春野球はとっくに終わり、夏野球の季節だ。
この春は数戦しか観ていない。ちょっと興味が薄れたせいだ。
2011年夏の甲子園優勝の日大三。その主力5人が東京六大学にすすんだのが、翌12年春。エースの吉永、トップバッターの高山ら1年生の活躍が目立った。楽天イーグルスで活躍している茂木も含めてベストナインに3人の1年生。日大三優勝メンバーの慶應横尾、法政畔上、立教鈴木以外にも明治坂本(履正社)、菅野(東海大相模)、立教大城(興南)早稲田重信(早実)と全体としてレベルの高い世代だった。そしてこの春こぞって卒業した。ついつい球場から足が遠のいてしまったのは、誰を観にいこうか、という興味が薄れたからに他ならない。
東京六大学野球でいえば、昨年まで世代的に強かった4年生に依存してきたチームは苦戦を強いられた。早稲田が典型的だ。1学年下にエースが残った明治(柳)、立教(澤田圭)、慶應(加藤)がリーグ戦を盛り上げた。強い世代が抜けて、全体のレベルが下がるという見方はちょっと極端すぎるかもしれないが、リーグ戦で東大が3勝したり、その後の全日本選手権で東京六大学も東都大学も早々に姿を消したのは各大学の戦力が接近して団子レースになったからではないか、などと思っている。
最初に読んだ吉村作品は『羆嵐』だった。それから人に勧めらるがままに『三陸海岸大津波』、『関東大震災』を読み、そして災害三部作(なんていう言い方はされていないけど)の三冊目としてこの本を選んだ。
特定の人物の視点からではなく、戦争というものが、空襲というものが淡々と綴られていく。政治や思想ではなく、戦争とともに戦争そのものを生きた庶民が見たままの戦争だ。
吉村昭は東京日暮里の生まれという。あの戦争で東京の東半分はほぼ焼き尽くされた。それでもときどき歩いていると空襲で焼けなかった一角という場所が70年以上の時を隔てて残っている。奇跡といっていいだろう。
2016年6月23日木曜日
2016年4月19日火曜日
司馬遼太郎『坂の上の雲』
司馬遼太郎を読みはじめた。去年の夏。
幕末あたりの話からはじまって、戦国時代にさかのぼるか、明治につきすすむか思案の末、『坂の上の雲』をとりあえずのゴール地点と定めた。
まだ二十歳になったばかりの頃。時代小説や大衆小説になんら興味の持てなかった頃、高校時代のバレーボール部のK先輩(『峠』を読めとすすめてくれたのは三学年上のK先輩、こちらは八学年上である)が『坂の上の雲』だけは絶対読めと言ってくれたのをずっとおぼえていた。それまで司馬遼太郎と接する機会はなかったが、もしなにかのはずみで読むようになったらぜひ読みたいと思っていた(というより記憶のひだの中にすりこまれていたような気がする)。『竜馬がゆく』、『花神』、『世に棲む日々』、『峠』とたどってきた司馬街道はおのずとこの本に向かっていたともいえるだろう。
秋山好古、真之兄弟と正岡子規が主役である。
が、テーマは明治という時代である。現代に生きる日本人にとって明治とはいかなる時代であったか、明治を経験した日本がどのように近代に向けて変貌をとげていくのか。司馬遼太郎が生涯をささげた問題はこの時代にあったのだろう。
であるから、秋山兄弟や子規の物語ではない。彼らはたまたま同時代に生きていたにすぎない。ときに主役は乃木希典であったり、大山巌であったり、東郷平八郎であったりする。あるいはクロパトキンやロジェストウェンスキーらでさえ、この壮大なドラマにおいて主人公を演じている。
司馬遼太郎はあたかも3Dスキャナーで読み取るように明治を、日露戦争を読み解いていく。陸軍から、海軍から、参謀本部から。内政不安などを背景にしたロシア兵の士気など。描かれているのは日露戦争時代の日本とアジアの精細なジオラマのようである。敵陣の背後にまわる騎兵隊、一糸乱れぬ航行をくりかえす連合艦隊。これはやはり読まないではいられなかっただろう。
先だって、K先輩に会った。
ようやくロジェストウェンスキーが対馬までたどり着きましたよと話したら「おまえ、まだ読んでなかったのかよ」と言われた。
幕末あたりの話からはじまって、戦国時代にさかのぼるか、明治につきすすむか思案の末、『坂の上の雲』をとりあえずのゴール地点と定めた。
まだ二十歳になったばかりの頃。時代小説や大衆小説になんら興味の持てなかった頃、高校時代のバレーボール部のK先輩(『峠』を読めとすすめてくれたのは三学年上のK先輩、こちらは八学年上である)が『坂の上の雲』だけは絶対読めと言ってくれたのをずっとおぼえていた。それまで司馬遼太郎と接する機会はなかったが、もしなにかのはずみで読むようになったらぜひ読みたいと思っていた(というより記憶のひだの中にすりこまれていたような気がする)。『竜馬がゆく』、『花神』、『世に棲む日々』、『峠』とたどってきた司馬街道はおのずとこの本に向かっていたともいえるだろう。
秋山好古、真之兄弟と正岡子規が主役である。
が、テーマは明治という時代である。現代に生きる日本人にとって明治とはいかなる時代であったか、明治を経験した日本がどのように近代に向けて変貌をとげていくのか。司馬遼太郎が生涯をささげた問題はこの時代にあったのだろう。
であるから、秋山兄弟や子規の物語ではない。彼らはたまたま同時代に生きていたにすぎない。ときに主役は乃木希典であったり、大山巌であったり、東郷平八郎であったりする。あるいはクロパトキンやロジェストウェンスキーらでさえ、この壮大なドラマにおいて主人公を演じている。
司馬遼太郎はあたかも3Dスキャナーで読み取るように明治を、日露戦争を読み解いていく。陸軍から、海軍から、参謀本部から。内政不安などを背景にしたロシア兵の士気など。描かれているのは日露戦争時代の日本とアジアの精細なジオラマのようである。敵陣の背後にまわる騎兵隊、一糸乱れぬ航行をくりかえす連合艦隊。これはやはり読まないではいられなかっただろう。
先だって、K先輩に会った。
ようやくロジェストウェンスキーが対馬までたどり着きましたよと話したら「おまえ、まだ読んでなかったのかよ」と言われた。
2016年4月2日土曜日
吉村昭『ポーツマスの旗』
今年の年明け、ある企業の企業広告の企画を依頼された。
空調などの設備を設計施工する会社で、広告会社の担当者はたぶん知らない会社だと思いますけど、と説明をはじめた。
僕は知っていた。四谷にあって、小学校時代の同級生Mが勤めている会社だ。
同級生といってもMとは3~4年生のときだけだ。家が近かった。僕のうちとMのうちのあいだにTがいた。朝八時になると僕がTの家に行く、TとふたりでMの家に行く。そして3人で登校した。
TもMも僕もそれぞれ都立高校に進学し、やがて大学生になった。
大学を出る頃、3人で集まって、酒を飲んだ。だからMが空調設備の会社に就職したことは知っていたのだ。十数年続いたと思う。
30代の半ば、Tが急逝した。
3人の集まりの世話役だったTがいなくなり、それからMとは年賀状だけのやりとりになった。ずっと3人で会っていたので、ふたりでどう会っていいのかわからない気もした。たとえとしてはへんだけどちょっとした『ノルウェイの森』みたいな感じだったのかもしれない。
企業CMの企画案はまとまり、Mの会社と郊外にある研究施設で撮影をすることが決まった。たまたまだったが、クライアントの広告担当の方のご主人がMの部下だという。Mに連絡してもらい、撮影の当日ほぼ20年ぶりに再会することができた。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ。おいおいここにアップしようと思っている。
吉村昭のこの本は学生時代大江健三郎とか安部公房を読んでいた頃、新潮社の書下ろし長編シリーズのリーフレットでその題名を記憶していたが、まったく興味がわかなかった。
日露戦争後、ポーツマス条約締結に日本の全権として尽力した当時の外相小村寿太郎の物語だ。もしこれから読みたいという方があれば、『坂の上の雲』を先に読むことをおすすめしたい。
Mの会社の人たちはみんないい人たちばかりだった。いいCMをつくらなくちゃというプレッシャーがいちだんと増した。
空調などの設備を設計施工する会社で、広告会社の担当者はたぶん知らない会社だと思いますけど、と説明をはじめた。
僕は知っていた。四谷にあって、小学校時代の同級生Mが勤めている会社だ。
同級生といってもMとは3~4年生のときだけだ。家が近かった。僕のうちとMのうちのあいだにTがいた。朝八時になると僕がTの家に行く、TとふたりでMの家に行く。そして3人で登校した。
TもMも僕もそれぞれ都立高校に進学し、やがて大学生になった。
大学を出る頃、3人で集まって、酒を飲んだ。だからMが空調設備の会社に就職したことは知っていたのだ。十数年続いたと思う。
30代の半ば、Tが急逝した。
3人の集まりの世話役だったTがいなくなり、それからMとは年賀状だけのやりとりになった。ずっと3人で会っていたので、ふたりでどう会っていいのかわからない気もした。たとえとしてはへんだけどちょっとした『ノルウェイの森』みたいな感じだったのかもしれない。
企業CMの企画案はまとまり、Mの会社と郊外にある研究施設で撮影をすることが決まった。たまたまだったが、クライアントの広告担当の方のご主人がMの部下だという。Mに連絡してもらい、撮影の当日ほぼ20年ぶりに再会することができた。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んだ。おいおいここにアップしようと思っている。
吉村昭のこの本は学生時代大江健三郎とか安部公房を読んでいた頃、新潮社の書下ろし長編シリーズのリーフレットでその題名を記憶していたが、まったく興味がわかなかった。
日露戦争後、ポーツマス条約締結に日本の全権として尽力した当時の外相小村寿太郎の物語だ。もしこれから読みたいという方があれば、『坂の上の雲』を先に読むことをおすすめしたい。
Mの会社の人たちはみんないい人たちばかりだった。いいCMをつくらなくちゃというプレッシャーがいちだんと増した。
2016年3月19日土曜日
加東大介『南の島に雪が降る』
お彼岸ということで春の南房総を訪ねた。
内房線に乗って館山、乗り換えて千倉。路線バスで乙浜という集落で降りる。
父の墓のまわりの草取りをし、線香を手向ける。花は前日近くに住む叔母が供えてくれていた。叔母の家にお礼を言いに立ち寄る。
隣の集落は白間津という。南房総の花摘みで知られた町だ。乙浜は白浜町だが、白間津は千倉町になる。海岸通りを歩いて、写真を撮りながら白間津の寺に向かう。母方の墓がある。
彼岸のこの時期、町はひっそりとしている。花摘みの観光客が少しいるが、最盛期はもっと寒い1~2月だ。地元に住む叔母(白間津にも父の妹が住んでいる)の話ではこのあたりは夏のお盆時期ほどお彼岸は重視されていないという。秋も春も畑仕事が忙しくなるからだろう。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。TシャツにGジャンで日中はじゅうぶんなあたたかさだった。
映画に残された昭和の町並みを見たくて、古い映画をよく観る。成瀬巳喜男とか小津安二郎とか。決して主役ではないが、味のある脇をかためる名優がいる。
加東大介だ。
生真面目でもてない男の役だったり、たまに羽振りがよくてもてていたりすると詐欺だったりする。芝居的には難しいであろう役どころが多い。
兄は澤村國太郎、姉に澤村貞子、甥に長門博之、津川雅彦という役者一家の出だ。戦前は市川莚司という名で歌舞伎役者として活躍していた。
この本はニューギニアに出征していた当時、現地で兵隊たちを鼓舞する劇団をつくっていた頃の記録だ。ぽっかりと戦争から取り残された不思議な空間が舞台である。そこには抱腹絶倒かつ涙ぐましい劇団員の努力が描かれている。
昭和30年代半ばに書かれたこの本は映画化されたり、舞台化されたりしているが、最近になってちくま文庫から出版され、ようやく読むことができた。
南房総ではキンセンカや菜の花に混じってソラマメの花が咲いていた。もうひと月くらいで豆を抱いたさやが空に向かってのびることだろう。
内房線に乗って館山、乗り換えて千倉。路線バスで乙浜という集落で降りる。
父の墓のまわりの草取りをし、線香を手向ける。花は前日近くに住む叔母が供えてくれていた。叔母の家にお礼を言いに立ち寄る。
隣の集落は白間津という。南房総の花摘みで知られた町だ。乙浜は白浜町だが、白間津は千倉町になる。海岸通りを歩いて、写真を撮りながら白間津の寺に向かう。母方の墓がある。
彼岸のこの時期、町はひっそりとしている。花摘みの観光客が少しいるが、最盛期はもっと寒い1~2月だ。地元に住む叔母(白間津にも父の妹が住んでいる)の話ではこのあたりは夏のお盆時期ほどお彼岸は重視されていないという。秋も春も畑仕事が忙しくなるからだろう。
暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。TシャツにGジャンで日中はじゅうぶんなあたたかさだった。
映画に残された昭和の町並みを見たくて、古い映画をよく観る。成瀬巳喜男とか小津安二郎とか。決して主役ではないが、味のある脇をかためる名優がいる。
加東大介だ。
生真面目でもてない男の役だったり、たまに羽振りがよくてもてていたりすると詐欺だったりする。芝居的には難しいであろう役どころが多い。
兄は澤村國太郎、姉に澤村貞子、甥に長門博之、津川雅彦という役者一家の出だ。戦前は市川莚司という名で歌舞伎役者として活躍していた。
この本はニューギニアに出征していた当時、現地で兵隊たちを鼓舞する劇団をつくっていた頃の記録だ。ぽっかりと戦争から取り残された不思議な空間が舞台である。そこには抱腹絶倒かつ涙ぐましい劇団員の努力が描かれている。
昭和30年代半ばに書かれたこの本は映画化されたり、舞台化されたりしているが、最近になってちくま文庫から出版され、ようやく読むことができた。
南房総ではキンセンカや菜の花に混じってソラマメの花が咲いていた。もうひと月くらいで豆を抱いたさやが空に向かってのびることだろう。
2016年3月18日金曜日
司馬遼太郎『峠』
歴史というものは学校で教わるだけじゃないんだとつくづく思う。
というよりも学校で歴史の授業にたいして身を入れてなかったからかもしれないが、これまで知らないことが多すぎた。
幕末から明治にかけて興味を持ったのは吉村昭を読むようになってからで、その吉村昭も江戸時代を舞台にしたものはあまり関心が持てずに避けていたように思う。ちょっとしたきっかけで(そのきっかけも憶えていないのだが)『長英逃亡』と『ふぉん・しいほるとの娘』を読んで江戸末期に多少近づくことができた。
幕末~明治をもっと読んでみたいと人に相談したところ、司馬遼太郎を読めという。まずは『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』だという。さっそく読んだところ世の中には司馬遼太郎ファンというのは大勢いるもので友人知人から次は『花神』、『世に棲む日日』、『峠』を読めと指示が飛んでくる。それを読み終わったら、『関ヶ原』だ、いや『坂の上の雲』だと大河ドラマのように話がふくらんでいく。
なかでも『峠』は高校時代バレーボール部のK先輩が特に推す。聞いてみるとKさんがアメリカに留学していた頃、日本から持ち込んだ数少ない本であったらしく、なんどもくりかえし読んだという。
