ここのところ忙しくて、まっとうな時間に帰れない。さりとて額に汗して深夜までコツコツ働いているわけでもなく、コンピュータを使った作業をチェックしては待ち、修正点を指示して、また待ち…、の繰り返しである。その待ち時間につらつら本を読んでいる。
瀧口直太郎はアーネスト・ヘミングウェイやウィリアム・サマセット・モームの翻訳でも知られているが、正直いったところ『ティファニー』だけは読みにくかった。するっとストーリーが進んでいかないのだ。最初に読んだのが20代前半でぼくも未熟な青年だったせいもあるけれど。
もう一度読み直してみようと思ったのが、7、8年前かな。仕事でテキサス州サンアントニオに向かう機内で読んだ。するっと読めない感じは相変わらずだった。アメリカの南部に行くのでなんとなくカポーティが読みたくなり、リュックのポケットに突っ込んで旅立ったわけだ。
そういえばフィリップ・シーモア・ホフマン主演の映画『カポーティ』、見そびれちゃったなあ。こんどDVDで観よう。
この映画は『冷血』を書いている頃を中心とした伝記らしいが、彼の代表作ともいえるこの大作の端緒となったのが村上春樹の解説によると『ティファニー』なんだそうだ。いわゆるそれまでの若手天才作家の文体から新たなステージを模索して、大人の作家への移行をとげた作品であるらしい。ぼくは『冷血』は大作であると評価はするものの、やはり好きか嫌いかでいえば初期の作品のほうが圧倒的に好きなわけで、ぼくの中のカポーティは『草の竪琴』や『誕生日の子どもたち』だ。
話は『ティファニー』に戻るが、20代に読んで、ホリーのような女性はよくわからないと思った。もしぼくが階上の住人だったら困ってしまうだろうと思った。20年以上の歳月をへだてて読み直したとき(しかも新訳で)、やはりホリー・ゴライトリーってよくわからない女性だと感じた。こういう痛快な性格づけを登場人物にできることがカポーティの天才たるゆえんなのだろう。
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