2008年6月30日月曜日

山田祐介『レンタル・チルドレン』

仕事場のプライバシーマークの現地審査があって、改善点が送り返されてきた。プライバシーマークの認証を更新するには社内に個人情報保護の意識を恒常的に植えつけていかなければならず、日々やっかいなエビデンス(記録)をこまめに残させなければならない。
ぼくの仕事場は25人ほどの小さい事務所なのだが、協力的な人もいれば、まったく無関心な人もいる。いちばんやっかいなのは関心がありそうでいて、協力的な態度を装って、実はまったく協力的でないという輩だ。大概の場合、そういう人たちは個人情報保護のためのマネジメントシステムなんぞほとんど理解していない。そしてその手の人間には本を読まない者が多い。成毛真が本を読まない人はサルだといっていたが、サルだって字さえ読めれば本は読むだろう。より正しく表現するならば、「サル未満」というべきではないか。

また山田祐介を読んでしまった。
ちょっと難しい本を読んでいたので息抜きしたかったのだ。これも簡単な本だから、多少のはちゃめちゃさ加減には目を瞑って、とりあえずひまだから怖がりたいなあと思ったときに読むといいだろう。

2008年6月28日土曜日

ミシェル・アルベール『資本主義対資本主義』

中学生の頃は建築家になりたいと思っていた。
高校生になって、いくつかの教科でその方面に進学することが甚だ困難であるとわかって、文科系に転進した。勇気ある撤退だ。
そこで考えた。
文科系といっても何学部に行けばいいのか。そもそも工学部建築学科、みたいな具体的過ぎる目標イメージがあった割には、文科系学部に関してはほとんど無知で、いろいろまわりに訊いてみると法学部、経済学部、商学部、文学部などがあるらしい。今も大して進歩していないが、当時、世の中のことって複雑で面倒に思えたので、法律とか経済って難しいのだなと敬遠した。結局小学生の頃、よく先生に作文を褒められていたことを思い出し、文学部をめざすことにした。

そんなこんなでいまだに経済とかビジネスに関する本はほとんど読まない。この『資本主義対資本主義』は、たまたま先日読んだ成毛真の『本は10冊同時に読め!』の中でもっとも感化された本の一冊として紹介されていたので興味をそそられたのだ。
今は市場経済が世界の大きな潮流になっているが、そのきっかけとして著者はレーガン、サッチャー政権の税制改革をとりあげている。とはいえ、ヨーロッパにはヨーロッパの資本主義があり、アメリカを中心としたアングロサクソン型(さらにはネオアメリカ型)経済とヨーロッパを中心としたアルペン型(さらにはライン型)経済とに資本主義を細分化し、冷戦時代には模糊としていた資本主義の系譜を明快にして論をすすめるあたりは面白い。
著者はフランス人だが、大きくドイツ対アメリカという図式を用いながら、フランス資本主義のアイデンティティを問い直すというのが本旨なのだろう。思うに、本書の資本主義のベースにあるのは工業化社会である。工業主体の産業構造のみ着目したならば、日本もドイツも国土や資源の問題を考えると国家的プロジェクトで工業化社会が生後復興の第一義であったろう。フランスをはじめとしたラテンの国々やさらには中南米、アフリカは必ずしも資本主義=工業社会ではない。農業や水産業も含めて資本主義を問い直すとき、さらなる軸が見出せるような気もする。

翻訳はおそらく原文忠実になされているのだろう。機会があれば原書と見比べたいところもあった。翻訳というより同時通訳に近いのでワールドニュースの原稿を淡々と読むような気分で読んだ。
よく翻訳もので気になるのは、縦書きなのに「上に書いたように」とそのまま訳されていたり、原書が執筆された時点が明快でないまま「○○年前」みたいな記述をそのまま訳出していることだ。大学院の授業ならそれでよいだろうが、出版物とするなら配慮が必要だ。


2008年6月23日月曜日

松岡正剛『知の編集術』

本書の中で懐かしい名前を見た。
湯野正憲。
高校時代の体育の先生で日本でも有数の剣道の大家だと聞かされていた。いちど担当の、やはり剣道部の顧問をしていたM先生が休んだとき、ピンチヒッターで授業をしてくれたことがある。当時にしてすでにかなりのご年配で、当然のことながらいきなりみんなで走りまわったり、ボールを蹴りだしたりなどという授業ではなく、先生のお話をありがたく頂戴するという、ちょっと風変わりな体育の授業だった。
湯野先生は若い頃からスポーツ万能であらゆる競技に取り組んでいたのだが、あるとき剣道の師匠からそろそろ剣道一本にしぼって、その道を極めるべきだと叱責され、以後剣道一筋に生きたという。また、海に行っても、決して遮二無二泳いだりなどせず、仰向けになって波にたゆたっているだけなんだそうだ。そうして無の境地になると自ら呼吸をしなくとも、自然と空気が体内に入り、自然と体外に出てゆく。「鳴らぬ先の鐘」ではないが、先生はこうして心を静め、鍛錬を積み重ねてきたのだろう。かれこれ30年前の記憶なのであまり頼りにはならないが、そんなようなことを話してくれた。

松岡正剛は編集工学研究所を主宰している知の巨人である。氏の「千夜千冊」はぼくにとってはバイブル的存在で一冊の本から、自分の知や読書や経験を結びつけていく闊達な語り口はあこがれの的であった。ぼくが読んだ本に失礼のないように謝意を記録する試みをはじめたのも氏のサイトの影響が大きい(まあそれこそ雲泥の差というのはまさにこのことを言うのであろうが)。
著者の論旨が明快で動的に感じるのは、おそらく個々の編集技法やさまざまな方法に適切なネーミングを施しているからなのだと思った。新書だからと軽く読んでしまった。もう一度きちんと読み直す必要があると思う。
こんな知の世界がすうっと身体の中に入ってきたら、痛快だろうな。



2008年6月21日土曜日

山田祐介『あそこの席』

南仏カンヌでは国際広告祭が行われている。
昨日、フィルム部門のショートリストがホームページにアップされていた。いよいよ今日は最終日。グランプリが決する。
いま時分の南仏は気候がいい。日が長く、夜9時近くまで晴れて、気温は高いのだが、湿度が低くて、カラッとしている。それにひきかえ、日本の今日のような天気はなんとも重苦しい。

電車の中で読む本がなかったので、次女に買ってあげた文庫本を借りて読んだ。若い世代には受けている作家なのだろうか。
まあとにかく話の進展がはやい。ホラーにしては、次々にネタが明かされていくので、多少物足りないところはあるにせよ、手っ取りばやく結末にいたる。楽勝な本だ。強いてあげれば、ラストが大方の予想通りだったかな。

2008年6月19日木曜日

浅田次郎『霞町物語』

港区には古い地名が残っていたというのはなんとなく記憶にある。子どもの頃よく行った赤坂の伯父の家は丹後町という名前だったし、その後引越した六本木三河台公園のあたりは今井町だったと思う。今でも古いタクシーの運転手は龍土町とか高樹町などとよく使う。銀座も尾張町だの木挽町だの粋な町名があったそうだ。なかなか風情がある。
ぼくの中で浅田ワールドは2種類あって、ひとつはおとぎばなし系で『鉄道員』とか『地下鉄に乗って』のようなちょっとしたファンタジー。もうひとつは正攻法もの。飛び道具を使わずに書き綴った小説群だ。といってもさほど数多くの作品を読んだわけではないから偉そうには言えないが。
『霞町物語』は正攻法の自伝的連作短編集といったところか。舞台は麻布十番、霞町、六本木、赤坂、青山ときわめて都会的で洗練されている場所だが、これらは今風にとらえると都会的なだけであって、登場人物はいわゆる港区土着の原住民であり、物語はきわめてローカルな話だ。会話の描写などにその辺はあらわれている。
かつて都会の真ん中のあらゆるところに潜んでいたこうした田舎ものたちにぼくは心底あこがれちゃうんだな。

2008年6月18日水曜日

宇田賢吉『電車の運転』

昨今、鉄道が趣味としてクローズアップされているが、昔から親しんできた者にとってはさほど驚くべきことでもない。少なからず男の子であれば、巨大な装置産業である鉄道に一度や二度は憧憬を抱いたことはあるはずで、要はその傾注の仕方の質と量の問題なような気もする。
ぼくは趣味としての鉄道を「模型派」、「写真派」、「時刻表派」に区分している。しかし最近は運転シミュレーションゲームがヒットしたり、タモリ倶楽部や熱中人などテレビ番組の影響もあり、装置として鉄道にも注目が集まっている。
タイトルはそのものずばり、『電車の運転』。朴訥な題名だ。今時分の新書にしてはすさまじく質素だ。しかし「なぜ運転士は電車を動かし止めるのか」とか「誰でもわかる電車入門」みたいな興味本位な題名でないことが、この本の内容を如実に示している。
著者は国鉄時代から40年余にわたって運転士を務めてきた。その経験と教育から得た電車運転の実践を生真面目に語っている。発車から加速、力行、惰行、停止など運転の実際。そして動力(モーター)のしくみ、電力の供給方法から、ノッチ、ブレーキのしくみ、操作方法、さらに分岐器、信号機にいたるまで、運転士に必要な知識はほぼもれなく網羅されているのではないだろうか。