薩長同盟が官軍となって幕府軍を駆逐した鳥羽伏見の戦いから江戸開城あたりまでが徳川から明治への大筋であり、その先多く語られることはあまりない。東北、北海道へ逃げ延びた幕府軍が敗れ、明治政府が日本を掌握したということになっている(少なくともそう習った記憶がある)。
そうしたあまり日の当たらない歴史のなかでも白虎隊のようなサブストーリーは多少知ってはいたが、越後長岡にスイスのような永世中立国をつくろうとした男がいたなどとはこの本を読まない限り知りようがなかったと思う。
歴史というのは大きな事件の羅列ではなく、小さなできごとが絡み合ってつみかさなっていくものなのだと今さらのように感じるのだ。歴史は教わるよりも学ぶ方が断然おもしろい。
というよりも学校で歴史の授業にたいして身を入れてなかったからかもしれないが、これまで知らないことが多すぎた。
幕末から明治にかけて興味を持ったのは吉村昭を読むようになってからで、その吉村昭も江戸時代を舞台にしたものはあまり関心が持てずに避けていたように思う。ちょっとしたきっかけで(そのきっかけも憶えていないのだが)『長英逃亡』と『ふぉん・しいほるとの娘』を読んで江戸末期に多少近づくことができた。
幕末~明治をもっと読んでみたいと人に相談したところ、司馬遼太郎を読めという。まずは『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』だという。さっそく読んだところ世の中には司馬遼太郎ファンというのは大勢いるもので友人知人から次は『花神』、『世に棲む日日』、『峠』を読めと指示が飛んでくる。それを読み終わったら、『関ヶ原』だ、いや『坂の上の雲』だと大河ドラマのように話がふくらんでいく。
なかでも『峠』は高校時代バレーボール部のK先輩が特に推す。聞いてみるとKさんがアメリカに留学していた頃、日本から持ち込んだ数少ない本であったらしく、なんどもくりかえし読んだという。
薩長同盟が官軍となって幕府軍を駆逐した鳥羽伏見の戦いから江戸開城あたりまでが徳川から明治への大筋であり、その先多く語られることはあまりない。東北、北海道へ逃げ延びた幕府軍が敗れ、明治政府が日本を掌握したということになっている(少なくともそう習った記憶がある)。
そうしたあまり日の当たらない歴史のなかでも白虎隊のようなサブストーリーは多少知ってはいたが、越後長岡にスイスのような永世中立国をつくろうとした男がいたなどとはこの本を読まない限り知りようがなかったと思う。
歴史というのは大きな事件の羅列ではなく、小さなできごとが絡み合ってつみかさなっていくものなのだと今さらのように感じるのだ。歴史は教わるよりも学ぶ方が断然おもしろい。
2016年2月27日土曜日
杉浦日向子『合葬』
仕事で絵を描いている。
というとちょっとアーティスティックな印象を与えてしまうかもしれないが、そんなにたいそうなものを描いているわけではない。テレビコマーシャルとかWebムービーなど映像コンテンツの企画の仕事をしている。絵など描かずに文章だけでもじゅうぶん仕事はできるんだけど絵があるとイメージしやすく意図が伝わりやすい。絵を見せてもわからない人もいるが。
絵を描くのはその日の気分でサインペンやゲルインキのボールペンを使う。立派な画材を使うような絵は描けないのでもっぱら、安価な筆記具とコピー用紙を使う。最近は0.5ミリとか0.7ミリのシャープペンシルを使う。
シャープペンシルといえば昔からノックボタンの内側に消しゴムが付いていた。
いったい誰が考えついたんだろう。たしかにとっさの場合には便利な構造である。考えついた人の頭上に電球が煌々と輝いたにちがいない。
ところがそこに付いている消しゴムは今どきのよく消えるタイプ(プラスティックイレーサーというらしい)のものではない。昔ながらの、下手をすると紙を汚したり、破いたりしかねない消しゴムだ。正直言って実用性に乏しい。使うとすればどうしようもないときだ。
別の見方もある。華奢なシャープペンシル(昔はシャープペンシルといえば500~1,000円はしたであろう高価な文具だったが、今は100円くらいで買えるし、それ相応の身なりをしている)はノックボタンがはずれやすく、それによって中の芯がこぼれ落ちやすい。消しゴムはその落下防止のための中ブタなのではないか。
久しぶりに漫画を読んだ。昨年映画化された『合葬』だ。
先日、吉村昭の『彰義隊』を読んだが、同じ彰義隊の物語でありながら、こちらは事件の全体像より幕府側の若者にフォーカスしている。息絶えようとする江戸時代。はかないサムライの命がはかなく描かれていた。
杉浦日向子はシャープペンシルなんか使わないんだろうな。
2016年2月6日土曜日
スティーヴンスン『宝島』
実家近くにある区のセンターで水墨画の教室があるという。
母の知人も何人か通っているらしいが、聞くところによると昔、僕の母校(小学校)で教鞭をとっていた女性が隣の区から通われているという。母に言わせるとその先生が僕のことをよく覚えていてちょくちょく話題にしてるんだそうだ。
最初のうちは誰だろうと思っていたが、小学校の6年間で女の先生だったのは3~4年のときだけだからそのときの担任の先生にちがいない。隣の区から通っているって、田園調布の方かなと母に訊くとそんなことを言ってたという。まちがいない。当時担任のA先生ないしはY先生だ。
AとYでは大ちがいだが、たしかその頃結婚されて苗字が変わった。A先生からY先生になったのか、あるいはその逆か。そのあたりは思い出せない(以下、仮にY先生としよう)。
Y先生はあるとき体調をくずされて、ほぼひと月近く休んでいた。同級の誰かがある日お見舞いに行こうと言い出した。住所はわかる。最寄駅もわかる。ということで男子生徒有志で相手の迷惑もかえりみず、電車に乗って行ったのだ。
駅に着いてからがたいへんだった。はじめて降りる駅。地図はなく、所番地を記した紙切れ一枚だけ。街区表示板だけをたよりに延々とさがしまわった末、ようやくたどり着いた。突然十人くらいの男子生徒に押しかけられて先生もほとほと困ったことだろう。
お菓子をいただき、庭の芝生で遊ばせてもらった。記憶に残っているのはそのくらいだ。
この頃主に読んでいた本はポプラ社の伝記だった。
その後、冒険ものや怪盗ルパンが好きになる。そのなかでもしくりかえし読んだのは『宝島』だ。自分で模写した地図を手に読みすすめた。
光文社古典新訳シリーズにこの一冊があるのを知り、あらためて読んでみる。何十年ぶりだろう。地図も載っている。遠い記憶が呼びさまされる。ジム・ホーキンスに久しぶりに出会う。
冒険小説にめざめたのは、Y先生の家をさがしまわったあの日だったのかもしれない。
母の知人も何人か通っているらしいが、聞くところによると昔、僕の母校(小学校)で教鞭をとっていた女性が隣の区から通われているという。母に言わせるとその先生が僕のことをよく覚えていてちょくちょく話題にしてるんだそうだ。
最初のうちは誰だろうと思っていたが、小学校の6年間で女の先生だったのは3~4年のときだけだからそのときの担任の先生にちがいない。隣の区から通っているって、田園調布の方かなと母に訊くとそんなことを言ってたという。まちがいない。当時担任のA先生ないしはY先生だ。
AとYでは大ちがいだが、たしかその頃結婚されて苗字が変わった。A先生からY先生になったのか、あるいはその逆か。そのあたりは思い出せない(以下、仮にY先生としよう)。
Y先生はあるとき体調をくずされて、ほぼひと月近く休んでいた。同級の誰かがある日お見舞いに行こうと言い出した。住所はわかる。最寄駅もわかる。ということで男子生徒有志で相手の迷惑もかえりみず、電車に乗って行ったのだ。
駅に着いてからがたいへんだった。はじめて降りる駅。地図はなく、所番地を記した紙切れ一枚だけ。街区表示板だけをたよりに延々とさがしまわった末、ようやくたどり着いた。突然十人くらいの男子生徒に押しかけられて先生もほとほと困ったことだろう。
お菓子をいただき、庭の芝生で遊ばせてもらった。記憶に残っているのはそのくらいだ。
この頃主に読んでいた本はポプラ社の伝記だった。
その後、冒険ものや怪盗ルパンが好きになる。そのなかでもしくりかえし読んだのは『宝島』だ。自分で模写した地図を手に読みすすめた。
光文社古典新訳シリーズにこの一冊があるのを知り、あらためて読んでみる。何十年ぶりだろう。地図も載っている。遠い記憶が呼びさまされる。ジム・ホーキンスに久しぶりに出会う。
冒険小説にめざめたのは、Y先生の家をさがしまわったあの日だったのかもしれない。
2016年2月4日木曜日
吉村昭『彰義隊』
及川惣吉さんが亡くなられたと聞いた。
及川さんはわずか数年ではあったが、広告会社でサラリーマンだった時代の僕の上司であり、コピーライターだった。大学卒業後勤めはじめた会社が傾いて、博報堂に文案家として就職しなおし、それから間もなく電通にスカウトされて移籍した。ちょっと風変わりな経歴の持ち主である。昭和30年代半ばのスターだった。
及川さんのすごいところはずしりと響くそのコピーだけでなく、クリエーティブディレクターとして多くのコピーライターやアートディレクターを生み出したところにある。クリエーティブの才能や能力を継承していくのはまさに電通の得意とするところだ。
僕は30歳になる少し前に及川さんに出会った。及川さんは還暦のちょっと手前だった。もう少しはやくめぐり会えて、広告作法を直に学べていたら、僕ももう少しまともなクリエーティブになっていたかもしれない。それでも及川さんは時間さえあれば毎晩のように酒場に連れて行ってくれた。そして飄々と昔話やら友の話やらを聞かせてくれた。
及川さんは酔うとよく踊った。誰かがカラオケで歌いだしたりするとそこらにある棒っきれを手に(本人は刀のつもりらしい)踊りはじめる。店がせまいと路地に出て踊る。最初は呆気にとられるのだが、慣れてくるとカッコいい。男のダンディズムを感じる。阿久悠が作詩して沢田研二が歌った「カサブラン・カダンディ」という曲があった。「男がピカピカのキザでいられた」ハンフリー・ボガードの時代が歌われている。今さらおだてても仕方ないが、及川さんにはそんな粋でカッコいいところがあった。
彰義隊。
サムライの時代はほぼ終わっている。武家社会の栄光だけをたよりに失われた時代にすがりつく男たち。新たな時代の新たな勢力に屈することを拒絶した若者たちのドラマはちょっとした美学=ダンディズムだったのではないか。
2月生まれの及川さんはもうすぐ84歳だった。どうかあの世でもカッコいい踊りを披露してください。
及川さんはわずか数年ではあったが、広告会社でサラリーマンだった時代の僕の上司であり、コピーライターだった。大学卒業後勤めはじめた会社が傾いて、博報堂に文案家として就職しなおし、それから間もなく電通にスカウトされて移籍した。ちょっと風変わりな経歴の持ち主である。昭和30年代半ばのスターだった。
及川さんのすごいところはずしりと響くそのコピーだけでなく、クリエーティブディレクターとして多くのコピーライターやアートディレクターを生み出したところにある。クリエーティブの才能や能力を継承していくのはまさに電通の得意とするところだ。
僕は30歳になる少し前に及川さんに出会った。及川さんは還暦のちょっと手前だった。もう少しはやくめぐり会えて、広告作法を直に学べていたら、僕ももう少しまともなクリエーティブになっていたかもしれない。それでも及川さんは時間さえあれば毎晩のように酒場に連れて行ってくれた。そして飄々と昔話やら友の話やらを聞かせてくれた。
及川さんは酔うとよく踊った。誰かがカラオケで歌いだしたりするとそこらにある棒っきれを手に(本人は刀のつもりらしい)踊りはじめる。店がせまいと路地に出て踊る。最初は呆気にとられるのだが、慣れてくるとカッコいい。男のダンディズムを感じる。阿久悠が作詩して沢田研二が歌った「カサブラン・カダンディ」という曲があった。「男がピカピカのキザでいられた」ハンフリー・ボガードの時代が歌われている。今さらおだてても仕方ないが、及川さんにはそんな粋でカッコいいところがあった。
彰義隊。
サムライの時代はほぼ終わっている。武家社会の栄光だけをたよりに失われた時代にすがりつく男たち。新たな時代の新たな勢力に屈することを拒絶した若者たちのドラマはちょっとした美学=ダンディズムだったのではないか。
2月生まれの及川さんはもうすぐ84歳だった。どうかあの世でもカッコいい踊りを披露してください。
2016年2月1日月曜日
ラズロ・ボック『ワーク・ルールズ!』
とあるCM制作会社の話。
その会社では作業があってお昼を食べに行けない社員のために蕎麦屋とか中華の店からほぼ毎日出前をとっていた。その際、社員の負担は少額の定額(たとえば一食300円とか)にして、給与から天引きしていた。また近くにおでん屋があった。夜は居酒屋みたいになるんだけど昼はランチがあり、そこでも会社名と名前を告げればお金を払わなくてよかった。同じように天引きされた。
食べるってだいじなことだ。
グーグルでは社内にマイクロキッチンと呼ばれる社員食堂やカフェテリアで無料の食事が提供されている。全世界で一日10万食におよぶという。
この制作会社の昼食は無料ではないけれど、外に出られない社員のことをよく考えていた制度だった。自由な発想とか工夫だとかはこうしたなんてこともないサポートから生まれたりする。
時間がない、昼飯どうしよう。今日ははやく帰って洗濯しなくちゃ、貯まっちゃってるからな。ずっと髪を切りたいと思っているんだけど休みがとれない、休日もやることがいっぱいで美容院に行けない。
実はこうした些細なことがイノベーションの障害になっている。グーグルのオフィスにはクリーニング屋がやってくる。移動美容室も訪れる。ちょっとした気がかりなことをちゃんと取りのぞくサービス、福利厚生がある。
この本はマイクロキッチンの本ではない。クリーニングサービスや移動美容室の話でもない。イノベーションを起こすためのクリエーティブなオフィスはどうあるべきか。その基本的な考え方から解き明かしている。グーグルの人事責任者が書いている。どんな人材をどうやって選んで採用するのかから語られる。
先のCM制作会社では経済環境、経営環境の変化から昼食補助制度はなくなってしまったようである。ああ、今日も昼飯抜きかなあ、コンビニで何か買って適当に済ませようかな、なんて思いが仕事にとってたいせつな発想を妨げてはいないだろうか。
その会社では作業があってお昼を食べに行けない社員のために蕎麦屋とか中華の店からほぼ毎日出前をとっていた。その際、社員の負担は少額の定額(たとえば一食300円とか)にして、給与から天引きしていた。また近くにおでん屋があった。夜は居酒屋みたいになるんだけど昼はランチがあり、そこでも会社名と名前を告げればお金を払わなくてよかった。同じように天引きされた。
食べるってだいじなことだ。
グーグルでは社内にマイクロキッチンと呼ばれる社員食堂やカフェテリアで無料の食事が提供されている。全世界で一日10万食におよぶという。
この制作会社の昼食は無料ではないけれど、外に出られない社員のことをよく考えていた制度だった。自由な発想とか工夫だとかはこうしたなんてこともないサポートから生まれたりする。
時間がない、昼飯どうしよう。今日ははやく帰って洗濯しなくちゃ、貯まっちゃってるからな。ずっと髪を切りたいと思っているんだけど休みがとれない、休日もやることがいっぱいで美容院に行けない。
実はこうした些細なことがイノベーションの障害になっている。グーグルのオフィスにはクリーニング屋がやってくる。移動美容室も訪れる。ちょっとした気がかりなことをちゃんと取りのぞくサービス、福利厚生がある。
