2017年12月10日日曜日

出久根達郎『逢わばや見ばや』

佃大橋から勝鬨橋を撮影していた。
西方に聖路加タワーが見える。その向こうに夕日が落ちていく。東京タワーのシルエット。その背後の空が(運がよければ)赤く染まる。
2秒に1回シャッターを切るようにカメラを設定した。やがて勝鬨橋は薄暮から夕闇のなかで照明が灯された。
「いい写真撮れました?」
カメラと三脚を片付けていたら、通りがかりの女性に声をかけられた。70歳は越えていると思われるが、背筋が伸びてシャキシャキしている。
月島に親戚がいてよく遊びに来たこと、何度も勝鬨橋を都電やバスで渡ったことなどをつい話してしまう。彼女は生まれてからずっと月島だという。どんどんタワーが建っちゃってねと町の変貌を嘆く。西仲にまた新しくタワーが建設されるという。
「電気屋さんのところですね」
「そうそう、つきしまテレビのあの一角。よく知ってるわね」
仕事場が築地に移転して、ときどき佃や月島を歩く。ずいぶん西仲通り商店街も変わってしまった。変化はまだ終わらない。
明治時代に埋め立てられた月島はそれほど歴史のある町ではない。工場の町、河岸勤めの人の町、もんじゃ焼きの町、そして都心に至近なタワーマンションの町とその変化が凝縮されている。
昭和30年代。
僕が生まれた頃は中学校を卒業して働く若者たちが多かった。「キューポラのある街」のジュンも夜学に通いたいと言っていた時代。
著者は昭和34年に茨城から上京。月島の古本屋の丁稚となる。両国から都電で月島にやってくる。房総や水郷方面の玄関口は両国駅だった。
誰もが高校や大学に進学する時代ではなかった。学校だけが勉強する場ではなかった。
大半は経済的な理由だっただろう。時代が貧しかったのだといえばそれまでだが、人が学んだり、かえって人が育っていくための選択肢は豊かな時代だったといえるかも知れない。
この物語は出久根達郎が世の中という学び舎で額に汗して成長していった学生時代といっていい。

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