  規則とは、利用者にプラスをもたらすためにある。われわれも営業
  関係の規則はお客様のために柔軟に運用することがベストだと教
  育されてきた。それに対して、運転に関する規則は不便に思えて
  も四角四面に運用することが最終的に無事故につながると叩き込
  まれている。

のだそうだ。筆者が寡黙に日々の業務に取り組み、丹念に日誌を残し、メモをとっていたのだろうと思わせる。
読んでいて気になったのは、専門用語が順序だてて整理されていないことだ。突然難解な用語が出てきて、その解説が後まわしになっている箇所がいくつも見られた。まあこれは著者の問題ではなく、編集者の怠慢だろう。残念なことである。


2008年6月16日月曜日

辰巳法律研究所・柴原健次編『個人情報保護士試験公式過去問題集』

昨日、個人情報保護士の認定試験のために駒場の東京大学に行く。井の頭線で駒場東大前下車すぐ。この駅には降り立つのは実に久しぶりのことだ。
中学生の頃、近所に住む一学年先輩のIさんがこの界隈の私立中学に通っていることもあって、五月祭に誘われていったのがはじめて。二度目はたしか練習試合か公式戦かバレーボールの試合でやはりこの駅に近い国立の高校に行ったことがある。駅の北側、つまり教養学部側に降りたのは中学生のとき以来ということだ。
で、試験はどうしたかって?まあ野暮なことはきかねえで、一杯やんなよ。

ぼくの仕事場では一昨年にプライバシーマークを取得し、今年更新の手続をしたこともあって、JIS Q15001とか経産省のガイドラインはひととおり目を通してはいたのだが、この個人情報保護士の認定試験には法そのものの知識や今までとんと知らなかった情報セキュリティやリスクマネジメント、事業継続などの規格やガイドラインの知識も要求されるので勉強になったといえばなったし、やっかいだといえばやっかいだった。いずれにしても全日本情報学習振興会の個人情報保護士認定試験の準備としては、先に紹介した『個人情報保護士試験公式テキスト』とこの問題集を何回か往復すればこと足りる。
はずだ。

天気がいいので渋谷まで歩こうかとも思ったが、しばらく読んでいない本もあるのでふたたび井の頭線に乗った。



浅田次郎『地下鉄に乗って』

伯父が赤坂に住んでいたので、よく地下鉄に乗って遊びに行った。新橋から赤坂見附まで当時は2駅だったが、灯りが消える瞬間、毎度のように驚き、きしむレールの音に毎度のように閉口したのを憶えている。
当時木造建築のような赤坂見附駅に着くと、向かい側のホームにはよく絵本で見かける丸の内線がほぼ同時に滑り込んできてうまい具合に連絡していた。子どもながらに黄色い電車と赤い電車は仲がいいと思った。
そういった意味では御茶ノ水駅の快速電車と総武線直通の各駅停車はどことなく快速の方が高圧的であまり仲がよさそうではなかった。御茶ノ水駅から見える丸の内線がいい人に思えたものだ。

物語はその赤坂見附からはじまる。
『地下鉄(メトロ)に乗って』
こないだテレビで映画をやっていた。
タイムスリップものはちょっとずるい気がする。ましてや原作が浅田次郎なんて反則技に等しい。
この本は浅田次郎の比較的初期の作品でそのせいかいまひとつ洗練し切れていない印象があるが、それでもじゅうぶんすぎる浅田ワールドだ。


2008年6月13日金曜日

リチャード・フロリダ『クリエイティブ・クラスの世紀』

昨日の夜、うちの玄関にヒキガエルがいた。
壁をよじ登ろうとしていた。インターホンでも押そうとしていたのだろうか。
ちょっと声をかけてみたら、どうやらうちの前、バス通りをはさんだ向かいの小学校がこんど統合されるということで解体工事がはじまり、今まで居ついていた敷地内の池に居づらくなったそうだ。それでもってどこかいい棲みかはないか探しているという。うちの玄関でも庭でも居てくれてかまわないが、池があるわけでなし、夏場は玄関のある北側も日が当たるから、どこか近くの神社か公園でも訪ねたらどうかと言ってやった。やれやれまったく住みにくくなったなこの辺りも、とぐじぐじ文句を言いながらヒキガエルは闇のなかに消えていった。
怖がり屋の長女は梨木香歩とか好きで読んでいるわりには、この手の生きものが好きではない。ヒキガエルが玄関にいたと言ったら、明日外に出られない、学校にいけない、と騒いでいた。

ぼくは広告の仕事をしているので「クリエイティブ」とタイトルにある本はつい手にしてしまうのだが、この本は広告コミュニケーションの本ではなく、現代アメリカ社会がかかえるさまざまな問題を指摘し、世界に冠たる超大国アメリカの地位を保持し、さらなる経済発展を遂げるためのヒントを提供するれっきとした学術書だった。クリエイティブとは広い意味で知識労働者ということらしい。
いわゆる9.11のテロ以来、アメリカは経済的発展を促すテクノロジー(技術)、タレント(才能)、トレランス(寛容性)の3つのTのうち、トレランスにおいて他国、他地域と水を開けられつつある。カナダ、オーストラリア、スカンジナビア諸国、インド、中国が世界の才能を集め、あるいは自国の才能を呼び戻しているという。そんなこんなでいずれアメリカは大きなしっぺ返しを食らうのではないかというのが著者の懸念である。
まあ、アメリカは腐ってもアメリカだろうとぼくは思ってるんだけど。っていうかもう腐りすぎてる?

朝、新聞を取りにいくついでに家の周りを丁寧に眺めまわしたが、ヒキガエルは見つからなかった。住まい探しの旅に出たのかもしれない。幸運を祈る。



2008年6月11日水曜日

江國香織『落下する夕方』

語学の話を引きずろう。
二十歳くらいの頃、何を思ったか、アルバイトで稼いだ金をつぎ込んで御茶ノ水のフランス語学校にしばらく通っていた。入門クラスを終え、初級コースに進んだのだが、そのなかにひとり、今のぼくくらいの年配の男性がいた。話をしたこともなく、いつも席が離れていたので、どんな動機でそこに通っていたかは定かじゃない。昔かじったことがあるフランス語をもう一度、みたいな、おじさんがロックバンドやフォークバンドをはじめるような感じ、でもなかった。
授業では日本語はいっさいしゃべらないことになっている。昔タモリやビートたけしや明石家さんまが正月にやっていたゴルフみたいなもんだ。まず、出席をとる。先生がひとりひとり名前を読み上げる。女性はpresente(スペルは正確じゃないが)、男性はpresentと答える。これは初心者にとっては緊張する作業だ。で、その年配の方はたしかにpresentではなく、プレザーンと片仮名ないしは平仮名で返答していた。Il n'y a pas de stylo.なんて文章も「イール・ニ・ヤ・パッ・ド・スティーロー」と読んだりする。
その後中級コースに進んで、何度か授業に出たが、お金が続かなくなり、なんとなく忙しくなって学校には行かなくなった。おじさんは今頃どうしているだろう。
先日読んだ『外国語上達法』で語学上達に必要なのはお金と時間とあったが、たしかにそうだ。さらにいえば、能動性と強制力ではないかとぼくは思っている。
いずれにしても自分からすすんで取り組まないことには前進はしない。それと学校に行くとか、宿題を課せられるとか無理強いさせられないと言葉って身に付かないんじゃないかと思っている。
実は、もう一度御茶ノ水でも飯田橋でもいいのでフランス語学校に通ってみたいと最近思っているのだ。しばらく前からずっとそう思っている。が、ときどき脳裏をかすめるのは昔同じ教室にいたあのおじさんだ。今度はぼくが「なんだあのおじさん」と言われてしまうのだろうか。

ちょっと引きずりすぎた。
江國香織を読むのはずいぶん久しぶりで、この文庫本は、5年ほど前仕事で行った大阪は豊中の本屋で買った。仕事の合間の退屈しのぎによさそうな雰囲気がしたからだ。でも結局ずっと読まないまま放置していた。
江國作品のなかの小気味いい人物設定が好きだ。
彼らは「私は新幹線が嫌いだ」(あげは蝶)とか「記憶はおもちゃのブロックに似ている」(ホリーガーデン)、「夜の電車はすごくきれいだ」(流しのしたの骨)、「運動会のなかで、あたしはお弁当の時間がやっぱりいちばん好きだ。外の空気の匂いに、みんなおむすびの海苔の匂いのまざるところが特別で好き」、「あたしは学期のなかで三学期がいちばん好きだ」(神様のボート)、「私が品がないと思っているもの。携帯電話、愚痴、ゴルフ、恋」(ウエハースの椅子)、「透は牛乳が好きだ。砂糖を入れなくても奥底で甘いところがいい」(東京タワー)、「私はバスという乗り物が好きだ」(愛しいひとが、もうすぐここにやってくる)などなど気持ちよく言ってのける。
そういえば今回の主人公は「秋は一年じゅうでいちばんお茶漬けのおいしい季節だと思う」と言ってたっけ。