この本はマイクロキッチンの本ではない。クリーニングサービスや移動美容室の話でもない。イノベーションを起こすためのクリエーティブなオフィスはどうあるべきか。その基本的な考え方から解き明かしている。グーグルの人事責任者が書いている。どんな人材をどうやって選んで採用するのかから語られる。
先のCM制作会社では経済環境、経営環境の変化から昼食補助制度はなくなってしまったようである。ああ、今日も昼飯抜きかなあ、コンビニで何か買って適当に済ませようかな、なんて思いが仕事にとってたいせつな発想を妨げてはいないだろうか。
2016年1月25日月曜日
吉村昭『破獄』
第一級の寒波が押し寄せているという。
このところ気象状況はおかしい。夏はどこまでも暑く、冬はとことん寒い。とはいえ冬は気温が10度を超えて暖かい日も続く。今年は暖冬かというニュースがテレビや新聞でにぎわう。読んでいるだけで少し暖かくなる。
若い頃は(ああ、このフレーズを出したところで負けだ)、多少の寒さは何とも思わなかった。暑いのにくらべればたいてい我慢ができた。Tシャツにダウンジャケット。そんな出で立ちで町を歩いていた。ズボンの下にタイツなんか絶対に穿かなかった。
それがどうしたものか、今は寒いことがなによりつらい。困ったものだ。
凍えるような小説を読むのも冬場にはよくない。去年の秋、吉村昭の『間宮林蔵』を読んだ。厳冬のなか樺太を探検する物語だ。真冬に読むべき小説ではない。身体によくない。
南極探検の映画を観ても、ふるえるような寒さをぜんぜん感じないのに、小説からだと寒さが身にしみる。不思議なことだ。
これまで運がよかったのか、行いがよかったのか、刑務所のお世話になったことがない。くさい飯を食って、出所する際子分が迎えに来ていて「おつとめご苦労さまでございました」なんて言われたこともない。夕張かなんかの駅でかつ丼とラーメンを注文し、ビールを注いだグラスをふるえる両手で持って飲み干したこともない。
もちろんこれらを経験したいがために刑務所に入ってみたいと思ったこともない。
ただ獄中生活というのは小説を読む者にとってなんとリアルなことなんだろうと思う。
山本周五郎『さぶ』の栄二、大岡昇平『ながい旅』の岡田資、そして吉村作品なら高野長英、関鉄之介。吉田松陰もそうだ。
皆、監獄にあった。
獄は外界とすべてにおいて遮断された空間だった。これを破って外に出るなど、刑務所生活を送った者にも想像できまい。しかも破獄した男は極寒の北海道東北で冬を越す。
年明け急に寒くなったのはこの本を読んだことと無関係ではないだろう。
このところ気象状況はおかしい。夏はどこまでも暑く、冬はとことん寒い。とはいえ冬は気温が10度を超えて暖かい日も続く。今年は暖冬かというニュースがテレビや新聞でにぎわう。読んでいるだけで少し暖かくなる。
若い頃は(ああ、このフレーズを出したところで負けだ)、多少の寒さは何とも思わなかった。暑いのにくらべればたいてい我慢ができた。Tシャツにダウンジャケット。そんな出で立ちで町を歩いていた。ズボンの下にタイツなんか絶対に穿かなかった。
それがどうしたものか、今は寒いことがなによりつらい。困ったものだ。
凍えるような小説を読むのも冬場にはよくない。去年の秋、吉村昭の『間宮林蔵』を読んだ。厳冬のなか樺太を探検する物語だ。真冬に読むべき小説ではない。身体によくない。
南極探検の映画を観ても、ふるえるような寒さをぜんぜん感じないのに、小説からだと寒さが身にしみる。不思議なことだ。
これまで運がよかったのか、行いがよかったのか、刑務所のお世話になったことがない。くさい飯を食って、出所する際子分が迎えに来ていて「おつとめご苦労さまでございました」なんて言われたこともない。夕張かなんかの駅でかつ丼とラーメンを注文し、ビールを注いだグラスをふるえる両手で持って飲み干したこともない。
もちろんこれらを経験したいがために刑務所に入ってみたいと思ったこともない。
ただ獄中生活というのは小説を読む者にとってなんとリアルなことなんだろうと思う。
山本周五郎『さぶ』の栄二、大岡昇平『ながい旅』の岡田資、そして吉村作品なら高野長英、関鉄之介。吉田松陰もそうだ。
皆、監獄にあった。
獄は外界とすべてにおいて遮断された空間だった。これを破って外に出るなど、刑務所生活を送った者にも想像できまい。しかも破獄した男は極寒の北海道東北で冬を越す。
年明け急に寒くなったのはこの本を読んだことと無関係ではないだろう。
2016年1月23日土曜日
池井戸潤『下町ロケット2』
TVerというサービスがはじまった。
テレビで視逃した番組をあとでネットで視聴できるというそんな試み。
どうしても視たい番組を視るために残業を切り上げ、付き合いもほどほどに急いで帰宅して、待ってましたばかりにチャンネルを合わせる…。もうそんな時代ではないらしい。
テレビ番組を放映スケジュール通りに視聴することを近ごろの青少年たちはリアルタイムで視る、略して「リアタイで視る」と呼んでいる。ここぞという番組は「リアタイ」で視たいと思うのが、昨今の若者なんだそうだ。
そもそもテレビ番組なんてものはリアタイで視るのが当たり前だった。視逃したやつは視逃したやつがわるい。翌日教室や職場での話題に取り残される。テレビとはそういうものだった。
ところが近年、インターネットを駆使したオンデマンド視聴が普及する。何も急いで帰宅して、銭湯をはやめに切り上げてテレビの前に座らなくてもよくなった。
その結果、逆に「リアタイ」で視る価値が見直された。ちなみにツイッターで「リアタイ」を検索すると「○○(番組名)久々リアタイ」なんていうツイートが山ほどあらわれる。
たしかにテレビというメディアが送り込むコンテンツの中で今もっとも力を持つのは一回きりの放映で同時に視聴することに価値のある番組だという。たとえば生中継のスポーツ番組がそう。毎年全米を熱狂させるスーパーボウルに企業が莫大な媒体費を投じるのも、質の高いリアルタイム視聴者に広告を届けたいがためなのだ。
メディアの話はともかくとして、テレビドラマ「下町ロケット」、「下町ロケット2」ではTVerが大いに役立った。視逃した回を視たのはもちろんのこと、日曜視たのに月曜にもう一回視たりとか。
まあとにかく久しぶりにしつこいくらいテレビドラマを視てしまったのだ。
前作はロケットエンジンのキーデバイスであるバルブの開発話だった。今回はその技術を医療に応用した。技術ってすごいもんだ。
テレビで視逃した番組をあとでネットで視聴できるというそんな試み。
どうしても視たい番組を視るために残業を切り上げ、付き合いもほどほどに急いで帰宅して、待ってましたばかりにチャンネルを合わせる…。もうそんな時代ではないらしい。
テレビ番組を放映スケジュール通りに視聴することを近ごろの青少年たちはリアルタイムで視る、略して「リアタイで視る」と呼んでいる。ここぞという番組は「リアタイ」で視たいと思うのが、昨今の若者なんだそうだ。
そもそもテレビ番組なんてものはリアタイで視るのが当たり前だった。視逃したやつは視逃したやつがわるい。翌日教室や職場での話題に取り残される。テレビとはそういうものだった。
ところが近年、インターネットを駆使したオンデマンド視聴が普及する。何も急いで帰宅して、銭湯をはやめに切り上げてテレビの前に座らなくてもよくなった。
その結果、逆に「リアタイ」で視る価値が見直された。ちなみにツイッターで「リアタイ」を検索すると「○○(番組名)久々リアタイ」なんていうツイートが山ほどあらわれる。
たしかにテレビというメディアが送り込むコンテンツの中で今もっとも力を持つのは一回きりの放映で同時に視聴することに価値のある番組だという。たとえば生中継のスポーツ番組がそう。毎年全米を熱狂させるスーパーボウルに企業が莫大な媒体費を投じるのも、質の高いリアルタイム視聴者に広告を届けたいがためなのだ。
メディアの話はともかくとして、テレビドラマ「下町ロケット」、「下町ロケット2」ではTVerが大いに役立った。視逃した回を視たのはもちろんのこと、日曜視たのに月曜にもう一回視たりとか。
まあとにかく久しぶりにしつこいくらいテレビドラマを視てしまったのだ。
前作はロケットエンジンのキーデバイスであるバルブの開発話だった。今回はその技術を医療に応用した。技術ってすごいもんだ。
2016年1月19日火曜日
池井戸潤『下町ロケット』
「こうじょう」ではない。「こうば」である。小学校の同級生も工場の子が多かった。彼らはたいてい野球が上手かった。子どもの頃は不思議に思っていたけれど、今考えてみれば若い工員さんたちがキャッチボールの相手をしてくれたり、河川敷で楽しむ娯楽の野球におそらく連れて行ってくれたにちがいない。そしてたぶん、道具だってそろっていただろう。
そんな工場の子が、今思い出せるだけでもクラスに3人いた。工場で何をつくっていたのか、まるで知らない。近所のM君の家では鉄を削っていた。薄く細いばねのような削りくずがドラム缶に何杯も置かれていた。旋盤やボール盤があった。そうした工作機械の名前を知ったのもずっと後のことである。M君の家で働いていた職人さんにベーゴマを削ってもらった記憶がある。あっという間の作業だった。
ところで品川の大井町や戸越のあたりになぜ小さな工場が多かったのだろう。やはりその一帯が工場地帯だったからか。
区名に川が付く品川は川の町だ。目黒川と立会川。
立会川はほぼ暗渠になってしまったが、三菱重工、日本光学、さらには国鉄大井工場と川沿いに大きな工場があった。目黒川もしかり。再開発されて景観が一新した大崎駅界隈は工場しかなかった。
これらの工場に供給する部品が同級生の家でつくられていたのではあるまいか。そして彼らはキャッチボールで鍛えられていった。
僕の記憶に残る町工場のイメージにくらべると佃製作所はなかなか立派な工場だ。ちゃんとした中小企業であり、零細ではない。しかも夢を持っている。M君の家をはじめとする当時の町工場にだって夢はあったと思う。きっともっとささないな夢だっただろうが、それはそれでいい時代だったと思う。
単行本が出て、直木賞を受賞した頃からずっと読みたかった一冊。文庫本を待っていた。ようやく出た。テレビドラマのはじまりになんとか間に合った。
2016年1月14日木曜日
司馬遼太郎『世に棲む日日』
暮れに千住を歩いた。
事前に地図を見ながら思い出したのは荒川放水路の開削によって東部伊勢崎線(今はスカイツリーラインという愛称で呼ばれているらしい)のルートが変更されたこと。以前読んだ本(それが思い出せないのだが)によると伊勢崎線は鐘淵からゆるくカーブを描きながら、堀切、牛田を通り、北千住に向かっていた。ところがちょうど堀切駅あたりが荒川の水路となるため、鐘淵〜堀切間を直線にした。結果、荒川の土手沿いを走る路線となり、いちど廃駅になった堀切駅がその後、荒川の東岸土手下に駅舎を構えることになった。このとき駅名を変えればよかったのだろうが、堀切という名前のままにした。堀切は荒川を渡ったところの葛飾区の町だが、その手前の足立区千住曙町に駅があるのはそういうわけだ。
もう少し下流に京成押上線八広駅がある。この駅は平成4年まで荒川駅と呼ばれていた。山田洋次監督「下町の太陽」で倍賞千恵子を勝呂誉が追いかけてくる荒川土手の上にある駅だ。このあたりは墨田区八広なのだが、荒川区と間違えられるというので駅名が変更されたという。そもそもこの駅ができた頃、荒川区はまだなかった。
『世に棲む日々』は前半が吉田松陰、後半が高杉晋作にフォーカスした大河小説だ。昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」とシンクロする部分も多い。「花燃ゆ」は明治中ごろまで話が続く。江戸~明治をこれほど跨いだドラマも珍しい。
松陰も高杉も幕末維新に欠かせない存在ではあるが、到底ふたりだけでは語りきれない。その前後があってはじめて物語になる(黒船から大政奉還、鳥羽伏見の戦いくらいまでがひとかたまりの歴史のような気が個人的にはしている)。2大スター豪華共演的な小説ではあるけれど、よほど筆力に自信がなければ実は難しいテーマなのではないかと思う。その点ひょうひょうと書き連ねて読みものにしてしまうのが司馬遼太郎という作家の実力なのだろうが。
事前に地図を見ながら思い出したのは荒川放水路の開削によって東部伊勢崎線(今はスカイツリーラインという愛称で呼ばれているらしい)のルートが変更されたこと。以前読んだ本(それが思い出せないのだが)によると伊勢崎線は鐘淵からゆるくカーブを描きながら、堀切、牛田を通り、北千住に向かっていた。ところがちょうど堀切駅あたりが荒川の水路となるため、鐘淵〜堀切間を直線にした。結果、荒川の土手沿いを走る路線となり、いちど廃駅になった堀切駅がその後、荒川の東岸土手下に駅舎を構えることになった。このとき駅名を変えればよかったのだろうが、堀切という名前のままにした。堀切は荒川を渡ったところの葛飾区の町だが、その手前の足立区千住曙町に駅があるのはそういうわけだ。
もう少し下流に京成押上線八広駅がある。この駅は平成4年まで荒川駅と呼ばれていた。山田洋次監督「下町の太陽」で倍賞千恵子を勝呂誉が追いかけてくる荒川土手の上にある駅だ。このあたりは墨田区八広なのだが、荒川区と間違えられるというので駅名が変更されたという。そもそもこの駅ができた頃、荒川区はまだなかった。
『世に棲む日々』は前半が吉田松陰、後半が高杉晋作にフォーカスした大河小説だ。昨年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」とシンクロする部分も多い。「花燃ゆ」は明治中ごろまで話が続く。江戸~明治をこれほど跨いだドラマも珍しい。
松陰も高杉も幕末維新に欠かせない存在ではあるが、到底ふたりだけでは語りきれない。その前後があってはじめて物語になる(黒船から大政奉還、鳥羽伏見の戦いくらいまでがひとかたまりの歴史のような気が個人的にはしている)。2大スター豪華共演的な小説ではあるけれど、よほど筆力に自信がなければ実は難しいテーマなのではないかと思う。その点ひょうひょうと書き連ねて読みものにしてしまうのが司馬遼太郎という作家の実力なのだろうが。
2016年1月12日火曜日
司馬遼太郎『花神』
暮れに下町探検隊のK隊長から、仕事納めが終わったらどこか歩きましょうとお誘いを受け、千住界隈を歩いた。
北千住駅で待ち合わせて、ゆるゆると南千住方面へ。
千住大橋を渡る。
大きな橋ではないが、アーチが美しい。上流側に水道橋、下流側に日光街道のバイパスが走っていて、遠くからその景観を眺めることができないのが残念だ。
南千住駅に出る。
小塚原回向院、延命寺、JR貨物隅田川駅を見て、大林酒場へ。反省会と称してひたすら飲んだ。
桂小五郎が吉田松陰の埋葬のためここに来たとき、腑分け(解剖)をしていた村田蔵六に出会ったとこの本には書かれている。司馬遼太郎の創作で史実ではないらしい。
千住探検の反省会以降の記憶はまったくなくなってしまったので、場所を九段に移す。40年前、靖国神社にほど近い高校に入学した。大村益次郎に出会ったのはそのときである。以来、その人がいかなる人であったか、知ることもなく時はながれた。
高校時代の友人Tは大河ドラマで「花神」を 視て、さらに司馬遼太郎も読んでいたという。こちらは何も知らない。坂本竜馬も新選組も去年読んでようやくわかったくらいである。これほどの知識量の格差があるなかで、よくぞここまでTと友だちづきあいをしてきたものだと思う。
