。
誰もが高校や大学に進学する時代ではなかった。学校だけが勉強する場ではなかった。
大半は経済的な理由だっただろう。時代が貧しかったのだといえばそれまでだが、人が学んだり、かえって人が育っていくための選択肢は豊かな時代だったといえるかも知れない。
この物語は出久根達郎が世の中という学び舎で額に汗して成長していった学生時代といっていい。

2017年12月8日金曜日

岡崎武志『ここが私の東京』

見知らぬ町が好きであてもなく歩く。
東京23区内で知らない町も少なくなった、というのはちょっと大げさでまだまだ未踏の地が圧倒的だ。
クリエーティブディレクターのKさんとは年に一二度カメラをぶら下げていっしょに歩く。浅草、浦安、千住、根岸、四谷の谷底…これまで方々踏査した。
僕は生まれてこの方東京を離れたことがない。芝に生まれて神田で育ったというような江戸っ子ではもちろんない。旧東京15区の外側(山手線の外側の郡だった地域)の出だから東京の地方人だ。
ふりかえると都内の方々に父方母方を問わず親戚が住んでいた。落合、金町、駒込西方町、赤坂丹後町、高輪二本榎、月島…。そうした地名の記憶がどこか深いところに潜んでいる。そのせいかもしれない、見知らぬ町を歩いていてもどことなく既視感をおぼえる。
Kさんは兵庫県西宮市の出身である。大学進学時に上京。以来勤めも東京である。幼少期の東京体験がない。このことは思いのほか僕にとって新鮮だ。
Kさんが青春時代に出会った東京はどんな風景だったのだろうか。興味深い。東京にずっといたことがなんだか損をしたような気になってくる。
著者の本は以前読んだことがある。『昭和三十年代の匂い』(ちくま文庫)だ。どうやらこのブログでは紹介していないようだ。2014年の4月に読み終えている。読書メーターに記録が残されている(便利な世の中になったものだ)。
地方(八王子も含めて)から上京してきた作家、詩人、漫画家そしてミュージシャンらと東京との接点がテーマである。月島、石神井、赤羽、杉並などなど。興味深い町が次から次へと登場する。残念ながらここで登場する著作は、司修の『赤羽モンマルトル』くらいしか読んでいない。とりあえず出久根達郎の自伝的小説でも読んでみようか。
著者自身も大阪からやってきた上京者だった。意外な気がした。東京をよく歩かなければ、書けない本だと思ったからだ。

2017年12月5日火曜日

本田創、高山英男、吉村生、三土たつお『はじめての暗渠散歩:水のない水辺をあるく』

区境に興味があった。
たとえば東京メトロ千代田線の根津駅で下車する。不忍池に注ぐ藍染川が暗渠となっている。台東区と文京区の区境だ。さらに北へ、日暮里方面に向かう。文京区は荒川区と接する。谷中のあたりでは荒川区と台東区の区境がある。田端の方に歩いていくと文京区は北区とも接する。近隣には谷中銀座なる商店街があるが、かつて藍染川が流れていた暗渠の道は区境銀座だ。
豊島区と板橋区を分けるのは谷端川。これも暗渠になっている。東京23区を区切る川や水路がいかに多かったか、歩いてみるとわかる。そもそもが東京は川だらけの町だった。
銀座などはその典型的な町だ。人工的な川が多かったとはいえ、四方を川に囲まれていた。橋のつく地名が多い。銀座と有楽町、新橋、築地、京橋はいずれも川で隔てられた町である。
今、仕事場は築地にある。采女橋あたりで南東方面に枝分かれする築地川(今では首都高速道路)の支流沿いだ。目の前が川だったと思うとちょっとわくわくしてくる。築地川の支流は交差点にだけその名をとどめる市場橋を越え、築地市場の中を流れる(いや、もう流れてなんかいない)。
築地川はもう少し上流、新富町の三吉橋のところでも支流に分かれる。こちらの支流は築地本願寺の裏手を流れ、晴海通り沿いにわずかに痕跡を遺す門跡橋、小田原橋をくぐって、築地市場で先の支流と合流する。そしてアーチ型の海幸橋(残念ながらもう撤去されている)の先で東京湾に注ぐ(だから注いじゃいないって)。
築地市場にお昼を食べに出かけたついでこの辺りを歩く。まるでそこに川が流れているかのように想像しながら。
実に楽しい。
水のなくなった水辺に惹かれる人が多いというが(本当か?)、僕はどちらかというと行政区分への興味から暗渠に関心を持つようになった。
かつて川が流れていた流路の写真を撮り、Facebookのアルバムに整理した。
「川はどこに行った」というタイトルを付けた。