2008年6月9日月曜日

千野栄一『外国語上達法』

個人情報保護士の試験の問題集から。
次の記述が正しいか正しくないかを問う問題。

  個人情報取扱事業者は偽りその他不正の手段により個人情
  報を取得してはならないが、個人情報取扱事業者が、他の
  ものに指示して詐欺により個人情報を取得させてその者から
  個人情報を取得したとしても、当該個人情報取扱事業者が
  詐欺を行ったわけではないので、不正の手段により個人情
  報を取得したとはいえない。

こりゃ、わかるだろう。本当にこんな問題が過去に出題されているのだろうか。

その人が読む本というのは大きく2種類あって、興味関心があって深く情報なり感銘なりを得たいがために読む本と、ある意味自らのコンプレックスに対処あるいはなんらかの慰みを得るために読む本である。
ずいぶん乱暴な仕分けの仕方であるが、ぼくはどちらかといえば本に頼る人生を送ってきたような気がする。
小学生の頃、クラスで野球チームを組んだとき、真っ先に『野球入門』みたいな本を買って読んだし、児童センターの卓球教室に通いはじめて、最初に読んだのは『卓球教室』みたいな本だった(題名は正確に記憶していない)。そんなわけで『初歩の剣道』とか『少年カメラマン入門』とか『やさしい電子工作』とか、まずは知識から入っていくタイプだった。そして大概の場合、そんな輩が何を極めるということはない。
とはいえ、その傾向はいまだに強く、とりわけずっと弱くて、なんとかしたいと思っていたものとして語学があって、いわゆる入門書的な読み物があれば、底なし沼に浮かぶ藁のごとくしがみついてしまうのである。
『外国語上達法』
いかにも上達しそうなタイトルではないか。しかも神田駿河台下の三省堂書店の語学コーナーに置かれていたのだ。ちょうど六鹿豊著『これなら覚えられるフランス語単語帳』という本を探しに来ていたところでついつい購入してしまった。
この本の好感の持てるところは筆者が自らを語学が苦手として(もちろんそんなことはあるまいだろうが)、あくまで謙虚、かつ巧妙な語り口を保持しているところだろう。

  言語の習得にぜひ必要なものはお金と時間であり、
  覚えなければ外国語が習得できない二つの項目は
  語彙と文法で、習得のための三つの大切な道具は
  よい教科書と、よい先生と、よい辞書ということになる。

なかなか的を射ていてわかりやすい。

2008年6月8日日曜日

松山猛『少年Mのイムジン河』

東京六大学野球は、春秋のリーグ戦終了後新人戦がある。1、2年生によるトーナメント形式の大会だ。レギュラーシーズンの試合のような応援団もいなくて、神宮球場のスタンドもネット裏しか開放されない。まるで第二球場で試合をしているようである。下級生のチームでもすでにレギュラーとして活躍している選手は少なく、まあ1軍半から2軍といったあたりか。
昨日は三位決定戦明治対法政と決勝戦早稲田対立教の2試合が行われた。
新人戦の醍醐味といったら、やはり昨年、一昨年と甲子園を沸かせた選手たちの活躍だろう。明治では大垣日大出身の森田が最終回1イニングを投げた。140キロ代の真っすぐはなかなか切れがいい。早稲田は広陵出身の土生が2本の三塁打と犠打で5打点と活躍した。
仕事場の書架にあった『少年Mのイムジン河』を手にとった。
この本は映画『パッチギ』が話題になった2005年に読んだ。映画の原案になった本であるが、映像の激しさに比べるとぐっとやさしい大人の絵本だ。

2008年6月7日土曜日

平林博『フランスに学ぶ国家ブランド』

NHKラジオフランス語講座中級編がおもしろい。
講師はフランス人で東京日仏学院でも講師をしている3人。それはまあふつうの(聴いている限り)講師。おもしろいのはナビゲーター役の女性だ。先月までは明石伸子という早稲田大学の講師だった。この人もよかったのだが、今月から担当している上智大学講師の常盤僚子がさらにいい。語り口は淡々として、抑揚がなく、講師のレクチャーを同時通訳のように感情を押し殺して伝えている。にもかかわらず、講師が「(パリに行くにあたって)特に予定は決まっていないが、とりあえず観光をしたいし、いろんな建物を見てみたい」(これはもちろんフランス語で言うわけだが)と言ったのを受けて、「パリにはいろんな建物がありますが、でも、あんまり上を見ていると犬の糞を踏んでしまいますよね」とおそらくはボケてはいないであろうひと言を言うのだ。こうしておもしろがって書いてみて、読んでみると、さしておもしろくもない。が、これがNHKのラジオ第二放送から聴こえてくるとそれなりのインパクトはある(ちなみに犬の糞の話を受けて、最近大都市では条例などで取締りが厳しくなっていると答えたフランス人講師もなかなか、いい)。
あ。
で、本の話だが、著者は現在民間企業の役員をされていることからもおわかりのとおり、元官僚。外交官だったらしい。
フランスという国の偉大さ、オリジナリティ、ユニークネスを協調しながら、日本の現状を顧みるという話。フランスに見習うべき点は多々あるのに日本はどうなのかという視点はありだと思うが、だからどうしたそれから先は、といった建設的なビジョンがあるわけでもなく、立場上、強くいえないこともあるんだろうが、なにせ外交辞令が身に染みついている人であろうことを考えるとさして読後に向けて大きな期待を持つのも如何なものかと思いつつ、かといって、それなりにフランスの現代の状況にもさりげなく触れていることもあって途中で投げ出すのも惜しく、本日読了いたした次第であります。


2008年6月5日木曜日

梨木香歩『からくりからくさ』

『本は10冊同時に読め!』を読みながら、斎藤孝/梅田望夫『私塾のすすめ』、辰巳法律研究所・柴原健次編『個人情報保護士試験公式過去問題集』、そして梨木香歩『からくりからくさ』を超並列で読んでみた。時間を区切って、読む場所を変えて…といろいろそれなりに工夫はしたのだが、いちばんやっかいだったのが『からくりからくさ』だった。
それなりに家系図を思い描きながら読みすすめてはいたのだが、ブレークが入って、別の本を読むともうその次に読むときには家系図が紛失している。ええっとどうだったけと前のほうを読み返したり、俄然効率が悪い。長女に紙に書いておけばいいのにと言われ、それもそうだなとは思ったものの、面倒くさい。よく旅行に行くとき、持ち物を字ではなくて、絵にする。シャツとかパンツとか靴下とか洗面用具とか。そのほうが分量がわかりやすいから。娘は小さい頃からそんな父親の間抜けな姿を見ているから、何の気なしにいつもやってるようにやれば、という意味で言ったのだろう。が、結局ネットで検索というイマジネーションのかけらも働かない方法で家系図を再現した。
読んでいる本のなかでときどき色彩を感じるものがある。シーンに強烈な色彩を持つ文章がある。今とっさには思い出せないけれど、たとえばアーウィン・ショーだったり、三島由紀夫だったり、江國香織だったり。ぼくは和なもの、つまり日本的なもの、伝統古来のものにはかなり疎いんだが、『からくりからくさ』でひろがっていく微妙な色の世界は美しく印象的だと思う。装丁を頼まれた人はさぞや頭を悩ませたのではあるまいか。
そしてクライマックス。これも大騒ぎにならず、淡々と粛々と落ち着き払ったところがまたよい。どこか遠く、誰も知らない不思議の国の、ミステリアスなお伽噺。大人の童話。そんな印象。


2008年6月4日水曜日

齋藤孝/梅田望夫『私塾のすすめ』

梅田望夫がこんなことを言っている。

  僕が「好きなことを貫く」ということを、最近、確信犯的に言っている理由というのは、
  「好きなことを貫くと幸せになれる」というような牧歌的な話じゃなくて、そういう競争
  環境のなかで、自分の志向性というものに意識的にならないとサバイバルできない
  のではないかという危機感があって、それを伝えたいと思うからです。

大企業だろうが、零細企業だろうが、かつてよりたくさんの仕事をしなければいけない時代なんだそうだ。ITの進化とグローバリゼーションの波。情報はあふれているし、24時間365日世界は動いているからだ。