実は『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』を読み終えたあと次に読むなら『花神』、『世に棲む日日』、『峠』がいいとすすめてくれたのもTである。
この頃、蘭学を志すということは医学を学ぶということだったが、世の中に可及的に必要とされるのは軍事力の強化だった。医学から兵学へ方向転換していくことは自然の成り行きでもあった。西洋近代の世界を覗き見るにはオランダ語という窓しかなかった時代だ(大村益次郎よりやや時代は遡るが、高野長英もそうだった)。
とはいえ、医学も国防も近代国家の成り立ちに欠かすことのできない普遍的な学問だ。
大村益次郎は、靖国神社の真ん中に立つべくして立った人だった。
北千住駅で待ち合わせて、ゆるゆると南千住方面へ。
千住大橋を渡る。
大きな橋ではないが、アーチが美しい。上流側に水道橋、下流側に日光街道のバイパスが走っていて、遠くからその景観を眺めることができないのが残念だ。
南千住駅に出る。
小塚原回向院、延命寺、JR貨物隅田川駅を見て、大林酒場へ。反省会と称してひたすら飲んだ。
桂小五郎が吉田松陰の埋葬のためここに来たとき、腑分け(解剖)をしていた村田蔵六に出会ったとこの本には書かれている。司馬遼太郎の創作で史実ではないらしい。
千住探検の反省会以降の記憶はまったくなくなってしまったので、場所を九段に移す。40年前、靖国神社にほど近い高校に入学した。大村益次郎に出会ったのはそのときである。以来、その人がいかなる人であったか、知ることもなく時はながれた。
高校時代の友人Tは大河ドラマで「花神」を 視て、さらに司馬遼太郎も読んでいたという。こちらは何も知らない。坂本竜馬も新選組も去年読んでようやくわかったくらいである。これほどの知識量の格差があるなかで、よくぞここまでTと友だちづきあいをしてきたものだと思う。
実は『竜馬がゆく』、『燃えよ剣』を読み終えたあと次に読むなら『花神』、『世に棲む日日』、『峠』がいいとすすめてくれたのもTである。
この頃、蘭学を志すということは医学を学ぶということだったが、世の中に可及的に必要とされるのは軍事力の強化だった。医学から兵学へ方向転換していくことは自然の成り行きでもあった。西洋近代の世界を覗き見るにはオランダ語という窓しかなかった時代だ(大村益次郎よりやや時代は遡るが、高野長英もそうだった)。
とはいえ、医学も国防も近代国家の成り立ちに欠かすことのできない普遍的な学問だ。
大村益次郎は、靖国神社の真ん中に立つべくして立った人だった。
2015年11月4日水曜日
吉村昭『間宮林蔵』
日本史は嫌いじゃなかった。
そもそも歴史みたいに過去をひもといていく作業が好きだった。
幼少の頃、毎月母親に買ってもらっていた漫画雑誌は『少年』だった。その後『少年画報』に鞍替えした。『少年』時代はおそらく就学前で字もろくすっぽ読めなかった。「鉄人28号」と「鉄腕アトム」を眺めているうちに読めるようになった。たぶん、そうだ。
『少年画報』にしたのはチェリッシュの、白いギターに替えたのはなにかわけでもあるのでしょうかじゃないけれど、おそらく理由があったはずで、残念ながらまったく記憶がない。付録が豪華だったとかそんなことじゃないかと思っている。この鞍替え後、まずやったのは気に入った連載漫画のその前はどんな内容だったかをさぐることだった。
こうして古本屋めぐりがはじまった。9月号を見つけると次は8月号を見つけ、7月号を見つけ…と順番を逆にして読んでいったのだ。
ところが当時は本誌と小冊子の付録にわかれている連載がいくつかあり、本誌のバックナンバーを追いかけるだけでは過去をたどりきれない。それでも縁日やお祭りの夜店で付録冊子を見つけては、綿菓子や金魚なんぞはそっちのけで買い漁ったものだ。
それと歴史好きとはあまり関係はないのかもしれない。
間宮林蔵は間宮海峡を発見した人くらいの知識しかない。風雪流れ旅のような、南極物語のような過酷な冒険がそこにあったとは知る由もなかった。それとシーボルト事件とのかかわりも。
この本を読んでいたのは猛暑の続く8月中ごろ。一服の清涼剤どころか、汗をかきながら凍えるような心持だった。
読み終わって少したって、江東区塩浜に出かける用事があった。残暑の厳しい日、月島から相生橋を渡り、越中島を経て塩浜まで歩く。ふと、そういえば富岡八幡宮に間宮林蔵の銅像があったなと思い出し、その帰り途、門前仲町まで歩いた。
人間の記憶なんて、いい加減なものだなあ、間宮林蔵ではなく、伊能忠敬だった。
そもそも歴史みたいに過去をひもといていく作業が好きだった。
幼少の頃、毎月母親に買ってもらっていた漫画雑誌は『少年』だった。その後『少年画報』に鞍替えした。『少年』時代はおそらく就学前で字もろくすっぽ読めなかった。「鉄人28号」と「鉄腕アトム」を眺めているうちに読めるようになった。たぶん、そうだ。
『少年画報』にしたのはチェリッシュの、白いギターに替えたのはなにかわけでもあるのでしょうかじゃないけれど、おそらく理由があったはずで、残念ながらまったく記憶がない。付録が豪華だったとかそんなことじゃないかと思っている。この鞍替え後、まずやったのは気に入った連載漫画のその前はどんな内容だったかをさぐることだった。
こうして古本屋めぐりがはじまった。9月号を見つけると次は8月号を見つけ、7月号を見つけ…と順番を逆にして読んでいったのだ。
ところが当時は本誌と小冊子の付録にわかれている連載がいくつかあり、本誌のバックナンバーを追いかけるだけでは過去をたどりきれない。それでも縁日やお祭りの夜店で付録冊子を見つけては、綿菓子や金魚なんぞはそっちのけで買い漁ったものだ。
それと歴史好きとはあまり関係はないのかもしれない。
間宮林蔵は間宮海峡を発見した人くらいの知識しかない。風雪流れ旅のような、南極物語のような過酷な冒険がそこにあったとは知る由もなかった。それとシーボルト事件とのかかわりも。
この本を読んでいたのは猛暑の続く8月中ごろ。一服の清涼剤どころか、汗をかきながら凍えるような心持だった。
読み終わって少したって、江東区塩浜に出かける用事があった。残暑の厳しい日、月島から相生橋を渡り、越中島を経て塩浜まで歩く。ふと、そういえば富岡八幡宮に間宮林蔵の銅像があったなと思い出し、その帰り途、門前仲町まで歩いた。
人間の記憶なんて、いい加減なものだなあ、間宮林蔵ではなく、伊能忠敬だった。
2015年10月15日木曜日
司馬遼太郎『燃えよ剣』
今年もあっという間に夏が終わり、野球の秋を迎えている。
高校野球の秋季大会、大学野球と毎週盛り上がりを見せている。母校の応援と称して都の秋季大会ブロック予選を3試合観る。昨秋、春、そして夏と惨敗した(全試合コールド負け)わが母校は奇跡的なくじ運に恵まれ、初戦、二回戦ともに弱小都立校に勝利し、ブロック決勝にコマを進めた。立ちふさがるのは都立の星小山台。
まあそう簡単には本大会には行かせてくれない。
その小山台も本大会の初戦でコールド負けしてしまった。
そういえば野球の日本代表をいつの頃からか侍ジャパンと呼んでいる。
さて、幕末シリーズ。
勝どきさんのおすすめ、『燃えよ剣』を読む。
新選組に関しては以前大河ドラマで「新選組!」を少し視た程度の知識しかない。新選組好きな人たちが集まる飲み会で「池田屋のときにね」みたいなことばが耳に入るが、なんのことやらさっぱりわからなかった。そういえば今放映中の大河ドラマ「花燃ゆ」にも新選組が登場していた。沖田総司が長州藩(かどうかわからないが)志士たちを切りまくっていたっけ。
今回本書を読むにあたっての大きな目的は新選組であるとか尊王攘夷派の志士たちの位置関係を掌握することにある。なんとも心もとない読者である。
この小説の主人公は土方歳三。新選組局長近藤勇を支えた副長である。鳥羽伏見の戦いの後、榎本武揚らと北海道に渡ったものの、攻めよせる官軍の前についに力尽きた男である。当時の剣豪といえば北辰一刀流、桶町千葉道場の坂本竜馬、神道無念流、斎藤弥九郎練兵館の桂小五郎らが有名だ(なんて知識はそれまで皆無だったけどね)。土方は近藤、沖田らとともに天然理心流という田舎道場の出身。格は数段劣るのだが、軍事的なセンスともって生まれた喧嘩の才能もあいまって、真剣勝負に強かったという。
日本の侍という種族は土方歳三をもって絶滅したのではないだろうか。そんなことを思わせる一冊だった。
高校野球の秋季大会、大学野球と毎週盛り上がりを見せている。母校の応援と称して都の秋季大会ブロック予選を3試合観る。昨秋、春、そして夏と惨敗した(全試合コールド負け)わが母校は奇跡的なくじ運に恵まれ、初戦、二回戦ともに弱小都立校に勝利し、ブロック決勝にコマを進めた。立ちふさがるのは都立の星小山台。
まあそう簡単には本大会には行かせてくれない。
その小山台も本大会の初戦でコールド負けしてしまった。
そういえば野球の日本代表をいつの頃からか侍ジャパンと呼んでいる。
さて、幕末シリーズ。
勝どきさんのおすすめ、『燃えよ剣』を読む。
新選組に関しては以前大河ドラマで「新選組!」を少し視た程度の知識しかない。新選組好きな人たちが集まる飲み会で「池田屋のときにね」みたいなことばが耳に入るが、なんのことやらさっぱりわからなかった。そういえば今放映中の大河ドラマ「花燃ゆ」にも新選組が登場していた。沖田総司が長州藩(かどうかわからないが)志士たちを切りまくっていたっけ。
今回本書を読むにあたっての大きな目的は新選組であるとか尊王攘夷派の志士たちの位置関係を掌握することにある。なんとも心もとない読者である。
この小説の主人公は土方歳三。新選組局長近藤勇を支えた副長である。鳥羽伏見の戦いの後、榎本武揚らと北海道に渡ったものの、攻めよせる官軍の前についに力尽きた男である。当時の剣豪といえば北辰一刀流、桶町千葉道場の坂本竜馬、神道無念流、斎藤弥九郎練兵館の桂小五郎らが有名だ(なんて知識はそれまで皆無だったけどね)。土方は近藤、沖田らとともに天然理心流という田舎道場の出身。格は数段劣るのだが、軍事的なセンスともって生まれた喧嘩の才能もあいまって、真剣勝負に強かったという。
日本の侍という種族は土方歳三をもって絶滅したのではないだろうか。そんなことを思わせる一冊だった。
2015年10月5日月曜日
司馬遼太郎『竜馬がゆく』
8月の終わりに、仕事でお世話になっている勝どきさん(もちろん仮の 名前だ)と久しぶりにお昼を食べた。
炭水化物を控えるダイエットに取り組んでいるという。ご飯は食べずに、刺身や鯵フライ、さらにはホヤなどつまみばかりを注文してビールを飲んだ。夏の終わりの昼ビール。勝どきさんは何年か前から剣道を習っている。肩を痛めていて、しばらくゴルフはやっていないそうだが、天然理心流の道場へは通っているという。新選組の大ファンなのだ。
江戸幕末〜明治維新を学びたいと思っていたので、その手の話なら相当くわしいであろう勝どきさんに何かおすすめの小説ありませんかと訊いてみた。火に油、駆け馬に鞭、帆掛船に魯。そこから俄然エンジンがかかった。
まずは『竜馬がゆく』、次に『燃えよ剣』を読めという。
前者は倒幕派から見た幕末、後者は佐幕派から見た幕末で、この2冊を読んで、両サイドから理解すれば、幕末〜維新の基礎はじゅうぶんらしい(2冊といっても文庫本にしたら10冊だが)。
というわけで9月から黙々と竜馬を読みはじめた。
それまで坂本竜馬に関する知識はほぼなし。それがかえってよかったのかもしれない。竜馬という人物は剣の達人だとか、薩長の調停役程度の認識しかなかったが、何よりもアイデアマンなのだということがわかった。今でいうクリエーティビティに富んだ人物なのである。
それにどこまでも強運の持ち主だ。あえて危険を冒す。敵陣に単身乗り込んでいく。こうしたことも既成概念にとらわれない発想の豊かさがあるからだろう。
司馬遼太郎はこれまでほとんど読んでいない。
吉村昭のように史実、資料を丹念に読み込んで再構築するというよりは物語を次から次へと動かしていくタイプの作家なのだろう。読んでいるうちにそのスピードに身体が慣れてくる。ページが自然にめくられていく。ファンが多いのもわかる気がした。
それにしても昼のビールは利く。
炭水化物を控えるダイエットに取り組んでいるという。ご飯は食べずに、刺身や鯵フライ、さらにはホヤなどつまみばかりを注文してビールを飲んだ。夏の終わりの昼ビール。勝どきさんは何年か前から剣道を習っている。肩を痛めていて、しばらくゴルフはやっていないそうだが、天然理心流の道場へは通っているという。新選組の大ファンなのだ。
江戸幕末〜明治維新を学びたいと思っていたので、その手の話なら相当くわしいであろう勝どきさんに何かおすすめの小説ありませんかと訊いてみた。火に油、駆け馬に鞭、帆掛船に魯。そこから俄然エンジンがかかった。
まずは『竜馬がゆく』、次に『燃えよ剣』を読めという。
前者は倒幕派から見た幕末、後者は佐幕派から見た幕末で、この2冊を読んで、両サイドから理解すれば、幕末〜維新の基礎はじゅうぶんらしい(2冊といっても文庫本にしたら10冊だが)。
というわけで9月から黙々と竜馬を読みはじめた。
それまで坂本竜馬に関する知識はほぼなし。それがかえってよかったのかもしれない。竜馬という人物は剣の達人だとか、薩長の調停役程度の認識しかなかったが、何よりもアイデアマンなのだということがわかった。今でいうクリエーティビティに富んだ人物なのである。
それにどこまでも強運の持ち主だ。あえて危険を冒す。敵陣に単身乗り込んでいく。こうしたことも既成概念にとらわれない発想の豊かさがあるからだろう。
司馬遼太郎はこれまでほとんど読んでいない。
吉村昭のように史実、資料を丹念に読み込んで再構築するというよりは物語を次から次へと動かしていくタイプの作家なのだろう。読んでいるうちにそのスピードに身体が慣れてくる。ページが自然にめくられていく。ファンが多いのもわかる気がした。
それにしても昼のビールは利く。
2015年7月23日木曜日
吉村昭『天狗争乱』
「提灯の光りにうつしだされた弟のほうは(藤田小四郎、つまり後に天狗党を興して筑波の義挙を決行した)眼の大きな、ひきむすんだ口許のいかにも意志の強そうな、きかぬ気の顔つきだった」
と書かれている。この一文が妙に気になったのだ。
吉村昭の小説は旅の小説である。
『長英逃亡』、『ふおん・しいほるとの娘』、『桜田門外ノ変』など読み終わると脚に筋肉痛が残るような作品が多い。『アメリカ彦蔵』をはじめとした漂流ものも壮大な旅の記録であるし、『蜜蜂乱舞』も現代に舞台が置かれているが、これもまた気の遠くなるような旅の物語である。
『天狗争乱』は水戸藩尊王攘夷派らが挙兵した天狗勢と呼ばれる武装集団が幕府軍の追討を受けながらも京都にいる一橋慶喜のもとをめざす。またしても艱難辛苦の旅である。山道を越え、吹雪を乗り越える。谷底に駄馬が落ちていく。
学生時代、歴史の勉強不足がたたって幕末のことはあまりよくわからない。尊王攘夷といっても当時流行りの考え方くらいの認識しかない(まったく情けない)。しかしながら吉村昭を通じて尊攘派のピュアな側面がよく見えてくる。これは『桜田門外ノ変』の関鉄之介にもいえることだが、水戸藩の尊攘派は純粋で一途なところがある。武田耕雲斎らに導かれた天狗勢はストイックなまでに統率がとれ、規律に忠実に行軍していく。身の引き締まる思いが伝わってくる。読者ばかりでなく、道々の小藩の者たちや行く先々で出会う平民たち、そして最後に対峙する加賀藩士までもがその筋の通った姿勢に共感する。できることなら彼らの望みを叶えさせてやりたいと誰しも思う。