2017年11月29日水曜日

吉村昭『海の史劇』

イングレスでついにレベル16に到達した。
このゲームをはじめたのが2015年1月だったから、2年と10ヶ月を費やしたことになる。実をいうと11月20日あたりからポイント2倍キャンペーンがはじまったのだ(どこかのスーパーマーケットみたいだけど)。イングレスというゲームはAPと呼ばれる経験値とさまざまなミッションをクリアすることで得られるメダルによってレベルアップする。目標とするレベル16まで逆算すると年内いっぱいかかるだろうと思っていた。そんな矢先の2倍キャンペーンだったのだ。
具体的にいうとレベル16までに必要なAPは40,000,000。レベル15だと24,000,000。次のレベルまであとひとつなのにもかかわらず、実際にはレベル15までが60%、あと半分弱のAPが必要なのである。実際のところレベル1から15まで1年7ヶ月弱、15から16まで1年3ヶ月かかっている。
キャンペーン期間は10日ほどだとSNSなどでアナウンスされていた。というわけで朝晩仕事の行き帰り、お昼どきにちょっと集中して取り組んでいたらあれよあれよと予定よりもひと月はやく達成することができた。
おかげですっかり読書量が減った。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読み終えたとき、友人から吉村昭のこの本もぜひ読んでみるといいとすすめられた。それから一年半、ようやく読み終えることができた。
司馬遼太郎のようなエンターテインメント性はない。史実に基づいた小説と思われる。主役はロジェストヴェンスキー率いるロシア第二太平洋艦隊だ。
そして吉村昭は(この作品に限ったことではないが)最後まで書く。戦闘終了後、つづきは『ポーツマスの旗で』で!なんてことはしない(もちろん講話交渉の襞までは描かれていない)。主要登場人物の消息まで追う。これがまたすばらしい。
ずいぶん時間をかけて読んだ。椅子の裏に牡蠣がこびり付いていなければいいが。

2017年11月22日水曜日

吉村昭『赤い人』

ふらりと立ち寄った秋葉原。
中学生の頃はトランジスタやら、抵抗、コンデンサー、コイルなど電子部品を買いに行ったものだ。JRのガード下や総武線ガード沿いのラジオデパートではまだ取り扱っている店もある。アニメーションの自主制作として電子部品を活用できないかと思って何軒か回ってみる。すでに製造中止となった東芝のトランジスタ2SC1815が20本入で200円で売られていた。
電子部品の店に組立キットがあった。デジタル時計や電光掲示板、それにモーターで動く車やロボットアームなど。聞いてみるとそれらは小さなコンピュータで制御できるという。コンピュータは名刺ほどのサイズである。オープンソースのOSをインストールすれば普通にパソコンとして使えるという。面白半分に買ってみた。
ネットで調べてみると数年前から流行っているRaspberry Pi(ラズベリーパイ)というシングルボードコンピュータとわかる。電源ソケット、USBソケット×4、LANポート、HDMIソケットにマイクロSDカードのスロットが付いている。
さっそくWindowsのノートPCでダウンロードしたOSをあり合わせのSDカードにコピーして、システムをインストールする。モニタとマウス、キーボードをつないで電源を入れる。あれよあれよと起ち上がる。ブラウザを開くとネットにつながっている。日本語入力のソフトをインストールする。これでブラウザからSNSもメールもできるようになった。
仕事場のデスクトップPCが古い機種のせいか起動に時間がかかっていたので代替機としては助かる。
不思議なめぐり合わせだった。
吉村昭『赤い人』を読む。
北海道に送られ、開拓に従事した囚人たちの話だ。北海道の町も、道も、広大な農地も彼ら開拓に従事した者たちが命がけでつくりあげてきた。
子どもたちが小さいころ、北海道を旅行した。こんな歴史の上にこの大地はあるのだと語り聞かせてやるべきだった。

2017年11月17日金曜日

寺山修司『ポケットに名言を』

明治神宮野球大会が終わった。
秋は社会人、大学、高校の全国大会が行われ、野球の一年を締めくくる。とりわけ高校野球の全国大会は春と夏に甲子園球場で開催されるため、明治神宮大会は東京で行われる唯一の全国大会だ。
今年は一回戦の日本航空石川(北信越)対日大三(東京)、準決勝の創成館(九州)対大阪桐蔭(近畿)、明徳義塾(四国)対静岡(東海)の三試合を観る。出場10チームのうちただひとつの公立校である静岡を応援していたが、優勝した明徳義塾に惜敗。春センバツに期待したい。
大学の部が4年生にとって最後の大会であるのに対し、高校の部は夏の選手権大会後に始動した新チーム最初の全国大会。各地区を勝ち抜いてきた精鋭とは言うものの、まだまだ完成度は低く、荒削りなプレーも多い。試合経験を積みかさねていくことで課題や強化すべき弱点を見出していくのだろう。今はまだそんな段階だ。
その点大学生の野球は完成度が高い。高校生の試合を観たあとだと子どもと大人ほど違う印象を受ける。投手は慎重に球種を選ぶ。丁寧にコントロールされたボールがコーナーを突く。ピンチのときも動ずることなく目の前の打者に集中して打ちとる。優勝した日体大の試合を観てそう感じた。
大学野球というと東京六大学、東都大学にいい選手が集まって高いレベルを維持していそうに思われるが、春の大学野球選手権も含めトーナメント方式の全国大会を見ると思いのほかそんなこともなく、地方の名の知れていない大学やマスコミにあまり取りあげられないリーグにも好投手、好打者がいる。野球の裾野は広く、奥は深い。
寺山修司はアウトロー、アングラの印象が強い。根強い人気があるのも彼がそうした雰囲気を持っているからかもしれない。表現する人としての寺山修司を支えていたのは広くて深い読書体験だったのではないか。そう思い知らされる一冊だ。
それはともかく慶應や東洋が決勝に残らないと大学野球は少し寂しい。