「貫く」かあ…。まあ僕のしている仕事なんかもまず「好き」じゃないとできない仕事なんだが、これからはますます競争も厳しくなるし、クライアントからのオーダーも過酷になる。僕も20代のころ、仕事は楽しくやれと先輩諸兄からよく言われたのだが、楽しくやるには相応の努力が必要だった。が、これといって自分なりの方法論を見出せないままあっという間に20年が過ぎた。
と、ついつい悲観的に考えてしまうのだが、本書のすぐれているところは、後ろ向きな姿勢はいっさいなし。常に前向きにこれからを生き抜く学びのヒントが盛りだくさんだ。そのキーワードが「志向性」であり、それもひとりでなく、同じ志向性を持つ何人かで成功体験を共有することの必要性が語られる。
この手の啓発書も単なる経験談に終始せず、きちんと理論武装され、時代を読み解くキーワードで整理されていると批判の余地もなくただただ感心させられてしまう。
だまされているんじゃないかと思うほど、ポジティブな一冊だ。

2008年6月3日火曜日

成毛眞『本は10冊同時に読め!』

早慶3回戦。
打撃不振の早稲田は打線を組み替えてきた。調子の上がらない上本を6番に下げ、松本啓をトップに。好調の宇高を3番に据え、5番に山川。慶應先発が左腕中林なので泉を使いにくかったのだろう。さらにここ何戦か調子を落としている松永に代えて、ショートに後藤。
早稲田先発の斎藤は初回こそ三者凡退だったが、2回に2点を献上。今季の斎藤はコントロールがよくない。明治戦もそうだったが、甘いところに投げて痛打されるのを恐れているのか、攻める気概が感じられない。それでもピンチには強く、なんとかしのぐところはさすがだ。先行された早稲田は山川、後藤と入れ替えた打線がつながって3回に同点。そのまま延長に。
慶應は中林が続投。早稲田は7回から大石。速球がびしびし決まってほぼパーフェクトなリリーフ。延長10回。細山田の三塁打を宇高が返して、早稲田のサヨナラ勝ち。
ベストナインは優勝した明治から大挙して選出されたが、早稲田上本が選ばれたのはちょいと疑問だ。
野球の話はこれくらいにして。
以前マイクロソフトの社長だった成毛眞の話題作。なんどか新聞にも取り上げられていたこともあり、読みたいなと思っていた一冊だ。
いやあ、なかなか力強い。それは題名に『!』が付いていることからもわかる。大人のちゃんとした本で『!』が付いている本は少ない。それだけに著者の強い自信と信念がうかがえる。
要は人と同じことをしていてもだめだという訓話だ。内容がしっかりしている本なら題名にビックリマークはまず付けない。だが、著者はあえて付けているのだ。人と同じことはしない人だ。
それにしても著者の、人生を楽しむために大いに読むべしという姿勢には大いに共感できる。
さっそく3冊を「超並列」読書してみたが、慣れないせいか、わけわからなくなった一冊があった。著者から「集中力が足りない」と叱責されそうである。

梨木香歩『エンジェル エンジェル エンジェル』

つくづく、思う。よくできている小説だなあ、と。
おばあちゃんと孫娘というのは、この人の基本構図なのだが、その関係の描き方において『西の魔女が死んだ』とはまたひとつランクアップしている。
孫の生きている時代(おそらく現代)と祖母の生きている時代とを織りなす微妙な演出(たとえば旧仮名で綴るなど)もさることながら、ラストに向かって一気に糸のもつれを解き放つ瞬発力、余計な描写を省いて一気に読み進めていける上、時代の違い(つまりは考証的なこと)に煩わせることなく進展していく構成のシンプルさ。
そういえば、長女がイチオシ、みたいなことを言ってたっけ。


2008年6月1日日曜日

紅山雪夫『フランスものしり紀行』

2004年、2007年と南仏を訪れた。そのせいか6月になるとフランスに行きたくなる。うずうずする。
ほとぼりをさますのにちょうどよさそうな本を見かけた。さっそく読んでみる。
著者は旅行作家というだけあって、ヨーロッパ各地に造詣が深いようだ。新潮文庫からは『ヨーロッパものしり紀行』、『ドイツものしり紀行』、『イタリアものしり紀行』と複数刊行している。
ただの旅行案内にとどまらず、各地の歴史を説き明かしながらの旅。なかなか興趣深い。とりわけ中世史は蒙昧も甚だしいゆえ、たいへん勉強になる。
さて、このものしり紀行。パリを出発点にして、ノルマンディーからブルターニュ、ロワールの城めぐりを経て、プロヴァンス、ラングドックへと反時計回りに半周する旅行案内だ。いずれ時計回りでシャンパーニュ、アルザス、ロレーヌ、ブルゴーニュなどを紹介する続編があるのだろうかと期待させる。
今回読んでみて、行きたくなったのは、モン・サン・ミッシェルはもとより、ルーアン、カーン、レ・ボー、ニーム、そしてカルカソンヌだ。昨年、アヴィニヨンを基点にして、オランジュ、アルルを見てまわった。もう少し時間があれば、ポン・ドュ・ガール、タラスコン、レ・ボーにも行けなくはなかったんだけど。
リヨンやナンシーにも行ってみたいし、ニース近郊のエズ、ヴァンスあたりにも行ってみたい。もちろんロワール川流域の古城めぐりもしてみたいのはやまやまであるが、とりあえずこの本を読んで、今、行ってみたいフランスのトップに躍り出たのは、カルカソンヌである。
ほとぼりがさめるどころじゃない一冊だったが、帯に刷られている文言「世界都市パリ、その発祥の地は中州」、「モン・サン・ミッシェルは牢獄だった」とか「最も歴史のある年は港町マルセイユ」などなど、さすがは「売り」の新潮社。軽薄路線をねらっているようで、せっかくの良本なのに、ちょっともったいない。


2008年5月29日木曜日

TCC広告賞展2008

汐留アドミュージアム東京。

今年のTCCグランプリは、ソフトバンクモバイルのTVCMだった。このCMは奇想天外で、かつどこまで話が展開していくのか予測できず、絶えず視るものに期待をもたせている。他にも骨太な企画はいくつかあったが、こうしてTCC賞の一覧をながめるとまさに圧勝という感じがする。
TCC賞のなかでは黄桜の「江川/小林」篇。当時をライブで知る世代にはさまざまな思いを去来させるシリーズだ。秒数や演出による制限が少ないグラフィック広告が特にすぐれていると思う。ターゲットを絞り込んで、深くコミュニケーションするシャープな広告だ。あとは全般に言葉が巧みに表現の真ん中にすえられている佳作といえる。
新人賞は昨年ほど、とびっきりすごい、と思えるコピーはなかったように思う。なにせコピーライターが決めるコピーの賞ということなので、一般人の感覚でながめていると、なんでこれが、と思えてしまうものもあるにはあるんだが、概して今後に期待できる才能が選出されたというところか。強いてあげるならばプライムの企業CM「駅」篇。コピーライティングの枠組みを超えた企画のおもしろさが光った。それとマクドナルドの「AM1:47のお客さま」篇。あの女性従業員には残業代がちゃんと支払われているだろうか、などと余計な心配もしたが、つくり手の人柄がよく出ている広告だと思う。
帰りに銀座まで歩いてよし田でおかわりつき天せいろを食べた。


2008年5月25日日曜日

梨木香歩『水辺にて』

高校の後輩のNは大学時代カヌーに没頭していた。川下りがおもしろいらしく、アルバイトをしては日本じゅうの川めぐりをしていた。Nは5年大学に通った。3年までに軍資金をつくって、4年で海外の川下りに挑み、5年で卒業する。彼の所属するサークルの連中は、みなそうして5年間大学に通った。
人はなぜ水に魅せられるのだろう。この本を読んで、ふとNを思い出した。
長女の書棚からシリーズ第三弾は、梨木香歩のエッセーである。
水にまつわる読み物は多い。浅田次郎の『月島慕情』、吉本ばななの「大川端綺譚」、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』も大きくとらえれば水まわりの話だ。
梨木香歩が水辺を散策するのは、やがて自分が還っていくであろう世界を慈しみ、自分の生きている部分的な世界を全体的な世界に繋いでゆくためであるという。それを自らの存在全体で納得したいがために時間をかけて、水とふれあう、ということらしい。
そういえば、大学を卒業したNは、放送局に就職した。最初の赴任地は釧路だった。かつて訪れた湿原の水辺が彼を呼び寄せたのかもしれない。