逃亡でもなく、何か物質的な豊かさを求める旅でもなく、ひたすら志を遂げるためのみに前進していく旅。そういう旅って、ちょっとかっこいい。
2015年7月21日火曜日
山本周五郎『新潮記』
今月は父の三回忌、高校の同期会、バレーボール部のOB会と日曜ごとにイベントが組まれ、のんびりする間もなくはや下旬にさしかかっている。
父の実家は千葉県の南房総市にある。ついこのあいだまで安房郡といった。
非常に不便な場所である。一方的に不便と言い切ってしまうのもよくないと思うのだが、徒歩圏にコンビニエンスストアはない。かろうじて酒屋、魚屋、八百屋、雑貨店はあるものの、まとまって買い出しをするとなると1時間に1本なるかないかの路線バスに乗って、少し繁華な(その昔町役場があった)ところまで出かけなければならない。そこまで行けばスーパーがある。歩けば4~50分はかかるだろう。
こういう場所に住んでいる人は不便だと思わないのかといえば、たいていの家庭に軽自動車くらいはあるし、別段なんとも思わないのかもしれない。人は住む環境によって暮し方は変わるし、むしろいちいち歩いてコンビニに行くなんて方が不便だという考え方も成り立つ。
昨年までは近所に酒屋が一軒あって、そこでたいていのものは手に入った。店番をしていたおばあちゃんが父と同級生だったこともあり、よくおまけもしてくれた。この店ももう閉まっている(おばあちゃんは元気だと聞いているのであんしんしているが)。今年も8月のお盆には墓参りに行って、4~5日滞在する。今年はどんな不便に出会えるか、今から楽しみである。
山本周五郎『新潮記』、その舞台は幕末、尊王攘夷派が暗躍する時代。高松藩と水戸藩の親密な関係、高松藩尊攘派藩士の庶子が主人公というちょっと複雑なもつれ方。全体として緊張感の走る内容でありながら、物語がどことなくのどかに流れていく印象が強い。これも山本周五郎の持ち味と見るべきか。
その昔、南房総の防波堤に寝そべってフォークナーの『八月の光』を読んでいた。殺人事件の話だったとうっすら記憶していてるが、内容はまったくおぼえていない。ただ読んでいてのどかさを感じたという点で、この本は『八月の光』に似ている(かなり無理はあるが、勝手にそう思っている)。
父の実家は千葉県の南房総市にある。ついこのあいだまで安房郡といった。
非常に不便な場所である。一方的に不便と言い切ってしまうのもよくないと思うのだが、徒歩圏にコンビニエンスストアはない。かろうじて酒屋、魚屋、八百屋、雑貨店はあるものの、まとまって買い出しをするとなると1時間に1本なるかないかの路線バスに乗って、少し繁華な(その昔町役場があった)ところまで出かけなければならない。そこまで行けばスーパーがある。歩けば4~50分はかかるだろう。
こういう場所に住んでいる人は不便だと思わないのかといえば、たいていの家庭に軽自動車くらいはあるし、別段なんとも思わないのかもしれない。人は住む環境によって暮し方は変わるし、むしろいちいち歩いてコンビニに行くなんて方が不便だという考え方も成り立つ。
昨年までは近所に酒屋が一軒あって、そこでたいていのものは手に入った。店番をしていたおばあちゃんが父と同級生だったこともあり、よくおまけもしてくれた。この店ももう閉まっている(おばあちゃんは元気だと聞いているのであんしんしているが)。今年も8月のお盆には墓参りに行って、4~5日滞在する。今年はどんな不便に出会えるか、今から楽しみである。
山本周五郎『新潮記』、その舞台は幕末、尊王攘夷派が暗躍する時代。高松藩と水戸藩の親密な関係、高松藩尊攘派藩士の庶子が主人公というちょっと複雑なもつれ方。全体として緊張感の走る内容でありながら、物語がどことなくのどかに流れていく印象が強い。これも山本周五郎の持ち味と見るべきか。
その昔、南房総の防波堤に寝そべってフォークナーの『八月の光』を読んでいた。殺人事件の話だったとうっすら記憶していてるが、内容はまったくおぼえていない。ただ読んでいてのどかさを感じたという点で、この本は『八月の光』に似ている(かなり無理はあるが、勝手にそう思っている)。
2015年5月25日月曜日
京井良彦『つなげる広告』
ソーシャルネットワークの時代、広告はどう変わっていくのか。
ずいぶん以前からこの議論はなされてきて、その成果がすぐれた書籍となって世に出ている。
佐藤尚之の『明日の広告』、『明日のコミュニケーション』、須田和博『使ってもらえる広告』、佐々木紀彦『5年後メディアは稼げるか』、ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』など。いずれもたいへん勉強になる。
この本もそうしたソーシャル時代の広告のあり方をさぐった本で効果的な実例が紹介されていてわかりやすい。
SNSは人間が本来的に持つ社会性を可視化したしくみで企業と生活者のフラットな関係を構築する。ソーシャルメディアはコミュニケーションという社会性の拡張であるという。衣服が皮膚の拡張、テレビ、ラジオが視聴覚の拡張であるのと同様に。
広告の役割は企業と生活者、あるいはブランドのファンをつなげること。ベストエクスペリエンス(従来のマス主体の広告は都合のいい面だけを見せるベストショットだった)が生み出す共感をコンテンツとしてそのつながりの上を自走させることがたいせつになる。
そして関係を維持継続する内発的動機を働かせるゲーミフィケーション。
どうやらテレビコマーシャルや新聞広告、ポスターの絵柄を考えるだけではなくなったのだ、広告の仕事は。次々にデジタルが生み出すテクノロジーやプラットフォームを活用して人と人、人と企業をつなげていく。もちろんCMやポスターのビジュアルもだいじなのだが、それを考えるだけではだめだということだ。
この本にも書いてあったが、昔の商売は顧客の顔が見えた。だからその関係をたいせつにしていた。いつしか大量生産、大量消費の時代になり、顔の見えない見知らぬ顧客を相手に商売をするようになった。それが今、企業と生活者、生活者同士がコミュニティをつくってつながっている。奇しくもテクノロジーによって商売の本来の姿が戻ってきた。
広告コミュニケーションは間違った方向には進んでいないと思う。
ずいぶん以前からこの議論はなされてきて、その成果がすぐれた書籍となって世に出ている。
佐藤尚之の『明日の広告』、『明日のコミュニケーション』、須田和博『使ってもらえる広告』、佐々木紀彦『5年後メディアは稼げるか』、ロブ・フュジェッタ『アンバサダー・マーケティング』など。いずれもたいへん勉強になる。
この本もそうしたソーシャル時代の広告のあり方をさぐった本で効果的な実例が紹介されていてわかりやすい。
SNSは人間が本来的に持つ社会性を可視化したしくみで企業と生活者のフラットな関係を構築する。ソーシャルメディアはコミュニケーションという社会性の拡張であるという。衣服が皮膚の拡張、テレビ、ラジオが視聴覚の拡張であるのと同様に。
広告の役割は企業と生活者、あるいはブランドのファンをつなげること。ベストエクスペリエンス(従来のマス主体の広告は都合のいい面だけを見せるベストショットだった)が生み出す共感をコンテンツとしてそのつながりの上を自走させることがたいせつになる。
そして関係を維持継続する内発的動機を働かせるゲーミフィケーション。
どうやらテレビコマーシャルや新聞広告、ポスターの絵柄を考えるだけではなくなったのだ、広告の仕事は。次々にデジタルが生み出すテクノロジーやプラットフォームを活用して人と人、人と企業をつなげていく。もちろんCMやポスターのビジュアルもだいじなのだが、それを考えるだけではだめだということだ。
この本にも書いてあったが、昔の商売は顧客の顔が見えた。だからその関係をたいせつにしていた。いつしか大量生産、大量消費の時代になり、顔の見えない見知らぬ顧客を相手に商売をするようになった。それが今、企業と生活者、生活者同士がコミュニティをつくってつながっている。奇しくもテクノロジーによって商売の本来の姿が戻ってきた。
広告コミュニケーションは間違った方向には進んでいないと思う。
2015年5月22日金曜日
アンナ・カヴァン『氷』
ツイッターでちくま文庫をフォローしている。
売れている本があると次から次へとリツイートされる。タイムラインはその本の話題一色になる。その展開に引きこまれていくだとかわくわくするだとか一気に読んでしまったなどといった個人の感想だ。これらのツイートを読んでいるだけでこれは読まないといけないかも、という気にさせられる。
その一冊がアンナ・カヴァンの『氷』だった。
SNSで流行っているから読むというのも動機が薄弱だが、本との出会いなんてそんなものだろうとも思う。もちろん著者に関する知識はまったくなく、まるっきり無防備の状態で読了した。
その後ネットなどで調べてみるとアンナ・カヴァンはイギリスの小説家で幻想文学またはSF小説と分類される作品を残しているらしい。生涯にわたって精神を病み、薬物などの依存もあったという。またフランツ・カフカの強い影響を指摘する記述も見られる。
生まれは1901年フランスのカンヌ。20世紀初頭のカンヌがどのような町だったか想像もできないが、映画祭がはじまったのが1946年。世界的なリゾートになる前の海辺の小さな集落だったのではないだろうか。カンヌには行ったことがあるのでカンヌ生まれという点に関しては妙に反応が鋭くなってしまうのだ。
さて本の中身なんだが、読んでみてもさっぱりわからない。どういう時間軸で展開されているのか場所はどこなのか(具体的な地名はまったく出てこない)。数少ない登場人物である少女も長官もどんなキャラクターなのか雲をつかむようである。氷というのは何もメタファーなのか。読みすすめているうちに何かわかってくるかと思うとそういうわけでもない。どきどきわくわくしながら読んだ読者も多いようだが、どこをどう解釈すればこの世界に引き込まれるのか、ちょっと理解に苦しむ。もちろん誰かに説明してもらおうとも思わない。わからないものはわからない。これでいい。
これもあくまで個人の感想である。
売れている本があると次から次へとリツイートされる。タイムラインはその本の話題一色になる。その展開に引きこまれていくだとかわくわくするだとか一気に読んでしまったなどといった個人の感想だ。これらのツイートを読んでいるだけでこれは読まないといけないかも、という気にさせられる。
その一冊がアンナ・カヴァンの『氷』だった。
SNSで流行っているから読むというのも動機が薄弱だが、本との出会いなんてそんなものだろうとも思う。もちろん著者に関する知識はまったくなく、まるっきり無防備の状態で読了した。
その後ネットなどで調べてみるとアンナ・カヴァンはイギリスの小説家で幻想文学またはSF小説と分類される作品を残しているらしい。生涯にわたって精神を病み、薬物などの依存もあったという。またフランツ・カフカの強い影響を指摘する記述も見られる。
生まれは1901年フランスのカンヌ。20世紀初頭のカンヌがどのような町だったか想像もできないが、映画祭がはじまったのが1946年。世界的なリゾートになる前の海辺の小さな集落だったのではないだろうか。カンヌには行ったことがあるのでカンヌ生まれという点に関しては妙に反応が鋭くなってしまうのだ。
さて本の中身なんだが、読んでみてもさっぱりわからない。どういう時間軸で展開されているのか場所はどこなのか(具体的な地名はまったく出てこない)。数少ない登場人物である少女も長官もどんなキャラクターなのか雲をつかむようである。氷というのは何もメタファーなのか。読みすすめているうちに何かわかってくるかと思うとそういうわけでもない。どきどきわくわくしながら読んだ読者も多いようだが、どこをどう解釈すればこの世界に引き込まれるのか、ちょっと理解に苦しむ。もちろん誰かに説明してもらおうとも思わない。わからないものはわからない。これでいい。
これもあくまで個人の感想である。
2015年5月21日木曜日
山本周五郎『樅の木は残った』
このブログのフォントがあるときから大きくなってしまってどうも気に入らない。なんとか元に戻せないかと暇を見てはあれこれ調べているんだけど。
今ごろになって山本周五郎を読みはじめた。
どの本を読んでもたいていの人がもう読んでいる。
読書メーターという読書記録のSNSをFacebookと連携させているのだが、上巻を読み終え、中巻を読んでいるときに高校時代の友人から原田甲斐が惨殺されるという結末をおしえてもらった。当人は「上巻を読み終えた」ではなく「樅の木は残ったを読み終えた」と勘違いしたらしく、子どもの頃視た大河ドラマの話などをまじえてコメントしてくれたんだが、なんとか書房で編集の仕事にたずさわっていながら(職業はあまり関係ないか)、ネタバレするかおまえって笑ってしまった。
歴史の方はまったく詳しくないが、史実に残る原田甲斐は悪役で兵部宗勝の太鼓持ちとされている。味方を欺くまで悪役に徹し、藩の危機を命をかけて救った男として壮大なフィクションに仕上げたのがこの物語で山本周五郎独自の視点がここにある。
NHK大河ドラマの「樅の木は残った」では原田甲斐を平幹二郎が演じている。まったく記憶にない。おそらく当時日曜の夜は青春とはなんだみたいなドラマを視ていたように思う。はじめて通しで視た大河ドラマは「新・平家物語」で後にも先にも視聴をコンプリートしたのはこれだけだ。ちなみに現在放映されている「花燃ゆ」もどうしたわけかずっと欠かさず視ている。視聴率は相当低迷しているらしいが、投票率の低い選挙に出かける気分だ。原作はなくオリジナルの脚本だそうだが、やはり骨太な原作があったほうがいいんじゃないかな。
『青べか物語』を皮切りに、『五辦の椿』、『赤ひげ診療譚』、『さぶ』、『ながい坂』と周五郎の長編を読んできた。どちらかというとにわか周五郎ファンなのでおすすめの一冊があればぜひおしえてもらいたいと思う。
今ごろになって山本周五郎を読みはじめた。
どの本を読んでもたいていの人がもう読んでいる。
読書メーターという読書記録のSNSをFacebookと連携させているのだが、上巻を読み終え、中巻を読んでいるときに高校時代の友人から原田甲斐が惨殺されるという結末をおしえてもらった。当人は「上巻を読み終えた」ではなく「樅の木は残ったを読み終えた」と勘違いしたらしく、子どもの頃視た大河ドラマの話などをまじえてコメントしてくれたんだが、なんとか書房で編集の仕事にたずさわっていながら(職業はあまり関係ないか)、ネタバレするかおまえって笑ってしまった。
歴史の方はまったく詳しくないが、史実に残る原田甲斐は悪役で兵部宗勝の太鼓持ちとされている。味方を欺くまで悪役に徹し、藩の危機を命をかけて救った男として壮大なフィクションに仕上げたのがこの物語で山本周五郎独自の視点がここにある。
NHK大河ドラマの「樅の木は残った」では原田甲斐を平幹二郎が演じている。まったく記憶にない。おそらく当時日曜の夜は青春とはなんだみたいなドラマを視ていたように思う。はじめて通しで視た大河ドラマは「新・平家物語」で後にも先にも視聴をコンプリートしたのはこれだけだ。ちなみに現在放映されている「花燃ゆ」もどうしたわけかずっと欠かさず視ている。視聴率は相当低迷しているらしいが、投票率の低い選挙に出かける気分だ。原作はなくオリジナルの脚本だそうだが、やはり骨太な原作があったほうがいいんじゃないかな。
『青べか物語』を皮切りに、『五辦の椿』、『赤ひげ診療譚』、『さぶ』、『ながい坂』と周五郎の長編を読んできた。どちらかというとにわか周五郎ファンなのでおすすめの一冊があればぜひおしえてもらいたいと思う。
※2021年8月22日追記。フォント問題は書式をクリアすることで解決した。
2015年3月24日火曜日
芝山幹郎『映画一日一本―DVDで楽しむ見逃し映画365』
昨年の彼岸は甲子園で選抜高校野球を観て、南房総に墓参りに行く予定だった。
そんな矢先に叔父の訃報が届き、あわただしく通夜葬儀が執り行われ、連休は終わった。今年は春分の日が土曜。早起きして南房総に行ってきた。
墓参りが天気のいい日ののどかな休日であればそれに越したことはないのだが、墓参りは基本、墓そうじである。とりわけ千葉の墓は草刈りだったりするわけだ。腰が痛くなる。汗が流れる。墓参りの現実がそこにある。
翌日曜日は義父の墓参りに小平へ。こちらは東京の霊園なので多少は楽だ。急にあたたかくなったからといって、秋の彼岸にくらべると作業量は少ない。とはいえ二日続けての墓そうじはこたえる。
今月はここまで5本の映画を観ている。といってもレンタルしたDVDやBSで録画したものだ。映画が好きで好きでたまらないというタイプではないのでだいたい月4本くらい観られればいいと思っている。
この作者は筋金入りの映画ファンで一日一本、年間365本とそのタイトルで謳っているが、おそらくもっとたくさん観ているのではないか。ここで紹介されている映画を実際に何本観ているだろうかと数えたところわずか38本。かろうじて1割という成績だった。
映画といえば、昔のアートディレクターやイラストレーターで造詣の深い方が多い。また彼らは音楽に関してもくわしい。今よりはるかに情報が少なかった時代、海外の文化やデザインに接することができる場は映画とレコードジャケットくらいしかなかったからではないだろうか。きっとだいじにだいじに慈しむように見られていたにちがいない。
今、映画やCDジャケットはたいせつにされているだろうか。
春の彼岸を終えると次はお盆。その前に5月の連休がある。ここのところ毎年家(父の実家)のそうじに出かけているのだ。
5月の南房総はたぶんさわやかだ。
そんな矢先に叔父の訃報が届き、あわただしく通夜葬儀が執り行われ、連休は終わった。今年は春分の日が土曜。早起きして南房総に行ってきた。
墓参りが天気のいい日ののどかな休日であればそれに越したことはないのだが、墓参りは基本、墓そうじである。とりわけ千葉の墓は草刈りだったりするわけだ。腰が痛くなる。汗が流れる。墓参りの現実がそこにある。
翌日曜日は義父の墓参りに小平へ。こちらは東京の霊園なので多少は楽だ。急にあたたかくなったからといって、秋の彼岸にくらべると作業量は少ない。とはいえ二日続けての墓そうじはこたえる。
今月はここまで5本の映画を観ている。といってもレンタルしたDVDやBSで録画したものだ。映画が好きで好きでたまらないというタイプではないのでだいたい月4本くらい観られればいいと思っている。
この作者は筋金入りの映画ファンで一日一本、年間365本とそのタイトルで謳っているが、おそらくもっとたくさん観ているのではないか。ここで紹介されている映画を実際に何本観ているだろうかと数えたところわずか38本。かろうじて1割という成績だった。
映画といえば、昔のアートディレクターやイラストレーターで造詣の深い方が多い。また彼らは音楽に関してもくわしい。今よりはるかに情報が少なかった時代、海外の文化やデザインに接することができる場は映画とレコードジャケットくらいしかなかったからではないだろうか。きっとだいじにだいじに慈しむように見られていたにちがいない。
今、映画やCDジャケットはたいせつにされているだろうか。
春の彼岸を終えると次はお盆。その前に5月の連休がある。ここのところ毎年家(父の実家)のそうじに出かけているのだ。
5月の南房総はたぶんさわやかだ。
2015年3月20日金曜日
桐原健真『吉田松陰--「日本」を発見した思想家』
昨年の今ごろは都立小山台高校が21世紀枠でのセンバツ出場を果たし、東京は盛り上がっていた。
残念ながら大会初日の第三試合、大阪履正社高校と対戦し、完膚なきまでに打ちのめされたのは記憶に新しいところだ。
今年も野球の季節がやってきた。
昨秋明治神宮野球大会の結果をベースに考えれば、優勝した仙台育英と準優勝の浦和学院が中心となるだろうが、秋の地区大会を征した学校が必ずしも春強いとは限らない。それが野球だ。
昨年の地区大会優勝校10校のうち半数が初戦で姿を消し、残る5校、駒大苫小牧、沖縄尚学、白鴎大足利、関東一、龍谷大平安のうち2回戦を突破したのは沖縄尚学、龍谷大平安の2校のみ。結果的には龍谷大平安が優勝を果たし、明治神宮大会組の面目躍如とはなったが、注目すべきは昨秋苦杯をなめ、ひと冬かけて伸びてきたチームだろう。
近畿大会で優勝した天理に惜敗したものの夏春連覇の夢がかかる大阪桐蔭、浦和学院と打ち合いを演じた健大高崎、左右のエースを擁する木更津総合、九州大会を粘り強く戦った糸満あたりか。東京の二松学舎を含め、やはり昨夏のメンバーが残っているチームは有利なのだろうか。
地区ごとの力関係はどうだろうか。
明治神宮大会で東海大四にコールド負けした宇部鴻城の中国地区、4強のうち3校が公立校だった東海地区あたりのレベルはどうなのだろう。
NHKの大河ドラマがおもしろく、久しぶりに欠かさず視ている。佐藤純彌監督「桜田門外ノ変」で水戸藩主徳川斉昭役立った北大路欣也が毛利敬親だったり、関鉄之助の大沢たかおが小田村伊之助だったり、井伊直弼が伊武雅刀ではなく、高橋英樹だったり、なかなか混乱しながらではあるけれど。
歴史はきらいじゃないが、幕末から明治にかけてはあまり勉強もしていなかった。ドラマついでに吉田松陰について学ぼうと思った。この本はおそらく著者の博士論文あたりをベースにしているのだろう。けっこう本格的な論考だ。
もっとやさしい本から入ればよかったかも。
残念ながら大会初日の第三試合、大阪履正社高校と対戦し、完膚なきまでに打ちのめされたのは記憶に新しいところだ。
今年も野球の季節がやってきた。
昨秋明治神宮野球大会の結果をベースに考えれば、優勝した仙台育英と準優勝の浦和学院が中心となるだろうが、秋の地区大会を征した学校が必ずしも春強いとは限らない。それが野球だ。
昨年の地区大会優勝校10校のうち半数が初戦で姿を消し、残る5校、駒大苫小牧、沖縄尚学、白鴎大足利、関東一、龍谷大平安のうち2回戦を突破したのは沖縄尚学、龍谷大平安の2校のみ。結果的には龍谷大平安が優勝を果たし、明治神宮大会組の面目躍如とはなったが、注目すべきは昨秋苦杯をなめ、ひと冬かけて伸びてきたチームだろう。
近畿大会で優勝した天理に惜敗したものの夏春連覇の夢がかかる大阪桐蔭、浦和学院と打ち合いを演じた健大高崎、左右のエースを擁する木更津総合、九州大会を粘り強く戦った糸満あたりか。東京の二松学舎を含め、やはり昨夏のメンバーが残っているチームは有利なのだろうか。
地区ごとの力関係はどうだろうか。
明治神宮大会で東海大四にコールド負けした宇部鴻城の中国地区、4強のうち3校が公立校だった東海地区あたりのレベルはどうなのだろう。
NHKの大河ドラマがおもしろく、久しぶりに欠かさず視ている。佐藤純彌監督「桜田門外ノ変」で水戸藩主徳川斉昭役立った北大路欣也が毛利敬親だったり、関鉄之助の大沢たかおが小田村伊之助だったり、井伊直弼が伊武雅刀ではなく、高橋英樹だったり、なかなか混乱しながらではあるけれど。
歴史はきらいじゃないが、幕末から明治にかけてはあまり勉強もしていなかった。ドラマついでに吉田松陰について学ぼうと思った。この本はおそらく著者の博士論文あたりをベースにしているのだろう。けっこう本格的な論考だ。
もっとやさしい本から入ればよかったかも。
2015年3月18日水曜日
木村浩『情報デザイン入門』
美術系の大学には油絵や日本画など芸術性に富んだ学部とグラフィックデザインや建築、テキスタイルなど実用性を重視した学部とに二分できたのではないかと記憶している。最近では映像やwebなどのデザインを中心に学ぶ学部も増えているらしい。
「情報デザイン」という言葉の響きにつられてこの本を読んでみた。
著者はおそらくしっかりした研究者・学者なのではないだろうか。いわゆるデザインという柔軟なニュアンスが文章からは伝わってこない。だからといって学術論文的かといえばそうでもなく、繰りかえしが多く、誤字も目立つ。「本は表示から始まり目次がある」とある。このくらいなら読んでいてすぐにわかる。気づかず本にした出版社の良識を疑うだけだ。
「ホームページとはWWWブラウザを立ち上げたときに表示する最初のページを指す」なんて3回も書かれている。主語の抜けた文章もところどころにあって読みづらい。この人は書いた文章を読みなおしたりしないのか。
電子版が出たのは昨年のことであるが、新書の一冊として世に出たのは2002年。内容的にも古い。たとえば情報デザインといえばコミュニケーションデザインであるといっているが、今やコミュニケーションデザインといえば電波や紙媒体、ソーシャルネットワークをどう駆使して効果的なコミュニケーションを生むかという意味で使われることが多い。メディアやコミュニケーションの歴史にも触れているが、長い。せっかく電子版で出すのなら、もういちど編集者を含めて内容を吟味すべきではなかったのか。誤字脱字はもちろんのこと、当時と大幅に変わったであろうインターネットをめぐる情報デザインに関しても再考するべきではなかったのか。
とはいえ、実のところ楽しみながら読んでいたところも少なくない。ツッコミどころがこれほどあるとついつい先へ先へと読みすすめてしまうのである。
旅先で食べてしまったすごくまずい蕎麦の思い出、みたいな。
興味があれば読んでみてもいいかもしれないが、お金を払って読む本ではない。絶対におすすめしない。
「情報デザイン」という言葉の響きにつられてこの本を読んでみた。
著者はおそらくしっかりした研究者・学者なのではないだろうか。いわゆるデザインという柔軟なニュアンスが文章からは伝わってこない。だからといって学術論文的かといえばそうでもなく、繰りかえしが多く、誤字も目立つ。「本は表示から始まり目次がある」とある。このくらいなら読んでいてすぐにわかる。気づかず本にした出版社の良識を疑うだけだ。
「ホームページとはWWWブラウザを立ち上げたときに表示する最初のページを指す」なんて3回も書かれている。主語の抜けた文章もところどころにあって読みづらい。この人は書いた文章を読みなおしたりしないのか。
電子版が出たのは昨年のことであるが、新書の一冊として世に出たのは2002年。内容的にも古い。たとえば情報デザインといえばコミュニケーションデザインであるといっているが、今やコミュニケーションデザインといえば電波や紙媒体、ソーシャルネットワークをどう駆使して効果的なコミュニケーションを生むかという意味で使われることが多い。メディアやコミュニケーションの歴史にも触れているが、長い。せっかく電子版で出すのなら、もういちど編集者を含めて内容を吟味すべきではなかったのか。誤字脱字はもちろんのこと、当時と大幅に変わったであろうインターネットをめぐる情報デザインに関しても再考するべきではなかったのか。
とはいえ、実のところ楽しみながら読んでいたところも少なくない。ツッコミどころがこれほどあるとついつい先へ先へと読みすすめてしまうのである。
旅先で食べてしまったすごくまずい蕎麦の思い出、みたいな。
興味があれば読んでみてもいいかもしれないが、お金を払って読む本ではない。絶対におすすめしない。
2015年3月16日月曜日
三谷宏治『戦略思考ワークブック【ビジネス篇】』
イングレス(Ingress)というゲームにはまっている。
はまっているというほどのことでもないのだが、よくできたゲームだと思う。要は歩きまわって、ポータルと呼ばれる地点をハックする。FoursquareやFacebookでいうチェックインだ。ユーザ、つまりゲーム参加者は位置情報を提供する。位置情報はいわゆるビッグデータとなって個人の行動パターン解析に役立つ。
たとえば参加者のIDがGoogleのメールアドレスにひもづけられていれば、その住所、勤務場所などはおおむね特定できる。その日いちばん最初にハック(チェックイン)した場所はそらく自宅近辺である可能性が高い。日中ハックした場所はおそらく勤務先に近いだろう。利用している最寄駅もほぼ特定できるだろうから、どの路線で通勤しているかもわかるはずだ。休日定期的に移動する人はその地域を特定することであるいは趣味などもわかるかもしれない。こうやってその人の行動パターンや行動範囲を活かして広告活動につなげていくわけだ。
なんとよくできたゲームだろう。
これまで位置情報を収集するSNSはあった。Foursquareはメイヤーとかバッジを付与することで参加者のモチベーションを支えてきた。けれどもここまでのめりこませて収集する仕組みはおそらくIngrerssがはじめてではないだろうか。頭のいい人ってやっぱりすごい。
この本では「なにがだいじか」をきちんと見極めようとする「重要思考」がビジネスに欠かせない「戦略思考」を鍛えていくと説かれている。事例も豊富だ。題名にあるとおりワークブックの形式をとっている。読者参加型の戦略思考演習本といっていい。しかしながらその課題はかなり難解だ。
この本を読みながら自分で考えていくには相当なスキルが必要だと思う。今回はとりあえず読みすすめて、なるほどなるほどと感心するにとどめた。
頭のいい人ってやっぱりすごいなと思いながら。
はまっているというほどのことでもないのだが、よくできたゲームだと思う。要は歩きまわって、ポータルと呼ばれる地点をハックする。FoursquareやFacebookでいうチェックインだ。ユーザ、つまりゲーム参加者は位置情報を提供する。位置情報はいわゆるビッグデータとなって個人の行動パターン解析に役立つ。
たとえば参加者のIDがGoogleのメールアドレスにひもづけられていれば、その住所、勤務場所などはおおむね特定できる。その日いちばん最初にハック(チェックイン)した場所はそらく自宅近辺である可能性が高い。日中ハックした場所はおそらく勤務先に近いだろう。利用している最寄駅もほぼ特定できるだろうから、どの路線で通勤しているかもわかるはずだ。休日定期的に移動する人はその地域を特定することであるいは趣味などもわかるかもしれない。こうやってその人の行動パターンや行動範囲を活かして広告活動につなげていくわけだ。
なんとよくできたゲームだろう。
これまで位置情報を収集するSNSはあった。Foursquareはメイヤーとかバッジを付与することで参加者のモチベーションを支えてきた。けれどもここまでのめりこませて収集する仕組みはおそらくIngrerssがはじめてではないだろうか。頭のいい人ってやっぱりすごい。
この本では「なにがだいじか」をきちんと見極めようとする「重要思考」がビジネスに欠かせない「戦略思考」を鍛えていくと説かれている。事例も豊富だ。題名にあるとおりワークブックの形式をとっている。読者参加型の戦略思考演習本といっていい。しかしながらその課題はかなり難解だ。
この本を読みながら自分で考えていくには相当なスキルが必要だと思う。今回はとりあえず読みすすめて、なるほどなるほどと感心するにとどめた。
頭のいい人ってやっぱりすごいなと思いながら。