2008年5月23日金曜日

梨木香歩『村田エフェンディ滞土録』

子どもの頃から、小林旭が好きで、おそらくは“旭”という最果ての地をイメージさせるその名前が好きだったのか、石原裕次郎と対極にある真底不良なイメージが好きだったのか、如何せん、子どもの頃の記憶なのでいまだ明快な根拠は見出せずに、いまだファンである。ファンとはそんなものかもしれないが。 ただナイスガイvs.マイトガイとか、ぼくが長嶋茂雄や王貞治に声援をおくっていた60年代末頃にはあまり接触のないフレーズだったはず。幼年期の記憶というのは、理性的なものごとより、むしろ感性的な部分に負うところが大きいのだろう。ぼくの中の小林旭は、あの喧嘩の強そうな風貌から想像し得ないハイオクターブな歌声だった。 小林旭が喧嘩が強そう…というのは子どもながらに憧れていた。なにせおいら、喧嘩弱かったぜよ。と、どすを利かせていう台詞でもない。三歳上に姉がいたが、小さい頃から姉貴の結婚相手は小林旭がいいと真剣に思っていた。理由は簡単。喧嘩が強そうだから。 それはともかく。ハイオクターブで張り上げる「恋の山手線」や「自動車ショー歌」が大好きだったわけだが、ここ二、三日脳裏によぎり続けているのは、「琵琶湖就航の歌」だ。もちろん、加藤登紀子も歌っているし、もともと三高ボート部の歌なので、誰が歌ってもいいと思うのだが、ぼくの中では小林旭だ。たぶん実在する、あるいは実在していた三高ボート部の、おそらくはバンカラで、それでいて気弱いところもあり、故郷の母親を思い出しては涙する、そんな漕ぎ手たちの気持ちを代表できるのは、小林旭の他にないような気がしている。 いや。小林旭の話を書くつもりじゃなった。 このあいだ『家守綺譚』を読んで、小林旭の「琵琶湖就航の歌」が渦巻いていたってことを言いたかっただけだ。
『家守綺譚』に続いて、長女の書棚からシリーズ第二弾。 これはちょっとした永井荷風かな。明治の昔に渡航した記録のように描かれている。もちろん著者は留学経験があるようだが、なかなかよく描けているフィクションだ。と、偉そうに言っているぼく自身、土耳古には行ったこともなければ、かすったことすらない。首都がアンカラだというのもついさっき知った。 で、村田は土耳古留学を終え、綿貫の下宿にたどりつく。そこで高堂とも再開する。ゴローにも出会う。こうして『家守』と合流する。『家守』を読んだとき、この話は19世紀末から20世紀初頭の話ではないかと推測したのだが、この本の冒頭で「一八九九年 スタンブール」とある。間違ってはいなかった。「高堂」にルビがふってあった。「こうどう」だった。「たかどう」だと思っていた。間違っていた。 で、本当にいいところはその後。いわゆるエンディングってやつ。もちろんここでは書くような野暮はしない。

2008年5月22日木曜日

梨木香歩『家守綺譚』

梨木香歩は『西の魔女が死んだ』以来久々。いつしか長女が読みためていた中から一冊拝借した。
ちょっと不思議な世界だ。
いつ頃の話で舞台はどこらへんなんだろうと興味を持って読みすすめてみた。
場所は琵琶湖の西岸あたりか。ボート部にいた高堂が竹生島の浅井姫命がどうのこうのと言っていた。竹生島といえば「琵琶湖就航の歌」で歌われている。叡山というのは比叡山のことだろう。そういえばJR湖西線に坂本という駅がある。
時代的には「最近訳出されたロセッティの文章」とあるからやはり19世紀末から20世紀初頭の話なのだろうか。三高ボート部がはじめて琵琶湖周航を行ったのが明治26年といわれている。
まあ、そんなことがわかったところで、だからどうした、みたいな話なんだが。
長女にこの本に出てくる村田という土耳古に行った男は『村田エフェンディ滞土録』の村田かと訊いたら、そうだと答えた。



2008年5月20日火曜日

ジョルジュ・サンド『フランス田園伝説集』

母の実家は千葉の千倉なのだが、白間津という集落と西隣の七浦という集落の間は、岩場が隆起したような土地なので、人家がほとんどなかった。地元の人たちはそのあたり、岩場と草むらしかないあたりを「カアシンハラ」と呼んでいた。そう記憶している。
磯と同じようなその岩場の洞窟には昔、「手長ばあさん」が住んでいた。と母親に聞いたことがある。夜になると「手長ばあさん」は洞窟から磯まで手を伸ばして「シタダメ」と地元で呼ばれる小さな巻貝を採っては食べていたという。
真偽のほどはわからない。たぶん地元に長く伝わる口承なのだろうと思う。母はおそらく、その母か祖母に聞いたのだろう。話好きの母親からはいくつかそんな昔話を聞いて育った。
夜は危険な場所なので子どもたちを近寄せないように昔の人が考えた作り話かもしれない。

ジョルジュ・サンドはフランス、ベリー地方の民間伝承を採集していたようだ。近代科学がまかり通るようになった今となっては、迷信めいた話なのだが、著者はそこにある真実を見出しているように思う。その着眼がなんとも素晴らしい。
サンドによると、妖怪やら幻覚やらその手の話は古代からあって、農民たちはそんな不思議な世界と協調して生きてきたという。で、その手の魔物が悪いものになったのはキリスト教文化とその中心的な時代であった中世なんだと。なんとなくわかる気がする。

「シタダメ」は本当はなんという名前の貝なのか、いまだに知らない。ただ茹でてマヨネーズであえたり、かき揚げにするとめちゃくちゃうまい。


2008年5月18日日曜日

池田健二『フランス・ロマネスクへの旅』

今春からはじまったNHKラジオフランス語講座応用編がいい。
いままで応用編というとテーマが設定されていて、たとえばサン・テクジュペリの『星の王子さま』を読むとか、ル・モンドを読むとか、数字にまつわるフランスを考察するとか、旅で役立つ会話レッスンとかそれなりのテーマがあって、それに即してテキストの文章があって、読んでは文法的、会話的なポイントを解説するという、どちらかといえばテーマの中心に向かって真っしぐらに進行していく、いわば求心的なプログラムだった。
今年は違う。
もちろんテーマはある。“コミュニケーションをスムースに”みたいなことだ。でもって、そのカリキュラムが絶妙なのだ。
週二回のレッスン。その一は音読。さして長くない文章を読む。音読する。自己紹介とか、家族の紹介とか、いたって簡単な文章だ。だが、その文章を読ませる、聴かせるアイデアがそこにある。
まず短い文章を読んで聴かせる前に文章にまつわる質問を聴かせる。最初から質問がわかっていれば、それに答えられるように集中して聴くことができるって寸法だ。
たとえば家族の紹介というテーマの文章があるとする。それを読む前に、彼には何人きょうだいがいますかとか、彼の兄・姉は何をしていますかみたいな質問がふられるわけだ。聴いてる側としてはそれに答えられるポイントを聴こうとするので、おのずとポジティブに耳をそばだてる。
で、週二回のレッスンの二回目。短い文のかけあいをここで学ぶのだが、まず答を聴く。そしてこの答を引き出す質問は何かを考えさせる。最初に「はい、だって東京にはおいしいレストランがたくさんありますから」という答を聴かせて、「夕飯は外で食べることが多いですか?」という質問を導き出すという手法だ。
最初のうちは、教材を読んでついていくので精一杯だったが、だんだんなれてくると、実にほどよく計算された教材だと感心してしまうのである。
ま、それはともかく。
ロマネスクとはローマ風の、という美術用語なんだそうだ。
十一、二世紀の建築と芸術の様式を示すために考案された名称なんだそうだ。
著者が訪ね歩いた中世の教会建築をロマネスク芸術という視点で丁寧にとらえた一冊。当然のことながら、『ロマネスクの歩き方』的な簡単な本ではない。新書だからといって軽い気持ちで読んではいけない。ましてや中世史もフランスの地理もキリスト教文化も教会建築も何の予備知識もなく頁を開く本でない。
いきなりあらわれるナルッテックス、タンパン、ラントー。さらに身廊、側廊、内陣、クリプト、トリビューン、ヴォールト、パンダンティフ。読んでもよくわからない巻末の用語解説を見、目次後の地図を見、豊富な写真を見て、さまざまな情報を総合して読みすすめていく。それでも難解だ。
つまり芸術とは難解なのだ。


2008年5月16日金曜日

永井荷風『ふらんす物語』

40年ほど昔。
大手の広告会社に勤めていた叔父が突然辞めてニューヨークに行くといいだした。親きょうだいの反対をおしきって(かどうかはわからないが)、1969年のとある冬にホノルル経由のパンナム機で羽田を発った。
しばらくして母宛に手紙が届き、わずかばかりの荷物のなかに永井荷風の本があって、なんども繰り返し読んでいると書いてあった。
正直ぼくは日本文学はさして読んでいない。じゃあ何文学をこよなく読んだのかといわれるとそれにも答えようがない。少なくとも永井荷風はいちどたりとも読んだことがない。なかった。
実はこれは大いなるミステークであって、例えば、だ。二十歳の頃御茶ノ水にあるフランス語学校に通っていた。一年ばかり。もしその頃読んでいたならば、もうちょっとちゃんとフランスに憧れただろうに。3年前に南仏を訪ねた。その前にもし読んでいたならば、もっときちんとフランスを見て帰っただろうに。昨年もやはり南仏に行った。それまでに読んでいたならば、きっとリヨンまで足をのばして、ローヌ河のほとりを歩いたであろうに。と、日本語では動詞の活用が面倒じゃないのでやたらと条件法を使っているが…。
ともかく船でふた月近く、お金だってバカにならないだろう当時としては想像を絶するエネルギーを使って、明治の時代に西欧へ出向いて見聞をひらいた著者の熱意にほとほと感心せざるを得ない。
そういえば以前叔父がいっていた。ほんとはニューヨークじゃなくてパリに行きたかったんだよねって。1969年、叔父のバッグに入っていた荷風はこの本じゃないかと思うのだ。