2015年2月22日日曜日
大岡昇平『少年--ある自伝の試み』
実家を出てひとり暮らしをはじめた20代の終わり、住んでいるところからほど近いところに「小泉」という床屋はあった。前を通りかかると休みの日などはたいてい客が待っている。その町には床屋や美容室が多かったにもかかわらずだ。メンズサロンとか近未来的なおしゃれさのかけらもない古びた店がまえも気に入った。腕のよさそうなにおいがする。店主は赤ら顔の職人風の男だった。
小泉は僕がはじめて行った直後に改装されて、今風の洗髪台などが完備されたが、最初に行ったときは店の片隅にある流しまで歩いてシャンプーを落とした。そういう風情の店だった。「お客さんみたいに髪にくせがある人は短くした方がいいんですよ」といっては丹念に時間をかけて刈り込んでくれた。娘さんが修業中だったのか、店の手伝いをしていた。赤ら顔をさらに赤くした父親に、聞こえないような飲みこんだ声で怒鳴られているのを鏡越しに見ていた。
「お嬢さんが跡継いでくれるなんてうらやましいね」などと客に言われようものなら、また顔を赤らめて「こんなもんにまかせるほどもうろくしちゃいませんよ」などという。少しうれしそうでもある。そしてすぐに「チッ!何度言ったらわかるんだ、そこはそうじゃないっていつも言ってるだろ…」と聞こえないような声で娘を怒鳴る。
この本は大岡昇平の自伝『幼年』の続編にあたる。その舞台がほぼ渋谷だったのに対し、『少年』では学校のあった青山や従兄の住んでいた麻布市兵衛町あたりが中心になる。中学生になって行動半径がひろがっている。渋谷青山間で乗る市電も楽しそうに描かれている。
中学生ともなると記憶も鮮明なのではないかと思うが、案外そうでもないようだ。憶え間違いを何度も友人たちに正されている。人の記憶も思い出もはかないものだ。
何年かたって、僕はこの町を去った。それでもしばらくは電車に乗って、「小泉」に通っていた。店主は元気でいるだろうか。
2015年2月21日土曜日
伊藤真訳『現代語訳日本国憲法』
島倉千代子のように髪を短くして強く小指を噛んだりはしなかったが、部活動を続けるうえで頭髪は短い方が都合がよかったのだ。ところが中学校の3年間、僕は床屋なしの生活をしていたので、さてどこの床屋に行けばいいだろうと考えてしまった。何となく気持ちの上では小学校時代に通った「富士」に行くのも「なんだよ、ずいぶん御無沙汰しやがったじゃねえか」的な冷たい視線を浴びそうでいやだった。かといって新しい床屋を開拓するのもそれなりのエネルギーが必要だ。
結果的にいうとよく行く銭湯の道すがらにある「やひこ」という床屋に通うようになった。きっかけは思い出せない。誰かしらからいい評判を聞いたせいかもしれないし、風呂の行き帰りにのぞいてみた店内に悪い印象を持たなかったせいかもしれない。細面の長身の理容師が感じのいい人だったことは否めない。
僕は癖っ毛でいわゆる天然パーマである。普通の人のスポーツ刈り(今もそう言うのかどうかわからないが、昔は慎太郎刈りとも呼ばれていた)程度の長さでも髪が寝てしまうのであまり短髪のイメージにはならなかった。でも頭髪に癖があるというのは床屋さんに申し訳ない気持ちをいつも持ってしまうものである。そういうわけでいちど決めた床屋には通いつづける。「冨士」から「やひこ」へ。標高は低くなったが、毎度のように肩身を狭くして敷居を跨いだのであった。
憲法論議がさかんである。
護憲派は日本国憲法は世界に誇れる宝物のように言うし、改憲派は日本を安全な国家にする必要性を説く。また日本の憲法がGHQ主導でつくられた傀儡憲法であるという言い方もされる。いずれにせよ、護憲派も改憲派も、あるいは憲法に興味がないという人も日本国憲法の「そもそも」を知る必要があるんじゃないだろうか。
大学を出て、就職し、ひとり暮らしをはじめた20代の終わり頃まで僕は「やひこ」に通いつづけた。
2015年2月18日水曜日
苅谷剛彦『知的複眼思考法』
実家から子どもの足でも2~3分の距離だった。もちろん子どもの頃の記憶だからまったく正確ではない。どのくらい子どもだったかというとおそらく母に連れられて、預けられて髪を刈られて、天花粉(ベビーパウダーとかおしゃれな呼び方ではなかったと思う)を塗りたくられて、帰りにお菓子をもらって帰った。そのくらいの子どもの頃だ。小学生の頃まではそこに通っていた。
中学生になって、床屋に行かなくなった。もちろん学校の規則はあったけれど、他の中学のように刈上げなければいけないとか細かいことは言われなかったせいもある。多少長めでも問題はなかった。ちょっと伸びると少しだけ剃刀で削ぐ程度にした。母の知合いで近所に元美容師がいて、母がその人の自宅でカットしてもらうついでに行って、切ってもらった。以後3年間、そういうわけで床屋には行かなかった。
姉の同級生で美容院の娘がいた。いちどその店でカットしてもらった。姉がカットしてもらうとき、やはりついでのように付いて行ったのだと思う。
短絡的な思考をする者がいる。若いものに多い。僕ももう若くはないが、ものの考え方は短絡的だなと思うことがしばしばある。
この本は「複眼的な思考」を促している。ものごとを一面的に見るのではなく、多面的にとらえる。空間的にも時間的にも。おそらく想定している読者は若い世代、とりわけ大学生あたりか。ああ、こうやって問題をとらえなおして、ひとつひとつ丁寧に解明していけばきちんとした意見になるのだなと読んでみてよくわかる。
ただ、自分が学生時代にこんなに懇切丁寧な本を熟読したかどうかはわからない。何を大人が偉そうに、と思ったかもしれない。何かするのに最適なタイミングというのが人生にはある。しかしながら自分自身でそれを見きわめるのは難しい。
そういえば冨士のお兄さんは三原綱木に似ていた。ジャッキー吉川とブルー・コメッツでギターを弾きながら踊っていた三原綱木に。もちろん当時の記憶だからまったくあてにならない。
2015年2月6日金曜日
吉村昭『事物はじまりの物語』
先日のつづき、塩浜のスタジオ三日めの話。
午後には仕事が片づいた。夕方までかかるかもしれないと思っていたので時間が空いた。その日は寄り道をしなかったので、帰りに道草を食うことにした。
木場から洲崎に向かう。
途中、成瀬巳喜男監督「稲妻」で高峰秀子がわたった新田橋を見る。当時は木橋だったが、今は赤く塗られた鉄の橋だ。空橋ではない。その下を大横川が流れている。
洲崎大門通りをまっすぐ進む。映画「洲崎パラダイス赤信号」で夢の島埋め立てのため砂利運搬トラックが何台も走っていく大きな通りだ。大門通りの突き当りには運河が残されている。橋をわたると住所はやはり塩浜で東京メトロ東西線の検車場があり、その向こうにJR東日本資材センターがある。かつての越中島貨物駅。小名木駅を経て、新小岩駅、金町駅方面に主にレールを供給しているそうだ。
塩浜から運河をひとつ越すと枝川(ここに架かるしおかぜ橋というのがなかなか気持ちいい)、もうひとつ越えると潮見、さらに越えると辰巳ともうどこまでが深川なのかわからない。このあたりは倉庫があって、できたばかりの公園や集合住宅、学校があって匂いとしては品川区の八潮とか大田区の平和島に近い(直線距離も近い)。辰巳は深川のさいはて(辰巳を深川と呼んでいいとすればの話だが)で、その先に今のところ地面はなく、東に新木場、西に東雲がひかえている。東雲といったらもうお台場だ。
吉村昭は作品も見事だけれど、そこにいたるまでの調査がすばらしいといつも思っている。丹念に資料と向き合い、多くの人に会い耳を傾けている。そして新たな発見に出会い、想像力という細い糸で紡いでいく。うらやましい仕事だと思う反面、自分にはとうていできまいというあきらめの気持ちにも包まれる。
ということで洲崎から東京メトロ有楽町線辰巳駅までずいぶんとたくさんの道草を食ってしまった。昼食がサンドイッチと軽かったのでちょうどよかった。
2015年2月5日木曜日
芝木好子『春の散歩』
江東区の塩浜にスタジオがある。
撮影から編集、録音までひととおりの設備をそろえているので使い勝手がよく、ときどき利用する。とはいうものの塩浜という地は交通の便がよくない。そのスタジオは東京メトロ有楽町線豊洲駅、同東西線門前仲町駅、木場駅、JR京葉線越中島駅と4駅利用可なのだが、どこから行っても10分以上歩く。歩くことは今のところ苦にならない。むしろ駅から遠いのをいいことに寄り道したり、帰りに道草を食うことを楽しんでいる感がある。
先日も三日続けてスタジオに入った。昼までに来ればいいということだったので、最初の日は新富町駅で降りて、佃大橋をわたり、佃島から石川島を散策。相生橋をわたって越中島に出た。ここからがいわゆる深川である。かつての東京商船大学(今は東京水産大学と統合して東京海洋大学というらしい)の構内をぶらぶら歩きながら浜園橋をわたればそこは塩浜だ。
翌日も午前中時間が空いたのでこんどは木場駅で降りたあと洲崎をまわった。洲崎という地名はもう残っていない。かつての洲崎遊郭のあった島は四方をほぼ埋め立てられて、東陽一丁目となっている。
洲崎は何年か前にも訪れたことがあるが、その頃まだあった特飲街の名残のような建物はもうなかった。川島雄三監督「洲崎パラダイス赤信号」に出てくる千草という飲み屋のあとを見、洲崎神社(映画では弁天様と呼ばれていた)をまわってスタジオに向かった。
洲崎に行って、以前読んだ芝木好子のエッセーを思い出した。
貝紫の話、四季折々の風景、旅の思い出などが軽妙につづられていた。
おそらく絶版になっているであろうこの文庫本を荻窪の古書店で見つけた。ラッキーだった。この古書店ではときどき芝木好子の文庫が見つかる。
芝木好子は浅草生まれだが、戦後はずっと高円寺に住んでいたという。そんな地の利もあったのかもしれない。
スタジオ三日めは朝早かったので寄り道はしなかった。
2015年1月24日土曜日
高橋雅延『記憶力の正体--人はなぜ忘れるのか?』
「忘れちゃえばいいんですよ」
という思いもかけない答が返ってきて驚いた憶えがある。
Kさんは何を言いたかったかというと、人間はついつい憶えていようとする、思い出そうとする。記憶しておくことが美徳で忘れてしまうことが罪悪のように思われがちである。果たしてそうだろうか。憶えておくことがたいせつなように忘れることもだいじなんじゃないだろうか。たとえば嫌なことがあったら積極的に忘れてしまえばいいじゃないかというわけである。
たしかにこの本を読むと記憶力がよすぎるというのも不幸だということがわかる。「記憶力」という言葉に憧れを持つのはたいてい受験生時代に苦労した人たちだ。
記憶力がよすぎると日々刻々を反芻しながら生きていかざるを得ず(超記憶症候群というのだそうだ)、過去の記憶に翻弄されてしまう。事例が紹介されているが、そのひとりは絶え間なくフラッシュバックされる記憶のせいで授業に集中できず、学校の暗記ものは苦手だったという。
記憶というとつい頭で憶えているものと思われがちだが、必ずしもそんなことはなく、記憶を喪失した女性の身元を割り出すためにそばに電話器を置いたらなんと自分の家に電話をかけたという。頭の記憶に対する身体の記憶というわけだ。
Kさんは煙草を吸っていたことを忘れてしまえばいいという。ただでさえもの忘れが激しくなったのだから何も要らない習慣を憶えておく必要なんてない。
「多くの忘却なくしては人生を暮していけない」という「フランスの作家オル・ド・バルザック」のことばが引用されている。忘却力がなければいつまでも過去の暗い記憶にとらわれ、人生を前に進められないという。「オル・ド」ではない。バルザックは「オノレ・ド」だ。
そんなことを憶えているからいつまでたっても煙草をやめられないのだ。
2015年1月19日月曜日
川本三郎『成瀬巳喜男映画の面影』
町歩きを重ねていくうちに川本三郎の本にめぐり合った。そこで林芙美子に出会い、成瀬巳喜男の映画にたどり着いた。
成瀬巳喜男の映画に映し出される昭和の町並みが好きになった。
成瀬の映画は「貧乏くさい」という。登場人物は会社重役ではなく商店主だったり、山手の婦人でなく未亡人だったり、どこか哀しさとともに生きている。具体的で細かいお金のやりとりがある。これまで何本か観てきて気づかなかったことをこの本は気づかせてくれる。
頼りない男が出てくるのも成瀬映画の特徴だという。「浮雲」、「娘・妻・母」の森雅之や「めし」の上原謙。あるときは(というかたいていの場合)もてない男、またあるときは結婚詐欺師の加東大介。戦争中肩で風を切っていた男たちは萎縮しはじめ、エコノミックアニマルへの道を歩みはじめる。そんな戦後日本の男たちを等身大で描いている。
とかく小津安二郎と成瀬巳喜男は対比的にとらえられる。同じように小市民を描いてきたからだと考えられるが、鎌倉が舞台だったり、会社重役だったり、品のいいつくりで芸術性の高い小津映画とつましい庶民の生活を念入りに演出した成瀬映画とは同一軸に置くことはできない気がする。そもそも同時代の映画ということ以外、共通点はほとんどないといってもいい。同じ素材を使ったまったく異国の料理を比べているみたいな。
実をいえば、僕は若い頃映画とはほぼ無縁の生活をしてきた。映像関係の仕事に就くようになってからもさほど熱心な映画ファンではなかった(以前在籍していた会社の社長からもっと映画を観てこいとお小遣いをもらったこともある)。だがここ何年か成瀬巳喜男を通じて昭和の映画に惹かれるようになった。
成瀬巳喜男が携わった映画は40数本。そのうち僕が観たのは数本に満たない。川本三郎のこの本はこのような成瀬初級者にとってやさしい道しるべなのである。
2015年1月16日金曜日
山本周五郎『町奉行日記』
伯父は建築設計士で飲食店などの内装が主な仕事だったように記憶している。赤坂や六本木の高級な料理店やナイトクラブなどの設計にたずさわったという。
以前伯父家族と母と僕とで六本木の交差点に程近い中華料理店を訪ねた。店舗設計を担当した伯父はその店の支配人のような男の人から「先生」と呼ばれていたと思う。何が原因かわからなかったが、注文した料理がなかなか出てこなかった。ふだんは温厚で紳士的な伯父が(もともとは非常に短気な人であるらしい)怒った。何をやってるんだ、まだできないのか、子どもたちがお腹を空かせているんだ、みたいなことばを支配人に浴びせかけ、別の店に行こうと僕たちを促して、店から出てしまった。そのあとどこで何を食べたか全く記憶がない。ただこの日のできごとはその後大人になってとり煮込みそばを食べるたびに思い出す。
伯父はその頃赤坂丹後町から六本木に引越していたと思う。六本木の家は六本木通りのすぐ裏手、高速道路の下にあり、赤坂の家のまわりのような子どもたちが路上で遊ぶような環境ではなかった。それにふたつ上とひとつ下の従兄弟たちとも中学生や小学校の高学年になるにつれていっしょに遊ぶようなことも少なくなっていた。従兄弟たちとタクシーに乗って麻布本村町の釣り堀に行った記憶だけがのこっている。
山本周五郎『町奉行日記』を読む。
市川崑監督「どら平太」の原作。ワル奉行である望月小平太が単身で悪いやつらをやっつける話なのだが、映画の小平太、役所広司がなんとなくいい人に見えてしまってちょっと物足りなかった印象がある。おそらく50年前につくられていたら三船敏郎だったにちがいない。
先日、西麻布で打合せがあり、はやく終わったので有栖川公園あたりを散策してみた。釣り堀はまだあるんじゃないかと人から聞いていたが、道がまったく思い出せない。まさかこんなところにはないだろうと思える本村小学校の脇の細い道をたどると昔遊んだ釣り堀がそのまま残されていた。
2015年1月14日水曜日
山田敏弘『その一言が余計です--日本語の正しさを問う』
母は佃に住む叔父夫婦を頼って南房総千倉町から東京に出てきた。
中学校を卒業して高校に進みたかったそうだが、父親が病に臥し、あきらめざるを得なかったという。佃島の渡し船で対岸の明石町にある洋裁学校に通い、その後銀座のデパートの社員募集に応募して採用された。高卒といつわり、年齢もひとつ上にして書類を送ったという。そう助言したのは母の兄、僕の伯父である。戦後の一時期、洋裁がブームになったとどこかで読んだおぼえがある。
伯父は建築事務所に勤めながら、夜間の大学を卒業し、赤坂丹後町に家を買った。その後母も佃の叔父夫婦の家を出て、兄と暮らすようになる。銀座への通勤は赤坂表町という停留所から都電に乗ったという。たしかに地下鉄の赤坂見附駅より近い。
母が結婚すると伯父の家には母の妹が移り住んで、伯父の結婚後は中学校を卒業した母の弟が住むようになり、そこから高校大学へ通った。
伯父はずいぶん前に他界しているが、赤坂丹後町の後は六本木(麻布今井町)に引越した。
週末、実家の母親に会いに行くとこんな話に花が咲く。昭和20年代後半から30年くらいの東京にタイムスリップするのである。
日本語に(おそらく)限らないだろうが、ことばというのは難しいものだ。
ことばが乱れるなどという。本来の意味が失われ、誤解されたまま流通することも多い。文法的に正しい言い回しが省略されたりするなどして間違った語法のまま若者たちに定着していく。それが最近のことに限ったわけではなく、いつの時代も問題視される。
ことばは生きものだともいう。Aという言葉があらわす意味がBになったとしても、それが多数派であるならば、AはBを意味することになる。ことばはある意味、民主的なのである。
自分が使っている言葉(やことば)が間違っていないだろうか、おかしくないだろうか。そんなことがときどき気になってこういう本に目を通してしまうのである。
この本は言葉の変容を正しく知りつつも、上手に付き合っていきましょうという主旨で書かれている。
中学校を卒業して高校に進みたかったそうだが、父親が病に臥し、あきらめざるを得なかったという。佃島の渡し船で対岸の明石町にある洋裁学校に通い、その後銀座のデパートの社員募集に応募して採用された。高卒といつわり、年齢もひとつ上にして書類を送ったという。そう助言したのは母の兄、僕の伯父である。戦後の一時期、洋裁がブームになったとどこかで読んだおぼえがある。
伯父は建築事務所に勤めながら、夜間の大学を卒業し、赤坂丹後町に家を買った。その後母も佃の叔父夫婦の家を出て、兄と暮らすようになる。銀座への通勤は赤坂表町という停留所から都電に乗ったという。たしかに地下鉄の赤坂見附駅より近い。
母が結婚すると伯父の家には母の妹が移り住んで、伯父の結婚後は中学校を卒業した母の弟が住むようになり、そこから高校大学へ通った。
伯父はずいぶん前に他界しているが、赤坂丹後町の後は六本木(麻布今井町)に引越した。
週末、実家の母親に会いに行くとこんな話に花が咲く。昭和20年代後半から30年くらいの東京にタイムスリップするのである。
日本語に(おそらく)限らないだろうが、ことばというのは難しいものだ。
ことばが乱れるなどという。本来の意味が失われ、誤解されたまま流通することも多い。文法的に正しい言い回しが省略されたりするなどして間違った語法のまま若者たちに定着していく。それが最近のことに限ったわけではなく、いつの時代も問題視される。
ことばは生きものだともいう。Aという言葉があらわす意味がBになったとしても、それが多数派であるならば、AはBを意味することになる。ことばはある意味、民主的なのである。
自分が使っている言葉(やことば)が間違っていないだろうか、おかしくないだろうか。そんなことがときどき気になってこういう本に目を通してしまうのである。
この本は言葉の変容を正しく知りつつも、上手に付き合っていきましょうという主旨で書かれている。
2015年1月3日土曜日
井上靖『猟銃・闘牛』
今でこそ月に何冊かの本を読むことを習慣にしているが、子どもの頃はほとんどといっていいくらい本を読まなかった。それでも小学校の頃はまだ偉人伝とか、アルセーヌ・ルパンとか宝島とか人並み程度に本は読んでいたと思う。中学高校と進むにつれ、活字離れははなはだしくなり、夏休みに宿題にされた課題図書すら読まずに感想文を書いていた(たぶん読んでも読まなくてもろくな感想は書けなかっただろうと今になって思う)。
その頃、例外的に読んだのが井上靖だった。
どういうきっかけだったが憶えていないが、たしか『天平の甍』、『額田王』、『楊貴妃伝』、『蒼き狼』あたり。古代の日本や中国の物語に関心を持ったのだろう。『しろばんば』も読んだ記憶がある。続編ともいえる『夏草冬涛』をいつか読もうと思ったまま今に至っている。
「電通報」という大手広告会社の発行する広告業界のニュースや情報を掲載する広報紙があって、最近ではオンライン化されているのだが、そのなかに「電通を創った男たち」というすぐれた連載がある。そこで取り上げられたプロデューサー小谷正一が井上靖の芥川賞受賞作「闘牛」の主人公であることを知った。こういうことがわかってしまうとどうしても読みたくなってしまうのだ。
歴史ものや自伝的作品しか知らなかったせいもあって、ずいぶん新鮮な印象を受けた。久しぶりに読んだせいもある。詩的な文章がスムースに飲み込めなくて、ちょっと難儀した。
井上靖はのちに『黒い蝶』、「貧血と花と爆弾」でも「闘牛」のモデルとなった小谷正一の仕事を小説化しているという。よほど小谷の仕事が気に入ったのだろう(小谷正一は伝説的な人物で多くの著作が残されているという)。
さて2015年はどんな物語に出会えるのか。あせらず、ゆっくりと読んでいきたいと思っている。
本年もよろしくお願いいたします。
2014年12月30日火曜日
吉村昭『桜田門外ノ変』
僕の所属する会社でかつて車や住宅など多くのCMにコピーを書いてくれた方である。何度も打合せに同席した。米国テキサスで撮影とC.G.制作を行う仕事があって、そのときはいっしょにステーキを食べた。
広告の世界ではすぐれたコピーライターやアートディレクターが次から次へと生まれてくるが、コンスタントに日本の広告界を代表するコピーが書ける人間はそう多くはない。岩崎氏は永年にわたって日本代表のコピーライターだった。
多くのスタープレイヤーが華々しい経歴を持っている。野球でいえば甲子園常連校からドラフト上位でプロ入りしたり、学生野球、社会人野球でさらに技術を磨いてプロ入りするものもいる。広告の世界でも大手の広告会社や古くから特徴ある制作会社で鍛えられてスターになったものが多い。ところが岩崎俊一氏はそうではない。同志社を出て、地元関西の広告会社に所属し、その後もっと大きな舞台を夢見て上京してきた(この頃のことを以前飲みながら本人から聞いた気もするがあまり覚えていない)。そして努力に努力を重ねて(たぶんそうだろうと思う)、言葉をさがしまわって、ようやく今の地位を築いたのではないだろうか。そんな気がする。
今年最後に読む長編として吉村昭の『桜田門外ノ変』を選んだ。
根回しに、逃亡に水戸藩士たちが全国を駆けめぐる。幕末期の日本が広い国だったことは『ふぉん・しいほるとの娘』や『長英逃亡』を読んでもわかる。
高野長英もしかりだが、江戸時代末期はタイミングが重要だった。事変を起こすのはもっとはやかったほうがよかったかもしれない。もちろんこのあたりの彦根藩側とのかけひきは微妙な問題を多くはらんでいるのだが。
通夜を終え、仕事の納会に遅れて参加した。帰りの電車の中でようやく下巻を読み終えた。
岩崎俊一氏はどこか遠い場所に言葉をさがしに旅立ったのだろう。
そんな気がしている。
2014年12月18日木曜日
吉村昭『長英逃亡』
吉村昭の小説を読んでいるとときどき姿をあらわすのが高野長英である。いよいよ気になり出したので、『長英逃亡』を読んでみる。
『遠い日の戦争』を読んだときも感じたのだが、逃亡ものは読んでいてハラハラドキドキしてしまう。夜道を歩いていてもつい誰かに尾行されてはいまいかと気になったりもする。テレビ番組のバラエティでテーマパークなどのなかを一定時間逃げ切ると賞金がもらえるという企画をたまに見るが、長英の逃亡劇は全国を股にかけた壮大なドラマである。
もちろん江戸時代の話だから鉄道も車もなく、電話もパソコンも当然ない(むしろコミュニケーション手段があったほうが逃げづらいだろうけど)。ひたすら歩いていくのである。牢破りをした当初は仙台の親分とその子分米吉に助けられ、奥州水沢で母との再会も果たす。このあたりは息詰まる逃亡劇の中で心ふるわせる感動的なシーンだ。この時代から社会には表と裏があった。裏の道をたどることで張りめぐらされた追手たちの網を避けて通ることができたのだ(それでもハラハラドキドキはするんだけど)。
とにかく捕まったら極刑が待っている。逃亡に加担したものたちも重罪だ。長英の逃亡直後に彼を獄に送り込んだ鳥居耀蔵が失脚する。それまで釈放の望みは皆無だったが、情勢が一変する。何も死罪の危険を犯してまで破獄する必要があったのか。こうした運不運も逃亡の精神的環境に微妙に影響を与えているだろう。
名を変え、先進的な藩主伊達宗城の庇護を受けながら逃げ続けた長英であるが、時の経過とともに追跡者の手は緩んでくるように見える(米吉の工作により、長英は蝦夷に向かい、そこからロシアに逃げたとまことしやかにささやかれていたのだという)。大胆にも長英は江戸に戻る。薬品で顔を焼き、人相を変える。青山で生活のため医者をはじめる。
江戸で待っていたのは遠山金四郎だった。
2014年12月14日日曜日
並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』
池袋の東京芸術劇場でテトラクロマット第二回公演「花の下にて」(脚本坂下理子、演出福島敏明)という芝居を観に行った。
演劇にはほとんど関心なく生きてきた。東京芸術劇場で芝居を観るのもずいぶんと久しぶりである。以前ここで観たのは木内宏昌演出の芝居だったと記憶している。
この「花の下にて」は幕末の江戸を舞台に、魂のない木偶の人斬りが事件を引き起こす。芝居を観るのはほぼ素人なので、話の筋を追いかけるのが精一杯でどこがどうおもしろかったかなどという整理もできないまま終わってしまったのだが、いたってシンプルな舞台構成でテンポもよく、観ているものを飽きさせない。
幕末の、世の中の流れを大きく変えるうねりのようなものも随所に描かれている。時代の変化が人々の心に動揺を与えている。この芝居は古い時代を終わらせ、新たな世界を呼び起こす時代の区切りを描いていたのかもしれない。
あっという間の2時間だった。
「いつか心の森で迷ったら言葉の小石を目印にして…」でおなじみの並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』を読む。
並河進は模索している。あるいは迷走を続けている。広告はもっと社会にとって価値あるものになれるはずだ。そう信じて、広告の今に疑問を投げかけた。永井一史との対談を通じて、これからの広告会社がめざすべき方向性を見出す。
>企業を出発点にしたときの広告のありかた。
>NPO、個人、コミュニティを出発点としたときの広告のありかた。
>社会課題を出発点としたときの広告のありかた。
そして社会貢献と広告の融合という森をさらに奥深くさまよい歩く。森のなかで多くのクリエイターに出会い言葉を交わす。出口はまだ見つからない。しかし手ごたえはたしかに感じられる。
演劇にはほとんど関心なく生きてきた。東京芸術劇場で芝居を観るのもずいぶんと久しぶりである。以前ここで観たのは木内宏昌演出の芝居だったと記憶している。
この「花の下にて」は幕末の江戸を舞台に、魂のない木偶の人斬りが事件を引き起こす。芝居を観るのはほぼ素人なので、話の筋を追いかけるのが精一杯でどこがどうおもしろかったかなどという整理もできないまま終わってしまったのだが、いたってシンプルな舞台構成でテンポもよく、観ているものを飽きさせない。
幕末の、世の中の流れを大きく変えるうねりのようなものも随所に描かれている。時代の変化が人々の心に動揺を与えている。この芝居は古い時代を終わらせ、新たな世界を呼び起こす時代の区切りを描いていたのかもしれない。
あっという間の2時間だった。
「いつか心の森で迷ったら言葉の小石を目印にして…」でおなじみの並河進『Communication shift「モノを売る」から「社会をよくする」コミュニケーションへ』を読む。
並河進は模索している。あるいは迷走を続けている。広告はもっと社会にとって価値あるものになれるはずだ。そう信じて、広告の今に疑問を投げかけた。永井一史との対談を通じて、これからの広告会社がめざすべき方向性を見出す。
>企業を出発点にしたときの広告のありかた。
>NPO、個人、コミュニティを出発点としたときの広告のありかた。
>社会課題を出発点としたときの広告のありかた。
そして社会貢献と広告の融合という森をさらに奥深くさまよい歩く。森のなかで多くのクリエイターに出会い言葉を交わす。出口はまだ見つからない。しかし手ごたえはたしかに感じられる。
2014年12月2日火曜日
吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘』
小学校にも中学校にも外国人はいなかった。高校生になって毎日のように都心に出るようになると(学校はほぼ東京の中央に位置していた)町や電車の中で見かけることも多くなったがその頃は外国人を見かけることに新鮮な感覚を持てなくなっていた。
うっすらではあるが、幼少の頃、うちに外国人の子どもが遊びに来たという記憶がある。母が結婚する前に銀座のデパートに勤めていて、その同僚がアメリカ人と結婚して子どもを連れて遊びに来た、たぶんそんなことではなかったか。うっすら記憶しているというのはこの話を後日聞いたことで憶えているのか、自分自身の記憶として憶えているのか定かではないということだ。そんな気もするし、そうでない気もする。
その後アメリカに旅立つ叔父を見送りに羽田空港に行ったとき大柄な赤い顔をした外国人を見かけたり、はじめて観に行ったプロ野球の試合で外野手が黒人だったとかその手の記憶はあるが、それもさほど印象強く残っていない。
鎖国政策をとっていた江戸時代に二世(この言葉もずいぶん古めかしいが、当時は「あいのこ」と呼ばれていたに違いない)がいたとしたら、それは相当のインパクトがあったのではないか。それも東洋人ではなく西洋人とのあいだに生まれたハーフである。
吉村昭の『ふぉん・しいほるとの娘』を読む。
当時の長崎ではシーボルトの娘いねだけでなく、多くの混血児が生まれていたようである。残念ながらそのほとんどが早逝したり、子孫を残すようなこともなかったそうだが、いねは娘を産んだ。いねは明治半ばに亡くなるが、靖国神社を見下ろしている大村益次郎にオランダ語を学んだり、福沢諭吉の口添えで宮内庁御用掛になるなど思っているほど遠い昔の人とも思えない。その娘ただは昭和13年まで生きたという。
多くの日本人にとっての「はじめて間近に見た外国人」とはシーボルトの娘なのではないだろうか。
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