2008年5月14日水曜日

藤谷護人・宮崎貞至監修『個人情報保護士試験公式テキスト』

5月も半ばだというのに寒い。
夕方、外苑前のスペースyuiという画廊に行く。和田誠と安西水丸の共作イラストレーションが展示されている。今年でもう四回目になるらしい。一枚の紙にまずどちらかが下手側に描く。それに答えるようにもうひとりが上手側に描く。そして最後にふたりで題名をつける。と、まあこんな楽しそうな作業をするわけだ。
題して“安西水丸・和田誠 個展「AD - LIB」”。
たとえば、和田誠がやしの木が一本生えている無人島を描く。すると反対側に安西水丸が漂流してこの島にたどりつくマンモスを描く。タイトルは“無人島に流れついたマンモス”。
それはさておき。
個人情報保護士という資格があるらしい。ためしに過去問をいくつか見てみたら、さほど難しくなさそうなので、ひととおり読んでみよう気になった。まあ学生でいうところの参考書ですな。パソコンソフトの「これで使いこなせる」みたいな本。特に感想はなし。
ちょっと気になったから書いておくが、この手の本(と決してさげすんで言ってるわけではなく)はどちらかといえば真剣に知識を得たい読者が支えているわけだから、できるだけ誤植は避けたいところだ。


2008年5月10日土曜日

東山魁夷展

東京国立近代美術館。

1981年、やはり同じ国立近代美術館で東山魁夷を見た。当時は気にもつかなかったことが四半世紀以上の時を隔てて気になる。いずれ当時も今も芸術に関してはもちろん、ありとあらゆる世の中の万物に関して不勉強であることには変わりはないのだが。
東山魁夷のすごさは、そのシンプルさにあると思う。
絵画として、突出した個性的な作為を決して描かない。私の画風はこうだから、必ずこう描くのだ、という安っぽいこだわりがない。森の泉にたたずむ白馬でさえ、まるでそこにいたかのように描かれている。だから、東山魁夷の絵を見るということは、彼が実際に目にした風景を眺めるのと限りなく近い体験ができるということだ。そして色合いの微妙さ。これは銀写真でも印刷でもおそらくは再現不可能な光の表出だ。いかに彼がピュアな目を持っていたかの現われだろうと考える。
そういった意味では東山魁夷のとらえたヨーロッパの街並みは路地裏で売られている絵葉書より、はるかに忠実で、しかも奥ゆかしく、その乾いた空気と光をみごとに再現している。


2008年5月9日金曜日

第14回中国広告祭受賞作品展

汐留アドミュージアム東京。

中国広告祭の受賞作品はここ数年見ている。
アイデアがとても新鮮でピュアだ。日本でこんなにクリアなクリエーティブを見せてくれるのは広告制作者の若手や学生の登竜門である朝日広告賞や毎日デザイン賞くらいなものだと思えるほど若々しさと勢いがある。
実は毎年そう思って見ていたが、今年はちょっと違う。オリンピックイヤーという意気込みがやけに空転しているように思えるのだ。
広告表現としてちょっと頭がよすぎる広告が増えている。頭のいい広告は好感を持たれるが、よすぎる広告はいかがなものか。テレビCMでいうと余計な駄目押しが不快だ。
たとえばケンタッキーの海老フライ。ふたりの釣り人。後から来た釣り人は傍らにケンタッキー海老フライを置く。すると魚がそこをめがけて飛び込んでくる、ここまではいい。ぶらさがり的についているはじめから釣りをしていた人がそのことに気づいて今度は自分が海老フライをえさにバケツを持ってかまえるカットがある。いわば田中に株あり的ないかにも漢文的な落ちなんだが見ていてうざい。
インスタントラーメンを食べることによって小学校に寄付行為が行われ、そこからオリンピック選手が生まれるかもしれないという公共広告も、まあよくはできているんだが、だからどうしたって感じかな。日本もオリンピック選手をかっこよく映像にするだけのがんばれCMばかりで自慢はできないんだが。
ともかく今年の中国広告祭はオリンピックというちょっとしたイベントが本来とてもいきいきしている中国クリエーティブをややこしい大人にしてしまっている。

2008年5月7日水曜日

野村進『調べる技術・書く技術』

たまには読むんだが、文章力が上達する的な本はあまり信じていない。
それと実はあんまりノンフィクションは読まない。文章が淡々としていて、どこで笑っていいのか、泣いていいのかときどき難しく感じるから。ちょっとした言葉遣いの綾やレトリックが豊富な創作のほうが読んでいてなじむ。
野村進というノンフィクションライターをぼくは全く知らなかった。その著作を読んだこともなく、名前すら知らなかったのだ。ただ本屋でそのタイトルを見て、手に取り、ぱらぱらっとめくってみて読んでみようと思った。
とてもよい一冊だ。文章を生業とする著者の誇りと誠実さがきちんと伝わっている。単なる経験談だけでなく、自らの仕事で培ってきた著者の人間としての“豊かさ”を垣間見ることができる。自ら孤独な長距離走者と名づけるだけあって、そのストイックで背筋を伸ばしたフォームに好感が持てるし、その姿勢と、確固たる方法論といかにも現場的なある種行き当たりばったりなところも包み隠さず語れるところがすばらしい。
ぼくはノンフィクションライターとかジャーナリストをめざす若者たちがいまどれほどいるのか実感はないし、身近なところで野球の選手をめざしたり、編集者をめざしたり、アーティストをめざしたり、医者や教師をめざしたりする友人はいたけれど、文章で身を立てようとしたものがいなかった。そういうこともあって読みはじめた最初は、この本はいい本だけどいったい誰に向けて書いているんだろうと思った。それくらい真剣勝負な本だと感じたわけだ。
でもね、いちばんこの本のすばらしいところは、漢字と仮名の使い分けが自分と似ていて、とてもしっくりしたことだったりするんだよね。


2008年5月5日月曜日

中島孝志『インテリジェンス読書術』

学生野球もはじまり、まさに球春だ。
東京都の高校野球は帝京が優勝、準優勝の日大三とともに関東大会に駒を進めた。夏はこの二校が東西東京の第一シードとなるわけだ。久しぶりにベスト4まで進出した日大二の健闘が光った。
東都大学野球や東京六大学野球では昨年甲子園をわかせた垣ヶ原(帝京)や野村(広陵)が早くも神宮のマウンドに上がっている。
インテリジェンスという言葉には昔から弱く、それは自分に大きく欠如していることのあらわれなのだろうと思っている。著者は年間3,000冊を読破するということらしいが、年間3,000冊購入しているのか、完全に読破しているのかはちょっと不明。税理士の報告から逆算しての数字らしい。実際に読むのは2,400冊と書いてあるし、「年3000冊を読破する私の方法」というサブタイトルからしていったいこの人は何冊読んでるのってついついディティールにこだわってしまう。いずれにしてもぼくは年間どころか半世紀近く生きていてもそんなにたくさんは読んでいないと思う。
それでもできればもっとたくさんの本は読みたいとは思うが、如何せんぼくは読むのが遅い。速く読もうと意識しながら読むのも身体に悪そうで未だに5キロを45分くらいのペースで読んでいる。
それでもってこの本に書いてあるのは、本をたくさん読んで、その中からこれだってものをつかみとりなさいよってことだ。

2008年5月1日木曜日

ミュリエル・ジョリヴェ『移民と現代フランス』

南仏には中華料理屋が多いように思う。
とはいっても目について、わかりやすいのが中華料理だからそう思っているだけかもしれないけど。カンヌにもあるし、アンティーブにもニースにもある。っていうかそれしか行ったことがない。
どこも共通しているのはフランス人とかアラブ人とかアフリカの人がやってるんではなく、中国かベトナムか、どう見てもアジア人らしき人が経営している(少なくともそう見える)。
フランスは毎年数多くの移民を受け容れているという。とてもオープンな国なのだ。とりわけ旧植民地であるアルジェリア、モロッコ、チュニジアからが多いそうだ。でもってマグレブ人と呼ばれる彼らは正式な滞在許可証を得て、安定した職業に就くまでたいへん苦労するらしい。生活習慣の違いも大きい。なんとも身につまされる本である。
どのくらい身につまされるかっていうと、スタインベックの『怒りのぶどう』、藤原ていの『流れる星は生きている』くらい身につまされる話だ。
この本は各関係者、識者、当事者にインタビューを試みている。その見解をまとめているのであるが、社会学などでよくある手法なのかもしれないが、海外のドキュメンタリーやルポルタージュをテレビで視ているように読める。現代フランスの移民問題を(というか移民をテーマにフランスの社会や制度を問い直すのが主眼だと思うが)するっと巧妙にまとめているなって感じだ。
アンティーブのちょっと気のよさそうな主人もニースの無口なおやじさんもかつては移民だったんだろうか。アジア人は比較的同化しやすいとはいうが、それなりに苦労があったんじゃないかなあと遠く南仏の中華料理屋に思いを馳せるのである。


2008年4月29日火曜日

シドニー・ガブリエル・コレット『青い麦』

NHKラジオの語学講座がこの春から大幅にリニューアルされた。
ひとつは曜日。従来月~木が入門編、金土が応用編だったのが、月~水入門、木土応用とゆとり教育に様変わりした。ゆとり教育いかがなものよと騒がれている昨今にあって、さらにゆとりをかましているのがその時間だ。これまでの20分から15分になった。
2年前からフランス語の入門編を中心に聴いているのだが、この5分は案外大きい。しかも1日少ない。ちゃんと勉強した気になれないのだ(それに今年の番組はちょいと冗長ですべり気味)。先週あたりから入門編は止して、応用編を聴いている。応用編の15分は逆にコンパクトでわかりやすいのだ。トークマスターというタイマー録音できるラジオで繰り返し聴くこともあるのだが、15分というのはちょっとした空き時間とか通勤途中の徒歩の間に聴くのにちょうどいい。
これまでラジオ講座は入門編の場合、前期4~9月新番組、後期10~3月再放送となっていたが、番組枠が大幅に変わったので過去のすぐれた講座を聴くことができなくなってしまった。と、思ってたら、アンコール版も放送されているらしい。フランス語の場合月~土の昼前の20分間オンエアしているそうだ。月~木は入門編、金土は応用編。昔ながらのきちんとした講座をお望みの方はこちらの方がおすすめだ。先日、本屋でアンコール版のテキストをぱらぱらとめくってみた。NHKのたくましい商魂がしっかり読みとれるテキストだった。
さて、コレットの『青い麦』だが、たまたま家にあったので読んでみた。思春期の少年少女を描いたもので『青い~』などというタイトルのつくものはたいがい高が知れている。堀口大學という詩人の訳なのだが、ところどころ散文的な流れるような訳もあるが、やたら読点でつないでまだるっこしいところもある。それにしても、おそらく《tu》だとは思うのだが(原書を見てないのでなんともいえないが)、《あんた》はないだろう《あんた》はって思った。


2008年4月27日日曜日

アルフォンス・ドーデ『風車小屋だより』

手もとにある岩波文庫。
1982年1月25日第55刷発行とある。で、その下に読了の日が840215とある。はじめて読んだのが今から14年前。読んでいたことすら忘れていた一冊が書棚から見つかった。
昨年南仏を訪れた際、アルルから足をのばしてドーデの住んでいた風車小屋を見に行った。プロヴァンスの風光明媚な丘の上にぽつんとたたずむ赤い屋根。もともとは粉ひきのための風車だったそうだが、それは丘の上から見渡す穀倉地帯を思えば、うなずける話だ。蒸気機関の発達で風車による粉ひき商売は衰退し、風車の数は減っていったらしい(「コルニーユ親方の秘密」)。
風車のあるフォンヴィエイユという街はアルルからバスで2~30分ほど。まさに何もないフランスの田舎町だ。が、こうしてドーデの見聞きし、紡いだ話を読むとそれなりの歴史や生活が感じられて、目の当たりにした風景がまた魅力的に思い出されてくるのだ。


2008年4月22日火曜日

浅井建爾『知らなかった!驚いた!日本全国「県境」の謎』

上野の国立科学博物館でダーウィン展を見る。
ビーグル号に乗って世界を旅した見聞が彼の進化論に活かされているのだが、5年の及ぶ船旅はなんとも苦労の絶えなかったことだろう。アンリ・ベルクソンが進化についてなにか書いていたと思うが、もう思い出せない。ただ進化論の考え方に微妙な違いがあって、進化論も進化しているのだと思ったことだけ憶えている。
でもって、この本なんだが、題名がちょっとちょっとって感じだったがつい読んでしまった。まあ『知らなかった!驚いた!』はないだろう。それと『「県境」の謎』もどうだかなあ。もっとミステリーハンターな本かと思った。
著者は市井の地理学者のようであり、歴史的行政的な観点から県境について記述しているのだが、いまひとつその不思議な県境に立っている感触に欠けるんだな。
東京葛飾区の水元公園の周辺を歩いていると、橋を渡ると千葉県松戸市、戻って土手沿いに行くと埼玉県三郷市。公園の北側は三郷市で、その東側は埼玉県八潮市と歩いているだけでめまぐるしく地名が変わる。まあ欲を言えばの話だが、こうしたタモリ倶楽部的なネタを集めた本を期待してたんだけどね。
でも廃藩置県以降の史実に忠実でちゃんとした読み物にはなっているとは思います。


2008年4月18日金曜日

安岡章太郎「サアカスの馬」

先日、去年大学を卒業したばかりの新入社員と荻窪界隈の話をしていて、その際、井伏鱒二の家って荻窪にあるんだよと言ったら、どうもそいつ、井伏鱒二を知らないらしい。太宰治も三鷹に引越す前は荻窪に住んでいたそうだというとさすが太宰治は知っているという(そりゃそうだろう)。
それで思ったんだが、ぼくらは中学の国語の教科書に「山椒魚」が載っていたから井伏鱒二を知っているんであって、もしそうでなかったら、やはりその若者同様、え?誰それ?となったかもしれない。
中学の頃、教科書に載っていて印象深い小説として安岡章太郎の「サアカスの馬」があげられる。こんな書き出しだ。

   ぼくの行っていた中学校は九段の靖国神社のとなりにある。
   鉄筋コンクリート三階建の校舎は、その頃モダンで明るく健康的と
  いわれていたが、僕にとってはそれは、いつも暗く、重苦しく、陰気な
  感じのする建物であった。

ここ第一東京市立中学校で劣等生だった安岡章太郎が靖国神社のお祭りで思いのほか脚光を浴びる老いさらばえたサーカスの馬に感情移入するという短編である。
たまたま今日午前中時間ができたので、授業をさぼった学生よろしく、日比谷図書館に立ち寄って久しぶりに読みかえしてみた。第一東京市立中学は後に東京都立九段高校となり、現在では千代田区立九段中等教育学校という6年間一貫校となっている。ぼくも九段高校の出身で、まさに安岡章太郎が通っていたモダンで明るく健康的な鉄筋コンクリート三階建ての校舎で3年間を過ごした。この校舎は後に改築され、すっかり様変わりした。キャベツを食い散らかした地下の食堂や安岡少年が立たされた廊下など、この校舎の面影はわずかにこの短編に記されているだけだ。

2008年4月16日水曜日

清水義範『早わかり世界の文学』

選抜高校野球が始まって、終わったと思ったら、プロ野球が始まって、学生野球も始まった。4連覇のかかる東京六大学の早稲田は東大相手とはいえ、好発進。注目は新主将になった上本、松本、細山田の4年生だ。東京都の高校野球も始まっている。秋優勝の関東一が初戦敗退。関東大会へ行けないどころか、夏の予選はノーシードだ。
プロ野球はどうかといえば、じゅうぶんに補強したジャイアンツがスタートダッシュするかと思ってたら、そうでもなく、もののみごとにマスコミの餌食となっている。ジャイアンツといえば、以前から大型補強をするたびに各方面から批判を浴びていたが、ぼくは案外そうとは思わないのだ。子どもの頃、よく新聞(もちろん読売新聞だ)の集金に来る販売店の人が外野席の招待券をくれたのだが、ただで観戦できる外野席のチケットに期待するものとしたらやはりホームランだろう。ジャイアンツはこうした小さな野球ファンの卵たちのために各球団から4番打者を集めなければならない宿命なのだ。そりゃあもちろん自前でホームランバッターを育てるのが理想には違いなのだが、手っ取り早く東京ドームの外野席にホームランボールを大量に打ち込むために5年も6年も若手を育成している場合ではないのだ。よく野球は役割分担だとか、大砲役とつなぎ役がいて…みたいなことをしたり顔でいう素人評論家がいるが、まずは野球ってスケールの大きなスポーツだろってことを直感的に知らしめないと、ますます衰退していくような気がする。野球がチームプレーで、作戦があって、緻密な競技であるなんてことは高校生になって学べばいいことだ、なんて思うんだけどね(とはいえジャイアンツにはもう少し勝つ野球をしてほしいなあとも思うけど)。
ちょっと野球の話が長くなってしまった。
清水義範の『早わかり世界の文学』は著者の作家としての立ち位置を改めて明確にしながら、読書体験を語っている平易な本である。清水義範はパスティーシュ作家だといわれており、ぼくもパスティーシュという言葉を清水作品を通じて知ったのであるが、正直いって、本人がパスティーシュ作家ですとあからさまに自負しているとどうも鼻につくというか、いやな感じがする。私は反体制ですと胸をはっていわれたみたいな。そういうことって作品を通じて訴えてくれればいいと思うのだが。それとなんでもかんでもパスティーシュとくくるのもどうかなと。文体を模倣するのと小説の主題を模倣するのとでは違うような気もするのだ。だから文学はパロディでつながっているといわれてもちょっと無理があるような気がするのである。


2008年4月15日火曜日

チャールズ・ディケンズ『デイヴィッド・コパフィールド』

もう何年前になるだろうか。四谷四丁目にある小さなCM制作会社で働くようになった頃だから、かれこれ20年以上だ。どういう訳か、その仕事場の近くの本屋で新潮文庫の『デイヴィッド・コパフィールド』を4冊まとめて買ったのだ。今ぼんやりと当時のことを思い出そうとしているのだが、たしか村上春樹の小説の中で『デイヴィッド・コパフィールド』という書名を目に留め、それで読んでみようと思ったのかもしれない。はたまた古い映画で『大いなる遺産』だか『二都物語』だかを観て、それで咄嗟に読みたくなったかもしれない。それで、だ。ちょうどその当時、これもとても曖昧な記憶にすがっているのだけれど、『デイヴィッド・コパフィールド』は絶版になっていたようにも思えるのだ。文庫本で絶版になると神保町あたりでは途端に値がつりあがる。もし街の本屋で在庫があれば、そいつに飛びつかないことにはとんだ散財になる。とかなんとか思って買ったのかもしれない。
それにしてもぼくと『デイヴィッド・コパフィールド』の結びつきというのがなんともはっきりしない。先述したような接点があったのかもしれないし、なかったかもしれない。どのみちディケンズといえば『クリスマス・キャロル』くらいしか読んだことはなかったし、そもそもあまりイギリス文学にも親しんでいたわけではなかった。せいぜい子どもの頃、『ロビンソン・クルーソー』とか『ガリバー旅行記』を読んだくらい。後はモームとかジョイスくらいかな。
いずれにしても昔から本棚には『デイヴィッド・コパフィールド』が4冊、ずっと長いこと置かれていて、いつか読むのだろうとその背中だけをながめていた。
ここ何ヶ月か、仕事がスムースにいかなくて、たまの休みの日もくよくよ思い悩むような日が続いていた。なにかで気分転換しなくちゃと思っていた矢先、またしても古い文庫本の背が目に飛び込んできた。そんなわけで何の予備知識もないままこの本を読み始めたわけだ。
少し読みすすめて、どうやら『デイヴィッド・コパフィールド』っていうのは主人公の名前でそのデイヴィッドが成長していく物語だということがわかってきた。言ってみれば『ジャン・クリストフ』と同じだ。『魔の山』とか『罪と罰』みたいなテーマ的な題名ではない。だから主人公が渡辺一男だったら『渡辺一男』という題名になる小説ってことだ。
まあ、それはともかく、幼少期の不遇な家庭環境から脱却し、幾多の出会いと努力を積み重ね、作家として、人間として成長していく自伝的な小説だ。やたらと長い物語ではあるが、主人公と彼をとりまく人物が再三あらわれ進展していく展開は読んでいて飽きさせない。
学生の頃は『ジャン・クリストフ』とか『新エロイーズ』とか『エデンの東』とか長い小説をよく読んでいたが、この歳になって読む大河小説も悪くはないなと思った。


2008年3月30日日曜日

金川欣二『脳がほぐれる言語学』

桜が咲いて、街は賑わっている。
選抜高校野球は横浜、常葉菊川と相次いで破れ、優勝争いは混沌としてきた。心底応援していた安房高はほんのちょっと打合せをしているあいだにサヨナラ負けで消えていた。夏がんばってほしいが、常葉菊川を破った千葉経大付属もなかなか強そうだ。
いつだったか毎日新聞に引用されていたこの本が気になっていて、読んでみた。ちょっとした辛口箴言集のような読み物でなかなかおもしろい。現代言語学の基礎を築いたのはソシュールであるとなんとなく思っていはいたが、実はそうでもないらしい。ややもすればソシュールやレヴィ=ストロース、ミシェル・フーコーあたりを読んでないとわかりにくいところもあるのかもしれないが、それでも引き合いに出される書物が多岐にわたっていて著者の読書と発想の幅広さが感じられる。まさしく脱中心、周縁、リゾームなどといった言葉が板についた現代的な学者なんだろう。脳がほぐれることはたしかだ。


2008年3月23日日曜日

佐藤尚之『明日の広告』

選抜高校野球が始まった。昨秋の実績で常葉菊川、横浜が優勝候補らしい。初日の今日、昨秋ベスト4の東北が破れる波乱があった。
第三試合には21世紀枠で初の甲子園出場となった千葉県立安房高校が登場した。父も母も南房総の出身なので、叔父やらいとこやら安房高出身者が多く、テレビにかじりついて応援してしまった。9回表の連打での得点、その裏のピンチをしのいでの勝利に熱いものがこみあげてきた。甲子園初出場初勝利。歴史を刻んだ瞬間だ。
その昔、ぼくのいとこが安房高野球部にいたのだが、そのとき夏の千葉県大会の決勝に進出し、強豪の銚子商業に破れ、甲子園初出場の夢を断たれたことがあった。当時の銚子商業には宇野勝、尾上旭らがいて、たぶん甲子園でもベスト8くらいはいったんじゃないかな。

で、うどんの話。
7年ほど前に仕事で高松に行った。同行したお得意さんと空港でうどんを食べて、すごくうまいと思った。こんなことを言っちゃ失礼かもしれないが、駅とか空港で食べるものってたいていの場合、通りいっぺんなおいしさでしかなかったりする(もちろんそれ以前のものも圧倒的に多い)。空港でこんなうまいんだったら、街に行ったら、もっとうまいんだろうなと想像力がふくらんだ。
どちらかといえば、蕎麦のほうが好きで、うどんなんてものは病気したとき食べるもの、くらいにしか思ってなかったのがこの日を契機に認識を改めた。
で、東京でもうまい讃岐うどんが食えるのか、ネットでさがすことにした。うまい蕎麦屋はいくらか知ってはいるが、うどん屋に関してはまったくの無知蒙昧だったから。そこで出会ったのが「さとなお」なる人物である。氏の「おいしい店リスト」で銀座さか田、板橋すみた、新橋さぬきやなどを知ることとなった。
最近では立ち食い蕎麦屋のように讃岐うどんの店が増えてきている。まあそこそこ本場の雰囲気を手軽に味わえるようになった。なによりである。
で、そのさとなおなる人物は広告会社のクリエーティブディレクターで、この本はその本業を書いている。20年前とは消費者が変化しているのに、旧態依然たる広告でよいのかという疑問にポジティブに応えてくれて、メディア・ミックスからメディア・ニュートラル、クロス・メディアへとネット時代のコミュニケーションのあり方を平易に語ってくれている。
シンプルだけど噛みごたえのある讃岐うどんのような一冊である。


2008年3月21日金曜日

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』

ここのところ忙しくて、まっとうな時間に帰れない。さりとて額に汗して深夜までコツコツ働いているわけでもなく、コンピュータを使った作業をチェックしては待ち、修正点を指示して、また待ち…、の繰り返しである。その待ち時間につらつら本を読んでいる。
瀧口直太郎はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・サマセット・モームの翻訳でも知られているが、正直いったところ『ティファニー』だけは読みにくかった。するっとストーリーが進んでいかないのだ。最初に読んだのが20代前半でぼくも未熟な青年だったせいもあるけれど。
もう一度読み直してみようと思ったのが、7、8年前かな。仕事でテキサス州サンアントニオに向かう機内で読んだ。するっと読めない感じは相変わらずだった。アメリカの南部に行くのでなんとなくカポーティが読みたくなり、リュックのポケットに突っ込んで旅立ったわけだ。
そういえばフィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』、見そびれちゃったなあ。こんどDVDで観よう。
この映画は『冷血』を書いている頃を中心とした伝記らしいが、彼の代表作ともいえるこの大作の端緒となったのが村上春樹の解説によると『ティファニー』なんだそうだ。いわゆるそれまでの若手天才作家の文体から新たなステージを模索して、大人の作家への移行をとげた作品であるらしい。ぼくは『冷血』は大作であると評価はするものの、やはり好きか嫌いかでいえば初期の作品のほうが圧倒的に好きなわけで、ぼくの中のカポーティは『草の竪琴』や『誕生日の子どもたち』だ。
話は『ティファニー』に戻るが、20代に読んで、ホリーのような女性はよくわからないと思った。もしぼくが階上の住人だったら困ってしまうだろうと思った。20年以上の歳月をへだてて読み直したとき(しかも新訳で)、やはりホリー・ゴライトリーってよくわからない女性だと感じた。こういう痛快な性格づけを登場人物にできることがカポーティの天才たるゆえんなのだろう。